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2018.01.31

[ドラマ] ゲーム・オブ・スローンズ

 ああ、アマゾン・プライムにもファンタジー・ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』(GOT、ゲースロ)入っているなあ。プライムで無料で見られるのはどこまでだろうかと調べると、シーズン6までのようだ。
 私は先日、シーズン7(第7章)を見終えた。シーズン6まで1シーズンは1時間程度の回が10話だったのが、今季は7話と少なかったのが不思議には思えたが、じっくりとペースの変化もなく、大きな括りはあったので、これはこれでよいのだろう。原作が追いつかないという話も聞いたが、それが関係あるにせよである。
 次季のシーズン8で完結するらしい。全話は6話程度だと聞いているが、2時間以上の回もあるらしいので、全体として少ないということはないのだろう。問題は、その次季がいつかだが、来年になるらしい。下手すると次に見ることができるのは、1年半後になるかもしれない。おぉぉぉ、これ見るまで死ねないぞぉ、という感じである。悪い冗談で言うのだけど、自殺防止にいいんじゃないか。ということで、これからすげー待たされるので、このあたりで感想書いておきたい。
 感想。とにかく、すごい。
 人類史始まってこのかた、こんな壮大なドラマってないんじゃないのと思う。もちろん、『指輪物語』も壮大だし、『聖書』だって壮大なドラマだと言えないことはない。ファンタジーではないがトルストイの『戦争と平和』も壮大だし、ヴァーグナーの歌劇『ニーベルングの指環』も壮大である。ただ、なんというのか、そういう古典的な壮大さとゲースロは異質なのである。『聖書』が人類が持ちえたもっとも壮大な物語であるとしても、その壮大さは想像して見ることを迂回しているが、ゲースロはまず見える。そして見えたものが、凡人の想像力のヴィジョンをはるかに超えている。これは、『指輪物語』の映画が三部作で多くても10時間という尺の制限によるのかもしれないが。
 ゲースロの何が面白いのか。率直にいうと、エロ、グロ、暴力がてんこ盛りであること。最初は面食らう。こんなの面白いなんていって見ていたら、なにか感覚が麻痺してしまうんじゃないかという恐れもあったが、ダメだ、圧倒されてしまった(サーセイの処罰シーンとか、よくあんなの撮ったなあ)。そしてその挙句、このエロ、グロ、暴力というリアリティなくしてファンタジーってないんじゃないかとすら思うようになった。ただし、それらがゲースロの面白さの核ではない。
 ストーリーは面白い。シーズン1のエンディングなど、えええっ!という驚きがあるし、その後も、ええええっ!は何度もある。とくにシーズン最終回に。当然、ご都合主義もあるけれど、行き当たりばったり、少年ジャンプの連載続けてくださいよ先生というタイプのご都合主義じゃなくて、ストーリーが進んだあとから考えると、なるほどねえということになっている。まあ、それでもご都合主義はあるのだけど、面白ければいいじゃん。
 世界観もすごい。最初はよくあるファンタジーじゃんかと高をくくってしまいがちだが、いやいや深い。これはあとでもう一度触れる。
 そして、ようやく自分が思う面白さの核だが、愛憎である。人が愛し、憎しみ合う。見ている視聴者もそれぞれのキャラを愛し、憎む、のだけど、この愛しきれない、憎みきれない、このなんともいえない人間性の重みが、すごい。人間って単純な生き物じゃないんだよというのがじんじんと伝わってくる。この側面で言うなら、ゲースロは普通に文学的だし、19世紀文学の正統のようですらある。
 さて、このすっげーゲースロなのだが、これから見る人は、3つの点で敷居が高いかもしれない。ちょっと上から目線的だが、愛好者が増えてほしい意味で、言っておきたい。
 1つは、人物がやたらと多いこと。しかも人物関係、家系図を理解していないと話がわからない。ネットにはいろいろ顔写真付きの家系図や、シーズンごとの相関図などもあるので、シーズン2ぐらいまでは、あれ、これ誰?というときは、参照するといい。それにしてもこれだけ人物がいてしかも関係が錯綜しているのだけど、各シーンごとの人物はきちんと整理されているので、見てて、うぁああ混乱した、というのは意外に少ない、のでご安心を。
 次に、登場人物が多いということの結果でもあるけど、物語を構成するパーツがつねに4、5個同時進行する。これを理解しやすくするには、ゲースロ世界のマップが頭に入っているといい。このマップは、オープニングにも出て来るので、最初はオープニングをなんどか見ておくといいかもしれない。
 そして3点め。ゲースロの世界は、前史がある。この前史について完璧に理解していなければ楽しめないということはないけど、前史は知っておいたほうがいい。幸い、YouTubeとか探れば、紙芝居みたいのがあるから、それを2、3度見ておくといいと思う。
 というわけで、ゲースロ入門書みたいのがあればいいのだけど、というか僕自身欲しくて探したのだけど、見つからなかった。アマゾン・プライムで一気にファン層が広がると、そういう書籍も出て来るかもしれない。原作の翻訳も増えるんじゃないだろうか。
 まあ、くどいけど、すごいよ、ゲースロ。

 

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2018.01.30

[書評] 死生論(西部邁)

 思想家と言うべきなのか評論家というべきなのか、考えてみると少し困惑するが、そうした形容が当てはまるだろう西部邁が1月21日に死去した。78歳であった。天寿に近いだろうとも思うが、その死が自死であったことは、少し重く心に残った。

 西部邁の評論はいくつか読んだことがあるというか、文春系の評論誌などを読むと必ずといってその名前が添えられている。思うに、そうしたポプリを編む編集者はほいと西部の名を挙げ、呼ばれた西部もほいほいと書いていったのだろう。そうした文章はしかし、教養の裏付けと修辞をもってそれなりの散文の体をなしているので、まさにポプリを鮮やかにする。というくらいが、私の西部の印象で、その思想と呼べるものを受け取ったことはなかった。彼の主著も知らなければ、保守と言われるわりにその主義も理解できないし、なにより、その感覚が合わない人であった。対して、私が好む著作家はまずもって自分の感覚が合う。そしてこの感覚の核は何だろうかと、西部の自死に異化されたように思うのは、あるエロスの感覚ではないか。西部の文章のなかに、エロスを感じたことはない。
 その自死でもう一つ奇妙に心に引っかかったことがあった。メディアやネットで西部の自死を深刻に思う人や、追悼する人の多いことだった。では、その思いの核にあるものはなんだろうかというと、私にはわからないというか、空疎であるように思えたのである。多くは、西部と歓談したり、酒を飲んだりという思い出で、せいぜいは保守という趣味を一にできた感興のように感じられた。
 皮肉なトーンで私が書くのは、私のような些細な迂遠な読者でも、それでは西部に少し寂しかろうというような追悼の思いがわいたからである。
 西部の思想や西部の自死を理解したいともさほど思わないし、形ばかりの追悼ということでもないが、おそらく正気で多摩川の橋梁から飛び降りたのだろうその思いを少し察したい。同じく78歳でおそらく同じ場所で投身した牧伸二とは違い、絶望感に追われただけというのでもないだろう。もちろん、西部なりの絶望感の表明ではあっただろうが。
 私はぽつんと取り残される。いや、私などこうした文脈でなんの意味もないのである。少なくとも、私が西部をどう考えるかと期待する人すらいないだろう。だが、それと私のこの感覚の向き合い方の問題は別であり、私は私の思惟がどこかしら求められているのを感じているのだからそれで十分だろう。そこで彼の『死生観』(参照)を読んでみた。
 西部が55歳で書いた作品のようだ。滑稽だが、私もその年齢で拙い本を書いた。誤解される向きもあるが、自意識を表明したくて書いたというより、そのまったく逆で自分の凡庸さを書いてみたかった。そのため、凡庸さに合わせた文体で書いたが、もし別の水準であればもう少し、インテリぶったというか、まさに自分らしい、いかがわしい偽インテリ文体を使ったかもしれない。今それに近いような文体で書いているように。そうした愚にもつかない思いで切り出したのは、西部の同書は、まるでそうした少し気取った自分が書いたような文章によく似ているように、微笑ましく思えたのである。文章というのは、つまり、思念の練り方でもある。ああ、この人は、意外と自分に似た人であったのだなという共感の感覚であり(特に死に必然的にまつわる超越への批判的な視線には共感した)、素直に西部という人が少し好きになり、その好きの対象であるからなのか、この西部君は若いなと思えた。
 それはある意味、ぞっとすることだった。60歳になった私は、55歳で死生を論じる西部邁を若造のように感じられるのである。そのことは、たぶん、これを書いた西部本人でも、その後はそうだったのではないだろうか。
 西部はこのあどけない死生論をその後20年以上も育てていたのだろう。そしてその開花があの自殺でもあったのだろう。本書には、西部のあの自殺が20年も前からきちんと書かれている。道化回しの私などどうでもよいのだが、私はそうした死生論をこの5年育ていることはなく、西部とは違う老いを辿って、死に向かっている。
 普通に書籍として読んで、どうだろうか。おもしろかった。西部も本書で述べているが、自分の死というものを見つめることができるのは、50歳を超えたあたりなので、そうした年齢に近いと思った人は、この本を紐解くと、なるほどね、西部君そう考えるかねという親近感を抱くだろう。多少、そうした親近感から違和となるかもしれないのは、戦争というものへの思いだろう。西部にしてみれば、戦後という時代がその人生に重く影を落としていたが、現在50歳の人間の知る戦後もそして戦争も、ある正しく語られた物語にすぎない。戦争や戦後が人に強いる死のリアリティはないだろう。私も生前、伯父がインパールで死んだことを父のなかに見ることでしか、そうしたリアリティにつながる道はなかった。そういうリアリティへの道はもう今の50代には少ないだろう。
 本書は、以前の私なら、ただの保守趣味の修辞にしか感受しなかっただろう、共同体への思索が興味深かった。彼はこれを「共同作業」「共同の企て(コモン・エンタプライズ)」として深めている。死というのは、唯我論的に厳密な認識論としてだけ捉えられるものではなく、ジャン=リュック・ナンシーが説くように共同体の精神を規定するものである。私の視点から雑駁に言えば、ナンシーを読むようになって、まさにナンシーが批評している轍にある西部の思惟が本書から見えてきた面もある。とはいえ、ナンシーが正しく、西部が間違っているというものでもない。いずれ生死の問題は、共同体との関わり、共同の作業の中で問われるしかない面をどう私たちが受け取るかということである。
 読み終えて、意外にいい本であり、西部邁というのは、モンテーニュのように思索それ自体の意味を知る人でもあったなという評価とともに、当初、読み始めた原点である寂しさのようなものも、もう一度見つめた。彼はこう言う。「人生でいちばんの楽しさは、腹からの笑い、明朗な笑い、つまり哄笑にあるといってよい。しかし私の五十五年の人生で、哄笑にありついたことが何度あるか、まことに覚束ない話だ」 そしてそれが叶わなければ人生は牢獄なのだから、その牢獄を出るべく「無理やりにでも生の哲学を創出すべきなのであって」とつなぐ。
 私はだから間違っていた。西部は自死を自然に老年の生のなかに設置し、共同の企てのなかで多くの人々と談笑していたのだろう。彼の死をそうした面で懐かしむ人がいたのなら、それはまさに彼の達成であろう。
 それでも彼のこの死生論とその自死から伝わる、ある痩せた生の感覚は何かと思う。それは哄笑のなかの忘我ではなかったか。彼のある精神の核は理性的でありながらも、忘我の歓喜をも抑制し続けたのではないか。彼はいつもモラルの感覚を持っていた。そこには、痩せたエロスしかない。もっとエロスがあってよかったのではないか。背徳があってもよかったのではないか。というか、そこにモラルとは異なる忘我の死の受容はありうる。自死というような形を持たないない、惨めな死でもそこで私たちは受け取ることができる。


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2018.01.29

[書評] 男が痴漢になる理由(斉藤章佳)

 書名に惹かれて読むというタイプの本がある。この『男が痴漢になる理由(斉藤章佳)』(参照)もそれである。私は男性だが、なぜ男性の一部が痴漢になるのか、正直なところまったくわからない。こう言うとしらばっくれたように受け取る向きもあるだろうが、痴漢というものにまったく共感的な了解ができない。ついでに言うと、下着泥棒というのもまったくわからない。ただ、これら二種について言うなら、どうやら下着泥棒というのは、日本に特有と言ってよいらしく、基本的に市場価値のないものを盗むというのは国際的にはなさそうだ。そして痴漢もそれに類する日本特有の現象のようでもある。つまり、痴漢も下着泥棒も日本文化的な現象かもしれない。とはいえ、本書を読んでみて、そういう部分の説明として照合するものは明示的にはなかったように思う。

 著者は「精神保健福祉士」で、本書もその経験によって書かれているので、客観的な全体的な分析とは言えない。だが、逆にそうした経験によって裏付けられた部分や、著者の直感などにはリアリティがあり、興味深く読んだ。なにより、痴漢というものへの理解は、部分的にでは深められた。
 そうした部分をいくつか上げてみる。まず、痴漢は「性欲が強いけどモテない男性」ではないというのがある。性衝動が強くて痴漢になったというのではないらしい。また、それゆえにというべきか、痴漢行為中に勃起するというのも半数程度であり、いわゆる性的な興奮を求めるとも言い難いようだ。衝動的であるが、直接的な性衝動とも違うようだ。
 では、痴漢とはどのようなタイプの男性かというと、本書は、「四大卒で会社勤めする、働きざかりの既婚男性」であるとしている。もちろん、くどいが、そうした対象が「精神保健福祉士」としての著者に接しやすいというのはあるだろう。それにしても、本書の説明を追ってみて、概ね、著者のその見立ては正しいように思われた。
 そうした部分をつなげてみる。なぜ痴漢行為が行われたかという点だが、最初に偶然的な事態があり(たまたま女性の尻に手が触れたなど)、それを意図的に繰り返したが罰せられることがないことを学習し習慣化したということのようだ。そのため、当然だが、痴漢であることが発覚しないように彼らは注意を払っているらしい。
 そもそもなぜ痴漢になったのか。このあたりの説明も興味深い。確信として指摘されているとも言えないが、著者は、痴漢は中高生時に始まると見ている。おそらく思春期の性のめざめと同期しているだろう。また、痴漢行為のきっかけは、痴漢からの証言の多くは「スイッチが入る」ということのようだ。身体的な不調の発作が痴漢行為で収まるという事例もある。性衝動とは違うにせよ、抑えがたい、中毒の禁断症状のようなものではあるようだ。
 いずれにせよ、こうした事例から私などに想像されるのは、痴漢というのは、性の意識の目覚めと同時にほぼ決定されていることだ。
 となれば、本書後半で言及されていく、いわゆる認知学習的な更生のアプローチは前提的な限界があるように私などは思える。が、著者はそのような枠組みではなく、痴漢の認識の歪みやそれを助長する日本社会に問題があるとし、あくまでそこに焦点を当てている。(もっとも更生の難しさは含まれてはいるが。)
 率直なところ、それはどうなんだろうかという感想はもった。認識的なアプローチの有効性についてである。本書に挙げられている事例からの私の印象では、痴漢はむしろサイコパスに近いようなものである。その認識の歪みなどもサイコパスが持ちがちな人間観にも近いように思える。ここでは原因と結果は逆のように思えたのである。
 必ずしも著者の意見に納得したわけではないにせよ、本書を読んで、学ぶ点はいろいろあった。なかでも、なるほどと思えたのは、痴漢のティピカルな像が「四大卒で会社勤めする、働きざかりの既婚男性」であるなら、それはつまり、普通の家庭の「お父さん」だと言ってもいいだろうということだ。そのため、痴漢という問題は、対象となる女性の被害の問題は当然だが、加えて、「夫」「父」が痴漢であることを家族がどう受け止めるかという問題にもなる。これは、「家庭」という枠組みのなかではなかなか受容しづらい課題でもあるだろう。
 さらに延長して言うなら、個人の認識の歪みや、社会通念の歪みというよりも、日本の家族というある種の強制力のなかに、痴漢や下着泥棒を生み出す構造的な誘因があるのではないか。

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2018.01.28

[映画] モアナと伝説の海

 見ようと思って見落としていた映画は何かなと候補を見ていて、『モアナと伝説の海』(参照)が気になった。これもなんとなく機会を逸して見ていなかったのだった。『アナ雪』のほうはかれこれ4、5回は見たというのに。

 『モアナ』はどうだったか。見終えて何より、ああ、これは非の打ち所がない作品だなと思った。ポリネシア世界をよく研究している。ハワイのダンスの動きやメンタリティもよく考慮されている。なにより美しい映画だった。水のきらめきや南方の植物のリアリティなど驚嘆すべき仕上がりである。主人公のモアナの肉体表現、肌の質感などもすばらしく、自然なエロスが十分に表現されていた。笑いもよい。マウイの滑稽さもよいが、ヴィランズとしてタマトアの話芸と歌は最高だった。肝心のプロットも悪くない。ひねりは効いているし、メッセージ性はある。
 が、奇妙なものだ、これだけ完成度が高い作品だとそれ自体が、微妙に欠点のようにも思えてくる。『アナ雪』のもっていた奇妙さ、ズレ、本当は何が言いたいんだろう?これ制作過程でなんか紆余曲折変わっていったんじゃないの感あるよな、といった奇妙な違和感が『モアナ』にはないように思えた。そのことは、ヒロインである「モアナ」の魅力を少し弱くしているようにも思えた。もちろん、モアナは優等生でも潔癖でもないし、ラプンツェルのようにくだくだ内省もする。ヴィジュアルのキャラクターはすばらしいが、その内面性の魅力は私にはむしろラプンツェルより弱く感じられた。こうした完成度の代償は、悪が悪として残る毎度のデズニーらしさを意図的抑えたことにもあるのかもしれないとも思えた。
 まあ、いい作品だけど、歌もよかったけど、なにがなんでももう一度見たいという強い情感は自分には残さない。もにょんというわけでもないけど、薄いかなと。
 で、一晩経った。自分だけかもしれなが、映像作品というのは、一晩寝ると感覚が変わる。夢とかで無意識がなんかやっているのだろう。で、今朝どうだったか。昨日の感覚と変わって、『モアナ』、いいんじゃね、という感じが濃くなっていた。
 プロットはひねりはあるものの、ドラマティックというほどではないし、『指輪物語』のパロディのようにも思えるし、ゆえにメッセージ性も深みもそれほどはないかなと思ったのだが、朝残る、一番のシーンは、マウイが死を意識してそれでも踊るところだった。モアナにほだされて死んでもいいかというところで、その意識の頂点でただ踊る、そういう精神というものがある。そしてその精神の純化は、「ほだされる」というアイロニカルなものではなく、モアナの愛なのであろう。
 この物語、モアナ自身が、なぜ私が海に選ばれたのかという自問があり、その答えは、それほどは明示的には打ち出されていないのではないか。しかし、一晩寝てみると、わかった。モアナは、マウイを愛することができるからだった。なぜモアナがマウイを愛せるかというと、マウイの原罪ともいえる、人間への愛に、人間が答えなくてはならない、その答えそのものの象徴だったからだろう。
 そして、マウイを愛せることが、テ・カァを愛せることであり、テ・フィティの心とはモアナ自身であるからだろう。そして、テ・フィティが蘇ることは、海の民の再生であり、マウイなるものを再びそのなかに循環させることでもあっただろう。そうしてみると、原罪は、マウイが人によって捨てられた悲しみにあるとしてもよいだろう。
 こうした原罪と愛と許しの関係は、キリスト教的でありながら、キリスト教とは違ったポリネシア的な神聖のダイナミズムだろう。意外に難しい作品かもしれないし、作品自体の難しさというより、ポリネシアの精神性それ自体の深淵でもあるだろう。
 ポリネシアに繰り出す船は、台湾を起点としていたらしい。それは一部は沖縄にたどり着き、沖縄から黒潮にのって日本列島にも来た。しかし、日本の王朝はおそらく、それとは別に、越から山東半島、済州島という経路でやってきたものではないかと思う。他方、日本人のミトコンドリアDNAに残るのはバイカル湖あたりからやってきたものだ。日本人という民族の多層性とその無意識的な精神性の多層性は、書き留められた歴史や権力の制度によって覆われている。しかし、私たち日本人の無意識の、内在的な多層性は生きている。
 その感覚は、自分にとってはモアナへの愛情や沖縄への愛情につながっている。

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2018.01.27

「ポプリ」って何? 

