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2018.03.30

脆い東京

 先日、飯田橋のあたりを歩いていて、海抜4mという標識を見かけた。このあたりでも、4mほどかあと思った。神楽坂のほうに歩いていくと坂になっているし、アンスティチュ・フランセも坂にあるので、あの一帯が低地というほどでもないし、そもそも4mもあれば浸水っていうことはないかとも思った。そして、昨日、神田川沿いに歩いて桜を見ていたのだが、改めて神田川が流れるのを見ると、けっこう深い。4mどころじゃないなあ。あれが川の水位だとすると、このあたりの海抜もけっこう低そうだと思った。で、それから何を思ったかというと、東京はけっこう洪水に弱そうだなということだった。
 そして7時のニュースを見たら、東京都が洪水についての情報を出したことを知った。いわゆる「スーパー台風」による高潮があると、これが川をさかのぼり、東京23区のうち17の区で浸水させるという。つられて元の情報をあたってみると、飯田橋の駅あたりは浸水そうだった。神田川は早稲田あたりは大丈夫そうだった。それでも、地図を見るとけっこう浸水するのがわかる。墨田区、江東区、江戸川区あたりは全域沈むなあ。大災害の可能性は高い。が、逆にいうと、東京全域が沈むわけでもないので、特定地域の非難を確立しておけばいいのだろう。
 そういえば、これも先日、広尾から新宿に向かうおり、バスに乗った。新宿の街並みには慣れているので、降りる場所もわかるのだが、バス停名としては「新宿追分」というのだなとあたらめて知った。降りて、紀伊国屋書店のビルを見る。このビルは私の青春がつまっているようなものだなと思う。古い。という印象でいたら、このビル、震度6で倒壊の恐れがあるらしい。
 これもまた東京都の情報。平成25年施行の改正耐震改修促進法を基準に、都内のビルなど852棟を再調査した。震度6強以上で倒壊・崩壊の危険性が高い建物が156棟。紀伊国屋ビルディングもこれに入る。危険性がある建物だと251棟。数だけ見ると、すごいなと思うが、区内にはビルが多いので、そのくらいかなとも思える。
 とま、簡単にいうと、洪水で隅田川以東は沈む。震度6で昭和の建物の多くは倒壊する。けっこうな災害だなと思う。
 が、再考してみると、東京が全滅するというほどでもないだろう。
 他に想定される災害はなにかな。富士山の噴火も想定されるが、東京の壊滅というほどではないだろう。
 なんか重要な災害想定を忘れているような気がするがなんだろ? 


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2018.03.29

[書評] フランス人 この奇妙な人たち(ポリー・プラット)

 フランス語を学ぶということは、日本語ネイティブの私とっては、外国語を学ぶということ、多種外国語があるなかの一つを学ぶということで、特殊なことではない。言語と文化、その言語を使う人たちの民族的な要素なども、その言語とは分離して考えられるはずのものだ。が、実際にはそうもいかない。むしろ、フランス語を学ぶということは、フランス文化やその歴史、さらには民族性を学ぶということにつながる。この点、英語だと、英語を使う人は多様なので(米国人内ですら多様)、もう少しゆるく考えられる。というか、フランス語を学んでみたら、こうした付随的に見える要素がけっこう多く感じられて驚いた。つまり、フランス人って、どうしてああなの? ああ、という部分は、日本人からすると、とても興味深いのである(たぶん、逆もまた真なりだろうけど)。

 フランス語を学びながら、折に触れてフランス文化やその歴史を学ぶ。フランス語を学ぶうえでのインセンティブにもなるが、フランス語を学ぶことでこうした文化や歴史の理解も深まって楽しい。関連する各種の本を読んでいるが、基本、軽いエッセイのようなものがよい。本書『フランス人 この奇妙な人たち』(参照)もそうした一貫として気軽に読んでいたのが、これ、最初の2つパートは、笑いながら、そして、米国人である著者からすると、フランス人はこう感じられるのだろうなという面白さもあって読めるのだけど、パート3はかなり、がしっとした内容になっている。なにより、フランス史のお勉強である。フランスを理解するには、フランス史が欠かせないということが、よくわかる。しかも、これがけっこう深い。なかでも、アラベールとエレオノール・ダキテーヌに焦点が当てられている。まあ、そうなんだろうな。とくに、エレオノールについてはアンジュー帝国成立にも関わる。余談だけど、出口治明さんの世界史の本にはアンジューが出てくるけど、現在の世界史の教科書とかでもたしか出てこない。
 このあたりの説明読んでいるとがちで世界史のお勉強なんだが、なるほど、こういう知識がないとフランスというのはわからないものなのだと、しみじみ思う。この部分だけの本書を読む価値がある。
 その他、フランスの官僚主義や技術至上主義などもよく描かれていて、いわゆるフランスについて書かれたものに比べるとかなり深く掘り下げている。
 ただし、である。情報が古い。キンドルで読んでいたので、書誌がわからないのだけど、内容がけっこう古い。当初の翻訳ににあたって、訳者の配慮だと思うけど、日本人の視点が追加されたようだ。その日付の情報もない。新装版なのだから、少し注を増やしてもよいようには思えた。
 それでも著者紹介を見ると、2008年に死去とあるので、それ以前の本であることはわかる。また彼女のフランス体験は、1967年に始まるあたりも、けっこう以前からフランスを観察していることがわかる。
 原書は英書なのでそっちの情報をあたってみると、原書の出版年は1994年のようだ。四半世紀は前になる。英語圏では、フランスを知るバイブル本というくらいに評価もされていたようだ。
 というわけで、本書に描かれているフランスはひと時代前のフランスということになる。が、歴史は変わらないし、読めばわかるけど、現代でもフランス人ってこういう人たちだよなという気質の面ではあまり変わっていないように思う。
 読み終えていろいろ思うが、日本人も、けっこう奇妙な人たちであるよなと思う。それと、フランスという国やフランス人の生き方から学ぶものも、たくさんあるように思えた。


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2018.03.28

[書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵)

 性的マイノリティについては、自分なりに関心を寄せてきたが(なぜか自分でもよくわからないが)、「ポリアモリー」にはあまり関心なかった。というか、バートランド・ラッセルや南博とか思い出すが、20世紀初頭からある「オープンマリッジ」と同じじゃね、とか、普通の都市フランス人の生き方じゃね、くらいに考えていた。ちょっと違うかなと思いついたのは、どうも、これ米国発の運動で、日本でもそうした経路で話題になってたんじゃないの、というのが気になったせいだ。手始めに、ありがちな新書でも読むかということで、『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(参照)を読んでみた。ネットのコラム記事のように軽くて、私には二人の恋人がいますぅ、みたいなノリかと思ったら、違った。難しくはないが、かなりきっちり書かれている。永田夏来さんみたいに学者さん?とか思ってその時点で著者紹介を見ると、本書執筆時に博士課程にいた人であった。社会人類学が専門ということで、なるほどねと思った。学問的なフレームワークで、しかもアカデミック・トレーニングを受けた人の本というのは、ある意味読みやすい。

 なにより、「ポリアモリー」が、繰り返すが、きちんと描かれていることに感銘した。著者自身、この考えが世間で誤解される前に手を打ちたい思いがあったらしいが、成功している。また、ポリアモリー的な状況で現実で悩んでいる人へも、かなり思いが通じたのではないだろうか。
 読みやすいが、わかりやすくはない。わかりにくく書かれているのではなく、そもそも対象がわかりにくいせいだろう。ごく簡単に言えば、というかそういうふうに言うと間違うのだが、「公認された不倫」のように理解されがちだ。まったくの間違いとも断定はできないだろうが、新しい契約的な倫理の問題であり、恋愛の質の問題であり、そして、性的なマイノリティーの問題でもある。
 倫理の側面は、表面的にはわかりやすい。複数の恋人がいるなら、そのことを各恋人に理解してもらうことだ。ちょっと露骨にいえば、複数の性関係を了解するということでもある。ただ、ここも「性関係」がキーになるとも限らない。
 恋愛の質についても難しい。著者自身、ポリアモリーの実践者なので、その内的な了解はあるにせよ、正直に「コンヴァージョン」を感覚した体験はないとしている(本書執筆時)。この概念は説明はできるがその意味充足の背景にある恋愛の質の了解は難しい。別の言い方をすれば、多様なポリアモリー論と、本質的なポリアモリー論との分水嶺かもしれない。ただ、本質であるのが正しいということではまったくない。
 性的なマイノリティーの側面は、本書は社会学的に言及していてわかりやすいのだが、関連してBDSMについて触れているところはかなり興味深い。この側面がポリアモリストにとって少ない比率ではないことは、性的マイノリティーの感覚ともどこか通底している。
 本書のそうした、かっちりとした枠組みのなかで、違和感でもないが、奇妙に関心を引くのは、SF愛好の部分である。SFというと、当然、サイエンティフィックなロマンではあるのだが、むしろ、現在世界を超える人間の想像力のロマンと見てよく、その拡張性にポリアモリーの恋愛の質が関連しているのは確かだろう。
 こういうとなんだが、本書がきちんと書かれていることで、社会的に「ポリアモリー」の始末のつけ方のようなものもうまくいくように思えるし、ポリアモリー的な性向の人にとってもある救済的な意味は持つだろうが、恋愛や愛の本質、人間の性的な情念という、いわば本質論として見ていくと、「ポリアモリー」はけっこう難問を多く抱えているように思う。1つ補助線を引けば、宗教的な愛はポリアモリーの恋愛の質に接近しているだろう。本書の記述で言えば、著者はタントラにも関心を寄せているが、この問題も掘り下げると難しい。そもそも知性の歓喜というのは、ポリアモリー的なものなのではないか。
 ぐだぐだ書いたが、ポリアモリーが内包する問題は、LGBTのような性的なマイノリティーのレパートリーでは収まらないだろう。

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2018.03.27

[書評] 回避性愛着障害(岡田尊司)

 自分、60歳にもなって人生擦り切れてきているわけで、おかげで将来の夢も不安もない。人生悩んでいても、そもそも生きられる時間がたいしてないうえに、老化は急に止まらない状態なんで、心の悩みとかあったとしても、そもそも意味がない、はずなのだが、ある。この歳こいて、けっこう日々内面が苦しい。成人した子供もいるというのに、自分の内面に子供期の母子関係の失敗が今も心に影響しているという実感がある。つらい。笑えるほどつらい。

 なんだろうか。難病は抱えているとはいえ、肢体に問題ないのだが(腰や足が痛いとか別として)、なんだか気が付いたら左足がないといったふうな身体欠損のように、心のある大切な部分がごっそりないぞ、俺は、という感じがしばしばする。
 こうしたものに向き合っても、なんもないというのが我が人生の結論でもあるのだが、それでも最近、「愛着障害」というのが気になって、本書『回避性愛着障害』(参照)を読んでみた。
 まあ、それだ。本書副題にあるように「絆が希薄な人たち」に自分は入る。リアルな人間の関係から回避して生きているのが俺だ。まさに、回避性愛着障害である。どうでもいいが、「かいひせい」って入力すると「会費制」が出てくるのはいいな。
 で、ま、こういうと失笑を買うのはわかっているが、我ながらSNSが好きではない。しかたなくフェースブックにも登録したが、使ってない。のわりに、ツイッター廃人でもあるが、これも本書に指摘のあるとおり。《リアルの関係と、ネットワークの関係は、一見、同じように見えても、そこには決定的な違いがある。》 そりゃな。

 そのために、まずやるべきことは、パソコンやケータイの画面との接触時間を短くすることである。一日一時間くらいに抑え、メールのチェックも一日一~二回時間を決め、そのときだけ返事を書くようにする。メル友には、その旨を通知しておけばいい。メールの奴隷のような生活を脱しよう。

 どうでもいいけど、この本、いつの本? 2013年。すでにラインとかツイッターとかあったんじゃないかというか、まだそこまでSNS病が蔓延している時代でもなかったか、5年前。
 いずれにせよ、ネットを介した人間関係というのは、人間関係の偽物のようなものだろうし、まさに、リアルからの回避行動でツイッターとかしているのだろう。と、ふと思い出したが、昨年の今頃、ツイッター数か月止めてたし、ブログも半年くらいお休みだったか。まあ、どうでもいいけど。
 問題は愛着障害だ。どうしたらいいんだよ。基本は二つだろうか。一つは、シェルターというか「安全地帯」になるような人間関係を構築しなおすこと。自分についていえば、けっこうあるにはあるか。ただ、それを広げていくというのはできそうにはないな。二つ目は、コミットメント。人生から逃げないと決意する、面倒なことから避けない、というのだ。それもある程度はしているか。

 本当に必要なことは、不安や恐れから逃げることではなく、それに敢えて自らをさらし、それに立ち向かっていくことではないか。不安や恐れを抱えて生きるということが、生きるということだとしたら、不安や恐れから逃れようとしたとき、人は自分の人生からも逃げてしまうことになってしまう。

 そうかもしれないけど、それもまた、なんというか、空回りで満身創痍になってしまうものだしなあ。
 本書は、そういうふうに斜に構えて読むと、お説教本のようにもなってしまうが、こてこてと書かれている文章はカウンセリングでも受けているような気分になるし、なにより、こりゃ自分は愛着障害なんだからなあというのは自覚が進む。また、回避性愛着障害をもってたような文学者や著名人などのエピソードも面白い。著者の学生時代のフランス語授業の話も面白い。そこだけ小説であっても、読みたいぞ。
 さーて、どうしたものかなあ。


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2018.03.26

[書評] ストーリー式記憶法(山口真由)

 記憶術や記憶法の関連書籍を探しているときにたまたま、『誰でもできるストーリー式記憶法』(参照)という本を見つけて関心をもった。記憶術には物語法というのはあるが、本来関連の薄いアイテムをこじつけて物語にするという手法で、物語記憶自体を記憶法として正面から扱った本というのを知らなかったからだ。基本的に、記憶術や記憶法の書籍は、図式的に理解するか、あるいは視覚的に情報を圧縮するか、無理やり物語を作るか、あるいは語呂合わせや歌詞にする、というのが多い。

