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2018.02.28

[書評] 生粋パリジェンヌ流モテる女になる法則(ドラ・トーザン)

 もう10年以上前の本で、『生粋パリジェンヌ流モテる女になる法則』(参照)という書名もちょっとどん引くものがあるが、なんとなく読んで、なんとなく心に残ったことがある。本の内容全体についていえば、この書名から連想されるとおりで、率直に言えば、日本人がフランス人について抱いている幻想となんとなく合っているように思う。

 まず些細なこと2つ。1つは香水のこと。この本、手にしたとき、香水のこと書いてあるんだろうなと思ったら、書いてあった。予想外のことはなかったけど、香水というのがやはり生活の一部なんだというのに納得。
 もう1つはコーヒーのこと。『嫁はフランス人』にもあったけど、朝起きて一番にコーヒーを飲むようだ。これってフランス人に普通のことなんだろうか。あるいはフランス人と限らないのだろうか。ちょっとググってみると、起きてまずコーヒー一杯、というのはよくないという情報が出て来る。読むと、さほど理由らしきものもない。こういうネタがあるということは、きっと朝起きたらコーヒー一杯という人も、フランス人と限らず少なくないということなのだろう。
 私は目覚めてコーヒー一杯ということはしない人だったのだが、この数日、起きたらブラックコーヒーを飲んでみた。で、なるほどねと思う。起きがけの一杯のコーヒーの味はなんとなく違う気がする。不思議なものだな。
 さて、と。
 この本で、なんというのだろう、考えさせられるというほどではないけど、心に引っかかったのは、「ラマン(愛人)を持つことのススメ」という話だ。L'amantという言葉の語感がよくわからないというか、「恋人」というのとどう違うのかも気になった。こう書いてある。
《恋人、そしてラマン。なかにはラマンとだけつきあっているパリジェンヌも。
 どう違うかというと、オフィシャル(公的)な恋人は、あらゆる場所に一緒に行く。カップル社会フランスでは、パーティやレストランなどに伴うのはもちろん、オフィシャルな恋人。実家に招待して一緒にクリスマスを過ごしたりする。》
《ラマンは公にはしないものだ。その関係性は、あくまでライト。今、そのとき、楽しいという気持ちを共有するパートナーだ。将来のことを考えたりもしないし、日常生活に踏み込まない。嫉妬をしたり、会えないからと機嫌を損ねたりすることもない。会いたいときに会い、楽しく過ごす。……》
 ラマンというと、マルグリッド・デュラスの小説を連想するが、あれってそういうことだっただったろうか。というのと、ここで言われているラマンというのは、フランス人にとっては普通の感覚なのだろうか。もちろん、フランス人にもいろいろあるのは当然理解するけど、こういう恋愛感覚というのがあるのだろうか。
 よくわからない。アメリカにはないような気がする。イギリスにもないような気がする。日本にはたぶん、ないだろう。これって、フランスのある種の文化なのだろうか。なんとなくだが、そういう文化とも違うような気がする。なんかよくわかんなくなってきたが。
 心にひっかかるのは、これって、恋愛とか愛とかいう、なんとなく自明に思っているある感覚と微妙にずれているような気がするからだ。
 それに関連してか、この本ではこの話の前に「不倫だって考え方では純粋な恋愛」という話もある。内容はだいたいこの見出し通りなので、引用はしない。ついでにいうと、「常に誘惑し続け、愛の炎を絶やさない」という見出しの話もある。
 そのあたりが奇妙に心にひっかるけど、なにかまとまった自分の考えがあるわけではない。
 ところで、この本、書名からすっかり女性向けの本だと思ったら、終章に「日本の男性へのメッセージ」というのもあった。概ね、普通のこと、というか、フランス人ならそうだろうなという想像の範囲内のことしか書いてないないようだけど、いや、これ、そうでもないなあとも思った。さて、このメッセージを日本人男性の私は受け取るんだろうか。
 気が向いたら、ドラ・トーザンさんの他の本も読んでみようとも思った。

 

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2018.02.27

[コミック] 宝石の国 8巻まで

 なんとなくアニメのほうで見始めた「宝石の国」だが、その後、その先の話が知りたくなったのと、コミック版の印象を確かめたいような気持ちもあり、コミックのほうを、現在出ている8巻まで買って読んだ。

 面白いです。美しいです。この作品、ほとんどアートじゃねというか、その面ではフランスとかでも受けるじゃないだろうか。
 コミック版を前にして、アニメのシーズン1との差異にまず関心が向いたのだけど、結論からいえば、美的なあり方はアニメはアニメ、コミックはコミックとして別でいい。ただ、別とはいっても、主人公のフォスについては、アニメの声優の声が圧倒的で、8巻読んでいても、その声優のイメージが抜けない。
 アニメのシーズン1の終わりは、コミック側から見ると、少し無理しているな感はある。シーズン2になったとき、そのあたりの補正になるのだろうが、難しいんじゃないか。
 コミックで通して読むと、この物語、とにかくイマジネーションが異質すぎて、わけわかないし、主人公のキャラのアイデンティもグニョグニョ変化していくへんてこな物語なんで、そういう異質感は新鮮だし、それが一枚一枚の絵画的なアート的センスとも合っていて美しいのだけど、なんどか読みながら、そして、物語の進展につれて開示される謎とも合わせていくと、ああ、これってまさに日本だと思った。すごい、日本的。
 以下、ネタバレ含む。

 何が日本なるものかというのは、基本多様なんで各人が勝手なこと言えばいいと思うのだけど、それでも宗教的に見て、日本独自かなと思うのは、まず骨信仰だろう。広義に骨信仰というなら、アジア全域にも見られるし、欧州にないわけでもないが、インド型の場合は、火葬が前提なんで、仏舎利というのも、火葬の残りになる。どうでもいいことだが、寿司などでごはんのことをシャリというのは、この仏舎利に由来する。厳密には、中国唐代にこの比喩はあるらしいが、日本で定着している。どうでもいいついでで言うと、五重塔とかはストゥーパは仏舎利を収めるもので、本質は仏舎利のほうにある。
 宝石の国というのは、まずもって、このシャリから骨の世界を扱っているのだけど、そこに存在と死の感覚を焦点的に持つというのは日本的としか言えないのではないか。さすがに戦後から年月が流れているが、未だに遺骨収集とか国家プロジェクトで行っているのは日本くらいではないだろうか。
 骨に注視したとき、必然的に、肉なるものも現れる。ヘレニズム世界的には、日本では聖書的世界観と言うべきかもしれないが、肉はσαρκὸςであり土であり、これに霊はπνευμαであり息になる。が、日本の場合は、まず、死の骨と生の肉に分かれる。そして、骨の側に死霊が付くのだけど、これに成仏が関連してくる。現代でも未だに日本人は、ご冥福をお祈りしますとして、霊界にさまよう成仏しない霊が気になる。
 この構造だが、人間というのは、骨と肉と成仏しない霊からできていることになる。この成仏しない霊に、祈りや供養が対応して、霊の無化が問われる。おそらく、そうしないことで、霊はこの世に祟るからだろう。
 宝石の国はまさに、こうした日本人の原形的な宗教感覚からできていて、しかも月人は竹取物語の月人のイメージに合わさっている。ここが難しいところだが、この月人のイメージは天皇のイメージと重なる。竹取物語というのは、天皇の地上の権力に抗う力の物語である。
 8巻までの物語のなぞは、なぜ、金剛先生は、成仏しない霊である月人に祈らないのか、ということと、それが宝石を愛している理由はなぜなのか、という2点になる。そこはどうなるのだろうかというと、想像もつかない。日本宗教的な考えなら、月人を成仏させることは善であるべきだろう。
 ただし、この物語から超えるのだが、そうした成仏の予定調和的な機能がまさに、天皇なのだろう。金剛先生の本来の機能が天皇なのだとも言えるだろうし、むしろ、そこから逸脱して狂ってしまった金剛先生と宝石たちは、日本人の、天皇をまきこんだ宗教意識の根幹に対して、どういう違和を発しているのだろうか。そこがこの作品の現代的な意味だろう。
 宝石の国という物語を、その内在的な問いかけから見るなら、辰砂の存在理由にある。おそらく主人公のフォスは、辰砂の存在理由の問いかけを物語的に引き出す装置であると見てよいだろう。この世界からはじき出され、害毒だけしかないと自己認識し、死ぬことを願う存在とは何か?
 このあたりの宗教意識は、「とく死なばや」という日本中世の宗教意識とも通底する。
 この無意識的な謎の2構造で見るなるなら、成仏を祈らない金剛先生と、「とく死なばや」として死にきれない苦しみの存在である辰砂は通底しているはずだ。
 それは宗教的というより形而上学的な問いかけだろうし、その次元で初めてこの物語がユニヴァーサルな意味を持つようになるのだろう。

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2018.02.26

Vape吸ってみた その1

 こうしたものに関心を持つようになって、他についても、自分は薄味派というか淡白な嗜好があるのかなと思うようになった。エロ趣味とか、こってこってのほうが好きなんじゃないか自分、とかも思っていたけど、実際、こてこてしたAVとか見ないし、なにかと薄味派なんだろうか。っていうか、自分、趣味悪いか。

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2018.02.25

[書評] 9.11後の現代史(酒井啓子)

 『9.11後の現代史』(参照)という表題になっているが、9.11後の現代史の全体を扱った書籍ではない。ロシアや中国、東アジア、南米などの処地域やジオポリティクなパワー、また分野としては金融や経済、サイバー戦争といった側面など、9.11後の現代史を特徴つける諸要素も含まれていない。その意味で、9.11後の現代史を俯瞰する書籍ではないが、中近東の現在とそれが世界にもたらす影響についてはほぼ網羅的に扱われているうえ、簡素に読める点で貴重な書籍となっている。その思いは著者の次の言葉にまとめられるだろう。

 《本書は、21世紀の中東しか知らない若者には、「今見ている世界と中東がこんなに怖いことになってしまったのは、そんなに昔からじゃないんだよ」と伝え、20世紀の中東を見てきた少し年嵩の人たちには、なぜ世界と中東がこんなことになってしまったのかを考える糸口を示すために書かれたものである。》
 内容については、目次からもわかりやすいように、中東問題について各トピックを章ごとにしめし、そこでのクロニカルな説明を展開している。

第1章 イスラーム国(2014年~)
第2章 イラク戦争(2003年)
第3章 9.11(2001年)
第4章 アラブの春(2011年)
第5章 宗派対立?(2003年~)
第6章 揺れる対米関係(2003年~)
第7章 後景にまわるパレスチナ問題(2001年~)
終 章 不寛容な時代を越えて

 第1章がイスラム国となっているのは、日本の読者の関心を意識してのことだろう。この章の内容は概ねプレーンに書かれているが、意外にもトルコの要因については言及されていない。このため、現下のクルド勢力(YPG)の構図などが本章では解きにくい。別の言い方をすれば、発売されて1か月してすでに状況が大きく変化している。この面については、第6章につながっているので、参照ポインターのような編集の配慮があるとよかったかもしれない。
 第2章のイラク戦争については、その年代が2003年とされているように、湾岸戦争からの背景史は捨象され(イラクでの国連制裁の問題なども含まれていない)、概ね、米国ネオコン暴走というかイデオロギー主眼の視点に立っている。対照的にエネルギー問題、つまり原油のコモディティ性の維持と米国の関わりの視点は本書では薄い。オバマ政権の中東への脱関与もシェールガス革命の側面の説明はない。
 第3章の9.11についても、ソ連のアフガン侵攻の前史は簡素に描かれているが、スコープはやや狭い。ヘロイン生産などの視点は薄い。アフガニスタンの問題は現在も大きな問題だが、その面での展望を知るヒントは得づらい。別の言い方をすれば、オバマ政権時のアフガニスタンの扱いについての言及が少ないからだとも言えるかもしれない。
 第4章のアラブの春については、日本では現状にあまり関心が向けられていない状態では、本書の現状の概要は重要だろう。個人的にはリビアの扱いについては、イラク戦争との対比でもう少しその矛盾について言及があってもよいように思えた。
 第5章の疑問符が付された宗派対立についての説明は、次章、第6章の揺れる対米関係との著者の専門分野であることからも、二章関連して、かなり濃い内容になっている。また、現在の中東情勢を理解するヒントも多い。この二章を中心に一冊にまとめたほうがよかった印象もある。
 第7章の「後景にまわるパレスチナ問題」もこの章題に思いが込められているように、まさに「後景」となる現在性が重要である。トランプ政権の、国際的には非常識に見える対イスラエル対応も、こうした後景の問題が潜んでいる。またこの問題に関連して、なかでも、ヒズボラの扱いについてはあまり日本では知られていないようなので重要だろう。簡素に言えば、本書では括弧つけされているが「アサド政権の悪行に手を貸すシーア派の民兵」という問題である。
 終章の「不寛容な時代を越えて」については、欧米における排外主義の問題を指摘しているが、率直に言って、本書の全体的な問題提起には対応していない。
 全体的に、このテーマではどうしようもない矛盾が存在する。冷戦期を挟む南米問題での米国の関与が概ね好ましくないことから、では中近東に米国が関与しないほうがよいのかというとそうとも単純に言い切れない。その矛盾の最大点はシリア問題で起きた。オバマ政権に何ができただろうかという擁護もあるだろうが、その曖昧な非関与が悲劇を拡大したことは確かだろう。トランプ政権の外交戦略は、世界のリベラル派からは表面的には批判されているし、特にトランプ大統領の直接的な言動を見ればそうした批判も当然だろうが、米国としての対応で見るなら、オバマ政権からの大きな変化はない。
 安易な解決策はない。問題はかなり複雑である。それでも、平和とはただ念じて達成するものではないなら、現代の人々は世界を学んでいかなくてはならない。本書はそうした視点で見るなら、とても読みやすい入門書であると思う。

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2018.02.24

[書評] 離婚してもいいですか?(野原広子)

 「卵でカンタンおかず」という表紙に惹かれて、雑誌『レタスクラブ』(参照)を手にしたら、『離婚してもいいですか?』という漫画があった。これ、一冊分まるごと入っているのかなとさして考えもせずに読んでて、ぷち鬱くなった。