 何かを知って驚くというのは、知ることの楽しさの一つで、最近そういう経験をしたのは、非常に些細な話題なのだが、「ポプリ」って何?ということだった。自明だと思っていたのだ。ポプリってポプリでしょ。あの、ドライフラワーをガラスの器に入れてその芳香を楽しむというあれで、IKEAとかにも売っているから、世界中にあるんじゃないのと思っていた。もちろん、フランスにもあると思っていた。NHKの『旅するフランス語』でセーヌ川沿いのポプリ調合専門店があった。なにより、「ポプリ」って「ポトフ」じゃないけど、もとはフランス語でしょ?
 「ポトフ」は、pot-au-feuで、つまり「火にかけた鍋」、火鍋というベタな意味で、「ポプリ」の「ポ」もpot、つまり鍋。え?鍋?
 というあたりで、あれれ、「プリ」って、もしかして、pourriじゃないの。原形は、pourrir、だから、finirと同じ第2群規則動詞。pourriは過去分詞。ええっ? つまり、例えば、L'argent l'a pourri.のように使う。「金があいつをダメにした」、というわけで、「ダメになった 」とか、「腐った」という意味で、すると、pot-pourriって、「ダメ鍋」「腐れ鍋」むしろ「闇鍋」。は?
 この関心の発端は、フランス語の授業。フランスでチョコを買うというとき、箱入りもあるし、包に入ったのもあるし。という話で、パケ(paquet)の他に、「包」があって、それsac(カバン)より小さくて、sachet(サシェ)ですね、とフランス人先生の説明。
 それ聞いて、ああ、「サシェ」だよなと私は思ったのだけど、日本人が「サシェ」という言葉を聞くと、あの、ポプリのサシェだよね、匂袋というか。そこで、フランスでも、サシェってポプリのことかなと質問すると、あれま、ワンダーランド。
 フランス人の先生がそういう限定的な意味は知らないという。サシェは小さい袋だけど、特定のものではないらしい。そっから、ポプリの話になったら、どうも話が通じない。私のフランス語がつたないせいかなと、綴り書く。なんだか理解して貰えるのだが、その言葉の意味は、どうやら、バラエティ音楽というか、日本語でいうところの「メドレー」のことらしい。サーカスとかでもあるし、文学でもいろいろな文章を集めた雑文集とか、それから、いろんなもの入れる料理もあるらしい。
 うーむ、なんじゃ? それは、「闇鍋」じゃないのか。
 いずれにしても、どうやら、日本人が「ポプリ」って想像しているものと、フランス語のそれは、一般的には、かなり違うようだ。もちろん、NHKの番組でポプリ店があったけど、あるにはあるんだろう。
 授業のあとで少し調べてみた。

 辞書(Le Dico)でこの言葉を引くと、①メドレー、②ポプリとある。いちおう、日本語のポプリの意味もあるにはある。ヴィジュアル辞書を見ると、いわゆるポプリの写真にPot-pourriと書いてはある。
 Wikipediaにもフランス語の項目でいちおうPot-pourri (botanique)はあるので、フランス人でも知っている人は知っているのだろう。が、辞書でも二番目の意味だったし、あまり一般的ではなさそうだ。
 フランス語の該当項目を読んでみると、もとはスペイン料理のごった煮である"olla podrida" (olla=pot, podrida=pourri)によるらしい。そしてこの言葉は英語圏で意味が再利用されたふうに書いてある。英語圏でも寄せ集めの意味らしい。はて?
 英語の項目を読むと、別の話になっている。それによると,17世紀フランスで、花を壺につめて香りが出るように発酵させたとある。それって、つまり、まじで、「腐れ鍋」だからpot-pourriってことか?
 どうもポプリの歴史がわからない。「匂袋」というなら、古代からあったのだろうが、なんで、ポプリがpot-pourriなのかがよくわからない。ただ、なんとなくだが、日本語の「ポプリ」は英国から入ったっぽい感じがする。
 ここで、あれ? それって、pomanderじゃないの?と思う。で、それってフランス語?と思うが、発音がそれっぽいのにスペリングがそれっぽくない。フランス語なら、pommandeurか?って思って、いや、これ二語でしょと調べると、語源は、pomme d'ambreである。「琥珀のりんご」。調べると、どうもこれも瓶詰め。調べていくと、pomanderとポプリは同じものだったとしか思えない。ちなみに、pomadeはフランス語でpommadeで、軟膏の意味。どうもpommeが関係しているなと調べてみると、もとはイタリア語で、リンゴを軟膏状にすりつぶして作ったらしい。
 まあ、話はそれだけ。結論、フランスにもポプリはあるけど、一般的な意味は、音楽のメドレーらしい、ということか。


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2018.01.26

プルームテックを吸ってみた その2

 前回の続き。プルームテック互換機でニコチンなしで香り(フレーバー)のついた煙もどきを吸っていが、たまたま知ったのだが、もうプルームテックのカプセルがどこでも買えるので、アップルミントとコーヒーのフレーバーのプルームテックを吸ってみた。そこまでが前回。
 その後、2種類足した。レギュラーの「メビウス レギュラー フォー・プルームテック」とブルーベリー・フレーバーの「メビウス パープル・クーラー フォー・プルーム・テック」も吸ってみた。ミントはまだ吸っていない。
 どうだったか。基本のブラウンだが、ネットなどでは、物を燃やした臭いとか言われていたが、自分で吸ってみると、「あ、これ、たばこだよ」と思った。奇妙に懐かしいのである。もう30年くらい前になるが、パイプたばこを吸っていたときを思い出した。たばこって、クールスモーキング(パイプたばことかでできるだけ低い温度で蒸して吸うこと)にすると、葉っぱの味わいが深くなる。その味というかフレーバーを思い出した。つまり、これ、たばこ本来の味わいに近づけようとしているだなあ、ということ。なので、「ああ、これ、うまー」とか思った。
 あかん、これで立派な喫煙者じゃないか。このブラウンの味、どのくらいの人に受けるのか。現在、メビウス、つまり昔のマイルド・セブンだが、その愛好者にどれだけ好まれるか。どうなんだろう。自分自身、マイルド・セブンを吸って、うまいとも思わなかったので、そのあたりのズレはどうなんだろうか。とま、いろいろ思った。いずれにせよ、私にはこのブラウンのカプセルは、お気に入り。フレーバーの抜けは早い印象。たぶん、リピートするだろう。
 ブルーベリー味はどうか。最初、「うへぇ、これ、ガムじゃん」とか思った。「ブルーベリー味のガム噛んたほうがマシじゃねえ、これはないわー」と思ったのである。というわけで、買ったものの、これ吸わないだろう、ということにしていたのだが、コーヒー、ブラックだけど、飲んでたとき、「あ、これにあのブルーベリーのプルームテック合うんじゃね」と思いたち、試してみると、ばっちり合いましたね。コーヒー飲みながら、ブルーベリー味のプルームテックは、うまーです。ただ、そんなには吸わないでしょ、この味は
 その後のアップルミントだけど、慣れると、普通においしい。紅茶に合う感じ。最初のアンモニア感は弱くなってきたせいもある。リピートするかは、まだ微妙だけど。
 コーヒーフレーバーは、普通にうまい。ブラウンの基本を吸ってみてわかったけど、このコーヒーというかチョコっぽいのは、基本の味の延長にある。そして、これもあれだなあ、パイプたばこの味を思い出す。フランス料理とか肉料理とか食ったあと、ぷはーとすると一段とうまーな感じがある。気に入ったのでこれもリピートするかも。
 ということで、すっかりプルームテックにはまって、喫煙者になってしまった感はある。実際プルームテック吸ってから、ニコチンなしのミントやエナジードリンク味に戻ると、なんか足りない感がある、そこはニコチンかな、よくわからない。ニコチン、体に入っているという実感はない。(肺に吸い込んでないせいもあるが、口内である程度は吸収されるだろう。)
 中毒性のあるニコチンなんかわざわざ摂取することもないように思うが、人間の愚行権というか、そのくらいのおバカも許容ではあるだろう。コーヒーのカフェインや塩(日本人の塩摂取はたぶん中毒)など比べて、プルームテックでのニコチン摂取がどのくらい健康に悪いか、よくわからない。
 今のところ、禁断症状はない。比較としてだが、IQOSの一回が、6分または14パフと決められているが、それに比較してプルームテックが多くなりがちかというと、まだペースはつかめないものも、そんなでもない。プルームテックのいいところだが、吸い始めていつやめても、まったく変わらない。2パフして終わりでも問題ない。
 これも、今のところではあるが、外に持ち歩きたいということもない。もし外出して吸うとなると、現状から想像して喫煙所ということになるが、これを言うと苦笑されるだろうが、喫煙所のたばこの臭いに私は耐えられない。喫茶店の喫煙コーナーにこもってプルームテックを吸いたいとは微塵も思わない。なにより、たばこの臭いが、衣服に付くのが嫌だ。たばこの臭いのする人とエレベーターご一緒するのも、嫌だなと思うほど。なので、考えてみると、プルームテックを外で吸う場所がそもそもない。歩きたばこみたいなみっともないこともしたくない。
 JTとしては、プルームテックは通常の喫煙とは別ということで、吸ってもいいよの喫茶店を増やしたい方針だろうが、広がるものだろうか。プルームテックを吸っているところを見ると、まだそれほど普及してないせいもあるが、普通の喫煙と同じに見える。
 話が前後するが、プルームテックと、ニコチンなしの煙もどきのヴェイパーの場合と比べると、プルームテックのカプセルの構造状、吸い込み(ドロー)がきつくなり、意外と吸うコツが難しい。そして、煙もどきもヴェイパーに比べて少なくなる。
 さて。この間、それらとは別にというか、各種プルームテックのフレーバーを吸うようになっていちいちカートリッジとバッテリーを付け替えるのも面倒くさくなったので、バッテリーを2器追加購入した。複数フレーバーを楽しむならバッテリーが複数あったほうが便利。現状、純正プルームテック器を使っている人も、互換機バッテリーを増やすと便利じゃないかな。
 そしてわかったのだが、バッテリー自体よりもバッテリの通空スイッチ構造の差だと思うが、バッテリーごとに使い勝手に差がある。純正プルームテックのバッテリーだとどうかよくわからないが、意外とこうした差があるものだなと驚いた。また、これに合わせて吸口を20個追加した、こんなの要らねと思ったが、カートリッジが複数になったので、吸口も多いと便利なものだ。
 それと。そもそも煙もどきヴェイパーの機能はどうだろうかというか、リキッドで楽しむほうはどうだろうかと、リキッド用のアトマイザーも買って試した。フレーバーはすでに買っておいたFlaxのリキッドを試してみた。これ、ほぼ、無味乾燥。つまらんと思ったが、逆に無味乾燥なら、これを基軸にして、プルームテックでカプセルが余ったとき用のカードリッジの代替に使えるなと思った。このあたりの構造の説明は読んだだけではわかりづらいかとは思う。別の切り口でいうと、プルームテックやヴェイパーはいろいろ使い込みの道具の扱いに慣れる必要がある。解説本でもあるといいかも。もっとも、単純にプルームテックだけ楽しんでいるなら、簡単だが。
 今後、別フレーバーのリキッドを試してみるかというと、まだそんな気分でもない。ミントとエナジードリンク味のヴェイパー・カートリッジは十分あるし、プルームテックも気分でリピートするくらいだろう。どこでも買えるし。それにそもそも、このおもちゃに飽きてしまうかもしれないし。
 話がくどいが、プルームテックの利用者は喫煙者なのかというと、プルームテックのカプセルにニコチンが入っている以上、喫煙者というほかはない。だが、おそらく副流煙の被害とかも、タールもないし、近くで誰かが吸っててもほとんど臭いもない。これで公的に喫煙者と言えるかというとどうなんだろ。健康被害についても、いちおうニコチンの中毒性からたばこの警告を継いでいるが、医学的な根拠があるわけでもない。案外、たばこよりも健康に悪いのかもしれないが、数年先を行っている欧米でも深刻な報告もなさそう。あるいはさらに案外だが、健康に良い可能性もまったくゼロでもないかもしれない(なわけないだろと言われそうだが)。
 それはそれとして、タバコのような煙をふぱーっとやって、フレーバーを楽しむというのは、ふつうに楽しいものだなと思う。


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2018.01.25

失敗している「ナッジ」がなぜそのまま放置されているのか?

 「ナッジ」についてはあとで触れるけど、冒頭はまず簡単な話から。
 電車に乗っていると、妊婦に席を譲りましょう的な絵を見かける。対象は妊婦ばかりではないけど、ここではその妊婦を表したシンボル絵について思うのだけど、こうした図画はたいてい、お腹がぽってとしている状態を表している。つまり、妊婦=お腹が張った人、という認識によっている。ところが、席を譲ってほしい妊婦というのは、必ずしもお腹がぽってっとした妊婦ばかりではない。『嫁はフランス人 2』(参照)で著者の西さんのパートナーであるプペさんが言っていたが、お腹が目立たない時期のほうが立っていてつらいということがある。
 話を簡単にすると、妊婦に席を譲らせるということを市民に促したいなら、この図は、間違っているとまではいわないけど、失敗している。
 ちなみに、こうした、社会的に好ましい行為を強いるのではなくそれとなく促すことを「ナッジ」という、と仮にここで理解しておいてほしい。
 つまり、電車内で妊婦に席を譲るということをナッジするには、あの、お腹が張った図は失敗していると言っていい。
 ではなんで、失敗したナッジが放置されているのだろうか? これにどう対応したらよいのだろうか。
 一つには、あれは失敗していない、という意見もあるかもしれないけど、まあ間違いでしょう。普通に考えると、ナッジの効果より交通機関として配慮したような口実ができちゃうメリットがあるからではないかな。「免罪符」みたいな(歴史的な免罪符の意味ではないけど)。
 ちなみに、あのナッジが失敗していることの代替案として、Lineで伝えるという仕組みも考案されているけど、そこまでLineは公共インフラとは言い難い。また、マタニティー・マークも考案されているけど、どうやら実態はとんでもない状態になっていそうだ。マタニティー・マークというナッジも失敗していると見てよさそう。
 さて、こうした問題、どうナッジしたらよいのだろうか。
 「私は妊婦なので座りたいです」と、先の書籍にあったプペさんのように明言するとよいとはいえそうだけど、そのハードルを低くしかも円滑にするためのナッジなので、やはりナッジをどうするかという問題は残る。
 この問題は、僕には未解決。
 もう一つ、このナッジは失敗しているなあというのではないけど、いったいこのナッジはなんの意味があるんだろうかと、そもそもナッジなのか、困惑したのが、先日、政府が中長期的な指針として打ち出した『高齢社会対策大綱』見直し案で、公的年金の受給開始時期を70歳を超える選択肢も可能とする方針についての報道だ。
 NHKの報道では、70歳を超えて貰うとこれだけ貰う金額が増えますよと、他の選択と比較して図で示していたが、はて、これだけど、市民は何をどうしたらいいの? もちろん、それは各人が決めなさいということで、NHKはその決断のためにわかりやすい説明を提供しています、ということなんだろうけど、まあ、無理だよね
 こういうのこそナッジが必要になるはずなんだけど、この件についてのナッジは見かけなかった。
 自分も60歳になって年金どうするのという時期になったからよくわかるんだけど、僕なんかも一応申請すれば、この年齢で公的年金(まあ、笑うというくらいの額なんで深刻な問題でもないけど)貰おうとすれば貰える。で、もちろん、早くから貰うと、例えば80歳まで生きたとき、トータルで貰う額は少なくなるらしい。そうした図みたいのも解説資料として送付されていた。
 で、じゃあ、僕はどうしたらいいの?
 ここでもそんなの自分で決めろよといことだろうけど、これ、おそらく各種の条件下を整理すると、有利なパターンが存在するはずで、それにそったナッジが設計できるはずだと思う。
 たとえば、一つすぐに思うのは、80歳まで生きると総額が増えるとはいえ、健康寿命を終えて貰えるお金にどれだけの意味があるのかというと、たぶん、少ない。そう考えると、今のうちに楽しく散歩して一杯のコーヒーが飲めるお金を補助してもらったほうがましとかになりかねない。そのほうがよいかも。あるいは、早期に年金を支給して後期高齢者になったら年金ではない補助に切り替えられるようにするとか。
 他方、某氏のように公的年金なんて要らねえ、という人は年金を実質キャンセルするようにして、その分、「あんたは偉い」って褒めてあげる制度を作って、そこにナッジするとよいはず。
 はて、とまあ、こんなことを考えて思ったのだけど。
 これ、つまり、「あなたが選びなさい」ってやると、「うーん、私は80歳まで生きたいからその願いを込めて、支給を遅らせてもいいや、貰う分も全体で増えるし」というのを結果的にナッジしていることになっているのではないか?
 つまり、ナッジとして考えると、各種の解説報道は、結果的にだけど、政府を助けて、国民を困らせる、マイナスのナッジ、ナッジの逆になってんじゃないの?
 そして加えると、「自分たちで考えなさい」ってやると、ろくでもない人たちが、「よっしゃ、わいが考えて愚民に正解を与えてやる」とか「安倍政権の言ってることは全部嘘だ、年金制度なんかそもそも信じてはいけない」とかで、さらに、ロクでもないナッジが巷にあふれることになる、というか、すでにそんなのばっかだよな。まあ、例をあげるとぶっそうなんで控えるけど。
 こういう阿呆で間違ったナッジを抑制するためにも、妥当なナッジを政策として打ち出したほうがいい。
 もちろん、そのなかには「あなたのうちこれこれの何人は70歳まで生きられる確率は少ないです」というのを、上手にナッジ的に理解させる必要があるだろう。
 難しいか。
 そのあたりに、ナッジの限界というのがあるのだろうか。
 困ったねえ。
 さて、このナッジだが、昨年のノーベル経済学賞(銀行賞)を授与されたリチャード・セイラーが考案したもので、賞の理由としては、従来の経済学の基底にある合理人ではない想定から行動経済学を築いたということなんだが、これ、そういう学問的な文脈がニュースで話題になったけど、いちおうノーベル賞っていうのは、人類に役立つという含みがあるんで、そういう点で強調すれば行動経済学というより、不合理な人間が阿呆で社会的な損をしないようにかつ、その人の自由を侵すことないようにナッジするにはどうしたらいいかという問題提起が重要だった。すごく簡単にいうと、ノーベル賞の意味は、為政者や官僚はまともなナッジを市民に与えろ、ということだ。
 というわけで、リチャード・セイラー(共著)の『実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択』(参照)を2009年にも紹介したけど(参照)、10年くらい経った今でもあいかわらず重要な書籍なんで、こうした失敗したナッジが溢れてきた現在、できるだけ多くの人が再読するとよいと思う。少なくとも、よいナッジを政策に含める異議はよく理解できるようになる。

