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2018.01.30

[書評] 死生論(西部邁)

 思想家と言うべきなのか評論家というべきなのか、考えてみると少し困惑するが、そうした形容が当てはまるだろう西部邁が1月21日に死去した。78歳であった。天寿に近いだろうとも思うが、その死が自死であったことは、少し重く心に残った。

 西部邁の評論はいくつか読んだことがあるというか、文春系の評論誌などを読むと必ずといってその名前が添えられている。思うに、そうしたポプリを編む編集者はほいと西部の名を挙げ、呼ばれた西部もほいほいと書いていったのだろう。そうした文章はしかし、教養の裏付けと修辞をもってそれなりの散文の体をなしているので、まさにポプリを鮮やかにする。というくらいが、私の西部の印象で、その思想と呼べるものを受け取ったことはなかった。彼の主著も知らなければ、保守と言われるわりにその主義も理解できないし、なにより、その感覚が合わない人であった。対して、私が好む著作家はまずもって自分の感覚が合う。そしてこの感覚の核は何だろうかと、西部の自死に異化されたように思うのは、あるエロスの感覚ではないか。西部の文章のなかに、エロスを感じたことはない。
 その自死でもう一つ奇妙に心に引っかかったことがあった。メディアやネットで西部の自死を深刻に思う人や、追悼する人の多いことだった。では、その思いの核にあるものはなんだろうかというと、私にはわからないというか、空疎であるように思えたのである。多くは、西部と歓談したり、酒を飲んだりという思い出で、せいぜいは保守という趣味を一にできた感興のように感じられた。
 皮肉なトーンで私が書くのは、私のような些細な迂遠な読者でも、それでは西部に少し寂しかろうというような追悼の思いがわいたからである。
 西部の思想や西部の自死を理解したいともさほど思わないし、形ばかりの追悼ということでもないが、おそらく正気で多摩川の橋梁から飛び降りたのだろうその思いを少し察したい。同じく78歳でおそらく同じ場所で投身した牧伸二とは違い、絶望感に追われただけというのでもないだろう。もちろん、西部なりの絶望感の表明ではあっただろうが。
 私はぽつんと取り残される。いや、私などこうした文脈でなんの意味もないのである。少なくとも、私が西部をどう考えるかと期待する人すらいないだろう。だが、それと私のこの感覚の向き合い方の問題は別であり、私は私の思惟がどこかしら求められているのを感じているのだからそれで十分だろう。そこで彼の『死生観』(参照)を読んでみた。
 西部が55歳で書いた作品のようだ。滑稽だが、私もその年齢で拙い本を書いた。誤解される向きもあるが、自意識を表明したくて書いたというより、そのまったく逆で自分の凡庸さを書いてみたかった。そのため、凡庸さに合わせた文体で書いたが、もし別の水準であればもう少し、インテリぶったというか、まさに自分らしい、いかがわしい偽インテリ文体を使ったかもしれない。今それに近いような文体で書いているように。そうした愚にもつかない思いで切り出したのは、西部の同書は、まるでそうした少し気取った自分が書いたような文章によく似ているように、微笑ましく思えたのである。文章というのは、つまり、思念の練り方でもある。ああ、この人は、意外と自分に似た人であったのだなという共感の感覚であり(特に死に必然的にまつわる超越への批判的な視線には共感した)、素直に西部という人が少し好きになり、その好きの対象であるからなのか、この西部君は若いなと思えた。
 それはある意味、ぞっとすることだった。60歳になった私は、55歳で死生を論じる西部邁を若造のように感じられるのである。そのことは、たぶん、これを書いた西部本人でも、その後はそうだったのではないだろうか。
 西部はこのあどけない死生論をその後20年以上も育てていたのだろう。そしてその開花があの自殺でもあったのだろう。本書には、西部のあの自殺が20年も前からきちんと書かれている。道化回しの私などどうでもよいのだが、私はそうした死生論をこの5年育ていることはなく、西部とは違う老いを辿って、死に向かっている。
 普通に書籍として読んで、どうだろうか。おもしろかった。西部も本書で述べているが、自分の死というものを見つめることができるのは、50歳を超えたあたりなので、そうした年齢に近いと思った人は、この本を紐解くと、なるほどね、西部君そう考えるかねという親近感を抱くだろう。多少、そうした親近感から違和となるかもしれないのは、戦争というものへの思いだろう。西部にしてみれば、戦後という時代がその人生に重く影を落としていたが、現在50歳の人間の知る戦後もそして戦争も、ある正しく語られた物語にすぎない。戦争や戦後が人に強いる死のリアリティはないだろう。私も生前、伯父がインパールで死んだことを父のなかに見ることでしか、そうしたリアリティにつながる道はなかった。そういうリアリティへの道はもう今の50代には少ないだろう。
 本書は、以前の私なら、ただの保守趣味の修辞にしか感受しなかっただろう、共同体への思索が興味深かった。彼はこれを「共同作業」「共同の企て(コモン・エンタプライズ)」として深めている。死というのは、唯我論的に厳密な認識論としてだけ捉えられるものではなく、ジャン=リュック・ナンシーが説くように共同体の精神を規定するものである。私の視点から雑駁に言えば、ナンシーを読むようになって、まさにナンシーが批評している轍にある西部の思惟が本書から見えてきた面もある。とはいえ、ナンシーが正しく、西部が間違っているというものでもない。いずれ生死の問題は、共同体との関わり、共同の作業の中で問われるしかない面をどう私たちが受け取るかということである。
 読み終えて、意外にいい本であり、西部邁というのは、モンテーニュのように思索それ自体の意味を知る人でもあったなという評価とともに、当初、読み始めた原点である寂しさのようなものも、もう一度見つめた。彼はこう言う。「人生でいちばんの楽しさは、腹からの笑い、明朗な笑い、つまり哄笑にあるといってよい。しかし私の五十五年の人生で、哄笑にありついたことが何度あるか、まことに覚束ない話だ」 そしてそれが叶わなければ人生は牢獄なのだから、その牢獄を出るべく「無理やりにでも生の哲学を創出すべきなのであって」とつなぐ。
 私はだから間違っていた。西部は自死を自然に老年の生のなかに設置し、共同の企てのなかで多くの人々と談笑していたのだろう。彼の死をそうした面で懐かしむ人がいたのなら、それはまさに彼の達成であろう。
 それでも彼のこの死生論とその自死から伝わる、ある痩せた生の感覚は何かと思う。それは哄笑のなかの忘我ではなかったか。彼のある精神の核は理性的でありながらも、忘我の歓喜をも抑制し続けたのではないか。彼はいつもモラルの感覚を持っていた。そこには、痩せたエロスしかない。もっとエロスがあってよかったのではないか。背徳があってもよかったのではないか。というか、そこにモラルとは異なる忘我の死の受容はありうる。自死というような形を持たないない、惨めな死でもそこで私たちは受け取ることができる。


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