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2018.01.06

[アニメ] 宝石の国

 私の習性からすると、アニメ『宝石の国』は原作のコミックの最新刊まで読み終えてからなんか書くか、あるいは、原作のほうを主対象とするかなのだが、比較的最近見終えたアニメのほうの印象について、現状でも書いておきたい気がした。

 昨年のアニメで良かった作品リストというのが年末ツイッターに流れてきて、その上位に『宝石の国』が入っていた。私は見ていなかったので気になっていた。そしてすでに書いたように原作との関係が気になりつつ、アニメを見るのをためらっていた。が、見た。
 いきなり余談だが、私は『進撃の巨人』は原作を全巻繰り返し読んでいる。アニメ化の際はどうだろうかと不安だったが、この作品については、アニメ版のほうが完成度が高い面がある(同名作品の映画については言及すら避けたい)。他方、『キングダム』(あきれたことにこれもコミックを全巻持っていて一応読んではいる)のアニメには不安以前に出来上がったのを見てしまってた。フルCGのウニョウニョがアニメの『亜人』みたいだなあと落胆した。『山賊の娘ローニャ』はウニョよりゴキゴキ感があった。アニメにCGは避けられないのだけど、フルCGはなあ。
 というころで『宝石の国』である。原作は未読ではあるが、絵のタッチは見ているので、「ああ、高野文子入っている」とかというのはわかる。高野文子の作品のフルCGは現状の技術だとどうだろうか以前にアニメ化について想像もつかないが、と、話戻して、まず『宝石の国』のオープニングなのだが、なるほどねと思った。フルCGの良さの面を逆に強調しているのかと。特に、オープニングでフォスが立ち上がる動作はモーションキャプチャーだろうか逆説的だがなかなかいい。作品の内部でのCGだが、概ねあれでいいんだろうなとは思った。戦闘シーンは美しい。他方、宝石らしさのCG表現については、個人的にはちょっと違うかなとは思った。アニメらしいキャラの作り込みも、原作のキャラより美少女アニメっぽいデフォルメが入っているので、そこも多少違和感は感じた。声優についてはかなりいいなあと思った。フォスの黒沢ともよはかなりいいというか、他の声のイメージが浮かばなくなった。
 まあ、ぐだぐだ言ったが、それでどうだということでもなく、これはアニメ作品であり、原作とは別だというだけで、まだ原作のほうは最新刊まで読んでもいない。が、そうはいっても、アニメは概ね原作をなぞっているし、重なる部分はある。以下はそのぐだぐだの暗黒面で。
 ファンタジーとしての世界観の異質感はあるにはあるが、あまりない。斬新というより既視感が強い。あ、こりゃ……萩尾望都に岡野玲子、それとマックス・エルンストに四谷シモン……といった連想がいろいろと浮かぶ。しかし、そうしたものの総合感というものでもない。
 宝石の少女たちは表層的には無性のように描かれているし、呼称も性の直接性はないが、むしろそのことが強く少女性を表していているので、無性・両性性の対局にあるだろう。宝石は少女の美しさというより、少女が女の肉体と肌とその香りを持たないことの総合なので、こうした点で、宮﨑駿的な少女よりもさらに洗練されている。
 それらが全体として、個人的な印象といえばそうだが、それぞれの切なさを表している。宝石であることは、少女のキャラ化というより、切なさのキャラ化であり、切なさの色合いや質感が宝石として表現されている。切なさの微分化と言ってもいい。この微分的特性が逆に物語として積分されるような仕組みに、まさに物語が動き出すところがすばらしい。
 そうした切なさの彩りを、この作品の愛好者はどのように受容しているのか、という批評的な関心も惹起させられる。切なさ自体は、その様式を変えながらいつの時代にも存在するものだが、それが表現として表出された文化様式としてどのように受け止められるかは異なる。このあたりは、アニメとかに関心ある現在のJKとかに少し当たってみたが、この作品への関心はないみたいなので、意外と十代にはこの作品は届いてないのではないかという感じはする。逆は『東京食種』とか。
 アニメは原作の6巻前あたりで終わっているようだし、今季のエンディングは次期やるぞまんまんなので期待したい、というか、黒沢ともよの声の続きが聞きたい感じもあるが、それはそれとして、物語の展開の予想は、というか雰囲気的な予想はすでに伏線が貼られているものの延長にあるだろう。映像的には既視感のある作品のように思えるし、展開の意外性もある既視感に収まっているのだが、この作品のある完成予想は難しい。未完に終わりそうだとは思わない。切なさの彩りがどのような終着点を見せるのかが、とても気になる。この関心は、自分の、あるいは自分たちの、その内面になぜか知らないが抱え込んでしまった宝石箱の始末のようでもある。始末はできない。できない始末はどのような形を取るのか。私たちは、たぶん、性としての肉体の完成を社会的な整合として受容することはないだろうという直感に拠っている。

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2018.01.05

[書評] 小説 君の名は。(新海誠)

 一昨日、テレビで映画『君の名は。』が放映されていた。ツイッターなどでは放映前から話題だったので、すでに映画は見ていたのだが、とりあえず録画した。CMの入るテレビ放映映画は見ないことにしているが、逆に最近はそのCMのほうが話題になったりもする。