 

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2018.01.24

[映画] LOGAN/ローガン

 X-MENの映画は全部見ているし、ウルヴァリンのファンなので、『LOGAN/ローガン』(参照)を見ないわけにはいかないはずが、ほとんどちょっとした手違いで見る機会を逸していた。そしてDVDになったとき見るはずが、なんとなくだらっていた。というところでこれもアマゾンからの推しがあって見た。面白かった。

 もう単純に面白かったと言いたいところだし、とりわけ、もにょん感もなかった。痛快・爽快というのでもない。なんだろう。心に引っかかったことはいくつかあった。まず、ああ、ウルヴァリン死んじゃったなあ、悲しい。ということである。そして、プロフェッサー(チャールズ・エグゼビア)も死んでしまった。これもしみじみ悲しい。……このくらいはネタバレというものでもないだろうし、この映画、シンプルにできているので、さしてネタバレという要素もなさそうに思える。というわけで、話を続ける。
 ウルヴァリンの死は、いや、ほんと悲しかった。エグゼビアの死も悲しかった。どうしてこんなに悲しいのかというと、これまでX-MEN、全部見てきたからというのもあるけど、あの耄碌感が、よいのである。なんせ、X-MENを見ながら、俺も年取ったわけだよ。最初のは2000年だよ。みんな年取るよなあ。そして、年取るとそれなりに耄碌するわけで、ローガンがほんと駄洒落じゃなくて老眼鏡しているシーンとか、よいなあと思った(ちなみに自分は老眼ないが)。かつてのヒーローが老いぼれてダメになってくたばっていく。これだよなあ。
 子役のローラ(ダフネ・キーン)もよかった。まあ、この少女パターンは『レオン』『キック・アス』もそうなんだけど、そういうパターンを超えて、ダフネはぐっとくる。素でワイルドな感じがしてたまらん。当然、アメリカ映画やドラマの呪いともいえる父と娘のパターンもあるのだけど、さすがにウルヴァリンが自分の娘かあと心打たれるところは、泣く。娘を持った男は泣くよな。
 と、だらだらと書いているのだが、なにがこの映画を際立たせいるのだろうかと考えて、X-MENシーリズでこれ唯一のR指定(R15+)だからというのは大きいなと思った。「こういう作品を作りたいんだ」という制作の意図とレーティングというのは、当たり前だが、強い関係がある。
 というか、個人的には、『ゲーム・オブ・スローンズ』(GOT)を見てから、もしかするといかんのかもしれないけど、感覚が変わってしまって、なにかといろいろ見ながら、「ああ、ぬるい」「エロくない」「ゆるい」とかぶつぶつ言うようになってしまった。そういえば、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンが亡くなったが、『ゲド戦記』も、ぬるいアニメじゃなくて、GOTなみに作るとどうなんだろうと思うのだけど、ゲドだとエロはないだろうなあ。
 エロや暴力や、PC(政治的正しさ)なんか気にしない作品が見たいのかというと、なんかどっかでぶっちぎれてしまって、当然だろ、それ、見たいよ、という感じがする。このことは、他面でいうと、民放テレビのように広告で成り立つコンテンツの限界でもあるだろうし、公共放送でも同じだろう。というわけで、テレビ? はあ?要らねーという感じ。
 くどいが暴力やエロのメディアに掻き立てられている自分というのは、どうなんだろうかと思うが、実際に、この映画とか見ると、そこでしか伝わってこない何かはある。

 

 

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2018.01.23

[書評] フランス現代史 隠された記憶(宮川裕章)

 56歳過ぎて始めたフランス語だが、フランス語はラテン語とは異なり、現在でもフランスを中心に話されている言葉である。そうした生きている言語を学ぶのであれば、書籍やオーディオ教材ばかりを使っているのではなく、ちゃんとネイティブのフランス人から直接学ぶべきだろう。ということで、昨年から語学校や大学が提供している語学の講座に通ってネイティブのフランス人からで学ぶようにしている。フランス語の授業というより、全部フランス語で行われる授業なので、それなりにタフではある。

 いくつか講座を取った。基本は会話が中心だが、購読的な授業もあったほうがいいと思い、「A la page 2017」という読解中心教材を使う講座も受講した。文章のレベルは仏検準2級程度なので、それほど難しい文章ではない。内容は、現代フランスを知るための多面的な題材を扱っている。授業ではさらに関連事項の説明や補足説明、時事の関連、ディスカッション、またネイティブとしての感覚を伺うといった、教本からは学べない部分も多く学べた。結果として非常に興味深い授業で、フランス語だけではなく現代フランスを知る上でとても勉強になった。いっそう、フランスという国や文化に関心を深めた。
 そうした一面にあるのがフランスの現代史である。自分ではそれなりにフランスの歴史は知っているつもりでいたが、そうでもないなあと反省することになった。しかたがない面もある。フランスの現代史も、日本の現代史同様、時代ともに刻々と受け止め方が変わってきているからだ。特に、戦争にまつわる傷跡のようなものは、意外と1990年代以降になってようやく形を整え、フランス政府も後追い的に対応するという展開になっている。日本だと、歴史の反省はドイツやフランスのような先進国にはるかに劣るという論調が目立つが、実際そうである側面が多いには違いないが、そう単純なものでもない。フランス現代史にも、暗部という言い方は正しくないが、以下言及する本書副題に「戦争のタブーを追跡する」とあるように、一種、タブーのような部分がある。
 フランスのそうした側面について、ある程度まとまって知りたいと思って手にしたのが、この『フランス現代史 隠された記憶(宮川裕章)』(参照)である。読後の印象からすると、取り上げられた話題については、非常にバランスよく記述されているし、なにより新聞記者である筆者が足で稼いだ話題も多く、充実した書籍になっている。もちろん、「戦争のタブー」としながら、ベトナム戦争関連など取り上げられていない話題もある。
 全体は、第一部の第一次世界大戦と第二部の第二次世界大戦に分かれている。が、1960年代の話題になるアルジェリア問題についても第二次世界大戦のドゴール将軍の文脈で語られている。
 この構成についてだが、レマルクの『西部戦線異状なし』など考慮すれば意外なということでもないが、フランスにとって「大戦」というのはなにより第一次世界大戦を指すらしい。この本書の起点の認識は重要に思えた。そこが現在のフランス人にとって、現代という区分の始まりでもあるのだろう。その点、日本を対比すると、日本では第一次世界大戦の意義は弱いだろう。
 そしてフランス人にとっての第一次世界大戦という時代のシンボリックな人物が「ジャン・ジョレス」というのも、興味深い指摘というより、的確な指摘に思えた。私たち戦後の日本人は、できるだけナショナルな視点を避け、世界をつい公平な視点から見ようとしがちだが、むしろ世界的に公平な視点というのは神の目のような視点ではなく、各問題の連鎖のなかで民族がどのようにナショナルな視点を形成していくかという、ある種、ネットワークのような構造をしているはずだ。
 第二部の第二次世界大戦の話題になると、戦後世代の日本人にとっても同時代性の感覚が生じてくる。特に、戦後、連合国が生み出した日本にしてみると、枢軸国への忌避はその国家原理にも近く、これに微妙に日本人の戦争被害的な感性が核問題で交差する。フランスも枢軸国ナチス・ドイツの被害者的な感性を持つし、なかでもユダヤ人迫害については、その悪の部分をすべてナチス側だとしたくなる。本書第四章「ユダヤ人移送の十字架」も基本的に従来からのそうした感覚の文脈で書き出されていくのだが、この章の終わりで、フランスはナチスに反対し抵抗してきたという「レジスタンス」が神話であることの言及が含まれる。史実を丹念に追っていくと、第二次世界大戦時のユダヤ人迫害は、フランスがナチスに占領されて余技なくされたものではなく、フランスの歴史に内在する文脈があることが見えてくる。ただし、この点について本書の説明はあまり多くはない。
 それでも、この、第二次世界大戦時のフランスの分裂的な状況は、それが象徴するヴィシー政権とフィリップ・ペタンに関連した文脈かなり充実して書かれていて読み応えがある。
 他方、このフランスの分裂的な状況は、マージナルな部分で、特にアルザスで問題になる。本書では第六章「悲劇からの出発 オラドゥール村の葛藤」でも少し扱われているが、この不可解な虐殺の文脈が表立って、アルザスというマージナルな部分の歴史的な意義が本書ではややわかりにくい印象はあった。
 個人的な関心にもなるが、本書終章「ドゴール・フランス・アルジェリア 残った遺恨」での「アルキ」についての記述も読み応えがあり、興味深かった。ごく簡単にいえば、アルジェリアという植民地でフランス側に立った人をフランスが見捨ててきた問題である。
 アルキに似たような問題は日本も抱えていると言ってよいように思うが、それら顧みられるのは現代日本ではいわゆる「右翼」の文脈になりがちだし、現状ではおよそそうした点に触れるだけで「右翼」のレッテルを貼られがちである。
 歴史をアイロニカルに見たいわけではないが、歴史のなかにある「正義」の視点が注入されたとき、かならず零れ落ちるものがあり、そこをのぞき込むと、しばしば深い傷が秘められている。それは、日本と限らず、フランスにおいても同じであり、おそらく、どの国でも同じだろう。


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2018.01.22

[映画] この世界の片隅に

 見よう見ようとしつつ逸していた映画『この世界の片隅に』(参照)だが、アマゾンから見ろという推しがあって、見た。評判どおりの傑作だった。感動もした。が、違和感というのでもない微妙に、もにょーんという感じが残った。不満というのではない。これはなんなのだろう。受容の不協和音というものでもなく、また深い理解を促すというものでもない。ある意味で奇妙な体験でもあったので、そのあとしばらく考え込み、それからその違和感の感触を静かに無意識に沈ませて時を過ごした。そしてなんとなく浮かんできたものがあるので、書いておきたい。

 まず前提として、この映画作品が優れたものであることは微動だにしないだろうというのは理解できる。能年玲奈あらためのんの声優も最適だったし、この声なくしてすずは描けないようにも思った(正確にいうとそれ以外の解釈があってもよいだろうとも思ったが)。そしてこの優れたということの同義であるが、どのような解釈も理解もあるだろうとも当然了解できる。私の以下の理解が優れているとも正しいとも思わない。以下、スポイラー(ネタバレ)は含まざるを得ないので、読む人がいるなら、ご了承を。
 さて。
 もにょんとした感覚に最初に突き当たったのは、この映画を、戦争映画あるいは反戦映画あるいは反核映画という構図で見てもしかたないだろうということだった。それらに落とし込まれる構図で語られる言説は、私からすれば、どれほどディテールで修飾されてもAIで生成できるようなものだろう。
 では、戦争という要素を作品から意図的に外してよいのかというとそうもいかない。すると、戦争は暗喩ということになるのだが、その場合、「あの戦争(加害だのいろいろな解釈がされるあの戦争)」なのか、戦争というものなのか、そもそも一般的に戦争として暗喩される限界的な状況・非日常の生活なのかということになる。
 私はまずこれを最後の理解で考えた。あの戦争でもなく、戦争なるものの言い換えでもなく、限界状況あるいは非日常、あるいは祝祭的な状況である。そして、ここで祝祭的という言葉で触れたのは、単に限界状況や非日常という単相ではないように思えたことだ。つまり、単に、戦争という非日常に対峙するすずの日常生活ということではないだろう、と。もちろん、基本的にその対峙の構図はある。しかし戦争の非日常性を忌避的なあるいはイデオロギー的に排除する前提的かつ神学的な構図を取るのではなく、むしろ、人間本性を肯定的に明らめる祝祭的世界だと見たい。祝祭の含みには、エロス的なということがある。
 そう感覚できるのは、この映画は高度にエロス的であるということがある。この側面についてはほとんど否定したがたいだろう。しかも、それらが日常の延長にある健全なエロス性というより、戦争として暗喩される祝祭の世界がもたらしたエロスである。非常に物騒な言い方に近接するが、この物語は、戦争という祝祭世界によって、すずがエロス化するイニシエーションの構図をもち、そのエロスのなかで、生の再循環(孤児の家族化)が起きるという大きな、無意識的な枠組みを持っている。そのことはもしかすると原作者、映画製作者、あるいは大半の受容者には意識化されていないかもしれないし、であれば、こういう私の構図も忌避されやすいだろうとも了解できる。
 そうした祝祭世界のなかでこの物語のエロスの転機、いわば、秘儀の中心となるのは、周作が彼の女(sa femme)を(おお、ライナーの声で!)、水原に渡すシーンである。これはエロスの構図としては、『Oの物語』でルネがOをステファンに渡すシーンにも少し似ている、あるいはOがジャクリーヌを誘惑するシーンに。
 このシーンは映画では、最終的には、エロス的であるけれど周作のほのかな嫉妬や水原の健全な男気と純無垢なすずに還元されて微笑ましい逸話になってしまう。しかしそれだけであれば、ここで周作が鍵をかける仕掛けは不要であり、本質的に性交の交換の構図が仕組まれていることは避けられない。すると、これをエロス的ではあるが悪魔的な誘惑を避ける試練と見ることもできる。
 この秘儀シーンの暗喩は多層的であることは間違いない。私がまず思ったのは、こういう民間人の女を軍人に貸与するというのは、当時珍しい風習でもなかったか、あるいは、含みとしてだが、水原軍人であり、周作が軍務にあって兵役を免れている負い目からの権力行使も考えられるだろう。これをもっと美談的に、死に行く水原と、水原を思うすずの本心を察して、性交の機会を与えてやろうという、おえぇぇな解釈も成り立つだろう(おえぇついでいうと、すずに子を持たせたい配慮とかも言いうる)。
 ただ、それらの理解であればこのシーンは物語的な枠組みのなかでは、逸話的な外挿になる。このシーンが祝祭的な物語のクライマックス的な秘儀である意味を排除することになる。では、この秘儀を中心に据えたとき、そこでの全体の物語の構図はどのようになるか?
 基本的に、悪魔的な誘惑の構図はあるだろうが、問われているのは、エロス的であるが、そのエロスの祝祭性が、戦争的なエロスの祝祭性に吸収されることへの、大きな拒否だろう。簡単にいえば、すずや周作やそして水原の「発情」は戦争という祝祭空間によって惹起されたものであり、そこではエロスの神が三者を快楽的な犠牲にしいている。しかし、その祝祭が彼らの内在的な生をどのように支えるかというぎりぎりのとこで、死の側に傾く微妙なゆらぎへの拒否が生じる。補助線的に言えば、仮にここでエロスの祝祭(水原とすずの性交とそのあとの周作とすずの狂おしい性交)が顕現すれば、水原は、物語の力としては死に定められる。その死にすずが同意したことですずも死に定められ、そして周作もすずのエロスの本性に充足して死ぬことになる。すべてを死が支配することになる。
 何がこの死へのあやうい転機を避けさせたのか、また、周作をそこまで嫉妬というか『Oの物語』のようなエロスの交換に促したかは、映画では、あえてだろうが明示的ではない。そこが表面的にはもにょーんの核でもある。
 これについて原作では、この転機の遠因が、周作とリン、またリンとすずの関係に根をもつことが暗示される。映画では、リンが完全ではないが、構図から排除できるまでには削除されているのでわかりづらいとも言える。いずれにせよ、その転機には、リンの犠牲が先駆的に織り込まれているとしてよいだろう。
 この秘儀は水原の回心である、「すずが普通で安心した」「この世界で普通で…まともで居てくれ」という成就になる。つまり、この世界は、単純には戦争が大きく暗喩するエロス的な祝祭の世界であり、さらにそれを含む両義的な世界で、その両義性の他面である「まとも」に回帰する。
 この回帰が暫定的に三者の生を支え、さらに戦禍で死に定められた孤児を生の側の世界に受けるように、すずと周作をみちびいていく。
 しかし、ここで水原の祝祭的な死のエロスを抑えたのは、吉本隆明が『共同幻想論』で示した師弟の幻想性(ここでは兄妹ではあるが)であり、親密ながらもインセストが禁忌される家族幻想から国家幻想の幻想の力である。
 ここには循環的な両義性がある。普通でまともな世界は、『共同幻想論』的な国家からゆえに戦争の幻想を導く。そして、戦争の祝祭的な幻想は個人のエロス性を惹起して死の恐怖を超えさることで死たらしめようとする。
 おそらく私たちの生の構造というのは、避けがたくそういうものだろう。その構造のまさに秘儀的な情念をこの作品は上手に人々に掻き立てる。それは、私たちを「この両義的な世界」へと「世界の片隅」から引き出し、またその「世界の片隅」に戻す。その循環のなかで、大きな悲劇を祝祭のエロスで飲み込むように私たちは生きつつも、啓示的とも言える転機があれば、新しい命を小さい片隅の共同性のなかでつなぎ続ける。
 

