« 2018年3月11日 - 2018年3月17日 | トップページ | 2018年3月25日 - 2018年3月31日 »

2018.03.24

[アニメ] A.I.C.O. Incarnation

 3月2日に公開されたNetflixの『B:The Beginning』に続いて、一週間後に公開された『A.I.C.O. Incarnation』も見終えた。どちらもクオリティが高い。今後もこうしたオリジナル作品がNetflixで公開されていくのだろうと思う。そのことが日本のアニメ界にどのような影響をもたらすかについては、私にはまだわからないが、アニメの楽しみが増えていくことは間違いない。
 この『A.I.C.O. Incarnation』だが、まず表面的には一癖のある作品と言えるだろう。同時に、過去の各種アニメの想像力の延長という面もある。が、基本的に異質な作品のために、視聴側が過去のアニメの累計としてついとらえがちになるのかもしれない。
 話の仕立ては謎解きになっている。主人公の橘アイコはある大事故で家族を失い、病院に付属した学校に通学しているが、その学校の同クラスに、年度の終わり間際に神崎雄哉という少年が転校してくる。そこから「物語」は始まる。が、ボーイ・ミーツ・ガール系の話ではない。
 大事故が特殊なものである。物語世界の設定は、最先端医療技術として人工生命体技術を国家の売りとしている2035年の日本である。その2年前、その技術推進のために作られた黒部峡谷の研究都市の、かなめともいる桐生生命工学研究所で人工生命体暴走事故「バースト」が発生した。渓谷一帯がダム決壊のように人工生命体「マター」の異常増殖によって汚染され、政府管理の危険地帯なる。マターは進化しつつ、黒部地域を超え、海域から世界へと汚染を広がる危機にある。研究所は汚染源の「プライマリーポイント」と呼ばれ、この危機を克服するために、神崎雄哉が橘アイコをその地点に連れて行くという。が、その理由は前半では明確にはされていない。危険地域に内に入るためには、潜入を専門とする「ダイバー」チームと行動を共にすることになる。プライマリーポイントに近づくまで、凶暴化したマターと戦闘を繰り広げることになる。映像的にはそのあたりもこの作品の面白いところでもある。
 この設定は複雑と言えば複雑である。暗喩の構造も入り組んでいる。まず、マターは水源の決壊のイメージとしてダムの環境問題があるが、それよりも、福島原発事故の放射線汚染のイメージが重ねられている。また、マターの暴走は、がん細胞の増殖転移の暗喩からなり、プライマリーポイントはがん幹細胞に重なる。さらにこれに、人工生命や意識のハードプロブレムが関わる。というか、最終的には、この意識のハードプロブレムが浮上してくる。その意味では、この物語のテーマ性では、哲学的にこれをどう解くのかという興味につながる。なお、「アイコ」という名前も比喩であるとしか想定できないのもこの物語の異様さでもある。
 以下、ネタバレを含む。

 主人公でもあり、自身が、自分が橘アイコだと思っている本人の、その意識主体が人工生命体であり、本人ではなかった。むしろ、マターがアイコであったという意識の同一性の問題が、情感を含んだ劇としてどう解かれるのかということは興味深い。この劇性は、『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマを継ぎ、かつ超えている(とはいっても作品の形式はかなり異なるが)。さらに訴求すればこの問題は、私がcakesに取り上げた手塚治虫『アポロの歌』にも関連している。
 問題を問題として見るなら、もうひとりの私が「私」の運命を引き受けるということだ。制作側での暗喩的意図はないだろうが、イエスが人の罪を追って十字架に赴き復活するという神話構図をなぞってはいる。そのせいもあってか、奇妙な後味を無意識に残す。
 それはなんだろうか。しばらくして私の無意識に浮かんできた構図は、この世界の人ではなくなった、父と娘の性愛を超えた疎外ということだった。
 アイコの愛の物語が、母性的な包括性で世界を救済するかに見えて、実際に世界救済の代償となったのは、性愛が本源的に失われた父と娘のダイアードであった。もちろん、これはただの疑似ハッピーエンドの後日譚としてもよいにはよいのだが、世界の危機から回復された、なにも変わらないかに見える日常世界の代償として提示されていることは明瞭なので、その意味は大きい。「アイコ」という名前の日本国家の意味にも関連はする。
 これはどういうことなのだろうか。
 おそらく、人の個体が性の選択の結果であるということは、男である、または女であるということだが、それを性愛や家族的な愛情に流し込んでしまうのではなく、性のない心的な地点の、父と娘という特殊な友愛が許される世界の可能性だろう。「地下アイドル」とサポーターの関係にも近い。こうしたダイアードの、人類に対する意味は何かというと、意外にも人類史の最先端の問いかけなのかもしれない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.03.22

