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2018.03.17

主の祈りとか

 昨年、比較的長期にわたってブログを事実上休止してしまった。ツイッターなどでは発言していたので、まったくネットの世界から消えてしまったわけではないが、まあ、ブログを書く気力がなかった。理由はいくつかある。個人的なことや内面に関わることもある。その内面に少し関係することではあるが、ブログを書くことで攻撃を受けるのはやだなというのがあった。日本は言論が自由な社会だが、そのせいなのか、社会的に対立した意見のある問題で、個人が意見を述べると、ひどい攻撃を受ける。ネットが日常に普及しだして、それがさらにひどくなっている。
 いや、正確にいうと、抑制の動きもある。このブログを始めたころは、おまえなんか死ねばいいのに、というような殺意のあるような、匿名の暴言を受けたものだった。さすがにそれは、普通に刑事に触れるようになったので、最近はない。身体の危険が感じられないなら、言論上の攻撃を受けるのはかまわないじゃないかとも思うし、そうするしか発言ができないなら、攻撃を受けるのも、言論の自由のコストだろうし、自由な言論の社会を維持するには誰かがそうしたコストを払わなくてはならない。ブロガーというのはそういうものであるべきだろう、と思っていた。
 が、さすがに、こんな攻撃や暴言を受けるのは、見合わないなあと感じるようになった。そしてそれは、並行して、日本の社会に言論の自由があろうがなかろうが、僕なんか知ったこっちゃないなあというげんなりした感情を惹起した。そして、そうした感情があるなら、無理してブログなんか続けることもないじゃないか、自然でいようと思った。
 その後、しばらくして、自然に、たまにブログでも書くかなあ、本はずっと読んでいるしなあ、ブログ復帰のリハビリがてらに書評みたいなものから再開するかなあ、と、ということで、今に至る。
 ブログも長く続けているし、そもそも私は日本の社会がインターネットに向き合う前、パソコン通信の黎明期からこの世界を見てきたので、だいたいこういうことを言えば、こういう攻撃はくらうなというのは、あらかた予想できる。このあらかた、というのが微妙で、それでもさすがにこれはひどいなというのはある。けっこうあると言ってもいい。どのあたりが、「さすがにこれはひどいな」になるか、というのは、徒党というのか、グループ的に攻撃してくる場合だ。実際には、数名程度が匿名でやっているだけだと思うが。
 他面、攻撃されるたびに、僕なんかたいした存在じゃないんだよとも思う。僕を攻撃してくる人は、逆の意味で僕というブロガーに幻想をもっていると思う。僕は自分でもバカだなあ自分と思っているし、たいしたこと述べているとも思っていない。なんの社会的な権力もない。ただ反省するのは、ブログを始めたころはまだ45歳というか、今振り返ると、すっげー若かったので、愚かさに若気の至りもあったなとは思う。しかし、それ自体が自分の愚かさなんでしかたないかとも今では思う。今でも愚かではあるし。
 ブログを再開してぼそぼそと自分が思うことをブログで述べると、まあ、予想通り攻撃される。攻撃というまでもないが、嫌なことを言われる。そうしたひとつに、あれ?これはなんだろというのもある。僕がこのブログで政府から金をもらっているというのだ。ないよ。僕くらい自由にものを言うブロガーはないんだよと言いたくもなるが、自明なことをわざとらに言うのも傲慢かもしれない。ブログでアフィリエイトで少し稼がせてもらっているのはあるけど(これは素直に感謝しています)、言論誘導みたいなことでお金を貰うということはない。
 これは自分にしてみれば笑い話でもあるけど、不快な話でもある。その微妙のあたりで、ふと思ったのは、こうした誤解も含めて、暴言を投げかけている人は、自覚はないだろうけど、僕に対して、キリスト教的な意味でだけど「罪(負債)」を負ってるのだから、僕が許してあげればいいんじゃないかということだ。
 僕は自身がクリスチャンなのかよくわからない人になってしまったが、目覚めるとき、主の祈りを捧げるようにしている。キリスト教とか他の宗教でもよく祈るという人が多いものだが、僕が聖書で知ったイエス・キリストは、人の祈ることなんか神が全部知っているのだから、これだけ祈ればいいっしょということで、主の祈りを授けてくれた。