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2018.01.21

プルームテック吸ってみた

 年末銀座に行ったおり、そういうえばこのあたりにプルームテックの専門店があるはずと、中国人観光客をかき分けて行ったら閉まっていた。残念。
 銀座店に専用ショップがあるのは、プルームテックがまだ都会文化だからなのだろうか。そんなには普及はしてないのだろうなと思っていたら、年明け、普通にJRの駅のホームでプルームテックのカートリッジが売っていたのを見かけた。けっこう簡単に買えるようになった。コンビニでも見かけた。
 ちょっと興味がわいてきた。カウンターの店員に「プルームテックの赤ください」とだけ言ってみた。意外とそのまま通じた。ので、買ってきて、自分のヴェイパーにつなげて吸ってみた。うーむ。まずい? 思ってたよりうまくない。アップルミントの香りはするけど、微妙にこれアンモニア臭ない? うへぇ。
 JTの技術をけっこう信じていたのに、これはないなあ。まずいな。自分に合わないというだけかもしれないのだけど、キックというのか、存外に辛いな。もうタバコやめて30年以上なので、ニコチンってこんなに辛かったけ。どうだったか。思い出そうとしてもわからない。そのために煙の出るタバコを買うのもなんだしな。まあ、これは失敗ということで、なかったことにしよう………(シーン変わる)
 話は1か月前くらいに遡る(なんだかドラマのオープニングみたいだぞ)。興味本位でヴェイパーのキットを買ったのだった。
 どれにするか迷ったのだが、「プルームテック互換」というのにしといた。その時点で、どういうふうに互換なのかよくわからなかったがまあ、とにかく互換なのだろうと思っていた。というか、そのあたりのようすも知りたくて銀座店に行ったのだった。
 互換機といっても、見たところそっくりである。鉛筆の太いような感じ。ダーマトグラフみたいな感じか。ああ、タバコを二本分つなげた感じだな。外観は、黒くて15センチほどの細めの筒というのか。吸口が一方にあって、そこをちゅーっという感じで吸う(なんかその表現はいやらしいぞ)。
 いやいや、この吸い方に微妙なコツがあるんだが、やってればそのうち慣れます(吸口を使うといい)。吸うと、すると、口にいっぱい煙のようなものが吸い込まれる。そしてプハーッと吐き出す。煙みたいに見える。つまり、タバコ吸っているようにしか見えない。
 実際は煙ではない。煙くもない。プロピレングリコール(PG)と植物性グリセリン(VG)という液体を加熱してジェット化したもの。気体化とも言われるし、ヴェイパーというから気体化ということなんだが、本当に気体なら見えないよね。蒸気化と言えばいえるけど。
 これ、よく知らないのだが、舞台で煙が出るときの小道具などにも使っているらしい。ようするに、この溶液を綿にしませたのを電熱線で加熱すると煙のようなものが出るということで、この細い筒にそういう仕掛けが入っている。正確にいうと、それが筒の半分のカートリッジ部分。この部分がプルームテックのカートリッジとしてコンビニとかでタバコのパッケージよろしく売られているのだ。正確にはカートリッジとその中に押し込む小さなフレーバーカプセル5個のセット。
 この筒のもう半分は充電器になっている。カートリッジ内の電熱線に電気を送るためだ。USB経由で充電する。かくして充電器の部分とPG/VG液入りカートリッジの部分をネジ式につなげる。
 さーてだ。そんなもの吸って面白いのかというと、面白い。いや、煙のようなものをぷはーっとやるのは意外に楽しい。おもちゃだね。
 「プルームテック互換」ヴェイパーのカートリッジの場合、この煙もどきのもとの液自体にフレーバーが付いている。液体にフレーバーが含有されているわけだ。ありがちなフレーバーは、ミント。めんそーれ、ちがう、メンソールというやつだ。けっこうメンソールだばこっぽい味はする。それともう一つのフレーバーでありがちなのが、エナジードリンク味というやつ。リポビタンDみたいなやつ(レッドブルは飲んだことない)。最初、何、これ、変なフレーバー、おっさん臭っさ、とか思っていたのだが、数パフパフしてみると、なんとなく煙のような感じがするっていうか、タバコの味のような感じがしてくる。こんな感じのタバコあっていいんじゃねみたいな。けっこう気に入った。パフパフ。
 この煙のようなもの、現状では概ね無害と見られているが、詳細に調べていくと有害となるかもしれない。まあ、それほど害もないでしょ。と、パフパフ。当初、ええいどうでもいいやあ、と肺にまで吸い込んでいたら、うっげー、気持ち悪りい。死ぬかもとまで思わないけど、これ肺に吸い込んだら体に悪いわ。難病抱えていて体に悪いって何だとか思うけど、あかん。というわけで、肺にまで吸わないようにして、パフパフしている。
 それほど外部に臭いは出ない。身近にいる鼻のいいやつが、何じゃこの甘い臭いは、と聞くので、逆に臭いする?と問い返すと、するという。タバコだ、というと、もにゃんという表情が返る。たばこには思えなかったらしいので、パフパフやって見せる。ここで微軽蔑の眼差し。いい年こいてまたおもちゃかよであろう。悪いかよ。
 さてこの先、ミントとエナジー味以外にフレーバーをつけてみるかということで、大麻フレーバーのリキッド(フレーバー液)という笑えそうなのを買ってみた。大麻は入っていない。むかし知人の家で人が大麻吸ってるのを見かけて、酢臭っさと思ったものだったが、私は吸わなかった。恥ずかしながら、薬(やく)の類はいっさいやったことない。その後、洋ドラ見るようになって、とくに『Weeds』だな、あれ見て、簡単に買える大麻なんか買うもんじゃないなと思うようにもなった。なんの話だっけ、フレーバーだな。いずれにせよ、他フレーバーもまだ試していない。やらないかもしれない。
 さて話戻して、純正プルームテックなのだが、当初、構造がイマイチわからなかったのだが、実際に使ってみて納得。これ、プルームテック互換機のカートリッジと違って、煙もどきが出るカートリッジ部分と、タバコの粉の小カプセルが分離できる。カプセルをそのカートリッジの先に押し込む。見た目は、プルームテック互換機のそれとそっくり。ああ、プルームテック互換機がプルームテックに似せてあるわけだけが。
 ようするに、純正プルームテックの場合、無味無臭の煙もどきをタバコの粉カプセルを通すことで、フレーバーが付くし、めでたくニコチンも吸収できるという仕組みらしい。
 うーん、こんなものを販売するくらいなら、ニコチン液吸入器というか、あるいはニコチン入りフレーバーの煙液でも売ればいいのにと思うが、実際、米国では売っているようだ。いずれにせよプルームテックがこういう仕組みなのはわかったのだが、このカプセルに別のフレーバー詰めてもいいんじゃないかとは思った。いずれやるかも。
 それしても、プルームテックって、どうしてこういう構造にしたかなあ。と考えてみると、この面倒くさいプルームテックの仕組みは、①タバコのパッケージっぽくカートリッジセットを売りたい(儲けたい)、②ニコチン液だと薬機法がめんどくさ、ということの妥協ではないだろうか。
 まあ、自分にしてみると、試してみて、まずかったので、これでニコチンを吸うという生活にはならなさそう。
 ということだったが、その後、未開封カプセルのまま捨てちゃうのもなんだから、充電し直したついでに吸ってみるかと、吸ってみた。あれ? 悪くないんじゃない。最初ほどアンモニア臭みたいのはない。ピリ辛キック感もこのくらいあってもいいかも。フレーバーもまあ、楽しい。あれ、俺、喫煙者? カートリッジは50回パフするとフレーバー抜けになる。吸うたびに弱くなるから、最初のパフがきつかったのかもしれない。他のフレーバーはどうかなと、コーヒ・フレーバーのも買ってみた。これもキック感が強いが、フレーバーはけっこう好み。というか、おいしい。
 そして意外にも、ニコチンなしのカートリッジに戻して、パフパフしたら(ちなみに純正プルームテックほうが煙もどきは少ない)、あれまあ、刺激感が足りません。プルームテックくらいキック感あったほうがええのか? あちゃ、これじゃ喫煙者じゃありませんか。どうなる、俺。(シーズン2に続くか)
 いずれにせよ、ニコチン自体には害はない。プルームテックも通常のヴェイパーもタールはない。フレーバーが有毒なものである可能性あるが、まあ、日本で認可されている分にはなさそう。あとは、熱したPGが有害かというくらいかな。
 外部に漏れる臭いは、まったくないわけではないが、ほとんどないというくらい。社会的に問題になるわけはないのだが、パフパフしている状態はどう見ても喫煙。なので社会的には、無根拠に規制するしかないでしょう。マナーとかなんとかで。
 ヴェイパーについて米国の状況を見ると、もっと過激なヴェイパーがすでに盛んだ。カフェインとか吸っている人もいる。そういえば、ドラマで大麻を機械のようなものも見たがあれはなんだろうか。いろんなものがありそう。
 こうしたろくでもないものが、今年から日本でも流行るんでしょうね。未成年への法的な規制も難しいだろうし、どうなるのかな。パフパフ。

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2018.01.20

[書評] ユーミンとフランスの秘密の関係(松任谷由実)

 時の経つのは速いなと思うのは悲しいかな老化の一種。しかたないけど、ユーミンがアルバム『宇宙図書館』(参照)を出したのは年号だけ見ると2016年。一年半は経っていないのだけど。そして、書籍『ユーミンとフランスの秘密の関係(松任谷由実)』(参照)が出たのが2017年2月。ということで1年位前の本。元は『フィガロジャポン』の連載をまとめたもので、最初の連載は2015年。今頃、読む。

 書籍の形をしているけど、実際にユーミン(松任谷由実)が書いた原稿は三分の一くらいだろうか。それもたぶん口述の編集ではないかな。最初に簡単な紹介的な記事があって、そこから三分の二くらいはインタビュー。ユーミンとフランスになんとなく焦点を合わせた、おフランスっぽい対談。つまらないわけではないけど、うまく仕上げてしまったため、ありがちな雑誌記事という感じ。そのあとはユーミンのフランスのアートを巡る旅で、なぜかその半分はフランスではなく、金沢。ここもユーミンらしい感性で書かれていて楽しいには楽しい。
 まあ、こういう感じかな。と私は思う。昨日がユーミンの誕生日なので彼女は64歳になった。フランス語的には64年を持った。私のほうは今年の夏61歳。こうなるともう同世代のように見えるかもしれないけど、思春期のころの三年半の年差はすごく大きかった。ユーミンはすっごい年上のお姉さんに思えたものだった。
 そして本書でユーミン自身が触れているけれど、彼女はおませっ子さんなので三年くらい年上のカルチャーに憧れていた。あの時代、1970年代前半ころである。彼女の歌に、72年10月9日、というのがあるが、ほんと今でもあの日を思い出せる。
 そのおませっ子ユーミンが中学生から高校生のころ憧れていた文化が、基本はアメリカなのだけど、あの当時のアメリカ経由のおフランス文化。あれです、『X-MEN: フューチャー&パスト』で笑える仕上がりになっているけど、アメリカがおフランスに憧れた時代だ。ユーミンとか私とかもアメリカ経由でおフランス文化に憧れて、そのままなんとか若者文化になった時代だった。もうちょっと言うと、ベ平連とか全学連とか、だっせーわきたねーわの若者文化がいやだなという感じでもあった。ただ正確に言うと、『二十歳の原点』とかでも伺えるけど、その二者に交わる部分はある。そしてこれがもうちょっと大衆化してくると、布施明の『カルチェラタンの雪』みたいになる。話がずれまくるけど、あの布施明の、今から見ると、うへぇだっせーみたいのは意外にもおフランス的で、ミシェル・サルドゥとかあんな感じなのな。
 話をちょっとまとめると、70年代から80年代の、アメリカや日本を覆っていたおフランスなカルチャーへのノスタルジーに、年食ったユーミンとか私とか向き合うわけで、この本とかのフランス文化というのは、そういう部分がこってこってに出ている。ちょっと意地悪に言うみたいだけど、これ、幻想のフランス文化で、現実のフランス文化ってこういうもんじゃないとは思う。
 このあたりの自覚はユーミンにはきっちりあって、この本でも語られている。その上で、なかでも彼女が影響を受けたというか、そんな4人のフランス女性があって、イザベル・ユペール、フランスワーズ・サガン、エディット・ピアフ、ココ・シャネル。まあ、推して知るべしな感じはある。あと、後半の絵画を巡る旅では印象派が中心。
 ふと思ったが、こうしたファッションや大衆文化のなかでのおフランス的なものは、70年代のサルトルやカミュの実存主義(これにはマルクス主義の行き詰まりとフランス帝国主義の行き詰まりの反動もある)と並走していて、これが80年代になってニューアカの、おフランス現代哲学になってきた。遅れたおフランス志向ではあるのだろう。少し時代を前に戻すと、森有正とか辻邦生なんかもそうしたおフランス趣味からそう逸脱するものでもないだろう。
 自分に寄せてみると、この齢こいて僕なんかもフランス語を学びに行くと、少なからず、このユーミンとかその上くらいのおば様を見かける。若い頃おフランス文化に憧れたり、実際フランスで暮らしたりして、今でもフランス文化を日常生活で維持していて、フランス語を学びつ続けるのも楽しいという感じのおば様たちである。
 それもいいんじゃないかと自分も思うようになった。この本もそういう傾向とはあっているだろうけど、読者対象はいわゆるユーミン世代、つまり、0年代にユーミンソングを聞いていたファンあたりかもしれない。そうした世代が「おフランス」を再発見するには意外といい本になっている。
 とま、「おフランス」という言葉を連発してしまったが、こうしたフランス像はまさにパリ中心の「おフランス」としか言いようがないなという思いを込めてだ。実際のフランスはそれとはけっこう違うとも言えるのだけど、さらに総合した感じで言うなら、「おフランス」もフランス文化のうちでいいんだろうし、日本人のフランス好きがそこに特化していてもそれはそれで、かまわないように思う。
 どの国の文化も少し踏み込むとちょっと変わった面白さが見つかるものだが、米国や中国の多様性、韓国やアジアの擬古性(戦後創作された伝統文化的なもの)、そうしたものとフランスは微妙に違う。どこかにある中心性が、その言語の統制も含めて微妙に意識されている。それはナショナリズムとも言えるだろうけど、市民革命を経て市民国家を築き上げるときにはそうした中心性は重要になる。市民社会にナショナリズムは欠かせないのかもしれない。逆にそこで脱骨したような日本だがフランスと似ている面もある。日本の場合、市民社会はナショナリズムに対立しているようでいながら、リベラル派の反米感情などはナショナリズムでしかない。ただ、日本だとそのナショナリズムが市民社会を形成するものとしての統合性を促す力はない。そもそも日本には基本的に社会契約の観念がないから、日本国憲法は不磨の大典になってしまったのだろう。


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2018.01.19

引退を幸せな第二の人生の始まりに

 小室哲哉さんが引退するという話題をツイッターで見かけて、いくつか複数のニュース・ソースで確認した。「不倫騒動のけじめ」と題したものもあり、また引退の契機がいわゆる「文春砲」ということもわかった。で、まあ、なんというのか、もにょんとした感情に襲われた。
 ツイッターでの関連話題を追っていくと、私のタイムラインでは概ね、人の不倫を暴いて追い込むのなんかもうやめろよ、という意見が多い。私もどちらかというと、そういう思いがする。関連して、コラムニストの小田嶋隆氏は「文春砲」について、「仕置人気取りなわけか?」とまず述べ、「不倫をしている人間より、他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています」とツイートしていた。それもそうだろうとは思うが、彼は該当の記事を読んでからそう述べたのか、「文春砲」なるツイートに反射的にそう思ったのかはわからない。
 私は週刊文春のデジタル版を購読しているので該当記事を読んでみた。読んだ印象をいうと、どうもこのネタは文春が独自に発掘したというより、すでに関係者で知られていたように思えた。もっとも、ぐうの根も出ないように現場を抑えたのはまいどながら文春ではあるだろうし、そこは、そこまでするかなあ感はある。で、その時点での小室さんの話が記事に引用されているのだが、そこで彼自身「引き時」を強調しれているし、そのことは「文春砲」も注目していた。小室さんも文春も、小室さんの引退が突然というものでもない含みがそこにはあった。
 文春を擁護するつもりはさらさらないが、文春がやらなくてもどこかのメディアがやったか、あるいは文春がいつかやるなあと関係者が思っていたか。小室さん自身もそんなわけである程度覚悟していたような印象はもった。
 さて、私自身のこの件についての感想だが、経緯はなんであれ、引退してよかったとは言えないにせよ、小室さんはこれからの第二の人生を心機一転進めるきっかけになればいいのではないかとは思った。そう思う理由の一つが、彼と私がほとんど同じ世代(彼が一歳下)で、60歳という年齢を迎えようとしているからで、世代的な共感があるからだ。高齢化が進む現在、人はできるだけ早い時期に引退したほうがいいと私は思う。
 私がそう思うようになったのは、ドラッカーの影響である。ドラッカーは先進国では現在、組織より人間の寿命が長くなったという前提認識を示した。長寿企業というのもあるにせよ、概ね企業には人間のように寿命がある。そしてその寿命が人間より長いとなるとどうなるか。端的にいえば、老害になる。組織を自身のために使うようになる。あるいは、高齢時まで企業は存在していない、ということになる。ドラッカーはなにより、一つの仕事をするのに飽きてくるだろうとも述べていた。
 ドラッカーはさらに、60歳で突然引退するのでは遅すぎるともしていた。40歳くらいに、第二の人生の基礎を作るべきだというのである。ここで説教臭いことを自分が言うのもなんだが、このブログを始めたころ私はまだ45歳だったが、あっという間の15年間である。40歳から先は速い速い。
 ここまではドラッカーの考えは彼らしい楽観論的なポジティブな示唆に富むのだが、その先にはずばりと冷酷な真実を告げている。「知的労働者にとって、第二の人生をもつことが重要であることには、もう一つ理由がある。誰でも、仕事や人生で挫折することがあるからである。」と。人はみな老いて挫折するのである。
 世の中にあふれる啓発書の類は、成功が基本になっている。そもそも出版される本というのが文学(あるいは私が書いた本)でもなければ、成功に飾られているものだ。しかし、実際の人生成功する人がごくまれなのである。パーセントはわからないが、9割がたは失敗するか、ぼちぼちでんなというあたりを自分なりの成功に換算しなおすかくらいではないだろうか。
 ドラッカーはそうした失敗の人生を補うものとして、社会貢献可能な第二の人生を描くが、私は社会的な価値や承認より、もっと自分を大切にした第二の人生を構想してもいいように思う。特に、子離れの時期からは。
 第二の人生がどうあるべきかについて、それ以上は自分はわからないが、難病とかが背を押してくれたこともあって、私についてはそうした人生を歩み出すしかなかった。
 しかし、第二の人生では、なにより、第一の人生とは大きく価値観を変えてよいのだと思う。