 簡単にいうと、普通の主婦が離婚しようかなと思う日常がさりげなく淡い線画で描かれているのだが、そのさりげなさがかえって、あまりにも日常的にあるあるな状況なので、なんだろ、とても痛い。まあ、自分の場合は、既婚男性なんで、女からこう見られているのかあ、という痛さもあるのだが、結婚の真相っていうのは、こういうものだよねというリアリティがずさずさくる。なんだこの漫画と思ったら、以前からこの雑誌に連載していたものらしい。そして、4月には単行本になるらしい。という過程で、これ、『離婚してもいいですか? 翔子の場合』というバージョンで、2014年に前作『離婚してもいいですか』があるのを知り、なんだなんだということで、考えもせず、ぽちって読んだ。うああ、こっちのほうがさらに痛い。
 このなんなのだろう、とても些細でどうでもいいことに思える、夫婦間の不快がきちんと描かれている。たとえば、まるまった靴下の洗濯物。丸まったまま洗濯に出すんじゃねえよ、というあれだ。そして、あれ、だけで終わらないのは、「丸まったまま洗濯に出すんじゃねえよ」って言葉で言っても、通じないという「あれ2」だ。きちんと2パターンを抑えている。はいはいと答えられても事態は全然変わらないあれか、逆ギレするというあれだ。実に些細な話に見えるだろうが、これって、実は人間というものの本質に関わる問題にきちんとつながっているところが怖い。
 ほんと怖いのだ。DVはいけない、というのはほぼ自明で、さっさと離婚しなよ、それ以外、答えなんかないよというような、DVがあっても離婚できないというのは、どちらかというとわかりやすい社会問題であったり、共依存的な心理的な病理であったりするのだが、この漫画で描かれているのは、そういうDVではない。直接的な暴力はないが、不機嫌になったり、ものに当たり散らしたりする夫である。つまり、DVの線が微妙。また心理的な暴力とまでも言えない微妙さ。というか、妻の側には、じわじわと首を絞められるようなぬるい絶望感。というのが、書名である『離婚してもいいですか?』につながっていく。しかも、この絶望感を深めているのが、子供という存在である。ひどいこと言うようだけど、子供がなければ、関係は男と女というだけになりそうなものだけど、まあ、これもそう簡単な問題でもないか……。
 こういう状況から無縁な結婚生活というのはおそらくなくて、この漫画と多数の人の結婚の実態はある濃淡の差くらいなものだろう。離婚する踏ん切りもつかずに、子供を育てる家庭をなんとなく支えていくというか。それでも、基本的には、男が稚すぎるというのはあるだろう。
 まいったな。これは痛いな。ということで、新作『離婚してもいいですか? 翔子の場合』に戻ると、前作と基調は同じだけど、見方によっては男の側の視線もあるかな、というか、男の側からも読める距離感のようなものはあるかなと思うし、フィクションの物語性が濃い分、少し救われるぬるさはある。それと、前作より少し夫婦の年齢を深めた感じもする。エンディングも暗いだけではなく、なんというかもっと乾いた諦観が覆っている。しいて明るい面としては、そうした鬱を補うように、女性の内面の問題として、なぜこういう結婚生活に耐える自分になってしまったのかという洞察もあり、そこは心の治癒的な面もあるだろう。
 いずれにしても、二冊、とんでもないもの読んじゃったな感はある。
 既婚女性からの支持は多いようだけど、これ、若い男性は必読だよと思う。神は細部に宿る、ではないけど、結婚生活は細部に宿るよ。

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2018.02.23

[書評] 天使の創造(坂東としえ)

 立花隆『臨死体験』に幽体離脱体験者としてロバート・モンローの話が出て来るが、モンロー自身は神秘家というよりエンジニアであり、その体験を科学的に追求するために自宅に研究所を設置したものだった。そこでの彼の研究におそらくもっとも貢献したもう一人の幽体離脱体験者がロザリンド・マクナイトだが、彼女は後年、自身の神秘体験を深め、自伝的な『魂の旅』という作品を残した。

 本書『天使の創造』を勧められて手にしたとき、その表題や装丁の類似感から同書を連想した。が、読み進めてみると、霊性探求の自伝的な側面では似ているし、また神秘的な真理を開示するという面でも似ているが、日米の文化差という以上に、随分と異なった印象を得た。なにより本書のほうは小説という意味でフィクションになっていたし、直接的に神秘的な世界が扱われているわけでもなかった。その分、違和感なく自然に読めるように書かれている。
 本書が書かれた経緯や背景についても知らずに予断なく読み、読後、書籍の解説を知って得心した。いわく、「生涯をかけて理想の保育を追求した著者が贈る、子供の世界と大人の世界が交差する稀代の小説」ということで、著者は35年間の保育士経験と母親学級講師としての活動実績があり、そこでの強い評判に押されて書かれたものではないだろうか。
 小説としての枠組みは、夏希という若い女性の自伝的な話から始まり、彼女が子供を産み、子供と交流しつつ、病気との遭遇を経て人生の意味を問いかけていくなか、ヨガの講師から精神世界的な真理を学ぶ、ことである。叙述の特徴としては、詩を随所に含みつつ、日常的な生活のなかに、深い意味を暗示するアネクドーツ(逸話)が語られていることだ。平易に書かれていて読みやすいともいえるが、他面、エックハルト・トールの講話書籍のようなハウツー的なスピリチュアル本に親しんでいると、小説という枠組みに読みにくく感じる人もいるだろう。現代的な読者にしてみると、各章冒頭にハウツー的な問いかけがまとまっているなど、編集的な工夫があったほうが読みやすいだろう。
 後半、ヨガ講師に仮託して語られる精神世界の真理には、クリシュナムルティや奇跡講座を連想させる深遠さをもちながらも、誰でも平易に理解できる言葉で解かれていいることに驚きも感じさせる。著者自身の瞑想修練で感受された真理であるかもしれないし、なんらかの宗教的な背景もあるのかもしれないが、直接的な示唆はない。
 本書の要諦を引用したくもなるが、そう思ってみて、部分的には抜き出せないことがわかる。著者が小説として語りたかったのもそうした思いがあったからだろう。

 

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2018.02.22

[書評] ソラニン新装版(浅野いにお)

 『零落』と同時に発売された、11年ぶりの一編を加えた新装版『ソラニン』(参照)を読み返す前に、映画の『ソラニン』を見た。いい映画だった。そして映画としてよくできていた。俳優たちの演技もよかった。が、個人的な思いで言えば、多摩川の風景が美しかった。それは自然の美しさとは違う、ある雑然とした平凡な人に馴染むすこし汚れた生活というものの美しさで、それがこの作品とうまく調和していた。そうして風景が人々の生活のなかに潜む思いに、原作ではとても上手に、11年後に描かれた物語の前挿話としてふれている。そこに静かに感動する。じゃらーん……なんてな。

 旧版のまた映画の『ソラニン』は、人々の青春の物語だろう。凡庸な人々といってもいいかもしれないが、それゆえに意味を深く持つ。逆に言うなら、特別な人々や特別な青春の物語は物語であることの要請に飲み込まれてしまって、私たちの、ただ生きていかなくてはならない生活の質には触れてこない。『ソラニン』が自然に触れている青春の姿は一つの水準とでも言うようなものかもしれない。例えば私は、『ソラニン』に描かれた青春とは表向きには大きく異なる時期を過ごしたが、その時期の恋のなかで煩懊し、押しつぶされていく、ある感覚はよくわかるし、そしてそれを人がどうやり過ごすのかということもわかる。『ソラニン』の上質なところは、その微妙な哀しみを「やり過ごす」ある感覚を描き出していることだ。
 それが年月に重なり合う。いつか青春は終わるかに思える。だが青春の終わりは、それが只中にいて終わったかに見える、見渡せるような晴れの光景にはない。もっと静かにある意味ではつまらないものだ。まるで電車のなかでドアにもたれてふと目をつぶるような。その芽衣子の表情がかぎりなく哀しい。哀しみを失ってしまったような寂しさである。新装版に散らされている、一見ただのイラストのように見えるそれぞれの絵に、遠くから感じる寂しさのようなものが滲んでいる。
 どうすることもできない。人は若い日の死に抗うこともできなければ、流されて生きていくことに抗うこともできない。それを幸せと呼んだり、守るものに自分の弁解を仮託もする。でもそこにはかすかな欺瞞の感覚がつきまとう。守るものを守り、あるいは、夢を叶えるかのうよに精一杯仕事をしたり、しかしそれも、ふと終わるものだ。こう言ってもいいかもしれない、青春が終わるのは、40代。
 そこから先は奇妙なものが始まる。そのなかで、あの寂しさのようなものをどう抱えて生きていくのか、奇妙で滑稽な戦いと敗北が始まる。そうしたもう一つの物語のために、『ソラニン』はきちんと終わらなくてならなかったのだろう。

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2018.02.21

[書評] 零落(浅野いにお)

 『零落』(参照)というコミック作品についてどう切り出していいか戸惑う。文学なら「私小説」にでも分類されそうではある。落ちていく自意識と創作への執念とある聖なるものへのこだわりは、太宰治『人間失格』に似ていないでもない。だが、それと細部は異なるし、その細部から描き出される新しい全体像も異なる。その差異は、他者というものの感覚かもしれない。「私小説」が私を通して他者を見る(神のように審判する)の対して、基本的に視覚芸術の作品の利点を使っていることもあり、『零落』はそう見せておきながらも、逆に他者から自分を捉えようとしている。

 その、複数の他者の延長の、ある絶対的な他者というものの象徴は、猫顔の女性であり、それがこの作品の実生活ではちふゆになる。作品が表面的に暗澹とした雰囲気に覆われ、作者と作品の乖離のなかの苦悩を描きながらも、独自の、奇妙な明るさをもっているのが、ちふゆの快活さとそこに到達できない他者というものの感触の、ある健全さだろう。別の言い方をすれば、猫顔の女性の呪いに集結しているかにも見える作品だが、私小説な実体験のコアの部分で、他者というものへの欲望を明るく描き出している。
 少し勇み足すぎたかもしれない。
 この作品、『零落』は、編集サイドの思いが代表しているように、『ソラニン』から12年という、創作者・浅野いにおへの関心で誘惑している。だが作品は、「私小説」にありがちな、作者の、ここでは浅野の実生活を描き出したとはいえないだろう。離婚に至る夫婦のすれ違いや、風俗、作家の苦悩というものも、ある虚構のなかで構成されたものであるし、それらに実経験の核があるというより、そうしたディーテールのリアリティで表現される何かを欲してこのような素材が集められ、「私小説」のように組み立てられていると理解したほうがよさそうだ。
 なぜなのか。一つには、ここで触れている12年の重み、つまり、男が37歳など、40代を迎えようとしているときの、ある重く、つらい感触である。他者としての女との関係の再統合とも言ってもいいかもしれない。
 これは、奇妙なことにと言うべきか、ある程度、意図的に、『ソラニン』に結びついている。『零落』は、新版の『ソラニン』と同時発売という以上に、増補によって脱・構築された『ソラニン』と組み合わさる、ある感覚を表している。新しく登場したソラニンの芽衣子も同等の年齢で描かれているのもそのためだろう。そして、この連関は、種田成男の死が、かぎりなく自殺に近いことへの脱・構築的な再統合でもある。比喩的な言い方をすれば、音楽で世界を変えようとしていた種田成男は、創作を神聖視していた深澤薫と重なる。深沢の零落は、種田の死の緩慢な表現でもあるだろう。そして、その「死」を弔っているのが、40歳を前にした芽衣子である。そうした、ある優しい視点は、『零落』の町田のぞみの哀しみにも仮託されている。
 中年の、零落した男には、ある優しさが宿る、と思う。その優しさがもういちどエロスに回帰してくるとき、たぶん、もう一つの物語は始まるだろう。

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2018.02.20

[アニメ] BEATLESS その0

 今期アニメ視聴途中で原作未読でなんとなく語ってみるの第三弾、BEATLESS。のっけからどうでもいい話かもしれないけど、このタイトル、最後の一文字のSがないと、 BEATLESで、つまり、「ビートルズ」になる。偶然ではない駄洒落なんだろうと思うけど、その意図はよくわからない。視聴現在地点は、途中総集編のintermission_0で、つまり、実質5回目まで。壮大なテーマがあれば、この時点ではまだわからないともいえるが、逆に言えば、この時点で視聴者を掴んでいないとこの先は難しい。というのが、このintermission_0の意味かもしれない。

 物語について。私がここまで見た範囲だけど。世界の設定は、22世紀の日本。ITC技術とその応用を除くとテクノロジーの基本的な風景は現在の日本と同じ。あまりに同じなんで少しがっかりもする。すでにシンギュラリティを超え、人間の知能を超えた超高度AIが存在する。人口減少を補うため、サービス労働さえもhIEという人型のロボットに任せている。最上位機種はレイシア級と呼ばれる。事件は、hIE行動管理企業「ミームフレーム」の研究所が爆破され、5体のレイシア級美少女hIEが逃亡するなか、事件に巻き込まれた主人公の少年・遠藤アラトはその1体レイシアに出会い(モーイ・ミーツ・ガール物語)、救われ、それをきっかけに彼女のオーナー契約を結ぶ。物語は、その5体とそれを巻き込む勢力の構想と、アラトとレイシアの交流で描かれていく、ようだが、まだ3体が登場したところ。
 当初の感想だが、世界観は難しくない。物語を修飾している用語については、私はどちらかというと人工知能やICT技術に詳しいほうなので、問題なくわかるつもりでいるが、逆にこれはちょっと一般にはレベル高すぎるのではないだろうかとは疑問に思った。
 物語の展開は、ここまではだるい。物語テーマの全体構造が現れていないのでしかたないとは思う。テーマの予感でひっぱるしかないが、現状では、その面ではレイシアと紅霞の2体のhIEに集中している。おそらく、この物語は、レイシアの存在そのものに掛かっているし、レイシアとアラトの関係(信頼、つまり愛)がキーではあるのだろう。が、現状でのその関わりの描写は、やはり既視感溢れて、だるい。美少女戦闘も同。友情シーンも同。お子様作品かなとも思うが、違うだろうという予感はまだある。
 物語の全体テーマは、AIの哲学的な側面よりも、その神話構造的な部分に持ち込んでいくのかなという感じはする。5体がそもそも神話的。

  type-001・紅霞:「人間との競争に勝つため」の道具
  type-002・スノウドロップ:「進化の委託先」としての道具
  type-003・サトゥルヌス:「環境をつくるため」の道具
  type-004・メトーデ:「人間を拡張するもの」としての道具
  type-005・レイシア:「人間に未だ明かされざる」道具