あまのじゃく

 来年改元される。どうでもいいと思う。そもそも「平成」なんていう年号は使ってないし、人生の時間をそれで意識することもなかった。お役所で元号記入しなければいけないときは、「ええと、12を足してぇ」とつぶやく。2018に12を足して、頭の20を取ると、30。だから、今年は平成30年。来年は平成31で新元号だと大作元年になる。ってギャグ面白い?
 とか言いつつ、自分も昭和の人だと思う。自分が生まれたのは、スプートニクが地球から投げられた1957年だが、同時に昭和32年でもある。あいつは永遠に宇宙をさまよっているんだろう。
 こうしてみると、我ながら、すっげー爺さんになった気がする。が、人によってはそう爺さんでもない。佐川君とか同い年なのを最近知ったが、髪もふさふさして若々しい。そういえば、高校の同級生で、浪人しようなと言ってたのにすべり止めで成蹊大学に入って公務員になってどっかの大学の教授さんになったのがいたが、あんな感じだったか。
 何が言いたい? いや、自分、昭和の人だと思う。昭和の真ん中あたりで生まれて、驚くんだけど、いまだに昭和の人生のほうが長い。で、いいかな。っていうかだいたい半分に来たか。いずれ、自分は昭和の人であるなと思う。明治34年生まれの草田男が明治を遠く思ったのは、学生時代のことだから、そう年食ってたわけでもなく、明治生まれの自分というものを思ったものでもないだろうが、自分についていえば、最近、なにかと昭和は遠くなりにけりと思う。
 ふと、昭和言葉が頭に浮かぶときがそうだ。というのでふと思いついたのが「あまのじゃく」である。今でも使う?
 ぐぐってみたら『あまのじゃくな氷室さん』というのが出てきたので、まあ、今の人でもわかる言葉なのだろうし、思うに、氷室さんはあまのじゃくなんだろう。ツンデレの言い換え? ツンデレとあまのじゃくは違うか。
 漢字で「天邪鬼」とやってみても、まあ、そう死語でもなさそうだが、地方とかおっさんとかが使ってそうな印象はある。
 でもなあ、なんとなく、あまのじゃくっていう言葉を聞かなくなった気がするんだよな。っていうか、自分、よくあまのじゃくって言われたものだが、そう言ってくれる人が周りにいなくなったってことか。
 「あまのじゃく」というのは、考えてみると、そういう捻くれた心性の人をそのまま受けれいる言葉だったような気がする。少し、あまい響きがある。「あいつ、あまのじゃくだからなあ」、みたいに。そして、こんなふうに続く。「そうはいっても、無理矢理でも誘えば、きっと嬉しがるよ」。ないなあ。それ、ない。今、そういうのないんじゃないか。
 あまのじゃくという心性は、まだ、日本にはあるんだろうか。よくわからない。自分はあまのじゃくとして取り残されて、石になって、宇宙を漂っているのかもしれない。そして、そのうちカーズは考えるのをやめた的ななにか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.03.21

