[アニメ] 魔法少女まどか☆マギカ
『魔法少女まどか☆マギカ』をたらたらと見た。見ろと勧められたというほどでもないが、それに近いようなことがあって、なんとなく見始めて見終えた(映画は見ていない)。この手のアニメのキャラクター・デザインは私は苦手なのと、オタクっぽさを感じさせるアニメはそもそも苦手なんで、こんなの俺が見るかなあ、と思っていたが、たらたらと見ることの利点もあるもので、しだいに面白くなった。というか、これはなるほど重たいテーマなのだなと理解した。
以下、ネタバレを含む。それと、この記事は批評的なものではない。感想というか連想というか、そういうものだ。まあ、どうでもいいという類でもある。
この作品で魅力的なキャラクターは、何と言っても、と言っていいのではないか、キュゥべえだろう。古典的な文学作品の文脈で言えば、悪魔の類型になるのだろうが、悪魔が通常、悪なるものを定義する形で表現されるのに対して、キュゥべえは、悪を止揚した状態で現れる。「進化」を象徴している。
進化というものを考えたとき、「自然選択」は善でもなければ悪でもない。ただ、この作品で扱われている「進化」はダーウィン的な進化論の進化ではなく、むしろスペンサー的な俗流進化の概念に近い。つまり、知的な進化というものを想定している。が、このあたり、正統進化論にはそうした知性の高度化のような概念は含まないはずだが(適合していればOK)、通常進化を考えるときは、単に形態や遺伝子の変異ではなく、どことなく知的進化なるものが想定されがちであり、特に、社会的生物における社会性は知的な進化の組織化として扱われやすく、そこに種を超えたコンバージェンスさえもなんとなく示唆されてしまいがちだ。ごちゃごちゃ言ったが、純粋に、というかダーウィン的な枠組みで進化論を考えることが生物学の基本ではあるが、この知的関心域では、例えば、つい進化論をもって創造論に対峙するような意味の次元が問われがちなり、どことなく知的な進化の概念も混入しやすいものだ。
で、魔法少女まどか☆マギカだが、キュゥべえがいなければ、その働きのインキュベーションがなければ、人類は今日の知的生命体になりえなかった、という命題があり、この命題は暗黙的に是なのではないかという直感を含みやすい。そのため、まどかの解法は実は、自己撞着しているようにも見えるが(後述)、いずれ魔獣との戦いという自然選択には置かれるのでそこはまったく矛盾しているわけでもないだろう。
その場合、そして、まどかの解法が避けるものであるが、キュゥべえの存在目的は、ただ知的生命体を生み出すだけではなく、むしろ、この宇宙にいかに絶望という食物を生み出すかにある。これはとても面白いテーマで、作者が知っているかどうか不明だが、神秘家グルジェフの宇宙生命論に近い。彼によれば私たち人類は、月の餌なのである。このあたりの、直感のイマジネーションは面白いことに『宝石の国』にも通じる。月(ルナ)というものの集合無意識のようなものはあるかもしれない。
問題は、つまり、問題解法の枠組みでこの作品を見ると、まどかの解法は、2つの意味があったと思えた。一つは、菩薩の再定義である。法華経に描かれる菩薩、なかでも観音はまさにまどかの変容の解法そのものであると言えるだろう。こうした菩薩的存在の集合的な無意識のようなものはいったいなんなのだろうかというのと、これが、ある種、キリスト教的あるいはヘレニズム的なコスモス観の特徴かもしれない。他方、いわゆるヘブライズム的なキリスト教観からは、直線的な未来である時間の終焉と天国というテロス(Τέλος)が問われる。アルケー(αρχη)がテロスによって問われるとしてもよいかもしれない。
この時間の終焉の神話は、めっちゃ神話でしょ、ということでありながら、現在世界の先進国の諸概念の暗黙的な前提になっている。人権の向上、貧困の撲滅なども時間の終焉において問われるものであり、地球温暖化もダークな時間の終焉の枠組みで問われる。
魔法少女まどか☆マギカのコスモスの時間構造は前提的には、知的進化という点ではヘブライズム的な時間のようでありながら、「ヴァルプルギスの夜」というダークなテロスも物語のダイナミズム上設定されているが、テーマ的にはそれほど明示的なテロスを持っていない。というより、まどかなど、人間知性の苦悩がそのテロスによって救済されはしないという直感的な問題意識に支えられていて、ヴァルプルギスの夜はむしろ物語表現のためにツール化されている。そして、ゆえにというべきか、ほむらが循環的な時間をコスモスに再構成させている。簡単に言えば、輪廻である。
輪廻の時間概念は、基本は循環でありながら、テロス的な直線時間の折衷で漸進性で解釈されることがある。コスモス内の諸存在が、輪廻で転生を繰り返しながら漸進進化していくという考え方である。これも根深い神話的な思想で、通常の私たちでも、子供を産み育て、よい大学に入れようとするなど、自己ジェネレーションの漸進改良になんとなく生の意味を感じている。
