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2018.07.05

非モテとインセルの違いについて

 ブログを書いていると、知りもしない話題をブログ記事なんかに書くなという罵倒をもらうことがある。しばしばある。というか、この手のナイス・マウンティングは実際にはもう制度化していて、まさか罵倒している本人もそうした思想制度に絡め取られているんじゃねーのといったメタ・マウンティング返しをしていると、ほらぁ、はてな的世界の螺旋地獄はとまらなくなるし、あー、ここは、はてなじゃねーよ。
 と切り出したのは、この螺旋マウント地獄のノリがはてなっぽいんじゃないかと思えたこともあるが、こうした一種の対話的な機能が、はたからは地獄に見えても、他面では低能先生の実効をそれまで抑止していた対話機能なんじゃないかと思うからで、そこの点が、非モテとインセルの大きな違いなんじゃないかというのが、この記事の結論で、それだけでわかった人は以下読む必要はないんだけど。あと、この記事が何言っているのか、まるでわからないという人も読む必要ありません。
 で。
 話をするには、非モテとはなにか、インセルとはなにか、なんでここではてなが絡んでくんだを書く必要があるのだけど、面倒くさいので粗雑に端折ると、とりあえず、非モテというのは、異性にモテないという自意識さん、インセルというのは主に男性で女性にモテないことから女性バッシングをしちゃう人。このインセルが欧米社会というか、特に米国社会で問題になり、かなりよらかぬ事件を起こしている。事件のリストとかは、Wikipedeia(US)にあるので気になる人がいたら見ておくといい。そこには、暫定的な定義も含まれている。が、現状、インセルについて、きちんと社会学的に考察され評価の高い研究はなさげなので、ジャーナリズム的な揺れはあるし、こうした揺れがあると昨今のなんでも政局におとしこんだれフレームワークではトランプがどうたらアベがどうたらというトンチンカンなフレームワークが用意されたりもするが、ここでは概ねということで。
 こうした揺れのなかに、非モテ=インセル、的な視点もいくつか見かけるようになったし、通底する部分はあると思うし、その違いはありがちな日米文化論に吸着されもするだろうが、ええと、簡単に言うと、拠点的なネットのコミュニュティ機能によってその差は大きくなってきたんじゃね、培養されてきたというか。
 インセルでも非モテでも実際に社会問題として表出された影に、自己の内面とさらにネット・コミュニティの機能がある。インセルの場合は、すでに報道されているように、アルカイダのテロ・コミュニティーのようにアンダーグラウンドで差別しまくり発言による友愛連携が取られ、これがそのコミュニティ内部のノルムで舞い上がったのが社会に押し出されてしまい、酸鼻なインシデントということになった、ように見える。
 他方、非モテは、形態は似ていている。やはりネット・コミュニティーが大きな意味をもっているようだ。簡単にいうと、「自分が非モテ意識をもっているのは正当であり、社会や他者が間違っている」という思想の確認である。そんなアホなことが思想なのかというと、私はそれはそれほどアホでもないぞ、とは思う。実際に、自分に可視な部分だった非モテ思想は国際的なフェミニズムの議論とその矛盾にそれなりに精通していて、ゆえに、対抗はフェミニズムに向けられがちであり、その対応は諸フェミニズムに内在した問題でもあった。簡単に言うと、日本の非モテの核は知的であり、インセルが女性全般への憎悪に向かうのとは異なり、フェミニズムを仮想敵とする傾向があると思えた。
 もう少し延長すると、反フェミニズムで非モテの問題が解決されるのだろうかという根本的な疑問も湧くが、悪意で言うのではないが、傍観していると、ある種のフェミニストやリベラリストに言論でマウントするのが楽しくて、根幹問題には触れない印象がある。まあ、そこはよくわからんが。
 で、この非モテなんだが、これも印象論で雑駁に言うと(それなりに十年以上もヲチはしているが)、はてなが一つの拠点っぽい。もちろん、はてな全体は議論的に衰退していて、議論の場ではなくなり、小粒なブクマーの罵倒シナプス交換が主流で、その小粒さに適合したツイッターのほうが思想的な表出は多く、思想的な片鱗はそうしたもののtogetterになる。それでも歴史経緯・傾向としてのはてなはあるだろうし、むしろ、はてなの15年間が醸成したものだろう。自分もそうだが、17年くらい前、はてなを使っていたアーリーアダプターは技術造詣もあり、読書家も多く、ぶいぶい物をかけるくらいのインテリが多く、ニフティの思想、経済、歴史、文化論的なフォーラムなど知的フォーラムの継承的な若者、といっても20代後半に差し掛かる層がある理想型をなしていた。社会に出たが失われた時代で苦しめられるやアカデミズムに残ったが地獄が見えるといった若者。それが、おっさんになった。低能先生事件で一つの局面で重要なのははてな的というより、彼らがほぼ同年の40歳超えという点だった。かつては知的で希望のある若者だったのである。で、はてなはこうした層を対話的なコミュニティとして収容してはいた。つまり、インセルらの闇掲示板コミュニティ化はしなかったのである。
 とはいえ、はてなとはいえ、技術者は目立ったし、多数は凡庸な人々であり、そのあらゆる凡庸性の思想の成就として、「保育園落ちた日本死ね」と言えるように結婚して子供を持ち、社会憎悪のはてなから支援を受けるくらいのマジョリティとなった。さらにコミュニケーション機能としてのはてのキモさに耐えない人々はnote方面に逃げ出した。さらに他方の凡庸の中核部は、自己啓発系とかだが、それなりの理想型としての著名ネット言論人のサロン的なコミュニティに移行した。
 ま、そう見ました。
 社会的な問題水準でいうなら、非モテはインセル化するかというと、通底はしていても、基本的にはしないんじゃないの。非モテは解消されるかというと、これもしなさそう。はてな的な収容プラットフォームは社会的に機能するかというと、これも実は今が断末魔的な状況じゃんじゃないの。
 じゃあ、どうなるの? しいて言えば、思想化するだろうと思う。アート化してほしいとは願うけど。

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