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2018.07.30

ただ恋があるだけかもしれない

 LGBTは、性的マイノリティー(性的少数者)とも見られることがあるが、定義上は違うようだ。概念的には、性的マイノリティーのなかにLGBTが含まれるのだろう。では、その差分は何か。あるいは、LGBTにさらにIやQをつなげてその概念を拡張することもあるようだが、その拡張が性的マイノリティーに至るのかというと、そう考えられるわけでもないだろう。とすれば、ある理想形としての差分がありそうにも思える。それはBDSMなど性的な嗜好を指すのかもしれないが、そもそもBDSMを性的な嗜好という嗜好の概念で捉えてよいかもわからない。PTSDなど何らかの要因が表面的に嗜好のように見えるものを形成しているだけかもしれない。映画『愛の嵐(Il Portiere di notte)』を連想するように。意外とこの問題は難しい。
 と書き出して、私は遠回しになにか異論を述べたいわけではない。
 あるいは、異論ということではないが、ただ恋があるだけかもしれない、という命題にとらわれている。
 つまり、恋というものが生じてその対象が同性であることもある、ということを考えてみたいのだ。もちろん、これは「だけ」という全称的な命題ではないのではないかとは疑っている。
 話をそこからLGBTの問題につなげてみる。まず、LGBTを差別してはいけないというのは、現代先進国の社会で自明といっていいだろう。そしてその結婚の権利や性的な自己同定も当然に市民権として確立されるべきだ。
 この議論の地点では散漫になりかねないが、では、兄弟姉妹婚はどうだろうか、とも思考実験的に考えてみる。ちょうど杉田水脈衆議院議員が今号の『新潮45』で展開した「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません」という話題にも重なる。
 この問題はそれほど難しくはないように思われる。親子婚は二人の関係に閉じるわけでもないので、市民法的な整理が必要であり、単純に認められるものではないだろう、ペット婚や機械婚については、そもそも人間が対象ではない。ある種のファンタジーの比喩であり、その意味では自分婚などに似た修辞と解するべきだろう。
 そうしてみると、意外と兄弟姉妹婚を禁じる合理的な理由はない。よく言われる遺伝子の問題は、それこそが優生思想そのものだろう。
 話をLGBTと差別の問題に戻すと、LGBTを差別するなというとき、現状では、まず、LGBTなる個があり、それが社会的にマイノリティーの個人(individual) であるというスキームを含んでいる。そしてその想定があるなら、そこの地点で「ただ恋があるだけかもしれない」という別の想定は、完全な違和ではないものの、ある程度の対立を形成するだろう。
 どういうことだろうか。
 まず、LGBTは、暗黙に性的な「嗜好」と分離されているように、個人の嗜好ではなく、駄洒落のようだが「志向」であり、おそらく、その志向は実際には遺伝子的なレベルで傾向として決められているだろう。ただし奇妙なのは、行動分析学の歴史などを見るとそれゆえにその科学をもって矯正することも自己決定に含める議論もあった。この問題はここでは立ち入らない。
 遺伝子的な傾向とする考え方は、LGBTなる個があるのだという考え方に親和的である。が、現象としては、単にLGBTがあるだけであり、それは先の対立の曖昧な点が関連するように、「ただ恋があるだけかもしれない」という結果も含みうる。簡単にいえば、恋した相手が結果的に同性であるとことだ。原理的に考えるなら、恋そのものがB、つまり両性愛的な本質を持つか、可能性を持つとしてもよいだろう。
 議論がここでまた多少散漫になるが、いわゆる性的マジョリティーが異性に惹かれるのは、本能的・遺伝子的な特性の反映として見てよいだろうし、その考え方は、LGBTを個体的に考える考え方と親和的でもある。
 こうした本能的・遺伝子的な特性の反映は、しかし、どのように人の心のなかで(心的現象として)生じるかは、あまり自明ではない。それは美の魅惑として現れるのかもしれない。簡単であまり品のない比喩でいうなら、男が美女に惹かれるのはそういうことだ、ということだ。女がイケメンやあるいは肉付きや手の形に惹かれるのも同じだろう。そうした美の感覚が性と曖昧に合わせられたとき、人が恋することは多い。LGBTでもすでにこの流れで見てきたように同じ枠組みでも捉えられるだろう。
 しかし実際に恋の内側に入ったことのある人間なら、そうした美の魅惑というのは、さほど重要性はないとも知っているだろう。思想家吉本隆明は、性にまつわる美醜の問題は、人類の最終的な問題に関わる困難性があるとしていたが同時に、人の距離の問題だともして、ある親密性のなかでは美醜は問われなくなることに注視していた。
 恋が自覚されるとき、その恋の始まりにあったかもしれない美と性の感覚は、恋の強い情熱に置き換わりうるだろうし、そのことが美醜を超えるように、おそらく性差も超えてしまう。ただ恋があるだけかもしれないというのはそういうことでもある。
 それでも、恋は、そうした美醜を入り口にするのかといえば、多くはそうだろうし、それは人間という種の本能にも関連するだろうが、他方、恋それ自体は、必ずしもそこに限定されない。
 この意味はなんだろうか。
 一つには、LGBTを差別してはいけないという自明性に別の光を与えるだろう。恋があるだけかもしれないということは、LGBTの差別がそもそもないことを前提にしているからだ。
 では、この恋というものは、視覚的な美醜を超えた、本質的に不可視なものだろうか。それはあたかも、「心でしか見ることができない。本質的なるものは目には見えない(On ne voit bien qu'avec le coeur, l'essentiel est invisible pour les yeux.)」ということだろうか。
 であるなら、恋はその対象に概念的な神や二次元像などを象徴する対象をも含むものだろうか。しかし、それらと婚姻関係を結びたいというなら、比喩でないなら、そこに人格性はない。
 婚姻的な関係を結びたいというな欲望、おそらく恋のもつ欲望というものが、性を超えたとしても、人の肉体を志向していることは確かだろう。それを抱きしめたいという欲望だ。
 それはおそらく、原初的に恋というものから始まるのではなく、また美醜感覚から始まりうるとしても、他方、友愛という感覚からも始まるものだろう。友愛のなかに、抱きしめたいという思いがあり、それがさらに身体的・肉体的なある耐え難たいほどどの合一的な欲望に、友愛と恋の差があるのだろう。
 もしそうなら、この差別をなくすということは、単に自明というだけでなく、声高に叫ばれるものでもないかもしれない。私たちの間に、友としてハグしあうことのない友愛がないなら、その差別はありえないものかもしれない。
 むしろ友愛の基礎に、ある市民的な感覚があれば、LGBTなどの差別がなくなることの自明な根もありうるのではないか。それは、ハグしあうこの以前の形態でいうなら、ある種の市民的なコミュニケーションでもあるだろう。
 私はここで先の目には見えないというくだりで連想した『星の王子さま』の狐と王子様の下りを思い出す。「もし君が僕をアプリボワゼするなら、僕たちは互いに必要になる。君は僕にとってかけがえのない存在になる。(Mais, si tu m’apprivoises, nous aurons besoin l’un de l’autre. Tu seras pour moi unique au monde.)」
 「アプリボワゼ」は、一般的には飼いならすということだし、このくだりでも、野生の狐を飼いならす含みはある。そして、その含みは人格的に対等な関係ではないようにも思われる。が、ここでの「アプリボワゼ」の結果は人格的な、恋ともいえる関係性の基礎であることを示している。
 そのことにもしかして真理があるとするなら、私たちは、 アプリボワゼする可能性としての市民による社会というものを構想する必要があるだろう。そのなかでは、差別はそれ自体が自明に存続することはなくなるだろう。