 表紙には若い女性の写真があり、その人が著者なのだろうと紹介文を見ると、一時期ネットでも話題になっていた人だった。名前と顔と著作が私には結びついていなかった。著名人らしい。たまたまこの本を読んでいるとき、のぞき込んだ人が、その人知ってるよ、勉強法ついての本読んだことがある、と言っていた。
 内容。ハウツー本としてよく編集されているが、基本、時系列に物語を深く理解して覚えるということに終始している。秘訣がないわけではないのだが、ようするに物語をよく理解するというのが基本。これに加えて、音読もよい、繰り返すとよい、対象を好きになるとよい、というコツがある。
 読んでいて、なんというのだろうか、「ああ、人類の神話の記憶ってこうやって伝承されてきたんだろうな」という、すごく原始的な人間頭脳の使い方を再考することになった。いや、それってほんと大切なんじゃないかというのがよくわかった。
 あれだ。ロシア人の女性に、二時間映画の内容を聞くと、こまかに二時間きっちり話をしてくれるというやつだ。ドストエフスキーもアンナ・スニートキナの口述筆記がなかったら、年取ってあんな饒舌な小説は書けなかったのではないか的な何かだ。
 本書は多分に著者の自伝的な要素がある。そもそもこの記憶法は彼女の体験から生まれたものだからだ。その話はとても興味深いのだが、これって、ようするに著者がすっごい生まれつき地頭がいいというだけのことじゃね、という疑問がわいてきた。ので、先ほどの「知ってる」といった人にそのあたり聞いてみた。つまり、著者の勉強法は役立ったかだろうか。
 ある程度は役立った、と言っていた。7回読む勉強法というのもやったという。が、4回で挫折したらしい。なるほど。まあ、普通そうだろう。本書の記憶法も役には立つだろうけど、「誰でもできる」ということは、多分ないだろう。
 皮肉な言い方に結果的になってしまうかもしれないが、生まれつき地頭のいい子供っていうのの、内面はどうなっているのだろう、ということを知る手記として、とても面白いのである。本書にはいろいろそうしたツボがある。なかでも、「人に教えてもらわない」「人に教えない」というのは、なるほどねと思った。自分の理解のスキームが強固なら、そこに他者の思考のスキームを混ぜないほうがよいだろうな。
 こうした、地頭ばつぐんの子供の調査としていうのを学問的にやった研究ってないのだろうか。天才の研究というのはあるが、普通に頭がいいという子供たちの特性とか。
 そういえば、さっきのロシア人女性の物語記憶力の話だが、日本人女性にもそういう人いる。というか、若いころちょっと付き合った女の子にそういう子がいた。どうでもいい。
 ほかにもいろいろ思ったことがある。
 そうだよねと膝を打った(昭和表現)のが、本の厚みで覚えるという話。著者は六法全書を厚みで覚えるというのだが、これは僕も経験ある。本を読んでいると、厚みでどのあたりにどんな内容があったか覚えているのだ。ページの段落の全体の形も記憶に残っている。そういえば、本にしおりを挟む代わりにページの数を覚えておくというのもある。いずれ、紙の本でないとできないし、そういう点で、紙の本もいいなと改めて思う。
 7回読書法とも関係するが、読んだ回数の記録を本に書き込んでおくというのもいい。
 ラインマーカーとか使わず、覚えたいところを書き出すというのもいいだろう。本を読むとき、メモ用紙とか挟んでおくかな。
 記憶のバグの話もためになった。最近、ぼけっと、人と民放クイズ番組を見る機会があるのだが、我ながらなんでこんなこと記憶しているんだという、記憶がひょいひょいと出てくる。わお、俺スゲーと言いたいところだが、けっこう記憶にバグもあるのに気が付いた。そういうもんだろう。
 本書ではOutlookの活用法の話もある。なんだか盛りだくさんな本だなと思うが、そういえば、自分も最近、似たようなことをしている。テキスト化できずに覚えておきたいことがあったら、写真にとってKeepに入れておく。ほかにも、暗記する例文の本のページとか写真で入れといて、電車とかでちょこっと見て覚えたりする。
 ってな感じで、この本を読んでいると、対比的に、自分はこうだなという、脳みその使い方に気が付く。という点でも、本書はとても啓発的だった。著者の他の本も読んでみよう。


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2018.03.25

桜いろいろ

 数年前ごろから、あちこち桜の巨木が枯れ始めた。ソメイヨシノ(染井吉野)である。よく樹齢60年と言われるが、さもありなという感じがしていた。詳しくは、そういう寿命はないらしい。それでも、経験的にそういう印象が濃くなる事例は多い。
 自分の大学にも見事な巨木の桜並木がある。40年も前になるが、初めて見たときには、あまりの見事さに現実感がなかった。その後、沖縄転居や育児なので、久しく見ることがなかったが、一昨年見に行き、今年も見に行った。今なお見事ではあるが、巨木の多くは朽ちたのだろう、なくなり、新しいソメイヨシノが植樹されていた。それでいいと思う。そういえば、バス停には見事な山桜が一本あったが、あれは朽ちたのではなく、整備で切られたのかもしれないなとも思った。
 懐かしい場所の桜がどんどんと朽ちていく。これらはみな戦後直後に植樹されたものだろうし、よくもまあ、これだけ植樹したものだとも思う。それが朽ちていく様子は、戦後日本というものが朽ちていくことの比喩にも思える。
 だが、今年はそうでもなかった。意図的に、各所桜を見に回ってみると、ソメイヨシノ以外の桜がいろいろあることに気がつく。オオヤマザクラというのも美しかった。

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 楊貴妃という桜も意識して見たのは初めてではなかったか。

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 陽光というのも初めて見た。沖縄ではカンヒザクラ(寒緋桜)をよく見たものだが、陽光はその掛け合わせであるらしい。ついでにその新桜誕生の物語で『陽光桜』という映画があるのも知った。まだ見てはいない。

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 カンヒザクラも東京で見かけた。東京で咲くものなのかと不思議に思えた。陽光以外にも、この掛け合わせは増えているらしい。
 カワヅザクラは人工的な交配ではないようだが、カンヒザクラの自然交雑種らしい。うくつしかった。

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 いろいろな桜があるものだと思う。一時期よりはソメイヨシノも美しいものだと思うようにはなったが、それでも、戦後のある種、呪いのようなものも感じする。多様な桜で彩られていく日本の春の風景のほうが、私は好きだな。

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2018.03.24

[アニメ] A.I.C.O. Incarnation

 3月2日に公開されたNetflixの『B:The Beginning』に続いて、一週間後に公開された『A.I.C.O. Incarnation』も見終えた。どちらもクオリティが高い。今後もこうしたオリジナル作品がNetflixで公開されていくのだろうと思う。そのことが日本のアニメ界にどのような影響をもたらすかについては、私にはまだわからないが、アニメの楽しみが増えていくことは間違いない。
 この『A.I.C.O. Incarnation』だが、まず表面的には一癖のある作品と言えるだろう。同時に、過去の各種アニメの想像力の延長という面もある。が、基本的に異質な作品のために、視聴側が過去のアニメの累計としてついとらえがちになるのかもしれない。
 話の仕立ては謎解きになっている。主人公の橘アイコはある大事故で家族を失い、病院に付属した学校に通学しているが、その学校の同クラスに、年度の終わり間際に神崎雄哉という少年が転校してくる。そこから「物語」は始まる。が、ボーイ・ミーツ・ガール系の話ではない。
 大事故が特殊なものである。物語世界の設定は、最先端医療技術として人工生命体技術を国家の売りとしている2035年の日本である。その2年前、その技術推進のために作られた黒部峡谷の研究都市の、かなめともいる桐生生命工学研究所で人工生命体暴走事故「バースト」が発生した。渓谷一帯がダム決壊のように人工生命体「マター」の異常増殖によって汚染され、政府管理の危険地帯なる。マターは進化しつつ、黒部地域を超え、海域から世界へと汚染を広がる危機にある。研究所は汚染源の「プライマリーポイント」と呼ばれ、この危機を克服するために、神崎雄哉が橘アイコをその地点に連れて行くという。が、その理由は前半では明確にはされていない。危険地域に内に入るためには、潜入を専門とする「ダイバー」チームと行動を共にすることになる。プライマリーポイントに近づくまで、凶暴化したマターと戦闘を繰り広げることになる。映像的にはそのあたりもこの作品の面白いところでもある。
 この設定は複雑と言えば複雑である。暗喩の構造も入り組んでいる。まず、マターは水源の決壊のイメージとしてダムの環境問題があるが、それよりも、福島原発事故の放射線汚染のイメージが重ねられている。また、マターの暴走は、がん細胞の増殖転移の暗喩からなり、プライマリーポイントはがん幹細胞に重なる。さらにこれに、人工生命や意識のハードプロブレムが関わる。というか、最終的には、この意識のハードプロブレムが浮上してくる。その意味では、この物語のテーマ性では、哲学的にこれをどう解くのかという興味につながる。なお、「アイコ」という名前も比喩であるとしか想定できないのもこの物語の異様さでもある。
 以下、ネタバレを含む。

 主人公でもあり、自身が、自分が橘アイコだと思っている本人の、その意識主体が人工生命体であり、本人ではなかった。むしろ、マターがアイコであったという意識の同一性の問題が、情感を含んだ劇としてどう解かれるのかということは興味深い。この劇性は、『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマを継ぎ、かつ超えている(とはいっても作品の形式はかなり異なるが)。さらに訴求すればこの問題は、私がcakesに取り上げた手塚治虫『アポロの歌』にも関連している。
 問題を問題として見るなら、もうひとりの私が「私」の運命を引き受けるということだ。制作側での暗喩的意図はないだろうが、イエスが人の罪を追って十字架に赴き復活するという神話構図をなぞってはいる。そのせいもあってか、奇妙な後味を無意識に残す。
 それはなんだろうか。しばらくして私の無意識に浮かんできた構図は、この世界の人ではなくなった、父と娘の性愛を超えた疎外ということだった。
 アイコの愛の物語が、母性的な包括性で世界を救済するかに見えて、実際に世界救済の代償となったのは、性愛が本源的に失われた父と娘のダイアードであった。もちろん、これはただの疑似ハッピーエンドの後日譚としてもよいにはよいのだが、世界の危機から回復された、なにも変わらないかに見える日常世界の代償として提示されていることは明瞭なので、その意味は大きい。「アイコ」という名前の日本国家の意味にも関連はする。
 これはどういうことなのだろうか。
 おそらく、人の個体が性の選択の結果であるということは、男である、または女であるということだが、それを性愛や家族的な愛情に流し込んでしまうのではなく、性のない心的な地点の、父と娘という特殊な友愛が許される世界の可能性だろう。「地下アイドル」とサポーターの関係にも近い。こうしたダイアードの、人類に対する意味は何かというと、意外にも人類史の最先端の問いかけなのかもしれない。


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2018.03.22

あまのじゃく

 来年改元される。どうでもいいと思う。そもそも「平成」なんていう年号は使ってないし、人生の時間をそれで意識することもなかった。お役所で元号記入しなければいけないときは、「ええと、12を足してぇ」とつぶやく。2018に12を足して、頭の20を取ると、30。だから、今年は平成30年。来年は平成31で新元号だと大作元年になる。ってギャグ面白い?
 とか言いつつ、自分も昭和の人だと思う。自分が生まれたのは、スプートニクが地球から投げられた1957年だが、同時に昭和32年でもある。あいつは永遠に宇宙をさまよっているんだろう。
 こうしてみると、我ながら、すっげー爺さんになった気がする。が、人によってはそう爺さんでもない。佐川君とか同い年なのを最近知ったが、髪もふさふさして若々しい。そういえば、高校の同級生で、浪人しようなと言ってたのにすべり止めで成蹊大学に入って公務員になってどっかの大学の教授さんになったのがいたが、あんな感じだったか。
 何が言いたい? いや、自分、昭和の人だと思う。昭和の真ん中あたりで生まれて、驚くんだけど、いまだに昭和の人生のほうが長い。で、いいかな。っていうかだいたい半分に来たか。いずれ、自分は昭和の人であるなと思う。明治34年生まれの草田男が明治を遠く思ったのは、学生時代のことだから、そう年食ってたわけでもなく、明治生まれの自分というものを思ったものでもないだろうが、自分についていえば、最近、なにかと昭和は遠くなりにけりと思う。
 ふと、昭和言葉が頭に浮かぶときがそうだ。というのでふと思いついたのが「あまのじゃく」である。今でも使う?
 ぐぐってみたら『あまのじゃくな氷室さん』というのが出てきたので、まあ、今の人でもわかる言葉なのだろうし、思うに、氷室さんはあまのじゃくなんだろう。ツンデレの言い換え? ツンデレとあまのじゃくは違うか。
 漢字で「天邪鬼」とやってみても、まあ、そう死語でもなさそうだが、地方とかおっさんとかが使ってそうな印象はある。
 でもなあ、なんとなく、あまのじゃくっていう言葉を聞かなくなった気がするんだよな。っていうか、自分、よくあまのじゃくって言われたものだが、そう言ってくれる人が周りにいなくなったってことか。
 「あまのじゃく」というのは、考えてみると、そういう捻くれた心性の人をそのまま受けれいる言葉だったような気がする。少し、あまい響きがある。「あいつ、あまのじゃくだからなあ」、みたいに。そして、こんなふうに続く。「そうはいっても、無理矢理でも誘えば、きっと嬉しがるよ」。ないなあ。それ、ない。今、そういうのないんじゃないか。
 あまのじゃくという心性は、まだ、日本にはあるんだろうか。よくわからない。自分はあまのじゃくとして取り残されて、石になって、宇宙を漂っているのかもしれない。そして、そのうちカーズは考えるのをやめた的ななにか。


