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2018.07.04

ブログで語るということ

 事実上ブログを休止していた前の出来事になるのか、目黒での女児虐待死事件はあまりに痛ましく、というか、自分のトラウマのスイッチを押してパニックになりそうなくらいだった。ブロガーとしておよそ何か言及できるもんじゃないなと思っていた。ちょっと誇張するけど、ブログ休んでいるとこの問題について書かなくて楽、という感じもしていた。あれから、三ヶ月ほどたち、世相の話題からもあらかた消えたかにも見えるが、自分の心はというと、あまり変わらない。ただ、少し間接的に触れてみたいことがある。
 そういう思いがしたのは、イミダスというサイトの「女児虐待死事件から感じた危険な空気」(参照)というコラムを読んだことからだった。冒頭、ああ、それな、と思ったのだった。


 2018年3月に東京・目黒で起きた女児虐待死事件。児童相談所が関与していたにも関わらず、5歳の少女の命を守れなかったこの事件を受けて、児童相談所の虐待情報を警察と全件共有することを求める声が大きくなった。しかし、私はそのことに危機感を抱く。例えばハイティーンの子どもたち――特に虐待や困窮から生き延びるために万引きや性売買、犯罪に関わった少年少女は、警察による取り締まりやけん責を恐れて、ますます助けを求められなくなるからだ。

 背景はこういこと。

 保護のニーズが高まる夜間や土日祝日、年末年始に駆け込める公的機関は警察だけなので、「長期休暇の時や土日、夜間には『危険を感じたら警察に駆け込むんだよ』と子どもに言うしかない」といった学校教員などの声も聞く。実際には明らかな虐待があり、本人も保護を求めていて、学校から児童相談所に何度も虐待通告しても保護してもらえない中高生のケースはよくあるのだ。しかし警察は福祉施設ではなく、不適切な対応をされることが多い。
 例えば、父親に殴られて交番に駆け込んだ中高生に、警察官が「お巡りさんがお父さんに言ってあげるから」と言って親を呼んで叱り、親子とも家に帰すようなケースに私は何件も関わっている。そのことで虐待が更に悪化し、子どもはそれ以来、他人に相談ができなくなり警察も恐れるようになった。

 誰が悪いというわけではなく、警察というのは福祉施設ではない、ということだ。
 警察に福祉機能を持たせろという意見もあるかもしれないが、そのあたりで、どことなく論点が斜め上に走り出しているように思う。
 理路として考えるなら、虐待や苦境にある子どもたちを夜間や土日祝日、年末年始に対応できる専門の福祉設備が必要であるということになる。これは、公が負担にすることになるから、地表行政か国が対応せよ、ということになるだろう。それで正解のようにも思えるし、複雑に考えるまでもなく、正解なのかもしれない。同コラムでは、「「児童相談所の弁護士」ではなくて、「子どもの代理人」として活動できる専門家が必要だろう。」という結語にしていたが、それを制度にもっていくのは難しいだろう。
 そして、なんとなくという程度だが、それでも、そううまくはいかないんじゃないかという思いが残る。なんだろうか。
 ある事件があった事後の対応として、法的な「子供の代理人」は必要だが、問題の根は、むしろ事前にあり、それは、かなり根の深いものなんじゃないか。
 これで連想するのは、昨年秋の座間連続殺人事件である。これも痛ましい事件で、自分のトラウマスイッチではないが、ブログで触れられそうにもないなと思っていた。
 事件にはいろいろな側面がある。重要なのはこのような残虐な事件を再発させないような仕組みを作ることであり、この事件はどちらかというとサイコパス事件なので、Netflix『マインドハンター』のような対応が必要だろう。日本の警察にもすでにあるのかもしれないが。
 この文脈で連想されるのは、容疑者に面会していった人たちの内面である。単純化すれば、「一緒に死にたい」という他者を欲していたいうことだった。ちょっと変な表現になるようだが、それがその人たちの欲望だった。抑えがたいほどの欲望だっただろうか。あるいは、軽い気持ちであったかもしれない。が、その軽い気持ちには死に裏付けられた重さが潜んでいただろう。
 文脈というか関心点を整理すると、「自分の置かれた苦しい状況を誰にも語ることができない」「死を担保にして語る人が欲しい」ということだった。「運命の果実を分かち合いたい」ということかもしれない。
 別の言い方をすれば、見渡す範囲に人はいても誰にも語れない何かを抱えてしまったら、どうしたらいいのだろうか、ということだ。
 語ればいいじゃん、というには、誰にも通じはしないだろうということがわかっている。身の回りの声の届くところは狭いものだ。が、ネットなら拡大できるから、座間の事件のようなことも起こる。
 この「語れない」という感じをあえて語るとどんなものになるかという比喩的な存在が、かつては匿名掲示板であり、匿名掲示板がゴミメッセージの天敵で機能しなくなったのと対照的な、はてなの匿名ダイアリー(通称増田)だったと思う。大半は「釣り」であり、フィクションなのだが、そのフィクションの基本テーマも、一応おもてでは「語れない」である。そして、その天敵が、はてなブックマークという罵倒のネットワークシステムであり、これは、語れないことを語るのを結果的に禁じるための、メタ的なマウンティングの螺旋を描いている。それはどこまでも終わりがないかに見える、現実世界を強制的に介入させるのでもなければ。
 ネットも語れない世界になってきている。この語れなさは、天敵としての炎上が対応しているかもしれない。
 連想ゲームのようだがその関連で心に残ったのは、GQというサイトのコラム「なぜ津田大介は炎上するのか?」(参照)というコラムだった。同記事では「炎上」しかも政治的な文脈での政治工作的な炎上が取り上げられているが、なんであれ異論的な意見を叩きのめしたい思い渦巻く世界が現在のネットだろう。コラムでは対応をこう述べている。

 炎上も日常化して慣れてしまえば、サウナみたいなものだ。いま言論人に求められているのは、日常的に接している「ネット世論」が組織的もしくは金銭的に著しく歪められているという事実を認識した上で、炎上を気にせず淡々と自身の意見を表明し続ける鈍感力を持つことであろう。その意味で、本誌のような紙媒体の役割も今後は重要になってくる。炎上が怖くてネットでは意見表明できない繊細な表現者たちをサポートできるのは、紙媒体だけだからだ。

 あくまで感覚的なものにすぎないので矛盾するが、「炎上を気にせず淡々と自身の意見を表明し続ける鈍感力」などというものは持てはしないだろうし、そうした、炎上に無敵な人の意見は、ブログにあるべきある種の繊細さ、つまり、それこそなんとかして伝えたい思いとは正反対のところにあるだろう。紙媒体は守ってはくれるだろうが、同様にその繊細は加工されてしまう。
 誰にも伝えられない思い、伝えようなものら袋叩きに合うだろうなと言う思い、匿名ブログに逃げ込みたくなるような思い、でも、それもまたためらうかすかな均衡でブロガーは何を語るだろうか。というか、そのようなわずかな空間だけでしか、ブログの意味はもうないんじゃないか。

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