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2018.01.18

[書評] キリスト教は役に立つか(来住英俊)

 教会に通うこと絶えて久しいという年月を重ねていたが、昨年は何度か教会に通った。自分が通い慣れた教会以外へも行った。なかでもカトリックのカテドラル関口教会と聖イグナチオ教会が印象深い。正直に言えば、キリスト教的な関心よりも、パイプオルガンの音に魅せられたためである。が、結果としてごミサに参加したのも深く心に残った。

 若いころ聖書やキリスト教を学んで、それなりにキリスト教には詳しいつもりでいたし、そのころは教会にも通い讃美歌などもいくつか自然に覚えたものだが、振り返ってみるとその讃美歌からして日本基督教団的であり、関連する神学も基本的にプロテスタント神学だった。海外でも教会を見て回ったりしたが、多くは正教の教会で、カトリックの教会も見学したりごミサを傍観したりもしたが、実際に参加すると随分と印象が違った。まず私はカトリックの信者ではないので、聖体を受けることはできない。でも、祝福を受けることはできますよと、教会で案内を受けた。とはいえ気恥ずかしく木に登って遠く見るように見ていた。するとそのおり、さりげなく近くに座っていたかたら、ご祝福を受けてはどうですかと誘われ、知らずその気になった。漁りの網を持つ手を放したかのようだった。カトリックの信仰の情感と静かではあるが力に触れた思いがした。
 私は少年期から遠藤周作文学の愛読者でもあり、そこから覗き見るような形でしかないが、カトリックの信仰にはある種の共感を持っていた。しかし文学という緊張の場を経た信仰の情感と実際のカトリックの信仰者の日常の情感は異なるものだろう。そしてそれは自分には、なんというのか縁のないものであり続けるだろうと思っていた。が、ふと遭遇した祝福の力の体験はそこに少し近づいたようにも思えた。そうした思いが本書『キリスト教は役に立つか(来住英俊)』(参照)を読みながらなんども去来した。
 この書名はなかなかチャレンジングであるようにも受け取れる。基本的に来世信仰を原理とするキリスト教の信仰に現世の利益を連想させるような、お役立ちはありえないだろう。あるとすれば、この人生という仮の旅路の苦しみを少しでも和らげてくれる慰めでしかないだろう、とそういう思いにアイロニカルではあるが鈍い毒のような感覚が伴う。だが、それでよいのではないだろうか。私たちの人生にどうしてもまとわりつく苦しみ、つらさ、絶望感、孤独感、そうしたものを和らげてくれるなにかがあってもよいのではないか。祈りすがってよいのではないだろうか。自分なりに受け止めたにすぎないのだが、まさにそういう部分に本書はきちんと触れていた。
 著者は現在では司祭様であるが、信仰の道に入られたのは30歳であったという。灘高から東大という学歴を見ると普通とも言い難いが、それでも大卒後就職し企業人となって過ごしていたのは普通の日本人の生き方だろう。その彼が、生きたキリスト教を見たのが28歳のイタリア旅行。それからキリスト教への関心もあって教会には通うものの転機は30歳の初冬、駿河台下の交差点だったという。ふと「自分の底が抜けるような淋しさに貫かれた」という。「あなたが何よりも誰よりも大事だよ」と言ってくれる人はこの世には一人もいないのだと思ったという。
 それは転機であったが、神秘的な啓示ようなものでもなく、強烈な回心の体験でもなかったという。私は、ああ、それわかるなと思う。そういうさみしさの受け止め方なら自分も受け止められる。あえて別の言い方をすれば、キリスト教者とそうではない人をあたかも隔ているような「信仰」の壁のようなものはない。ただ、今のさみしさやつらさの思いがそのまま慰めの信仰につながるような自然さがある。それがこの本をとても大切なものにしている。
 キリスト教入門やキリスト教の知識や信仰を教えてくれる書籍は多数あるけれど、読者の現在の正直なあり方にそのまま信仰のドアを開けてくれるような書籍は少ないのではないだろうか。そうしてみると、失礼な言い方になるかもしれないが、司祭様は、本書のなかであちこちとそうした小さなドアを開けてくれている。多くの人の普通の人生のさまざまな場面にそのドアがつながるように。
 そうしたさりげない平穏な書籍でありながら、ふと刮目するような言葉にも出会う。ここだけ引用ふうに述べると逆に誤解を招くのではないかと思うので、簡単に示唆するにとどめたいが、「神は全能者・全権者である」の理解には少し驚いた。逆におごった言い方になるのを恐れるけれど、私もそう考えていたからだ。でも、そう考えることにあるためらいも持っていた。私はその理解の手前で止まっているけれど司祭様はその向こうに立たれているのだとわかった。
 自分と司祭様は違うなと思う。あえてだが、こんなことここで言う意味もないのかもしれないけど、自分との信仰的な受け止め方の違いも触れておきたい。
 本書は、イエス・キリストを、自分と人との関係のなかで、信仰の深みの変化のなかでとらえている。他者と関わりでただ孤独しかなかった自分が、イエスによって他者とつながっていく信仰の形である。教会(ἐκκλησία)の本義というものはそういうものだし、私が慣れ親しんだ森有正の著作にも唯一の二人称としてのキリストが説かれていた。
 私はそれに意を唱えるものではない。ただ私は少し違うことを感じている。私がイエスに見たものは、私の死でありそこにイエスの復活を重ねたとき、自分のなかにイエスが生き返る感覚である。私は死んだのに私のなかでイエスが生きているという感覚である。私はパウロの教説のパロディを言いたいのでも、正しいキリスト教を説きたいわけでもない。ただ、ある時からその奇妙な感覚がずっとあるというだけだ。そして他者も同じく潜在的な死者でありイエスに復活する者だと理解する。こうした感覚はそれほど病理的なものでないだろうが、奇妙ではあるだろう。たぶん信仰でもないだろう。
 余談の余談。本書の帯の表に大澤真幸氏の「神を信じない人にこそ役立つ本」、森本あんり氏の「神は最強のカウンセラーである」とある。帯の裏にはその元の発言がある。ほんのちょっとだけだが困惑した。大澤氏については、よからぬ話を聞いたのがいけないのだろう、偏見からそれはどうなんだろうと否定的に思ったのだった。森本氏については、大学でキリスト者学生として過ごした先輩であるので懐かしく思った。


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2018.01.17

[書評] オリバー・ストーン オン プーチン (オリバー・ストーン)

 現代の世界を考える上でもっとも重要なことは何か、という問いかけには複数の答えが存在するのだろう。地政学、エネルギーシフト、新しい孤立主義、あるいは技術においては、人工知能技術、ビットコインを転機とするブロックチェーン技術など。しかし、こう問いかけると答えは単純になる。現代の世界を考える上でもっとも重要な人物は誰か?

 端的に、プーチンである。他に誰がいるというのだろう。トランプ? ご冗談でしょう。金正恩? 重要人物じゃなくて危険物でしょ、あれは。習近平? それは幻影。彼の意思が世界にどういう影響を持っているか明確に言える人がいるのかすらわからない。その点、僕らのウラジミール・プーチンは、すでに10年以上にもわたって、確実に現代世界のキーマンであり続けたし、まだまだ今後もあり続ける。となれば、私たちは彼を知らなくてはいけないし、彼を知るという点でもっとも簡単な手法は、どっしりと手間をかけた彼への、組織的なインタビューであり、つまりそれが本書『オリバー・ストーン オン プーチン (オリバー・ストーン)』(参照)なのだ。と言えば、まあ納得するしかない。しかも、インタビュアーはあのオリバー・ストーンである。書名に最初にストーンが出て来るのもしかがたないくらいなので、そこの説明も不要だろう。
 実際に読んでみるとどうか。それなりに国際政治に関心を持つ人がプーチンに問いかけたいことは全部書いてある。そして、国際政治についてある程度突っ込んで関心を持つ人にしてみると、プーチンならこう答えるだろうなということも、全部書いてある。びっくりする話題は、特にはないと言ってもいいかもしれない。本書帯に「ウラジミール・プーチンかく語りき!」としていくつか本書の目玉項目が箇条書きされているが、率直に言って、そうだよねと頷きはするが驚きはないだろう。トルコの一部がイスラム国を支援していたことに驚くこともないだろう。ゆえに本書が米国で出版されたおり、識者は本書を酷評したようだが、それもむべなるかな。と、いうことは、もしかしてこれって、退屈なインタビューなのではないだろうかと思うかもしれない。その逆なのである。
 本書で何が重要なのか。一貫性だと私は思う。プーチンという卓越した現役の政治家であり非西欧的な、それでいて抜群の知識人が、世界をこう見てきた、こう見ている、そして実力ある政治家として未来をこう考えるということが、首尾一貫して語られているのである。意外と知識人というのは、そうはいかない。特に日本のリベラル派が典型的だが、反米といった公理を一貫して使うかに見えて、党派・政局に依存しているため、意見や態度がダブルスタンダードになってしまう。プーチンにはそうした矛盾がない。逆に悪玉にも仕立てやすい。
 そのためプーチンの視点からは、特に米国の政治についてだが、大統領や議員が表面的に民主主義的な言動を装っていても官僚機構に結びついた排外主義であることが際立つ。
 そして、本書でプーチンが語ることは、そのままにして現代史でもあるし、読んでいて、私たち日本人にじわじわくるだろうことは、まさに私たち現代日本人が米国に抱いているアンビバレンツな情感と思想の交点について彼がきちんと述べていることに他ならない。特に、軍事面でである。あえて悪い言い方をすれば、このプーチンの語りのなかの「ロシア」を「日本」に置き換えるだけで、それっぽい反米トーンのリベラル派の主張のようなものができてしまう(もちろん、具体的にロシアが関連した地政学などは単純置換はできないが)。
 つまり、どういうことなのか。非米国的で非EU的な、もっともまともな世界観を民族国家の視点で構築するなら、プーチンになっちゃうのである。そして、私たち日本人がそういう明確なプーチンに向き合うと、逆に、私たちが米国的な部分とプーチン的な部分のアンビバレンツな状態であることが暴露され、結果まともな日露外交も難しくなる。
 本書には、メディアを考える上でも非常に興味深いことがある。そもそもオリバー・ストーンのこのインタビューは、"Putin Interviews"としてナショナル・ジオグラフィックで1時間4回シリーズとなる番組の素材として作られたものだ。その完成品である同番組は、現在日本のナショナル・ジオグラフィックで放映されている他、Huluの同チャネルでも放映されている。同じ番組は、NHK BSでも3月に放送されるらしい。
 番組と本書との違いはどうか? ボリュームから普通に考えると、本書のインタビューが基本にあって、それをわかりやすく削って番組ができたように想像されるだろうし、私もそう思っていた。これが、なんというのだろう、印象としてはまるで違うのである。
 もちろん、話題の対応はあるし、プーチンの言葉そのものの対応もあるのだが、なにより語られるシーンのシークエンスからしてさほど同一性が感じられない。番組のほうで掘り下げられている部分すらある。同じ素材からどうしてこういう異なる2つのものが出来てきたのか、考え込まされる。書籍のほうが、一見、インタビュー状況のシーンを織り込んでいるため、映像が想像されるが、実際の映像とは違和感がある。また映像のほうは解説画面として他の映像を多数コラージュのように差し込むので、CMかプロパガンダのような印象も出て来る。それでいて、映像作品ではメイキング映像もメタ的に織り込まれてもいる。
 はっきりと言えることは、プーチンの考えが知りたいなら本書を読むしかないということだ。予想通りのお答えとはいえ、これだけまとまった書籍はない。読みやすい。他方、プーチンという人はどういう人なのか、合わせてオリバー・ストーンとはどういう人か、というのを知るには映像がわかりやすい。そのわかりやすさは、それ自体に奇妙な違和感を伴う。余談だが、あれれ、ストーンさんの奥さんは日本人かなと思って調べたら、韓国人らしい。

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2018.01.16

[書評] またの名をグレイス(マーガレット・アトウッド)

 原作のある映画化作品はほとんど場合、原作が優れている。これは映画が長くても3時間で終わるという尺の限界を持つ形式上、仕方がないとはいえるし、その補いとして映画的手法によって映像作品ならでは魅力を出すこともできる。役者の素晴らしさというのも映画にはある。それでも映画化作品が原作を超えることは難しい。そしてこうした、ある一方通行的な限界を踏まえた上で逆に、映像作品で作り込めなかった部分のノベライゼーションというものもある。しかしそういう、超えることができないかに見える制約が、ストリーミングのドラマで打開されたと思える映像ドラマ作品がしだいに増えてきた。なぜか。
 まず、ドラマなので尺の制限はない。特にNetflixがそうだが、映画4、5本分くらいの尺で一気に見せる大作も可能になっている。またドラマとはいえ一般的なテレビ・ドラマとは違い、スポンサーや直接的な視聴率を気にしなくてもいい。興行としての映画ような製作段階での気兼ねも要らない。
 そうした、あるメディアの一線を超えたと思える作品がまた一つ、まさにNetflixでドラマ化された。『またの名をグレイス』である(カナダではテレビ放映もされた)。これが圧倒的に優れた映像作品なので、最初に映像から見た私などは、逆に、いったいこの原作はどうなっているのだろうかとかなり気になり、原作も読んでみた。映像でしかできない表現部分や、微妙な解釈に関わる部分が文字による原作だとどうなっているか、とても気になっていた。

 どうだったか。原作『またの名をグレイス(マーガレット・アトウッド)』(参照「上巻」参照「下巻」)はもちろん、すぐれた文学作品だった。文学ならでは文体的多様性あるいは視点の多様性などポストモダンとも近い手法も駆使されている。これはこれで完結して傑作であることは間違いない。なによりスリリングで面白い。それなのにこの原作がドラマ化作品に圧倒的にまさっているというわけでもなかった。この関係が、考えようにもよるが、とても難しく思えた。
 ドラマが秀逸すぎるのである。監督サラ・ポーリーがこの作品にかけた情熱も尋常ではない。はっきり言ってなにからなにまですごい。それは原作を異化するすごさではなく、原作のもっている本来のパワーを全開したようなすごさである。その意味で、映像作品とこの原作がその受容においてうまく分離できない。しかもその不分離が自然であるようにすら思えてくる。ただし一言加えれば、この映像作品は万人向けではないし、おそらくある種の人々からは理解不可能かもしれない。
 その物語だが、史実の事件を題材にしている。簡単に紹介しよう。題材となるのは、カナダで1843年に起きた殺人事件である。メイドである16歳の美少女グレイスが下男と組んで、主人とその愛人を殺害したとされる。しかし彼女は直接自らの手を汚してはいない。彼女はこの殺人事件にどのように関わっていたのかが、よくわからない。冤罪なのかもしれない。当時もそのことを決することが難しく、グレイスは結果的には30年近くも服役することになる。ただし、その間も彼女には凶暴性はないとして牢獄に込められたわけではなく、かなりの自由は認めらていた。
 物語の端緒は、刑期中、彼女を冤罪として釈放を求める団体が精神科医サイモン・ジョーダンに依頼して、グレイスの精神状態や事件の真相を探ろうとすることである。このため物語の形式は、サイモンがグレイスと対話するという形になり、グレイスの語りのなかにグレイスの過去や、当時のカナダの状況(実はこの史実がかなり面白い)が入れ子的に描きこまれる。このため、グレイスの語りは真実そうに見えても真実とは限らない。かくして物語は、なにが真相かを探る推理小説のようにも受け止められるし、サイモンはそこであたかもグレイスの脇役のようにすら見える。
 少しスポイラー(ネタバレ)が入るが、この物語の枠組み自体がまさに純文学ならではの文学的なたくらみと言ってよい。女性差別や女性への暴力の悲惨にあるグレイスだが、この物語ではその深層心理的な構造とそれがもたらす身近な人間の権力のゲームが抜群に面白く、単純な勧善懲悪の構図には収まらない。こうした内実はかなり複雑でかつ衝撃的なので、ブログにさらっと書くと単純な誤解を招くので控えたい。ネタバレにもなるし。
 とはいえ、表面的に見える問題としては、グレイスの殺人が、現代でいうところの人格分離で行われたのかということがある。ドラマ化作品では全体として、いわゆる精神病理的な人格分離はなかったかのようにも受け取れるが、原作のほうでは、決定的ではないにせよ、病理性のほのめかしはある。しかし明示的ではない。
 物語の核は、先にも触れたように一見、グレイスという謎の女性に焦点が当てられているかのようだが、ここで読者の多くは気づくことなく、対話者のサイモンに共感してサイモンの心性に巻き込まれていく。このサイモンを通して読者を誘惑することこそが、おそらくこの作品の眼目である。
 この様子は逆にドラマのほうでは巧みな映像の畳み掛けで暗示されるが、原作のほうでは、例えば、次のような奇妙な描写となって現れる。ここでグレイスは死刑判決を受けたことと、その死刑判決が見せしめだと語った後、サイモンの心理はこう動くように、著者に語られる。

 でもその後、見せしめが何の役に立つのだ? とサイモンは思う。グレイスの話は終わった。話の本筋は、つまり彼女らしさを語った部分は。彼女は残りの時間をどう埋めるつもりなのだろうか? 「不当な扱いを受けてきたとは思わないのかい?」彼は訊ねた。
 「おっしゃる意味がわかりません、先生」彼女は今針に糸を通していた。通しやすくするために、口の中で糸の端をぬらした。サイモンには突然のこの動作が全く自然で、耐えられないほど親密なものに思えた。まるで壁の割れ目から彼女が着物を脱ぐのを見つめているように思えた。猫のように、まるで彼女が自分の舌で身を洗っているようだ。

 原作ではあたかもナレーターである著者が、作中人物のサイモンの心理を第三者的に描写しているようでありながら、実際には、サイモンの心理のなかにグレイスの無意識の誘惑やあるいは、そもそもの、この書かれた物語というものの誘惑の構図(ここで「壁の割れ目」は表面的なグレイスの言動)を示そうとしている。
 物語では、最終的にはサイモンに悲劇のような事態を引き起こされる。これを読者は、あたかも、フローベルの言う「ボヴァリー夫人は私だ」の逆転のように、「サイモンは私だ」と受け止めざるをえなくなる。かくして私たちは、グレイスという女性との関係に主体的に問われるようになる。しかもそのグレイスは、ただ、女性として虐げられて来たグレイスとは異なる、もう一人のグレイスである。
 