『ツァラトゥストラはかく語りき』の思い出

 ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を最初に読んだのは、中学生のころだった。中二だったのではないか。この作品はまさに中二病で読めそうな古典である。そう思える理由としてすぐに思いつくことは、単純な神話劇の構造をもっていることと、芥川龍之介の『侏儒の言葉』のようにアフォリズムであることだ。保守派論客のようになってしまって久しい西尾幹二だが1978年に講談社現代新書で『ニーチェとの対話 ツァラトゥストラ私評』を書いたころはドイツ出羽守といった感じだった。同書は新書という性格から読みやすさを狙ったのかもしれないが、基本的にアフォリズムとしての理解が基本で、かつ『ツァラトゥストラはかく語りき』の前半しか扱ってなかった。当時高校生の私ですら、専門家でも意外に稚拙な読みをするものだなと思ったりもしたものだ。中二病は悪化していたのである。
 ニーチェの思想は、そうした部分部分で見るなら、140文字で収まるまるで気の利いたTweetのような側面があり、そこで読み誤る。世人はニーチェなど読めはしないものだとなんとなく思っていたが、数年前、啓蒙書でニーチェの言葉みたいな本がそれなりに売れた時期、なんだこれ、と思って手にしてめくると、予想に反して、かなりきちんとニーチェの思想を読み込んでいることに驚いた。こいうとなんだが、大正時代の帝大生のデカンショも年月を経るにきちんとスキーマティックに理解されるようになるものだと思った。が、他面、『ツァラトゥストラはかく語りき』はこういう通解とは違うのだろうなとも思っていた。
 自分だけがニーチェの思想を読み込めた、『ツァラトゥストラはかく語りき』を読めた、といった幻想を当時十代の私が抱けたのには、青年期の特権でもあるが、もう少し理由がある。1971年の講談社文庫の青で読んだことだ。
 当時、10代だったが、この青のシリーズはほとんど読んでいた(『パンセ』なども)。訳者は吉沢伝三郎で書名も『このようにツァラトゥストラは語った』である。この訳書は、1969年理想社刊のニーチェ全集から採ったものではないかと思うが、書名の口語からも察せられるように当時の翻訳としてはもっとも優れていたようだ。その上、ハイデガー注を基本とした注釈がうんざりするほどついていた。振り返ってみると、私はニーチェの著作を読んでいたというより、ハイデガー思想を読んでいたのかもしれない。余談だが、同訳書は更にリファインされてちくま学芸文庫のニーチェ全集に収録されている。
 ハイデガーに結果として導かれたため、この作品の劇的構造については、意外にも迂闊だったことを思い知ったのは、世界思想社の現代教養文庫の秋山英夫著『ツァラトゥストラ』を読んだことだった。この本は原作をわかりやすくパラフレーズしている抄訳本ではあるが、逆にそのことで、原典のもっている劇的な文学としての側面が理解しやすい。当たり前といえば当たり前だが、ニーチェはワーグナーの歌劇『ニーベルングの指環』に、直接対抗してというほどではないが、劇としての思想として『ツァラトゥストラはかく語りき』を描いたものだった。ニーチェとワーグナーの劇としての思想提示には、いわゆる思想に還元されないパトスの、密教的ともいえる追体験の時間を要する。余談の余談だが、日本ではついホロコーストの文脈で読まれてしまう、フランクル『夜と霧』も、cakesでも取り上げたが、詩劇として創作されたものであり、原書では、後半スピノザが出て来る劇が含まれている(日本版・英語版にはない)。
 ここでまた余談だが、世界思想社の現代教養文庫は中学生・高校生時代によく読んだものだった。当時の現代詩関連の著作も多いのが特徴的だった。調べてみると、現在ではKindle用で再販されていて、当時の秋山英夫著『ツァラトゥストラ』(参照)もある。私としてはお勧めしたい作品である。
 『ツァラトゥストラはかく語りき』は、文学的には劇の構造を持っている。ドラマである。であれば、単純にNetflixなどでドラマとして翻案もできるだろうし、アニメにもできるだろう。そう考えてみて思うのは、翻案の形を取らなくても、その本質的なテーマを引き受けた各種のドラマ作品があればよいだろう。別の言い方をすれば、ニーチェの劇としての思想と密教的な了解は、現代では、ドラマやアニメで提示されているのだろう。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.03.20