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2018.03.21

『ツァラトゥストラはかく語りき』の思い出

 ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を最初に読んだのは、中学生のころだった。中二だったのではないか。この作品はまさに中二病で読めそうな古典である。そう思える理由としてすぐに思いつくことは、単純な神話劇の構造をもっていることと、芥川龍之介の『侏儒の言葉』のようにアフォリズムであることだ。保守派論客のようになってしまって久しい西尾幹二だが1978年に講談社現代新書で『ニーチェとの対話 ツァラトゥストラ私評』を書いたころはドイツ出羽守といった感じだった。同書は新書という性格から読みやすさを狙ったのかもしれないが、基本的にアフォリズムとしての理解が基本で、かつ『ツァラトゥストラはかく語りき』の前半しか扱ってなかった。当時高校生の私ですら、専門家でも意外に稚拙な読みをするものだなと思ったりもしたものだ。中二病は悪化していたのである。
 ニーチェの思想は、そうした部分部分で見るなら、140文字で収まるまるで気の利いたTweetのような側面があり、そこで読み誤る。世人はニーチェなど読めはしないものだとなんとなく思っていたが、数年前、啓蒙書でニーチェの言葉みたいな本がそれなりに売れた時期、なんだこれ、と思って手にしてめくると、予想に反して、かなりきちんとニーチェの思想を読み込んでいることに驚いた。こいうとなんだが、大正時代の帝大生のデカンショも年月を経るにきちんとスキーマティックに理解されるようになるものだと思った。が、他面、『ツァラトゥストラはかく語りき』はこういう通解とは違うのだろうなとも思っていた。
 自分だけがニーチェの思想を読み込めた、『ツァラトゥストラはかく語りき』を読めた、といった幻想を当時十代の私が抱けたのには、青年期の特権でもあるが、もう少し理由がある。1971年の講談社文庫の青で読んだことだ。
 当時、10代だったが、この青のシリーズはほとんど読んでいた(『パンセ』なども)。訳者は吉沢伝三郎で書名も『このようにツァラトゥストラは語った』である。この訳書は、1969年理想社刊のニーチェ全集から採ったものではないかと思うが、書名の口語からも察せられるように当時の翻訳としてはもっとも優れていたようだ。その上、ハイデガー注を基本とした注釈がうんざりするほどついていた。振り返ってみると、私はニーチェの著作を読んでいたというより、ハイデガー思想を読んでいたのかもしれない。余談だが、同訳書は更にリファインされてちくま学芸文庫のニーチェ全集に収録されている。
 ハイデガーに結果として導かれたため、この作品の劇的構造については、意外にも迂闊だったことを思い知ったのは、世界思想社の現代教養文庫の秋山英夫著『ツァラトゥストラ』を読んだことだった。この本は原作をわかりやすくパラフレーズしている抄訳本ではあるが、逆にそのことで、原典のもっている劇的な文学としての側面が理解しやすい。当たり前といえば当たり前だが、ニーチェはワーグナーの歌劇『ニーベルングの指環』に、直接対抗してというほどではないが、劇としての思想として『ツァラトゥストラはかく語りき』を描いたものだった。ニーチェとワーグナーの劇としての思想提示には、いわゆる思想に還元されないパトスの、密教的ともいえる追体験の時間を要する。余談の余談だが、日本ではついホロコーストの文脈で読まれてしまう、フランクル『夜と霧』も、cakesでも取り上げたが、詩劇として創作されたものであり、原書では、後半スピノザが出て来る劇が含まれている(日本版・英語版にはない)。
 ここでまた余談だが、世界思想社の現代教養文庫は中学生・高校生時代によく読んだものだった。当時の現代詩関連の著作も多いのが特徴的だった。調べてみると、現在ではKindle用で再販されていて、当時の秋山英夫著『ツァラトゥストラ』(参照)もある。私としてはお勧めしたい作品である。
 『ツァラトゥストラはかく語りき』は、文学的には劇の構造を持っている。ドラマである。であれば、単純にNetflixなどでドラマとして翻案もできるだろうし、アニメにもできるだろう。そう考えてみて思うのは、翻案の形を取らなくても、その本質的なテーマを引き受けた各種のドラマ作品があればよいだろう。別の言い方をすれば、ニーチェの劇としての思想と密教的な了解は、現代では、ドラマやアニメで提示されているのだろう。

  

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2018.03.20

[アニメ] 魔法少女まどか☆マギカ

 『魔法少女まどか☆マギカ』をたらたらと見た。見ろと勧められたというほどでもないが、それに近いようなことがあって、なんとなく見始めて見終えた(映画は見ていない)。この手のアニメのキャラクター・デザインは私は苦手なのと、オタクっぽさを感じさせるアニメはそもそも苦手なんで、こんなの俺が見るかなあ、と思っていたが、たらたらと見ることの利点もあるもので、しだいに面白くなった。というか、これはなるほど重たいテーマなのだなと理解した。
 以下、ネタバレを含む。それと、この記事は批評的なものではない。感想というか連想というか、そういうものだ。まあ、どうでもいいという類でもある。

 この作品で魅力的なキャラクターは、何と言っても、と言っていいのではないか、キュゥべえだろう。古典的な文学作品の文脈で言えば、悪魔の類型になるのだろうが、悪魔が通常、悪なるものを定義する形で表現されるのに対して、キュゥべえは、悪を止揚した状態で現れる。「進化」を象徴している。
 進化というものを考えたとき、「自然選択」は善でもなければ悪でもない。ただ、この作品で扱われている「進化」はダーウィン的な進化論の進化ではなく、むしろスペンサー的な俗流進化の概念に近い。つまり、知的な進化というものを想定している。が、このあたり、正統進化論にはそうした知性の高度化のような概念は含まないはずだが(適合していればOK)、通常進化を考えるときは、単に形態や遺伝子の変異ではなく、どことなく知的進化なるものが想定されがちであり、特に、社会的生物における社会性は知的な進化の組織化として扱われやすく、そこに種を超えたコンバージェンスさえもなんとなく示唆されてしまいがちだ。ごちゃごちゃ言ったが、純粋に、というかダーウィン的な枠組みで進化論を考えることが生物学の基本ではあるが、この知的関心域では、例えば、つい進化論をもって創造論に対峙するような意味の次元が問われがちなり、どことなく知的な進化の概念も混入しやすいものだ。
 で、魔法少女まどか☆マギカだが、キュゥべえがいなければ、その働きのインキュベーションがなければ、人類は今日の知的生命体になりえなかった、という命題があり、この命題は暗黙的に是なのではないかという直感を含みやすい。そのため、まどかの解法は実は、自己撞着しているようにも見えるが(後述)、いずれ魔獣との戦いという自然選択には置かれるのでそこはまったく矛盾しているわけでもないだろう。
 その場合、そして、まどかの解法が避けるものであるが、キュゥべえの存在目的は、ただ知的生命体を生み出すだけではなく、むしろ、この宇宙にいかに絶望という食物を生み出すかにある。これはとても面白いテーマで、作者が知っているかどうか不明だが、神秘家グルジェフの宇宙生命論に近い。彼によれば私たち人類は、月の餌なのである。このあたりの、直感のイマジネーションは面白いことに『宝石の国』にも通じる。月(ルナ)というものの集合無意識のようなものはあるかもしれない。
 問題は、つまり、問題解法の枠組みでこの作品を見ると、まどかの解法は、2つの意味があったと思えた。一つは、菩薩の再定義である。法華経に描かれる菩薩、なかでも観音はまさにまどかの変容の解法そのものであると言えるだろう。こうした菩薩的存在の集合的な無意識のようなものはいったいなんなのだろうかというのと、これが、ある種、キリスト教的あるいはヘレニズム的なコスモス観の特徴かもしれない。他方、いわゆるヘブライズム的なキリスト教観からは、直線的な未来である時間の終焉と天国というテロス(Τέλος)が問われる。アルケー(αρχη)がテロスによって問われるとしてもよいかもしれない。
 この時間の終焉の神話は、めっちゃ神話でしょ、ということでありながら、現在世界の先進国の諸概念の暗黙的な前提になっている。人権の向上、貧困の撲滅なども時間の終焉において問われるものであり、地球温暖化もダークな時間の終焉の枠組みで問われる。
 魔法少女まどか☆マギカのコスモスの時間構造は前提的には、知的進化という点ではヘブライズム的な時間のようでありながら、「ヴァルプルギスの夜」というダークなテロスも物語のダイナミズム上設定されているが、テーマ的にはそれほど明示的なテロスを持っていない。というより、まどかなど、人間知性の苦悩がそのテロスによって救済されはしないという直感的な問題意識に支えられていて、ヴァルプルギスの夜はむしろ物語表現のためにツール化されている。そして、ゆえにというべきか、ほむらが循環的な時間をコスモスに再構成させている。簡単に言えば、輪廻である。
 輪廻の時間概念は、基本は循環でありながら、テロス的な直線時間の折衷で漸進性で解釈されることがある。コスモス内の諸存在が、輪廻で転生を繰り返しながら漸進進化していくという考え方である。これも根深い神話的な思想で、通常の私たちでも、子供を産み育て、よい大学に入れようとするなど、自己ジェネレーションの漸進改良になんとなく生の意味を感じている。
 インド的な本場の輪廻であれば、コスモスの変容はなく、むしろ、漸進性は個体を定義する。単純にいえば、個体の努力で次転生では自分だけは漸進するというものだ。が、この個定義をコスモスの輪廻に回収すれば、ただ、無意味な絶望だけが残る。ほむらが直面しているのは、この輪廻思想である。そして、これにまどかの菩薩思想が、世界のリセットとして根源的なコスモスの倫理性を損なわないかたちで解法として提示される。
 ここで余談めくが、テロス的な時間と個体の定義の関係では、マックス・ヴェーバーが取り出した予定調和的なプロテスタンティズムの絶望がある。個体が生に何を賭けようが、無意味とされる世界である。これが興味深いことに現代社会のキリスト教では異端でもないが正統でもないような曖昧な位置に置かれている。
 さてこうした、輪廻においても予定調和においても、個体にとって何をしても無意味というコスモス観がありうるし、なにより現代社会では、とくに、ある種、映像メディアが飽和したことで歴史が人の肉声で語られ書物に記されることから変容し、ただ映像的に再現されるものになったことが遠因ではあると思うが、映像としての再現可能性が歴史であるかのような歴史概念が人々の主要な時間観となってきており、それが若い人の無意識に定着しているなかで、問題テーマとして惹起されたがゆえに、魔法少女まどか☆マギカが無意識的に重視されたのだろう。端的に言えば、その重視というのは、絶望の時間性のなかで、魔女になしかない私を救って、ということでもある。
 こうした枠組みを先行していたのは、いうまでもないフリードリッヒ・ニーチェであり、なかでも『ツァラトゥストラはかく語りき』だろう。極論すれば、『魔法少女まどか☆マギカ』は『ツァラトゥストラはかく語りき』と同テーマの作品であろう。
 『ツァラトゥストラはかく語りき』では、ニーチェによる近代世界の時間であるテロス性時間への批判から(その意味では彼のキリスト教批判はこれに付随するものに過ぎない)、無慈悲な輪廻としての永劫回帰が描かれる。くどいが、『魔法少女まどか☆マギカ』は永劫回帰というテーマの解法の、思索的な試みである。
 そうしたパラダイムで見ると、まどかの解法は、ニーチェが描いたツァラトゥストラが生の意味として最終的に取り上げる「大いなる正午」そのものに見える。その時間の一点にだけに己の全存在をかける願いであり、そこに暗黙に心身の消滅の対価として設定されている歓喜である。
 ここで、私は、ようやく戸惑う。
 この先を語っていいものだろうか。まあ、いいや、行こう。現在の日本のネット的なある倫理の言論支配の構図のなかでは、ウヨクや戦前は脊髄反応的に忌み嫌われる。だから、特攻隊の精神のようなものは真っ先に唾棄されるものである。なんとなれば、それは無意味であり、どんなに哀れなものであっても犬死であるからということだ。対して、昨今のウヨクも実は同じ意味性の文脈に絡め取られていて、いわく、特攻隊の精神には意味があるのだ、なんとなれば、後代我々はその恩恵で生きているのだから、てな、感じである。くだらない。
 話を端折るが、三島由紀夫的な意味での特攻隊の精神とは、彼自身の思想のなかで、現代ウヨク的な後代の日本なる意味が完全に払拭・純化されているわけではないが、その中核にあるのは、ただ、大いなる正午としての特攻という「行動」であった。そこでは美と陶酔が不可分に一義に問われるものだった。私は何が言いたいのかというと、ヒロイズムはそもそもこの三島由紀夫的特攻隊の精神を含みこみがちなアポリアを持っているということだ。その意味で、魔法少女まどか☆マギカのファンを怒らせるか、表層的に誤解させるかしねないが、まどかの解法は、こうした大いなる正午による意味の回復の心的な情感的な仕組みを内在している。
 さらに言えば、まどかの解法は宇野常寛が言う「母性のディストピア」に近い。菩薩道がそもそも「母性のディストピア」だとも言えるが、『魔法少女まどか☆マギカ』はその魔法少女たちのキャラデザインのなかですら、母性と菩薩性が含まれている。このことは、反面において、性愛的な世界が初元的に忌避されて捨象されていることからもわかるだろう。ここにはドロドロとした性愛はない。性愛の歓喜もない。
 が、こうした単純化で掬い上げられない部分がこの作品には確実にある。ほぼ自明だが、友愛(fraternité)の存在だろう。アニメ作品においては当然であるともいるが、母性的な受容は、ここでは友愛を通して行われている。その回路は市民社会性と言ってもいい。この過渡的な母性と友愛の提示のありかたは、ちょうど日本社会における正義の情感の水準を上手に示しているだろう。
 あえてまとめれば、日本の市民の無意識は先駆的な個体絶望のなかで、母性と友愛の中間的な倫理性に置かれている。
 まあ、それが同時に、現実的にはLine地獄を生んだり、そこから抜け落ちて「魔女化」してしまう少女群を生み出してもいる。が、現状では、私のたちの友愛の市民社会はまだ存外に無慈悲で魔女化した彼女たちを救うことはできない。無関心ですらある。それは母性と友愛の過渡的な倫理性の限界でもあるだろう。