天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。
御国がきますように。
み心が天に行われるとおり、 地にも行われますように。
私たちの日ごとの食物を、 今日もお与えください。
私たちに負債のある者を許しましたように、 わたしたちの負債をも許しください。
私たちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。

 これに「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」のように付け足す人もいるし、教会だとそういうおまけがついていることが多いみたいだが、不要だと思う。「アーメン」は、「そうあれ」ということなんで、意味的には「だよねー」と同じ。これも気持ちの問題でなくてもいいでしょと思う。
 主の祈りを日本語で読んで変だなと思うのは、「負債」というあたりだろう。僕は若いとき、この解明にけっこう取り組んだことがある。主の祈りにはもうひとつ聖書にバージョン(ルカの)があって、そっちでは「罪」となっている。で、若い頃の僕の結論は、「負債」と「罪」は違うということ。そっから、「原罪」も、なにそれ?みたいに思っていた。今はそうでもないが。
 「負債」というのは、洋ドラによく出て来る、「これでお前に借りができたな」「これで借りは返したぜ」のあれに近い。
 話を戻すと、「このブローガーは政権から金をもらっている」とか嘘こいた人は、気がつかないけど、嘘こいたことで僕に借りができている。言った本人はそう思ってもいないだろうけど、もし神がいるなら、ご存知。そして、もし神がいるなら、この手の負債は、僕がちゃらにしてげることだよ、と主の祈りは言っていることになる。
 社会を維持していくためには、なんでも許せばいいというものではない。できるだけ社会を公平に維持していくには、許してはいけないことある。「こいつなんかぶっ殺せ」みたいな暴言は恐怖を与えるし、実際の脅迫かどうかはわかりにくいので、きちんと許すべきではない。
 ただ、許せることもある。無理して、信仰者のフリして許そうとなんかしなくてもいいと思うし、そもそも神なんかいないなら、こうした話は意味もないけど。
 でも、もし、神がいるなら、つまり、神というのがそういう存在としているなら(進化論に対立するすげー創造者みたいなんじゃなくね)、人はできるだけ許すことが求められているのではないかとは思う。というか、それが主の祈りの一つの重要性だろう。他にも重要なことが含まれているけど。
 どうでもいいけど、フランス語の場合をおまけ。

Notre Père, qui es aux cieux,
que ton nom soit sanctifié,
que ton règne vienne,
que ta volonté soit faite sur la terre comme au ciel.
Donne-nous aujourd’hui notre pain de ce jour.
Pardonne-nous nos offenses,
comme nous pardonnons aussi à ceux qui nous ont offensés.
Et ne nous laisse pas entrer en tentation
mais délivre-nous du Mal.

 フランス語の主の祈りが原典のギリシア語に近いかといと、特段にそうだとはいえないだろう。それと、主の祈りはギリシア語で聖書に残されたが、イエス・キリストはこれをアラム語で教えたものだろう。若い頃の私はそのアラム語の響きが何かということに興味をもったし、そうした興味をもってか、以前触れたシンシア・ ブジョー(Cynthia Bourgeault)などもアラム語で主の祈りを唱える話をしていた。まあ、何語で唱えてもそれで特段の意味あるというものでもないだろう。