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2018.07.27

やまもといちろう氏のツイッターアカウント凍結で思ったこと

 ブログの話題でもないかもしれないし、私が取り上げる話題でもないだろう、そもそもそれほどたいした話題でもないんじゃないかか、と思い数日過ごしていたが、日本のブログのブログの歴史を振り返ってみると、というのも大げさだが(アルファブロガーなんちゃら)、案外私もコメントしておいてもいいかもしれないと思い直し、わずかだが、やまもといちろう氏のツイッターアカウント凍結で思ったことを簡単に書いておく。凍結というのは、発言禁止ということ、「おまえここでこれ以上、つぶやくなよ」ということ。なお、気取るわけでもないが、この話、あくまで日本のブログ史の資料程度ものであって、同氏への関心というものでもないので、そこはそういうことで。
 そもそもこれがニュースなのか、つまり、ツイッターのいちアカウント凍結がニュースなのかというと、普通は、その凍結された人の重要性が問われるだろう。そうした意味で、やまもといちろう氏が、過去凍結された、例えば、ノイホイこと菅野完氏の凍結より重要なのかという議論はあるだろう。私自身はノイホイ氏に関心ないので、へえ凍結ねえと思った程度ではあった。その後同氏については、いくどの凍結措置にもめげずに、スタッフアカウントや別アカウントで対応し、たぶん現在のアカウントは、凍結されていないのではないか(最近の活動は知らない。私がブロックされているのかもしれない。余談だが、私は敬愛する内田樹先生などけっこうな著名人からなぜかブロックされている)。つまり、凍結されてもアカウント作り直せばいいんじゃんということを同氏は証明したとも言える。ちなみにその関連で言えば、やまもと氏はツイッターにゲーム批評用の別アカウントを持っているが、そちらは凍結されていないにもかかわらず、24日以降のツイートはない。氏としての、ツイッター社への意識の現れかもしれない。
 さて、やまもといちろう氏はというと、まあ、個人的に懇意にしているということもないが、結果として日本のブログの歩みの古参兵として知るくらいはあり、それもこの年月となると積み重なるものがあるので、同氏の凍結を聞いたときは、ほぉという以上の感想を持った。情報化統括責任者補佐官の楠正憲氏もツイッターで24日「なんか @kirik のアカウントが凍結されているみたいですが、何が原因なのかTwitter社が伝えるのか気になりますね。アレとコレを消せとかいわれるのでしょうか?フェイクニュースと同じくらいプラットフォーマーの中立性に興味があるので、Twitterに透明性があるのかwkwkしますね」とつぶやいていたが、私も同感で、つまりそういうことだ。どうでもいいが、楠さん、すっげー肩書だなあ。やまもとさんもなんか偉そうな肩書があったかと思うが忘れた。
 話の概要は、ITmedia Newsの24日の記事「山本一郎さんのTwitterアカウント、凍結される」にすでに書かれている。凍結理由についても、やまもと氏のフェースブックでのつぶやきを引いて推測している。それは、「なんかTwitterのメイン垢が乗っ取られたとか通報があったが、何だか良く分からんw」「『ぶち殺すぞ』と書いたら凍結されました。暑いからなあ」というものだ。
 ツイッター社は今年の3月15日のアナウンスのツイート「Twitterルールに違反したことでアカウントが凍結になった場合、どのツイートがどのルールに違反しているのかを、メールにて、より具体的にご連絡するようにいたします。なお、メールには異議申立てを行われる際のリンクもご案内しています」としているので、すでにやまもと氏へは、凍結理由と違反ツイートの情報があると思われる。その上での先のフェースブックの発言があるのだから、端的に言えば、冗談であれ「ぶち殺すぞ」とツイートしちゃだめですよ、ということだろう。
 つまるところ、ことはそんだけと言えば、そんだけとも言える。小学校で、廊下を走るのはやめましょう的な何かだ。なので、今日あたり、ノイホイ氏とは異なり、味噌汁で顔洗ってきました的に愉快にアカウントが復活しているんじゃないかとも期待する。
 で、そうでないなら、なんだろうか?
 そうでない理由を考えるまでもないことだし、それを考えるなら凍結が継続してから考えるべきだろうが、先の楠氏のツイートにも戻る。
 どういうことかというと、ごく簡単にその線だけ言うなら、冗談であれ「ぶち殺す」と言えない場のような言論プラットフォームをやまもと氏は受け入れるのだろうか?という問題が今ある。
 個人的には、受け入れればいいんじゃないのと思う。私なんか、今では欺瞞臭がするくらいネットでの言葉遣いは丁寧にしているぞ、というか、私はニフティのシグオペでもあり、当時のネットのお約束くらいには飲み込んでいるつもりだ。もう少し延長すると、この欺瞞臭から察せられるように、私みたいなクズ野郎に暴言御免ってなれば、何言い出すかわからなあくらいのダークサイドの自覚はあり、ゆえにいわゆる意図された暴言・工作系の裏アカウントはしないことにしている。されらにいわゆる匿名発言(はてなの増田とかな)もしない。自分ルールである。こうした自分ルールは私みたいに自己信頼性のないふにゃけ野郎にとってはけっこう大切なことでもある。話が説教にそれたな。
 別の言い方をすると、現在のツイッターはけっこう「ぶち殺す」的な発言にあふれており、かつ、冗談ですらそうも言えないという言論空間になった。
 昨今のツイッターをどう評価するかというと、例えば、ポリタス運営の津田大介氏が、やまもと氏アカウント凍結の文脈ではないが同日のツイートにあった「いまのツイッターは嫌いです。クリエイターの人から「ツイッターやろうか迷ってるんだけど」と相談されたときには「絶対にやめた方がいい」と伝えてます」というように、価値のない言論空間になったという印象に共感する。もっとも、津田氏としては、関連ツイートに「本当に生産性を問題にするのなら、日本人4500万人の時間と関心をムダに奪っているツイッターを禁止すべきだと思う」とあるように、ツイッターの「生産性」での文脈で語ったものではあるが。
 論点が曖昧になってしまったので、強引にまとめるなら、ツイッターが言論プラットフォームとしてのある価値をもった時代は終わったし、やまもと氏の凍結はそうしたネット言論史を象徴する挿話になるんじゃないかということだ。
 というあたりで一息つく。
 実は、この記事を書き出したときの思いに触れておきたい。3つのことを思っていた。この世界の用語を使って言うなら、①ツイッターが滅菌されたなあ(これはつまり上述)、②垢バン攻撃くらったかな、③やまもといちろう砲がやらかしたんじゃないか、である。後者2つに簡単に言及したい。
 垢バン攻撃は、ツイッターでこいつのツイートは気に食わなねえというのを、いろいろなんくせつけて、「先生にいいつけてやる」的にツイッター社に報告して凍結に追い込むことである。この傾向は、いわゆるネットウヨとネットサヨの間でグループ的に活発に行われている。私なども著名人からブロックくらいまくってます系の人も垢バン攻撃があるしょと考えてよいだろう。というか、そういう傾向自体、ツイッターってくだらないなあというものに成り果てつつあるが、ツイッター先生そこはがんばってください。どうがんばるかよくわかんないけど。ちなみ、私も垢バンくらったら、「ざまあ」のご声援に反して一応は弁解はするかもしれないし、頭下げるの無料的にさらっとこなす欺瞞力を発揮するかもしれないが、たぶん、ツイッターはやめます。
 脱線すると、ツイッターで垢バンくらっても、まだこうしてブログで自由に書くことはできるんだし、ブログに戻る時期なんかもしれん。
 「やまもと砲」については、文春砲のもじりで、同氏の活動を見ている人にはわかるが、同氏の投資系・政治家系・IT経営者系のコネから得たネットにはない情報で、個人ジャーナリズム的に社会不正者に挑んでいくというのがある。かつて切込隊長と呼称していたころからの面目であるが(余談だが彼が切込隊長なのは元は野球好きから)、ビジネス的にも訴訟的にも恐れ知らずの印象はある。金づるで金玉縮こまらない強みであろうか羨ましいのお的な僻みがあるが、常人のできることではないという点で、文春砲個人バージョン化してもいる。それってブログじゃねーんじゃないというか、それがブログなのかよくわからない。米国的にはブログは日本のブログのように、「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」というものでもないようだし。
 いずれにせよ、個人ジャーナリズムとしてブログを考えるなら、やまもと氏のそれは、日本の風土では、ブログと文春みたいなプロとの境界でもあるのだろう。また、ブロガーがジャーナリズム的に振る舞えるとしても専門分野に限定されるであろう。し、そういう専門分野があれば、通常のジャーナリズムの専門分野とも変わらないかもしれない。
 もとの文脈に少し戻るなら、「やまもといちろう」氏はもう、ブロガーではなかったのかもしれない。

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2018.07.25

LGBTが子供を育てられる社会を

 杉田水脈衆院議員が『新潮45』8月号(新潮社)に掲載した「『LGBT』支援の度が過ぎる」という少コラムが、LGBTを差別しているということで非難する話題をネットでよく見かけた。すでに話題はネットを超えて議員への脅迫もあり、社会問題にもなってきている。
 LGBTの頭文字の解釈と定義は必ずしも明確ではないし、この4点に絞られるかも議論の余地があるが、ここでは以下のように理解したい。

L: レズビアン(女性同性愛者)
G: ゲイ(男性同性愛者)
B: バイセクシュアル(両性愛者)
T: トランスジェンダー(出生時診断性と自認性の不一致)

 LGBT差別は好ましくないことは自明と言ってもよいので、杉田議員への非難という話題としてはわかりやすい反面、少し踏み込むと、わかりにくい面がある。そもそも何が問題なのか。
 まず、該当コラムでもっとも非難されているのは次の部分と言ってよいだろう。


例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女たちは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 特徴的なのは、「生産性」という言葉がカッコ付けされていて、通常の生産性という意味からずらして使っているという含みがある。通常、生産性といえば、企業の生産性などを指すと理解してよいので、労働が惹起される。実際、今回の批判では、そうした理解で批判している人も見受けられた。
 しかし括弧された含みは、不妊治療や「彼ら彼女たちは子供を作らない」といった文脈化すると、Reproductive rightsのReproductiveに近いと理解してよいだろう。通常、同用語は「性と生殖に関する権利」が定訳語とされるように、生殖のもつ生産性の含みをあえて避ける形で理解されている。具体的には、中絶や受胎調節など女性の権利を指す。その点からすると、杉田議員の「生産性」が、Reproductive rightsのReproductiveとして理解されているかは必ずしも判然とはしない。
 とはいえ杉田議員の主張は、LGBTは生殖する能力がないのだから、子育て支援に関わる税金は好ましくないという主張のように見えながら、税による生活支援全体が不要であるかのような誘導も感じられる。前者の主張であれば、現実、LGBTに子育て支援されていることはほぼないだろうし、誘導された部分は、端的に市民差別であり、論外としてよいだろう。なお、他面、子育て家庭への税の支援は相対的には、非婚者からの税を再配分している現実もある。
 いずれにせよ、今回の話題について言えば、自明な批判で足りるのかというと、今回の話題のスコープではそれで十分であるようには思われるが、背景にある大きな問題は、むしろ、LGBTが子供を育てられる社会を私たちが形成していくことであり、それに積極な政策が重要になることだろう。つまり、杉田議員の、愚論といっていいだろう主張への批判は、LGBTが子供を育てられる社会への希求へと重心を移したほうがよいだろう。
 ドラマ『13の理由』や『スキャンダル』などでも見られるが、米国では、LGBTが子供を育てられる社会がすでに実現されているので、そこから日本の市民社会が学ぶことも多いだろう。
 あと一点、杉田議員のコラムを巡る話題では、冒頭触れたように、彼女への脅迫が起きている。どのような言論であり、脅迫が社会に表面化する状態は、言論の自由への危機を意味している。
 こうした正義の暴走は現在に限ったことではないが、嫌悪感が正義感に結びつき、その嫌悪対象を排除のための脅迫が実施される心理機構は、正義の自己満足があれ、差別意識と同質の心理機構を形成している。