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2018.03.19

新型出生前検査が形成する未来

 日本産科婦人科学会(日産婦)が、「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査指針」、通称新型出生前検査(略称NIPT)を公表したのが平成25年3月9日。4日後の13日には、厚生労働省母子保健課課長が「『母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査』の指針等について(依頼)」(雇児発母0313第2号)を通知した。これにより、あくまで臨床研究として、指定機関に限定し、また35歳以上の妊婦に限定し、さらに検査疾患も三つの染色体異常に限定して、新型出生前診断が日本で開始され、5年が経過した。
 新型出生前検査は、従来からある検査より優れている。従来からある羊水検査は精度(感度)はほぼ100%だが、子宮に針を刺すことから約300人に1人の割合で流産のリスクがある。他方、同様に従来からある血中ホルモン検査と超音波検査の組み合わせでは精度は80%から85%と言われていた。新型出生前診断では、採血したDNAによる診断で精度が約99%と高いうえ、超音波検査のような読み取りの難しさもない。
 5年の臨床研究が終了し、日産婦は一般診療として実施する方針を決めた。具体的な実施だが、この検査には法的拘束力もないこともあり、急速に広く普及するようになるだろう。結果、どのような社会になるか。
 参考となる、NIPTコンソーシアムの研究がNHKで報道された。「染色体異常確定で中絶が98% 新型出生前検査」(参照)より。

検査を実施する医療機関で作るグループがその結果をまとめたところ、去年9月までに新型出生前検査を受けた妊婦は、5万1000人余りで、このうち、胎児に染色体の異常がある可能性が高いことを示す「陽性」と判定されたのは、1.8%に当たる933人で、その後、さらに詳しい検査で異常が確定したのは700人だったということです。

異常が確定した人の中で、自然に流産した人を除く668人のケースをさらに分析すると、14人が妊娠を継続し、人工的に妊娠中絶を選択したのは654人だったということで、胎児の染色体の異常が確定し出産が可能だった人のうち人工妊娠中絶を選んだ人は、およそ98%となりました。

 特に先入観なしにこの臨床研究の結果から推測することだが、新型出生前検査が広く実施されれば、同様にほぼ98%程度に人工妊娠中絶が行われるようになるだろう。
 これをどのように考えたらよいのか。沖縄タイムスは1月31日に「[新出生前診断]当たり前の検査を懸念」という社説を「「命の決断」に向き合い、支える体制はできているのか。」として切り出した。そして、「慎重な議論を求めたい。」として、「一人一人の決断は重く、この問題に明快な答えはない。だからこそ産む決断を後押しできる「共生社会」をつくる努力を重ねなければならない。」と結語した。
 他の例では、河北新報社の今日の社説「新出生前診断の拡大/生まれる子選ばぬ社会に」では、《診断結果を受け、妊娠を継続するかどうかは、あくまで「自己決定」だとされる。しかし、その背景に「生まれる子は健康でなければならない」、そのために「検査を受けなければならない」という無言の圧力がないだろうか。」とし、結語を「過去の世論調査で、出生前診断の容認派は79%。理由は「異常が分かれば出産後の準備に役立つから」が最多だった。重い結果を知らされたカップルを孤立させず、どんな子も、安心して産み育てられる社会でありたい。》とした。
 朝日新聞は記事ではあるが「「命の選別」なのか 新型出生前診断、開始から5年」で踏み込んだ形で識者の言葉を伝えている。室月淳・宮城県立こども病院産科長はこう述べている。

 検査に対して、「命の選別だ」という批判もあります。遺伝情報や障害、病気で人を差別するべきではないという意味で、命の選別をするべきではないとの主張には全面的に賛成です。国家などが検査や中絶を強制することも許されません。
 しかし、あらゆる出生前診断が「命の選別」と批判されることには、違和感を感じます。第三者が夫婦に対し、検査を受けることや結果を受けて妊娠をあきらめることを一律に禁じられるのでしょうか。どれだけ支援があっても、最終的に子どもの面倒をみるのは夫婦ではないでしょうか。
 それに、染色体の病気がわかって中絶を選ぶ夫婦は、必ずしもダウン症候群などを差別しているわけではありません。家庭の経済状況など様々な個別で複雑な事情があってのことです。個々の夫婦が置かれた状況はそれぞれ複雑で、異なります。夫婦も医療者も複雑な状況をどのように解決すればいいのか絶えず苦闘しています。そのような現場にいると、「命の選別を規制すべきだ」といった一刀両断の議論には、あまり意味がないと感じざるを得ません。

 現状からの推測であって、理念を挟むものではないが、おそらく日本からダウン症が消えるという事態が生じるだろう。
 また、「命の選択」という概念はひとまず置くとして、ダウン症の出産がなくなるまでの過渡期化もしれないが、検査後に中絶した親の先進的なケアは必要になるだろう。
 それがおそらく現実だろう。あるいは、「日本」の現実になるだろう。
 ここまで、この問題にできるだけ、理念をはさまずに書いてきたが、それでも、ここで現れる「ケア」の内容には、罪責感の一般的な対応を超えた部分が求められ、やはり倫理的な問題は浮上してくる。別の言い方をすれば、この地点で検査拒否を含め倫理の問題が問われるだろう。(なお、こうした問題に私自身が直面した経験ついては自著で書いたのでここでは触れない。)
 この問題、つまり、出生前検査での中絶という問題で見るなら、日本に限定されない問題であり、すぐに連想が付くように、特に米国では、中絶そのものへの忌避感を持つ少なからぬ人々がいる。彼らは、単に中絶を排そうするのではなく、「最終的に子どもの面倒をみるのは夫婦ではないでしょうか」に対置したかたちで、ダウン症の子供の養子を推進しようとしている。団体も見つかる(参照)。
 おそらく問題は、倫理的な命題を先行させるよりも、ダウン症の子供の養子の運動として展開したほうがよいのだろう。ただ、その場合、日本では、養子そのものが難しいということがある。


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2018.03.18

[映画] 空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎

 映画『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』は、久々に爽快な駄作を見たなあという感じだった。映画『ジュピター』以来かな、この駄作な感じ。いやあ、駄作っていう言い方はないだろうとも思うし、映画『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密』みたいに途中寝落ちすることもなかったし、面白いか面白くないかというと、面白い映画だった、っていうか、きれいな映画だった。こういう感じの見たかったんだよねという点では満足なんで、じゃあ、駄作っていう言うなあという感じなんだけど、ごにょごにょ。
 映像はまず見事だった。唐代の長安を無理に時代考証的に再現する必要はないし、むしろ、現代的な映像の視点から再創造された長安の美しさは十分満喫できた。他方、現代に残る遺跡とか廃墟感も堪能できた。出て来る美女さんたちも、これだよなあといういい感じだった。
 じゃあ、文句ないんじゃなね、というと、それはそうなんだけど。
 以下、若干ネタバレ風味で。
 脚本的にはちょっとというかいろいろ問題は感じた。謎解き的なストーリーの追い方は悪くない。阿倍仲麻呂も、ニシンの燻製とするならそれはそれでいいのかもしれないけど、これ、要らなくねというか、松坂慶子もなんでぇ?という感じ。ここのところごっそり抜いても問題茄子、に思えた。逆に、空海と恵果の関係はもう少し丁寧にというか、もう少し密教哲学的に描いてくれるとよかった。
 白楽天の使い方も演技も声優もよかった。白楽天については内面もよく描かれていた。空海さんは、というと、これ、よくお大師様像に似ているなあというのは感心したけど、映画として見ると演技がだるいというか、地味すぎ。走るシーンとかあるにはあるんだけど、もっと若い空海が走る走るの疾走感は欲しかった。
 タイトルは中国語『妖猫传』のようにしたほうがすっきりはしただろう。が、そこはでもしかたないかも思うには思う。猫の演技、っていうのか、CGとリアル猫をどう継ぎ合せるのかわからないくらいよくできてはいけど、リアル猫のほうがよくてCGかなというのはちょっとプア感は残った。
 個人的には、エロが足りないなあ。映画『パフューム ある人殺しの物語』ほどエロは要らないけど、もうちょっとエロが欲しい。というか、屍体がでてくるんだから、もうちょっとそこにエロまぜしてぞっとする映像とか見たいのだけど(BLもあってよかったんじゃないか)、この映画最初からレーティングしてできているんだろうか。中国だからというのもあるんだろうか。
 李白もけっこうよかった。よかったからこそ、もうちょっとよくても良かったかなという、ないものねだり感は残った。
 まあ、なんだろうか。映画として扱うよりも、8回くらいのドラマにしたほうが面白かったかもしれないが、どうなんだろう。
 まったく関係ないけど、この映画のテイストでリアルに『トゥーランドット』をやってくれたらおもしろそうだな。

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2018.03.17

主の祈りとか

 昨年、比較的長期にわたってブログを事実上休止してしまった。ツイッターなどでは発言していたので、まったくネットの世界から消えてしまったわけではないが、まあ、ブログを書く気力がなかった。理由はいくつかある。個人的なことや内面に関わることもある。その内面に少し関係することではあるが、ブログを書くことで攻撃を受けるのはやだなというのがあった。日本は言論が自由な社会だが、そのせいなのか、社会的に対立した意見のある問題で、個人が意見を述べると、ひどい攻撃を受ける。ネットが日常に普及しだして、それがさらにひどくなっている。
 いや、正確にいうと、抑制の動きもある。このブログを始めたころは、おまえなんか死ねばいいのに、というような殺意のあるような、匿名の暴言を受けたものだった。さすがにそれは、普通に刑事に触れるようになったので、最近はない。身体の危険が感じられないなら、言論上の攻撃を受けるのはかまわないじゃないかとも思うし、そうするしか発言ができないなら、攻撃を受けるのも、言論の自由のコストだろうし、自由な言論の社会を維持するには誰かがそうしたコストを払わなくてはならない。ブロガーというのはそういうものであるべきだろう、と思っていた。
 が、さすがに、こんな攻撃や暴言を受けるのは、見合わないなあと感じるようになった。そしてそれは、並行して、日本の社会に言論の自由があろうがなかろうが、僕なんか知ったこっちゃないなあというげんなりした感情を惹起した。そして、そうした感情があるなら、無理してブログなんか続けることもないじゃないか、自然でいようと思った。
 その後、しばらくして、自然に、たまにブログでも書くかなあ、本はずっと読んでいるしなあ、ブログ復帰のリハビリがてらに書評みたいなものから再開するかなあ、と、ということで、今に至る。
 ブログも長く続けているし、そもそも私は日本の社会がインターネットに向き合う前、パソコン通信の黎明期からこの世界を見てきたので、だいたいこういうことを言えば、こういう攻撃はくらうなというのは、あらかた予想できる。このあらかた、というのが微妙で、それでもさすがにこれはひどいなというのはある。けっこうあると言ってもいい。どのあたりが、「さすがにこれはひどいな」になるか、というのは、徒党というのか、グループ的に攻撃してくる場合だ。実際には、数名程度が匿名でやっているだけだと思うが。
 他面、攻撃されるたびに、僕なんかたいした存在じゃないんだよとも思う。僕を攻撃してくる人は、逆の意味で僕というブロガーに幻想をもっていると思う。僕は自分でもバカだなあ自分と思っているし、たいしたこと述べているとも思っていない。なんの社会的な権力もない。ただ反省するのは、ブログを始めたころはまだ45歳というか、今振り返ると、すっげー若かったので、愚かさに若気の至りもあったなとは思う。しかし、それ自体が自分の愚かさなんでしかたないかとも今では思う。今でも愚かではあるし。
 ブログを再開してぼそぼそと自分が思うことをブログで述べると、まあ、予想通り攻撃される。攻撃というまでもないが、嫌なことを言われる。そうしたひとつに、あれ?これはなんだろというのもある。僕がこのブログで政府から金をもらっているというのだ。ないよ。僕くらい自由にものを言うブロガーはないんだよと言いたくもなるが、自明なことをわざとらに言うのも傲慢かもしれない。ブログでアフィリエイトで少し稼がせてもらっているのはあるけど(これは素直に感謝しています)、言論誘導みたいなことでお金を貰うということはない。
 これは自分にしてみれば笑い話でもあるけど、不快な話でもある。その微妙のあたりで、ふと思ったのは、こうした誤解も含めて、暴言を投げかけている人は、自覚はないだろうけど、僕に対して、キリスト教的な意味でだけど「罪(負債)」を負ってるのだから、僕が許してあげればいいんじゃないかということだ。
 僕は自身がクリスチャンなのかよくわからない人になってしまったが、目覚めるとき、主の祈りを捧げるようにしている。キリスト教とか他の宗教でもよく祈るという人が多いものだが、僕が聖書で知ったイエス・キリストは、人の祈ることなんか神が全部知っているのだから、これだけ祈ればいいっしょということで、主の祈りを授けてくれた。

天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。
御国がきますように。
み心が天に行われるとおり、 地にも行われますように。
私たちの日ごとの食物を、 今日もお与えください。
私たちに負債のある者を許しましたように、 わたしたちの負債をも許しください。
私たちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。

 これに「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」のように付け足す人もいるし、教会だとそういうおまけがついていることが多いみたいだが、不要だと思う。「アーメン」は、「そうあれ」ということなんで、意味的には「だよねー」と同じ。これも気持ちの問題でなくてもいいでしょと思う。
 主の祈りを日本語で読んで変だなと思うのは、「負債」というあたりだろう。僕は若いとき、この解明にけっこう取り組んだことがある。主の祈りにはもうひとつ聖書にバージョン(ルカの)があって、そっちでは「罪」となっている。で、若い頃の僕の結論は、「負債」と「罪」は違うということ。そっから、「原罪」も、なにそれ?みたいに思っていた。今はそうでもないが。
 「負債」というのは、洋ドラによく出て来る、「これでお前に借りができたな」「これで借りは返したぜ」のあれに近い。
 話を戻すと、「このブローガーは政権から金をもらっている」とか嘘こいた人は、気がつかないけど、嘘こいたことで僕に借りができている。言った本人はそう思ってもいないだろうけど、もし神がいるなら、ご存知。そして、もし神がいるなら、この手の負債は、僕がちゃらにしてげることだよ、と主の祈りは言っていることになる。
 社会を維持していくためには、なんでも許せばいいというものではない。できるだけ社会を公平に維持していくには、許してはいけないことある。「こいつなんかぶっ殺せ」みたいな暴言は恐怖を与えるし、実際の脅迫かどうかはわかりにくいので、きちんと許すべきではない。
 ただ、許せることもある。無理して、信仰者のフリして許そうとなんかしなくてもいいと思うし、そもそも神なんかいないなら、こうした話は意味もないけど。
 でも、もし、神がいるなら、つまり、神というのがそういう存在としているなら(進化論に対立するすげー創造者みたいなんじゃなくね)、人はできるだけ許すことが求められているのではないかとは思う。というか、それが主の祈りの一つの重要性だろう。他にも重要なことが含まれているけど。
 どうでもいいけど、フランス語の場合をおまけ。

Notre Père, qui es aux cieux,
que ton nom soit sanctifié,
que ton règne vienne,
que ta volonté soit faite sur la terre comme au ciel.
Donne-nous aujourd’hui notre pain de ce jour.
Pardonne-nous nos offenses,
comme nous pardonnons aussi à ceux qui nous ont offensés.
Et ne nous laisse pas entrer en tentation
mais délivre-nous du Mal.