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2018.03.16

オウム真理教事件死刑囚の死刑執行に関連して

 オウム真理教事件で死刑が確定した死刑囚13人中7人が、15日、東京拘置所から全国5か所の拘置施設に移送された。報道によれば、具体的には、林(小池)泰男死刑囚(60)が仙台拘置支所、岡崎(宮前)一明死刑囚(57)と横山真人死刑囚(54)が名古屋拘置所、新実智光死刑囚(54)と井上嘉浩死刑囚が大阪拘置所、中川智正死刑囚(55)が広島拘置所、早川紀代秀死刑囚(68)が福岡拘置所であるらしい。麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚(63)ら6人は東京拘置所にとどまっている。
 今回の移送は、1月に一連の裁判は終結したことによる、死刑執行準備ではないかと見られていた。が、朝日新聞報道によれば、「拘置所内での共犯者同士の接触を避けるなど、配慮が必要なため」で「死刑執行とは無関係」とのことだ。
 しかし、いずれ13人の死刑執行がなされることだろう。ではそれはいつごろかだが、これに関連するのは、今上陛下退位と新天皇即位である。おそらく2019年は死刑が天皇制を支える心情から忌まれることになるだろう。そして、翌年2020年はオリンピックの年であり、すでに死刑を廃止した米国以外の先進国からの批判を避けるためにも、避けられると見てよいだろう。であれば、早倒しに今年行うかだが、すでに3月であり、天皇退位・即位の準備で避けられるだろう。すると、これだけの多数の死刑の執行は2021年からその翌年以降となるだろう。
 関連していうと、同様にこの関連で、恩赦が実施されるだろう。推測を延長すれば、恩赦は中央更生保護審査会への自己申請の形式を取るが、高齢者が配慮されるのではないだろうか。そう期待したいのは、それをもって事実上の死刑廃止につながればよいからだ。そう思うのは、いつもながら、いちブロガーとしての意見にすぎないが、死刑は廃止されるべきだと思うし、オウム真理教事件についても、死刑は執行されないことを願っている。
 理由は3つある。1つめはすでに述べたように、死刑そのものが廃止されるべきだということ。なぜ廃止されるべきかについては、すでに先進国で廃止されている理由と同じなのでここでは繰り返さない。2つめは、この事件は現行法での裁判としては終了しているが、日本の市民社会にとってはまだ多くの謎を抱えており、死刑囚を含めてその解明がなされるべきだと考えるからだ。これに関連することは過去、このブログにも書いてきた。3つめは、今回の移送にあたり、麻原死刑囚の娘さんから指摘があったことでもあるが、事件の中心人物される麻原死刑囚は精神的な疾患の状態とみてよく、そうであれば、裁判の正当性に疑問がつくことだ。
 とはいえ、現状の日本の精神風土からすると、死刑廃止に国民の理解が得られるとは考えにくい。昨年時点で確定囚は123人。昨年の例でいえば、執行4人、病死4人。2014年以降は、執行は3人から4人で推移しており、今後については先にも述べたように天皇の退位・即位から恩赦や執行の事実上停止や抑制が想定されるので、この数年間に日本社会は、ある意味で猶予的な期間が得られることになる。この間に、段階的な死刑廃止に向けた取り組みがなされることを望みたい。

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2018.03.15

一人暮らしのキッチン用具

 Newsポストというサイトに「初めての一人暮らし 揃えておきたいキッチン用具9つ」(参照)という記事があり、共感しつつ、ちょっと違うかなあと思うこともあった。この話は、いい悪いとかいうことでもない気楽な話題なので、そんな感じで少し。
 まず、この記事の用具をなぞるような感じで。

【炊飯器】
 ここが僕がかなり考え違うところで、ご飯はお鍋で炊くといい。炊き方は以前ブログにも書いた。慣れれば簡単だし、最速で30分、火に注意するのは10分なんで、料理の片手間に炊けるし、多めに炊いたら冷凍しておくといい。

【電子レンジ】
 電子レンジは不可欠だろうと思う。再加熱だけだから安価なものが好まれるけど、最近の機種は自動調理器でもあるので、それを見越して買ってもいいと思う。日立のヘルシーシェフのシリーズは特に便利。

