死刑をなくすということ
私が死刑廃止論者になったのは、21世紀に入ってからである。というのも、2001年の附属池田小事件がきっかけだったからだ。この事件で無防備な小学生8人を殺害した宅間守に彼の望みである死刑を与えてはいけないと思った。この人間を自然に命尽きるまで生かせて、その口から自らの意思で悔恨の言葉を公にするのを聞きたい、そして、その命が尽きるまでその罪に苦しんでほしいと思ったからだ。
こう言ってもいい。死を決意するならなんでもできるというときでも、人を殺すこともできる、ということはない。人が自死を決意することはその人の自由だろうが、その自分の死に他者の命を釣り合わせてはいけないと。
そうして死刑廃止論者としての自分というものを受け止めて、21世紀を生きててはや、十数年。おりおりに思うことがある。最近では、3つ思った。
1つは、死刑廃止論をリベラル思想だから嫌悪するという考え方に違和感を覚えたことだ。オウム真理教事件での死刑についてネットでなんどか見かけたのだが、死刑廃止論者を欧州のリベラル思想にかられただけで、日本人には日本人の考えがあって死刑を存続してよいという思想の表明があった。別段、人がどのような思想を持ってもいいだろうし、確かに日本の現状を見れば、日本国民の大半は死刑存続を望んでいるというのは事実だろう。そしてそれを上から目線のリベラル思想で批判するというのも正しいとは思えない。私の違和感は、リベラル思想なるものがあって、死刑廃止論があるという連結である。私は、これは逆だと思う。リベラルな思想、つまり、人間を自由にするという思想は常に開かれている。ある公理のようなものから導かれる同義反復のような命題ではない。市民一人ひとりが、多様な理由から自分は死刑を望まないのだと考えるようになる状態が結果的にリベラルというものだろういうくらいだ。「リベラル思想が」という主語に支配された思想は不要だろう。
2つめは、私もさすがに自分のトラウマのスイッチを押しそうで想像の限界を超えている松戸女児殺害事件などで、こうした犯罪には死刑で望むしかないといった考え方を見かけたときの違和感だった。こう一般化できる。「私は死刑廃止論者だが、この事件については死刑で臨むしかない」という考え方だ。死刑廃止に留保をつける考え方である。ものごと極端すぎる考えはそれ自体が間違いであることが多いが、この考え方については、「それぜんぜん死刑廃止論じゃないから」と私は思った。つまるところ、極刑としての死刑の効力を維持したいという思想に変わらない。これに関連して決まりきったお題として、「死刑廃止というがお前の家族が殺されても死刑を望まないのか」というのがある。それもまた死刑存続の思想の一つの基盤だろうし、そう考える人もいるだろう。だが、現実の事件を見ていけば、家族が殺された人でも犯人の死刑を望まない人はいる。その人の思いに、「それでも死刑を望まないのか」と、上から目線というようか、土足でずかずか入り込むようなというか、そういう思想は、好ましいものではない。「それでも死刑を望まないのか」という問い詰めについては、そう問える立場の人からその状況で聞きたいと思う。
3つめは、きっかけとしては低能先生事件で思ったことだ。上述にも関連しているし、犯罪抑止力についての議論などのように、実はシンプルな死刑廃止論の考え方でもある。と言いつつ、自分の思いとして表現すると奇妙なものになる。それは、自分には死刑という迂回した方法であっても他者を殺害することなんかできないんじゃないかという深い安堵感である。そう言ってしまえば、うまく通じないだろうと先取りして思うのでまさにためらうことだ。一般的に考えれば、死刑存続の心情と逆だからだ。どぎまぎと別の言葉をつむいでみる。自分が法を介してであれ他者の死を支配できるような正義というもの認めることができない。自分を究極のところで、自ら義としてはいけない。そんな感じだろうか。これは、すぐに連想するが、キリスト教な考えでもあるだろうが、自分としては、ああ、イエスはこういうことを言いたかったんだなという、理解の補助のように思えた。
ま、最近思ったのはそんなところ。
おまけといってはなんだが、ネットを見ていたら、死刑を廃止した欧州の国では、死刑は廃止しているのに、犯罪事件で犯人を射殺しているじゃないかというネタも見かけた。これについては、銃をもって臨む者には、銃で臨むのが公平だと私は考えている。そこはキリスト教的には考えない。パーで打たれたらパーで打ち返してよいだろうと思う。グーはないな。
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