 フランス語の主の祈りが原典のギリシア語に近いかといと、特段にそうだとはいえないだろう。それと、主の祈りはギリシア語で聖書に残されたが、イエス・キリストはこれをアラム語で教えたものだろう。若い頃の私はそのアラム語の響きが何かということに興味をもったし、そうした興味をもってか、以前触れたシンシア・ ブジョー(Cynthia Bourgeault)などもアラム語で主の祈りを唱える話をしていた。まあ、何語で唱えてもそれで特段の意味あるというものでもないだろう。

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2018.03.16

オウム真理教事件死刑囚の死刑執行に関連して

 オウム真理教事件で死刑が確定した死刑囚13人中7人が、15日、東京拘置所から全国5か所の拘置施設に移送された。報道によれば、具体的には、林(小池)泰男死刑囚(60)が仙台拘置支所、岡崎(宮前)一明死刑囚(57)と横山真人死刑囚(54)が名古屋拘置所、新実智光死刑囚(54)と井上嘉浩死刑囚が大阪拘置所、中川智正死刑囚(55)が広島拘置所、早川紀代秀死刑囚(68)が福岡拘置所であるらしい。麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚(63)ら6人は東京拘置所にとどまっている。
 今回の移送は、1月に一連の裁判は終結したことによる、死刑執行準備ではないかと見られていた。が、朝日新聞報道によれば、「拘置所内での共犯者同士の接触を避けるなど、配慮が必要なため」で「死刑執行とは無関係」とのことだ。
 しかし、いずれ13人の死刑執行がなされることだろう。ではそれはいつごろかだが、これに関連するのは、今上陛下退位と新天皇即位である。おそらく2019年は死刑が天皇制を支える心情から忌まれることになるだろう。そして、翌年2020年はオリンピックの年であり、すでに死刑を廃止した米国以外の先進国からの批判を避けるためにも、避けられると見てよいだろう。であれば、早倒しに今年行うかだが、すでに3月であり、天皇退位・即位の準備で避けられるだろう。すると、これだけの多数の死刑の執行は2021年からその翌年以降となるだろう。
 関連していうと、同様にこの関連で、恩赦が実施されるだろう。推測を延長すれば、恩赦は中央更生保護審査会への自己申請の形式を取るが、高齢者が配慮されるのではないだろうか。そう期待したいのは、それをもって事実上の死刑廃止につながればよいからだ。そう思うのは、いつもながら、いちブロガーとしての意見にすぎないが、死刑は廃止されるべきだと思うし、オウム真理教事件についても、死刑は執行されないことを願っている。
 理由は3つある。1つめはすでに述べたように、死刑そのものが廃止されるべきだということ。なぜ廃止されるべきかについては、すでに先進国で廃止されている理由と同じなのでここでは繰り返さない。2つめは、この事件は現行法での裁判としては終了しているが、日本の市民社会にとってはまだ多くの謎を抱えており、死刑囚を含めてその解明がなされるべきだと考えるからだ。これに関連することは過去、このブログにも書いてきた。3つめは、今回の移送にあたり、麻原死刑囚の娘さんから指摘があったことでもあるが、事件の中心人物される麻原死刑囚は精神的な疾患の状態とみてよく、そうであれば、裁判の正当性に疑問がつくことだ。
 とはいえ、現状の日本の精神風土からすると、死刑廃止に国民の理解が得られるとは考えにくい。昨年時点で確定囚は123人。昨年の例でいえば、執行4人、病死4人。2014年以降は、執行は3人から4人で推移しており、今後については先にも述べたように天皇の退位・即位から恩赦や執行の事実上停止や抑制が想定されるので、この数年間に日本社会は、ある意味で猶予的な期間が得られることになる。この間に、段階的な死刑廃止に向けた取り組みがなされることを望みたい。

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2018.03.15

一人暮らしのキッチン用具

 Newsポストというサイトに「初めての一人暮らし 揃えておきたいキッチン用具9つ」(参照)という記事があり、共感しつつ、ちょっと違うかなあと思うこともあった。この話は、いい悪いとかいうことでもない気楽な話題なので、そんな感じで少し。
 まず、この記事の用具をなぞるような感じで。

【炊飯器】
 ここが僕がかなり考え違うところで、ご飯はお鍋で炊くといい。炊き方は以前ブログにも書いた。慣れれば簡単だし、最速で30分、火に注意するのは10分なんで、料理の片手間に炊けるし、多めに炊いたら冷凍しておくといい。

【電子レンジ】
 電子レンジは不可欠だろうと思う。再加熱だけだから安価なものが好まれるけど、最近の機種は自動調理器でもあるので、それを見越して買ってもいいと思う。日立のヘルシーシェフのシリーズは特に便利。

【電気ケトル】
 僕はいらないと思う。一杯分のお湯なら電子レンジで一分半で沸かせる。

【片手なべ】
 これはあったほうがいい。

【ふた付きフライパン】
 これもあったほうがいいだろう。

【ボウル・ざる】
 これもあると便利。収納しやすいのがいい。

【包丁】
 包丁は難しい。しいていうと、セラミックをお勧めしたい。長く使うと切れ味はおちるけど、そこそこ使える。扱いが楽。
 

【キッチンばさみ】
 これもお勧め。かなりいろいろ使える。
 


【まな板】
 これは微妙。ぺらぺらタイプが便利。あと、丸い木のまな板が便利。

その他に

【スロークッカー】
 炊飯器の代わりにこれ。これがあれば肉や豆料理が楽。あと、夜クズ野菜や鶏ガラを入れておけば朝にスープ。玄米を入れておけば朝に玄米粥。

【ロースター】
 これは場所とるのであまりお勧めできないけど、あると、焼き魚が幸せレベル。焼き蕪もびっくりするくらいおいしい。タイプを選ぶとほとんど煙出ない。

【トースター】
 T-falのをほぼ毎日使っているけど、便利。クロワッサンなどの載せ焼きもいい。あと、厚みがあってやけるから、ホントサンドもできる。

最後に一言的に言うと、一人暮らしなら冷蔵庫はでかいほうがいいと思う。

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2018.03.14

森友問題の現状についてブロガーのいち見解

 森友問題の現状について、自分の考えを、アウトラインだけだが、まとめておきたい。自分の考えが正しいとも、強く主張したいというものではない。当然、異論は多いだろうと思う。また、誤認もあろうだろうと思う。あくまで、こういう考える人がいるという程度のものである。ブログというのは、その程度のものである。なお、森友問題の解説記事ではないので、基本的な説明は含めない。

昭恵夫人の関与はないだろう
 昭恵夫人の活動は賛同できないものが多いが、今回の件では、構図的には籠池容疑者に利用されただけで、経緯を見る限り彼女の影響力があったようには見えない。また、今回削除された文書での彼女の名前の記載も籠池容疑者の伝聞に過ぎない。彼女を国会に呼ぶ理由は現状ではない。

政治家の関与はあったかは個別には不明
 文書の削除部分にある政治家についても概ね関与はないと思われるが、各政治家の個別の背景についてはわからない。が、安倍首相と麻生蔵相については、その関与はなさそうに見える(あったと見られる証拠はない)。

森友学園の国有地売却の値引き理由は不明確
 すでに会計検査院から指摘されている通り、森友学園の国有地売却の値引き理由は不明確。ただし、野田中央公園でも大幅な値引きがなされているので、同じような手順が取られたように推測される。その意味で、財務省に大きな失態があったとは思えない。

公文書偽造罪などの違法性はなさそう
 今回改竄された決済文書は、添付的な位置づけであり、当の国有地売却に関連して事実に反するものではないので、虚偽公文書の作成には相当しないだろう。会計検査院もこの改竄を知っていたが、契約との関連から重視していなかったこともその傍証になるだろう。

文書改竄の責任者は理財局長だった佐川宣寿・前国税庁長官だろう
 佐川氏が決裁文書改竄に関与してなかったとは想定しにくい。また、違法ではないとの認識のもとでの改竄だっただろう(こうした改竄は常態化していたかもしれない)。今回の改竄の理由は、国会答弁との整合性のためだろう。なぜ、無理な整合が必要になったかといえば、政治家への忖度というより、財務省の無謬性のような錯誤意識による佐川氏の失態だろうが、解明は国会にまかされるべき。

佐川宣寿・前国税庁長官は虚偽答弁をしていた
 佐川氏が国会において虚偽答弁をしていたことは、すでに明白。

佐川宣寿・前国税庁長官は国会招致すべき
 改竄の責任者が佐川氏であると見られるので、国会への虚偽答弁について国会招致で解明すべき。

財務省は根幹から組織改変すべき
 佐川氏の虚偽答弁の問題は彼個人の問題ではなく、財務省という組織の問題でもある。今回の事態で、財務省が改竄を認めた後、報道者にぞくぞくと現れるようになった「関係者」には財務省官僚が含まれると想定できることも、この組織の問題を示している。

麻生蔵相と安倍首相に責任はある
 財務省からの虚偽答弁によって、事実上一年にわたり国会議論を空転させてきたことは、内閣が財務省を管理できなかったためであり、内閣、特に麻生蔵相と安倍首相にはその監督責任がある。彼らでは監督できていなかったことになる。

内閣総辞職すべき
 内閣の責任は明確なのだから、自らの無能の責任をとって総辞職すべき。

内閣総辞職後、日本の政治は空転するだろう
 現内閣は総辞職すべきだが、その後、財務省を再編成し、現下の外交・内政をこなしていける内閣が安定するとは思えない。だが、それをもって、現状の内閣の維持を支援するというのでは、民主制度にはならない。

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2018.03.13

また腕時計を買った

 体に物を装着するというのが苦手で、若い頃から腕時計もしない。が、たまにする。機能性を重視しているので、チプカシで十分、というわりに、むしろチプカシが好き。で、いくつかチプカシを持っている。とりあえず、もう腕時計の必要性はない。なのに、また腕時計を買った。ちょっとはずかしいんでどれを買ったかのアフィリエイトしない。
 買った理由は、腕時計があったほうがいいかな、というなんとなくの気持ちと、ちょっと、自分なりに気に入ったデザインの時計がほしくなかったからだ。腕時計の趣味なんて自分にはないか、チプカシみたいなのが好み、ということだったのだけど。自分の感覚がなんか変わってきている。
 いや買ってしまったな。高価なものではないけど、私みたいに爺さんが装着すると、カラフルであれげな感じがするが、まあいいだろう。年とってますます、個人的な趣味に走るようになったな。竜頭がでっぱってないのもいい。
 すごく軽い。金属接触感覚は気持ち悪いのでなし。チプカシふうのゴムっぽい感じもなし。こういうのは初めてだな。世の中、いろいろアレルギーの人がいるからなんでしょうか。
 数字なし。これは我ながら意外。自分は、数字がけっこう好きなのである。数字の文字のデザインも好きなので、数字のない時計というのは好まなかったのだが、今回のこれ、数字なし。もちろん、機能的にはなんの問題もない。逆さに見るということはないし。
 買ってから、時刻合わせで気がついたのだが、秒針がないのである。ほお。秒針がない。おおっ、秒針がない!
 私は時刻にマニアックではないし、30秒くらいずれていても気にしないが、それでも数分ずれるのはいやなので、時計合わせをよくするのだが、秒針がないと、そういうふうに気にすることも減る。
 というか、秒針がないと、時計はうるさくなくていい。腕時計ってこうあるべきなんじゃないか。時間に追われていない感じがいい。もちろん、秒針がない時計は用途に合わないという人はいるだろうけど。
 スマートウォッチが今後どれほど普及していくかわからないが、多機能で高機能なウエアラブル端末が求められていく潮流にはあるのだろう。そうしたなか、数字もない秒針もないといいう腕時計という、逆行したヒューマン・インターフェイスもいいような気がする。
 でもまあ、この腕時計、すぐに飽きるかも。


 