【電気ケトル】
 僕はいらないと思う。一杯分のお湯なら電子レンジで一分半で沸かせる。

【片手なべ】
 これはあったほうがいい。

【ふた付きフライパン】
 これもあったほうがいいだろう。

【ボウル・ざる】
 これもあると便利。収納しやすいのがいい。

【包丁】
 包丁は難しい。しいていうと、セラミックをお勧めしたい。長く使うと切れ味はおちるけど、そこそこ使える。扱いが楽。
 

【キッチンばさみ】
 これもお勧め。かなりいろいろ使える。
 


【まな板】
 これは微妙。ぺらぺらタイプが便利。あと、丸い木のまな板が便利。

その他に

【スロークッカー】
 炊飯器の代わりにこれ。これがあれば肉や豆料理が楽。あと、夜クズ野菜や鶏ガラを入れておけば朝にスープ。玄米を入れておけば朝に玄米粥。

【ロースター】
 これは場所とるのであまりお勧めできないけど、あると、焼き魚が幸せレベル。焼き蕪もびっくりするくらいおいしい。タイプを選ぶとほとんど煙出ない。

【トースター】
 T-falのをほぼ毎日使っているけど、便利。クロワッサンなどの載せ焼きもいい。あと、厚みがあってやけるから、ホントサンドもできる。

最後に一言的に言うと、一人暮らしなら冷蔵庫はでかいほうがいいと思う。

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2018.03.14

森友問題の現状についてブロガーのいち見解

 森友問題の現状について、自分の考えを、アウトラインだけだが、まとめておきたい。自分の考えが正しいとも、強く主張したいというものではない。当然、異論は多いだろうと思う。また、誤認もあろうだろうと思う。あくまで、こういう考える人がいるという程度のものである。ブログというのは、その程度のものである。なお、森友問題の解説記事ではないので、基本的な説明は含めない。

昭恵夫人の関与はないだろう
 昭恵夫人の活動は賛同できないものが多いが、今回の件では、構図的には籠池容疑者に利用されただけで、経緯を見る限り彼女の影響力があったようには見えない。また、今回削除された文書での彼女の名前の記載も籠池容疑者の伝聞に過ぎない。彼女を国会に呼ぶ理由は現状ではない。

政治家の関与はあったかは個別には不明
 文書の削除部分にある政治家についても概ね関与はないと思われるが、各政治家の個別の背景についてはわからない。が、安倍首相と麻生蔵相については、その関与はなさそうに見える(あったと見られる証拠はない)。

森友学園の国有地売却の値引き理由は不明確
 すでに会計検査院から指摘されている通り、森友学園の国有地売却の値引き理由は不明確。ただし、野田中央公園でも大幅な値引きがなされているので、同じような手順が取られたように推測される。その意味で、財務省に大きな失態があったとは思えない。

公文書偽造罪などの違法性はなさそう
 今回改竄された決済文書は、添付的な位置づけであり、当の国有地売却に関連して事実に反するものではないので、虚偽公文書の作成には相当しないだろう。会計検査院もこの改竄を知っていたが、契約との関連から重視していなかったこともその傍証になるだろう。

文書改竄の責任者は理財局長だった佐川宣寿・前国税庁長官だろう
 佐川氏が決裁文書改竄に関与してなかったとは想定しにくい。また、違法ではないとの認識のもとでの改竄だっただろう(こうした改竄は常態化していたかもしれない)。今回の改竄の理由は、国会答弁との整合性のためだろう。なぜ、無理な整合が必要になったかといえば、政治家への忖度というより、財務省の無謬性のような錯誤意識による佐川氏の失態だろうが、解明は国会にまかされるべき。

佐川宣寿・前国税庁長官は虚偽答弁をしていた
 佐川氏が国会において虚偽答弁をしていたことは、すでに明白。

佐川宣寿・前国税庁長官は国会招致すべき
 改竄の責任者が佐川氏であると見られるので、国会への虚偽答弁について国会招致で解明すべき。

財務省は根幹から組織改変すべき
 佐川氏の虚偽答弁の問題は彼個人の問題ではなく、財務省という組織の問題でもある。今回の事態で、財務省が改竄を認めた後、報道者にぞくぞくと現れるようになった「関係者」には財務省官僚が含まれると想定できることも、この組織の問題を示している。