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2018.07.18

[アニメ] ReLIFE

 ドラマやアニメを見た後、自然に評価してしまうクセを持つ人は少なくない。良かったか悪かったか。星で点をつけたり、百点満点なら何点とか。私はそういう評価には微妙な違和感があるし、そういうふうに作品を評価する人にも違和感がある。それでも、『宇宙よりも遠い場所』を見たときは、これはアニメとして完璧な作品というものだろう、100点かな、と思った。と同時に、そのことがこの作品の唯一の欠点だともなぜか思えた。逆の傾向を言うなら『いぬやしき』は良い作品だったとは思ったが、評点をつけると微妙な数値になるだろう。だが、この作品の何かは『宇宙よりも遠い場所』より優れていたような印象があった。評点ではわからない魅力があった。
 作品というのは、評価や評点という形で心に残るものではない。見終えたあと、奇妙に心に残る部分が、自分にとっての重要性というものだ。そうした重要性ということでは、『ReLIFE』は見ている途中からそして見終えてから、心に大きく残った。感動ではあるのだけど感動とも違う何かだった。そして通して4回見た。繰り返し見ずにはいられなかった。なぜ私がこの作品を繰り返し見ているのか。繰り返し見ながら、わかった。それは「私は日代千鶴に恋をした」というような何かだった。
 作中の人物が好きになるということはある。恋愛のような感情を抱くこともある。そういうことなのだろうかという自分の心を確かめたくもあった。どういうことなのか。なんどか見て自分の心に沈んできた。私は作中人物に恋をしたわけでもない。その恋に似た感情で、むしろ、恋というものの感覚を思い出そうとしている。まさに、自分がReLIFEという作品の虚構に刷り込まれていた。
 アニメ『ReLIFE』は、一度見た印象では特殊なものはない。絵としてのキャラクター設定は、よくあるタイプのそれに見える。主人公の海崎新太はむしろ凡庸だ。声優はすばらしい。が、すばらしい声優の作品は数多くある。フィクションとしての人物設定や世界観の設定もそれほど特殊性はない。一錠のカプセルを飲んだだけで10歳若返って見えるというのも、異世界ものに比べて特殊というものでもない。簡単に人の記憶が操作できるという設定はありえないとは思いつつ、作品の瑕疵ではない。魅了された日代千鶴もそれほど特殊な印象はない。
 が、魅了のある一線を超えたなと気がついたのは、首にある小さなほくろである。意図的に付けてあり、しかし、作品上はそのほくろを参照するシーンはない。だが、とても気になってくる。フェティッシュな感覚というのは自分にはないと思っていたのだが、その小さな首のほくろからリアルな人間の身体の思いが惹起され、なんというのか恥ずかしい言い方だが、キスしたいとでもいうような衝動がわきおこる。
 物語世界の説明は省略してもよいかと思ったが、簡単にしておく。時代は2012年ごろだろうか。その少し前か。第二次安倍内閣がリフレ政策を打ち出す前の新卒が地獄的だった日本である。主人公・海崎新太は、院卒後新卒で入社したブラック企業を三か月で退社したものの、再就職もできず、28歳にもなってバイトで食いつなぐニート生活で沈んでいる。その彼の前にある晩、なぞの若い男が現れ、ニートの社会復帰実験「リライフ」への被験者の誘いを持ちかける。実験内容は、特殊なカプセル薬の服用で10歳見栄えを若返らせ、エスカレーター校の私学高校に三年生として通うことだ。よくある「ファウスト」タイプの設定である。結果、学園生活のありがちなドラマが展開する。物語の視点は28歳のおっさんのそれになるのも自然だ。このあたりの初期設定やキャラ設定で、だいたい作品は決まってしまうので、私も最初の数話は、ありがちと思い、ぼけーっと見ていた。
 ReLIFEは当初ネットの広告モデルのオンライン漫画として発表された。2013年からというのでけっこう古いタイプの作品のようだが、終了したのは今年の3月で、オンライン版からコミック化された単行本の最終巻もまだ出ていない。
 アニメは2013年の夏期物の13話で当然、物語としてのエンディングを含んでいない。アニメ以降は、オンライン漫画の集結にシンクロさせるように、Blu-ray / DVDメディアで完結編全4話『ReLIFE 完結編』が発表された。先月あたりだっただろうか、Amazonでも見られるようになった。Netflixやdアニメのほうには完結編はない。
 物語の進展で、意図的だろうと思うが、視聴者はヒロインである日代千鶴にある仕掛けを感じ取る。13話目ではそれがあえて中途半端に暴露され、完結編を予感させる。完結編はそのある種のどんでん返し的な世界のなかで、4話では足りない、やや舌足らずな物語として進む。
 完結編を見ながら、伏線回収が奇妙に心にひかっかる。これは完結編を見てから、全体を見直すしかないと思い、実際見直すと、見事な伏線である。ドラマ『アフェア 情事の行方』を連想させるように、他者の視点から別の物語を見るような幻惑感がある。あまりネタバレにならないようにと思うが、そこには、最初から日代千鶴の物語があった。
 恋というものがなんであるかという問題は開かれている。定義も正解はないが、ここでひとつ思うのは、恋は世界を相手の視点に変えてしまうという奇跡的な力を持っていることだ。そうした経験がないのなら、恋とは言えないんじゃないかというようなある特殊な感覚によって、世界そのものが変わってしまう。あの感覚が、この作品に上手に仕組まれていたことがわかる。
 かくして4度見した。繰り返し見ることで、日代千鶴の呪縛というものから離れたくもあった。それは私の恋ではない。私の恋であった失われた感覚の記憶に近いものかもしれないとしても。

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2018.07.16

誰かと一緒に死にたいけど恋ではない何かについて

 江戸川区の集団自殺についてGoogleで24時間以内のニュースをそのキーワードで簡易に検索してみると何もなかった。このニュースはすぐに忘れられるだろうな。案の定というべきかと思いつつ、24時間限定でももう少し広域に検索してみると、15時間前とする時事のニュースが一件見つかり、読んでみるとまず時刻的には14日の1時だからこれも続報ということはなかった。が、若干自分に未知だった情報が記載されていた。練炭は3つ。集団自殺かは特定できていない。死亡時刻も死者の身元も不明。性別不明者は依然そのまま。性別が特定されている1人である男性は下着姿だった。その家の名義人の男性だと推測されている。
 おそらく男性は彼1人だっただろう。そして下着だったということは、暑かったからだろう。他の女性について、下着だったかといった情報はない。隠されているかもしれないし、詳細は不明だがが、死ぬ前に性交をしていたというような印象はない。女性たちはツイッターを通じて集まり、その訪問時の姿で死んでいたのだろう。彼らの誰ひとり、死後自分の死体が腐乱することへの配慮はなかったのだろう、と考えて、いや通報者は、案外、十分に死ねた時間を見計らって通報したという可能性もあるんじゃないかとふと思った。
 さて私は何に向き合っているのだろうか。
 率直に言うのだが、こんな記事でPV(閲覧数)を稼ごうという気はない(僕はブロガーであって文春だのヤフーだののサイトで書く気はないんだ)。その文脈で言うなら、僕はブログでもっと自分らしい思いを書きたいと思いつつある。ブログであれ公開に書くということは結局のところ誰かに自分を知ってほしいということには違いないが、多くの人に理解してほしいわけでもなく、まして「おまえも死ねよ」系のコメントが欲しいわけではないし、むしろいらない(さよならはてな)。この点(無意味な罵倒者)は、記事をわずかでも有料にすると避けられることは、ほぼ現状のネットの世界で確立しているが。
 この誰かに自分を知ってほしいという奇妙な欲望のようなもので、たぶん、僕と江戸川区の自殺者はつながっているような気がする。もう少し突き詰めるとそうでもないのかもしれない。が、誰にも自分の深奥を知られることもなく(スキャンダルは知られるものかもしれないなと昨日見た映画『二重生活』で思った。この映画については別の日でも書くかもしれない)、そのことは死ぬほど苦しいかといえば、そうだな、死ぬほど苦しい。露悪的に誇張しているわけでないが、深夜絶叫して目覚めるたびに自分の心が何を抱えているのか困惑する(この点はドラマ『雨が降ると君は優しい』で考えた。これも何か書くかも)。とはいえ、僕について言えば、当面死にたいとは思わないし、一緒に死んでほしい人がいてほしいとも思わない。集団自殺に向かう心理については、僕はわからない。が、そこにほのかに性的な何かを感じはする。それは、有名ブロガーとAV男優の事実上の結婚では感じ取れない性的な何かだ(ここは笑うところです、日代さん)。
 つまり、と、とりあえずつぶやく、それは恋ではない微妙な周辺を漂っている。そして、ここで僕は、そうだなあ、( ´Д`)y━-゚゚゚、いや電子たばこもしないが、昭和言葉の「集団心中」という言葉を昨今聞かないなあと思った。いやいや、それ、僕が専門にしている昭和言葉じゃない。10年くらい前まではまだあった言葉だ。ドクター・キリコ事件くらいからだっただろうか。いずれ、集団心中という言葉はもうほぼなくなった。心中という言葉の古臭い印象が嫌われたのか、その言葉の恋愛的な含みが嫌われたのか、単に教養を求める一億総無教養化の一貫で心中物古典が鑑賞されなくなってきたか。どうでもいいが、まあ、集団心中という言葉はないし、その集団性には恋のようで恋ではない何かが、ぬっとこの時代のなかに顕現しはじめている。
 そういえば、先程の検索で数時間前の事件として、相模原市緑区青根の林道に停車した車内で男2人と女1人の計3人が死亡していて、15日午後パトロールで発見された。助手席などに燃えた練炭が置いてあったので、親愛なる神奈川県警も集団自殺を疑うことができた。
 男が1人なら普通に心中だったかもしれない。そして、これはツイッターなどネットとは関係ないかもしれない。つまり、これは案外、例外かも。
 何の例外かというと、ネットを使った集団自殺である。この必要条件は、複数の女性ではないかと思うのだ。そう思うようになったのは、座間9遺体事件というか、座間でネット知り合った主に女性が複数殺害される昨年秋の事件だ。これについていろいろ考えていたのだが、あのころはブログに書かなかった。そういうのブログに書いていいものかよくわからなかったせいもある。
 座間の事件、結果としては殺人事件だが、視点の取り方ではネット集団自殺にも似ている。死にたいという女性をネットで呼び寄せいたという点だ。ただ、この事件は実際には集団ではなく、殺された女側の幻想としては、まさに心中といった一対一の死の幻想であり、どこかしら、恋愛的な性的な含みがある。
 これらの事件、とよべるほどの事例があるわけでもないが、大筋で言うなら、若い男性がネットを通じて心中という性の誘惑をするということで、その性的な親密性の疎外の度合い(一対一はつらい的な何か)で、集団化が規定できるのではないか。
 このあたりで、こうも思考実験してみる。ある非モテの男性が、もう非モテ人生ヤケクソ的な何かあたりがよいだろうか、ツイッターなどネットを通して集団自殺を呼びかける。女性は集まるだろうか。
 だめなんじゃないか。自殺したいとする女性(たぶん若い)は、心中で死にたいというときでも、男の面の確認するのではないか。「死にたい(イケメンに限る)」があるんじゃないだろうか。犬屋敷さんじゃだめ的な。そして、その心理機構は正常な惚れの心理機構と同じ、つまり、生得的な性行動の一環ではないか。
 いったい何が言いたいんだお前はというなら、僕は、こうした集団心理にまつわる性的な含みは、恋愛が恋愛であるべき、あるいは恋愛を必然的に疎外する何かと、本質的な関連をもっていて、そもそも「死にたい」という衝動や恋の衝動あるいは恋というものがこの世界に現れようとする存在論的な何かと、強い関係があるんじゃないか。
 というようなことです。
 と書いてみるテスト(古い表現で今の若い人には通じないだろうな)。