 『小説 君の名は。』(参照)も既読だった。考えてみると、ここに書評なども書いてなかった。映画についてもそうだ。映画も小説も面白かったかといえば、面白かった。が、意外に難しい作品だなとも思った。
 外部的な情報や文化的な文脈での批評はそれほど難しくはないだろう。が、この作品構造自体の解明はけっこう、パズルになっているのがわかるので、難しい。
 パズルとして見ると組紐がキーになっていることは明瞭にわかるし、そうした明示的なキーが提示されていることも逆にパズルの真相をややこしくするだろうことも直感した。そこがどこまで解けるかが作品批評との関連を問うこともめんどくさい感じがした。
 もう一つ、批評的なためらいがあった。この作品は、東北大震災の、日本人の歴史経験の最初の作品なのではないかという思いからだった。この作品では、隕石による大量死と風景の喪失が示されているが、隕石という部分を除けば、その喪失は東北大震災に近い。「日本人の歴史経験」と言ったのは、あの震災の死者と私たち生存者は、いわゆる儀礼的な鎮魂を超えて、どのように霊を結び合うのか、という課題がこの作品に結果的に(意図的かはわからない)描かれているためだ。ただ、そこはこの作品の批評的な中核かといえば、違うだろう。
 映画という映像と、文字という小説だが、表面的な差異はないかに見える。小説のほうが、主人公二人の内面に入り込む点で、映画を補う面もあることと、映画では映像的に間接的に表現されている嗅覚の描写が小説では際立っていることなどの差はある。また、映画のほうは映像の中に連続的に象徴を送り込むことができるので、物語構造がわかりやすくなる面もある。先に示した組紐だが、これが三葉から瀧、瀧から三葉として渡されることで大災害と死者の縁と転換が上手に構造的に切り替えられている。(余談めくが瀧が乗せてもらった軽トラックの記号性も。)
 といいつつ、ここでふと個人的な思いを蒸し返してみたくなる。大災害は多数の死者をもたらし、死者は哀悼を生者に残した。その哀悼はもはや死者が蘇ることがないということでもある。が、哀悼にはどこかしら死者を蘇らせたい情念がこもる。この物語は、そうした死者の蘇りの物語という構図を持っていることは確かだ。そして、その時間の逆転の転機が先の組紐の受け渡しによって起きる。三葉の体を借りた瀧が時間を逆転し死者を蘇らせようとした試みは組紐の縁で三葉の体に三葉の心(霊)を戻すことで、死の再生をもたらした。風景は喪失したが大量死も消えた。
 そして、その再生は、縁の終わりでもあった。この物語構造の無意識的な象徴は重たい。私たちは死に隣接することで深い霊の融合を味わうのだが、生への回帰のなかでその融合の原始的な思いだけを残して、個々の名前を失う。この図式はジャン=リュック・ナンシーがハイデガーの死の哲学を生と共同体の哲学に組み替えたことに似ていて、私たちは無名の霊の融合を分かち合うことで共同体を形成している。私たちは私たちが本当に愛せるただ一つの霊の期待をいつも偶然のようにこの共同体に期待できるのだということで、私たちは共同体のなかで生をつないでいる。瀧が、死を乗り越えて、新しく「君の名」を再獲得する意味である。
 さて実は、昨日、小説を読み返した。映画を見て、小説を読んだおり、放置しておいてパズルへの思いをもう少し探ってみたかった。パズルのパズル性は時間差のなかに潜んでいる。この物語では、三葉の時間と瀧の時間のなかに3年間のズレがあるが、このことがリアル世界の再構築のなかでどのような年齢差を生むかは明瞭にされていない。表面的には、そこでは三葉は瀧より三歳年上のように思われる。ただ、最後にすれ違う「その女性」は瀧のリアル世界からは「三葉」という名前では提示されていない(組紐の同定象徴はある)。逆にいえば、三葉という名前が三年間のパラドクスを覆っている。
 そのパラドックスに当てはまるキーは、「奥寺先輩」である。彼女の年齢は明示されていない。大学生で喫煙という条件からは三歳ほど年上と見てもよいだろう。ここで粗く奥寺と三葉は重なるのだが、物語上の構造対比でいうと、瀧と奥寺のデート(瀧にとっては残念なデート)を境に、瀧と三葉の身体交換は終わる。三葉が消える。ここの部分は、このデートが原因で三葉が消えるという読みの可能性を微妙に残している。このことは同時に、三葉からの奥寺への同性的な恋慕も消えるという意味でもある。この暗喩は、この時点まで瀧と三葉の心情だが、それは恋愛というより、フロイトの言う前エディプス期、土居健郎の言う「甘え」にも似ている。
 奥寺を重視するのは批評的なバランスを欠くようだし、新海作品における年上恋慕またかよと流してもよいようだが、物語の構造上、奥寺は最終部で登場し、これがまた物語の構造上は重要な転機の意味を持つ。ここでの奥寺との別れが、新・三葉との出会いを導いているので、やはり奥寺はこのパズルの重要なキーであることは間違いない。むしろ、なんとなくではあるが、この物語は、新海の趣味というより、『言の葉の庭』と同じく、年上の女性との恋愛の意義を問うなにかがコアにあるのかもしれない。連想されるのは、吉本隆明の共同幻想論における国家の始原としての神聖なる姉弟が、逆転して対幻想に帰着する集合的な無意識の図柄にもなってくることだ。
 さて、ファンタジー作品なのだから、素直に時間のねじれやパラレルワールドを受け止めてもいいのだろうし、そして私の強い主張でもないのだが、三葉は最初から存在しなかったか、単に瀧の幻想であり、奥寺への恋慕の変容が産んだ幻想なのだろうというふうに考えている。
 この物語が文学的にどのように評価できるのかは私にはわからない。自分と同体のように思える他者が(異性であることが多いだろうが)存在するという、奇妙な確信は恋愛の意識のなかに先駆的に織り込まれている。『Sense8』でもある。それは人の意識の必然であって、外界に必ずしも運命的に実現されるものではないと、人生のなかで諦観したくもなる。
 だが、それは、あえて言えば、起こるのだ。ナンシーもそれを待ちなさいというふうに高校生たちに熱く語ることもあったが、それが起きてしまえば、私の意識のなかで強烈な時間経験の逆転が起こり始める。それはこの物語で、瀧が三葉のそれまでの人生をすべて見渡して理解するようなある特殊な感覚である。