 神話の基本類型のキャラとしては、『ニーベルングの指環』のブリュンヒルデと、『ファウスト』のグレートヒェンとメフィストフェレスあたりが思いつく。基本的には、道具というより、導く者のギリシア的神として、『イリアス』の構造があるだろう。
 こうした神話的構成があれば、物語は必然的な悲劇を要求してくるだろうし、現状のだるい感じがその悲劇の仕込みなのではないかと期待している。
 というか、原作があるんで、読めよ、ではあるなとは思うが、アニメ見てから読むだろうと思う。

 

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2018.02.19

ためらいながらではあるけど

 日本人と限らず多くの人がフィギュアスケートの羽生結弦選手の活躍を賞賛しているなか、こういう意見を述べるのも、悪意のように取られるのではないかと恐れるが、自分としては若い選手の将来を思ってこういう意見もあるという、一つの小さな例として、ためらいながらではあるけど、書いておきたい。繰り返すが、こう思う人もいるというくらいの些細なブログ記事であり、強く望むという大それた主張ではないし、私はたぶん間違っているのだろうという疑念もあるので、そこは理解していただきたいと願う……私は羽生結弦選手は平昌冬季オリンピックに出場しないほうがよかったと考えていた。
 理由は、NHKスペシャル『羽生結弦 五輪連覇への道』を見たおり、昨年11月の怪我が深刻なものに思えたからだ。同番組では「自らの限界を超えて五輪に挑もうとする羽生結弦」というトーンで推していたが、そしてそれ自体はスポーツ選手として素晴らしいことではあるのは当然だが、ここでの「限界」がこの怪我の克服を意味するなら、怪我という身体的な損傷が癒えるまでの十分な時間とその後のリハビリであるはずだと私は思った。仮にではあるが、怪我が十分に治ってなく、痛みを堪える、あるいはさらなる悪化を招く危険のある演技なら、選手の生活全体を考えるなら好ましくはないのではないかと思っていた。これはけして、十分な演技ができない、という勝ち負けの問題ではない。勝ち負けという点でいうなら、オリンピック競技は誰かは必ず勝つ。フィギュアスケートでもその世界の時点でもっとも優れた演技を見ることができる。私のような人にしてみれば、それが日本人であるという重要性は少ない。
 良かったことは、彼の演技を見ると、怪我の影響はそれほどは大きくなく(しかし、それは私のようなものでも影響ははっきりと見て取ることはできた)、オリンピック参加にあたっては、一定水準の怪我の回復があったのだろうと思えたことだ。であれば、怪我を押してでのオリンピック参加はしないほうがいい、というのは懸念だっただろうか。
 あまり良くなかったかもしれないことは、昨日のNHK7時のニュースで本人の次の言葉を聞いたことだ。以下はその産経新聞での書き起こしから引用(参照)。

 「足首次第です。本当に、痛み止め飲んで(演技をした)。注射が打てればよかったんですけど、打てない部位だったので。本当に、痛み止め飲んで飲んで、という感じだったので。はっきり言って、状態が分からない」
 「ただ、はっきり言えることは、痛み止めを飲まない状態では、到底ジャンプが降りられる状態でも、飛べる状態でもない。だから治療の機会がほしい、と思うが、それがどれくらい長引くのか。アイスショーの関連もありますし」
 「せっかく金メダルを取ったので、いろんな方々に伝えたい、笑顔になってもらいたいという気持ちもある。競技として考えると、治療の期間が必要だなとは思う」

 どうやら身体の回復を第一に考えるなら、今回のオリンピックの演技でもまだ治療の期間が必要な段階にあったと見なせそうだ。その意味でという限定ではあるが、選手の身体を第一に考えるなら参加すべきではなかったという当初の私の考えも、私自身としては、変更することもないように思えた。
 しかし、問題は身体だけではない。心の問題がある。オリンピックでの演技は羽生選手の夢でもあった。そして、その夢の実現のためには、怪我の痛みや回復途中のリスクもすべて了解して、本人の意思で夢にチャレンジしたのだ、と。本人だけなく、支援者もそれを認めたのだから、それ以外の人が、参加すべきではないと言うべきではない、とも言えるだろう。私としては、そこは、半分くらいそうだろうと思う。あとの半分は、オリンピックの機関が、選手の怪我の状態を客観的に検査して参加の認可をする過程が必要だったのではないかということだ。
 私の些細な意見は以上だったのだが、少し追加したい。羽生選手から、「ほんとのほんとの気持ちは、嫌われたくない」という言葉を聞いて(参照)、少し痛みのような感覚を覚えたからだ。誰からも好かれたという思うのは、特に若い人なら自然な感情だろうと思う。ただ、人の期待に答えようとすると自分を見失いがちだ。特に、身体的な限界を超えるような他者からの期待には沿わないほうがいいくらいだ。
 ここからはもう怪我を押しての羽生選手のオリンピック参加ということから離れて、特に若い人の、期待に答えようとする真摯な生き方への、ある痛みのような思いに触れたい。
 具体的には若い人の過労死のことを思った。過労死の理由は、劣悪な労働環境にある。それはゆるぎないことだ。だが、以前、外国人記者が関連の記者会見で問うたことが心にひっかかっている。記者はこう疑問を投げた。「なぜ厳しい状況で働く社員が会社を辞めないのか」。これに対してその場では、他社も同じくらい長時間労働であり、日本全体がそういう状況になっている、というような答えがあった。つまり、どこに言っても過労死を強いるような労働環境だから、逃げ場はないのだ、というのである。質問した外国人記者は納得しただろうか。
 これ以上長時間仕事をしたら身体が壊れるというとき、なぜ逃げ出せないのか。逃げ場がないからなのか。私の考えでは、そういう精神状態に陥ったときは、すでにもう逃げることの意識は働かなくなっているだろう、すでにもう精神的に押し詰められている、というもので、であれば、誰か別の人が、やめなさい、逃げなさいと言うべきではないかというものだ。
 私の考えが正しいかどうかはわからない。間違っているんじゃないかとも思う。でも、自分が見て、誰かがそういう状況にあるなら、そしてもし私がそこで小さな声を上げることができるなら、ためらいながらではあるけど、そうするだろうと思う。

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2018.02.18

「お前は安全圏から発言するな」について

 賛否が分かれる社会問題に言及すると、その言及の賛否のスペクトラムに対応して反論が生じるのはしかたないし、それが現在の、表面的に匿名のネット利用者の世界だと、言論の責任が曖昧な罵詈雑言的な状態になるのもしかたないとは思う。となると、何を言ってもこうした問題は敵対関係に置かれるので、そこまでしてブログなんていうものをする意味があるのかということにもなる。これは昨年の休止期間にも考えた。「ないんじゃね」とかなり思っていた。今はどうかというと、よくわからない。でも、僕はブログを書き続けようかとは思いなおしつつある。と、前置きはしたものの。
 こういう状況で、ある、ひとつの典型的な揶揄がある。「お前は安全圏から発言するな」というものだ。まあ、これは共感しないではない。私は1994年から8年ほど沖縄県民であの、少女レイプ事件からの激動の時代を過ごしたが、沖縄県民となってみて、しかもそれなりに沖縄の地域社会の、それなりに深いレベルで生きてみて(シーミーに参加するくらいには)、ああ、本土の住民は沖縄問題がわかっていないな、と感じたことはある。それは、多少ではあるが、「お前は安全圏から発言するな」という感情に近いだろう。それと、自著にも書いたが、私は難病に罹患しているので、そういう経験のない人には、たまに、やはり似たような感情を持つことがある。
 ただ、そういう感情が起きるとき、いやなんか違うなとも思う。例を通していうと、というか、この例が一番、考え続けてきたことだが、日本は原爆の唯一の被害国として発言権がある、というようなことだ。「ような」としたのはいくつかバリエーションがあるという含みだ。「発言権」というのは実際の権利ではなく、比喩という意味でもある。この前提だが、自分なりに考えたのは、そうした「発言権」に近いものは、日本にはないだろうと思うようになった。原爆の問題は人類共通の問題なのだから誰が考えてもいいし、誰の考えにも耳を傾けるべきだと思う。では、実際の被爆者の意見はというと、そこは、より傾聴すべきだとは思う。そうした位置・経験でなければ感受しえないものがあるからだろう。例と比喩から離れていえば、ある問題について安全圏にない人の声はより傾聴しなければならないと思う。
 そんなことを思ったのは、昨日の女性専用車両の問題で、この問題はつまるところ満員電車の問題だから、満員電車を解決すればいいのだ、お前ように満員電車の苦しさをしらない人が安全圏からごたごた言うな、というような揶揄を目にしたことだ。まあ、これはテンプレの誤解なのだけど、少し考えた。
 個別的な問題でいえば、原理的に、痴漢という側面での女性専用車両の意義の問題と満員電車の問題は分離できると思う。というか、分離しなければ、痴漢という側面での女性専用車両の意義は思考できないと私は思う(満員電車がなくても日本の痴漢犯罪の質は変わらないだろう)、が、まあ、そもそもこの時点で通じない人はいる。いわく、実際、満員電車が解消されれば、痴漢は解消されますよ、ということだ。
 実は、そのロジックでいうなら、昨日のブログで私が、自身が「無関心だった」として書いたのは、この問題は自分の範囲で言うなら、自分は満員電車には耐えることにしているし(余談だが、近未来、満員電車の問題は実質解決するだろう)、痴漢として誤解されたら対処する覚悟はある(逃げない)という原則のようなものを盾にしていたからで、そう考えてしまえば、無関心でいられた、という意味で、安全圏から安閑と考えたということでもなかった。似たような盾でいうなら、よく日本政府の言論規制が厳しくブログはやってられないという人がいるが、もしそうなら、政府とぶつかればいいと思う。私は言論で逮捕されるなら、それもしかたないという覚悟で書いている。徴兵が実施されるなら良心的兵役拒否を主張するし、年齢的に兵役ではないなら、私の声の届く範囲で、良心的兵役拒否を説く。そうした意味での水準でいうなら、満員電車が問題だというのを盾とすれば、この問題自体に無関心でいられる、ということと同じである。というか、そういう本質から逸れた無関心さを自分を含めて批判してみたかったのだが、おそらくこれも通じにくいところだろう。
 類似の関連で思ったのは、先日、カトリーヌ・ドヌーヴら百人の女性が署名した声明について、同じように、「お前は安全圏から発言するな」という批判を見かけたことだ。あの声明を自分なりに訳しながら、これは多数の女性の討論の結果、複数の声としてできているという感覚があった。その複数の多様性のなかで、声明として可能なかぎりまとまる部分を無骨ではあるがまとめたという印象があった。別の言葉でいえば、100人のうち何人かは、安全圏にいるわけでもないだろうなと印象があった。そういう人たちの、複数の声と無骨ではあるがまとめられた言葉の、差異を感受していたかった。
 さてと、くだくだ書いたので、わかりやすくまとめておこう。

 ① 「お前は安全圏から発言するな」という批判はやめたほうがいい
 ② 安全圏でない位置にいる本人の声は傾聴しよう

ということかなと思う。

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2018.02.17

女性専用車両について考えてみた

 ツイッターのタイムラインで今朝、千代田線で停車中の女性専用車両に男性数人が乗車してトラブルとなり電車が遅れたというニュースを知った。世の中、変な人はいるからなあと思ったのだが、どうやら、男性たちは意図的に乗車する行動によって、女性専用車両が性差別だからなくせ、という主張をしたいらしい。タイムラインを追っていると、そうした男性たちの行動に非難する意見が多いように見受けられた。
 そのニュースを知ったとき私はあまり関心がなかった。世の中どこでも小競り合いは起こるものだし、おかしな示威行動をする人はいる。しかし、公共交通に迷惑をかけるような示威行動は好ましくないだろう……とぼんやり考えながら、しかし、示威行動というのは、フランスのストライキなどがそうだが、基本的に社会に一定の迷惑をかけることでメッセージを伝えようとするものなので、迷惑をかけるから一概によくないともいえない。
 しかし、市民社会の規則を破るようなこと、特に違法行為はよくないだろう……と考えて、ああ、そうかと思い至った。今回の示威行動を規制する法も社会ルールもない。女性専用車両の根拠というものはない。であれば、これは、この男性らが主張するように、性差別なのではないのか?
 女性専用車両というのは、イスラム圏など宗教的に男女を公的空間で分離する文化圏で見かけるもので、私の知り限り、先進国にはない。これは性差別なのかというと、原則的には性差別なのだろう。先進国の同種の問題としては、女性専用のプールといった問題があり、それがとりわけ問題となるのは、英紙ガーディアンなどでも論じられていたが、トランスジェンダーで女性を自認する人がそうしたプールに入れるかという問題である。議論にはなっているが明確な答えも指針も現状はない。
 それまで考えたこともなかったのだが、女性専用車両にトランスジェンダーの女性と自認する人は乗車できるだろうか?という疑問を考えてみた。考えるまでもなく、そもそも女性専用車両というのに規制はないのだから、堂々と乗車してもかまわない。だが、そうすると、これは今朝の男性たちが堂々と乗車してもかまわない、という同じ論理になる。
 また、公的交通機関に迷惑をかけた、といっても、この男性たちの乗車をおそらく阻止しようとして結果的に交通機関への迷惑となったわけで、阻止のような行動がなければ、交通機関への迷惑にもならなかっただろう。
 意外とやっかいな問題だなと考えてみて気がついた。
 そもそもが、なぜ女性専用車両というのがあるのかというと、これは言うまでもなく、ということになるだろうが、痴漢の防止である。男性がいなければ痴漢はないだろう、あるいはかなり少ないだろうという前提である。
 だが、ここですぐに2つ疑問は起きる。ある集団が犯罪を侵す可能性が高い、あるいはある集団を心理的に忌避する多数がいる、として規制のようなことを社会に導入できるか?というと、できないだろう。このロジックは、痴漢以外にも、「移民を恐れる市民が多いから」といった移民差別にも当てはまりかねない懸念がある。では、男性は潜在的に痴漢であると想定するのは、差別ではないのか? おそらく差別だろう。
 もう一つの疑問は、そもそも女性専用車両は痴漢防止になっているのだろうか。この場合、考慮しなくてはいけないのは、女性の乗客は専用車両以外にも乗車するので、そこでの痴漢発生率なども合算しなくてならないことだ。そうした全体性を考慮して、確かに女性専用車両は痴漢防止に効果があるとするエビデンスがあるのだろうか。ざっと見たところ、科学的なエビデンスと言えるものは現状ではなさそうだ。では、現状ではその調査期間なのかというと、そうでもなさそうだ。
 考えるほどにやっかいな問題だなと思う。ただ、こうしてくだくだ書きながら、もう一つ自分の心にひかかっていることがある。自分の生活感覚に引き寄せると、そもそも私は女性専用車両に関心がない。私の実感とすれば、女性専用車両があろうがなかろうが、どうでもいいと感じている。以前は、乗車した車両に女性専用と書かれているのを見ると、ぎょっとしてあたりが女性だけかと確認したものだが、時間帯が限定されているのを知ってからそういうことはなくなった。そのくらいの関心しかない。
 自分は痴漢を多分することがない。間違われる可能性はゼロではないので、そのときはしかたないとも覚悟している。女性専用車両については、世の中、痴漢に苦しむ女性、痴漢に合ったことで苦しんでいる女性もいるので、そういう便宜はよいことなのではないかとなんとなく思っていた。
 だが、あらためて考えてみると、痴漢を防止することと、女性専用車両があることは、直接的な関係はないし、また公的な権力の行使のありかたとしても納得はできないなと思う。私自身は、ではだからといっても、今朝のその男性たちのような示威行動はしないが、意見を問われるなら、女性専用車両には反対となるだろう。
 あるいは、これはサービスの問題だろうか。指定席サービスのように、公共交通機関とはいえ、私企業なのだから、女性専用車両という上乗せ料金サービスがあってもよいかと言えば、あってもよいだろう。なぜ、そうしないのかというと、そうしたサービスに対価を払うという社会的な感覚が浸透してないからだろう。また、そのサービスによって、現在ですら満員電車の問題があるのに、自由席の車両はさらに満員になるかもしれない。それでも、飲み屋にレディースデーがあるように、本来は有償だけど特別割引の女性専用のサービスがあってもよいだろう。
 というか、そもそも女性専用車両というより、朝の通勤電車に指定席車両を設ければいいとも言える。とんでもないことを言うようだが、都心に向かう私鉄は現在、通勤用の指定席車両を増やしている。と、考えてみて言えば、女性車両という問題は、指定席サービスの対価が浸透していない中間的な状態を示しているのかもしれない。
 話を現行の女性専用車両に戻すと、率直に言えば、私としてはどうでもいいや、としてきたのだが、考えてみると、やはり女性専用車両というのは原理的には性差別の制度であると思うし、痴漢問題は別の対処法を考えるべきだと思うようになった。とはいえ、現実問題としては、飲み屋のレディースデーのサービスというような位置付けで現行維持されていてもいいのかもしれないとも思う。

