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2018.07.03

『ごんぎつね』が嫌い

 たぶん、世の中、新美南吉作『ごんぎつね』という物語が嫌いだという人は、私に限らず少なくないんじゃないかと思う。もちろん、多数は、その逆で、あの物語が好きだとか、感動したとか、あるんじゃないかとも思う。
 どこが嫌いかというと、いろいろ嫌いポイントがある。自分勝手に押し付けるいじけた愛情を自己正当化してしかも悲劇に持ち込むあたりも、うー、たまんなくなく嫌だ。が、それはさておき、今回も、嫌だなあとしばし思っていたことがある。
 すごくおばかなことをあえて言うのだが、ごんぎつねなんていないのである。どのようにいないかというと、まずもって二足歩行する狐はいない。
 いやいや、僕が読んだあるヴァージョンの挿絵がそうだったというだけで、ごんぎつねがかならずしも二足歩行であるとはかぎらないし、そこは、まあ、どうでもいいや。どうでもいいついでに言うと、ピーターラビットの二足歩行もちょっとどうかと思うぞ。
 ってか、このおばかな指摘をしたのは、そういう指摘って、おばかでしょ、という意味であえてしたのだが、では、人間並みというか、ある種高度AIのように人間的な感情と意識を持ったきつねが実在するのかというと、いるわけないじゃん。なのに、そういう指摘は、二足歩行のきつねありえねーというほどには、おばかな指摘とは思われていない。つまり、童話というか寓話というのはそういうお約束で成り立っているのだ、人間の社会を比喩しているのだ、よって、そういうお約束がおばかじゃないと仮定してだ、いやあ、ゆえに、この物語、ないっしょ、と思うのだ。
 このお約束では、兵十は、ごんが人間のような意識と感情をもった存在だと理解しているという虚構がある。まあ、その仮定は正しいよね。そうでなければ、ごんが射殺されたとき、人間が死んだかような感情移入するわけないんだから。まあ、犬が死んでも感情移入するのが普通だとも言えるには言えるだろうけど、ごんぎつねのシーンはペットの犬を愛したというより、対人的な情感でしょ。
 で、つまり、そこなのだ。今回、考えあぐねていた嫌いポイントがそこだ。兵十は、最初から家に忍び込んだ何者かをマスケット銃で射殺する気まんまんでいたということだ。そしてそれは成功するべく成功した。
 まるで、現代のアメリカ社会じゃん。
 日本人の心情って、銃はよくないじゃないかったのか。
 なのになんで、こんな銃社会みたいな話が感動の物語で、しかもあろうことか教科書にも載っているのだろうか。
 しかも、アメリカ社会の場合は一応、家庭は城なりだったか、英語で、"An Englishman's home (or occasionally, house) is his castle."というやつ。おっと、これアメリカじゃなくてイギリスか。
 ま、いずれ、アメリカ社会では、未知の不審者だから射殺OKという建前だが、ごんぎつねの世界だと、「こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。ようし。」って、最初からあきらかに人間意識をもったごんぎつねを射殺する気まんまんなのな。気に入らないやつは私的制裁で殺しちゃえっていうこと。
 これ、異民族の比喩と見るなら、民族虐殺の心理、まんまだよ。
 ひでーんじゃないの。
 なんであれ、相手に人間心理があり、コミュニケーション可能なら、まず、対話しろよ。後ろからナイフ刺すんじゃねーよ、あ、ナイフじゃないや、物語ではマスケット銃だったな。
 とま、手の込んだネタ、それほどでもないか、ネタ話であるのだが、昔の物語だし、日本でも猟師は銃を普通に持っていたということだから、子供の教育にいいかあ、というのはあるだろう。なにも、ローラ・インガルス・ワイルダーの名前を児童文学賞の名称から外すように新美南吉記の作品を教科書から除けとは思わない。
 それにしても、なんだろか、この、読み返すたびに、思い返すたびに、所々に嫌いポイントが浮かび上がってくる作品というのは。しかも、これ、嫌いだよ、で、すまされない、なんだろ、この嫌い感でマジョリティの日本人を微妙に敵に回している感っていうのは。

 

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