 

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2018.01.04

[書評] 隷属なき道(ルトガー・ブレグマン)

 ブログが長く休止状態だった昨年だが、その休止を挟む10月22日に実施された衆院選挙に関連して、私はポリタスに『たぶんあなたは採用しない「3つの投票方法」』(参照)という寄稿をした。この寄稿には自分ではいくつかのモチーフがあった。一つには、日本風のリベラルと保守の対立は党派的すぎて、もし本来のリベラリズムがあるのなら、ごく簡単な原則を基本的な要素として重視するはずだという指摘がしたかった。これに実質的にはアイロニカルな含みが生じるのはわかっていた。いわゆるリベラル派が党派性のために本来のリベラリズムを二次的なものにしていることへの批評である。

 しかしこうした私の主張は、批評的アイロニーの想定内であるように、あまり顧みられることはなかった。私としては、リベラリズムの倒錯的な状況よりも、もっと本来のリベラリズムが何を主張すべきなのかという指標を描くことが重要だと思っていた。そのとき、おそらく指標となりうるのは本書『隷属なき道(ルトガー・ブレグマン)』(参照)ではないだろうか、という思いは去来していた。
 リベラリズムの簡素な指標は、格差の是正である。そしてその格差は、絶対的な貧困が克服された先進国では相対的な格差を積極的に是正していくことにある。本書はこの問題意識が明確に示されている点でも興味深い。
 格差の是正というテーゼで、微妙だが2つの留保が生じる。一つは、絶対的な貧困の言説はそれがどれほどセンセーショナルに大衆に好まれても実際には修辞的にしか機能しないことだ(大衆的な怨嗟の熱狂の有無は政策策定には至らない)。これは旧来のリベラリズムの悪弊に近いものがある。私たちはガルブレイスが言う「豊かな社会」にいることは基本的な前提になる。
 もう一つは、「平和主義」の幻想である。冷戦時の左派を継いだ旧来の日本のリベラリズムからすれば、日本はまたナショナリズムから他国への侵略を開始する懸念があり、その懸念は過去の侵略の事実の否認が示すものだ、というふうに主張されがちだ。この問題は、それが特に日本の現行のリベラリズムによって、その課題の重要性を持てと強いる点においてすでに呪縛に近いものになっている。このため、本来のと言うべき、相対的格差の是正の主張とうまく整合してこない。そのためこれは、正義の二本立て、とでも言うような妥協項目の形になる。
 だが、現代的なリベラリズムを想定するなら、むしろこれについては、相対的な格差解消の実現は日本の市民社会の成熟を促すものであり、その過程で平和主義の志向は自然に厚いものになるだろうという期待になる。だが日本のいわゆるリベラル派はそれを持つことができない。党派的すぎて日本の市民を分断し、市民の相対的なリベラリズム意識の成熟を信頼できていない。このため、旧来日本のリベラル派は、戦争の志向と民族差別意識を相対的な貧困に連結させ、その状態を体現する敵対者をあぶり出して叩くという劇場的な構図を取る。皮肉にも幸いにしてそうした敵対者であるネット右翼には事欠かない。
 こうした日本の擬制的なイデオロギー対立を避けて、本来のリベラルの課題である、相対的な格差是正に取り組むのであれば、どのような指標がもっとも明快か。
 おそらく本書が主張するベーシックインカムの導入であろう。本書の帯にもあるように「福祉はいらない。お金を直接与えればよい。」ということだ。
 もちろんというべきだが、ネットにはこの論者は多い。そして、当然ながら本書も彼らには肯定的に受け止められる。
 そうした明快な基調に思える本書でありながら、実はここで微妙な問題が起きている。これは単純な問いの構図になりがちなことによる副作用である。ベーシック・インカムは是か非かという問いの構図に陥りがちになることである。だがおそらく、この問いの構図はあまり意味がないだろうと私は考える。もちろん、本書の議論はあたかも、この是非について、経済学的な視点というより、通常の歴史学的な視点で説かれているものだ。が、この議論の是非の轍にはまるなら、本書は、いわば正しいユートピアの提示ということにとどまるだろう。もちろん、それでよいのだとも言える。そこが微妙な部分である。
 例えば一読者の私としては、ベーシック・インカムの是非はおよそ議論にならない。政策として実施されれば好ましいことは明白だからだ。そして、この好ましさは、必ずしもベーシック・インカムのみで実現できるものではない含みを現実的に思考させる。例えば、近似のマクロ経済学的な政策オプションはありうるだろうし、むしろユートピアとベーシック・インカムを結合して、ある種の革命を問うような単純な構図より、実現可能なマクロ経済学的な政策オプションのほうが現実には機能するだろう。
