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2018.01.18

[書評] キリスト教は役に立つか(来住英俊)

 教会に通うこと絶えて久しいという年月を重ねていたが、昨年は何度か教会に通った。自分が通い慣れた教会以外へも行った。なかでもカトリックのカテドラル関口教会と聖イグナチオ教会が印象深い。正直に言えば、キリスト教的な関心よりも、パイプオルガンの音に魅せられたためである。が、結果としてごミサに参加したのも深く心に残った。

 若いころ聖書やキリスト教を学んで、それなりにキリスト教には詳しいつもりでいたし、そのころは教会にも通い讃美歌などもいくつか自然に覚えたものだが、振り返ってみるとその讃美歌からして日本基督教団的であり、関連する神学も基本的にプロテスタント神学だった。海外でも教会を見て回ったりしたが、多くは正教の教会で、カトリックの教会も見学したりごミサを傍観したりもしたが、実際に参加すると随分と印象が違った。まず私はカトリックの信者ではないので、聖体を受けることはできない。でも、祝福を受けることはできますよと、教会で案内を受けた。とはいえ気恥ずかしく木に登って遠く見るように見ていた。するとそのおり、さりげなく近くに座っていたかたら、ご祝福を受けてはどうですかと誘われ、知らずその気になった。漁りの網を持つ手を放したかのようだった。カトリックの信仰の情感と静かではあるが力に触れた思いがした。
 私は少年期から遠藤周作文学の愛読者でもあり、そこから覗き見るような形でしかないが、カトリックの信仰にはある種の共感を持っていた。しかし文学という緊張の場を経た信仰の情感と実際のカトリックの信仰者の日常の情感は異なるものだろう。そしてそれは自分には、なんというのか縁のないものであり続けるだろうと思っていた。が、ふと遭遇した祝福の力の体験はそこに少し近づいたようにも思えた。そうした思いが本書『キリスト教は役に立つか(来住英俊)』(参照)を読みながらなんども去来した。
 この書名はなかなかチャレンジングであるようにも受け取れる。基本的に来世信仰を原理とするキリスト教の信仰に現世の利益を連想させるような、お役立ちはありえないだろう。あるとすれば、この人生という仮の旅路の苦しみを少しでも和らげてくれる慰めでしかないだろう、とそういう思いにアイロニカルではあるが鈍い毒のような感覚が伴う。だが、それでよいのではないだろうか。私たちの人生にどうしてもまとわりつく苦しみ、つらさ、絶望感、孤独感、そうしたものを和らげてくれるなにかがあってもよいのではないか。祈りすがってよいのではないだろうか。自分なりに受け止めたにすぎないのだが、まさにそういう部分に本書はきちんと触れていた。
 著者は現在では司祭様であるが、信仰の道に入られたのは30歳であったという。灘高から東大という学歴を見ると普通とも言い難いが、それでも大卒後就職し企業人となって過ごしていたのは普通の日本人の生き方だろう。その彼が、生きたキリスト教を見たのが28歳のイタリア旅行。それからキリスト教への関心もあって教会には通うものの転機は30歳の初冬、駿河台下の交差点だったという。ふと「自分の底が抜けるような淋しさに貫かれた」という。「あなたが何よりも誰よりも大事だよ」と言ってくれる人はこの世には一人もいないのだと思ったという。
 それは転機であったが、神秘的な啓示ようなものでもなく、強烈な回心の体験でもなかったという。私は、ああ、それわかるなと思う。そういうさみしさの受け止め方なら自分も受け止められる。あえて別の言い方をすれば、キリスト教者とそうではない人をあたかも隔ているような「信仰」の壁のようなものはない。ただ、今のさみしさやつらさの思いがそのまま慰めの信仰につながるような自然さがある。それがこの本をとても大切なものにしている。
 キリスト教入門やキリスト教の知識や信仰を教えてくれる書籍は多数あるけれど、読者の現在の正直なあり方にそのまま信仰のドアを開けてくれるような書籍は少ないのではないだろうか。そうしてみると、失礼な言い方になるかもしれないが、司祭様は、本書のなかであちこちとそうした小さなドアを開けてくれている。多くの人の普通の人生のさまざまな場面にそのドアがつながるように。
 そうしたさりげない平穏な書籍でありながら、ふと刮目するような言葉にも出会う。ここだけ引用ふうに述べると逆に誤解を招くのではないかと思うので、簡単に示唆するにとどめたいが、「神は全能者・全権者である」の理解には少し驚いた。逆におごった言い方になるのを恐れるけれど、私もそう考えていたからだ。でも、そう考えることにあるためらいも持っていた。私はその理解の手前で止まっているけれど司祭様はその向こうに立たれているのだとわかった。
 自分と司祭様は違うなと思う。あえてだが、こんなことここで言う意味もないのかもしれないけど、自分との信仰的な受け止め方の違いも触れておきたい。
 本書は、イエス・キリストを、自分と人との関係のなかで、信仰の深みの変化のなかでとらえている。他者と関わりでただ孤独しかなかった自分が、イエスによって他者とつながっていく信仰の形である。教会(ἐκκλησία)の本義というものはそういうものだし、私が慣れ親しんだ森有正の著作にも唯一の二人称としてのキリストが説かれていた。
 私はそれに意を唱えるものではない。ただ私は少し違うことを感じている。私がイエスに見たものは、私の死でありそこにイエスの復活を重ねたとき、自分のなかにイエスが生き返る感覚である。私は死んだのに私のなかでイエスが生きているという感覚である。私はパウロの教説のパロディを言いたいのでも、正しいキリスト教を説きたいわけでもない。ただ、ある時からその奇妙な感覚がずっとあるというだけだ。そして他者も同じく潜在的な死者でありイエスに復活する者だと理解する。こうした感覚はそれほど病理的なものでないだろうが、奇妙ではあるだろう。たぶん信仰でもないだろう。
 余談の余談。本書の帯の表に大澤真幸氏の「神を信じない人にこそ役立つ本」、森本あんり氏の「神は最強のカウンセラーである」とある。帯の裏にはその元の発言がある。ほんのちょっとだけだが困惑した。大澤氏については、よからぬ話を聞いたのがいけないのだろう、偏見からそれはどうなんだろうと否定的に思ったのだった。森本氏については、大学でキリスト者学生として過ごした先輩であるので懐かしく思った。


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コメント

私は幼稚園・高校・大学と基教系でした。
神さまとは都合よく折り合いをつけて生きてきました。

本題の『役に立つか』という問いへの自分の答えは、
『役に立たない事で、救われる』という事になります。

多少の努力に報われてか、比較的恵まれているおかげか、
人生で出会う理不尽は総じて自分に原因がある事ですが、
時折、『やりきれない思い』が隣に来る事があります。

         『主よ』。

私は、この一言で、救われて来ました。前進して来れました。
『主よ、(また、やらかしてしまいました)』という呼びかけに、
当然、『応え』はありません(あったらカルトw)。

これが信仰かどうかは別として、罪深い人生において、
脳内に、この都合のいい、ルーティーン関数への
インターフェースを持つ価値は計り知れないと思います。

投稿: 昨日の世界へ、ようこそ! | 2018.01.26 16:09

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