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2018.03.28

[書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵)

 性的マイノリティについては、自分なりに関心を寄せてきたが(なぜか自分でもよくわからないが)、「ポリアモリー」にはあまり関心なかった。というか、バートランド・ラッセルや南博とか思い出すが、20世紀初頭からある「オープンマリッジ」と同じじゃね、とか、普通の都市フランス人の生き方じゃね、くらいに考えていた。ちょっと違うかなと思いついたのは、どうも、これ米国発の運動で、日本でもそうした経路で話題になってたんじゃないの、というのが気になったせいだ。手始めに、ありがちな新書でも読むかということで、『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(参照)を読んでみた。ネットのコラム記事のように軽くて、私には二人の恋人がいますぅ、みたいなノリかと思ったら、違った。難しくはないが、かなりきっちり書かれている。永田夏来さんみたいに学者さん?とか思ってその時点で著者紹介を見ると、本書執筆時に博士課程にいた人であった。社会人類学が専門ということで、なるほどねと思った。学問的なフレームワークで、しかもアカデミック・トレーニングを受けた人の本というのは、ある意味読みやすい。

 なにより、「ポリアモリー」が、繰り返すが、きちんと描かれていることに感銘した。著者自身、この考えが世間で誤解される前に手を打ちたい思いがあったらしいが、成功している。また、ポリアモリー的な状況で現実で悩んでいる人へも、かなり思いが通じたのではないだろうか。
 読みやすいが、わかりやすくはない。わかりにくく書かれているのではなく、そもそも対象がわかりにくいせいだろう。ごく簡単に言えば、というかそういうふうに言うと間違うのだが、「公認された不倫」のように理解されがちだ。まったくの間違いとも断定はできないだろうが、新しい契約的な倫理の問題であり、恋愛の質の問題であり、そして、性的なマイノリティーの問題でもある。
 倫理の側面は、表面的にはわかりやすい。複数の恋人がいるなら、そのことを各恋人に理解してもらうことだ。ちょっと露骨にいえば、複数の性関係を了解するということでもある。ただ、ここも「性関係」がキーになるとも限らない。
 恋愛の質についても難しい。著者自身、ポリアモリーの実践者なので、その内的な了解はあるにせよ、正直に「コンヴァージョン」を感覚した体験はないとしている(本書執筆時)。この概念は説明はできるがその意味充足の背景にある恋愛の質の了解は難しい。別の言い方をすれば、多様なポリアモリー論と、本質的なポリアモリー論との分水嶺かもしれない。ただ、本質であるのが正しいということではまったくない。
 性的なマイノリティーの側面は、本書は社会学的に言及していてわかりやすいのだが、関連してBDSMについて触れているところはかなり興味深い。この側面がポリアモリストにとって少ない比率ではないことは、性的マイノリティーの感覚ともどこか通底している。
 本書のそうした、かっちりとした枠組みのなかで、違和感でもないが、奇妙に関心を引くのは、SF愛好の部分である。SFというと、当然、サイエンティフィックなロマンではあるのだが、むしろ、現在世界を超える人間の想像力のロマンと見てよく、その拡張性にポリアモリーの恋愛の質が関連しているのは確かだろう。
 こういうとなんだが、本書がきちんと書かれていることで、社会的に「ポリアモリー」の始末のつけ方のようなものもうまくいくように思えるし、ポリアモリー的な性向の人にとってもある救済的な意味は持つだろうが、恋愛や愛の本質、人間の性的な情念という、いわば本質論として見ていくと、「ポリアモリー」はけっこう難問を多く抱えているように思う。1つ補助線を引けば、宗教的な愛はポリアモリーの恋愛の質に接近しているだろう。本書の記述で言えば、著者はタントラにも関心を寄せているが、この問題も掘り下げると難しい。そもそも知性の歓喜というのは、ポリアモリー的なものなのではないか。
 ぐだぐだ書いたが、ポリアモリーが内包する問題は、LGBTのような性的なマイノリティーのレパートリーでは収まらないだろう。

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