[書評] 歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん(田辺聖子)
「神」という言葉に人はいろいろな意味を与える。日本人の場合は、西洋キリスト教あるいはイスラム教のような絶対神は、随分と欧風化したはずの若い世代にもなじまない。というか、戦後70年以上も欧風化を続けているはずの日本なのに、それが日本にはなじまないという歴史を築いて来た。それがいいことか悪いことかわからないし、そもそもそういう問題でもないのかもしれない。他方、日本人にとって「神」というのは、八百万の神のように、あるいはギリシア神のように基本的に多神教的な神である。さらにネットでの用法では(これは現代米国などでも同じ面があるけど)、「ありえないほど優れた人や、自分にとって奇跡的にベネフィシャルな人」という意味もある。いずれも絶対神的な観点からは、聖人に近いだろうが、「人」にすぎない。それでも、と、私は日本人として歳を取ってきて思うのは、そういう日本的な神になじむわけでもないが、ある種の人生の知恵のようなものを極めて百歳にも近くなった人の言葉は、そこに神を見てよいんじゃないかと思うようになってきた。そうした意味での神の言葉が、てんこ盛りに詰まっているのが、この田辺聖子『歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん』(参照)だった。生きることの究極の真理がごくさり気なくそして惜しげもなく語られている。しかも、それが老いてみてわかるといった含蓄でなく、おそらく若い人にそのまま、すっと心に入るような言葉である。こんな言葉がどうして紡げるものだろうか。
若い女性向け雑誌での連載が基本なので、若い女性向けの話にはなっている。が、60歳の男性の私が読んでも、心にぐっとつまって感動し、しばし呆然とした。
いろいろと引用してみたくもなる。が、そこはあえて控えたい。
それでも、たった一つだけ選ぶとすれば、「好きなものには溺れなさい」というのがある。若いときに、好きだと思えるものが見つかったらとことん、好きになって、溺れてしまいなさいというのだ。
それをおせいさんは、戦争の時代の背景で語っている。彼女は、ハイティーンで実際の戦争を体験し、ドラマ『芋たこなんきん』(参照)はユーモラスに描いていたが、厳しい戦後を生き抜いた。本当に戦争を知る彼女は、昨今の戦争の語り部たちが悲惨を様式的に語るのは正反対だ。戦後はさっと新しい時代を向いて、好きな吉屋信子の小説に溺れていったという。
どんな時代でも、好きなものを見つめて、溺れていけばいい。私もそう思う。そんなことじゃいけないという大人たちは、溺れてしか見えないものを、たぶん、見たことはないだろう。
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