 さてここから先の議論は、批判的に聞こえるかもしれない。私の意図としては、批判ということではまったくないのだから。そこをどのように言うべきなのかためらうところでもある。しかし、2018年という新しい年で思うのは、少し踏み込んで見るべきかなということでもあり、少し書いてみたい。
 本書は簡素に明快に書かれ、しかも章末にはすっきりとしたアジェンダのようなまとめもあり読みやすい。だが、論点はかなり雑多なものになっている。まず、雑多な様子を個別に捉えるなら、本書の邦題の副題がそれを示している。「AIとの競争に勝つベーシック・インカムと一日三時間労働」。ここでは、AIと労働の関係、ベーシック・インカム、労働時間の革命的短縮というテーマがあり、これらは、表向きベーシック・インカムで統合されている。そうすると一見、書籍としてのテーマがまとまりやすく、主張も明確になるからだ。しかし本来なら、つまり、相対的な格差の是正を主とするなら、ベーシック・インカムの主張だけでよく、AIと労働の関係や労働時間の短縮は別の次元の課題となる。ことさらに補足するまでもないが、AIに勝つというのはベーシック・インカムで解ける単純な問題ではなくさらに人間倫理に迫る個別の大きな分野を形成しているし、労働時間の短縮は例えばワークシェアリングの枠組みでも考えられる。これらを単一にベーシック・インカムでまとめるには無理があるし無謀とも言える。なにより、本書を実際に読めば、そこまで単純化された議論にはなっていない。
 つまり、そこなのだ。本書は主張の書、ユートピアの書として書かれているが、実態は、現在の先進国の問題がどのような様相を示しているかということに、読みやすい修辞とわかりやすいベーシック・インカムの構図でまとめているに過ぎない。こうしたある種の無茶振りは、「国境の開放」の議論でも顕著で、「国境の開放」についての修辞的な議論では実質的なベーシック・インカム論とは結びついていない。ここは普通に考えるなら、開放された国境を超えた移民に即座にベーシック・インカムを与えるということになるはずで、そうした像がどのようになるかは想像しやすいにも関わらず実質的な言及はない。
 おそらく本書には隠された通奏低音がある。あるいは隠された前提だろうか。ベーシック・インカムが国家経済に閉じていることだ。本書のベーシック・インカムが本書が暗黙に示すようなグローバルな視座を持つなら、グローバルに実施が可能だが、ユートピア性としては国家に閉じているのである。これは、よく日本の出羽守が小国を理想郷としてしまうのと同じ修辞である。日本ですら、もし地域分割してそこで経済をブロック化し、その優位なブロックでベーシック・インカムを実施すれば、本書の理想に近いものが隔離された小域では達成できてしてしまう。
 こうした点からわかりやすくなるのだが、本書の主張は実際にはリベラル派の主張というより、実際にはフィンランドでは中道右派が推進しているように、新しいナショナリズムのユートピアという本性を隠している。
 逆に考えるなら、先進国の相対的な貧困は、グローバル経済の派生であり、国家間の擬似的であるが同時に生産力の競争の国内的な派生でもあるためだろう。問題は、国家が生産性の競争にさらされているのに国家経済を小域に閉じることができないため、グローバル世界の格差が国内的な相対的な格差に反映されてしまうことだ。労働力が国家を実質超えているために、国内の労働者は海外の労働者と争うことになっている。さらに先進国では高齢化が進展しているため、高齢層の富がその家系に再配分され国民社会には再配分されにくくなっている。それを打開するのは、家系より国家社会を優先するナショナリズムが誘導されやすくなる。
 それでも本書には、若者らしい著者の強い基調の力があることは確かだ。ユートピアを提示することにくじけないことである。つまり理想がなんであるかを語ろうと意志することだ。本書がオランダの比較的小さなコミュニティで自費出版のように生まれたのに世界の読者層にまで届いたのは、その巧妙な修辞よりも、理想を語ろうとする意志の強さでもあるだろう。
 そしてその強さは、おそらく経済学や歴史学でもっともらしく語られるベーシック・インカムのテーマよりも、人間の労働はどうあるべきなのか、人生の時間を私たち人間がどのように取り戻すことができるのかという、本質的な問かけに拠っている。

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[映画] 最後のジェダイ スターウォーズ8

 前回の『フォースの覚醒 スターウォーズ7』では、デイジー・リドリー演じるレイは、とてもよかった。そのほか、いかにもスターウォーズらしさがあって楽しいには楽しかった。だが全体として見るとあまりにも以前のシリーズとの参照が多く、これはスターウォーズのオマージュ作品というか手の込んだパロディ作品ではないかという印象が濃かった。なにより、なんでこんな作品を作ったのかその根幹がよくわからない作品だった。スターウォーズという名前を冠する作品としては失敗作だろうなと思うしかない。