[アニメ] 魔法少女まどか☆マギカ

 『魔法少女まどか☆マギカ』をたらたらと見た。見ろと勧められたというほどでもないが、それに近いようなことがあって、なんとなく見始めて見終えた(映画は見ていない)。この手のアニメのキャラクター・デザインは私は苦手なのと、オタクっぽさを感じさせるアニメはそもそも苦手なんで、こんなの俺が見るかなあ、と思っていたが、たらたらと見ることの利点もあるもので、しだいに面白くなった。というか、これはなるほど重たいテーマなのだなと理解した。
 以下、ネタバレを含む。それと、この記事は批評的なものではない。感想というか連想というか、そういうものだ。まあ、どうでもいいという類でもある。

 この作品で魅力的なキャラクターは、何と言っても、と言っていいのではないか、キュゥべえだろう。古典的な文学作品の文脈で言えば、悪魔の類型になるのだろうが、悪魔が通常、悪なるものを定義する形で表現されるのに対して、キュゥべえは、悪を止揚した状態で現れる。「進化」を象徴している。
 進化というものを考えたとき、「自然選択」は善でもなければ悪でもない。ただ、この作品で扱われている「進化」はダーウィン的な進化論の進化ではなく、むしろスペンサー的な俗流進化の概念に近い。つまり、知的な進化というものを想定している。が、このあたり、正統進化論にはそうした知性の高度化のような概念は含まないはずだが(適合していればOK)、通常進化を考えるときは、単に形態や遺伝子の変異ではなく、どことなく知的進化なるものが想定されがちであり、特に、社会的生物における社会性は知的な進化の組織化として扱われやすく、そこに種を超えたコンバージェンスさえもなんとなく示唆されてしまいがちだ。ごちゃごちゃ言ったが、純粋に、というかダーウィン的な枠組みで進化論を考えることが生物学の基本ではあるが、この知的関心域では、例えば、つい進化論をもって創造論に対峙するような意味の次元が問われがちなり、どことなく知的な進化の概念も混入しやすいものだ。
 で、魔法少女まどか☆マギカだが、キュゥべえがいなければ、その働きのインキュベーションがなければ、人類は今日の知的生命体になりえなかった、という命題があり、この命題は暗黙的に是なのではないかという直感を含みやすい。そのため、まどかの解法は実は、自己撞着しているようにも見えるが(後述)、いずれ魔獣との戦いという自然選択には置かれるのでそこはまったく矛盾しているわけでもないだろう。
 その場合、そして、まどかの解法が避けるものであるが、キュゥべえの存在目的は、ただ知的生命体を生み出すだけではなく、むしろ、この宇宙にいかに絶望という食物を生み出すかにある。これはとても面白いテーマで、作者が知っているかどうか不明だが、神秘家グルジェフの宇宙生命論に近い。彼によれば私たち人類は、月の餌なのである。このあたりの、直感のイマジネーションは面白いことに『宝石の国』にも通じる。月(ルナ)というものの集合無意識のようなものはあるかもしれない。
 問題は、つまり、問題解法の枠組みでこの作品を見ると、まどかの解法は、2つの意味があったと思えた。一つは、菩薩の再定義である。法華経に描かれる菩薩、なかでも観音はまさにまどかの変容の解法そのものであると言えるだろう。こうした菩薩的存在の集合的な無意識のようなものはいったいなんなのだろうかというのと、これが、ある種、キリスト教的あるいはヘレニズム的なコスモス観の特徴かもしれない。他方、いわゆるヘブライズム的なキリスト教観からは、直線的な未来である時間の終焉と天国というテロス(Τέλος)が問われる。アルケー(αρχη)がテロスによって問われるとしてもよいかもしれない。
 この時間の終焉の神話は、めっちゃ神話でしょ、ということでありながら、現在世界の先進国の諸概念の暗黙的な前提になっている。人権の向上、貧困の撲滅なども時間の終焉において問われるものであり、地球温暖化もダークな時間の終焉の枠組みで問われる。
 魔法少女まどか☆マギカのコスモスの時間構造は前提的には、知的進化という点ではヘブライズム的な時間のようでありながら、「ヴァルプルギスの夜」というダークなテロスも物語のダイナミズム上設定されているが、テーマ的にはそれほど明示的なテロスを持っていない。というより、まどかなど、人間知性の苦悩がそのテロスによって救済されはしないという直感的な問題意識に支えられていて、ヴァルプルギスの夜はむしろ物語表現のためにツール化されている。そして、ゆえにというべきか、ほむらが循環的な時間をコスモスに再構成させている。簡単に言えば、輪廻である。
 輪廻の時間概念は、基本は循環でありながら、テロス的な直線時間の折衷で漸進性で解釈されることがある。コスモス内の諸存在が、輪廻で転生を繰り返しながら漸進進化していくという考え方である。これも根深い神話的な思想で、通常の私たちでも、子供を産み育て、よい大学に入れようとするなど、自己ジェネレーションの漸進改良になんとなく生の意味を感じている。
