[映画] この世界の片隅に
見よう見ようとしつつ逸していた映画『この世界の片隅に』(参照)だが、アマゾンから見ろという推しがあって、見た。評判どおりの傑作だった。感動もした。が、違和感というのでもない微妙に、もにょーんという感じが残った。不満というのではない。これはなんなのだろう。受容の不協和音というものでもなく、また深い理解を促すというものでもない。ある意味で奇妙な体験でもあったので、そのあとしばらく考え込み、それからその違和感の感触を静かに無意識に沈ませて時を過ごした。そしてなんとなく浮かんできたものがあるので、書いておきたい。
さて。
もにょんとした感覚に最初に突き当たったのは、この映画を、戦争映画あるいは反戦映画あるいは反核映画という構図で見てもしかたないだろうということだった。それらに落とし込まれる構図で語られる言説は、私からすれば、どれほどディテールで修飾されてもAIで生成できるようなものだろう。
では、戦争という要素を作品から意図的に外してよいのかというとそうもいかない。すると、戦争は暗喩ということになるのだが、その場合、「あの戦争(加害だのいろいろな解釈がされるあの戦争)」なのか、戦争というものなのか、そもそも一般的に戦争として暗喩される限界的な状況・非日常の生活なのかということになる。
私はまずこれを最後の理解で考えた。あの戦争でもなく、戦争なるものの言い換えでもなく、限界状況あるいは非日常、あるいは祝祭的な状況である。そして、ここで祝祭的という言葉で触れたのは、単に限界状況や非日常という単相ではないように思えたことだ。つまり、単に、戦争という非日常に対峙するすずの日常生活ということではないだろう、と。もちろん、基本的にその対峙の構図はある。しかし戦争の非日常性を忌避的なあるいはイデオロギー的に排除する前提的かつ神学的な構図を取るのではなく、むしろ、人間本性を肯定的に明らめる祝祭的世界だと見たい。祝祭の含みには、エロス的なということがある。
そう感覚できるのは、この映画は高度にエロス的であるということがある。この側面についてはほとんど否定したがたいだろう。しかも、それらが日常の延長にある健全なエロス性というより、戦争として暗喩される祝祭の世界がもたらしたエロスである。非常に物騒な言い方に近接するが、この物語は、戦争という祝祭世界によって、すずがエロス化するイニシエーションの構図をもち、そのエロスのなかで、生の再循環(孤児の家族化)が起きるという大きな、無意識的な枠組みを持っている。そのことはもしかすると原作者、映画製作者、あるいは大半の受容者には意識化されていないかもしれないし、であれば、こういう私の構図も忌避されやすいだろうとも了解できる。
そうした祝祭世界のなかでこの物語のエロスの転機、いわば、秘儀の中心となるのは、周作が彼の女(sa femme)を(おお、ライナーの声で!)、水原に渡すシーンである。これはエロスの構図としては、『Oの物語』でルネがOをステファンに渡すシーンにも少し似ている、あるいはOがジャクリーヌを誘惑するシーンに。
このシーンは映画では、最終的には、エロス的であるけれど周作のほのかな嫉妬や水原の健全な男気と純無垢なすずに還元されて微笑ましい逸話になってしまう。しかしそれだけであれば、ここで周作が鍵をかける仕掛けは不要であり、本質的に性交の交換の構図が仕組まれていることは避けられない。すると、これをエロス的ではあるが悪魔的な誘惑を避ける試練と見ることもできる。
この秘儀シーンの暗喩は多層的であることは間違いない。私がまず思ったのは、こういう民間人の女を軍人に貸与するというのは、当時珍しい風習でもなかったか、あるいは、含みとしてだが、水原軍人であり、周作が軍務にあって兵役を免れている負い目からの権力行使も考えられるだろう。これをもっと美談的に、死に行く水原と、水原を思うすずの本心を察して、性交の機会を与えてやろうという、おえぇぇな解釈も成り立つだろう(おえぇついでいうと、すずに子を持たせたい配慮とかも言いうる)。
ただ、それらの理解であればこのシーンは物語的な枠組みのなかでは、逸話的な外挿になる。このシーンが祝祭的な物語のクライマックス的な秘儀である意味を排除することになる。では、この秘儀を中心に据えたとき、そこでの全体の物語の構図はどのようになるか?