麻生蔵相と安倍首相に責任はある
 財務省からの虚偽答弁によって、事実上一年にわたり国会議論を空転させてきたことは、内閣が財務省を管理できなかったためであり、内閣、特に麻生蔵相と安倍首相にはその監督責任がある。彼らでは監督できていなかったことになる。

内閣総辞職すべき
 内閣の責任は明確なのだから、自らの無能の責任をとって総辞職すべき。

内閣総辞職後、日本の政治は空転するだろう
 現内閣は総辞職すべきだが、その後、財務省を再編成し、現下の外交・内政をこなしていける内閣が安定するとは思えない。だが、それをもって、現状の内閣の維持を支援するというのでは、民主制度にはならない。

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2018.03.13

また腕時計を買った

 体に物を装着するというのが苦手で、若い頃から腕時計もしない。が、たまにする。機能性を重視しているので、チプカシで十分、というわりに、むしろチプカシが好き。で、いくつかチプカシを持っている。とりあえず、もう腕時計の必要性はない。なのに、また腕時計を買った。ちょっとはずかしいんでどれを買ったかのアフィリエイトしない。
 買った理由は、腕時計があったほうがいいかな、というなんとなくの気持ちと、ちょっと、自分なりに気に入ったデザインの時計がほしくなかったからだ。腕時計の趣味なんて自分にはないか、チプカシみたいなのが好み、ということだったのだけど。自分の感覚がなんか変わってきている。
 いや買ってしまったな。高価なものではないけど、私みたいに爺さんが装着すると、カラフルであれげな感じがするが、まあいいだろう。年とってますます、個人的な趣味に走るようになったな。竜頭がでっぱってないのもいい。
 すごく軽い。金属接触感覚は気持ち悪いのでなし。チプカシふうのゴムっぽい感じもなし。こういうのは初めてだな。世の中、いろいろアレルギーの人がいるからなんでしょうか。
 数字なし。これは我ながら意外。自分は、数字がけっこう好きなのである。数字の文字のデザインも好きなので、数字のない時計というのは好まなかったのだが、今回のこれ、数字なし。もちろん、機能的にはなんの問題もない。逆さに見るということはないし。
 買ってから、時刻合わせで気がついたのだが、秒針がないのである。ほお。秒針がない。おおっ、秒針がない!
 私は時刻にマニアックではないし、30秒くらいずれていても気にしないが、それでも数分ずれるのはいやなので、時計合わせをよくするのだが、秒針がないと、そういうふうに気にすることも減る。
 というか、秒針がないと、時計はうるさくなくていい。腕時計ってこうあるべきなんじゃないか。時間に追われていない感じがいい。もちろん、秒針がない時計は用途に合わないという人はいるだろうけど。
 スマートウォッチが今後どれほど普及していくかわからないが、多機能で高機能なウエアラブル端末が求められていく潮流にはあるのだろう。そうしたなか、数字もない秒針もないといいう腕時計という、逆行したヒューマン・インターフェイスもいいような気がする。
 でもまあ、この腕時計、すぐに飽きるかも。


 