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2018.07.15

江戸川区ツイッター集団自殺事件で思ったこと

 東京江戸川区の住宅二階で13日夜、男性1人、女性3人、性別不明1人、計5人の遺体が発見された。室内には練炭があり窓も目張りされていたことから集団自殺だと見らる。報道によれば、13日昼ごろ、神奈川県の20代女性から「ツイッターで知り合った東京江戸川区に住む男性が自殺しようとしている」と神奈川県警に連絡が入り、今回の集団自殺が発覚したようだ。こうした経緯から、5人もまたツイッターで知り合ったものだろうと推測される。また死後2日は放置されていたらしい。
 もう一日早い発覚もありえた。報道によると、12日の時点でも住宅の男性が自殺をほのめかしているとの通報が知り合いから入り、警官が住宅を訪した。が、電気は消え鍵はかかっていて返事もなく、警官は引き返した。救命という点ではすでに手遅れであれ、この時点で異変が察知できたかもしれない。発覚が遅れたのは、この数日の猛暑を考慮すると、死体の腐敗臭がかなりあったからかもしれない。
 死者の1名の性別不明というのは誰もが疑問に思う点でもあるが、さすがに腐敗によるものではないだろうから、なんらかの背景があるのだろう。
 さて、本日15日、執筆時点はワールドカップ決勝戦待ち(とはいえ私はサッカーに関心はない)。この時点で、江戸川区ツイッター集団自殺事件で思ったことについて触れておきたい。
 一番気になっていることは、すでにこの事件のその後の報道はなく、ネット特にツイッターでももはや話題から消えていることである。自殺報道は控えるべきだということでメディアが自粛している面はあるだろうが、ネットでの無関心さは、このタイプのネットを通じた集団自殺が陳腐であるからだろう。もはや消費できるほどの物語がないとも言えるだろう。
 さらに別の言い方をすれば、人々がネットを通じた集団自殺に関心をもたない時代になったということだ。ツイッターなどネットは、集団自殺向けの凡庸なプラットフォームになったのだろう。
 それはもう一段踏み込んで、どういうことなのだろうか。
 その前に。実は、この事件に際して、私はちょっと関連情報をツイッターを検索してみた。すると、集団自殺をほのめかすツイートを見かけた。それが今回の事件かということの確証はないが、それらしい雰囲気はあった。そのツイートは他の人に関心持たれているふうでもないので、私が拡散するのもよくないだろうとも思った。また、すでに数日過ぎているので、自殺予告とも受け取れない。もっとも事前であれ、私がツイッター社に通報すべきものなのかは判断ができなかっただろう。
 ということで改めて気がついたのだが、今回の集団自殺は、ネットを使って自殺希望者を募ったという面もあるが、ネット、特にツイッターによって発覚したという側面もある。できることなら、集団自殺が遂行される前に発覚されたほうがよかっただろうが、それでもツイッターが事件を知らせたという側面もある。
 現状のツイッターの仕組みでは、自殺予告のようなツイートは個々の利用者の判断でツイッター社に通報され、ツイッター社の判断でその後が処理される仕組みになっている。しかし、こうした一対一の通知モデルよりは、ツイッターを使った交流と関心のクラスター分析をして(特にそのクラスターで感度のよい利用者に着目し)、クラスターでの異変を人工知能的に吸い上げることはできなものだろうか。人工知能にすべてまかせるのではなく、いわばサイバー民生委員のような仕組みでもよいかもしれない。
 人がなぜ集団自殺を望むのかについて私は共感的には理解できないが、すでに陳腐な社会現象になっていると言っていいだろう。だが同時に、それを抑制する機能の可能性も内在しているに違いない。


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2018.07.13

「平成30年7月豪雨」災害で思ったこと

 平成30年7月豪雨は現状200人近い死者を出す大災害となった。渦中から現在に至るまでいろいろと思うことはあるが、とりあえず3点だけ記しておきたいい。
 まず政府の責任は重いと思った。これはネットでよく言われていた、安倍政権の対応の出遅れや渦中での宴会のことではない。確かに官邸の対応は存外にぶいとは思った。私なども比較的初期の時点で100人の死者を超える大惨事になる予想がつき、さほど間を置かず200人を超えるのではないかと推測した。そう推測できたのは、前回の広島水害とそのおりに再確認したハザードマップからである。つまり、その程度には官邸でも予測可能だったはずだ。
 しかし、現実問題としてあの状況下で官邸ができたことはあまりなかったかもしれないし、広域に渡ることもあり大筋では対策は各県に任されているはずで、なんでも官邸が出てくればいいものでもないだろう。まして、事後、政局的な政権批判のための文脈で語ってもあまり意味はないだろう。

1 長期政権ゆえの責任性
 私が政府の責任は重いと思ったのは安倍政権が長期政権であり、なかでも4年前の平成26年8月豪雨による広島市土砂災害を経験しているからである。責めるべきことはこの4年間ほどの間にもっと政府主導の対策はできなかったかということだ。すでにハザードマップは公開されているし、今回の災害ははそこから予想外のことではなかった。
 言うまでもなく、この問題は専門的なので、4年間で何が可能だったかが検討されなければならない。が、非専門であるブロガーではその概要を推測することは可能ではない。実際のところ、4年間では政府主導では何もできなかったということもあるかもしれない。
 その場合、政府としても最善の政策をしてきたが、今回の被害は対応できませんでしたということになる。そうなのだろうか。そうであれば、近未来でもこうした絶望的な状況が継続することになる。

2 被害はもっと酷かったかもしれない
 10年前の試算だが、中央防災会議「大規模水害対策に関する専門調査会」(2008年9月8日)は、首都圏で200年に一度と推定される洪水が首都圏を襲った場合、死者は1万人を超えるとしていた。そのほか、各種の試算がされていたが、あまりの被害の大きさに現実感が伴わないでいた。
 だが、さすがに今回の水害では、少し想像してぞっとした。
 潜在的に巨大な水害が首都圏に及ぶ可能性は否定できない。そうした可能性にどう向き合ったらいいのだろうか。
 今回の災害でそうした潜在的な巨大被害に思いあぐねた。

3 自然災害は高齢者をより犠牲にする
 朝日新聞が行った試算だが、12日時点の141人の死者のうち、60歳以上が100人で7割を超えたらしい。おそらく死者数が確定しても、高齢者がより多犠牲となる構図は変わらないだろう。この事実に直面したとき、「淘汰」という言葉が不適切に脳裏をよぎった。
 一般的に高齢者は弱者であり、ゆえに災害に弱いということはいえるだろう。他方、統計的に裏付けられたわけではなく印象にすぎないが、ハザードマップで危険な地域に高齢者が住む傾向もあるのではないだろうか。
 この問題は、雑駁にいえば、地方の高齢者の居住をどうするかという課題のなかに含めることができるようにも思う。

 ネットで話題となる政局の文脈では、権力ある政権の過誤によって、国が滅ぶというパターンが多い。だが、国が実質的に滅ぶのは、巨大災害の負担で弱化したことの結果になるのではないか。


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2018.07.11

文部科学省前局長佐野太容疑者は無罪だろうか?