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2018.01.15

[書評] 米中もし戦わば(ピーター・ナヴァロ)

 ブログに物騒な国際情勢について書かなくなって久しい。いろいろ思うことはあるが、ためらってしまうことも多い。一つ例を上げると、暴動にも見える年明けのイラン大規模デモがある。イランで反政府的な機運が醸成されていることは識者の共通認識だが(後述のユーラシア・グループのレポートでも同じ)、関連の国際情報を当たってみると、この時期にこのような形で勃発するということは、意外にも識者にも想定外であったと言ってよさそうだ。もちろん、起きてしまってから、あるいは収まってしまったかに見える状態ではいろいろな説明が可能だが、この予測不能という状態の本質とそれ自体の重要性がよくわからない。この部分に補助線を引くと、多数の死者を出した先日のナイジェリア、ベヌエの衝突が今後何を引き起こすかもよくわからない。
 こうした基本的なところで不明瞭な事態と、一見説明可能かに見える世界構図と、逆に事後であればいろいろ付く説明との乖離に、ある一定の構造のようなものが感じられる。そうした例で顕著なのは、1月11日の中国海軍の威嚇である。
 同日午前、中国海軍の潜没潜水艦と同海軍フリゲート艦が尖閣諸島周辺の日本の接続水域に入り、同日午後に離れた。同種の出来事は過去もあるが、今回は中国国旗が明瞭に示され、また中国からもこの海域が中国領域であるというアナウンスが出された。すでに日本政府が中国政府に厳重に抗議したように、偶発的な事件を引き起こしかねない挑発行動である。日中平和友好条約締結40周年という節目でもあるのに関わらず、なぜ中国はこのような非平和的な行為をエスカレートさせるのか?
 実は、この疑問の構造自体がすでに問題なのである。批判の意図はないが、つい生じるこうした問いに「答えよう」とする動向が生まれる。もちろん、それ自体は間違いではない。今回の例では、まずこれが中国中央政府の意思であるか、その統制を離れた行為だったかが、一見問題になる。そして前者であれば、その意図を解読しなければならなくなるし、後者であることがわかれば、別の次元でも危機対応が必要になる。
 しかし、すでにこうした二分自体には議論の決着手法が存在していない。特に、前者のメッセージ性についてはつねに曖昧な状態に置かれる。ある意味、識者の無能を明らかにする状況であり、逆に識者は対応的な説明に追われる。
 こうした構造とは別の枠組みはないだろうか。つまり、中国の好戦的に見える行動は単にスケジュールをこなしているだけなのではないかということだ。
 実際のところ、個別の事件としての性質やメッセージ性がわからないとしても、大局的な中国の軍事動向は明確に存在し、着実に進行している。最近の出版物では、『米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』(参照)があるが、「トゥキディデスの罠」(新興国と覇権国の競争がもたらす構造的ストレス下では双方が強く意図せずとも破滅的な戦争が起こりうること)など、特に「第2部 歴史の教訓」で顕著だが、本書は応用歴史学的ではあるが、それゆえにやや抽象的な議論になっている。

 同種の枠組みではあるが、この手の具体的な動向を手っ取り早く理解したいなら、一年ほど前になるが、2016年11月に日本で出版された『米中もし戦わば(ピーター・ナヴァロ)』(参照)が役に立つのではないか。内容は邦題が示すように、米中線のシナリオとそれに向けての状況整理である。本書は、あたかもクイズ番組のように各章冒頭にクイズが示されているので、そのクイズを考えることで理解が進む点、とても読みやすい。
 ちなみにそう古い本でもないので、この機会に読み返してみた。すでに韓国の朴政権が崩壊した点では、その政権の潜在的な危険性の議論は終えているが、逆に現在の文政権の問題が重要になる。が、当然その言及はない。反面、北朝鮮の状況については未だに本書の線のまま重要である。
 読み返しながら、昨年とみに北朝鮮の核とミサイルの脅威が増大していることを踏まえてみると、北朝鮮の究極的な対応は短期の圧倒的な空爆しかなさそうだなと思えてくるのが、自分でも気落ちした。つまるところ、地上戦はできないということでもあるだろう。物騒な話題ではあるが。
 話を中国の海洋侵出に戻すと、本書が明瞭に示しているように、今回の日本への威嚇に見える海洋侵出も、単に、予定された海洋軍事侵攻を推し進めているだけという可能性がわかる。あえていうと、今回の尖閣諸島での中国の挑発行為には時事的メッセージはなく、単にスケジュールをこなしているという面もあるだろう。
 ということは、本書で示されるシナリオが今後も展開していくというだけのことも意味する。本書を読まれると、そのことにゾッとするような含みがあるのがわかるが、目をそらすわけにもいかない。
 具体的な点でいうなら、本書巻末の短い寄稿であるが、飯田将史・防衛省防衛研究所主任研究官による「日本の安全をどう守るのか」が、現在では、よりいっそう重要になってきている。簡素に書かれているが、含意を読むには、本書の理解が前提になるだろう。具体的に言えば、今回の事態とも関連するのは、「オフショア・コントロール」だろう。
 また日本のいわゆるリベラルが主張しそうな関連議論としては、本書で言及されている「大取引」がある。「大取引」は大国に同士のさしでの大胆な取り決めである。本書では、「台湾を中国に譲る代わりに、米国のアジアでのプレザンスを認める」というものだ。その他の大取引もありうるだろう。こうした議論パターンとして本書で整理しておいてもよいだろう。
 もう一点本書に関連して加えると、中国のソフト戦略のもつ威力についての言及は重要だ。昨年夏に日本でも話題になったが、英国ケンブリッジ大学の出版局に対する中国の影響がある。こうした影響はかなり広範囲に自由主義国家に浸透してきている。さらに踏み込むと、こうした影響は「大取引」に向かうように仕向けられているだろう。芸能人の不用意に見せかけた発言や、公平を装った国語辞典とかにも、構図からすると浸透が伺われるように思える事例が増えた。
 ここで話題の階層が前後するようだが、定評あるユーラシア・グループが掲げた今年のリスク(参照)の筆頭は、「中国は力の空白を好む」である。単純にいえば、軍事的な対抗力が消えた地域に、中国は自動的に入り込む。尖閣諸島についても、それが力の空白地帯であると中国に認識されれば、中国は自動的に入り込むだろう。
 大局的に見れば、北朝鮮危機は、米中戦の暗喩という意味合いも持つだろうし、端的に言えば、危険な時間伸ばしでもあるだろう。



 

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2018.01.14

[書評] 歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん(田辺聖子)

 「神」という言葉に人はいろいろな意味を与える。日本人の場合は、西洋キリスト教あるいはイスラム教のような絶対神は、随分と欧風化したはずの若い世代にもなじまない。というか、戦後70年以上も欧風化を続けているはずの日本なのに、それが日本にはなじまないという歴史を築いて来た。それがいいことか悪いことかわからないし、そもそもそういう問題でもないのかもしれない。他方、日本人にとって「神」というのは、八百万の神のように、あるいはギリシア神のように基本的に多神教的な神である。さらにネットでの用法では(これは現代米国などでも同じ面があるけど)、「ありえないほど優れた人や、自分にとって奇跡的にベネフィシャルな人」という意味もある。いずれも絶対神的な観点からは、聖人に近いだろうが、「人」にすぎない。それでも、と、私は日本人として歳を取ってきて思うのは、そういう日本的な神になじむわけでもないが、ある種の人生の知恵のようなものを極めて百歳にも近くなった人の言葉は、そこに神を見てよいんじゃないかと思うようになってきた。そうした意味での神の言葉が、てんこ盛りに詰まっているのが、この田辺聖子『歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん』(参照)だった。生きることの究極の真理がごくさり気なくそして惜しげもなく語られている。しかも、それが老いてみてわかるといった含蓄でなく、おそらく若い人にそのまま、すっと心に入るような言葉である。こんな言葉がどうして紡げるものだろうか。

 作家・田辺聖子(おせいさん)は現在89歳。今年、90歳になる。昨年10月にはその文学のほぼ最終的な書誌のまとめとなりそうな『田辺聖子文学事典 ゆめいろ万華鏡』(参照)も出た。また昨年、集大成・聖子語録とも言える『老いてこそ上機嫌』(参照)の文庫本も出た。が、この語録自体は2010年刊。『歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん』は2013年刊。内容は、2011年から2012年のインタビュー聞き書きである。おせいさんには長生きしてほしいが、ほぼ最後の言葉に近くなるし、その声を聞くように読むと、まさに日本人的な神の声というはこういうものかと思えてくる。
 若い女性向け雑誌での連載が基本なので、若い女性向けの話にはなっている。が、60歳の男性の私が読んでも、心にぐっとつまって感動し、しばし呆然とした。
 いろいろと引用してみたくもなる。が、そこはあえて控えたい。
 それでも、たった一つだけ選ぶとすれば、「好きなものには溺れなさい」というのがある。若いときに、好きだと思えるものが見つかったらとことん、好きになって、溺れてしまいなさいというのだ。
 それをおせいさんは、戦争の時代の背景で語っている。彼女は、ハイティーンで実際の戦争を体験し、ドラマ『芋たこなんきん』(参照)はユーモラスに描いていたが、厳しい戦後を生き抜いた。本当に戦争を知る彼女は、昨今の戦争の語り部たちが悲惨を様式的に語るのは正反対だ。戦後はさっと新しい時代を向いて、好きな吉屋信子の小説に溺れていったという。
 どんな時代でも、好きなものを見つめて、溺れていけばいい。私もそう思う。そんなことじゃいけないという大人たちは、溺れてしか見えないものを、たぶん、見たことはないだろう。

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2018.01.13

[書評] 経済は「競争」では繁栄しない(ポール・J・ザック)

 年明けのショッピングで気分転換用の香水を見ていて、そういえば10年前の映画だが『パフューム ある人殺しの物語』(参照)を見てなかったなと思い出した。当時話題作でもあったし、遅々ではあるが今からでも見ておこうかなと思い立ち、見た。

 なるほど話題になるだけあって、なかなかに面白い作品だった。人によって受け止め方はまちまちだろうが、心根のねじくれた私などにしてみると、この悪趣味はたまらない。ただ、映像的には裸体なども出てくるので、表面的にはエロい作品とも言えるのだけど、エロさの点はこってりとしたコクがないというか物足りない感は残るし、肝心の、というほどのことでもないだろうが、香水についてはもうちょっと蘊蓄を展開してくれてもよかったようには思った。
 この映画見ながら、「あれ、これって、あれだよね」という、もどかしい感じもした。あれ、というのは、この、殺人を犯してまで主人公が作りたかった香水というのは、ドニゼッティ『愛の妙薬』でもなく(おっとこいつは飲み薬)、フェロモンということなんだろうなと思いつつ、いやそうじゃなくて、これ、「オキシトシン」の暗喩なんじゃねと思ったのだった。
 そしてそういえば、と芋づる式に思い出したのが、この本『経済は「競争」では繁栄しない(ポール・J・ザック)』(参照)である。原書は2012年の書籍でこの訳書はその翌年。思い出すに、いろいろメディアで「オキシトシン」ブームが起こったころのことだ。当時、この本を読んで、還元主義にありがちな単純な発想だなあと思った。それと、邦題の方向性がちょっと違うようにも思っていた。本書はあくまでオキシトシン研究者による一般向け解説書といった軽い読み物である。
 読み返してみた。あの悪趣味な映画の影響のせいか、以前より肯定的にオキシトシンというものを考えられるようになった。本書の言う、「共感的なつながりこそが、私たちの追い求める『善』なのだ」というのは、たくまずして、あの映画のテーマにもなっている。
 読み直してみたいと思った、もう一つの理由もあった。当時は、「オキシトシン」自体に関心があったが、現在では、なんというのだろう、何かとネットで魔女狩りみたいな風潮が激しいが、こうした風潮に対して、この本の延長で解けるものがあるんじゃないかと思ったのだった。
 「オキシトシン」については、改めて解説することもないだろうが、簡単に言うと、本書にもあるように「信頼のホルモン」である。人々の関係がスムーズに親和的になるような感情を促すホルモンである。このホルモンは分泌している本人にとっても快感につながる。当時はもう一つの母性ホルモンのようにも言われていた(男の乳首をいじると分泌がよくなるといった話もあったように思うが都市伝説か)。
 そこで、循環論法のようだが、オキシトシンの分泌が多いと人は信頼関係を結びやすくなるし、さらに信頼関係に置かれるとさらにオキシトシンの分泌がよくなるということだ。本書の基調はそうした好循環をうまくやっていきましょう的なものである。
 当たり前だが、世の中、そうした好循環がそうやすやすとあるわけはない。オキシトシンがうまく分泌されなかったり、機能しなかったりするような実態がある。そのほうが多いだろう。なぜなのか。本書では、そうした親和的なオキシトシンに対置して、攻撃的なテストステロンがあるからだとしている。ごく単純に図式化すれば、オキシトシンとテストステロンで信頼と攻撃のフィードバックシステムができている。
 本書の主張は、細かい点に突っ込むといろいろ問題もありそうな、還元主義的な議論の枠組みだが、本書出版後、世の中は急速にSNS化してきていた。この動向も、オキシトシンの分泌が関係ありそうに思える。つまり、ハグしあえるような身体的な信頼の関係がなくなったから、SNS的なつながりで身体が触れ合うことのない想念上の信頼関係を作り、なんとかオキシトシン分泌も維持するというような仕組みである。
 逆に言えば、当時この本を読んで、なんかノー天気な主張だなと思っていたのだが、現在にしてみると、オキシトシンの分泌具合でネット社会の状態を考えるというのは、意外に正確な視点かもしれない。それに世の中をもう少しましにする技術にもつながるかもしれない。
 つまり、上手に社会レベルで人々のオキシトシン制御ができるような仕組みがあってもいいのかもしれないと思う。比喩とかじゃなくて具体的に人と人が出会って触れ合える仕組みというのは必要なんじゃないないだろうか。「具体的に」と言ったわりに、その具体的な案は浮かばないのだけれど。そうだなあ。地下アイドルとファンの共生なんかもそうしたオキシトシン安定化装置かな。


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2018.01.12

[書評] 最強の女(鹿島茂)

 先日、成人の日で、たまたまツイッターで「二回目成人式」という洒落を見かけた。その人は40歳になったというわけである。それを見て私が思ったのは、「ああ、俺は三回目」ということだった。二十歳のときに出席した成人式からもう三倍も生きたのかあと落胆した。
 もの心がついたのは4歳ころ。そこから20歳までの時間はけっこう長く思えたものだが、それ以降、人生の相対性理論というか、人生意識時間の進行がどんどん急速になる。実感としては先日ぽっと40歳になって、ああ自分も40歳かと嘆いていたのだった、なあ。いや、そんな話がしたいのではない。むしろ逆だろうか。
 自分語りになるが、cakesの「黒田三郎」(参照)でも書いたが、私は十代のころ詩を書いていた。14歳くらいから書き始めただろうか。ノートに普通に書いていた。1970年代前半。まあ、ちょっと文学的な青年なら誰も詩を書くような時代でもあり、私もそうした凡庸な一例なのだが、雑誌に詩などを投稿するとよく掲載された。選者の詩人・山本太郎や詩人・吉野弘からも、常連さんとして覚えてもらえるくらいにはなった。選に落ちたときは、今月はさえなかったな、というふうに慰めてももらった。
 そんなことも嬉しくて、また感性が爆発しているような思春期だったから、詩の文学にものめり込んだ。若いっていうのはすごいもので、もうめっちゃくっちゃにやたらめったら膨大な詩を読みまくった。フランス語もドイツ語もできないのに、エリュアールやリルケにも傾倒したりもした。というわけで、彼らの恋愛話なども好んで読んだし、そこに出て来る女、ガラやサロメについても知っていた。

 そんなわけで彼女たちの評伝ともいえる『最強の女(鹿島茂)』(参照)は楽しく読んだ。というか、面白かった。読みふけっていると、自分が10代に戻ったような気がする。もう40年以上も昔のことなのに、こうした話がびんびん蘇ってくる。若い日に吸収しちゃったものって一生残るものなんだろう。とはいえ、当時自分が読んだ話より、本書の話のほうがはるかに詳しい。記憶に歪みもありそうだ。自分では「サロメ」と記憶していたが、ニーチェやフロイトにも関係する彼女、同書では「ザロメ」となっていた。かつてもそうだっただろうか。
 全五章。出て来る「女」は5人。まず第1章はルイーズ・ド・ヴィルモラン……自分とっては、なによりもサン=テグジュペリ『星の王子さま』のバラだよ。そしてアンドレ・マルロー。そのあたりは知っていたのだが、彼女を含めた当時のサロン文化の話なども面白かった。『失われた時を求めて』の冒頭の子供の頃の思い出とか、なるほど母がサロンにいるわけか。
 第2章は、リー・ミラー。彼女については、マン・レイとの関係でなんとなく知っていたが、マン・レイとなるとキキに関心がいく。とはいえ、描かれたリーの人生は興味深いものだった。著者鹿島が彼女を現代女性の雛形のように捉えているけど、確かにそんな感じがする。そうえば、オドレイ・トトゥの『ココ・アヴァン・シャネル』もまだ見てなかったな。
 ルー・ザロメが第3章。いや、まいった。何が参ったかというと、十代のころはオナニストよろしくしていたわりに精神志向だったのか、ここで描かれた絶倫リルケ像はちょっと驚いた。考えてみたら、リルケ、そうだよなあ、というのと、このザロメも二十代半ばまで処女だったとはな。ああ、我ながら鹿島先生の本を読むときのお下劣満足感がたまりません。
 第4章のマリ・ド・エレディアについては、ピエール・ルイスの恋人だったというくらいしか知らなかった。普通に読んで、恋多き女の一生というか、映像的で映画にでもなりそうな感じ。
 そして、終章のガラ。ガラについてはけっこう知っていたつもりだったし、ここに書かれている出来事とかでびっくりというものでもなかったが、いやはや読んでて笑い転げたのはダリの描き方だった。ようするにダリというがガラの作品だったわけだ。しっかし、このダリ像の意地悪さは笑える。
 さて、本書には「前口上」はあるが、雑誌連載のせいなのか、「あとがき」のようなものはない。なんだろうか。なんというのか、こうした「最強の女」について、総括というのでもないけれど、何かまとめみたいのが、最後にあってほしい感じがした。残尿感というか。
 私はいつのまにか60歳にもなった。私は、自分の世代では36歳というと晩婚ではあったが、若い頃手酷い失恋をしたものの、あるいはそのせいか、恋多き人生でもなく、ゆえに多くの女性に出会って恋をするというものでもなかったが、それでも、本書の「最強の女」は、「これ、普通の女だよ」と思う。本書としては、特異な女を取り上げているのだけど、私の実感としては、どの女も本質的には最強なんじゃないだろうか。普通に生きているかに見える女も、本質は「最強の女」であると思う。
 公平に言えば、女にとって男は不思議な生き物だろうが、男にとって女は謎極まる最強の生き物である。とてもいとしく、そしてその強さゆえに戦場のようにつらくもあり。

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2018.01.11

カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したこと

ル・モンドで発表された(参照)、カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したことを、自分でも考えてみたいと思い、仮訳してみました。誤訳があるかもしれません。というか誤訳が多いかもなので、あくまでご参考までに。


《私たちは、性的自由に不可欠な、迷惑をかける自由を擁護します。》

レイプは犯罪です。しかし、しつこかったり下手くそだったりしても女の気をひこうとする行為は違反ではありませんし、女をくどくことは男性優位主義の攻勢でもありません。

ワインスタインの事件後、特に権力を乱用する男性のいる職場において、女性に対する性的暴力が法的に認識されるようになりました。それは必然的なことでした。しかし、その言論の自由は今日逆の方向を向いています。こうすべきだという口調や、むっとくる人を黙らせることを私たちに命じています。そして、そうした押し付けを拒む女性は、裏切り者だ、同罪だと見なされます!