 インド的な本場の輪廻であれば、コスモスの変容はなく、むしろ、漸進性は個体を定義する。単純にいえば、個体の努力で次転生では自分だけは漸進するというものだ。が、この個定義をコスモスの輪廻に回収すれば、ただ、無意味な絶望だけが残る。ほむらが直面しているのは、この輪廻思想である。そして、これにまどかの菩薩思想が、世界のリセットとして根源的なコスモスの倫理性を損なわないかたちで解法として提示される。
 ここで余談めくが、テロス的な時間と個体の定義の関係では、マックス・ヴェーバーが取り出した予定調和的なプロテスタンティズムの絶望がある。個体が生に何を賭けようが、無意味とされる世界である。これが興味深いことに現代社会のキリスト教では異端でもないが正統でもないような曖昧な位置に置かれている。
 さてこうした、輪廻においても予定調和においても、個体にとって何をしても無意味というコスモス観がありうるし、なにより現代社会では、とくに、ある種、映像メディアが飽和したことで歴史が人の肉声で語られ書物に記されることから変容し、ただ映像的に再現されるものになったことが遠因ではあると思うが、映像としての再現可能性が歴史であるかのような歴史概念が人々の主要な時間観となってきており、それが若い人の無意識に定着しているなかで、問題テーマとして惹起されたがゆえに、魔法少女まどか☆マギカが無意識的に重視されたのだろう。端的に言えば、その重視というのは、絶望の時間性のなかで、魔女になしかない私を救って、ということでもある。
 こうした枠組みを先行していたのは、いうまでもないフリードリッヒ・ニーチェであり、なかでも『ツァラトゥストラはかく語りき』だろう。極論すれば、『魔法少女まどか☆マギカ』は『ツァラトゥストラはかく語りき』と同テーマの作品であろう。
 『ツァラトゥストラはかく語りき』では、ニーチェによる近代世界の時間であるテロス性時間への批判から(その意味では彼のキリスト教批判はこれに付随するものに過ぎない)、無慈悲な輪廻としての永劫回帰が描かれる。くどいが、『魔法少女まどか☆マギカ』は永劫回帰というテーマの解法の、思索的な試みである。
 そうしたパラダイムで見ると、まどかの解法は、ニーチェが描いたツァラトゥストラが生の意味として最終的に取り上げる「大いなる正午」そのものに見える。その時間の一点にだけに己の全存在をかける願いであり、そこに暗黙に心身の消滅の対価として設定されている歓喜である。
 ここで、私は、ようやく戸惑う。
 この先を語っていいものだろうか。まあ、いいや、行こう。現在の日本のネット的なある倫理の言論支配の構図のなかでは、ウヨクや戦前は脊髄反応的に忌み嫌われる。だから、特攻隊の精神のようなものは真っ先に唾棄されるものである。なんとなれば、それは無意味であり、どんなに哀れなものであっても犬死であるからということだ。対して、昨今のウヨクも実は同じ意味性の文脈に絡め取られていて、いわく、特攻隊の精神には意味があるのだ、なんとなれば、後代我々はその恩恵で生きているのだから、てな、感じである。くだらない。
 話を端折るが、三島由紀夫的な意味での特攻隊の精神とは、彼自身の思想のなかで、現代ウヨク的な後代の日本なる意味が完全に払拭・純化されているわけではないが、その中核にあるのは、ただ、大いなる正午としての特攻という「行動」であった。そこでは美と陶酔が不可分に一義に問われるものだった。私は何が言いたいのかというと、ヒロイズムはそもそもこの三島由紀夫的特攻隊の精神を含みこみがちなアポリアを持っているということだ。その意味で、魔法少女まどか☆マギカのファンを怒らせるか、表層的に誤解させるかしねないが、まどかの解法は、こうした大いなる正午による意味の回復の心的な情感的な仕組みを内在している。
 さらに言えば、まどかの解法は宇野常寛が言う「母性のディストピア」に近い。菩薩道がそもそも「母性のディストピア」だとも言えるが、『魔法少女まどか☆マギカ』はその魔法少女たちのキャラデザインのなかですら、母性と菩薩性が含まれている。このことは、反面において、性愛的な世界が初元的に忌避されて捨象されていることからもわかるだろう。ここにはドロドロとした性愛はない。性愛の歓喜もない。
 が、こうした単純化で掬い上げられない部分がこの作品には確実にある。ほぼ自明だが、友愛(fraternité)の存在だろう。アニメ作品においては当然であるともいるが、母性的な受容は、ここでは友愛を通して行われている。その回路は市民社会性と言ってもいい。この過渡的な母性と友愛の提示のありかたは、ちょうど日本社会における正義の情感の水準を上手に示しているだろう。
 あえてまとめれば、日本の市民の無意識は先駆的な個体絶望のなかで、母性と友愛の中間的な倫理性に置かれている。
 まあ、それが同時に、現実的にはLine地獄を生んだり、そこから抜け落ちて「魔女化」してしまう少女群を生み出してもいる。が、現状では、私のたちの友愛の市民社会はまだ存外に無慈悲で魔女化した彼女たちを救うことはできない。無関心ですらある。それは母性と友愛の過渡的な倫理性の限界でもあるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.03.19

