引退を幸せな第二の人生の始まりに
小室哲哉さんが引退するという話題をツイッターで見かけて、いくつか複数のニュース・ソースで確認した。「不倫騒動のけじめ」と題したものもあり、また引退の契機がいわゆる「文春砲」ということもわかった。で、まあ、なんというのか、もにょんとした感情に襲われた。
ツイッターでの関連話題を追っていくと、私のタイムラインでは概ね、人の不倫を暴いて追い込むのなんかもうやめろよ、という意見が多い。私もどちらかというと、そういう思いがする。関連して、コラムニストの小田嶋隆氏は「文春砲」について、「仕置人気取りなわけか?」とまず述べ、「不倫をしている人間より、他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています」とツイートしていた。それもそうだろうとは思うが、彼は該当の記事を読んでからそう述べたのか、「文春砲」なるツイートに反射的にそう思ったのかはわからない。
私は週刊文春のデジタル版を購読しているので該当記事を読んでみた。読んだ印象をいうと、どうもこのネタは文春が独自に発掘したというより、すでに関係者で知られていたように思えた。もっとも、ぐうの根も出ないように現場を抑えたのはまいどながら文春ではあるだろうし、そこは、そこまでするかなあ感はある。で、その時点での小室さんの話が記事に引用されているのだが、そこで彼自身「引き時」を強調しれているし、そのことは「文春砲」も注目していた。小室さんも文春も、小室さんの引退が突然というものでもない含みがそこにはあった。
文春を擁護するつもりはさらさらないが、文春がやらなくてもどこかのメディアがやったか、あるいは文春がいつかやるなあと関係者が思っていたか。小室さん自身もそんなわけである程度覚悟していたような印象はもった。
さて、私自身のこの件についての感想だが、経緯はなんであれ、引退してよかったとは言えないにせよ、小室さんはこれからの第二の人生を心機一転進めるきっかけになればいいのではないかとは思った。そう思う理由の一つが、彼と私がほとんど同じ世代(彼が一歳下)で、60歳という年齢を迎えようとしているからで、世代的な共感があるからだ。高齢化が進む現在、人はできるだけ早い時期に引退したほうがいいと私は思う。
私がそう思うようになったのは、ドラッカーの影響である。ドラッカーは先進国では現在、組織より人間の寿命が長くなったという前提認識を示した。長寿企業というのもあるにせよ、概ね企業には人間のように寿命がある。そしてその寿命が人間より長いとなるとどうなるか。端的にいえば、老害になる。組織を自身のために使うようになる。あるいは、高齢時まで企業は存在していない、ということになる。ドラッカーはなにより、一つの仕事をするのに飽きてくるだろうとも述べていた。
ドラッカーはさらに、60歳で突然引退するのでは遅すぎるともしていた。40歳くらいに、第二の人生の基礎を作るべきだというのである。ここで説教臭いことを自分が言うのもなんだが、このブログを始めたころ私はまだ45歳だったが、あっという間の15年間である。40歳から先は速い速い。
ここまではドラッカーの考えは彼らしい楽観論的なポジティブな示唆に富むのだが、その先にはずばりと冷酷な真実を告げている。「知的労働者にとって、第二の人生をもつことが重要であることには、もう一つ理由がある。誰でも、仕事や人生で挫折することがあるからである。」と。人はみな老いて挫折するのである。
世の中にあふれる啓発書の類は、成功が基本になっている。そもそも出版される本というのが文学(あるいは私が書いた本)でもなければ、成功に飾られているものだ。しかし、実際の人生成功する人がごくまれなのである。パーセントはわからないが、9割がたは失敗するか、ぼちぼちでんなというあたりを自分なりの成功に換算しなおすかくらいではないだろうか。
ドラッカーはそうした失敗の人生を補うものとして、社会貢献可能な第二の人生を描くが、私は社会的な価値や承認より、もっと自分を大切にした第二の人生を構想してもいいように思う。特に、子離れの時期からは。
第二の人生がどうあるべきかについて、それ以上は自分はわからないが、難病とかが背を押してくれたこともあって、私についてはそうした人生を歩み出すしかなかった。
しかし、第二の人生では、なにより、第一の人生とは大きく価値観を変えてよいのだと思う。
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