魔女狩りが盛んな時代のような、女性保護論や、永遠に犠牲者の地位に縛り付けるほうがましだとする彼らの解放論や、邪悪な男性主義者に掌握された貧しく弱いものについての議論があります。こうした議論を一般的に良いものだと偽って借用するのが、ピューリタニズム(粛清主義)の特性です。

密告し糾弾すること

実際、#metooのタグは、報道とソーシャル・ネットワークで、密告と個人への公開糾弾のキャンペーンを導いています。こうしてその個人は、応答もできず自分を擁護する機会もないまま、性犯罪者とまったく同じ場所に置かれているのです。この拙速な判決ですでに犠牲者がいます。職場で制裁を受けた男性や、辞職を強いられた男性などです。彼らがしたことといえば、膝に触れたり、不意にキスしようとしたり、職場の会食で個人の恋愛話をしたりしたことくらい、あるいは、片思いの女性に性的な含みのメッセージを送ったりしたことくらいです。

こうした「豚野郎」を屠殺場に送り込めとする熱病は、女性の自己決定を援助することからかけ離れ、性解放の敵や過激な宗教者や最悪な反動主義者、さらには実体的な善概念とそれに見合ったビクトリア朝時代の倫理観のもとに女性とは「特別な」存在つまり大人の顔をした子供だから保護が必要なのだと信じている者たちの便宜に役立っているのです。

他方男性が召喚されるのは、その過ちを罰するために、過去を省みて心の底から、10年前、20年前、あるいは30年前に犯していたかもしれない、そして悔い改めねばならない「誤った振る舞い」を見出すためです。衆人が見るなかでの告白や、検閲者を自認する者がプライベートな部分まで侵している様子をごらんなさい。これが全体主義の社会を作り出しているのです。

粛清の波は留まることを知らないかのようです。あれをごらんなさい。ポスターに描かれたエゴン・シーレの裸像は検閲されています。こちらをごらんなさい。変態的小児愛者の弁護になるかもしれないということでバルチュスの絵画を美術館から引っ込めろと言われています。作家と作品が混乱され、ローマン・ポランスキー回顧のシネマテーク・フランスでの上映禁止が要求されていますし、ジャン=クロード・ブリソーに捧げた作品は延期になりました。ある大学教員は、ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「ミソジニー(女性蔑視)」で「許容できない」と判定しました。こうした修正主義のもとでは、ジョン・フォード(『捜索者』)や、ニコラ・プッサン(『サビニの女たちの略奪』)も同様に危ういでしょう。

すでに、編集者によっては、私たちのいく人かに対して、私たちが描く男性人物について「差別主義」が薄まるように、また性や愛について話すときは過度にならないようにと求めています。あるいは、「女性キャラで苦しむトラウマ」をもっとあからさまにしろと求めます! この手のバカバカしいことといえば、スウェーデンの法案は、性交渉の候補者に対して明示的に通知された同意を強要したいのです! あともうひとふんばりで、一緒に寝たい大人二人は、事前にスマホの「アプリ」で、受け入れ方法と拒否の方法が正式に記載された文書にチェックするのです。

他者を不快にする自由は欠かせないものだ

哲学者リューヴェン・オジアンは、芸術的創造に欠かせない、他人を不快にする自由を擁護しました。同じように、私たちは性的自由に不可欠な、迷惑をかける自由を擁護します。

現代の私たちは、性的衝動が侵犯的で野蛮な本性に由来すると認めて十分に警戒していますが、他方不器用に女をくどくことと性的攻撃を混同しないほどには十分に明晰です。とりわけ、私たちは、人間というのは、一枚岩ではないことを意識しています。女性というものは、同じ一日の間でも、職場のチームリーダーを務めることと、男性の性的対象であることを享受することができるのです。しかも「やりまん」にも家父長制の卑劣な共犯者にもならないでいられるのです。女性は自分の給料が男性の給与と同じであるように心を配ることができる反面、たとえそれが犯罪であれ、地下鉄の痴漢にまったく心を傷つけられずにいることもできます。女性はそれを大げさな性的悲惨の表現、または大したことじゃないと見なすこともできます。

権力乱用の告発を逸脱して、男性と性的であることへの憎悪の顔を持つフェミニズムのもとに女性として私たちがいるとは認識しません。性的に誘う提案にノーと言う自由は、迷惑をかける自由なくしてはうまくいかないと私たちは考えます。 そして私たちは、この迷惑をかける自由にどのように対応するかを知るべきだと考えます。そうでなければ、自分自身を彼らの餌食の役割に閉ざしてしまいます。

子供を持つことを選んだ女性のために、私たちは、その娘が十分に情報を得て、怯えもなく非難されることもなく、生活を満喫して育つことが賢明だと思っています。

女性の身体に影響を与える可能性のある出来事でも、必ずしもその尊厳にまで達しているわけではなく、時としてつらくても、その女性をけして永続的な犠牲者にしてはいけません。なぜなら、 私たちの本質は私たちの肉体に矮小化できないからです。私たちの内なる自由は不可侵です。そして、私たちが大切にしているこの自由には、リスクや責任なくして享受できるもでもありません。

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2018.01.10

[書評] 踊る裸体生活(森貴史)

 あれは確かバットマンの映画のシーンだったと思う。パーティーでばか騒ぎをするところで、水槽で裸のやつがいるがヨーロッパ人だろう、というのである。米国人から見ると、ヨーロッパ人というのは、騒ぎ出すと裸になる人々という偏見があるのだろうなと思った。

 しかしそれは偏見には違いない。だけど、私もそんな偏った印象を持っているし、それに関連してか、どうも戦前のドイツというとナチス台頭の暗黒時代というわりには、同時代資料を見ていくと、映像的には大自然のなかでの裸体賛美みたいのが多い印象があった。そもそもオリンピックというのも、現代のそれは依然ナチズム的な裸体賛美と結びついているし、健康から裸体賛美というのもなんだかナチズムっぽい。あれはどういうことなんだろと思っていたので、『踊る裸体生活(森貴史)』(参照)には興味をもった。副題はまさに「ドイツ健康身体論とナチスの文化史」である。
 読んでみると、なんとも奇妙に面白い。ライターさんが巧妙な文章で読者の関心をつないでいくというタイプの書籍ではなく、きちんと学問的な整理がされているのだが、まず、テーマ提示の序章からして、なんだろうかこれは、というあふれる奇妙な裸体写真に目を奪われる。エロではない。むしろ芸術とでもいうのだろうか。本書では裸体文化の日本への影響について体系的には言及されていないが、昭和時代に入って都市的な公共空間にあふれるヨーロッパ的な裸体像の源泉もこれにあるだろう。長崎の平和記念像も風呂上がりよろしく裸体であるのも、ヨーロッパの裸体主義の影響なのだろう。
 それから序章では、健康主義とでもいうべき健康志向の歴史的動向から関連して、ルドルフ・シュタイナーの神秘主義も出てくる。一見学問というより雑多な博物学的でもあるかのようだが、序章にも書かれているが、この一見奇妙なドイツ中心的な裸体主義の文化運動は、現代の思想から文学、さらには自然科学にも関連していることがわかる。私が高校生のころ読んだフックスの『風俗の歴史』ではないが、いわゆる表面的に語られる歴史から奇妙に抜け落ちてしまうのに、そこに体系的な連携がある何か、そういうものがこの裸体文化運動にもはある。
 第一章は裸体文化の前史。ゴディバのロゴにもなっているゴダイヴァ夫人の伝説や啓蒙主義の反面にある自然主義の延長としての裸体賛美。そこから体操の重視、日光浴、温泉(クイナプも出てくる)などがナショナリズム的に変化する様子が描かれている。続く第二章では、自然と身体の関わりから登山の文化が出てくる。ここで感想を挟むのもなんだが、この文化は東欧の社会主義運動と並走して日本にも影響を与えていたと思う。また、日本では「アルプスの少女ハイジ」として知られている『ハイジ』やトーマス・マンの『魔の山』もこうした大自然による治療・健康文化の延長にあり、宮﨑駿映画『風立ちぬ』もそれの延長にある。
 第三章では運動する肉体ということで舞踏が出てくる。ここでは私が若いころ学んでいたオイリュトミーも少し出てくる。第四章では裸体文化と思想の関連。菜食主義やエコロジーなどとの接点もある。第五章では主にそのドイツ的な展開を経て、第六章でまさに「ナチスと共存する裸体文化」が論じられる。
 ナチズムというと、日本ではイデオロギー重視で理念的に捉えられがちだが、こうして裸体文化の文脈においてみるとまた違った相貌が現れるし、むしろ現代日本人はナチズムをイデオロギー的に切断することでむしろナチズムに親和的な、健康志向の裏面に無自覚になってしまっている。
 本書はナチズム、とくにヒトラーが持っていたユダヤ人像をこう描く。「すなわち、『わが闘争』で描写されたユダヤ人とは、不潔、疾病、不健康、毒性のシンボルであると同時に、身体的な美とも乖離した存在である」と。ユダヤ人差別はポグログムの歴史を見ればわかるように、ナチズムに局限されない西欧全域にわたる問題だが、ナチズムのそれは、健康賛美や古代ギリシア像的な裸体賛美の裏面のシンボルとして現れた側面が強くあった。あるいは、そうした健康美思想によって、従来からある差別が正当化されてきてしまった。
 自然や健康、人間的な美というものの志向は、自動的にその反対物を生み出す。イデオロギーはあたかも教条的に機能するかに見えて、実際には私たちの感覚のなかで運動するものだろう。
 この本は、奇妙な歴史のトリビアをつなぎ合わせたようにも見えながら、実際のところ、そうしたものの継承者であり、さらに商業主義と結託した新しい裸体文化を生み出している現代人に、間接的な批評の意識を呼び覚ますものになっているだろう。

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2018.01.09

[書評] アイ・アム・レジェンド(リチャード・マシスン)

 昨年の晩秋ころだったろうか、まだ冬ではなかったと思うが、積読山が何かの偶然で崩れたおりに、『アイ・アム・レジェンド(リチャード・マシスン)』(参照)がぽろっと出てきた。読もうと思って購入したものの、随分長いこと積読状態になっていて、たまに思い出すときには見つからず、そのうちほとんど忘れてしまった。同タイトルの映画が出たときに購入したのか、パンデミック騒ぎのときか、改変ウイルスの医療利用関係だったか、何か関連する話題で買ったはずだが、その動機も思い出せない。文庫本の奥付を見ると2007年の11月出版。その12月の3版である。10年ほど前になる。当時は映画の関連で売れたのだろう。ところで、その映画については別途記事を起こすことにしたい。

 言うまでもないと言いたいところだが、本書はSFの古典中の古典と言ってもよく、SFファンならすでに既読ではあるだろう。そのあたり未読の自分を恥じるものがあったが、他方、私のような初読者には、本書の訳者によって記された巻末の、著者に関連する書誌的な解説と主要な映画化の経緯の説明が役立つ。
原作が書かれたのは1954年。本書が日本で最初に訳されたのは、1958年(余談だが私が生まれる前年)で、訳者は田中小実昌であった。そのおりの邦題は『吸血鬼』である。その後、1971年に『地球最後の男/人類SOS』と改題され、さらに1977年に『地球最後の男』となり、長くその書名で、日本で知られていたが、2007年、映画名に合わせて現在のものとなり、新訳となった。
 シチュエーションはシンプルと言えばシンプルである。人間を「吸血鬼」に変える感染症のパンデミックによって、「吸血鬼」は多数夜間跋扈するものの、健常な人類が死に絶えたかに見えるなか、主人公のネルヴィルがあたかもただ一人生き残り、彼らと戦いつつサバイバルを空しく試み続ける。なお、「吸血鬼」という呼称はない。むしろ描写はゾンビであり、本書がむしろ『ウォーキング・デッド』など現在に至るゾンビ作品ブームの原点になっている。
 物語はこうした状況での生存の空しさや意義への問いかけ、状況把握の努力、状況変化への対応などで展開していく。執筆時の1950年代の米国文化は背景にうかがえるが、それゆえにこの小説が古びるという印象はまるでない。
 さてこの本の読書なのだが、率直なところ、遅々として進まなかった。少し読んでは、中断した。読み終えるまでにけっこう日を要した。単純な話、面白いのかというと、個人的には微妙な印象もある。つまらないわけではないし、人にもよるのだろうが、物語が読者の興味をつかんでぐいぐいと引っ張っていくようには思えない。むしろこれはカミュ『ペスト』のような純文学なのだろうかという疑問もわいてくる。しかし、純文学っぽい仕立てというわけでもない。
 しいていうと、これもごく個人的な印象に過ぎないのだが、パズルを解いているような感触があった。いろいろと難問が関連して次々として発生する。一つ一つ謎は解けていくが、何か根本的な解法にいたらない。その間、読者が推測するこの物語の全貌のような印象がぼんやりと生まれては消えていく。なかでも大きな難問というかエピソードは、もう一人の健常な生存者かに見えるルーシーの登場だが、その扱いもすぐに入り組んだパズルであるよう感じられる。
 かくして結果というか、エンディングだが、ここでは当然スポイラーは記さないが、価値観の大逆転がある。見事といえば見事な仕上がりだった。このパズルをこう解くのかという微妙な解放感や主題の提示がある。しかし、優れたパズルが示す爽快感のようなものは私には少ない。ある種、バッドエンドということもあるが、この物語はやはりパズル性よりも、ある延々と続くヤスパース的限界状況の叙述性にこそこの作品の価値はあるからだろう。
 暗喩性は強い。私たちの少なからずは、学校や社会のなかで孤立する。あたかもゾンビに囲まれて、「ああいうふうに自分は生きることができない」という孤絶感のなかでサヴァイブしている。
 いろいろと読者に問いかけることの多い作品であることは確かで、一面ではそれは繰り返される映画化もある。読者が抱えている生の感触によってこの物語の暗喩の強さは変わるだろう。


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2018.01.08

年明けてニュースで感慨深く思ったこと

 まだ松の内、それは実に正月らしい目出度い話だなと思った。元宮崎県知事の東国原英夫氏(60)に男子が生まれたという話である。生まれたのは昨年10月とのこと。そして首がすわる3か月ほどは公にはしてなかったとのことだ。東さんは9月の生まれなので、60歳で子供を持つことになる。
 東さんには4人目の子供になるらしい。少子化日本に随分と貢献したようにも思うが、かく言う私も自著には書いたが4人子供がいる。私たちのような子沢山の姿が日本にもっと広まればいいようにも思うが、実際はむずかしいかもしれない。
 と、彼に関心深く思ったのは、私と彼の誕生日が一か月も離れていないせいもある。私も昨年の夏、60歳になった。が、これから新しく子供を持つとかは想像もつかない(生物学的に無理でもなさそうではあるが)。東さんは今回は子供をもつために不妊治療もしたそうだ。たいしたものだと率直に思う。
 それどころか、私の場合は、末子がようやく16歳になり、それが感慨深かった。これも自著にも書いたが、子供が生まれたおり、なんとか子供は15歳までは育てよう、そしてその姿を見ることができたら、と願ったものだった。難病を発したのが末子の生まれた頃だったので、とりわけ強くそう願った。その願いは叶い、自分の人生は幸せだったと感じられた。
 60歳で子供が生まれるとなると、その子が15歳になるころは、親は75歳である。後期高齢者になる。元気で活躍されている後期高齢者の人も多い。が、私はというと、父が62歳で死んだこともあって自分などは75歳なんていう歳まで生きていられる自信はまるでない。東さんはそういう心情はどうだろうかとも少し思った。しかし、そこも考えようで、子供は産んだ親が育てなければならないというものでもないだろう。彼には彼の家族を支援する人の輪もあるだろう。
 子離れしつつある私ですら、今からでも、もし何かの縁があって新生児を預かって育てる運命でもあれば、それを肯定的に受け止めてもいいんじゃないかとも考えている。まあ、実際はできるかなあとは悩むだろうけど、志向としてははっきりとある。
 話が飛ぶようだが、米ドラマ『スキャンダル』で、60歳は近いだろう、大統領首席補佐官のサイラスが同性愛の恋人(40代だろう)の要望で幼児(黒人)を養子にする話がある。ドラマとしてのごたごたは別として、60歳近い男性が同性愛者との家庭で養子に迎えるというのは、社会の方向としては好ましいものだとドラマを見ていた。もちろんそうした家庭では、これも米ドラマ『13の理由』のコートニーのように微妙な問題もあるだろう。しかし、問題のない家庭というものもないだろう。多様な家族は多様な問題を抱えるだろうが、それも自然なことだ。
 そんなことを考えつつ、ぼんやり夜7時のNHKニュースを見ていると、今日は成人式の地域が多いせいか、「東京23区の新成人 8人に1人が外国人」というニュースがあった。随分外国人の新成人が多いものだなと思ったが、地域的にはさらに多い。新宿区に限定すれば、新成人の外国人は45.7%とのことだ。
 現状、新成人の外国人比率が高いのは、ニュースでも言及していたが、留学生や技能実習生の増加があるようだ(はっきりはしてない)。この技能実習生にはいろいろと問題があるが、それでも新成人となる外国人が増えていくというのは長期的なトレンドとなるのではないか。これもまた、少子高齢化の一つの影響とも言えるが、日本がこれから多様な人々の社会になっていく兆しでもあるだろう。
 日本でも、人々の生き方、家族の持ち方はどんどんと多様化していく。日本はどうあるべきかという議論も盛んだが、現実はどんどんと変化していく。変化が形式化した議論を追い越していくようにも見える。
 自分もいよいろ老人になりつつある。どこまで生きていられるかわからない。でも、日本がどんどんと多様化し、家族の姿が人々の多様な連帯で支えられていく姿は、できるだけ見つめていたい。