 東京地検特捜部が4日、文部科学省の前局長佐野太容疑者(58)を逮捕した。容疑は「受託収賄」。世間的には息子を私大に裏口入学させたことはけしからんと、なべおさみの裏口入学を叱るような雰囲気もあるが、私大がどの学生を入学させるかは原則的には私的な領域なので、公的な問題はない。私大側には逮捕者も出ていない。
 報道を見ると、事件は「私立大支援事業をめぐる汚職事件」としているように、文科省の私立大支援事業が、同局長の意向で捻じ曲げられたかという点が問題になる、かのようでもある。
 が、ことは二段構えのようだ。まず、①文科省プロセスの問題:文科省の私立大支援事業が同局長の意向で捻じ曲げられたか、②官吏の便宜依頼:同局長は息子の入学について便宜依頼をしたか、である。
 当初この事件を私が知ったとき疑問に思ったのは、①文科省プロセスの問題が事実上不可能なら、②官吏の便宜依頼があったとしても問題ないんじゃないか、ということだった。だが調べてみると、受託収賄容疑は②だけで成立するようだ。
 国民としては、①文科省プロセスが重要な関心であり、ジャーナリズムもそこを注視してほしいと思う。現状、印象としてだが、報道を見る限りプロセスや機構上には欠陥はないようだ。
 汚職事件としては、しかし、②官吏の便宜依頼が話題に上るのはしかたない。どうか。まず、はっきりしているのは、私大側としては、高級官吏の子供を入学させるメリットを十分意識していたことだ。加えて、私大側が官吏の便宜依頼と認識していたかだ。それこそ「忖度」のようにも思えるが、東京地検特捜部が動けた点を考慮すると、私大側としては便宜依頼と認識していた、ということだろう。
 すると問題は、佐野太容疑者自身は、そこをどう認識していたか、どのように私大側に対して振る舞っていたかということになる。
 ここではっきりしているのは、佐野容疑者としては便宜依頼をしていないと現状では述べていることだ。おそらく彼自身としてはそう認識してなかったのではないかという印象を私はもつ。
 問題はしかし、他者の印象はどうでもよく、また当人がどう意識していても、「そりゃ便宜依頼でしょ」と解される言動があったか、ということだ。この点、外堀は埋まっている。特捜側からの情報だろう、時事の報道では、昨年5月、佐野容疑者と東京医科大の臼井正彦前理事長は会食をしている。特捜としては、この会食で事実上の便宜依頼があったと見たいのではないだろう。
 同会食は、同事件の幇助容疑で逮捕されている医療コンサルタント会社元役員・谷口浩司容疑者(47)が手配したということで、枠組みとしては、これは便宜依頼のための会食だったのだのだろうとしか思えない。
 他にも、佐野容疑者は私大側に申請書の書き方指導などもしていて、それらも一連の便宜依頼の文脈に織り込まれるだろう。
 外堀の埋まり具合を見ると、東京地検特捜部も勝ち目を踏んで動いているなという印象が強い。
 で、私の印象のまとめ。
 こんな明白な構図の会食に、のこのこ出てきた佐野容疑者は最初から便宜依頼のためだったのだろうか。あるいは、「えー、フレンチならいいすね」みたいな間抜けな対応だったのか。
 仮に本人の現状の言い分を真に受けて前者ではないとすると、じゃあ、後者の間抜け、ということになるが、そこまで局長クラスが間抜けなんだろうか? 
 それもないとすると、こういうのは慣例であり、しかも慣例ゆえにどこが犯罪のフロントラインになるかを彼自身が理解していたのではないか。
 そう考えると、今回の事件、フロントラインが動いたのかもしれないなあという感じがする。
 このアーティクルを書く際、どうもこの事件もやもやするし、整理すると、結局、同局長は無罪なんじゃなねとなるかもしれないと思っていた。だが、本人がどう思おうと、これは有罪ということもありそうに思えてきた。つまり、フロントラインが動いたということだ。
 むしろ、その影響のほうが各省庁に甚大だろうな。

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2018.07.10

旧大口病院事件の印象あるいはダリー殺人事件の可能性

 その事件の名前はまだジャーナリズム的にも定まっていないように見える。NHKでは、点滴異物混入事件としてる。フジでは大口病院連続不審死事件としている。時事では大口病院連続中毒死として事件という言葉を避けている印象がある。民放番組では点滴殺人事件としているものもあった。
 社会が当初この事件として知ったのは、2016年9月、横浜市神奈川区の大口病院(現・横浜はじめ病院)で同室入院中の男性患者2名が相次いで中毒死したことだ。殺人が疑われた。そして殺人を実行できる可能性として内部の人間が疑われたが物証もなく、2年近い日が過ぎようとした矢先、この7日、不祥事で知られる神奈川県警が当時病院で勤務していた看護師・久保木愛弓(あゆみ)容疑者(31)を逮捕した。物証がないことから慎重な操作を進め、任意同行から自白を引き出したようだったが、9日のニュースでは、彼女の看護服のポケット内側から、被害者を中毒死させた消毒液に含まれる界面活性剤と同じ成分が検出されたらしい。物証とまで言えるものかはわからない。
 現状では、冤罪の可能性もあり、容疑者が殺人を行ったと決めつける報道の暴走も懸念される。松本サリン事件でジャーナリズムが犯した罪と同じようなものになりかねない。当然、こうした状況でブログで何か書くとしても、その暴走の手助けにしかならないだろう。しかし、しばらくすれば自分でも忘れるだろうが現時点で少し気になることがある。まあ、忘れてもいいのことなのかもしれないが。
 この事件は、2014年の川崎老人ホーム連続殺人事件に似た印象を与える。この事件は当初川崎市の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で入居者3人が転落死したことだ。神奈川県警らしい印象の初動捜査では変死として処理された。だが、さすがに神奈川県警も殺人事件の可能性を疑い、逮捕にこぎつけた。殺害者は3人である。これに対して、今回の事件は、推測としては、もし同容疑者の殺人事件であるとしても、何人殺害されたかもわからない。二桁に及ぶ可能性もあり、そこがこの事件に恐ろしい印象を与えている。
 久保木容疑者は現状、殺人をしたと話をしている。犯行の動機について現状報道されているのは、「終末期医療の職場にストレスを感じていた」ということと「夜勤中に患者が亡くなると遺族に説明しなければならないのが嫌で、自分の担当時間になる前に殺害しようと思った」ということだ。
 世間の空気としては、それが犯行の動機なのか、平然と連続殺人ができるのはサイコパスなのではないかといった話題から、社会問題としての終末期医療の職場が語られたりもしている。つまり、世間は、物語を欲している。
 私がここで少し気になったことは、この世間のリアクションにも関係している。もちろん、私もそうした世間の一部である自覚はある。違和感は2つある。1つは、犯行の動機はそれだけではないのかということ。もう1つは、彼女が殺人をしたとしてサイコパスでもなんでもない普通の人だったのではないかということだ。別の言い方で2つをまとめると、世間の空気がなんとなく欲しているドラマの展開のような物語はなんにもないのではないか。
 もしそうだとすると、「サイコパスでもなく仕事だりーから人殺しましたあ」ということになる。そのほうが違和感ありまくりだろうというツッコミが聞こえそうだ。が、仮にそうだとすると、むしろその意味はなんだろうか。
 この違和感の根は、「そんな簡単な理由で人殺す」という点だろ。ありえないだろ、というものだろう。でもありえたら、どうなんだろか。「挽肉手でこねるんすか、ハンバーグ作りたくないっすよ」と似たようなものだったら。対人関係が関連しているから、「仕事だから電話取れっていっても知らない人と話したくなーい」に近いかもしれない。
 これが異常でないなら、レイシアが私は道具ですから的な感じとは違うものの、終末医療の患者は人間じゃないですから的な状況があって、そこに人が置かれると普通の人でもそうなっちゃうということかもしれない。とはいえ、これを直接終末期医療の現状の問題に連結して物語を紡ぐというのは別のことだろう。
 むしろ、このねじれたような違和感、少なくとも、私の心のなかでこの違和感が告げているのは、「オマエモナー」である。「お前は殺人はしないかもしれないけど、無関心を盾にある人をもう人間とも見てないだろ」という心の中のかわいい悪魔のつぶやきである。
 他人事から、「人の死に無関心だけどそういうのがばれると気まずいから殺人は許せないし、災害被害者の死は悼むふりしないといけないだろうなあ」に移行し、そのあたりの偽善のバランスと殺人がほいほいっとできそうでもない厚遇にあることが、私と久保木容疑者との僅かな差異だろうか。久保木容疑者は案外普通の人で、その普通さのそれほど遠くないところに自分がいるんじゃないだろうか。
 それはネットにあふれる「死ねばいいのに」や「日本死ね」の日本というタームの後ろに人という言葉がかろうじて回避されている、ある種の殺意に近い正義で覆っている心情とは異なったものではないかなとも思う。


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2018.07.08

死刑をなくすということ

 私が死刑廃止論者になったのは、21世紀に入ってからである。というのも、2001年の附属池田小事件がきっかけだったからだ。この事件で無防備な小学生8人を殺害した宅間守に彼の望みである死刑を与えてはいけないと思った。この人間を自然に命尽きるまで生かせて、その口から自らの意思で悔恨の言葉を公にするのを聞きたい、そして、その命が尽きるまでその罪に苦しんでほしいと思ったからだ。
 こう言ってもいい。死を決意するならなんでもできるというときでも、人を殺すこともできる、ということはない。人が自死を決意することはその人の自由だろうが、その自分の死に他者の命を釣り合わせてはいけないと。
 そうして死刑廃止論者としての自分というものを受け止めて、21世紀を生きててはや、十数年。おりおりに思うことがある。最近では、3つ思った。
 1つは、死刑廃止論をリベラル思想だから嫌悪するという考え方に違和感を覚えたことだ。オウム真理教事件での死刑についてネットでなんどか見かけたのだが、死刑廃止論者を欧州のリベラル思想にかられただけで、日本人には日本人の考えがあって死刑を存続してよいという思想の表明があった。別段、人がどのような思想を持ってもいいだろうし、確かに日本の現状を見れば、日本国民の大半は死刑存続を望んでいるというのは事実だろう。そしてそれを上から目線のリベラル思想で批判するというのも正しいとは思えない。私の違和感は、リベラル思想なるものがあって、死刑廃止論があるという連結である。私は、これは逆だと思う。リベラルな思想、つまり、人間を自由にするという思想は常に開かれている。ある公理のようなものから導かれる同義反復のような命題ではない。市民一人ひとりが、多様な理由から自分は死刑を望まないのだと考えるようになる状態が結果的にリベラルというものだろういうくらいだ。「リベラル思想が」という主語に支配された思想は不要だろう。
 2つめは、私もさすがに自分のトラウマのスイッチを押しそうで想像の限界を超えている松戸女児殺害事件などで、こうした犯罪には死刑で望むしかないといった考え方を見かけたときの違和感だった。こう一般化できる。「私は死刑廃止論者だが、この事件については死刑で臨むしかない」という考え方だ。死刑廃止に留保をつける考え方である。ものごと極端すぎる考えはそれ自体が間違いであることが多いが、この考え方については、「それぜんぜん死刑廃止論じゃないから」と私は思った。つまるところ、極刑としての死刑の効力を維持したいという思想に変わらない。これに関連して決まりきったお題として、「死刑廃止というがお前の家族が殺されても死刑を望まないのか」というのがある。それもまた死刑存続の思想の一つの基盤だろうし、そう考える人もいるだろう。だが、現実の事件を見ていけば、家族が殺された人でも犯人の死刑を望まない人はいる。その人の思いに、「それでも死刑を望まないのか」と、上から目線というようか、土足でずかずか入り込むようなというか、そういう思想は、好ましいものではない。「それでも死刑を望まないのか」という問い詰めについては、そう問える立場の人からその状況で聞きたいと思う。
 3つめは、きっかけとしては低能先生事件で思ったことだ。上述にも関連しているし、犯罪抑止力についての議論などのように、実はシンプルな死刑廃止論の考え方でもある。と言いつつ、自分の思いとして表現すると奇妙なものになる。それは、自分には死刑という迂回した方法であっても他者を殺害することなんかできないんじゃないかという深い安堵感である。そう言ってしまえば、うまく通じないだろうと先取りして思うのでまさにためらうことだ。一般的に考えれば、死刑存続の心情と逆だからだ。どぎまぎと別の言葉をつむいでみる。自分が法を介してであれ他者の死を支配できるような正義というもの認めることができない。自分を究極のところで、自ら義としてはいけない。そんな感じだろうか。これは、すぐに連想するが、キリスト教な考えでもあるだろうが、自分としては、ああ、イエスはこういうことを言いたかったんだなという、理解の補助のように思えた。
 ま、最近思ったのはそんなところ。
 おまけといってはなんだが、ネットを見ていたら、死刑を廃止した欧州の国では、死刑は廃止しているのに、犯罪事件で犯人を射殺しているじゃないかというネタも見かけた。これについては、銃をもって臨む者には、銃で臨むのが公平だと私は考えている。そこはキリスト教的には考えない。パーで打たれたらパーで打ち返してよいだろうと思う。グーはないな。

