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2018.07.30

ただ恋があるだけかもしれない

 LGBTは、性的マイノリティー(性的少数者)とも見られることがあるが、定義上は違うようだ。概念的には、性的マイノリティーのなかにLGBTが含まれるのだろう。では、その差分は何か。あるいは、LGBTにさらにIやQをつなげてその概念を拡張することもあるようだが、その拡張が性的マイノリティーに至るのかというと、そう考えられるわけでもないだろう。とすれば、ある理想形としての差分がありそうにも思える。それはBDSMなど性的な嗜好を指すのかもしれないが、そもそもBDSMを性的な嗜好という嗜好の概念で捉えてよいかもわからない。PTSDなど何らかの要因が表面的に嗜好のように見えるものを形成しているだけかもしれない。映画『愛の嵐(Il Portiere di notte)』を連想するように。意外とこの問題は難しい。
 と書き出して、私は遠回しになにか異論を述べたいわけではない。
 あるいは、異論ということではないが、ただ恋があるだけかもしれない、という命題にとらわれている。
 つまり、恋というものが生じてその対象が同性であることもある、ということを考えてみたいのだ。もちろん、これは「だけ」という全称的な命題ではないのではないかとは疑っている。
 話をそこからLGBTの問題につなげてみる。まず、LGBTを差別してはいけないというのは、現代先進国の社会で自明といっていいだろう。そしてその結婚の権利や性的な自己同定も当然に市民権として確立されるべきだ。
 この議論の地点では散漫になりかねないが、では、兄弟姉妹婚はどうだろうか、とも思考実験的に考えてみる。ちょうど杉田水脈衆議院議員が今号の『新潮45』で展開した「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません」という話題にも重なる。
 この問題はそれほど難しくはないように思われる。親子婚は二人の関係に閉じるわけでもないので、市民法的な整理が必要であり、単純に認められるものではないだろう、ペット婚や機械婚については、そもそも人間が対象ではない。ある種のファンタジーの比喩であり、その意味では自分婚などに似た修辞と解するべきだろう。
 そうしてみると、意外と兄弟姉妹婚を禁じる合理的な理由はない。よく言われる遺伝子の問題は、それこそが優生思想そのものだろう。
 話をLGBTと差別の問題に戻すと、LGBTを差別するなというとき、現状では、まず、LGBTなる個があり、それが社会的にマイノリティーの個人(individual) であるというスキームを含んでいる。そしてその想定があるなら、そこの地点で「ただ恋があるだけかもしれない」という別の想定は、完全な違和ではないものの、ある程度の対立を形成するだろう。
 どういうことだろうか。
 まず、LGBTは、暗黙に性的な「嗜好」と分離されているように、個人の嗜好ではなく、駄洒落のようだが「志向」であり、おそらく、その志向は実際には遺伝子的なレベルで傾向として決められているだろう。ただし奇妙なのは、行動分析学の歴史などを見るとそれゆえにその科学をもって矯正することも自己決定に含める議論もあった。この問題はここでは立ち入らない。
 遺伝子的な傾向とする考え方は、LGBTなる個があるのだという考え方に親和的である。が、現象としては、単にLGBTがあるだけであり、それは先の対立の曖昧な点が関連するように、「ただ恋があるだけかもしれない」という結果も含みうる。簡単にいえば、恋した相手が結果的に同性であるとことだ。原理的に考えるなら、恋そのものがB、つまり両性愛的な本質を持つか、可能性を持つとしてもよいだろう。
 議論がここでまた多少散漫になるが、いわゆる性的マジョリティーが異性に惹かれるのは、本能的・遺伝子的な特性の反映として見てよいだろうし、その考え方は、LGBTを個体的に考える考え方と親和的でもある。
 こうした本能的・遺伝子的な特性の反映は、しかし、どのように人の心のなかで(心的現象として)生じるかは、あまり自明ではない。それは美の魅惑として現れるのかもしれない。簡単であまり品のない比喩でいうなら、男が美女に惹かれるのはそういうことだ、ということだ。女がイケメンやあるいは肉付きや手の形に惹かれるのも同じだろう。そうした美の感覚が性と曖昧に合わせられたとき、人が恋することは多い。LGBTでもすでにこの流れで見てきたように同じ枠組みでも捉えられるだろう。
 しかし実際に恋の内側に入ったことのある人間なら、そうした美の魅惑というのは、さほど重要性はないとも知っているだろう。思想家吉本隆明は、性にまつわる美醜の問題は、人類の最終的な問題に関わる困難性があるとしていたが同時に、人の距離の問題だともして、ある親密性のなかでは美醜は問われなくなることに注視していた。
 恋が自覚されるとき、その恋の始まりにあったかもしれない美と性の感覚は、恋の強い情熱に置き換わりうるだろうし、そのことが美醜を超えるように、おそらく性差も超えてしまう。ただ恋があるだけかもしれないというのはそういうことでもある。
 それでも、恋は、そうした美醜を入り口にするのかといえば、多くはそうだろうし、それは人間という種の本能にも関連するだろうが、他方、恋それ自体は、必ずしもそこに限定されない。
 この意味はなんだろうか。
 一つには、LGBTを差別してはいけないという自明性に別の光を与えるだろう。恋があるだけかもしれないということは、LGBTの差別がそもそもないことを前提にしているからだ。
 では、この恋というものは、視覚的な美醜を超えた、本質的に不可視なものだろうか。それはあたかも、「心でしか見ることができない。本質的なるものは目には見えない(On ne voit bien qu'avec le coeur, l'essentiel est invisible pour les yeux.)」ということだろうか。
 であるなら、恋はその対象に概念的な神や二次元像などを象徴する対象をも含むものだろうか。しかし、それらと婚姻関係を結びたいというなら、比喩でないなら、そこに人格性はない。
 婚姻的な関係を結びたいというな欲望、おそらく恋のもつ欲望というものが、性を超えたとしても、人の肉体を志向していることは確かだろう。それを抱きしめたいという欲望だ。
 それはおそらく、原初的に恋というものから始まるのではなく、また美醜感覚から始まりうるとしても、他方、友愛という感覚からも始まるものだろう。友愛のなかに、抱きしめたいという思いがあり、それがさらに身体的・肉体的なある耐え難たいほどどの合一的な欲望に、友愛と恋の差があるのだろう。
 もしそうなら、この差別をなくすということは、単に自明というだけでなく、声高に叫ばれるものでもないかもしれない。私たちの間に、友としてハグしあうことのない友愛がないなら、その差別はありえないものかもしれない。
 むしろ友愛の基礎に、ある市民的な感覚があれば、LGBTなどの差別がなくなることの自明な根もありうるのではないか。それは、ハグしあうこの以前の形態でいうなら、ある種の市民的なコミュニケーションでもあるだろう。
 私はここで先の目には見えないというくだりで連想した『星の王子さま』の狐と王子様の下りを思い出す。「もし君が僕をアプリボワゼするなら、僕たちは互いに必要になる。君は僕にとってかけがえのない存在になる。(Mais, si tu m’apprivoises, nous aurons besoin l’un de l’autre. Tu seras pour moi unique au monde.)」
 「アプリボワゼ」は、一般的には飼いならすということだし、このくだりでも、野生の狐を飼いならす含みはある。そして、その含みは人格的に対等な関係ではないようにも思われる。が、ここでの「アプリボワゼ」の結果は人格的な、恋ともいえる関係性の基礎であることを示している。
 そのことにもしかして真理があるとするなら、私たちは、 アプリボワゼする可能性としての市民による社会というものを構想する必要があるだろう。そのなかでは、差別はそれ自体が自明に存続することはなくなるだろう。


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