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2018.03.12

電子レンジでお茶とか

 ティーバッグの紅茶というのは飲まなかったのだが、最近はそれでもいいやと思うようになった。それなりによいクオリティのティーバッグもあるし(分包だと劣化しないし)、それほどよくなくても、どうせティーバッグだからまあいいや、みたいな感じである。そうしてティーバッグになじんでいるうちに、最近のティーバッグがホチキス針止めされいていないことに気がつく。全部が全部というわけでもないけど。
 ティーバッグから、小さいにしても金具がなくなったということは、エコを配慮してのことなんだろうなと思っていた。たぶん、そうだろう。そして、そのうちふと、金具がないのは、電子レンジ対応でもあるんじゃないかと思った。こういうときは、ググってみる。すると、ある。あるもんだな。
 私も一杯お茶を飲むとき、お湯をそのまま電子レンジで沸かすことがある。ケトルとか使わないわけである。1分20秒もすれば、お茶用の湯ができる。それにティーバッグを入れるということはしていた。これ、最初からティーバッグを入れててもいいのか、とやってみると、さして問題ない。ティーバッグを待つ時間もなくて便利ですらある。
 こんなんでいいんだろうか?
 いけないという理由は特になさそうだ。紅茶を入れるゴールデン・ルールに合致してとかあるにせよ、しょせんティーバッグである。
 案外、コーヒーも電子レンジでできるんじゃないか。インスタント・コーヒーじゃなくて、普通に豆をひいたのでどうだろうか。これはまだやっていない。ちょっとどうやるのかイメージわからない。
 それにしても、どうして電子レンジで紅茶をいれようなんて考えたんだろうか。ってか、私も考えたわけだけど。
 実はいろんなものが、定められた手順でやらなくてもできるものじゃないか。として、他になにがあるかと考えてみて、すぐに思いつくことはないが、それでも思いついたのは、おしめである。が、おしめは使い捨てがすでに標準といっていいだろう。介護用のおしめもそうなっている。最近ではこれをそのまま家庭でも簡易に廃棄できるようにする国の規格化も進んでいるらしい。
 そういえば、文章の音声入力もある。この技術だいぶ向上してかなり実用レベルになっている。ブログとかも音声入力している人もいる。私も試したことがある、それほど難しくもない。ただ、自分の場合、喋るよりキーボードのほうが早いのでそれほどは使わない。
 技術が生活の様式を変えていく。基本は、手抜き、ということだろうけど、手順やプロセスを重視しなくてもよいという傾向は増えていくだろう。
 考えてみると、音楽を聴きながら通勤通学というのも、ウォークマンによる革命だった。あのころの変化は只中にいたので覚えている。世界が映画のように思えた。今では普通のあたりまえの行動である。
 ただ、そうなると、逆に、手順やプロセスそのものが楽しみ、あるいはそれが価値というのもあるのだろう。というところで、愛やセックスなんかもその部類だろうかと思い、いやそうでもないかといろいろ思い巡らした。

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2018.03.11

[書評] 母性のディストピア (宇野常寛)

 大著にも見える宇野常寛『母性のディストピア』(参照)の基本テーマは、意外に非常に単純なものだと理解する。表題が示す「母性のディストピア」をどのように克服するか?ということだ。

 ここにはだが、微妙に自明とされているだろう前提がある。「日本の」ということだ。単純に言ってしまえば、本書は、日本論であり、戦後日本論である。別の言い方をすれば、著者は嫌がるのではないかと思うが、「日本はどうあるべきか」とまで還元できるかもしれない。そして、そうしてみてまず私の脳裏に浮かぶことは、その「日本の」という問題フレームワークについて、「そんなのどうでもいいや」ということだ。投げやりなトーンになってしまうが、投げやりなことが言いたいのではない。「日本の」を冠する問題フレームワーク自体が疑似問題ではないかと思う。なんとなれば、それは日本人だけが問われているのであり、その日本人は、つまるところ、この「母性のディストピア」の同構造だからだ。
 とうの「母性のディストピア」とは何か? 著者の文脈をシンプルに追うなら、こうなる。

 世界と個人、公と私、政治と文学を結ぶもの。いや、近代日本という未完のプロジェクトにおいては常に結ばれたふりをすることでしかなかったのだが、このいびつな演技のために彼らが必要としたものは「母」的な存在だったのだ。
 妻を「母」と錯誤するこの母子相関的想像力は、配偶者という社会的な契約を、母子関係という非社会的(家族的)に閉じた関係性と同致することで成り立っている。
 本書では、この母子相関的な構造を「母性のディストピア」と表現したい。
(pp32-33)