 


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プルーム・テックを吸ってみた その6 離脱編

 プルーム・テックを離脱。じゃあ、何か。普通のたばこは関心ない。Vapeかというと、それもあるけど、どうやら、いわゆるVape利用でもない。基本、プルーム・テック型のアトマイザーでパフパフとなった。
 まず、プルーム・テックなんだけど、どうやら自分はニコチン要らない。それとJTのフレーバーはよくできているのだけど、なんというのか、その手の爽やかフレーバー要らない。じゃあ、なんだというと、たばこっぽいフレーバーがよいのであって、フルーツとかナッツとかケーキとか、なにかに似せたフレーバーは要らない。つまり、たばこじゃないけど、たばこ系のフレーバーが吸いたい。
 そう思う転機は、Reaper Blend。これ、すごい。よくこんなリキッド作れたものだと。で、これ、どう吸っても、すげ、とは思うのだけど、きちんと電力調整できるVapeで吸うと味わが一層深い。ということは、プルーム・テック型アトマイザーだとイマイチ感はある。
 それと、うまいのだけど、むせる。どうしたものか。さらに言うと、コイルがバチンとすることがある。たぶん、グリセリン率が高すぎるのだろう。
 というあたりで、他も吸っていたのだけど、VAPESTEEZのCigarが微妙にうまい。シガーとあるがシガーの味ではない。青臭い味がするので、野菜嫌いとかには向かないだろうけど、青臭い臭い好きの私には、つぼ。で、軽いのがいい。
 他も吸う。MKのDeep Smokingが自分にはべたにキャラメルなんで、これはお菓子系じゃんとか思っていたのだが、悪くないというか、けっこう甘いのも好きなのか自分?となる。ただ、コーヒー系とかチョコ系はダメ。
 とかしているうちに、Reaper Blendは、どうせVapeでないと本来の味は出そうにないなら、逆にプルーム・テック型アトマイザーでは薄めてみたらどうだろう。と思いつき、VG/PGが50/50で薄めてみる。どうせだからかなり薄めてみる。どうか。お、味抜け。味ないよなあとかパフっていると、ああ、これはこれでいいんじゃねとなってくる。コイルのばち焼けもなく、煙もどきも増える。吸いやすい。
 というわけで、Deep Smokingも薄めてみる。こちらはもとからきつくないので、少し薄める感じ。それでも、吸いやすい。
 あれだなあ、雑巾汁みたいなMK Smooth Smoking2も薄めたらどうか。と、これはめっちゃ薄めたら、なかなかグー。一般向けではないが。
 たばこ系をプルーム・テック型アトマイザーで吸うときは、薄めるのありだな、というか、自分にはこれが向いている。というあたりで、薄く感じたHiliq Redもいいんじゃねとなってきた。
 他も薄味調整してみると、自分には調子いい。薄味のほうが、嗅覚がダルにならない。なんなんでしょね。なんだかわからないけど、たばこ風の味でたばこじゃないよみたいのが、おいしい。あと、吸口、使わなくなった。
 くどいけど、お勧めはしません。ただ、こういうやり方の基本はぐぐってもあまり情報ないし(Vape文化が優勢すぎ)、案外、この方向は、リアルたばこを辞めるにもいいかも。

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2018.02.15

トランプ米大統領は、なぜ、"They’ve gotten away with murder"と言ったのか?

 一昨日、日本版AFPが『トランプ氏、日本が貿易で「殺人」と非難 対抗措置を警告』という見出しの報道をした。ちょっと驚きをもって関心を集めそうな見出しである。内容もそれに準じていた。

【2月13日 AFP】ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領は12日、日本を含む貿易相手国が「殺人を犯しながら逃げている」と非難し、対抗措置を取る構えを示した。

 トランプ氏はホワイトハウス(White House)で開かれたインフラ関連の会合で、出席した閣僚や州・地方自治体の関係者を前に、「他国に利用されてばかりではいられない」と述べ、「わが国は対中日韓で巨額を失っている。これらの国は殺人を犯しながら逃げている」と指摘。

「わが国以外の国、米国を利用する国々に負担してもらう。いわゆる同盟国もあるが、貿易上は同盟国ではない」「相互税を課していく。これに関しては、今週中、そして向こう数か月間に耳にすることになる」と予告した。

 トランプ氏が具体的に何に言及しているのかは不明。AFPはホワイトハウスにコメントを求めたが、現時点では回答は得られていない。(c)AFP

 随分物騒な発言のようにも聞こえるが、「殺人」に関わる部分の英語の表現は、"They’ve gotten away with murder"であり(参照)、これは字引を引けばわかるように、「好き放題やっている」という熟語表現である。直接的には、「殺人」には関係ない。まあ、概ね、誤訳と言っていいだろう。
 ちなみに、Alcomの自動翻訳にかけてみると、熟語の部分はきちんと訳されていた。この表現は普通に熟語として登録されているのだろう。

It’s a little tough for them because they’ve gotten away with murder for 25 years.

彼らが25年の間何でもし放題だったので、それは彼らのために少しタフです。

 話をAFPの誤訳に戻すと、この誤訳は、日本版AFPに限らず、読売新聞記事『「日本など『殺人』」トランプ氏、貿易巡り非難』(参照)にも見られた。

 制度の詳細は明らかにしなかったが、トランプ氏は「週内、数か月のうちに耳にすることになる」と指摘。対象国は「米国につけ込んでいる国で、いくつかはいわゆる同盟国だが、貿易上は同盟国ではない」と述べたうえで、「米国は中国や日本、韓国、その他多数の国で巨額のカネを失っている。(それらの国は)25年にわたって『殺人』を犯しておきながら許されている」(They’ve gotten away with murder)」と述べ、異例の表現で非難した。
 トランプ氏は不公平な貿易により、米国の製造業が衰退し、雇用が失われる一方、相手国は不当に利益を得ているというのが持論で、その被害の大きさを「殺人」という極端な言葉に込めたとみられる。

 実際には英語の慣用句としてそれほど極端な表現ではないが、読売新聞の報道としてはそういう視点なのだろう。つまり、そうした視点からすると、誤訳とも言えないのかもしれない。訂正も出ないかもしれない。
 日本版AFPはその後、訂正記事を出した。誤訳だったとの説明はないが、訂正内容からはそう読み取ってもよさそうだ(参照)。

【訂正】トランプ氏、日本などが貿易で「好き放題だ」と非難 対抗措置を警告
2018年2月15日 発信地:その他
見出しで「日本が」としていましたが、トランプ氏の非難対象には日本のほかに中国と韓国も含まれていましたので、見出しを「日本などが」に訂正しました。また、見出しと本文でそれぞれ「殺人」「殺人を犯しながら逃げている」としましたが、原文の該当部分"getting away with murder"は、「好き放題にする」という表現であるため、「好き放題だ」(見出し)と「好き放題にやっている」(本文)と訂正しました。


 
 ところで、なぜ、トランプ米大統領は、"They’ve gotten away with murder"という表現を使ったのか? 読売記事では、「異例」な表現を使ってでも不公平な貿易と彼が思うものを非難するためだった、となるだろう。
 読売記事が誤訳をもとにしているかはさておき、この表現に非難の意図が含まれていることは確かであるが、強調的意図での表現だったかについても議論は残るだろう。普通に口語的な表現で、それほど背景的な意味はないとも解釈はできそうだ。
 が、そうでもないのである。
 "get away with murder"という表現を聞くと、現代アメリカ人の多くは、それを含んだ題名のABCのドラマを連想するだろう。日本では、『殺人を無罪にする方法』という邦題がつけられているが、"How to Get Away with Murder"である。このドラマはDlifeでもやっていたし、現在ではNetflixにも入っている。ドラマとしては殺人をしても咎められないという洒落の意味が込められている。
 で、このドラマと、トランプ米大統領の今回の発言は関係があるか? というと、あるかもしれないのである。彼の奥さんのメラニア夫人がこのドラマのファンだからだ。昨年末のニューヨーク・タイムズに記事があった(参照)。

KATIE ROGERS Melania Trump recently told me her favorite show is “How to Get Away With Murder.” I love that the first lady is a Shondaland fan. She also enjoys “Empire.” And reality TV did not come up once.


 
 おそらく、トランプ米大統領は、奥さんと一緒にこのドラマを楽しみに見ていた、あるいは、そのドラマの話題を夫婦でしたいた、と考えてもよいだろう。
 ちなみに、メラニア夫人のが好きなもう一つのドラマは『エンパイア』だが、これについては、このブログで過去に扱ったことがある(参照)。
 ジャーナリストのみなさんは忙しくて、洋ドラとか見ている時間もないのかもしれないけど、現代の米国を知る上では、些細に思えるかもしれないが、洋ドラというのは意外に重要なものかもしれない。

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2018.02.14

ああ、バレンタインデー

 バレンタインデーである。いつもこの日思うのは、昔見たチャーリー・ブラウンのアニメの挿話だ。米国では日本のように女性から男性にチョコを贈るという風習ではないけど、それでも愛をちょっとしたプレゼントで伝えるということはあって、チャーリー・ブラウンは誰かに貰えるかなと期待している、がもらえない。記憶がデフォルメされているかもしれないが、チャーリーはそうしてがっかりしていると、一人の女の子から、余ったプレゼントだからということで、それをお情けで貰う。チャーリーはそれでも嬉しい。すると彼の友人が寄ってきて、余り物のお情けなんか受け取るなよと言う。チャーリーはどうしたか。彼は、それでも嬉しいんだと受け取る。なんか惨めなやつだなあという笑いを誘うのだけど、私はちょっとある衝撃も受けて、その後半世紀近くこの挿話を胸に抱えている。それは、チャーリーは、どんな形であれ、きちんと愛を受け取ったのだということだった。愛を受け取ることに、微妙な屈辱のような情感が交じることがあるとしても、愛を受け止めるということを優先すべきなのだろう、と。もっとも自分の青春時代、それから先でもだけど、そううまくはいかず、逆に、チャーリー・ブラウンって偉いなとますます思うようになった。聖チャールズである。
 そういう、どんな形でも愛ではあるという点なら、義理チョコもその一種だろう。ゴディバは先日、義理チョコはやめようという広告を出していたが、先日もひいたが『シルビーの日本発見』(参照)にもその話がある。「不思議というより、気に入らない習慣だ。どうして親しくない人にあげなければならないのか。どうも分からない。お返しをしなければならない、というホワイトデーも日本独自のものだ」
 そうだろうなとは思うが、たしか、ホワイトデーは韓国にもあったはずで、そうだとすると、日本独自というより、日本と朝鮮のようによく似た文化を持つ国では自然なことかもしれない。
 ということろで、どうでもいいようなことだが少し考えた。義理チョコは、感謝の意味もあるとして、感謝がそして愛の一つの形だとしても、聖ヴァレンタインという原点で考えるなら、愛というより恋であり、恋という愛の点から見れば、義理チョコは偽りの恋の象徴なのだろう。あるいは偽りの愛。まあ、そんなにふうに考えることはないかとも思う。
 ただ、偽りの愛の象徴という思いは、ふと、なにかぞっとするものを感じさせる。私たちの身の回りは偽りの愛の象徴で満ち溢れているのではないかという思いが少しする。「少し」というのはよくわからないからだ。愛にはいろんな形があり、曖昧でありながら、成長していくものもあるだろう。愛は義とは違うのだから、義のようなあり方で見るべきでもないだろう。愛にそもそも偽りはないのかもしれない。
 考えてみてもよくわからない。話がそれるが、日本独自のヴァレンタインデーの風景といえば、この日の朝の電車で紙バッグやサイドバックを抱えている女性高校生の姿だろう。なにかまぶしい。友チョコというのだろうと思うが、私が高校生だったころはなかったように思う。

 


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2018.02.13

三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」発言をめぐって

 昨日ツイッターで三浦瑠麗氏が民放のトーク番組でした発言がなにやら話題になっていた。というか、問題発言だとして三浦氏への批判と取れるツイートが多かった。さて、どんな問題発言かと少し気になったのだが、話題にしているツイートがどれも二次情報であり、二次情報で盛り上がる趣味はないので、以降まだ話題が続いて一次情報が出るころ少し考えてみるかなと思っていた。で、今日それを見かけた。ハフィントンポストにあった。「三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論(アップデート)」(参照)である。

三浦 もし、アメリカが北朝鮮に核を使ったら、アメリカは大丈夫でもわれわれは反撃されそうじゃないですか。実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルと言われて、もう指導者が死んだっていうのがわかったら、もう一切外部との連絡を断って都市で動き始める、スリーパーセルっていうのが活動すると言われているんですよ。

東野 普段眠っている、暗殺部隊みたいな?