 それで、『最後のジェダイ スターウォーズ8』である。7ではハン・ソロ役ハリソン・フォード、今回はルーク役のマーク・ハミルである。なんだろうか。民主党シリーズ9の菅直人という感じのノスタルジーか、紅白歌合戦の石川さゆり的なマンネリ様式美なのか、なんだか見る前にディサポインティングな状態である上、すでに見た人も「またあれだよ」とか「まあ、映画として見れない、金返せとはいわないけど」と暗雲漂うのだけど、まあ、見た。正月の映画館は思ったより空いていたというか、すでにこの作品、枯れているんじゃないかな。
 どうだったか。映画産業の製造品としてはきちんとクオリティ・コントロールされているなあという印象。ここはひどいやという部分は特に見当たらない。スターウォーズらしい戦闘シーンや間に合うのかぁみたいなお約束サスペンスはおかわり自由状態。
 他方、うへえな部分は前回同様なのので、見終えてから、うーむこれはなんだろう。せめて、ルーク師によるレッスンが延々と続かなかったり、甲冑ちゃんばらは様式美でいいけど、カミカゼ特攻バンザイ攻撃が連続したのは、あかんはこれ。と思っていたら、そこはきちんと作り手に意識されていて、工夫があった。
 見終えてから、いや、この作品はこの作品で、スターウォーズの世界を理解し、現代的な批評性を加えて再・創造しているんだろうという意図はわかった。ということで、後からいろいろ考えてみると、それなりに強い主題はあったなあと理解して、作り手たちもいろいろ考えていたんだろうなというのは、じんわりわかってきて、まあ、これはこれでいいんじゃないかという感じに変わってきた。
 以下、ネタバレ含む。

 この作品は実はかなり主題が意識されていた。とても明瞭にである。それは「最後のジェダイ」そのものである。つまり、ジェダイは滅びるのだ、ということだ。そしてそれは宇宙のバランスと運命からの必然であるということ。それは絶望であり、「最後のジェダイ」とされるルーク自身が生み出したものだ。ゆえに彼は絶望のなかで慢心している。絶望に確信を抱いている。そしてこれまでのスターウォーズの表向きのテーマは、アナキン家の血統から王が生まれることがジェダイの復活のように見られていた。まるで天皇制の世継ぎみたいな情念である。
 それが王家の血筋デナーリス姫であり、違う、レイア姫であり、ダークサイドに堕ちたヴィセーリス王子である、違うってば、カイロ・レンである。彼は、ダークサイドに堕ちたゆえに、血統への反発もおそらくあって親に捨てられたレイに期待をかける(これは彼に残る善性や改心からではない)。レイもフォースが目覚めるにつれ、王家の血統の幻想を抱える。しかもスターウォーズファンさえも。
 しかし、レイは無だった。無からフォースが生じていた。あるいはレイはどこまで鏡像のような血統的幻想を抱いても彼女自身でしかなかった。親はいない。王家の血はない。そこにダークサイドの一つの転換点があった。
 顧みれば、アナキンも孤児だった。つまり、ジェダイを基軸とした王家と共和制の幻想(まるでニッポン)、そして反乱軍の幻想(まるで反アベ)をそれぞれ脱・構築していく物語となり、さらにアナキンの原点の孤児を最後に暗示させていた。これで、スターウォーズという「アナキン物語」の大きな一貫性が再構成される可能性が出てきた。それと、スターウォーズという陰陽の世界のダイナミズムが復活しそうに思える。
 これなら、スターウォーズ9は期待が持てそうだなと思えた。
 逆に、これってスターウォーズ9で終わるんだろうかという、いやな感じもしないではない。あれだよ、X-MENも滅んだあとに、『ギフテッド』だぜ。『レギオン』だけじゃないんだから。ああ、ゲースロも終われるのか。みんな、渡鬼になっちまいな。

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2018.01.02

[書評] アフター・ビットコイン(中島真志)

 書名『アフター・ビットコイン(中島真志)』(参照)の含みは、「ビットコインのブームの後に起きること」ということであり、さらにそれは暗示的にではあるが、ある誘導している関心があると言ってもいいだろう。ビットコインの終焉である。ゆえに、その後に何が起きるのか、と。2017年に入りバブルの状態を見せた後、現状、バブル崩壊の兆しも伺えるビットコインが本当にバブル崩壊となり、事実上通貨としては使えないという状態にまでなってしまうのだろうか。しかし、本書は、バブルへの懸念に一般的な言及はしているもの、注意深く予断は避けている。では、「ビットコイン後」とは何か。何が起きるというのか。