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2018.03.12

電子レンジでお茶とか

 ティーバッグの紅茶というのは飲まなかったのだが、最近はそれでもいいやと思うようになった。それなりによいクオリティのティーバッグもあるし(分包だと劣化しないし)、それほどよくなくても、どうせティーバッグだからまあいいや、みたいな感じである。そうしてティーバッグになじんでいるうちに、最近のティーバッグがホチキス針止めされいていないことに気がつく。全部が全部というわけでもないけど。
 ティーバッグから、小さいにしても金具がなくなったということは、エコを配慮してのことなんだろうなと思っていた。たぶん、そうだろう。そして、そのうちふと、金具がないのは、電子レンジ対応でもあるんじゃないかと思った。こういうときは、ググってみる。すると、ある。あるもんだな。
 私も一杯お茶を飲むとき、お湯をそのまま電子レンジで沸かすことがある。ケトルとか使わないわけである。1分20秒もすれば、お茶用の湯ができる。それにティーバッグを入れるということはしていた。これ、最初からティーバッグを入れててもいいのか、とやってみると、さして問題ない。ティーバッグを待つ時間もなくて便利ですらある。
 こんなんでいいんだろうか?
 いけないという理由は特になさそうだ。紅茶を入れるゴールデン・ルールに合致してとかあるにせよ、しょせんティーバッグである。
 案外、コーヒーも電子レンジでできるんじゃないか。インスタント・コーヒーじゃなくて、普通に豆をひいたのでどうだろうか。これはまだやっていない。ちょっとどうやるのかイメージわからない。
 それにしても、どうして電子レンジで紅茶をいれようなんて考えたんだろうか。ってか、私も考えたわけだけど。
 実はいろんなものが、定められた手順でやらなくてもできるものじゃないか。として、他になにがあるかと考えてみて、すぐに思いつくことはないが、それでも思いついたのは、おしめである。が、おしめは使い捨てがすでに標準といっていいだろう。介護用のおしめもそうなっている。最近ではこれをそのまま家庭でも簡易に廃棄できるようにする国の規格化も進んでいるらしい。
 そういえば、文章の音声入力もある。この技術だいぶ向上してかなり実用レベルになっている。ブログとかも音声入力している人もいる。私も試したことがある、それほど難しくもない。ただ、自分の場合、喋るよりキーボードのほうが早いのでそれほどは使わない。
 技術が生活の様式を変えていく。基本は、手抜き、ということだろうけど、手順やプロセスを重視しなくてもよいという傾向は増えていくだろう。
 考えてみると、音楽を聴きながら通勤通学というのも、ウォークマンによる革命だった。あのころの変化は只中にいたので覚えている。世界が映画のように思えた。今では普通のあたりまえの行動である。
 ただ、そうなると、逆に、手順やプロセスそのものが楽しみ、あるいはそれが価値というのもあるのだろう。というところで、愛やセックスなんかもその部類だろうかと思い、いやそうでもないかといろいろ思い巡らした。

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2018.03.11

[書評] 母性のディストピア (宇野常寛)

 大著にも見える宇野常寛『母性のディストピア』(参照)の基本テーマは、意外に非常に単純なものだと理解する。表題が示す「母性のディストピア」をどのように克服するか?ということだ。

 ここにはだが、微妙に自明とされているだろう前提がある。「日本の」ということだ。単純に言ってしまえば、本書は、日本論であり、戦後日本論である。別の言い方をすれば、著者は嫌がるのではないかと思うが、「日本はどうあるべきか」とまで還元できるかもしれない。そして、そうしてみてまず私の脳裏に浮かぶことは、その「日本の」という問題フレームワークについて、「そんなのどうでもいいや」ということだ。投げやりなトーンになってしまうが、投げやりなことが言いたいのではない。「日本の」を冠する問題フレームワーク自体が疑似問題ではないかと思う。なんとなれば、それは日本人だけが問われているのであり、その日本人は、つまるところ、この「母性のディストピア」の同構造だからだ。
 とうの「母性のディストピア」とは何か? 著者の文脈をシンプルに追うなら、こうなる。

 世界と個人、公と私、政治と文学を結ぶもの。いや、近代日本という未完のプロジェクトにおいては常に結ばれたふりをすることでしかなかったのだが、このいびつな演技のために彼らが必要としたものは「母」的な存在だったのだ。
 妻を「母」と錯誤するこの母子相関的想像力は、配偶者という社会的な契約を、母子関係という非社会的(家族的)に閉じた関係性と同致することで成り立っている。
 本書では、この母子相関的な構造を「母性のディストピア」と表現したい。
(pp32-33)

 簡素に表現されているが、これだけは文脈上はわかりにくいかもしれない。近代日本人は、「父」になろうとしていながら父権を権力への忌避で否定し、永遠に少年でありつづけるためにその少年の自我を受容する肥大化した「母」を求める、と理解してもいいかもしれない。
 こうも本書は敷衍している。

 江藤淳から村上春樹まで、この国の戦後を生きた男たちは「母」の胎内に閉じこもったまま、「父」になる夢を見続けることになる。そして、何もなし得ないまま、死んでいく。この肥大化した母性と矮小な父性の結託こそが戦後日本を呪縛した「母性のディストピア」だ。
(p374)

 もう少し私なりのパラフレーズを延長すると、この状態が現実を虚構化することで現実が不毛化していく。結果、移民は排除され、日本は国際世界から没落し、政治は茶番になっていく…。これが「ディストピア」の意味だろう。本書では言及がないが、こうした肥大化した母とその残虐性が完成したイメージは『PSYCHO-PASS』できれいに描かれている。犯罪はなく、法はなく、病気があり、治癒不可能は処分される。
 現実が虚構化することで、むしろ逆説的に語りえるものは、虚構でしかなく、その虚構の高い純度のアニメしか議論に値しないとして、本書はアニメ論になっていく。著者も意識しているが、吉本隆明が1980年代に展開したマスイメージ論やハイイメージ論の延長でもあり、当時のニューアカ的な問題フレームワーク、および江藤淳の戦後批判や加藤典洋の『敗戦後論』なども巧みに組み入れられている。また扱われているアニメは、定評のあるセットであるため、大著のわりに既視感があり、全体トーンのなかで流れるように進められている。著者の問題意識のブレはなく、書くことで異化されるためらいの思索はほとんど感じられない。
 というあたりで、僭越だが、著者と私の考えを対比させるなら、同じ作品を扱うときの批評構造がわかりやすい。なかでも『この世界の片隅に』のとらえ方の差を見ればわかるだろう。私はすでに、「母性のディストピア」的な問題視点をとらない。むしろ徹底的に個人のエロスの開花の可能性において、作品をエロスに読み替えてしまえばよいと思想的に考えている。
 本書はいかに、「母性のディストピア」を克服するかということを共同生の次元で問い、それを家族幻想(対幻想)で対置しようとした吉本隆明をも批判しているが、思想の戦略はまったく逆であればよい。人がエロスの自覚に忠実であることで個を確立し、共同生や家族幻想を一時的(テンポラル)なものにしていけばよい。
 個人はエロスに忠実でありながら、共同生と向き合う時があり、家族性と向き合う時がある、というだけだ。より強い言い方をすれば、晩婚化として結婚や家族を国家の枠組みで問うことをやめたらよい。晩婚化が中年以降の成人の家族性を逆に強めてしまうなら、不倫のような関係が共同生のなかでなめらかに溶け合うように、義を求めがちな共同生での他者のエロス語りに無関心であればよい。もっと言えば、個人はエロスの本質から原則的に社会的に悪な存在として自覚し、社会的な正義や優しさといった価値を二義的な一時的な演技に変えていけばよい。
 ただ、おそらくそれはできない、というか、そもそも共同生の議論にはならない。今求められるとすれば、思想家や芸術家が、むしろ共同生の義をいかにエロスで堕落させるか、セダクション(Seduction)に価値を置くかということだ。
 もう一度本書を振り返ってみて思うのは、この議論の枠組みは強力すぎることだ。ゆえに、そのなかに多数のアニメを散りばめたくなるある種自己撞着的な罠がある。また、にもかかわらず、「問題」は曖昧に自明化されている。が、しいて現代日本の問題を見るなら、具体的な、例えば、オウム真理教事件の総括や東北震災の総括など、個別的な思索が重要だろう。それをアニメの水準で問うなら、もしかすると、『輪るピングドラム』一作の評論で足りるかもしれない。
   

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2018.03.10

公売の「特殊性」についてのメモ

 森友学園に関連する話題が再燃している。
 現在の話題の起点は、朝日新聞報道によるものだ。同紙によれば、すでに国会に提出された、森友学園との国有地取引に関する財務省の決裁文書は書き換えられたもの(当時の決裁文書ではない)とする疑いがある、とのことだ。
 朝日新聞は、当の、書き換え前とされる文書を公開していてないので、真偽については他報道機関はもとより、一般人も知るよしもない。
 朝日新聞の報道を信じるなら、書き換え前の文書には「本件の特殊性に鑑み」とか「特例処理について本省承認決裁完了」という記載がある、とのことだ。
 朝日新聞の報道が正しいとすれば二点問題になるだろう。①国会提出文書は正しいものではない(文書の扱いに不正があった)、②なぜこの部分が削除されたのか(やましい理由があるのだろう)、である。
 特に二点目の削除は「特殊性」「特殊」という文言に関わっているため、その「特殊」とは何か、という疑問も話題になっている。
 野党は、財務省が同学園に便宜供与を図ったことを書き換え文書で隠そうとしたのではないか、と疑念を持ち、政府を追及している。
 これに対して、一例ではあるが、日本維新の党・足立康史参議院議員はブログで《契約書にあった「本件の特殊性に鑑み」等の表現が問題になっていますが、「スーパー・スペシャル」契約なんですから「特殊」に決まっています。》として、「特殊」を「スーパー・スペシャル」と言い換えている。
 私はこうした問題に疎いし、この問題については特段に疑問はなかったのだが、この「特殊性」については、一点思うことがあり、ブログメモを残しておきたい。
 まず、決裁文書の背景だが、2016年6月、近畿財務局による国土交通省大阪航空局への通知で、大阪府豊中市の国有地を鑑定評価額からごみ撤去費約8億円を減額し1億3400万円で売却する、としたものだ。8億円減額の理由が「特殊性」である。売買契約は、学校法人や社会福祉法人などが公益目的で購入を希望する際に取られる「公共随意契約」であり、価格は国有地の公売は透明性確保のため原則公表となるが、この事例では公益を重視してか非公開となった。
 今回の事例は、通常の公売とは異なるが、基本は公売の枠組みで行われたものではないかと私は思う。そうであれば、これは「公売財産評価事務提要」に準じることになるのだろうと思った。そこで同提要を見ると、「特殊性」については、実質、定義が存在している(参照)。

第2章 公売財産の評価

第4節 見積価額の決定

1 見積価額の決定時期
見積価額の決定は、原則として、公売の実施決議(換価事務提要29参照)前に行うものとする。ただし、価格変動の特に激しい財産である場合、鑑定人による鑑定評価書が未受領の場合等やむを得ない事情がある場合は、公売の実施決議後にその決定を行っても差し支えない。

2 公売の特殊性による減価
(1) 公売特殊性減価の必要性

公売には、通常の売買と異なることによる特有の不利な要因として、次に掲げるような特殊性があることから、見積価額の決定に当たっては、基準価額のおおむね30%程度の範囲内で的確かつ確実に減価を行う(徴基通第98条関係3(2)参照)。

イ 公売財産は、滞納処分のために強制的に売却されるため、いわば因縁付財産であり、買受希望者にとって心理的な抵抗感があること。
ロ 公売財産の買受人は、税務署長に対して瑕疵担保責任(民法第570条)を追及することができないこと。
ハ 原則として買受け後の解約、返品、取替えをすることができず、また、その財産の品質、機能等について買受け後の保証がないこと。
二 税務署長は公売した不動産について引渡義務を負わないこと。
ホ 公売手続に違法があった場合は一方的に売却決定が取り消されること。
へ 公売の日時及び場所等の条件が一方的に決定されること。
ト 所有者の協力が得にくいことなどにより、公売財産に関する情報が限定されていること。
チ 公売の開始から買受代金の納付に至るまでの買受手続が通常の売買に比べて煩雑であり、また、買受代金は、その全額を短期間に納付する必要があること。

(2) 公売特殊性減価適用上の留意事項

公売財産の見積価額は、基準価額から、上記の公売の特殊性を的確に減価して決定するが、公売財産の種類、数量、性状等は財産によって異なるものであるから、公売特殊性減価は、過去に実施した公売事例等を参考として、具体的事情に適合した妥当な範囲で減価することに留意する。

(3) 一括換価する場合の留意事項

一括換価する場合において、全ての財産を一体とした基準価額と各財産に対応する基準価額を求めたとき(本章第3節1(2)参照)は、各財産に対応する基準価額から公売の特殊性を減価して各財産の見積価額を求めた上で、その見積価額を合計することにより、全ての財産を一体とした見積価額を決定するものとする。

 つまり、「公売特殊性減価」は、差し押さえ財産を公売する際、最低落札価格設定が通常評価額より低くても違法性はないという理由である。
 森友学園の事例では、この「特殊性」とする理由は、ゴミが埋められているなど「いわば因縁付財産であり、買受希望者にとって心理的な抵抗感」があり、またそのため、売却後に瑕疵担保責任が問われないように、「公売財産の買受人は、税務署長に対して瑕疵担保責任(民法第570条)を追及することができない」とするためのものではないだろうか。
 私もこうした分野に詳しいわけではないので、簡単にまとめておく。

 ① 「特殊性」はこうした契約の用語だろう
 ② 「特殊」の内容は、瑕疵担保責任を問えない代わりに相分減額することだろう

ということではないか。
 この問題は、すでに政局問題となっているため、もう一点、強調したいことがある。

 ③ このブログ記事は安倍政権を擁護したいがためものではない

 佐川国税庁長官の辞任に至る経緯では、財務省を監督する安倍政権に不十分な点はあるだろうと思う。


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2018.03.09

[書評] 歴史をつくった洋菓子たち (長尾健二)

 昨年のクリスマスの前だが、フランス語の授業の合間の雑談で、フランスだとクリスマス・ケーキより年明けのガレット・デ・ロワが話題になるとして、授業でもその話題で盛り上がっていた。フランス人のこのお菓子への思い入れが強く感じられた。1月6日公現祭に食べるものだが、現代ではそれほど宗教的な思いれというより、新年の年中行事的なものようだ。日本でも、年中行事で食べるお菓子というのがある。個人的には、年明けには、花びら餅を食べることにしている。