インド的な本場の輪廻であれば、コスモスの変容はなく、むしろ、漸進性は個体を定義する。単純にいえば、個体の努力で次転生では自分だけは漸進するというものだ。が、この個定義をコスモスの輪廻に回収すれば、ただ、無意味な絶望だけが残る。ほむらが直面しているのは、この輪廻思想である。そして、これにまどかの菩薩思想が、世界のリセットとして根源的なコスモスの倫理性を損なわないかたちで解法として提示される。
ここで余談めくが、テロス的な時間と個体の定義の関係では、マックス・ヴェーバーが取り出した予定調和的なプロテスタンティズムの絶望がある。個体が生に何を賭けようが、無意味とされる世界である。これが興味深いことに現代社会のキリスト教では異端でもないが正統でもないような曖昧な位置に置かれている。
さてこうした、輪廻においても予定調和においても、個体にとって何をしても無意味というコスモス観がありうるし、なにより現代社会では、とくに、ある種、映像メディアが飽和したことで歴史が人の肉声で語られ書物に記されることから変容し、ただ映像的に再現されるものになったことが遠因ではあると思うが、映像としての再現可能性が歴史であるかのような歴史概念が人々の主要な時間観となってきており、それが若い人の無意識に定着しているなかで、問題テーマとして惹起されたがゆえに、魔法少女まどか☆マギカが無意識的に重視されたのだろう。端的に言えば、その重視というのは、絶望の時間性のなかで、魔女になしかない私を救って、ということでもある。
こうした枠組みを先行していたのは、いうまでもないフリードリッヒ・ニーチェであり、なかでも『ツァラトゥストラはかく語りき』だろう。極論すれば、『魔法少女まどか☆マギカ』は『ツァラトゥストラはかく語りき』と同テーマの作品であろう。
『ツァラトゥストラはかく語りき』では、ニーチェによる近代世界の時間であるテロス性時間への批判から(その意味では彼のキリスト教批判はこれに付随するものに過ぎない)、無慈悲な輪廻としての永劫回帰が描かれる。くどいが、『魔法少女まどか☆マギカ』は永劫回帰というテーマの解法の、思索的な試みである。
そうしたパラダイムで見ると、まどかの解法は、ニーチェが描いたツァラトゥストラが生の意味として最終的に取り上げる「大いなる正午」そのものに見える。その時間の一点にだけに己の全存在をかける願いであり、そこに暗黙に心身の消滅の対価として設定されている歓喜である。
ここで、私は、ようやく戸惑う。
この先を語っていいものだろうか。まあ、いいや、行こう。現在の日本のネット的なある倫理の言論支配の構図のなかでは、ウヨクや戦前は脊髄反応的に忌み嫌われる。だから、特攻隊の精神のようなものは真っ先に唾棄されるものである。なんとなれば、それは無意味であり、どんなに哀れなものであっても犬死であるからということだ。対して、昨今のウヨクも実は同じ意味性の文脈に絡め取られていて、いわく、特攻隊の精神には意味があるのだ、なんとなれば、後代我々はその恩恵で生きているのだから、てな、感じである。くだらない。
話を端折るが、三島由紀夫的な意味での特攻隊の精神とは、彼自身の思想のなかで、現代ウヨク的な後代の日本なる意味が完全に払拭・純化されているわけではないが、その中核にあるのは、ただ、大いなる正午としての特攻という「行動」であった。そこでは美と陶酔が不可分に一義に問われるものだった。私は何が言いたいのかというと、ヒロイズムはそもそもこの三島由紀夫的特攻隊の精神を含みこみがちなアポリアを持っているということだ。その意味で、魔法少女まどか☆マギカのファンを怒らせるか、表層的に誤解させるかしねないが、まどかの解法は、こうした大いなる正午による意味の回復の心的な情感的な仕組みを内在している。
さらに言えば、まどかの解法は宇野常寛が言う「母性のディストピア」に近い。菩薩道がそもそも「母性のディストピア」だとも言えるが、『魔法少女まどか☆マギカ』はその魔法少女たちのキャラデザインのなかですら、母性と菩薩性が含まれている。このことは、反面において、性愛的な世界が初元的に忌避されて捨象されていることからもわかるだろう。ここにはドロドロとした性愛はない。性愛の歓喜もない。
が、こうした単純化で掬い上げられない部分がこの作品には確実にある。ほぼ自明だが、友愛(fraternité)の存在だろう。アニメ作品においては当然であるともいるが、母性的な受容は、ここでは友愛を通して行われている。その回路は市民社会性と言ってもいい。この過渡的な母性と友愛の提示のありかたは、ちょうど日本社会における正義の情感の水準を上手に示しているだろう。
あえてまとめれば、日本の市民の無意識は先駆的な個体絶望のなかで、母性と友愛の中間的な倫理性に置かれている。
まあ、それが同時に、現実的にはLine地獄を生んだり、そこから抜け落ちて「魔女化」してしまう少女群を生み出してもいる。が、現状では、私のたちの友愛の市民社会はまだ存外に無慈悲で魔女化した彼女たちを救うことはできない。無関心ですらある。それは母性と友愛の過渡的な倫理性の限界でもあるだろう。
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