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2018.07.15

江戸川区ツイッター集団自殺事件で思ったこと

 東京江戸川区の住宅二階で13日夜、男性1人、女性3人、性別不明1人、計5人の遺体が発見された。室内には練炭があり窓も目張りされていたことから集団自殺だと見らる。報道によれば、13日昼ごろ、神奈川県の20代女性から「ツイッターで知り合った東京江戸川区に住む男性が自殺しようとしている」と神奈川県警に連絡が入り、今回の集団自殺が発覚したようだ。こうした経緯から、5人もまたツイッターで知り合ったものだろうと推測される。また死後2日は放置されていたらしい。
 もう一日早い発覚もありえた。報道によると、12日の時点でも住宅の男性が自殺をほのめかしているとの通報が知り合いから入り、警官が住宅を訪した。が、電気は消え鍵はかかっていて返事もなく、警官は引き返した。救命という点ではすでに手遅れであれ、この時点で異変が察知できたかもしれない。発覚が遅れたのは、この数日の猛暑を考慮すると、死体の腐敗臭がかなりあったからかもしれない。
 死者の1名の性別不明というのは誰もが疑問に思う点でもあるが、さすがに腐敗によるものではないだろうから、なんらかの背景があるのだろう。
 さて、本日15日、執筆時点はワールドカップ決勝戦待ち(とはいえ私はサッカーに関心はない)。この時点で、江戸川区ツイッター集団自殺事件で思ったことについて触れておきたい。
 一番気になっていることは、すでにこの事件のその後の報道はなく、ネット特にツイッターでももはや話題から消えていることである。自殺報道は控えるべきだということでメディアが自粛している面はあるだろうが、ネットでの無関心さは、このタイプのネットを通じた集団自殺が陳腐であるからだろう。もはや消費できるほどの物語がないとも言えるだろう。
 さらに別の言い方をすれば、人々がネットを通じた集団自殺に関心をもたない時代になったということだ。ツイッターなどネットは、集団自殺向けの凡庸なプラットフォームになったのだろう。
 それはもう一段踏み込んで、どういうことなのだろうか。
 その前に。実は、この事件に際して、私はちょっと関連情報をツイッターを検索してみた。すると、集団自殺をほのめかすツイートを見かけた。それが今回の事件かということの確証はないが、それらしい雰囲気はあった。そのツイートは他の人に関心持たれているふうでもないので、私が拡散するのもよくないだろうとも思った。また、すでに数日過ぎているので、自殺予告とも受け取れない。もっとも事前であれ、私がツイッター社に通報すべきものなのかは判断ができなかっただろう。
 ということで改めて気がついたのだが、今回の集団自殺は、ネットを使って自殺希望者を募ったという面もあるが、ネット、特にツイッターによって発覚したという側面もある。できることなら、集団自殺が遂行される前に発覚されたほうがよかっただろうが、それでもツイッターが事件を知らせたという側面もある。
 現状のツイッターの仕組みでは、自殺予告のようなツイートは個々の利用者の判断でツイッター社に通報され、ツイッター社の判断でその後が処理される仕組みになっている。しかし、こうした一対一の通知モデルよりは、ツイッターを使った交流と関心のクラスター分析をして(特にそのクラスターで感度のよい利用者に着目し)、クラスターでの異変を人工知能的に吸い上げることはできなものだろうか。人工知能にすべてまかせるのではなく、いわばサイバー民生委員のような仕組みでもよいかもしれない。
 人がなぜ集団自殺を望むのかについて私は共感的には理解できないが、すでに陳腐な社会現象になっていると言っていいだろう。だが同時に、それを抑制する機能の可能性も内在しているに違いない。


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