 まあ、どの文化でもそうゆうものだよねと思っていた。沖縄で暮らしていたころは、旧暦の1月8日には「ムーチー」を食べた。アニスにも似た香りのサンニンの葉で包んだ餅である。「ムーチー」は内地の言葉で「餅」だから、ようするに餅でしょと、沖縄の老人に聞くと、ムーチーは餅ではない(あらん)という答えが返ってきた。よくわからないが、別のものとして認識されている。
 本書『歴史をつくった洋菓子たち』(参照)を手にしたのもそういう思いがあったからだが、読んでみると、お菓子の逸話ではあるのだが、意外にというのもなんだが、とても面白い。この手の話題をネットで調べると、何が出典がわからないような話があちこちにコピペされているだけなのだけど、本書は、できるだけ洋書(主にフランス語の)から引かれた話を基にしている。
 第一章の「文化としての洋菓子の歴史」から面白い。基本的に現代に続く洋菓子は、西洋ではキリスト教起源をもったものが多いのだが(例としてブランマンジェがまず挙げられているが)、そもそもこうしたレシピは、キリスト教の断食期間(四旬節)に関連したらしい。断食といっても、まったく食べないのではなく、基本肉を避ける。そのためのレシピがいろいろ考案された。謝肉祭なんかもこれである。そういえば、ビンケンのヒルデガルドについての本にもそうしたレシピがあったし、そもそもロシア料理などもそうしたレシピがいっぱいある。
 当然、ガレット・デ・ロワもあるが、項目としては「ガトー・デ・ロワ」になる。フェーブといって、いわば当たりの小人形の話は当然ある、というか、これでフランス人は盛り上がる。本書で扱うのは、フランス菓子が多いが、ドイツ菓子やアメリカ菓子もある。それらの文化差なども考察されている。取り上げられているお菓子の数はそれほどは多くはない。カヌレとかは載ってない。
 それでも読んでいると、ああ、そのお菓子、食べたいなと思う。これ書いている現在でいうなら、クレープ・シュゼットが食べたい。
 幸いにして、挿絵はあるものの、写真は少ない。しかもあっても白黒写真だけ。カラー写真で絵本のようにできた書籍だったら、相当に危険な本になっていただろう。


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2018.03.08

プルーム・テックを吸ってみた その7 プチ復活編

 vapeに移行してプルーム・テックはもう吸わなくなったかというと、微妙にそうでもない。むしろ、vapeへの嗜好が薄味になり、そして、複雑な味がいいという感じになり、vapeで単純なフレーバーを吸わなくなったことの反動で、プルーム・テックの、ある意味、単純な味をいいかもしれないと思うようになった。実際のところは、プルーム・テックの味はそれほど単純でもないけど。
 きっかけは、メンソールである。vapeでもそうだけど、微妙にメンソール感があると吸いやすい。この微妙にというところがめんどくさい。と同時に、それなりにシンプルなメンソールもいい。じゃあ、普通にプルーム・テックのメンソールは、と思い出し、こいつはまだ吸ってなかったことを思い出した。吸ってみた。悪くない。実際のところ単純な味ではないのだけど、矛盾するようだけど、シンプルなメンソールになっている。いいんじゃないのこれ、と思い直した。
 火をつけるタイプのタバコを吸いたいとは思わないが、昔少し吸っていたころ、かなり軽いメンソールタバコも悪くないとは思った。バージニア・スリムとか嫌いではなかった。EVEというタバコのメンソールは好きだったように思う。EVEはパッケージがきれいでそれもよかった。今調べてみると、日本での販売はなく、また外国でもあのデザインは変わっているようだ。プルーム・テックのメンソールはあんな感じに近いかなと思った。
 思い出したが、この手のメンソールを吸っていたころ、知人に、それオカマのタバコだけど、きみ、おかまだったっけ、とか言われたことがある。いやヘテロなんだけど。バイでもないけど、とか思って奇妙だったが、どうも自分にはそういうところがある。趣味が微妙にゲイっぽい。という連想で思い出したが、この手のメンソールを吸ったあと、アレをするのもよくあることらしいと知った。昔、クリントンのスター報告を読んでいて、アレ、だ、と思った。アレ、についてはなんとなく自粛するが、現在だと、フリスクだろうなと思って、フリスクとアレで検索したらビンゴでした。人間ってそんなものですよね。僕自身はやってないけど、まだ。
 なんの話でしたっけ。
 プルーム・テックだ。というわけで、プルーム・テックもいいんじゃないのという感じに戻ってきた。が、ニコチンってどうなんだろう。また、プルーム・テックも、個人によって違うが、キック感というかいがらっぽい感じのもあるし、そのあたりもどうだろう。基本的にニコチンが欲しいということはないし、たぶん、ニコチンの依存性はないと思う。
 なんだろか、ニコチン。話が逸れていくが、タバコって別にニコチンは要らないと思う。そしてタールはかなり減らせる。じゃあ、害ないんじゃないというと、いろいろ研究が進んでいるが、vapeにも害はありそうだ。勧められるものでもない。ただ、それをいうと、普通の食事でも気にするとめんどくさい食品もある。ひじきの砒素、マグロ刺身の水銀、納豆のイソフラボン、ほうじ茶のアクリルアミド、葉野菜の硝酸塩、発酵食品の雑菌などなど。そして、他方に、カフェインのないコーヒー、アルコールのない酒、そして、ニコチンのないタバコ。
 まあ、どうという結論もないけど、時代は変わって、人間の悪癖も変わるのだろう。


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2018.03.07

微妙な検閲と微妙な排除

 先日、グーグルからこのブログに忠告が届いた。なんか違反しているというのだが、何のことかわからないので対応に困惑しているうちに、忘れた。ら、また同じ忠告が届いた。調べてみると、アドセンスに違反した猥褻コンテンツがあるらしい。何のこっちゃと思って、それからあるわけないでしょ勘違いでしょと困惑しているうちに、また忘れた。ら、また忠告が来た。さすがに調べてみると、昔書いた記事で、こんなの猥褻っていうのかよみたいな批評的記事が該当しているらしい。こりゃ勘違いだな。ちゃんとブログ記事読んで審査してくださいよというリクエストを出してみた。メカニカルなミスでしょと思った。ら、また忠告。なんかめんどくさくなってきた。アドセンスを外せばこんな忠告は来ない。なので、検閲とか、言論の自由への弾圧というものでもないが、CMSでアドセンスしているので、外すのがめんどくさい。まあ、猥褻っぽいユーチューブの貼り込みを削って再審査してもらったら、今度はOKらしい。それにしても、ユーチューブもグーグルの広告ついているじゃんとも疑問に思った。
 このブログはココログの有料版を使っているので、その支出分くらいアドセンスで解消できればいいけどなというくらいで始めたアドセンスだが、検閲というものでもないけど、広告的なものをつけていると、そういう制約はあるもんだなあと思った。
 ココログ自体から、ブログへのクレームを受けたことはない。JASRACからもない。まあ、なんかあったら対応します。
 というあたりで、最近、ツイッターで騒がしいアカウントが消えるというか、消される事例を見かけるようになったことを思い出す。ツイッター運営側で検討して、このアカウントの暴言を放置していてはダメでしょということである。が、運営側の検討とはいえ、きっかけは報告なので、こいつひでーこと言っているとか運営側に報告されると、消えやすいのかもしれない。
 ということについては2つ思った。1つは自分がアンチさんから報告されてアカウントが消えることがあるだろうか、ということ。そうなったら、よほどへんてこな報告ではなく、ツイッター運営がそう判断したなら、僕はツイッターから消えようと思う。ツイッターというのも悪弊に近いこともあるし。
 もう1つは、そういうふうにアカウントが消されても、しぶとく別アカウントや、「運営スタッフ」的なアカウントで復活する人たちがいることだ。自分が悪くないのにアカウント消すとは許せないということかもしれない。
 そしてそうして別アカウントで復活すると、もとアカウントのフォロワーさんがそちらのアカウントをフォロワーするようになることが多いが、そのあたりはなんだか無法地帯のようにも感じられる。
 ネットでの言論のプラットフォームにはいろいろある。ツイッターがダメでも似たようなSNSはあるだろう。ブログでもそうだが、特に無料ブログの場合、広告で無料化しているような場合、その広告主から嫌悪されたら、そこでブログをつけるのは難しくなる。
 それでもまだまだネットの言論は自由だと思うし、私としてはというか、古いタイプのブロガーとしては、そういう自由の証であり続けたいものだなとは思う。

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2018.03.06

梅を見に百草園に行ってみた

 そうだな、梅を見に行こうかなと思った。梅を見るのがそれほど好きというものでもないし、私も年を取ったのだけどこれは年寄り趣味というほどでもないつもり。それに梅の花を見るだけなら、けっこう東京各所にあったり、少し郊外に行けば梅の畑みたいなのもあり、そこは満開。逆にいうと、梅畑みたいじゃないほうがいい。それに梅というのは、花や香り以外に枝ぶりを見るものだし、と思い巡らしていて、そうだ、百草園に行こうと思った。随分昔に行ったことがあるように思うのだけど、しかと記憶にない。ついでに近くの高幡不動にも行こうかと思ったが、結局、そこは行かず。
 百草園は梅の名所である。だから梅を見に行くという単純な話でもある。いろいろな梅もあって楽しい。場所は、東京の郊外、多摩地域にある。新宿からは京王線。京王八王子線の急行に乗って聖蹟桜ヶ丘駅で各駅停車に乗り換え一駅で、百草園駅に付く。すごくべたな駅名だから、駅から降りたらすぐ百草園だと思うと、いやいや、けっこう坂道を15分くらい登る。どこからとなく梅が香る。途中、「あと少し」とかいう表示があって、そこからがきつい。歩行に障害がある人だと、自動車とかでないと無理かな。
 入場料は300円(子供100円)。園内は、新宿御苑とかに比べると小さい。そして全体が山なので園内も坂が多い。美しい庭園かというと、美観にもよるだろうけど、最近流行りの外国人旅行者にも人気スポットとはいかない。梅も、そんなにあるかなあという印象。ついて人をを見渡すと、子供連れ、老夫婦とかが目につく。
 園内に入ると蝋梅が美しく、香りがいい。これ見るだけでも来たかいがあったな感。ミツマタやマンサクも美しい。この季節だけだろうか、梅の盆栽も展示されていて、これがなかなかにいい。他、園内には梅は当然多く、梅の香りが、やりすぎなくらいする。ただ、梅50種500本とも言われているほどの印象はない。

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 ところで百草園については、梅と言えば、百草園だろうくらいは東京人として知っていても、その由来とかはあまり関心なかったのだが、あらためて関心を持つと、いろいろ感慨深い。
 百草園の由来がややこしい。江戸時代中期の享保年間に、小田原藩主大久保加賀守忠増の側室である寿昌院殿慈覚元長尼が、徳川家康の嫡男信康追悼のためにすでに戦火で失われていた松連寺を再興したことが百草園の由来らしいが、そのときに百草園という名前はない。この再興によって江戸時代の名所にはなった。というあたりで、なぜ江戸の名所?という疑問も湧く。江戸名所図会を見るに、「茂草 松連寺」とあるので、百草園の「百草」は、江戸時代には「茂草」だったのだろう。

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 疑問なのは、松連寺を再興というのだから、それ以前に松連寺があったはずだが、これがよくわからない。わかるのは、『吾妻鏡』にも記載されている、平安時代から鎌倉時代にかけてこの地にあったらしい大寺院・真慈悲寺である。真慈悲寺が廃寺となり、寿昌院の松連寺となったのか、それ以前に松連寺があったか、よくわからない。真慈悲寺については、比較的近年になって考古学調査でわかってきた面が大きいようだ。
 百草園のある日野の歴史としてみると、日野市の解説にあるように、「平安時代後期、京から来た日奉宗頼が日野に土着して、西党と呼ばれる武士集団の祖となり」「西党日奉一族は多摩川沿いに展開」ということなのだろう。近所の高幡不動との関係はというと、「鎌倉時代後半から戦国期にかけては、高幡高麗氏の一族が高幡不動周辺を始めとする浅川流域を支配」とあるので、西党日奉の後に高麗氏ということのようだ。私は、高麗氏が古代からあったかなと、逆に思っていたので、へええと思う。
 さて、江戸時代にはすでにこの地は名所なのだが、これが廃仏毀釈で廃寺になる。徹底的い壊したのだろうが、そのあたりの情報はあまりなさそう。余談になるが、明治時代の廃仏毀釈運動はまさに革命とも言えるくらい日本をめちゃくちゃにしたと思うが、それほど学校の歴史などでは重視されていない印象がある。また、廃仏毀釈が注視されても、その背景エートスについての研究もまだ十分ではないのかもしれないとも思う。この話はいずれということにしたいが、百草園がむしろ廃仏毀釈の遺物というのは今回感慨深かった。
 現在の百草園だが、廃仏毀釈で壊滅した松連寺を現在の百草園として整備したのは、生糸貿易商の青木角蔵。彼は幕末横浜でイタリア人から生糸貿易を学び一財を成し、その財の一部をここに投じ、「百草園」として開放し、文人などを寄せ集めた。多磨霊園に眠る。
 百草園の戦後だが、戦前にすでに荒廃していたらしく、私が生まれた昭和32年に京王電鉄が買い取り整備し、現在に至るということで、今は京王電鉄の所有らしい。
 坂が多いのが難儀だが、のんびりとした地域なんでまたこの近辺を散歩してみたい。