新型出生前検査が形成する未来

 日本産科婦人科学会(日産婦)が、「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査指針」、通称新型出生前検査(略称NIPT)を公表したのが平成25年3月9日。4日後の13日には、厚生労働省母子保健課課長が「『母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査』の指針等について(依頼)」(雇児発母0313第2号)を通知した。これにより、あくまで臨床研究として、指定機関に限定し、また35歳以上の妊婦に限定し、さらに検査疾患も三つの染色体異常に限定して、新型出生前診断が日本で開始され、5年が経過した。
 新型出生前検査は、従来からある検査より優れている。従来からある羊水検査は精度(感度)はほぼ100%だが、子宮に針を刺すことから約300人に1人の割合で流産のリスクがある。他方、同様に従来からある血中ホルモン検査と超音波検査の組み合わせでは精度は80%から85%と言われていた。新型出生前診断では、採血したDNAによる診断で精度が約99%と高いうえ、超音波検査のような読み取りの難しさもない。
 5年の臨床研究が終了し、日産婦は一般診療として実施する方針を決めた。具体的な実施だが、この検査には法的拘束力もないこともあり、急速に広く普及するようになるだろう。結果、どのような社会になるか。
 参考となる、NIPTコンソーシアムの研究がNHKで報道された。「染色体異常確定で中絶が98% 新型出生前検査」(参照)より。