 本書の明確な基調としては、ブームとしてのビットコイン現象(その呼称は本書にはないが)はしだいに人々の関心が引き(加えて採掘などの原理的な限界もある)、その後には、ビットコインよりもその基本技術である「ブロックチェーン技術」が注目されるようになる、ということだ。
 そのため、前半では、ビットコインとは何かという点と、その中核技術としてのブロックチェーン技術に焦点を当てつつ、その最初の成功例ではあるが一例であるビットコインの問題点や暗部に言及している。後半ではブロックチェーン技術が各国ベースの仮想通貨が生み出していくだろうという中期ビジョンと関連して、金融革命(この呼称も本書にはないが)とも言える送金決済の未来について触れている。
 盛りだくさんの内容を簡素によくまとめているが、基調および視点は違うとは言え、先行して出された同じく新潮社『中央銀行が終わる日(岩村充)』(参照)と内容的に重なる部分はある。技術論的な部分(たとえばその匿名性の限界)や貨幣についての哲学的な考察については、岩村の書籍のほうが詳しい。他方、中島の本書について言えば、むしろメインとなるのは、ブロックチェーンを応用した決済システムの展望であり、それに焦点を充てて新書的な小冊とするかそこを発展させてもよかったようにも思う。ただし、金融面に偏った専門的な書籍となってしまう懸念はあるだろう。
 やや批判的な指摘に聞こえるかもしれないが、本書については、そうした書籍と内容の全体についての評価より、各部で示されているディテールが面白い。日本銀行に関連する言及では著者は日銀マンでもありその内情を知っている点で興味深い。また、私のような一般読者にしてみると、言い方は品がないが、ビットコインへの悪口とでもいうダークな部分の列挙は面白い。
 本書の帯にもその部分は強調されている。「たった1%のユーザーが、ビットコインの9割を保有」や「通貨として使っているのは、全ユーザーの2%」、「全取引の94%が中国元で、ドル・ユーロはごく僅か」。ぎょっとするような事実である。
 もっとも、これらの事実は事実ではあるが、ものの見方にすぎない可能性はある。利用者や保有者がいかにも偏在しているかに見えるのは、ウォレットを使う手前、仲介業者がまとめているだけで、ネットで話題を稼ぐプロブロガーなどはもともと少数派という以前にそもそもこうした統計でカウントされていないかもしれない。また、本書は2017年9月の脱稿なので、基本その年の前半までの状況だが、後半には大きな変化(登録制を挟む取引所の状況)などもある。今後も変化するだろう。
 気になるのは、ビットコインと事実上関連の深い中国マネーの動向だが、ビットコイン採掘所が中国にあっても、他のクラウドセンター同様他国が管理している部分は大きいだろう。にも関わらず、中国元がビットコイン化される状態は事実上のフライトキャピタルである。ゆえに中国政府が規制に乗り出した経緯がある。
 細かい点では本書の主張へのカウンター議論はいろいろあるだろうが、大筋において、ビットコインの実態像は本書がよく描き出している。個人的には、創始者のナカモト・サトシについてそのゴシップ的な興味より、その保有の現状が事実上のビットコイン維持に機能しているところが、彼の、自由通貨の主張と矛盾している点が面白くもあり、怖いなと思える点でもあった。
 話が前後するようだが、本書はビットコインの仕組み、特にブロックチェーン技術についても説明している。図解を含めてできるだけやさしく解説しているが、私の印象に過ぎないものの、一般読者にはこれでも理解しづらいのではないだろうか。公開鍵暗号についてはあえて解説が含まれていないし、ハッシュ関数についてもごく簡単な解説しかない(なぜ「ハッシュ」なのかという次元の話もない)。ナンスとブロック形成についても理解しづらいのではないだろうか。このため、ビットコインの特性とも言える「プルーフ・オブ・ワーク」についても同様の状態になる。
 本書は、ブロックチェーン技術に中心を置いているので、ビットコインの採掘(マイニング)に関わる「プルーフ・オブ・ワーク」の説明が薄くなるのはしかたがない面もあるだろう。いずれにせよビットコインの技術面については他書にあたったほうがよいとも思う。が、率直なところ、これならわかりやすいとうい書籍は思いつかない。公開鍵暗号やハッシュ関数の説明だけでも、どうすれば簡単になるのか、検討もつかない。逆にいえば、この分野の技術に関心を持ち続けて人にとってみると、ブロックチェーンを支える技術には独自性はなく、ビットコインについても、採掘や上限の仕組みが面白いアイデアだなと思うくらいだろう。経済学的に見れば、経済学の素人って怖いものなしに危ないもの作るなあという感想もあるようには思える。
 本書を読んで、個人的にだが、ここをもっと描いてほしいなと思ったのは、エストニアのデジタル通貨の状況や展望である。すでに『未来型国家エストニアの挑戦』(参照)に、エストニア自身の側からのそのビットネーションとも言える姿は描かれているが、本書のような批評的な視点で捉えたときにどのようになるのかは気になる。余談だが、エストニアは人口規模で沖縄県とほぼ同じなので、沖縄を特区としてビットネーション化すれば事実上の独立的な状態への足がかりになるような夢もある。


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2018.01.01

[書評] 人を伸ばす力(エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト)

 明けましておめでとう。そう言ってみて、少し奇妙な感じがする。新年を迎えることに、何か喜ばしいこと、しかもその喜びを共同体に分かち合う(partager:パルタジェ)意味がどこにあるのだろうか。疑念がある。どこにもないんじゃないか。あるいはどこかにあるのだろうか。
 あるとすればそれは書籍との出会いにも似ているだろう。誰もが賞賛するような優れた本などというものはないと言いつつ、古典のように本来は誰が読んでも価値があるとされるような本も他方存在する。そこで古典にそのような、ある普遍的な価値があるなら、誰もがそれを読むべきだと言えそうにも思える。そうでもない。そう言ってしまえば、冒頭のような少し奇妙な感じが伴う。
 私は何を言おうとしているのか。書籍の価値は、それを読んだ人が、密かにある種の確信をもってパルタジェするときに、その行為を含めた過程に生まれるものではないだろうか。古典とはそうしたパルタジェの一つの歴史としての指標であるのかもしれない。
 そうした意味で、古典と呼ばれているわけではないが、私がとても優れた本だと思える、特別な書籍に触れたい。でもそれは誰にとっても価値のある書籍ではないだろうし、むしろ凡庸に思える書籍かもしれない。ただ、私にはとても重要な書籍である。そのことを分かち合えたらと、こんな日、何かの初まりを象徴する日なら、願いたい。