三浦 テロリスト分子がいるわけですよ。それがソウルでも、東京でも、もちろん大阪でも。今ちょっと大阪やばいって言われていて。

松本 潜んでるってことですか?

三浦 潜んでます。というのは、いざと言うときに最後のバックアップなんですよ。

三浦 そうしたら、首都攻撃するよりかは、他の大都市が狙われる可能性もあるので、東京じゃないからっていうふうに安心はできない、というのがあるので、正直われわれとしては核だろうがなんだろうが、戦争してほしくないんですよ。アメリカに。

 うーむ。私は基本的に民放番組見ないので、こういう対談をどう受け止めていいのか、その枠組みもわからないのだけど(枠組みというのは、お笑いとかネタとかかなと)、最初の三浦氏の発言については、ちょっとどこをどう突っ込んでいいのか、よくわからないなと思った。
 少し分解的に考えてみる。まず米朝間で核戦争があるかというと、現状ではまだないと思う。北朝鮮にはまだ核弾頭を使いこなせる能力はない。ちなみに、北朝鮮問題というのは、北朝鮮が米国や日本の直接的な安全保障上の問題になるという以前に、現代世界における核管理が問題になっているということ。国連が機能しないということが問題だと言い換えてもいい。
 では米国が北朝鮮に核攻撃を仕掛けるかなのだが、そのオプションが最優先されることはないだろう。最大の抑止は中国だろう。あまり物騒なことは言いたくないが、それでも米朝戦争が起きるとすると、北朝鮮は陸軍を使って韓国を実質人質にするので、それを避けるために米国としては、陸軍が動けないように、かつ北朝鮮は権力が集中していると思われるので、即効的で圧倒的な空爆を行うか、斬首作戦は難しいとしても斬首作戦的な空爆をするかだろう。
 次に、戦争が始まった場合、日本の主要都市がテロリストによって攻撃を受けるか。米朝戦争だとしても、米国の同盟国である日本に大きな損傷を与えることは、米軍の活動を撹乱することで北朝鮮のメリットになりうる。さらにこういうとなんだが、平和ボケしている日本は戦争自体を極度に嫌うので、攻撃されて北朝鮮を敵視するより、米朝戦争に巻き込まれた被害者を演じることで反米機運が高まる可能性が高く、それもまた北朝鮮を利する。つまり、これはありうるだろう。また金正恩が殺害されたとしてもテロ攻撃は続くというのもありうるだろう。金正恩が殺され北朝鮮が国家として崩壊したら、攻撃理由はなくなるかのようにも思えるが、指揮は事前にプログラムされたままで更新されないだろうからだ。また、北朝鮮の国家(金王朝)滅亡後のシナリオはそもそも存在していないだろう。
 三点目にその攻撃先の都市が大阪になるかだが、主要都市の順から数えるなら攻撃対象にはなるだろう。その場合でも、三浦氏のいう、東京だと全面戦争になるが大阪ならそうならないので狙われる、というロジックは妥当ではないと思われる。日本に対して北朝鮮がそうした手加減をするだけメリットがあるとは思えない。むしろ、全面戦争を避け、日本の反戦気分を高揚させるなら、つまりそうしたメッセージ性を強めるなら、日本国家への大きなダメージより地方都市への攻撃のほうが効果的だろう。
 四点目に、「スリーパーセル」自体存在するか? これは存在しないと仮定するほうが無理だ。実際、日本人拉致事件ではそうしたネットワークが機能していた。また、『北朝鮮 核の資金源(古川勝久)』(参照)でもその存在はほぼ確認できる。ただし、二点保留しなければならない。1つは、スリーパーセルが機能するのは、まさに隠れるからであって、ベタに朝鮮籍やそうした連想の圏内の人であるわけがない。スリーパーセルについて言及したニューヨーク・タイムズ記事(参照)でも、"the North Koreans have spread these agents across the border into China and other Asian countries to help cloak their identities. "としている。また、こうしたスリーパーセルが戦争に関連した活動を行うかだが、これも同記事で、"The strategy also amounts to war-contingency planning in case the homeland is attacked."とあるように普通の想定である。ただし同記事で想定されているのは、三浦氏のようなシナリオではなく、サイバー戦争の文脈である。おそらくスリーパーセルが攻撃を仕掛けてくるとすれば、サイバー攻撃で都市情報機能の麻痺をまず狙ってくるだろう。
 もう1点の保留はスリーパーセルの活動の主眼は、テロよりも国連制裁を逃れて核ミサイル開発を推進するための資金獲得や部品調達だろう。つまり、日本に潜む北朝鮮のスリーパーセルは三浦氏が「テロリスト分子」として想定するほど直接的に危険な存在でもないだろう。北朝鮮としても、日本は金の卵を産む雌鶏なので、よほど戦時が迫るのではなければ、直接的な被害を与えることはメリットにならない。
 もう一点、突っ込むとすると、そもそも三浦氏のこのお話は、米国が北朝鮮に対して戦争を開始するのを避けてもらうために、日本がスリーパーセルから攻撃を受ける恐怖を掻き立てる、という構造になっている。このあたりの認識は、国際政治の認識としては正反対になるだろう。つまり、米国としては威嚇の最終線を明確にしなければならないし、軍事同盟国の日本もそこで協調しなけれならない。そこに亀裂があることは北朝鮮の軍事活動を誘発しかねない。もちろん憲法で国連憲章の平和主義を強調してる日本の国是として戦争を避け平和を希求するのは当然のことだが、戦争を回避するには、祈ることや恐怖を掻き立てることはあまり有効ではない。もしろ現実的な平和維持のための思索が必要だろう。
 その意味で、識者としての基本認識として、日米同盟というアコードの意義を踏まえていないかにも受け取れる、こういう発言はどうなのだろうかとも思ったが、私はそもそもこうした番組の「お約束」を知らないので、野暮なことかもしれない。


 


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2018.02.12

香水の使い方とかキスの仕方とか

 昨年、なんとなく香水に関心を持つようになった。それまでは香水というのをあまり使ったことがなかった。臭いがなんであれ好きではなかった。自分の体臭というものはわからないものだと言われるが、それでもどちらかというと自分は無臭に近いタイプだろうし、たぶん加齢臭というのもあまりなさそう。そして他人の香水が嫌い。エレベーターなどで香水のきつい人とご一緒すると息苦しくなる。近年は特に若い人が香水をよく使うようになったものだなあと世相を見ていた。どうやらあれは洗濯のときの柔軟剤らしい。
 香水に関心を持つようになったのは、フランス人を見かける機会やすれ違う機会が多くなり、「おや、すてきな香水だな」と感じることが増えてきたせいだ。男性も香水を使う人が多い。もちろん香りのきつい人もいるが、概ねそうでもない。うるさくなく、上手にふと香るという使い方である。あれはなんだろうか、なにか上手な使い方でもあるんじゃないか、と関心を持つようになったわけである。そういう関心が巻き起こると、まず自分もやってみたくなる。
 というわけで、香水を試すようになった。試してみてわかったことがある。ネットとかに溢れている、いわゆる香水の常識はちょっと違うんじゃないか。そもそも香水を使うっていうのはどういうことなのかも、自明なようで案外納得できない。そうして、なんとなく納得できないでいるとき、ふと『シルビーの日本発見』(参照)を読んで、ああ、そうかとわかった。香水は、肌に直接つけるもの。つまり、フランス人の感覚としては、「着る」に近いものなのだろう。
 もっともそのこと、ではフランス人は具体的にどう香水を使っているのか、という話は別で、そちらは簡単にググってわかるものでもないのだろうなと思っていた。が、ふと、まったく逆なのではないか、単純にググってみたらいいのではないか、と気が付いた。フランス語でググればいいのだろう。
 ということでググったら、あっさりいろんなことがわかりました。ついでに最近、フランス語の授業でも香水屋で香水を買うというレッスンがあって、直接フランス人の先生から関連の話も聞けた。この話題に限らないけど、なにか関心を維持していると、それの答えのヒントなる事象というのは自然に起きる感じがする。
 さて香水の使い方の情報で役立ったのは、べたなところでは、Wikihowである(日本語のWikihowには香水の使い方はなかった)。これ、活用している人は活用しているのだろうか。よくわからないが、説明にはなかなか面白いことが書いてある。
 へえと思ったのは、これは香水ではなく、キスの仕方についてである。これの話題は日本語の記事もあった。いくつかあるが、「情熱的なキスをする方法」というのが、面白い。最初、「いやあ、この内容はべたすぎるでしょ」とか思ったのだが、読んでいくとけっこう引き込まれる。例えばこう。「相手をゆっくりキスして、何秒か間をおきましょう。相手の唇に触れているか触れていないかの感覚で、少しずつ離れて行きましょう。この間が、感情をより高ぶらせ、相手の注意を集めます」。おお、それだ!
 首にキスするという話題もある。そういえば、首につけられたキスマークをごまかす方法というネタがYouTubeにあったが、それがお笑いネタになるような背景の風習が当然あるのだろう。首キスな、メモメモ。
 こうした、香水とかキスとか、それって日本文化にはなじまないとも言えるかもしれないが、別に日本人だからといって日本文化になじんで生きている必要はないわけで、「ああいう他国文化的なこともいいな」と思ったら、個人個人の生き方のマイカルチャーとして受け入れていけばいいんじゃないだろうか。

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2018.02.11

プルーム・テックを吸ってみた その5

 プルームテックを吸いだして、自分がどう変わるかというのも自分の関心の一つだった。ニコチンを求めるようになるだろうか。結果、ならない。
 ただ、以前より喫煙所の人たちを観察するようになった。そうしてみると意外に女性がいるのがわかる。あのくらいの喫煙なら、喫煙所に分煙というものでもないようには思うがよくわからない。

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2018.02.10

[書評] 漫画 君たちはどう生きるか(吉野源三郎・著、羽賀翔一・漫画)

 漫画版を読んでみた。あの原作を現代でもウケるように上手に漫画化するものだなあと感心した。同時に、読みやすくよく練られた漫画ではあるが、たとえば『ヒストリエ』で「天下の大将軍」といったギャグを諧謔に含めるような、漫画特有の自己相対化の精神は見られない。そうした点で漫画の精神としてずいぶんと痩せた作品だなとも思った。
 なぜ今売れているのかということでは、一つには、次期ジブリ作品との連想と、私より上の世代、団塊世代のノスタルジーはあるだろう。後者については、NHKでも取り上げられていた。
 原作の内容については、現在の時点で批判しても意味はないようには思えた。すでによく知られているように岩波文庫版では、それ自体が歴史的な価値を持つ丸山眞男の解説があり、そこできちんと「生産関係」の説明から同書が資本論の入門書になっていることが示されている。丸山はそこに評価のポイントを置いているが、ようするに入門書というのが、倫理的な情念と学習的な関係に結びついたとき、それは必然的に啓蒙書となり、それがさらに漫画ともなれば一種の洗脳のための冊子になっていくのは避けがたい。「絶対に逃げずに、みんなで戦う…。約束だ…!!」というわけである。反戦の文脈が自明のときは反戦だが、その情念は逆にもぶれるものだ。
 これもよく知られているように時代的な意味はあった。出版されたのは盧溝橋事件の起きた1937年。すでに30年には治安維持法で小林多喜二が逮捕、翌年、原作著者の吉野源三郎も逮捕。小林は33年に獄死、翌年は日本共産党創始の一人野呂榮太郎が獄死。35年は天皇機関説事件と、時代が「ファシズム」に寄せられ思想が弾圧されるなかで、原作は、簡単にいえば、児童書の形式を借りて「資本論入門書」として出版されたものだった。
 吉野源三郎について、戦後、日本に主権のない時代、1946年、岩波書店から雑誌『世界』が創刊がされ、その初代編集長となった。そこを起点に、1950年には「平和問題談話会」を立ち上げ、51年(昭和26年)のサンフランシスコ講和条約では、中ソを含めた全面講和論で対峙した。単独講和後、日本が独立した後は1959年には「安保批判の会」を立ち上げ、60年安保闘争では反安保の姿勢を貫いた。現在に至る、親ソのリベラル派の源流の一つである。
 こうした歴史も、現在では、学問的な意味はあるが、もはや政治的な意味は薄いだろう。であれば、本書を含めて対抗したはずの勢力ももはや意味はないようにも思えるが、この漫画を読みながら思ったのは、そうした左翼リベラルの源流という懐古趣味よりも、また、ナポレオン評価のような微笑ましい旧時代的説明よりも(とはいえ民法についての指摘は重要)、今なお、なんらかの倫理的な真摯さを訴えようとする、奇妙な感じだった。それは漫画であることでむしろ強調され、「資本論入門」はさらに隠れた。
 その呪縛的とも言えそうな倫理性は表紙のコペル君の眼差しが象徴しているだろう。それはあたかも漱石の『こころ』のKの相貌だと言ってもいい。コペル君は、『恋は雨上がりのように』のアキラを思いつつ、オナニーするような余裕はなさそうなのだ。真摯さと正義が微妙に共同体に結びつき、Kのような死の影を帯びていく。
 コペル君が「雨粒くらいに人が小さく見えるね…」として、その矮小さを自分に重なるなら、それが大きな流れを形成するときに、「人間の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多い」と考えることより、その空しさを自由の空間として、小ささを愚行権の行使の根拠としてもいいはずだ。
 「君たちはどう生きるか」と問われるなら、できるかぎり、他人のことなど気にしないで自分勝手に、自分の快楽を主に生きていけばいい。それだけではないのか。迷惑はかけるだろうし、文句も言われるだろう。愚行権は行使の限界がある。そうして社会にぶつかって、普通に社会と対立して個を貫いていけばいい。それだけでいい、と思う……というような、私のような考えは、本書がベストセラーになる世の中とは調和できないだろう。
 そうした時代で、「君たちはどう生きるか」と更に問われるなら、原作の暗い時代から戦後の親ソ時代知識人時代まで生きた永井荷風のような人のほうが新しい「反戦」のモデルになるのではないか。