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2018.07.07

歴史が忘れていくもの

 昨日、朝の時間帯ということもあって天気予報と時計の代わりに流しているNHKで、オウム真理教の教祖・麻原彰晃(本名松本智津夫、63)の死刑執行の速報を知った。「ああ、やっちまったな」なと思った。ああ、やっちまった。
 意外感は、まったくなかったわけではなかったが、なるようになったなという思いが勝った。以前、オウム事件の死刑囚の執行は、天皇家の行事で忌まれるから延期されるだろうと書いたものの、どちらかといえば願望だった。日本が死刑廃止の国になってほしいという願望だった。この事件を凶悪な国民の敵による事件であるとするより、その凶悪さと悲惨を運命の果実として分かち合う経験の内側にとどめるべく死刑廃止に結びつけられたらと。死刑の最終的な決断は法相に委ねられるのだから、ここでかつての法相がリラクタントであったように少しうそぶいてでも、改元や五輪の熱気に覆って隠してもよかっただろうと。そうはいかなかった。そういかないだろうという予感もあった。数日前天皇が体調を崩されたことだった。ここで突然の崩御になるとか、昭和帝のようなコーマに陥ったとかしたら、この事件を平成後まで持ち越すことになりかねないと、そう法相が思うこともあるだろう。
 なぜ昨日だったのか。なぜ麻原死刑囚が筆頭だったのか。朝のこの奇妙な内的な喧騒はその後3人の処刑報道、さらに3人の処刑報道と続いた。その名前はよく知っている。井上嘉浩(48)、早川紀代秀(68)、中川智正(55)、遠藤誠一(58)、土谷正実(53)、新実智光(54)。そっといく人かには思いを告げている自分がいた。井上にはきちんと出家させたかった。早川はこれを寿命と思っていいだろう。中川には『ラモント』のような死刑囚としあえて活かし、獄内の研究者であってほしかった。
 その後、喧騒感の増すNHKを消音し、同日の執行はもうなさそうな空気のなかで雨交じる風の音を聴きながら、「ああ、終わった」と感じた。
 終わりのある小さな安堵感に弱いしびれのように襲われている自分がいた。脳内思考小人が二歳児のようにまだあと泣きじゃくるが、私は地下鉄の車両のどこか離れたところそれを見ていたように感じた。
 歴史の中に私が置かれた。それはこうしたある奇妙な生の感覚である。私は日本人が昭和16年12月8日に何を思ったのか気になって気まぐれにだが調べたことがある。残された文書からは、鬱屈を晴らす開放感と特段に戦争でもない日常感がない混ざっていた。そしてその2つは太宰治の小説『十二月八日』にアイロニカルに表現されていた。昨日の朝感じていたのはその小説の感覚とは似ていない。小説はむしろ歴史に置かれた普通の生活者の違和感として表現されている。が、それを書く太宰には、ある歴史のなかに置かれるという奇妙の生の感覚があったことがわかる。それは小説に表現されることで、あるいはまた多数の些細な証言記録のなかで、ある残滓となる。それが本当の歴史の触感なのだとでもいうように。
 いずれこのこともブログに書いておこうとそのとき思ったが、なぜこの7人かということと、なぜこの日なのかということを、法相の言葉で聞いてからにしようと思い直した。が、待ったかいあって法相の言葉は空しいものだった。その空しさを待っていたのだ。そして、どうせだからこの思いが一晩明けたらどうなるのだろうかと待った。明けた。最初のやっちまった感は薄れていた。終わった感は、もう少しバツ悪く収まった。
 それはなんだろうか。子供がするような小さな罪が大人になってもうばれることもなく生きていけるんだといった感覚に近いだろうか。オウム事件が残した国民としての歴史の奇妙な感覚を、生活の場ではもう誰に告げなくてもいいんだという居心地の悪い安心感になった。


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2018.07.05

非モテとインセルの違いについて

 ブログを書いていると、知りもしない話題をブログ記事なんかに書くなという罵倒をもらうことがある。しばしばある。というか、この手のナイス・マウンティングは実際にはもう制度化していて、まさか罵倒している本人もそうした思想制度に絡め取られているんじゃねーのといったメタ・マウンティング返しをしていると、ほらぁ、はてな的世界の螺旋地獄はとまらなくなるし、あー、ここは、はてなじゃねーよ。
 と切り出したのは、この螺旋マウント地獄のノリがはてなっぽいんじゃないかと思えたこともあるが、こうした一種の対話的な機能が、はたからは地獄に見えても、他面では低能先生の実効をそれまで抑止していた対話機能なんじゃないかと思うからで、そこの点が、非モテとインセルの大きな違いなんじゃないかというのが、この記事の結論で、それだけでわかった人は以下読む必要はないんだけど。あと、この記事が何言っているのか、まるでわからないという人も読む必要ありません。
 で。
 話をするには、非モテとはなにか、インセルとはなにか、なんでここではてなが絡んでくんだを書く必要があるのだけど、面倒くさいので粗雑に端折ると、とりあえず、非モテというのは、異性にモテないという自意識さん、インセルというのは主に男性で女性にモテないことから女性バッシングをしちゃう人。このインセルが欧米社会というか、特に米国社会で問題になり、かなりよらかぬ事件を起こしている。事件のリストとかは、Wikipedeia(US)にあるので気になる人がいたら見ておくといい。そこには、暫定的な定義も含まれている。が、現状、インセルについて、きちんと社会学的に考察され評価の高い研究はなさげなので、ジャーナリズム的な揺れはあるし、こうした揺れがあると昨今のなんでも政局におとしこんだれフレームワークではトランプがどうたらアベがどうたらというトンチンカンなフレームワークが用意されたりもするが、ここでは概ねということで。
 こうした揺れのなかに、非モテ=インセル、的な視点もいくつか見かけるようになったし、通底する部分はあると思うし、その違いはありがちな日米文化論に吸着されもするだろうが、ええと、簡単に言うと、拠点的なネットのコミュニュティ機能によってその差は大きくなってきたんじゃね、培養されてきたというか。
 インセルでも非モテでも実際に社会問題として表出された影に、自己の内面とさらにネット・コミュニティの機能がある。インセルの場合は、すでに報道されているように、アルカイダのテロ・コミュニティーのようにアンダーグラウンドで差別しまくり発言による友愛連携が取られ、これがそのコミュニティ内部のノルムで舞い上がったのが社会に押し出されてしまい、酸鼻なインシデントということになった、ように見える。
 他方、非モテは、形態は似ていている。やはりネット・コミュニティーが大きな意味をもっているようだ。簡単にいうと、「自分が非モテ意識をもっているのは正当であり、社会や他者が間違っている」という思想の確認である。そんなアホなことが思想なのかというと、私はそれはそれほどアホでもないぞ、とは思う。実際に、自分に可視な部分だった非モテ思想は国際的なフェミニズムの議論とその矛盾にそれなりに精通していて、ゆえに、対抗はフェミニズムに向けられがちであり、その対応は諸フェミニズムに内在した問題でもあった。簡単に言うと、日本の非モテの核は知的であり、インセルが女性全般への憎悪に向かうのとは異なり、フェミニズムを仮想敵とする傾向があると思えた。
 もう少し延長すると、反フェミニズムで非モテの問題が解決されるのだろうかという根本的な疑問も湧くが、悪意で言うのではないが、傍観していると、ある種のフェミニストやリベラリストに言論でマウントするのが楽しくて、根幹問題には触れない印象がある。まあ、そこはよくわからんが。
 で、この非モテなんだが、これも印象論で雑駁に言うと(それなりに十年以上もヲチはしているが)、はてなが一つの拠点っぽい。もちろん、はてな全体は議論的に衰退していて、議論の場ではなくなり、小粒なブクマーの罵倒シナプス交換が主流で、その小粒さに適合したツイッターのほうが思想的な表出は多く、思想的な片鱗はそうしたもののtogetterになる。それでも歴史経緯・傾向としてのはてなはあるだろうし、むしろ、はてなの15年間が醸成したものだろう。自分もそうだが、17年くらい前、はてなを使っていたアーリーアダプターは技術造詣もあり、読書家も多く、ぶいぶい物をかけるくらいのインテリが多く、ニフティの思想、経済、歴史、文化論的なフォーラムなど知的フォーラムの継承的な若者、といっても20代後半に差し掛かる層がある理想型をなしていた。社会に出たが失われた時代で苦しめられるやアカデミズムに残ったが地獄が見えるといった若者。それが、おっさんになった。低能先生事件で一つの局面で重要なのははてな的というより、彼らがほぼ同年の40歳超えという点だった。かつては知的で希望のある若者だったのである。で、はてなはこうした層を対話的なコミュニティとして収容してはいた。つまり、インセルらの闇掲示板コミュニティ化はしなかったのである。
 とはいえ、はてなとはいえ、技術者は目立ったし、多数は凡庸な人々であり、そのあらゆる凡庸性の思想の成就として、「保育園落ちた日本死ね」と言えるように結婚して子供を持ち、社会憎悪のはてなから支援を受けるくらいのマジョリティとなった。さらにコミュニケーション機能としてのはてのキモさに耐えない人々はnote方面に逃げ出した。さらに他方の凡庸の中核部は、自己啓発系とかだが、それなりの理想型としての著名ネット言論人のサロン的なコミュニティに移行した。
 ま、そう見ました。
 社会的な問題水準でいうなら、非モテはインセル化するかというと、通底はしていても、基本的にはしないんじゃないの。非モテは解消されるかというと、これもしなさそう。はてな的な収容プラットフォームは社会的に機能するかというと、これも実は今が断末魔的な状況じゃんじゃないの。
 じゃあ、どうなるの? しいて言えば、思想化するだろうと思う。アート化してほしいとは願うけど。