 『人を伸ばす力』(参照)がその一冊である。表題を見ると拍子抜けするだろうし、装丁も地味そのものである。そして読み始めても、こうした表題の書籍にありがちな、ツカミがない。これはつまらない本ではないか。専門書とまでは言えないまでも心理学の一分野の本ではないかと思える。オリジナルの表題のほうがもう少しわかりやすいだろうか。"Why We Do What We do"「なぜ私たちは私たちがすることをするのか?」謎のような表題である。意味合いとしては、「私たち自身が何かをするのはなぜなのか」だろう。副題には"Understanding Self-Motivation"「自身の動機づけを理解すること」とある。訳書の副題は「内発と自律のすすめ」とある。表題が訴えていることは、何かを行動するときのモチベーションを外から得るのではなく、自分自身で生み出す、ということだ。「内発」にはその含みがあり、そして、その結果が「自律」であり、内発行為の結果に責務を持つ生き方を論じている。少し勇み足な言い方になるが、それが教育の本質であるということでもある。
 多くの自己啓発書は、動機、モチベーションのコツを語る。本書は、そのまったくといっていいほどの逆で、動機・モチベーションは人の内面から生まれるものではくては意味がないというのだ。もっと言えば、自分らしく生きるなら、モチベーションのコツを解く自己啓発書をすべて放り出す必要がある。実際この本はおだやかに淡々と叙述されているようで、驚くほど大胆な主張をしている。アメとムチの人の制御を否定しているし、スキナー流の行動分析についても根底から否定している。報酬が与えられると人は内発を失うという単純なことが書かれているだけだが、それに納得できる人は少ない。本書は、そうした現代風の常識の催眠を解く効果があると言っていいかもしれない。さらに、本書は、外的なあらゆるモチベーションを否定する。
 ある意味とても単純なことだ。

 私は内的動機づけの経験それ自体に価値があると信じている。バラの香りをかぐこと、ジグソーパズルに熱中すること、日差しが雲にきらめくのをしみじみ眺めること、ワクワクしながら山頂にたどり着くこと、これらの体験を正当化するために何かを生み出す必要はない。そのような経験のない人生は人生ではないとさえ言えるかもしれない。

 本書は心理学の、なかでも学習についての書籍なのだが、試験を賞罰のように使うことを否定している。いかに学習を進めるかということと、学習者を評価し統制することは根本的に違う。「人にもっと何かをさせようとしてほめていないだろうか。他者を巧妙に統制しようとはしていないだろうか。」こうした根本的な疑問を本書は喚起する。
 凡庸なお説教のようにも思える本書を丹念に読んでいくと、いろいろと発見がある。おそらく本書は一読して終わる本ではない。そうした私の発見の一つは、自我関与と承認である。
 自我関与(Ego involvement)は、「自分に価値があると感じられるかどうかが、特定の結果に依存しているプロセスのことを指す。」 そして「自我関与は、他者から随伴的に評価されるときに発達するもので、それは価値や規範の取り入れ密接な関係にある」具体的には、「自我関与をしていると、自分が他者にどう見られているかが焦点になる。」これは、現代の承認の問題と重なるだろう。
 自我関与の原点は、自己の感覚の希薄さによるものだ。自分の感覚を自分のものとして受け取ることができない。それは自分の感覚だけがもたらす経験を生きていないからだ。本書は、「自分に失敗してもいいよと言いきかせなさい(Allow yourself to fail )」という言葉を引いている。
 本書の口調ではないが、極論すれば人はわがままに生きていい。そのわがままがもたらす必然的な結果(特に社会的な結果)に責務を持てばいい。私はもう少し言いたい。根拠がないと思えるルールはその結果に責任を持つなら破ってもかまわない。
 本書は内的な恐怖を受け入れる必要も述べている。自己破壊的な行動をやめるには、自分に能力がないこと、愛する人から捨てられること、死ぬべき運命であること、「それが何であれ、不健康な行動の源泉となっている感情を経験する覚悟ができなければならない」としている。こう言ってもいい。泣いてもいいし、怖がってもいい。その嫌な感情の経験を避けようだけはしてはいけない。
 本書にはさらに決定的な言葉がある。

 生きていることのほんとうの意味は、単に幸福を感じることではなく、さまざまな人間の感情を経験することである。

 The true meaning of being alive is not just to feel happy, but to experience the full range of human emotions.

 そして、「幸福感の追求が他の感情経験を妨げるとき、望ましくない結果が起きる可能性がある」。
 本書は、こうした人生の根源的な問題に気づいていない状態では、つまらない一冊でしかないだろう。しかし、この本は穏やかにみえて、深い内容を秘めているし、おそらくそのことに気がつくとき、自分の人生というものの感覚体験の確実さを志向するようになるだろう。
 あと、本書を読みながら、よくわからないなと思える部分があれば、英語の原書にあたったほうがいい場合もある。本書が気に入ったら、ペーパバックスも手元に置いておくいいだろう。気取りのないきれいな英文で書かれている。


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2017.12.31

[書評] スペリングの英語史(サイモン・ホロビン)

 『スペリングの英語史(サイモン・ホロビン)』(参照)という書名だけ最初見かけて、「あ、こりゃ読むっきゃないでしょ」と思った。実はこの春先のことだが、私はなにか取りつかれたように、スペリングについての本を書いていた。一か月くらい没頭しただろうか。書きあがった。書名は『なぜFriendはFrendじゃないのか。I(アイ)は必要か』とかにしようかとも思った。なので、この手の本があれば、とにもかくにも読んでみようと思ったのだった。ところが。