 

 

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2018.02.09

[書評] モンプチ 嫁はフランス人③ (じゃんぽーる西)

 奥付を見ると2018年2月15日とあるので、ちょっと未来を先取りしたような気がするが、ツイッターでカレンさんの、『モンプチ 嫁はフランス人③』(参照)が発売された、という話のツイートを見て、そのままポチったら今日届いた。早速、読んだ。面白かった。というか、書籍としてのオチというか、エンディングというか、知らないでいたので、すごいびっくりした。「完」と書かれたページを見ると、ぐぉぉんと感動するものがある。ネタバレはしない。

 「嫁はフランス人」の既刊も読んでいるので思うのだけど、なんというのか、こうして時系列で読んでいくと、そこにはたくまざるドラマがあるものだと思う。事実は小説より奇なり、というのか。もちろん本書の話も大半は、作者・じゃんぽーる西さんの普通の日常であり、日常の断片でしかないとも言える。主に育児と主夫の、普通の日常である。だが、それが面白い。作者の漫画の才能のなせるところでもあるのだろうけど。
 今回の作品ついては以前によりも、その「普通さ」が強く出ているように思えた。これまでの、日仏の文化差やそのなかでの育児の珍しい話題、というよりも、普通に国際結婚して普通に生活し、普通に子供を持つという、普通さがきちんと描かれている。
 日本人男性とフランス人女性の結婚というのは、それほどは多くもないだろうし、今後増えるとも思わないが、多様な文化背景の結婚それ自体は増えていくだろうなか、みんなそれぞれの普通になっていく。そうして日本の新しい普通ができていく。漫画を笑いながら読み、それが日本の社会の新しい「希望」というものだなと、静かに感動できる。
 取り上げられている小さなネタもそれぞれ面白い。鋭い面白さというより、深みが増してきたように思えた。話題の焦点は、今回タイトルに「モンプチ」が強調されている(「2」の表紙にも付いているが)ように、彼らの子供ではあるだろう。母親とはフランス語で会話し、父親や友達の多くの日本人とは日本語で話す、幼い子供。その保育園児の成長。バイリンガルのドキュメンタリーという印象もある。私は言語学を学び、その習得過程の理論なども少し学んだが、なるほどと頷く。笑える。一例としては、幼い子供のほうが、父親である西さんより、きちんとフランス語の「R」の発音ができるというネタ。それもさもありなん。
 話が少しずれるが、当初、いや今でもこの漫画のコンセプトとしては、フラン人の嫁さんは日本人から見ると変わっているなあ、ということはあったのだろう、が、今回の作品を読んでみて思うのは、カレンさんのような日本人女性もそう少なくもないということだ。もちろん日本語ネイティブであれば、子供に日本語以外の言葉を使う母親はほとんどいないだろうけど、趣味や仕事のこだわり、パートナーへの愛情表現など、現代の日本人もカレンさんと、それほど変わらないのではないか。フランス人として描かれている人々の行動も、言語の壁というものがなければ、日本人とほとんど同じなっていくだろう。
 そのことを別の接近で言うなら、主夫・育児のじゃんぽーるさんは、いわゆる旧来の日本人男性のイメージではなく、あるグローバルな現代的な男性である。漫画では、自身をド・日本人、というふうに誇張しているし、実際本人としてはそう思っているのだろうが、結果的には、これも普通に現代的なグローバルな家庭の男性の像である。そして、そういう男性は新しい日本人男性のスタンダードでもある。漫画のなかでは、未婚の多い日本人男性について、じゃんぽーるさんの自虐も含めてだが「結婚したくても単にモテないんだよ!」としていて、それはそうかもしれないが、そうした日本人男性への女性の接し方も静かに、しかし気がつけば大きな変化になっていくだろう。
 つまり、ここに描かれているのは、異文化の国際結婚という話題ではなく、新しいタイプの愛と家庭のありかたの、普通のモデルだと思える。
 とはいえ、この作品でも、日本文化は男性同士の付き合いと女性同士の付き合いが多くあり、フランスのような男女同伴の文化ではない、という状態はしばしは続くかもしれない。
 次巻からはタイトルが変わるらしい。「完」の続きは気になる。バイリンガルの子供がどういう成長をするかも気になる。ドラマそのものの続きが待ち遠しい。

 

 

 

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2018.02.08

[アニメ] ヴァイオレット・エヴァーガーデン その0

 今季のアニメ『恋は雨上がりのように』が面白く、そして予備知識なしに数回見ただけでブログに書いてみるというも面白かったのりで、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も4回見ただけでちょっと書いてみるテスト(という表現をネットで見かけなくなって久しい気がする)。

 これはもうなんの予備知識もなくいきなり見た。先入観としては、『終末のイゼッタ』を連想し、あれ、数回見て、だめだわこりゃ、と脱落したことを思い出し、まあ、これもそうなるであろうか、という感じでいた。しかし、先入観に反し、今んとこすごい面白い。放映が待ちどうしいぞ。今日か?
 とはいえ、世界観の設定に少し、れれれ感はあった。これ歴史物、それともファンタジー? いやそのレベルからなんも知らないで見たのだった。「ライデンシャフトリヒ(leidenschaftlich)」とか言う地名から普通に考えると、第一次世界大戦でドイツ語圏あたりだろうか。意味は「情熱」だが、地名ライデンはオランダの(Leiden)の連想か。
 これに関連して思ったのは、この世界の原語の想定は何? ドイツ語文化圏か? そのわりに、ドイツ語で"Violet Evergarden"はありえないので、英語だろうし、英語圏で主人公がヴァイオレットというと、シェークスピア『十二夜』のヴィオラを連想するが、そういう含みはあるのだろうか、とか見ていくと、他登場人物は花の名前で、そのうち、軽食で箱入り焼きそばを食べるシーンが出てきて、ああ、俺はなんて野暮なんだろうと気がついた。
 しかし、ここまで野暮を暴走させたのだから、もう少し。田舎の少女が都会のタイピストの仕事に憧れて都市に出て来るという設定は、先日書いたけど、2012年のフランス映画『タイピスト!』( Populaire)に似ている。時系列的に考えてこの映画からの着想はありそうにも思えるが、全体ストーリーへの影響はなさそう。他にもオマージュはありそうには思えるがよくわからない。
 物語は、若干ネタバレが入るかもだが、兵器として育てられ、人間としての情感を持たない少女が、兵役を解かれ、その所有者である兵士が最後に残した「愛している」という言葉の意味を探るべく、代筆業を行い、人々が手紙によせる思いを学ぶ、という人情話。
 おそらくオチは、その意味を知って……というあたりだろうなというテンプレ的安心感でたらーっとヒューマンな情感とてけとーに美しい風景や美少女設定、声優の妙味とかいう感じで、たらたら見られるし、まあ、これは、あれ、よくあるAIロボットが人間との交流を通して人の心を知る系の派生というか(「自動書記人号」だし)、現代日本の若者アスペ傾向との重ねとか、そのあたりも思う。それでも、面白い。
 私が面白い理由は簡単で、自分がこの手のアスペ傾向な人間だからだ。ただ、正確には文学的な情感はわかるが、世俗的な現実的な対人関係の情感で歪みが出るというもので、ヴァイオレットのそれではないが。それと。「愛しています」の意味は、まさにこのように発せられてから深い探索を要する存在論的な言明なんで、その深みが、物語的に丁寧に展開されているのは好ましい。っていうか、自分のような人間には、語学の勉強しているような「学び」の感覚もあってうれしい。
 原作は読んでないのでなんともだが、アニメから思うのは、世界に対する人々の思いの言葉はそれぞれのポリフォニーとしてできているので、いわゆる神の視点と、各人の思いが言葉で素直に交錯するようすが、視聴者の内面のポリフォニーに対応していくようだ。
 原作は現状アマゾンで売り切れているみたいなので、書店で見かけたら買って読んでみよう。どの棚にあるのかわからないので、「あのぉ、ヴァイオレット・エヴァーガーデンっていうラノベ、どこにありますかあ?」と、俺が、やることになるのだろう。


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2018.02.07

プルーム・テックを吸ってみた 番外編 郷愁の匂い

 村上春樹の小説『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』の題名にある「巡礼の年」は、その物語のなかでも説明されているが、フランツ・リストのピアノ独奏曲集《Années de pèlerinage》の題名である。この小説を読んだ当時の私は、まだフランス語の勉強を開始していなかったし、往々にしてフランス語の単語は対応する英語の単語から意味が類推できるものだが、"pelerinage"という英単語は知らなかった。英英辞書を引いても項目はない。フランス語の単語なのだから、当たり前のことだ。その後、フランス語になじむようにはなったが、この語は語学の初心者が率先して増やす語彙にはない。それでも仏語というのに慣れてくるとその言葉への接し方も変わる。派生の関係で捉えるようになる。《pèlerinage》については、まず《pèlerin》がある。それは「巡礼者」である。ドラクエの主人公も杖を持っているが、まず杖(bourdon de pèlerin)を持ち、そしてわずかな旅の持ち物を巾着袋に入れてぶら下げている、あの姿であり、そこから一本の道から風景が広がり、「巡礼(pèlerinage)」になる。「お遍路」も《pèlerinage》だし、メッカ巡礼(ハッジ)は《Pèlerinage à la Mecque》である。比喩もそこにあり、《pèlerinage littéraire》は「文学散歩」とでもいうか、文豪や文学作品ゆかりの地を旅することだ。そうして、聖地を旅した年月が《Années de pèlerinage》で、このリスト作品も「年月」の含みだが、村上春樹作品では一年という含みになっている。
 そのリスト曲集に《Le mal du pays》がある。村上の作品でもその曲名が引かれ、灰田によってこう語られる。

 Le mal du pays フランス語です。一般的にはホームシックとかメランコリーといった意味で使われますが、もっと詳しく言えば『田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ』。正確に翻訳するのはむずかしい言葉です。

 村上が小説に記すこの説明でいいのか、私にはわからない。ただ、フランス語の初心者でもこの言葉は理解しやすい。似た形の《mal de mer》なら、「海の病」。英語ならそのまま"seasick"である。《Le mal du pays》もそのまま訳せば、「国の病」で、英語の"homesick"でいい。日頃使う辞書『Le Dico』にも「ホームシック」とある。《pays》には「田舎」の含みがあり、《"le paysage de pays"》という言い方もあるので、「田園風景」も間違いではないのかもしれないが、それほど翻訳に難しい言葉でもないように思われる。
 また、リスト作品の文脈でいうなら、この曲に付されたセナンクールの小説『オーベルマン(Orberman)』の言葉に対応し、次の引用の情感を示している。

je crois que j’hésiterais peu ; mais je me hâte moins, parce que dans quelques mois je le pourrai comme aujourd’hui, et que les Alpes sont le seul lieu qui convienne à la manière dont je voudrais m’éteindre.

(仮訳:すべての絆を振り切るかあるいは40余年もそこにしかたなく留まるか、どちから今選ぶべきなら、私は少しためらうでしょう。ですが、慌ててもいません。というのも、この数か月、私は今日のようにすごせます。そしてこう思うのです、アルプスしか私が消え去るに適した場所はないのだと。)

 セナンクールのその小説では、この部分はパリから友人に送った手紙の一部で、オーベルマンはむしろ、都会であるパリの異邦人として、ホームシックを覚えている。つまり、田園風景が喚起する哀しみといったようなものでもない。
 とはいえ、「田園風景が喚起する哀しみ」という表現は興味深い。フランス語で《la tristesse que le paysage de pays est évoqué》とでもなるだろうか。
 いずれにせよ、田園風景を思うと、ある郷愁のような感覚は惹起させられる。遠くで枯れ草を焼くような、ほのかな臭いを伴って。
 と、プルーム・テックに、"Flax"というリキッド入りのアトマイザーを装着して使っていると、そうしたほのかな臭いを感じた。遠い農村、懐かしい畑の広がり……さみしいような悲しいような……。