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2018.07.04

ブログで語るということ

 事実上ブログを休止していた前の出来事になるのか、目黒での女児虐待死事件はあまりに痛ましく、というか、自分のトラウマのスイッチを押してパニックになりそうなくらいだった。ブロガーとしておよそ何か言及できるもんじゃないなと思っていた。ちょっと誇張するけど、ブログ休んでいるとこの問題について書かなくて楽、という感じもしていた。あれから、三ヶ月ほどたち、世相の話題からもあらかた消えたかにも見えるが、自分の心はというと、あまり変わらない。ただ、少し間接的に触れてみたいことがある。
 そういう思いがしたのは、イミダスというサイトの「女児虐待死事件から感じた危険な空気」(参照)というコラムを読んだことからだった。冒頭、ああ、それな、と思ったのだった。


 2018年3月に東京・目黒で起きた女児虐待死事件。児童相談所が関与していたにも関わらず、5歳の少女の命を守れなかったこの事件を受けて、児童相談所の虐待情報を警察と全件共有することを求める声が大きくなった。しかし、私はそのことに危機感を抱く。例えばハイティーンの子どもたち――特に虐待や困窮から生き延びるために万引きや性売買、犯罪に関わった少年少女は、警察による取り締まりやけん責を恐れて、ますます助けを求められなくなるからだ。

 背景はこういこと。

 保護のニーズが高まる夜間や土日祝日、年末年始に駆け込める公的機関は警察だけなので、「長期休暇の時や土日、夜間には『危険を感じたら警察に駆け込むんだよ』と子どもに言うしかない」といった学校教員などの声も聞く。実際には明らかな虐待があり、本人も保護を求めていて、学校から児童相談所に何度も虐待通告しても保護してもらえない中高生のケースはよくあるのだ。しかし警察は福祉施設ではなく、不適切な対応をされることが多い。
 例えば、父親に殴られて交番に駆け込んだ中高生に、警察官が「お巡りさんがお父さんに言ってあげるから」と言って親を呼んで叱り、親子とも家に帰すようなケースに私は何件も関わっている。そのことで虐待が更に悪化し、子どもはそれ以来、他人に相談ができなくなり警察も恐れるようになった。

 誰が悪いというわけではなく、警察というのは福祉施設ではない、ということだ。
 警察に福祉機能を持たせろという意見もあるかもしれないが、そのあたりで、どことなく論点が斜め上に走り出しているように思う。
 理路として考えるなら、虐待や苦境にある子どもたちを夜間や土日祝日、年末年始に対応できる専門の福祉設備が必要であるということになる。これは、公が負担にすることになるから、地表行政か国が対応せよ、ということになるだろう。それで正解のようにも思えるし、複雑に考えるまでもなく、正解なのかもしれない。同コラムでは、「「児童相談所の弁護士」ではなくて、「子どもの代理人」として活動できる専門家が必要だろう。」という結語にしていたが、それを制度にもっていくのは難しいだろう。
 そして、なんとなくという程度だが、それでも、そううまくはいかないんじゃないかという思いが残る。なんだろうか。
 ある事件があった事後の対応として、法的な「子供の代理人」は必要だが、問題の根は、むしろ事前にあり、それは、かなり根の深いものなんじゃないか。
 これで連想するのは、昨年秋の座間連続殺人事件である。これも痛ましい事件で、自分のトラウマスイッチではないが、ブログで触れられそうにもないなと思っていた。
 事件にはいろいろな側面がある。重要なのはこのような残虐な事件を再発させないような仕組みを作ることであり、この事件はどちらかというとサイコパス事件なので、Netflix『マインドハンター』のような対応が必要だろう。日本の警察にもすでにあるのかもしれないが。
 この文脈で連想されるのは、容疑者に面会していった人たちの内面である。単純化すれば、「一緒に死にたい」という他者を欲していたいうことだった。ちょっと変な表現になるようだが、それがその人たちの欲望だった。抑えがたいほどの欲望だっただろうか。あるいは、軽い気持ちであったかもしれない。が、その軽い気持ちには死に裏付けられた重さが潜んでいただろう。
 文脈というか関心点を整理すると、「自分の置かれた苦しい状況を誰にも語ることができない」「死を担保にして語る人が欲しい」ということだった。「運命の果実を分かち合いたい」ということかもしれない。
 別の言い方をすれば、見渡す範囲に人はいても誰にも語れない何かを抱えてしまったら、どうしたらいいのだろうか、ということだ。
 語ればいいじゃん、というには、誰にも通じはしないだろうということがわかっている。身の回りの声の届くところは狭いものだ。が、ネットなら拡大できるから、座間の事件のようなことも起こる。
 この「語れない」という感じをあえて語るとどんなものになるかという比喩的な存在が、かつては匿名掲示板であり、匿名掲示板がゴミメッセージの天敵で機能しなくなったのと対照的な、はてなの匿名ダイアリー(通称増田)だったと思う。大半は「釣り」であり、フィクションなのだが、そのフィクションの基本テーマも、一応おもてでは「語れない」である。そして、その天敵が、はてなブックマークという罵倒のネットワークシステムであり、これは、語れないことを語るのを結果的に禁じるための、メタ的なマウンティングの螺旋を描いている。それはどこまでも終わりがないかに見える、現実世界を強制的に介入させるのでもなければ。
 ネットも語れない世界になってきている。この語れなさは、天敵としての炎上が対応しているかもしれない。
 連想ゲームのようだがその関連で心に残ったのは、GQというサイトのコラム「なぜ津田大介は炎上するのか?」(参照)というコラムだった。同記事では「炎上」しかも政治的な文脈での政治工作的な炎上が取り上げられているが、なんであれ異論的な意見を叩きのめしたい思い渦巻く世界が現在のネットだろう。コラムでは対応をこう述べている。

 炎上も日常化して慣れてしまえば、サウナみたいなものだ。いま言論人に求められているのは、日常的に接している「ネット世論」が組織的もしくは金銭的に著しく歪められているという事実を認識した上で、炎上を気にせず淡々と自身の意見を表明し続ける鈍感力を持つことであろう。その意味で、本誌のような紙媒体の役割も今後は重要になってくる。炎上が怖くてネットでは意見表明できない繊細な表現者たちをサポートできるのは、紙媒体だけだからだ。

 あくまで感覚的なものにすぎないので矛盾するが、「炎上を気にせず淡々と自身の意見を表明し続ける鈍感力」などというものは持てはしないだろうし、そうした、炎上に無敵な人の意見は、ブログにあるべきある種の繊細さ、つまり、それこそなんとかして伝えたい思いとは正反対のところにあるだろう。紙媒体は守ってはくれるだろうが、同様にその繊細は加工されてしまう。
 誰にも伝えられない思い、伝えようなものら袋叩きに合うだろうなと言う思い、匿名ブログに逃げ込みたくなるような思い、でも、それもまたためらうかすかな均衡でブロガーは何を語るだろうか。というか、そのようなわずかな空間だけでしか、ブログの意味はもうないんじゃないか。