 著者、サイモン・ホロビンって、Simon Horobinでしょ。あれ、この本、”Does Spelling Matter?” (参照)の訳本?と思った。原書で既読だったのである。先の本を書くときの資料の一つとして読んでいたのだった。
 ところで、その幻の私の本だが、どっかに売り込もうかなと思う以前に、書きあがったら、当初自分が考えていたことと考え方が変わってしまったのだった。「自分はもうそう考えないよ」とでもいうような本をこれから出版するというのは(出版先があるにせよ)というのはどうだろうかと疑問にぶち当たり、頓挫した。そして沈没。
 まあ、本を書いている過程でいろいろ勉強になったし、この問題に整理もついた。なにより、英語の形成史が自分なりによくわかった、ということでそれは終わりにした。
 ところで私がその本を書こうと思ったのは、英語のスペリングはめちゃくちゃだ、ということをまとめようとしたことだった。フォニックスなど、英語の発音とスペリングを整理する手法もあり、それでかなりの英語スペリングは整理できるという主張もあるが、いやいや、英語のスペリングは生易しいものではない。そのことは英語国民ですら理解していて、「これ、やばいんじゃね」と思っている。バーナード・ショーの逸話とも言われる”ghoti”が有名だが、彼自身も強く綴り字改革を望んでいた。が、失敗。ちなみに、私のその本ではその失敗の経緯や理由についてもくだくだ議論している。
 とま、くだくだと自分に引き付けて話をしてしまったが、この本は、オリジナルのタイトルからわかるように、「綴り字なんてそんなに大問題かあ?」という含みがある。序章ではこの問題に導入として触れている。
 そこから先、第一章からは年代順にスペリングの問題、つまり、英語のスペリングが混乱していく歴史的な背景について、これってクセジュ文庫か?という感じで話が淡々と進むのだけど、そうはいっても、個々の逸話は面白い。歴史的という意味では秩序付けて叙述されているが、英語の小ネタ集という趣があり、各ネタがけっこう読んでいて飽きない。英語が好きな人や英語教育の関係者はこの手の小ネタはできるだけ知っておくといいと思う。私の本の仮題にした”friend”のスペリングの謎についても言及がある(些細なことだが索引のページ対象がずれていたので改版時にはチェックしなおすといいのではないか)。
 本書の主張となる部分は、第八章にまとまっている。この部分だけ別刷りで読んでもいいくらいだ。さらっと書かれているが、言及されているマーシャ・ベルが本書の論敵ともなる人なので、本書に提示された主張については、対立する彼女の意見も読んでみるとよいだろう(というか私の本ではそうなっていた)。
 本書の主張については、私は必ずしも賛同しない。結語は違うよなあと思っている。まず、英語のスペリングが混乱してもコミュニケーション上実害はないとしているが、これは単純に違うでしょう。教育上大問題を起こしているのは明らか。
 そしてもう一つはここだ。

 最後に、私には、英語のスペリング改革の試みに抵抗し、伝統的なスペリングや黙字などを保持しようとするもう1つの理由があるように思われる。そのようなスペリングはわれわれの言語とその歴史の豊かさを証言するものであることだ。(後略)

 これは欺瞞だと私は思う。英語という言語は、本書でも歴史的経緯が触れられているが、英国英語と米国英語はスペリングでも分裂して統一はできない。正しいスペリングを求めようにも、英国英語と米国英語の統一など、もうできない。それでは、英国は英国語、米国は米国語とすべきにも思えるが、米国の文化はそもそも規範になじまないし(合衆国である)、英国は大英帝国の歴史からコモンウェルスの英語を背負い込んでいて米国英語に妥協する気はない(おそらく英国には米国をコモンウェルスに位置付けたい無意識があるだろう)。つまり、「英語」と雑駁にまとめて同じ言語のように見せるなら、歴史の豊かさという修辞でも言うほかはない。

 もう一つの欺瞞については、フランス語との対比で考えるとよい。本書ではまったく言及がないわけではないが、ドイツ語での綴り字改革には触れているものの、フランスのそれには具体的な言及はない。しかし、フランス語は主に教育改革のために、フランス語の綴り字改革を推進している(そしてすごい問題を起こしてもいるが)。
 さらに、英語という言語は、実質フランス語のピジン言語であったという視点で見るなら、英語は本質的にアンビバレントな状態にありつづけた。この特性は現代英語にもある。” milieu”が典型的だが、英語ではわざわざフランス語の単語を外来語としている。あと、余談っぽい批判になるが、本書におけるラテン語書字の解説にも学問的にやや怪しげなところがある(uとvの説明など)。
 なんだか幻の関連書を書いた経緯から本書につかっかたような言及になってしまったが、本書が面白いことには変わりはないし、そもそも学校教育の英語では、英語のスペリングが異常だということは教えられていないので、そうした理解を深めるのにも本書はよいだろう。
 個人的には、自分の本を書いた後、放送大学でラテン語入門を聴講し、またアンスティチュなどでフランス語を学ぶようになってから、英語の書字については、ラテン語とフランス語の知識が不可欠だろうとも思うようになった。英語の綴り字の混乱は、英語の豊かな歴史とかいう修辞では収まりそうにない。


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