 簡素に表現されているが、これだけは文脈上はわかりにくいかもしれない。近代日本人は、「父」になろうとしていながら父権を権力への忌避で否定し、永遠に少年でありつづけるためにその少年の自我を受容する肥大化した「母」を求める、と理解してもいいかもしれない。
 こうも本書は敷衍している。

 江藤淳から村上春樹まで、この国の戦後を生きた男たちは「母」の胎内に閉じこもったまま、「父」になる夢を見続けることになる。そして、何もなし得ないまま、死んでいく。この肥大化した母性と矮小な父性の結託こそが戦後日本を呪縛した「母性のディストピア」だ。
(p374)

 もう少し私なりのパラフレーズを延長すると、この状態が現実を虚構化することで現実が不毛化していく。結果、移民は排除され、日本は国際世界から没落し、政治は茶番になっていく…。これが「ディストピア」の意味だろう。本書では言及がないが、こうした肥大化した母とその残虐性が完成したイメージは『PSYCHO-PASS』できれいに描かれている。犯罪はなく、法はなく、病気があり、治癒不可能は処分される。
 現実が虚構化することで、むしろ逆説的に語りえるものは、虚構でしかなく、その虚構の高い純度のアニメしか議論に値しないとして、本書はアニメ論になっていく。著者も意識しているが、吉本隆明が1980年代に展開したマスイメージ論やハイイメージ論の延長でもあり、当時のニューアカ的な問題フレームワーク、および江藤淳の戦後批判や加藤典洋の『敗戦後論』なども巧みに組み入れられている。また扱われているアニメは、定評のあるセットであるため、大著のわりに既視感があり、全体トーンのなかで流れるように進められている。著者の問題意識のブレはなく、書くことで異化されるためらいの思索はほとんど感じられない。
 というあたりで、僭越だが、著者と私の考えを対比させるなら、同じ作品を扱うときの批評構造がわかりやすい。なかでも『この世界の片隅に』のとらえ方の差を見ればわかるだろう。私はすでに、「母性のディストピア」的な問題視点をとらない。むしろ徹底的に個人のエロスの開花の可能性において、作品をエロスに読み替えてしまえばよいと思想的に考えている。
 本書はいかに、「母性のディストピア」を克服するかということを共同生の次元で問い、それを家族幻想(対幻想)で対置しようとした吉本隆明をも批判しているが、思想の戦略はまったく逆であればよい。人がエロスの自覚に忠実であることで個を確立し、共同生や家族幻想を一時的(テンポラル)なものにしていけばよい。
 個人はエロスに忠実でありながら、共同生と向き合う時があり、家族性と向き合う時がある、というだけだ。より強い言い方をすれば、晩婚化として結婚や家族を国家の枠組みで問うことをやめたらよい。晩婚化が中年以降の成人の家族性を逆に強めてしまうなら、不倫のような関係が共同生のなかでなめらかに溶け合うように、義を求めがちな共同生での他者のエロス語りに無関心であればよい。もっと言えば、個人はエロスの本質から原則的に社会的に悪な存在として自覚し、社会的な正義や優しさといった価値を二義的な一時的な演技に変えていけばよい。
 ただ、おそらくそれはできない、というか、そもそも共同生の議論にはならない。今求められるとすれば、思想家や芸術家が、むしろ共同生の義をいかにエロスで堕落させるか、セダクション(Seduction)に価値を置くかということだ。
 もう一度本書を振り返ってみて思うのは、この議論の枠組みは強力すぎることだ。ゆえに、そのなかに多数のアニメを散りばめたくなるある種自己撞着的な罠がある。また、にもかかわらず、「問題」は曖昧に自明化されている。が、しいて現代日本の問題を見るなら、具体的な、例えば、オウム真理教事件の総括や東北震災の総括など、個別的な思索が重要だろう。それをアニメの水準で問うなら、もしかすると、『輪るピングドラム』一作の評論で足りるかもしれない。
   

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