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2018.02.06

プルームテックを吸ってみた その4

 こんな話を続けるのもどうかと思うし、さすがにこのあたりで一連の話も終わりかなとは思う。今回はどうか。
 前段的な話になるが、先日の朝、とある街の駅近くの陸橋を渡ったとき、陸橋交差がある町というのも昭和っぽいものだなと見慣れぬ風景を見て思い、ふとその階段の足元を見るとたばこの吸い殻があった。いつもなら、歩きたばこをここでポイ捨てとかマナーの悪い人がいるなあ、街の品格が現れるなあとか思うのだが、そのときまず思ったのは、前時代のたばこを吸っている人がこの街にはいるのか、ということだった。もちろん、電子たばこはまだ普及してないし、電子たばこで歩きたばこをする人も僕は見かけたことがない。それでも、自分のなかで、たばこというのはとても古い時代の文化になっている感じがしていた。
 さて前回からいくつか変化がある。まず、比較的本格的なヴェイプを購入した。そして比較的ではあるが、たばこっぽいリキッドを試してみた。で、一服。うっはぁこんなに煙もどきが出るのかという驚き、そして、クリーミーな蒸気のたばこのフレーバーは、うまーだった。なかなかリキッドも選ぶと深みがあるなあ。
 これだと、ずっと以前、パイプたばこを吸ったことがあるが、それに近い感触がある。さすがはヴェイプだなとは思った。蒸気の量や質を変えるために、出力調整やコイルの入れ替えというのができるので、最弱ではあるがこってりした蒸気に調整しなおすと、なお、うまー。これでヴェイプにはまってしまうのだろうか、自分。
 ヴェイプ使ってみて少し困るかなと思うこともあった。蒸気が濃いので、室内で吸うとプルーム・テックに比べて臭いは出る。もちろん、たばこほどではないし、近くでラーメン食っているほどは臭わないので、大したことないとも言えるのだが、まあ、室内に臭いが残るかもしれないのはやだな、と。
 もう一つは、ヴェイプの扱いはめんどくさそうに思えた。加熱用のコイルはそれほど高価ではないが、リキッドを入れるタンクごと入れ替えるにはタンクが高価。気楽にほいほいと多様なリキッドを楽しむとなるとそれりのお値段になる。その上、コイルやリキッドのメンテナンスもそう簡単というわけでもない。このあたり、パイプのメンテナンスとかのめんどくささを思い出した。もちろん、こうした手入れが楽しいんだよという感覚もあるのだろう。
 たばこ風味のリキッドを、プルーム・テック用のアトマイザーに入れて吸ってみた。なるほど、味の深みは落ちる。そもそも蒸気が薄い。が、それほどまずいというほどの変化でもない。あと、こちらのアトマイザーだと一パフが薄い分、リキッドの減りは少ない。これはこれで、いいんじゃね。
 ここでの暫定的な結論は、ヴァイパー専用機はけっこうすごい、というのと、プルーム・テック用のアトマイザーもそこそこ使える。
 というわけで、こちらのアトマイザーで、青りんごのリキッドとコーヒーのリキッドを入れてパフしてみると、うっ、まず。
 ヴェーパーだともう少し濃くなるんで、もう少しおいしくはなりそうだが、そもそも加熱した時点で、こうしたお子様フレーバー系は味が変わるなあ。そこで気がついたのだが、プルーム・テックがカプセルになっているのも、リキッドで加熱後のフレーバーはそれほどおいしくはないということの対応もあるのだろう。どうやら、この手のフレッシュなリキッドは、そのままアトマイザーに入れて使うより、プルーム・テックのカプセルの味足しに使ったほうがおいしい。そもそもこの2つのフレーバーはそれ用に買ったのだけど。
 というわけで、普段使いに気軽に電子たばこというなら、プルーム・テックのほうが楽だし、リキッドによってはこのタイプのアトマイザーでもそれなりに使える。
 あとヴェイプ使って気がついたのだが、プルーム・テックでもドローの空気混ぜのための空気穴があり、そこを指で塞ぐとドロー感が変わるのな。
 アトマイザーを使うようになり、確かにリキッドの面白さというのはあるなとも思った。フルーツ系、お菓子系、たばこ系などいろいろあるが、自分の好みとしてはそれほどミントは好きではない。フルーツやお菓子もそれほど好きでもない。
 ところで購入したヴェイパーはEleaf Istick Trim>)という装置だが、手に握って、何か思い出すなと思ったら、ジッポーライターだった。ある程度意識してデザインされているのではないだろうか。季節が暖かくなったら、これもって散策に行って、人の気配のない自然で、ふはっとやったら楽しいようにも思えた。

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2018.02.05

2018年、名護市長選で思ったこと

 昨日、同日開票された名護市長選挙だが、投票率は76・9%、現職・稲嶺進(いなみね・すすむ)氏は1万6931票、無所属新人の渡具知武豊氏が2万389票。結果、渡具知氏が3458票差で当選した。
 率直なところ、自分には意外だった。というのは、1月21日、南城市の市長選挙、現職の古謝景春氏が、翁長雄志県知事が推す無所属新人瑞・慶覧長敏氏に65票差で敗れたことから、翁長知事支持の動向が強くなっているのだろうと想定していたからだ。余談だが、古謝氏は沖縄生活で懇意にしていだいたこともあり、個人的にだけだが、落選は残念には思った。
 名護市長選をどう見るかだが、まず、非常に単純で明瞭なことがある。現職が落選したということは、前任期の施政が評価されなかったということだ。これは、どのような選挙でも言い得る原則であり、名護市長選挙でもまずその線が明瞭になった。
 辺野古の新米軍基地造成の問題を抱えているとして、そこが注視されやすい名護市長選挙だが、住民にしてみると、稲嶺氏の行政は落第だったことは揺るがない。他方、僅差という以上の差が開いたものの、圧倒的な差ではないことから、逆に、稲嶺氏の行政を是としていた住民も多数いた。過去の名護市長選からもこうした、いわば基地問題を軸にしたかのような拮抗の経緯はある。
 名護市ができたのは、復帰後の町村合併によるもので、当初は、革新系の渡具知裕徳氏が安定的に市政を維持し、1986年に保守系の比嘉鉄也氏となり、1995年の沖縄米兵少女暴行事件に端を発した沖縄の激動のなか、普天間飛行場辺野古移設の賛否を問うことになる97年12月の市民投票で反対票が上回ったにもかかわらず、翌年、比嘉市長は六諭衍義の言葉を添えて新米基地受け入れを表明。その代償のように辞任し、実質、当時の市助役の岸本建男氏に禅譲した。
 以降、岸本体制となるが、2006年2月健康上の理由で退任(翌月62歳で死去)。後任は事実上の禅譲でもある島袋吉和氏となるが、この選挙では革新系の分裂もあった。そして、2010年の選挙で島袋氏は、基地移設反対を掲げた稲嶺進氏に、1588票差で破れ、今回の選挙まで稲嶺体制が続く。前回は、稲嶺氏1万9839票、前県議・新人・末松文信氏1万5684票で、稲嶺氏が票差4155票差で勝った。
 前回の選挙の流れで見れば、稲嶺陣営が優勢だったように思えるし、他面、名護市では過去の経緯からも保守系基盤も強いこともわかる。
 今回の名護市長選挙に関するデータで率直に驚いたことがある(ここでは引用できないがOTV報道で知った)。渡具知支持と稲嶺支持の比率が、10代から50代までは概ね6対4で、60代以降が3対7となることだった。単純に言えば、今回選挙権を持った10代を含め、勤労世代に渡具知支持が多く、稲嶺支持は60代以降が多かった(年金世代とも言えるだろう)。
 この世代の亀裂は非常に興味深い。ナイチ(沖縄以外)でも革新系の高齢化が顕著だが、沖縄でも同様の傾向はあるだろう。また、この亀裂はちょうど沖縄の本土復帰時に思春期だった世代に重なるので、日本世(やまとゆ)の傾向とも言えるのではないかと思った。
 

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2018.02.04

[アニメ] 恋は雨上がりのように その0

 ノイタミナは比較的見ることが多いのだけど、今季については関心もっていなかった。が、それなりに話題を聞くので釣られて関心をもった。物語は、17歳の少女が45歳の冴えない中年オッサンに恋する話らしい。あ、パス。きんも。ということだったのだが、まあ、見た。アマゾンで追っかけで見ているので、四話まで。1クールの三分の一、しかも原作はまったく読んでいないという時点でなんかブログに書くということは、これまではしなかったのだけど、なんとなく、この時点だから書いてみたい。先の話はほとんど知らない。
 あらすじ、といっても自分がわかる程度だが、人付き合いが苦手な主人公の17歳女子高生・橘あきらは陸上部のホープ(昭和語)だったが、アキレス腱を切り走れなくなり、落ち込んで佇んでいたガスト風ファミレスで店長・近藤正己バツイチ子持ち45歳に出会い、惚れる。あきらは同店でバイトをはじめ近藤にコクるが、年差もあってまともに扱ってもらえない。近藤としても、自分は終わった中年で少女との恋というのはただ、過去のフラッシュバックを想起させるだけでむしろつらい。というところで、さらに他の登場人物も恋を巡って絡みあう物語、というあたり。
 普通に考えたら、17歳の女の子と45歳うだつ上がらぬ中年おっさんの恋はないというか、普通、援交っしょ、それ、となりそうだが、たまたま作者のインタビューを読んだのだけど、そういう恋もそう不思議でもない。それもそうだなとは思う。きんも、でもないだろう。
 ここであえて視点として自分を持ち出すのだが、今年は俺61歳になるのでもう中年というより爺さん(腰痛え)で、娘があきらと同じという状況に陥っているわけで、そこからすると、さすがに、自分を近藤に重ねるのは、むりぃとなりそうだが、このブログを始めたころは45歳で、もちろん、そのころJKと恋愛などもしてないのだが、45歳はそんなに老いてもいない青春の尻尾を持っていることを思い出せる。し、そういう中年男の情感というか、45歳を中継にして、今でもわからないでもないというのはある。
 そういう男……こないだまで若者だったけどなあ、結婚もしないけどJKとの恋の思いに憧れるぅ、というかそれに近いようなもの抱える40代の男……は、そう不自然なものでもない、と理解はする。他方、繰り返しになるが、17歳の少女がそういう男と恋愛するのも、そう不自然でもない。というあたりでこの作品、とりあえず、ハイティーンの女性と40代入門系の男が、胸キュン的な読者層として想定されているのだろうかとは思った。
 そういう幻想で、先日「[書評] 職業としての地下アイドル(姫乃たま)」(参照)でも触れたが、JKよりやや上でもいいが、30代から40代の男がそうした若いアイドル女性に心を寄せる幻想を持っていてもいい。むしろそういう幻想が一つの、社会受容されるべきエロス幻想となって定着してもいいのだろうと思う。
 ただ、自分なりにそうした幻想への共感の接点があるにしても、その恋情の共感の内部でこの作品を味わうのかというと、そこはどうなんだろうかとは思ったし、奇妙な、悩みのような感覚がある。なんだろうか。
 人は老いても、そう恋愛の幻想から離れられないものだ、と仮に言ってみたい。だから、老いても、過去の恋愛の幻影を若い人に重ねらる、あるいは若くなくてもいいが誰かにそれを重ねる心情というのは、ある。そこがこの作品で自分にとても胸に突き刺さってくる。
 そんなあたりでうろうろ思いを膨らませながら、物語にある、「恋に理由はいらない」、というテーゼのに心が引っかかる。
 「恋に理由はいらない」というのは、それはそのとおりなのだけど、実際には身体的というか無意識的には理由はちゃんとある。この物語で言えば、あきらは一瞬で近藤という男の本質を見抜いていたし、それは恋と同じことだった。だから、むしろ物語は、恋の理由を述べるように、近藤を語るように物語は展開するしかない。
 もう一つ、理由がある。テンプレではあるけど、あきらは近藤の匂いに引き寄せられている。それが恋そのものに近い。恋だけが告げるエロスの匂いというのがある。その匂いのなかで恋が開示されるような何かだ。恋は愛しい匂いから始まるとまでは言えないが、それに近い。
 当然、その匂いのエロスは性交を誘導していくものだけど、この物語では、そこはあえてだろうが、形式的に禁じ手のようになっている。あきらと近藤の思いは双方で内面描写されながら、しかし直接的な性の幻想が物語化されることはない、だろう。
 というあたりで、実はこの物語があやうく成立し、かつ叙情性を持っている仕組みなのだろう。この叙情性が、読者という、恋が失われた人々をやさしく招き入れる戸口でもあるのだろう。歌のように。
 そしてその戸口に人は老いても、幼くても引寄させられる。考えてみればというか、考えるまでもなく、そうして人が恋をするのは、ものすごいことだ。そのすごさの直感はどのような時代でも状況でも作品的に現れうる。


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2018.02.03

[ドラマ] このサイテーな世界の終わり

 この二年くらいよくドラマを見ていた。面白さにはいろいろある。ゲースロ(ゲーム・オブ・スローンズ)のように壮大でエロ・グロ・バイオレンスというのもあるし、たらっとしたヒューマンな作品もある(といったもののさてどれだろ)。
 たいてい、いつものことだけど、最近見た作品というのが心に残る。そうした一作として、なんとなく、ふと語ってみたい気がするのは、『このサイテーな世界の終わり』である。原作はアメリカのコミックだが、ドラマ映像作品はイギリスのチャネル4なので、こてこての英国英語が多く、情感の作り方も英国っぽい。
 英語のタイトルは『THE END OF Fxxxing WORLD』で、このENDは「終わり」ということもだけど、"He sat at the opposite end of the table."のように、端っことか、どんづまりという語感がある。物語は、17歳(男の子は18になろうとしている)の男の子と女の子が家でして逃げまって世界のどんづまりまで来た、という含みがあるのだろう。と、いうのがエンディングのシーンでもあるのだろう。
 この物語は、ジャンル的には、ブラック・コメディである。動物とか殺することに関心があることからサイコパスだと自覚している男の子ジェイムスが、なんとなく自暴自棄で自分に関心のある女の子アリッサと一緒に家出し、彼はその渦中に彼女を殺したいと思っている、という設定で始まる。
 二人は学校や社会というシステムに適合できず、アリッサが主導的にヤケクソに逃避行を始める。あれだなあ、『旅の重さ』(参照)を少し連想させるが、それよりは過激だし、情感も違う。
 見ていて、英国風映像のブラック・コメディらしい笑いの作りが心地よいなか、ところどころ、胸にぐさぐさくる。すげー痛い。自分が17歳だったころや、とがった女の子を好きになってめちゃくちゃになっていったころとか、いろいろ思い出して、痛い。とくにジェームスが守られていたのは自分だったとか気づくところとか、うぁ、号泣スイッチ入ってしまう。

 自分は60歳だぜ、爺だよと思いつつ、自分が17歳になる日の午前0時の時計を見つめていたあのころが、がんがん思い出される。がんがん。今の自分がまるでタイムスリップかあるいは異世界に転げてしまったんじゃないかという感じがする。というか、このドラマ見ていると、ほんと、自分のなかに17歳の自分が生々しく生きていて、やりきれないというか、痛い。というわけで、エンディングはノンストップで号泣しちゃいましたよ。ネタバレをする気はないが、これで本当に物語がエンディングなのか、シーズン2があるんじゃないかって、いろいろ期待もできるけど、僕的には終わったと思う。自分も17歳の自分はどこかで死んでしまったんじゃないかって気がする。
 という反面、末子も17歳になるという親としての情感も自分にはある(あるにはあるくらいか)。このドラマ、原作は読んでないが、『HUM∀NS』や『女刑事マーチェラ』とかでもそうだけど、英国的な親の情感がよく出ていて、親として17歳の子供を思う気持ちもまた、痛い。物語は当初、少年や少女の視点に立って、親は糞、とか思っているのだけど、映像の視点はそうした彼らの嫌悪を上手に異化し、そして、物語も上手に親のつらさや愛情の痛みを引き出している。このあたりの、作り込みがうまい。映像もすげーきれい。もちろん、親ならだれも親心があるなんてもんじゃない、リアル糞、というもちゃんと出てきて、これもつらい。総じていえば、親なんていないほうが人生楽じゃないかという気が僕にはする。
 物語は各話30分なので、シットコムに近い。というか、チャンネル4的にはシットコム的な放送枠で作ったのではないか。Netflixとしてもこの30分尺は今後増えそうだし、どうやらその半分の尺もできそうだ。スマホでサクッと見るというニーズが高いらしい。
 そういう意味で、各話はさくさくと進むし、基本のストーリーはアイロニーがあっても単調なんだけど、途中、殺人事件がからみ、これに女刑事二人組がからんでくる。この二人、この一人、ユーニス役のジェンマ・ウィーラン(ゲースロのヤーラですね)の演技が絶妙にうまい。彼女、ベースはコメディエンヌなんですね。というか、彼女の要素がないとこの作品の軸は抜けてしまったんじゃないか。子供の世界と大人の世界の上手な橋渡しという以上に、子供のつらい気持ちをそのまま抱えて理不尽に大人になるっていうことはこういう、なんかねじれた優しさなんだよなと思う。
 音楽もいい。グレアム・コクソンのシンプルで歪んだ感じのギターとヴォイスが作品の映像とよくあっている。