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2018.03.05

小さな水筒が思いがけず、便利

 もう冬も終わって春になる季節だけど、まだ寒さは残る。この冬から春の季節、小さな水筒を買った。僕の世代の感覚だと、水筒というより、魔法瓶に近い。筒型の保温ポットだけど、そのままコップのようにして飲めるあれだ。マグボトルともいうらしい。このタイプの水筒は以前からも持っているのだけど、今回のは少し違った。その少しの違いで思ったこと、というのがこの記事の話。まあ、アフィリエイトの商品説明記事といえばそうなのだけど、特定のこの製品なくてはダメという話でもない。
 まず以前から持っているのは、480mlや360mlのもの。500ml近いのはまさに水筒という感じがする。このサイズになると、持ち運びの便宜に紐とかも装着できる。用途は、水分を補給しづらい場所にお気入りの液体を持ち運ぶというものだ。水筒だものね。そして保熱性がよいので数時間後まで温かいお茶が飲めたり、夏場は冷たい飲み物が飲めたりする。あと、自販機やコンビニで500mlのペットボトル飲料を買う分の節約というのもある。
 これが350mlくらいになると、自販機で買う缶入り清涼飲料水くらい。ちょっと喉が渇いたときのための水分。用途としては水筒というより、缶入り飲料の代わりだったり、デスクでコーヒーとか紅茶飲むときにマグカップ代わりに使うというものだ。そうやって使っている人も多いと思う。
 この2種類で水分補給という用途は足りるし、使い分ければこれで十分じゃないかと思っていたのだが、この冬、200mlの保温水筒を買った。当然、小さい。普通のガラスコップ一杯分、あるいはマグカップの八分目くらい。一回飲んだら終わりというくらい。そんな水筒になんの意味がある? そのあたりは購入前に少し悩んだ。しかし買った。
 買った理由は、実はひどく単純で、セブンイレブンのコーヒーをコンビニの外で飲みたいからだ。ブラックコーヒーで飲む。この用途だと、セブンイレブンのカウンターでレギュラー(小さい方)の紙コップを受け取り、これにコーヒーマシンでコーヒーを淹れ、そのあとすぐこの小マグボトルに移し替える。サイズはぴったり。キャップを締める。
 手順は以上なのだけど、使ってみて思うのは、この先のもう1ステップ。このマグボトルをコートやジャケットのポケットに入れる。あるいは、バックパックかカバンに入れる。ここでこのボトルの威力がわかる。ポケットに入るということだ。小さいし、軽い。邪魔にならない。200mlと350mlではぜんぜん違う。
 つまり、こうなる。セブンイレブンに寄る。暖かいブラックコーヒーを小ボトルに入れてポケットに入れる。そして、電車とかバスとか待っているときなど(人が混んでいないとき)、あるいはちょっとした休憩所(本屋さんとかお店じゃなくて)ポケットから出して、温かいコーヒーを飲む。それだけなのだが、寒いとき、これがほんとおいしい。そのままいっぱい飲んだら終わりのときもあるし、半分飲むときもある。
 これどのくらいの時間保温するのか試してたら、4時間は大丈夫だった。というわけで、早朝、駅前のセブンイレブンでコーヒーを入れ、出先の道で少し飲むとかもする。量が少ないのですぐ飲み終わる。で、また近所のセブンイレブンで次のコーヒーを入れることもある。
 マグボトルのサイズが小さいので片手で缶コーヒーを飲むような手軽さ。軽く握ることもできる。当然、手に掴んでそのままコップにもなる。
 ということで気がついたのだが、これ、別に持ち運びしなくて、普通にデスクでコーヒー飲むときもこれでいいんじゃないの? そのとおりだった。やってみてわかったのだけど(いや想像可能なことではあったが)、キャップを開いたままでも保熱性がいい。紅茶とか、好きなカップで飲みたいというのには向かないけど、とりあえず、暖かいコーヒーが飲めるならいいというときは、このマグボトルをそのままコップに使える。冷たい飲み物を入れても、結露もないので、コースターも要らない。これ、そのままコップでいいんじゃないの。
 使ってみて気がついた欠点。サイズが小さいのは最初からそういうことなので欠点ではない。欠点は、臭いがキャップのパッキングに残ることだ。これは他のこの手の水筒でも同じだけど、小さいのでも残る。頻繁に洗えばいいようだけど、洗っても少し残る臭いは気になる。このため、コーヒーを入れた後、洗ってから紅茶を入れるというのでも、無理。というか、そもそも紅茶は無理みたいだ。フレーバリーティならまだなんとか。
 というわけで、実際のところ、ブラックコーヒー専用になってしまっている。ブラックコーヒーが好きなのでこれでいいといえばそう。

 


 

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2018.03.04

[アニメ] B: The beginning

 『B: The beginning』を見えた。面白かったか面白くなかったかでいうと、面白かった。ほとんどイッキ見というか、ニッキ見ではあるが、ノンストップで見たくなるくらいの迫力はあった。と、微妙にネガティブな感じがもにょるのは、この作品、キース・風間・フリックが主人公の哲学・心理劇と、エレン・イェーガーが主人公の、ちがーう、黒羽が主人公の伝奇物語を 分離することもできただろうなと思ったからだ。というか、前者を洗練させた形にしてもよかったし、後者を練り込んでもよかったように思うが、そうはなっていない。かといって、水と油というほど分離もしてないので、なんだろう、物語全体がフリップフロップの巨大なニシンの燻製感があって、そこがなんとも。
 てな感じでいうと、主題がボケているかというと、ボケてもいない。2つの部分は最終でうまく統合もしている。これもしかして駄作か、というサスペンスもこの作品のハラハラのうちで、みごとにやられた感はある。いや、正直なところ、このエンディングのまとめかたはよかったと思う。エピローグもまああんな感じか。
 作品としていろいろ連想するものがないわけでもないが(『東京喰種』とか)、なんだろ、と自分の無意識を探っていると、これ、手塚治虫作品のテーストじゃね感がある。どこが?と言われると、当然もにょるんだけど、全体として手塚世界だなあ感は残る。伝奇の作り方は、平成仮面ライダー感はある。
 アニメとしてキャラの作り込みでいうと、『PSYCHO-PASS』の常守朱くらい濃い感じもあってよかったのではないかとは思うが、『PSYCHO-PASS』も他の登場人物は既視感ある。美術面でもきっちり作っていたのだけど、もう少しアートがあってよかったような気がする。アニメを模倣したアニメという印象もあったので。
 Netflixオリジナルという観点から見ると、まあ、いいクオリティなんじゃないの、というか、デビルマンは途中でドロップしたし、アニメじゃないけどデスノートの米国版で笑ったのと違って、こういう線はありなんだろう。いや、実際驚いたのだけど、自分が見終えたあと、ツイッターで調べてみたら、やっほー、日本語だけじゃない、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、アラブ語、など、各国語でみんな、感想つぶやいているのな。どれも好評だった。映画とかだと世界中の人が見ていろいろ感想を言うのはあるけど、このアニメでリアルに同時間感覚で世界中につぶやけるというのは、広域バルスっぽい。
 マーティ・フリードマンの主題歌『The Perfect World』はよかった。出だしが昔のキング・クリムゾンのテーストもあって。というか、個人的には、キング・クリムゾンの狂気みたいのがだだだだと出てきてほしいかもだけど、現代だし、それだとださくてやってらねいにはなるかも。ほか、音楽的にもかなり楽しめた。
 ま、なんだろ。日本アニメなんだけど、そのまま日本アニメのクオリティは超えていると思う。こうして日本アニメはNetflix的にグローバルに統合されちゃうのかというと、それも微妙に違うんだろうなと思う。

 

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2018.03.01

"expect"という英単語の分節について

 英語をきちんと勉強したということがないような気がする。自著にも書いたが、自分が高校以降、英語という言語に付き合うようになったのは、偶然。それに大して英語ができるとも思っていない。そのわりに、言語学を勉強したし、イェスペルセンの英文法なども勉強したりして、なんとなく英語を勉強したような気がしている。実際、英語って変な言語だなと思う、その関心をつないで勉強してきたとは言えるのだろうけど、それでも振り返ってみると、きちんと勉強したという実感はないのに気がつく。それは、基本的な英語についての知識が抜けていたりするときに痛感する。こんなことも知らなかったのか、という落胆感でもある。今回のそれは、"expect"という英単語の分節についてである。
 フランス語を勉強するようになってから、分節についてよく意識するようになった。フランス人の先生にフランス語を習っているときでも、発音がおかしいときは、シラブルで切って説明される。それはちょうど、日本人の子供がひらがなを覚えるころ、ひらがなで1文字ずつはっきりと発音するのに似ている。そんな感じに浸っていると、フランス語には、一種のひらがながあるんじゃないか、という気持ちすらしてくる。フランス語には、「あ、い、う、え、お」の音、全部にそれぞれ意味のある単語が相当する。「か、き、く、け、こ」はどうか。「こ」はあったかな。思いつかない。quoi はある。「さ、し、す、せ、そ」とつぶやいて、「そ」はどうっけと思う、J'ai fait un petit sautとか、あるなあ。もっともフランス語は母音が日本語より複雑なんで5母音に押し込むことはできない。それでも、ひらがな的な基本のシラブル意識は強い。
 というところで英語はどうなんだろうと思った。基本的にどの言語も、発音の音声は、意識的な音素(音韻)にまとめられる。たとえば、"label"という単語の冒頭のLと最後のLの音価や調音は異なるが、同じLの音だとネイティブには認識されている。これの場合、2つのLの音が同一認識としてLという音素になる。そのあと言語学では、音素を組み立てて、形態素というのを考え、それから語(word)にもっていき、その間に、形態音素論というのを扱う。そんな感じ。
 だが実際には、音素から形態を考える過程で、形態音素論にすぐに直結する手前に、シラブル(拍)の構成論が存在する。日本語論だとシラブルというよりモーラとして扱う。英語だと、シラブルやモーラについては、それなりに言語学的には研究はされているが、学習とのリンケージはあまりなさそう。
 その分野となんと呼ぶのか別として、例えば、英語の場合、語頭・語末、あるいはシラブルの構造の前後の音素には、一定の規則がある。例えば、/s/の場合、語頭に/sk/や/sr/や/sm/はあるが、語頭に、/ks/、/rs/、/ms/は来ない。語頭の3子音連続だと、/skr/と/skl/しかない。
 ああ、そうだ。ここで余談になるが、こうした英語の子音の音素の特徴は、アルファベットの読み方にもちょっと関係している。ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZである。だれも知っているし、それぞれの文字が英語読みできるはず。で、ABCDEまでは、基本的に音末が/i/になっているが、Fだとそうなっていない。そこで、そうなっていない文字を抜き出すと、FLMNRSWXになる。WとXは歴史的に後からついたというか、書字のための文字なので除くと、FLMNRSになる。これ、FとSが摩擦音、MとNが鼻音、LとRが流音となり、破裂音ではない。これらは、母音と結びついて呼気が漏れる子音である。こいうのが、実は、アルファベットのなかで弁別的に意識されいて、アルファベットを学ぶだけで、この子音の特性が自然に理解できるようになっている。補足すると、Mは「えむ」みたいになるけど、Bは、「えぶ」にはなれない。
 閑話休題。
 いずれにしても、母音を核として、シラブルが分析でき、その場合、前後の子音の連続に一定の原理がどの言語にも存在する。
 で、冒頭に戻る。
 というか、表題に戻るというか。"expect"という英単語の分節(syllabication)についてだ。簡単に言えば、どうシラブルで区切るか。シラブルで区切ることができれば、ひらがなようにはっきりと発音できるようになる。
 答えは簡単に思える。区切りに中点を入れると、"ex・pect"となる。辞書にもそう書いてあるはず。で、発音はというと、発音記号では[ikspékt]となっているはず。あるいは、/ikspékt/(この表記の差は、音と音素の差だがここでは触れない)。
 そこで、発音記号上で、"expect"のシラブルはどうなっているのか? どう区切られているのか?
 辞書の項目では、"ex・pect"なのだから、発音上も、/iks・pékt/になりそうなものだと思うし、それでいいんじゃねと思っていたのだが、先日、60歳を過ぎてだよ、は!?と思った。これ、/ik・spékt/なんじゃないの?
 日本で出ている辞書をいくつかあたったのだけど、この解答はない。米国圏の辞書を見ると、例えば、一番米語的なMerriam-Websterを見ると、\ik-ˈspekt\とある。この辞書の音表記はあえて特殊なんだけど、それでも区切り位置は、 /ik・spékt/である。
 ええ? そうなのか?
 そうだとしたらどんな言語学的な理論でそうなってるんだ?
 と、疑問に思ったのである。
 わからない。どうしたらいいんだと考えて、ああ、そうだ、泰斗Gimson先生の本を読めばいいじゃん。
 解説がありましたね。というか、あるもんです。
 先生曰く、phonotactic principleだと、この例だと、/iks・pékt/になりそうだが、allophonic principleだと、/ik・spékt/になる。
 どういうこと?
 簡単に言うと、シラブルの発音で考えるなら、/ik・spékt/ということ。
 実際、ネイティブは無意識にそうやっているはず。
 で、意識的に、/ik・spékt/ふうに発音すると、やはり、ネイティブ音に近くなる、というか、私も含めて日本人英語だと、/iks・pékt/のようになんとなく発音しているんじゃないだろうか。もちろん、自然な英語音の流れではこうしたシラブルは大きく意識されないにしてもだ。
 ふーむ。
 実に些細なことといえばそうなんだが、2つ思った。
 1つは、この例は些細だとして、"acquire"はどうなると思いますか? どこでシラブルが切れるか? ”gratuitous"はどう? (tuiの部分をなんとなく二重母音化してませんか? でも、そんな二重母音は英語にないんですよ。)
 もう一つは、Gimson先生の説明読んでいると、これ言語学的にそれなりにきちんと裏付けられたのは、どうやら1992年とのこらしい。俺が大学院出た後じゃん。
 とはいえ、総じて、些細な問題のようだけど、英語教育で、きちんとひらがな用にシラブルを意識させて、「はっきりと」英単語を理解させるとよいのではないかなと思った。そうすることで、アクセント位置も理解しやすくなり、同時にアクセントのない位置の母音が自然な音声の流れでシュワ化することや、スペリングと音声の関係についても理解しやくなるだろう。
 まあ、賛同してくれる人は少なそうだけど。


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