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2018.07.03

『ごんぎつね』が嫌い

 たぶん、世の中、新美南吉作『ごんぎつね』という物語が嫌いだという人は、私に限らず少なくないんじゃないかと思う。もちろん、多数は、その逆で、あの物語が好きだとか、感動したとか、あるんじゃないかとも思う。
 どこが嫌いかというと、いろいろ嫌いポイントがある。自分勝手に押し付けるいじけた愛情を自己正当化してしかも悲劇に持ち込むあたりも、うー、たまんなくなく嫌だ。が、それはさておき、今回も、嫌だなあとしばし思っていたことがある。
 すごくおばかなことをあえて言うのだが、ごんぎつねなんていないのである。どのようにいないかというと、まずもって二足歩行する狐はいない。
 いやいや、僕が読んだあるヴァージョンの挿絵がそうだったというだけで、ごんぎつねがかならずしも二足歩行であるとはかぎらないし、そこは、まあ、どうでもいいや。どうでもいいついでに言うと、ピーターラビットの二足歩行もちょっとどうかと思うぞ。
 ってか、このおばかな指摘をしたのは、そういう指摘って、おばかでしょ、という意味であえてしたのだが、では、人間並みというか、ある種高度AIのように人間的な感情と意識を持ったきつねが実在するのかというと、いるわけないじゃん。なのに、そういう指摘は、二足歩行のきつねありえねーというほどには、おばかな指摘とは思われていない。つまり、童話というか寓話というのはそういうお約束で成り立っているのだ、人間の社会を比喩しているのだ、よって、そういうお約束がおばかじゃないと仮定してだ、いやあ、ゆえに、この物語、ないっしょ、と思うのだ。
 このお約束では、兵十は、ごんが人間のような意識と感情をもった存在だと理解しているという虚構がある。まあ、その仮定は正しいよね。そうでなければ、ごんが射殺されたとき、人間が死んだかような感情移入するわけないんだから。まあ、犬が死んでも感情移入するのが普通だとも言えるには言えるだろうけど、ごんぎつねのシーンはペットの犬を愛したというより、対人的な情感でしょ。
 で、つまり、そこなのだ。今回、考えあぐねていた嫌いポイントがそこだ。兵十は、最初から家に忍び込んだ何者かをマスケット銃で射殺する気まんまんでいたということだ。そしてそれは成功するべく成功した。
 まるで、現代のアメリカ社会じゃん。
 日本人の心情って、銃はよくないじゃないかったのか。
 なのになんで、こんな銃社会みたいな話が感動の物語で、しかもあろうことか教科書にも載っているのだろうか。
 しかも、アメリカ社会の場合は一応、家庭は城なりだったか、英語で、"An Englishman's home (or occasionally, house) is his castle."というやつ。おっと、これアメリカじゃなくてイギリスか。
 ま、いずれ、アメリカ社会では、未知の不審者だから射殺OKという建前だが、ごんぎつねの世界だと、「こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。ようし。」って、最初からあきらかに人間意識をもったごんぎつねを射殺する気まんまんなのな。気に入らないやつは私的制裁で殺しちゃえっていうこと。
 これ、異民族の比喩と見るなら、民族虐殺の心理、まんまだよ。
 ひでーんじゃないの。
 なんであれ、相手に人間心理があり、コミュニケーション可能なら、まず、対話しろよ。後ろからナイフ刺すんじゃねーよ、あ、ナイフじゃないや、物語ではマスケット銃だったな。
 とま、手の込んだネタ、それほどでもないか、ネタ話であるのだが、昔の物語だし、日本でも猟師は銃を普通に持っていたということだから、子供の教育にいいかあ、というのはあるだろう。なにも、ローラ・インガルス・ワイルダーの名前を児童文学賞の名称から外すように新美南吉記の作品を教科書から除けとは思わない。
 それにしても、なんだろか、この、読み返すたびに、思い返すたびに、所々に嫌いポイントが浮かび上がってくる作品というのは。しかも、これ、嫌いだよ、で、すまされない、なんだろ、この嫌い感でマジョリティの日本人を微妙に敵に回している感っていうのは。

 

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2018.07.02

たぶんそれはこういうことでテロだった

 ブログを書かないでいることにあまり違和感もなく過ごしていて、まあ、自分にとってそういう時代になったのかなとも思う。そうした感慨はさておき、それでも心のどかで自分はただのブロガーであるべきだ、つまり、たかがブロガーであるべきだという奇妙な使命感のようなものがあり、それは、市民として複数の声が社会に必要なときには、声をあげようということだった。さて、その時だっただろうか、と思い悩んだのは、インターネットセキュリティー関連会社「スプラウト」の社員、岡本顕一郎さん(41)の殺害事件を知った時だった。
 彼はネットの世界ではHagexさんとして知られていたらしい。実は僕は彼のことを知らなかった。名前は聞いたことがあるし、話題の炎上案件とかでブログを読んだこともあるが、そのHagexさんという名前での認識はほとんどなかった。たぶん、彼もまた、「finalventさん」は知らなかっただろう。まったく関心がすれ違うことがなかったのだろう。
 そういう対象について自分がどう接してよいかはわからない。事後、岡本さんの知己からの追悼がネットに多く出回り、リアルに交友関係の広い人であったのだなとわかるものの、その事自体が自分との関係の薄さを意味している。まして、Hagexさんとしての活動は私の関心外であった。が、今回の事件のネット面である「はてな」の世界は、自分のブロガーとしての活動の根でもあり、ある意味よく知ってはいた。とても雑駁に言えば、ああ、はてならしい事件だなとは思ったのだった。
 このはてならしさという側面については、それほどメディアでは取り上げられなかった。が、それなりに幾人かのブロガーというか論者によってその後ぽつぽつと取り上げられており、真相とまで言えるかどうかわからないが、かなりあのはてなという世界の様相をうまくえぐりだしていた。ということは、僕がその面でなんか書く必要もないだろうということでもあった。
 まあ、だから、そこはかなり端折って書いてみる。
 岡本さんを殺害したのは、松本英光容疑者(42)である。現在となってはかなり確実にはてなで「低能先生」と呼ばれていたブロガーである。ブロガーといっても、匿名ブログに書いていただけだが、その最後の犯行声明もかなり確実に彼のものだと言える。
 僕は、まずそれを読んでみた。三島由紀夫の激を読むように、どのように非常識に見える声明でも余談なく読んでみたのである。


おいネット弁慶卒業してきたぞ
改めて言おう
これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな)
俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ
「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな?
「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?
ただほぼ引きこもりの42歳はここで体力が尽きてしもうた
事前の予定では東京までいってはてな本社にこんにちはするつもりだったが、もう無理
足つってるし
なんだかんだ言ってはてなというか増田が俺をネット弁慶のままで食い止めていた面もあるしなあ
逆に言うと散々ガス抜きさせてもらった恩がある
はてブと通報厨には恩など欠片もないが
てことでこれから近所の交番に自首して俺自身の責任をとってくるわ
足つってるから着くまで30分くらいかかるかも

 自分のなりに理解したことを書いてみよう。
 低能先生(悪意をこめてはてな利用者がつけたあだ名である。簡単に言えば、それ自体がいじめであろう)は、著名ブロガーであるはあちゅうさんを罵倒するはてなブロガーたち(複数)の活動が彼にはネットリンチに思えた。そういうネットリンチに対して、彼なりの正義感を持って、「戦って」いた。そしてその「戦い」に彼らも「通報&封殺」で応戦してきた。低能先生はこれに負けるわけにはいけないと、ある種の正義感から使命感を持ったのだろう。が、当然、その戦いも実際は、他のネットリンチと同質ものでもあった。この同質性がこの事件の重要性だと僕は思う。
 Hagexさんは、そうした低能先生の活動を批判し、はてなのサービスにそうした彼の活動を禁じるように示唆した。「通報&封殺」の旗をお気軽にではあっただろうが双頭鷲旗のように高く掲げたことだろう。Hagexさんと低能先生との繋がりは、どうやらそれだけである。犯行後声明を見ても、Hagexさん個人への怨恨はなかった。
 ではなぜ、Hagexさんが選ばれたのか?
 ネットでは怨恨感のないことから、一種の通り魔的殺人事件であり、防ぎようもないものだし、はてなにも落ち度なく、しいていえば運が悪かったというような意見もいくつか見た。
 僕は違うと思う。なので、このエントリーを書くのだ。
 これは、まっとうにテロであったと思う。
 低能先生は自身の正義思想に歯向かってくるものと戦うために、その優位(ネット弁慶ではない)を実証するために、象徴的な殺人を要したのである。つまり、思想のためにのみ(怨恨もなく)殺害者を選ぶというのは、911でもそうだし、オウム事件でもそうだし、三井物産爆破事件でも同じである。これこそがテロというものである。
 そして、これが本当にテロなのだということを、僕の目からすれば、社会は理解していない。どうしたものかなあ、まあ、ブロガーとして、複数の声となるべく小さな声を挙げておくかというのが、この記事の趣旨である。
 なので、この記事の主眼は以上で終わり。
 あとは、余談である。事件後、声明を読んでずっと考えていたことがある。そしてそのことに触れたメディアも僕の見た範囲でもブログにもなかったので、触れておきたい。
 低能先生の最初の行動プランにあるはてな訪問についてである。彼ははてなで何がしたかったのだろうか?ということだ。
 はてなでテロを行う可能性があっただろうか。
 たぶん、ない。
 それどころか、何がしたかったかは、きちんと声明に書いてある。「はてな本社にこんにちはするつもりだった」と。
 なぜ、はてなに、こんにちはしたかったのだろうか? その理由もきちんと書いてある。「なんだかんだ言ってはてなというか増田が俺をネット弁慶のままで食い止めていた面もあるしなあ 逆に言うと散々ガス抜きさせてもらった恩がある」と。
 僕はそれから低能先生がはてなを訪問する様子をなんどか想像してみた。ドラマのように。それは意外とほのぼのとした情景でもあった。
 今回の事件で、どうやったらこの手の犯罪を防げるのか、という課題を立てて議論したブログもあったが、概ね、解答はなさそうだった。が、低能先生自身が、その解答の一つを述べていることに言及しているのは見かけなかった。
 彼は内面にテロのような強度な正義の情熱を抱えて、それにアンビバレントな意識と理性ももっていた。そのアンビバレンツをその状態で支えていたのが、はてなだった。
 では、はてなのそうしたサービスはすばらしいのか。今後も続けるべきなのか。おもてからは見えないところで、十年近くも試験運用として放置されているかに見える匿名ブログのサービスや、はてな利用者同士で簡易に罵倒が交換できるIDコールや、ネットいじめにしか見えない、はてなブックマークの一覧ページとか、それを放置しておくべきなのか。
 僕なりに考えてみたが、そこはわからない。
 カナダでインセルと呼ばれる、結婚できない男のテロ事件があった。話を端折るがインセルは低能先生に近い面があるだろう。そして、はてなの華々しいダークサイドはこの年代に支えられてもいるように見える。
 彼らの上げる声もまたこの社会のなかの複数の声であるには違いない。そしてその声を聞き届けるはてなの奇妙なサービスはそれなりの社会的な機能を持っていた。
 そこには、なにかしら未来への鍵があるのだろうと思う。どれほど、僕がはてなというサービスにうんざりしていても。

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