基本的に、悪魔的な誘惑の構図はあるだろうが、問われているのは、エロス的であるが、そのエロスの祝祭性が、戦争的なエロスの祝祭性に吸収されることへの、大きな拒否だろう。簡単にいえば、すずや周作やそして水原の「発情」は戦争という祝祭空間によって惹起されたものであり、そこではエロスの神が三者を快楽的な犠牲にしいている。しかし、その祝祭が彼らの内在的な生をどのように支えるかというぎりぎりのとこで、死の側に傾く微妙なゆらぎへの拒否が生じる。補助線的に言えば、仮にここでエロスの祝祭(水原とすずの性交とそのあとの周作とすずの狂おしい性交)が顕現すれば、水原は、物語の力としては死に定められる。その死にすずが同意したことですずも死に定められ、そして周作もすずのエロスの本性に充足して死ぬことになる。すべてを死が支配することになる。
何がこの死へのあやうい転機を避けさせたのか、また、周作をそこまで嫉妬というか『Oの物語』のようなエロスの交換に促したかは、映画では、あえてだろうが明示的ではない。そこが表面的にはもにょーんの核でもある。
これについて原作では、この転機の遠因が、周作とリン、またリンとすずの関係に根をもつことが暗示される。映画では、リンが完全ではないが、構図から排除できるまでには削除されているのでわかりづらいとも言える。いずれにせよ、その転機には、リンの犠牲が先駆的に織り込まれているとしてよいだろう。
この秘儀は水原の回心である、「すずが普通で安心した」「この世界で普通で…まともで居てくれ」という成就になる。つまり、この世界は、単純には戦争が大きく暗喩するエロス的な祝祭の世界であり、さらにそれを含む両義的な世界で、その両義性の他面である「まとも」に回帰する。
この回帰が暫定的に三者の生を支え、さらに戦禍で死に定められた孤児を生の側の世界に受けるように、すずと周作をみちびいていく。
しかし、ここで水原の祝祭的な死のエロスを抑えたのは、吉本隆明が『共同幻想論』で示した師弟の幻想性(ここでは兄妹ではあるが)であり、親密ながらもインセストが禁忌される家族幻想から国家幻想の幻想の力である。
ここには循環的な両義性がある。普通でまともな世界は、『共同幻想論』的な国家からゆえに戦争の幻想を導く。そして、戦争の祝祭的な幻想は個人のエロス性を惹起して死の恐怖を超えさることで死たらしめようとする。
おそらく私たちの生の構造というのは、避けがたくそういうものだろう。その構造のまさに秘儀的な情念をこの作品は上手に人々に掻き立てる。それは、私たちを「この両義的な世界」へと「世界の片隅」から引き出し、またその「世界の片隅」に戻す。その循環のなかで、大きな悲劇を祝祭のエロスで飲み込むように私たちは生きつつも、啓示的とも言える転機があれば、新しい命を小さい片隅の共同性のなかでつなぎ続ける。
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コメント
原作漫画と同系列の夕凪の街桜の国と、それぞれの原作者の後書きがアニメ作品のモニョーン感を薄めてくれる気がします。
投稿: Kaz005 | 2018.01.23 00:00
興味深く読ませていただきました。
私も今作品は紛れもなく日本アニメーションの一つの到達点だと思う一方、どこか消化しきれないところを感じていたので、その消化不良感が多少解消されました(笑)
twitterでの翁の呟きと合わせるとより分かりやすいです。
作り手側が物語のエロス的構造に無自覚な故に、作り手の倫理観との乖離があったのかと思いました。「原爆」「太平洋戦争」という要素を日本人として生真面目に取り組んだところにむしろ収まりが悪くなってしまった感があります。
もっとも一般的にはそこが受けた要因だっただろうとは思いますが。結局は「柔らかな反戦映画」というのが一般の受け入れられ方だったと思います。
投稿: rodydaddy | 2018.01.23 06:51
まず「あの戦中」の人はあんなネオテニーな顔つきじゃないという違和感
それなら侯孝賢映画の老人役の顔つきのほうがいいのではないかという疑念
次に全共闘世代の「悲しくてやりきれない」が使われてる違和感
そしてそれなら侯孝賢の映画の選曲のが的確なのではないかという疑念
もっと直球に乱暴に言うと「大衆の原像」をとらえる方法論として侯孝賢の方が優れてるのではないかという疑念
フレームワークにとらわれ過ぎてますけど、この映画に関する論で、侯孝賢を無視した論はまったくの無意味だと思います。
投稿: cinemasyndrome | 2018.01.25 21:18