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2018.02.02

プルームテックを吸ってみた その3

 こんな話を続けるのもなんだが、自分にとっても意外だったのだが、思うこともそれなりにあるので、ちょっと書いてみたい。
 で、どうなったか。いくつか変化があった。自分の嗜好が変わったということかもしれないが、ようするにそういう変化がどうして自分に起こるのかが、自分にとって面白いという感じでもある。
 まず、純正プルームテックのカプセルのフレーバーについてだけど、意外にも一番のお気にい入りがアップルミントになった。これには自分でも、あれれという感じ。ただ、少し前段がある。この前段が説明はややこしい。プルームテックの構造に関係する。
 プルームテックは一本のスティックのように見えて、ねじったりひっぱったりすると3つの部分に分かれる①バッテリー、②アトマイザー、③カプセル。
 バッテリーというのはようするに電源。これは規格化されているのかわからないけど、プルームテック互換機でも同じ。つまり、プルームテック互換機というのはバッテリーの互換だととりあえず言っていい(厳密にはわからん)。
 アトマイザーというのは、香水を小分けにして使うときのアトマイザーのように、ミストを発生する装置の部分。ミストの素はベジタブルグリセリン(VG)とプロピレングリコール(PG)の混合液。プルームテックだとこれが綿に染み込ませてあり、これに電熱線を当て、加熱してミストが発生するようになっている。プルームテックではないアトマイザーというか通常のヴェイプだとリキッドに電熱線コイルが接触して加熱するようになっている。余談だが、電熱線加熱ではないが、IQOSやgloのミストも同じらしい。
 カプセルは、これがJTの飯の種で細かいお粉が入っている。たぶん、香料とニコチンをまぜたものだろう。
 3パーツの連携だけど、吸うという空気の動きで電源がオンになりアトマイザーに電気が送られ、電熱線で液を浸した綿をじゅわっと熱して(多分に焦がして)ミストを出し、このミストをカプセルにくぐらせると、ミストにカプセルで香料やニコチンが付着して、うまー、ということになる。
 さて、プルームテックだと、アトマイザーの液はVG/PGだけのようで無味無臭。私が当初購入した互換機だと、アトマイザーの液自体にミントやエナジードリンクの香料が含まれている。つまり、綿に香料液(リキッド)が染ませてある。
 ふう(ためいき)。話がうざかったい。
 JTがなぜリキッドを使わないのかは、カプセルで売りたいからでしょとか、アトマイザーを量産化するためでしょとか、推測は付くが、この間、厚労省の議事録とか読んでみると、審査会ではリキッドの加熱が問題となっていた。VG/PGの加熱でも有害物質が出るが、さらに他の未知のリキッドが加熱されるとどうか不安というものである。特に、アトマイザーが加熱しすぎたり劣化すると有害物質が増えそうだというのがある。
 いまさらながらなのだが、アトマイザーは綿であろうがヴェイプであろうが、電熱線で焦げが発生し劣化するから、消耗品なので、JTとしてもカプセル単位にアトマイザーを売っているわけだ。
 さて、私の場合、互換機のミントアトマイザーのカートリッジの味に飽きてきたので、その綿に、アップルミントのリキッドを足してみた。アマゾンとか見ると、一番売れているリキッドでもあるので、どんな味かなとも思った。で、パフパフ。
 ベースのミントがあるから少しミントが強いが、リンゴ風味はある。このリンゴは青りんご。味は? これが、飴ちゃんですね。リンゴの飴の感じ。まあ、悪くはないし、これはこれで面白いかとも思うけど単純なフレーバー。というのがよくわかったのは、JTのアップルミントと比べたときだ。うはあ、JTやるなあとわかった。こっちのアップルミントは豊潤という感じ。りんご酒とたばこの深みというか、こりゃ、JTの断然勝ち。このリキッド売ってねーのという感じ。ニコチンでその深みが出るというものでもないだろうし(キックはあるだろうけど)。
 で、JTで、うまーがアップルミントになり、オリジナルはうーん、まあ、悪くないけどとなり、コーヒーはちょっとうるさいか、ブルーベリーはコーヒーとかないと要らないなということになってきた。ミントはまだ試していない。
 ついでに、味の抜けたJTのアップルミントのカプセルに青りんごのリキッドを垂らしてみたら、それなりに使えた。プルームテックのカートリッジの味が抜けたら、同系のリキッドを吸口側ら染み込ませ、ちょっとぷふっと吹いて中に送ると、カプセル風味復活。ニコチンは抜けているだろうけど。
 話続く。
 互換機カートリッジのエナジードリンクは飽きた。嗜好って変わるのか、自分が飽きやすいからか。そうこうしているうちに、液に対応するアトマイザーも購入していたので、大麻風味というのをこのアトマイザーでもう一度試してみた。あれ? うまいかも? ほのかというか。どうやら加熱具合によって風味が変わる。
 ちょっと強めのクリーミーなミストだとそれなりに微妙な風味が出て来る。どういうのかというと、あれです、「田園風景が人の心に呼び起こす郷愁」みたいな。なんじゃこれ。遠くで誰かが落葉焚みたいな。とても懐かしい田園風景のような。
 そもそも「大麻風味」ってなんかの間違いだろとラベルを見ると"Flax"なので、ようするに「亜麻仁油」なのでその「麻」で誤解したんじゃないかと思ったのだが、米国のリキッドのサイトを見ると広告に葉っぱがあるので、かならずしもそうでもないのかもしれない。まあ、大麻って吸ったことないし、人の吸ったの見た感じではすっぺーな匂いしかしなかったのでよくわからないが、違うんじゃね。でこれ、テレピンにまぜるリンシードなんじゃねというか、テレピンではないけど、それっぽい感じもする。
 このなんか煙のようなほのかな感じは、たばこのそれとは違うけど、遠くで燃えている感のようなものは似ているかもしれない。そのしみじみ感がわるくない。アトマイザー内の焦げかもしれないけど。
 こうしてニコチン要らねというヴェイプの道を歩んでいるのかどうかわからないけど、だんたん、プルームテックのカプセルはちょっとおしゃれな喫煙もどきという感じで、またフルーツやミントの爽やか香料系のリキッドもそれに似て、まあ、悪くはないけど、心にしんみりというくるなんかじゃないよなあと、現状こんなかんじですか。


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2018.02.01

洋ドラの見方

 洋ドラの見方についてちょっと思うことがあるので、この機会に書いておこうかなと思った矢先に、Netflixに『ER』が15シリーズまで入りました。僕、見てないんだよね。『グレイズ・アナトミー』も一話見たくらいだし、『Lost』も『ウォーキング・デッド』も見てない。『フレンズ』も見てない(というか一話見て萎えたけど)。というわけで、そんなのが洋ドラの見方とかこいても、全然意味ないんじゃないか。まあ、それはそれとして、書いてみますか。


自分に合ったのを見る
 馬鹿みたいに当たり前だけど、洋ドラも自分に合ったのを見たほうがいい。当然、どれが自分に合うかなんだが、つまり、そこを知るが意外に難しい。一般的に言えるのは、人気番組だったら誰が見ても面白いとは言えるけど、そこがなんとも微妙なところ。洋ドラにハマるというのは、人気番組おもすれーというより、ああ、これが見たかったんだよという、微妙にマイナーなところにある、と思う。というのは、というか、ニッチの焼畑農業はどうやらNetflixとかのコンセプトみたいなんで、Netflixが面白いわけです。SF的なのでいうと、メジャーであっほうなNBC『ヒローズ』と、局所的にすごい人気だったけどシーズン2打ち切りとなったNetflix『センス8』の差というか。
 なので、「へ、私を面白がらせるドラマがあるっていうの」という高ビな態度でいつか出会えるといいですね感。

第1話を2回見る
 ドラマはたいてい第1回にいろんな思いを込めて作る。少なくとも12回シリーズの2回分くらいの伏線が潜んでいることもある。そうした細かい部分を理解しようとしなくても、登場人物や世界観に馴染むのにも、第1話を2回見るといい。『THE BLACKLIST/ブラックリスト』とかもけっこうご都合主義でできているように見えながら、さりげなく、レディントンに"It must be good to be home again, sir."とか言わせているが、FBIは彼のhomeとになっている。

シットコムはセンスがあえば
 厳密に洋ドラといっていいかわからないけど、シットコム、つまりシチュエーション・コメディという分野があって、奇妙な状況(シチュエーション)に登場人物が置かれることで笑いを取る、加えて、見ている人の笑いの声が入るみたいなのがある。『フレンズ』とかが典型で、で、これ、見る人の笑いの壺がずれると、うへぇになる。
 シットコムはだいたい30分という時間枠があるらしい。というか、現状だと、いわゆるリビングのお笑いというより、なんだこれ、笑える?みたいな30分ものが増えてきそう。そうした点で最近の一押しはNetflixの『このサイテーな世界の終わり』が良かった。ローティーンからハイティーンに移るときの感覚がびしびし来る。エンディングなんか、号泣しましたよ。っていうか、慢性中二病患者、見るといいよ。
 『アンブレイカブル・キミー・シュミット』も個人的に好み。スゲーおバカドラマなんだけど、これインテリの自虐ネタ満載。

水戸黄門的なのもまだある
 洋ドラってスゲーなあ、変わったなあと思ったのは、村上春樹も絶賛(?)していた『ブレイキング・バッド』で、まあ、僕もこれが洋ドラに地すべりしていったきっかけなんだけど、昔ながらも洋ドラみたいのもけっこうある。マンネリ? というかダラダラ毎週見る系のようなやつ。探偵物とかも。この手のは実に大衆的。悪いかよ。いえいえ。面白いのか面白くないのかわかんないけど、『アンフォゲッタブル 完全記憶捜査』は全部見ましたよ。ポピー・モンゴメリー (Poppy Montgomery)が好きっていうのもあるけど、まあ、めちゃくちゃな作品で、めちゃくちゃななエンディングでした。ま、いいんじゃね。
 個人的にこの手の面白かったのは『メンタリスト』ですかね。レッド・ジョンが捕まってからは面白くないという人がいるけど、私としては、そのあとの長いマンネリ的エピローグがこの物語の核だと思う。愛をなくして、愛を見つける物語なんです。
 メーガン・マークル (Meghan Markle)で、ほえええとなったビジネス系『SUITS/スーツ』も、まあ、お色気ありのマンネリ系でしょうか。たらたら見ていて面白い。ただ、この物語が面白いのは、主人公のハーヴィーやマイクより、リック・ホフマン (Rick Hoffman)演じるルイスでしょう。もうこれはビジネスマンの自虐を究極まで押し詰めた最高の演技です。

字幕か吹き替え
 私は当初、吹き替えで見ていたんですよね。英語聴きたくねぇと思って。なましっか英語聞けるのに、それで十分じゃない、字幕を見ると、あ、意訳だあとか、もう面倒くさくてたまららん。『ブレイキング・バッド』も吹き替え付きDVDで見ていたせいもあるけど、吹き替えで見ていた。『メンタリスト』もそう。まあ、これらの作品だと声優がいいんで、吹き替えでもいいんじゃねという感じはする。つまり、吹き替えをどんだけ真剣にやっているかということ。
 Netflixが独自に吹き替えに頑張っていて、よくやっているなあと思うけど、『ジプシー』のナオミ・ワッツ(Naomi Watts)とか、最初から吹き替えの聴きたくねえ、と思った。そういえば、『ボディ・オブ・プルーフ 死体の証言』も当初、弘中くみ子吹き替えのミーガン・ハントで見ていたのだけど(吹き替え悪くないです)、途中、字幕に切り替えた。ダナ・デラニー(Dana Welles Delany)の低音がイケヴォすぎてたまらん。まあ、これも物語は進展するにつれめちゃくちゃになっていったけど。
 そういえば、WOWOWのとかだと吹き替えで録っても、後で字幕に切り替えできますよ。

すっげー作品がある
 『ゲーム・オブ・スローンズ』とか、すっげー、としかいいようがないんだけど、あのすごさというのは、ある意味、従来的な作品の総合や映像撮影技術の総まとめみたいな感じだけど、そういうのじゃなくて、え?、こんな作品ありなのか?的なのがある。
 その筆頭がNetflix『The OA』。まあ、ストーリーはあるんだけど、語られるすべてがなんというか、入れ子のメタ状態で、真実はなんだかさっぱりわからないし、結局のところいったい何の話なのかわからないけど、とにかくすごい。原案は主演のブリット・マーリング(Brit Marling)自身らしいのだけど、もう天才っていうのだろうな。で、わけもわかんないのに感動もしたし、ムーヴメンツも真似てみた。
 すっげーといえば、『ブレイキング・バッド』が筆頭だけど、Netflix『13の理由』も『またの名をグレイス』もすごかった。『アンという名の少女』もすごかった。『アフェア 情事の行方』もそう。なんだろ、まず、映像と脚本がすごいとしかいいようがない。そしてそれが、存在のぐわわんと奥に突き刺さって、それ見ない人生なんてありえないというくらい。

スマホでも見られる
 洋ドラに限ったことではないけど、アマゾン・プライムとNetflixの作品のいくつかは(けっこうある)スマホにダウンロードしていて、電車のなかとかでも見ることができる。うへー暇ぁというとき、小さい画面で洋ドラとか見ると楽しい。電池食うけど。
 

 ま、そんな感じすかね。私が見た作品のベストランキングとかも思ったけど、『Weeds ~ママの秘密』とか、感動しましたぁとか言っても、そんな日本人少ないと思うんで。

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