検査を実施する医療機関で作るグループがその結果をまとめたところ、去年9月までに新型出生前検査を受けた妊婦は、5万1000人余りで、このうち、胎児に染色体の異常がある可能性が高いことを示す「陽性」と判定されたのは、1.8%に当たる933人で、その後、さらに詳しい検査で異常が確定したのは700人だったということです。

異常が確定した人の中で、自然に流産した人を除く668人のケースをさらに分析すると、14人が妊娠を継続し、人工的に妊娠中絶を選択したのは654人だったということで、胎児の染色体の異常が確定し出産が可能だった人のうち人工妊娠中絶を選んだ人は、およそ98%となりました。

 特に先入観なしにこの臨床研究の結果から推測することだが、新型出生前検査が広く実施されれば、同様にほぼ98%程度に人工妊娠中絶が行われるようになるだろう。
 これをどのように考えたらよいのか。沖縄タイムスは1月31日に「[新出生前診断]当たり前の検査を懸念」という社説を「「命の決断」に向き合い、支える体制はできているのか。」として切り出した。そして、「慎重な議論を求めたい。」として、「一人一人の決断は重く、この問題に明快な答えはない。だからこそ産む決断を後押しできる「共生社会」をつくる努力を重ねなければならない。」と結語した。
 他の例では、河北新報社の今日の社説「新出生前診断の拡大/生まれる子選ばぬ社会に」では、《診断結果を受け、妊娠を継続するかどうかは、あくまで「自己決定」だとされる。しかし、その背景に「生まれる子は健康でなければならない」、そのために「検査を受けなければならない」という無言の圧力がないだろうか。」とし、結語を「過去の世論調査で、出生前診断の容認派は79%。理由は「異常が分かれば出産後の準備に役立つから」が最多だった。重い結果を知らされたカップルを孤立させず、どんな子も、安心して産み育てられる社会でありたい。》とした。
 朝日新聞は記事ではあるが「「命の選別」なのか 新型出生前診断、開始から5年」で踏み込んだ形で識者の言葉を伝えている。室月淳・宮城県立こども病院産科長はこう述べている。

 検査に対して、「命の選別だ」という批判もあります。遺伝情報や障害、病気で人を差別するべきではないという意味で、命の選別をするべきではないとの主張には全面的に賛成です。国家などが検査や中絶を強制することも許されません。
 しかし、あらゆる出生前診断が「命の選別」と批判されることには、違和感を感じます。第三者が夫婦に対し、検査を受けることや結果を受けて妊娠をあきらめることを一律に禁じられるのでしょうか。どれだけ支援があっても、最終的に子どもの面倒をみるのは夫婦ではないでしょうか。
 それに、染色体の病気がわかって中絶を選ぶ夫婦は、必ずしもダウン症候群などを差別しているわけではありません。家庭の経済状況など様々な個別で複雑な事情があってのことです。個々の夫婦が置かれた状況はそれぞれ複雑で、異なります。夫婦も医療者も複雑な状況をどのように解決すればいいのか絶えず苦闘しています。そのような現場にいると、「命の選別を規制すべきだ」といった一刀両断の議論には、あまり意味がないと感じざるを得ません。

 現状からの推測であって、理念を挟むものではないが、おそらく日本からダウン症が消えるという事態が生じるだろう。
 また、「命の選択」という概念はひとまず置くとして、ダウン症の出産がなくなるまでの過渡期化もしれないが、検査後に中絶した親の先進的なケアは必要になるだろう。
 それがおそらく現実だろう。あるいは、「日本」の現実になるだろう。
 ここまで、この問題にできるだけ、理念をはさまずに書いてきたが、それでも、ここで現れる「ケア」の内容には、罪責感の一般的な対応を超えた部分が求められ、やはり倫理的な問題は浮上してくる。別の言い方をすれば、この地点で検査拒否を含め倫理の問題が問われるだろう。(なお、こうした問題に私自身が直面した経験ついては自著で書いたのでここでは触れない。)
 この問題、つまり、出生前検査での中絶という問題で見るなら、日本に限定されない問題であり、すぐに連想が付くように、特に米国では、中絶そのものへの忌避感を持つ少なからぬ人々がいる。彼らは、単に中絶を排そうするのではなく、「最終的に子どもの面倒をみるのは夫婦ではないでしょうか」に対置したかたちで、ダウン症の子供の養子を推進しようとしている。団体も見つかる(参照)。
 おそらく問題は、倫理的な命題を先行させるよりも、ダウン症の子供の養子の運動として展開したほうがよいのだろう。ただ、その場合、日本では、養子そのものが難しいということがある。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.03.18

[映画] 空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎

 映画『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』は、久々に爽快な駄作を見たなあという感じだった。映画『ジュピター』以来かな、この駄作な感じ。いやあ、駄作っていう言い方はないだろうとも思うし、映画『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密』みたいに途中寝落ちすることもなかったし、面白いか面白くないかというと、面白い映画だった、っていうか、きれいな映画だった。こういう感じの見たかったんだよねという点では満足なんで、じゃあ、駄作っていう言うなあという感じなんだけど、ごにょごにょ。
 映像はまず見事だった。唐代の長安を無理に時代考証的に再現する必要はないし、むしろ、現代的な映像の視点から再創造された長安の美しさは十分満喫できた。他方、現代に残る遺跡とか廃墟感も堪能できた。出て来る美女さんたちも、これだよなあといういい感じだった。
 じゃあ、文句ないんじゃなね、というと、それはそうなんだけど。
 以下、若干ネタバレ風味で。
 脚本的にはちょっとというかいろいろ問題は感じた。謎解き的なストーリーの追い方は悪くない。阿倍仲麻呂も、ニシンの燻製とするならそれはそれでいいのかもしれないけど、これ、要らなくねというか、松坂慶子もなんでぇ?という感じ。ここのところごっそり抜いても問題茄子、に思えた。逆に、空海と恵果の関係はもう少し丁寧にというか、もう少し密教哲学的に描いてくれるとよかった。
 白楽天の使い方も演技も声優もよかった。白楽天については内面もよく描かれていた。空海さんは、というと、これ、よくお大師様像に似ているなあというのは感心したけど、映画として見ると演技がだるいというか、地味すぎ。走るシーンとかあるにはあるんだけど、もっと若い空海が走る走るの疾走感は欲しかった。
 タイトルは中国語『妖猫传』のようにしたほうがすっきりはしただろう。が、そこはでもしかたないかも思うには思う。猫の演技、っていうのか、CGとリアル猫をどう継ぎ合せるのかわからないくらいよくできてはいけど、リアル猫のほうがよくてCGかなというのはちょっとプア感は残った。
 個人的には、エロが足りないなあ。映画『パフューム ある人殺しの物語』ほどエロは要らないけど、もうちょっとエロが欲しい。というか、屍体がでてくるんだから、もうちょっとそこにエロまぜしてぞっとする映像とか見たいのだけど(BLもあってよかったんじゃないか)、この映画最初からレーティングしてできているんだろうか。中国だからというのもあるんだろうか。
 李白もけっこうよかった。よかったからこそ、もうちょっとよくても良かったかなという、ないものねだり感は残った。
 まあ、なんだろうか。映画として扱うよりも、8回くらいのドラマにしたほうが面白かったかもしれないが、どうなんだろう。
 まったく関係ないけど、この映画のテイストでリアルに『トゥーランドット』をやってくれたらおもしろそうだな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年3月11日 - 2018年3月17日 | トップページ | 2018年3月25日 - 2018年3月31日 »