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2018.01.07

Google Homeと、それと似たようなBluetoothスピーカー

 それほどハードルが高くない新技術はほいほい使ってみる人なので自分は、Google Homeも早々に設置していた。こんなスパイ装置みたいなのいやだなというのと、まあ、いいんじゃないのというの、曖昧な気分ではあった。
 使ってみてどうかというと、意外に便利。とても便利という感じだ。すでに、Google Home(Assistant)はこんなふうに使えますといった記事はネットにうんざりあるし私なぞが付け足すこともないのだけど、少し書いてみたい。
 まず何が便利かというと、これは私が老人になってしまったということかもしれないが、時刻を聞くのが好き。今何時ぃ?というあれだ。あー、違う。老人とかじゃなくて、以前からトーキング・ウォッチはよく使っていたのだった。音声で時刻を確認すること自体が好きなのだ。
 他に、天気や気温などもよく聞く。フランス語でなんて言うんだっけと思ったときも聞いてみる。計算もよくさせる。二桁の暗算とかは聞いてみることが多くなった。換算も便利。英語のレシピの華氏表示のオーブン温度なども摂氏でわかる。
 タイマーもよく使う。紅茶のスティープとか。なお、アラームとタイマーは別の機能らしいが、同じように使える。が、音色が異なる。アラームのほうが好きだ。翌朝の指定時間にアラームをセットすることもできる。で、なんのアラームかはわからない。どうするか。
 「覚えておいて」という機能があるので、アラームの理由を覚えさせておくといい。この「覚えておいて」機能の使い方のコツは、できるだけ、覚えさせないこと。つまり、できるだけさっさと実施してしまうかメモに書き写すかして、クリア状態にしておくといい。同じことは、ショッピングリストについても言える。いつか買おうみたいなのは、メモに移してショッピングリストから消しておく。当然だけど、ショッピングリストは他のメモにも使える。
 一度メモ機能が拡張できればいいなと思い、IFTTTというのとGoogleドキュメントでプログラムを組んだ。メモが時刻付きで表に記録できるようになった。ただ、実際はそれほどは使わなかった。
 音楽は便利に使っている。Google Play Musicとの連携なのだが、これは、有料オプションでなくても利用できる。コツはよく聴きそうな曲をショートカットにしておくこと。そしてショートカット名で呼び出せばいい。音楽を流している最中に、時間とかきいても答えてくれる。答え終わると、音楽に戻る。
 ラジオが使えるのもけっこう便利だ。もともとラジオ好きなので、聞きたいときにクリアな音声でラジオが聞けるのは嬉しい。Radiko対応になっている。
 そのままBluetoothスピーカーにもなる。すでにSIMを外した古いアンドロ機があるので、これをGoogle Home専用のコントローラーにしている。これでアマゾン・ミュージックとか制御して、Google Homeでアマゾンにある曲が聞ける。Audibleなども聞けるようになる。専用のアンドロ機があると便利なものだ。音量制御も音声指定で簡単だし。
 YouTubeなどもテレビスクリーンも制御できて便利だが、Netflixとかには使っていない。
 まあこんな感じで便利なんだけど、Google Homeはリビングに置いてあるので、というか専用の入れ物で吊るしてある。が、お風呂とかでは使えない。すでにお風呂用に壺型のBluetoothスピーカーはあるのだけど、似たような吊るしがあるといいかと思い、防水のTronsmart Bluetooth4.2というのを買った。2000円ちょっとというお値段。大丈夫かなと不安だったが大丈夫。使ってみてわかったのだけど、4.2はかなりいい。先のアンドロ機で制御する。かなり飛ぶし、音も良さげ。というか、この小さいGoogle Home Miniなみのサイズでけっこう音がでる。そういえば、Google Home Miniもけっこう音がいい。それと電池のもちがいい。尻尾がないのもよい。とま、まるでアフィリエイトの宣伝だが(実際そうでもあるが)、これも結果的によい買い物でした。


 
 

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2018.01.06

[アニメ] 宝石の国

 私の習性からすると、アニメ『宝石の国』は原作のコミックの最新刊まで読み終えてからなんか書くか、あるいは、原作のほうを主対象とするかなのだが、比較的最近見終えたアニメのほうの印象について、現状でも書いておきたい気がした。

 昨年のアニメで良かった作品リストというのが年末ツイッターに流れてきて、その上位に『宝石の国』が入っていた。私は見ていなかったので気になっていた。そしてすでに書いたように原作との関係が気になりつつ、アニメを見るのをためらっていた。が、見た。
 いきなり余談だが、私は『進撃の巨人』は原作を全巻繰り返し読んでいる。アニメ化の際はどうだろうかと不安だったが、この作品については、アニメ版のほうが完成度が高い面がある(同名作品の映画については言及すら避けたい)。他方、『キングダム』(あきれたことにこれもコミックを全巻持っていて一応読んではいる)のアニメには不安以前に出来上がったのを見てしまってた。フルCGのウニョウニョがアニメの『亜人』みたいだなあと落胆した。『山賊の娘ローニャ』はウニョよりゴキゴキ感があった。アニメにCGは避けられないのだけど、フルCGはなあ。
 というころで『宝石の国』である。原作は未読ではあるが、絵のタッチは見ているので、「ああ、高野文子入っている」とかというのはわかる。高野文子の作品のフルCGは現状の技術だとどうだろうか以前にアニメ化について想像もつかないが、と、話戻して、まず『宝石の国』のオープニングなのだが、なるほどねと思った。フルCGの良さの面を逆に強調しているのかと。特に、オープニングでフォスが立ち上がる動作はモーションキャプチャーだろうか逆説的だがなかなかいい。作品の内部でのCGだが、概ねあれでいいんだろうなとは思った。戦闘シーンは美しい。他方、宝石らしさのCG表現については、個人的にはちょっと違うかなとは思った。アニメらしいキャラの作り込みも、原作のキャラより美少女アニメっぽいデフォルメが入っているので、そこも多少違和感は感じた。声優についてはかなりいいなあと思った。フォスの黒沢ともよはかなりいいというか、他の声のイメージが浮かばなくなった。
 まあ、ぐだぐだ言ったが、それでどうだということでもなく、これはアニメ作品であり、原作とは別だというだけで、まだ原作のほうは最新刊まで読んでもいない。が、そうはいっても、アニメは概ね原作をなぞっているし、重なる部分はある。以下はそのぐだぐだの暗黒面で。
 ファンタジーとしての世界観の異質感はあるにはあるが、あまりない。斬新というより既視感が強い。あ、こりゃ……萩尾望都に岡野玲子、それとマックス・エルンストに四谷シモン……といった連想がいろいろと浮かぶ。しかし、そうしたものの総合感というものでもない。
 宝石の少女たちは表層的には無性のように描かれているし、呼称も性の直接性はないが、むしろそのことが強く少女性を表していているので、無性・両性性の対局にあるだろう。宝石は少女の美しさというより、少女が女の肉体と肌とその香りを持たないことの総合なので、こうした点で、宮﨑駿的な少女よりもさらに洗練されている。
 それらが全体として、個人的な印象といえばそうだが、それぞれの切なさを表している。宝石であることは、少女のキャラ化というより、切なさのキャラ化であり、切なさの色合いや質感が宝石として表現されている。切なさの微分化と言ってもいい。この微分的特性が逆に物語として積分されるような仕組みに、まさに物語が動き出すところがすばらしい。
 そうした切なさの彩りを、この作品の愛好者はどのように受容しているのか、という批評的な関心も惹起させられる。切なさ自体は、その様式を変えながらいつの時代にも存在するものだが、それが表現として表出された文化様式としてどのように受け止められるかは異なる。このあたりは、アニメとかに関心ある現在のJKとかに少し当たってみたが、この作品への関心はないみたいなので、意外と十代にはこの作品は届いてないのではないかという感じはする。逆は『東京食種』とか。
 アニメは原作の6巻前あたりで終わっているようだし、今季のエンディングは次期やるぞまんまんなので期待したい、というか、黒沢ともよの声の続きが聞きたい感じもあるが、それはそれとして、物語の展開の予想は、というか雰囲気的な予想はすでに伏線が貼られているものの延長にあるだろう。映像的には既視感のある作品のように思えるし、展開の意外性もある既視感に収まっているのだが、この作品のある完成予想は難しい。未完に終わりそうだとは思わない。切なさの彩りがどのような終着点を見せるのかが、とても気になる。この関心は、自分の、あるいは自分たちの、その内面になぜか知らないが抱え込んでしまった宝石箱の始末のようでもある。始末はできない。できない始末はどのような形を取るのか。私たちは、たぶん、性としての肉体の完成を社会的な整合として受容することはないだろうという直感に拠っている。

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2018.01.05

[書評] 小説 君の名は。(新海誠)

 一昨日、テレビで映画『君の名は。』が放映されていた。ツイッターなどでは放映前から話題だったので、すでに映画は見ていたのだが、とりあえず録画した。CMの入るテレビ放映映画は見ないことにしているが、逆に最近はそのCMのほうが話題になったりもする。

 『小説 君の名は。』(参照)も既読だった。考えてみると、ここに書評なども書いてなかった。映画についてもそうだ。映画も小説も面白かったかといえば、面白かった。が、意外に難しい作品だなとも思った。
 外部的な情報や文化的な文脈での批評はそれほど難しくはないだろう。が、この作品構造自体の解明はけっこう、パズルになっているのがわかるので、難しい。
 パズルとして見ると組紐がキーになっていることは明瞭にわかるし、そうした明示的なキーが提示されていることも逆にパズルの真相をややこしくするだろうことも直感した。そこがどこまで解けるかが作品批評との関連を問うこともめんどくさい感じがした。
 もう一つ、批評的なためらいがあった。この作品は、東北大震災の、日本人の歴史経験の最初の作品なのではないかという思いからだった。この作品では、隕石による大量死と風景の喪失が示されているが、隕石という部分を除けば、その喪失は東北大震災に近い。「日本人の歴史経験」と言ったのは、あの震災の死者と私たち生存者は、いわゆる儀礼的な鎮魂を超えて、どのように霊を結び合うのか、という課題がこの作品に結果的に(意図的かはわからない)描かれているためだ。ただ、そこはこの作品の批評的な中核かといえば、違うだろう。
 映画という映像と、文字という小説だが、表面的な差異はないかに見える。小説のほうが、主人公二人の内面に入り込む点で、映画を補う面もあることと、映画では映像的に間接的に表現されている嗅覚の描写が小説では際立っていることなどの差はある。また、映画のほうは映像の中に連続的に象徴を送り込むことができるので、物語構造がわかりやすくなる面もある。先に示した組紐だが、これが三葉から瀧、瀧から三葉として渡されることで大災害と死者の縁と転換が上手に構造的に切り替えられている。(余談めくが瀧が乗せてもらった軽トラックの記号性も。)
 といいつつ、ここでふと個人的な思いを蒸し返してみたくなる。大災害は多数の死者をもたらし、死者は哀悼を生者に残した。その哀悼はもはや死者が蘇ることがないということでもある。が、哀悼にはどこかしら死者を蘇らせたい情念がこもる。この物語は、そうした死者の蘇りの物語という構図を持っていることは確かだ。そして、その時間の逆転の転機が先の組紐の受け渡しによって起きる。三葉の体を借りた瀧が時間を逆転し死者を蘇らせようとした試みは組紐の縁で三葉の体に三葉の心(霊)を戻すことで、死の再生をもたらした。風景は喪失したが大量死も消えた。
 そして、その再生は、縁の終わりでもあった。この物語構造の無意識的な象徴は重たい。私たちは死に隣接することで深い霊の融合を味わうのだが、生への回帰のなかでその融合の原始的な思いだけを残して、個々の名前を失う。この図式はジャン=リュック・ナンシーがハイデガーの死の哲学を生と共同体の哲学に組み替えたことに似ていて、私たちは無名の霊の融合を分かち合うことで共同体を形成している。私たちは私たちが本当に愛せるただ一つの霊の期待をいつも偶然のようにこの共同体に期待できるのだということで、私たちは共同体のなかで生をつないでいる。瀧が、死を乗り越えて、新しく「君の名」を再獲得する意味である。
 さて実は、昨日、小説を読み返した。映画を見て、小説を読んだおり、放置しておいてパズルへの思いをもう少し探ってみたかった。パズルのパズル性は時間差のなかに潜んでいる。この物語では、三葉の時間と瀧の時間のなかに3年間のズレがあるが、このことがリアル世界の再構築のなかでどのような年齢差を生むかは明瞭にされていない。表面的には、そこでは三葉は瀧より三歳年上のように思われる。ただ、最後にすれ違う「その女性」は瀧のリアル世界からは「三葉」という名前では提示されていない(組紐の同定象徴はある)。逆にいえば、三葉という名前が三年間のパラドクスを覆っている。
 そのパラドックスに当てはまるキーは、「奥寺先輩」である。彼女の年齢は明示されていない。大学生で喫煙という条件からは三歳ほど年上と見てもよいだろう。ここで粗く奥寺と三葉は重なるのだが、物語上の構造対比でいうと、瀧と奥寺のデート(瀧にとっては残念なデート)を境に、瀧と三葉の身体交換は終わる。三葉が消える。ここの部分は、このデートが原因で三葉が消えるという読みの可能性を微妙に残している。このことは同時に、三葉からの奥寺への同性的な恋慕も消えるという意味でもある。この暗喩は、この時点まで瀧と三葉の心情だが、それは恋愛というより、フロイトの言う前エディプス期、土居健郎の言う「甘え」にも似ている。
 奥寺を重視するのは批評的なバランスを欠くようだし、新海作品における年上恋慕またかよと流してもよいようだが、物語の構造上、奥寺は最終部で登場し、これがまた物語の構造上は重要な転機の意味を持つ。ここでの奥寺との別れが、新・三葉との出会いを導いているので、やはり奥寺はこのパズルの重要なキーであることは間違いない。むしろ、なんとなくではあるが、この物語は、新海の趣味というより、『言の葉の庭』と同じく、年上の女性との恋愛の意義を問うなにかがコアにあるのかもしれない。連想されるのは、吉本隆明の共同幻想論における国家の始原としての神聖なる姉弟が、逆転して対幻想に帰着する集合的な無意識の図柄にもなってくることだ。
 さて、ファンタジー作品なのだから、素直に時間のねじれやパラレルワールドを受け止めてもいいのだろうし、そして私の強い主張でもないのだが、三葉は最初から存在しなかったか、単に瀧の幻想であり、奥寺への恋慕の変容が産んだ幻想なのだろうというふうに考えている。
 この物語が文学的にどのように評価できるのかは私にはわからない。自分と同体のように思える他者が(異性であることが多いだろうが)存在するという、奇妙な確信は恋愛の意識のなかに先駆的に織り込まれている。『Sense8』でもある。それは人の意識の必然であって、外界に必ずしも運命的に実現されるものではないと、人生のなかで諦観したくもなる。
 だが、それは、あえて言えば、起こるのだ。ナンシーもそれを待ちなさいというふうに高校生たちに熱く語ることもあったが、それが起きてしまえば、私の意識のなかで強烈な時間経験の逆転が起こり始める。それはこの物語で、瀧が三葉のそれまでの人生をすべて見渡して理解するようなある特殊な感覚である。


 

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2018.01.04

[書評] 隷属なき道(ルトガー・ブレグマン)

 ブログが長く休止状態だった昨年だが、その休止を挟む10月22日に実施された衆院選挙に関連して、私はポリタスに『たぶんあなたは採用しない「3つの投票方法」』(参照)という寄稿をした。この寄稿には自分ではいくつかのモチーフがあった。一つには、日本風のリベラルと保守の対立は党派的すぎて、もし本来のリベラリズムがあるのなら、ごく簡単な原則を基本的な要素として重視するはずだという指摘がしたかった。これに実質的にはアイロニカルな含みが生じるのはわかっていた。いわゆるリベラル派が党派性のために本来のリベラリズムを二次的なものにしていることへの批評である。

 しかしこうした私の主張は、批評的アイロニーの想定内であるように、あまり顧みられることはなかった。私としては、リベラリズムの倒錯的な状況よりも、もっと本来のリベラリズムが何を主張すべきなのかという指標を描くことが重要だと思っていた。そのとき、おそらく指標となりうるのは本書『隷属なき道(ルトガー・ブレグマン)』(参照)ではないだろうか、という思いは去来していた。
 リベラリズムの簡素な指標は、格差の是正である。そしてその格差は、絶対的な貧困が克服された先進国では相対的な格差を積極的に是正していくことにある。本書はこの問題意識が明確に示されている点でも興味深い。
 格差の是正というテーゼで、微妙だが2つの留保が生じる。一つは、絶対的な貧困の言説はそれがどれほどセンセーショナルに大衆に好まれても実際には修辞的にしか機能しないことだ(大衆的な怨嗟の熱狂の有無は政策策定には至らない)。これは旧来のリベラリズムの悪弊に近いものがある。私たちはガルブレイスが言う「豊かな社会」にいることは基本的な前提になる。
 もう一つは、「平和主義」の幻想である。冷戦時の左派を継いだ旧来の日本のリベラリズムからすれば、日本はまたナショナリズムから他国への侵略を開始する懸念があり、その懸念は過去の侵略の事実の否認が示すものだ、というふうに主張されがちだ。この問題は、それが特に日本の現行のリベラリズムによって、その課題の重要性を持てと強いる点においてすでに呪縛に近いものになっている。このため、本来のと言うべき、相対的格差の是正の主張とうまく整合してこない。そのためこれは、正義の二本立て、とでも言うような妥協項目の形になる。
 だが、現代的なリベラリズムを想定するなら、むしろこれについては、相対的な格差解消の実現は日本の市民社会の成熟を促すものであり、その過程で平和主義の志向は自然に厚いものになるだろうという期待になる。だが日本のいわゆるリベラル派はそれを持つことができない。党派的すぎて日本の市民を分断し、市民の相対的なリベラリズム意識の成熟を信頼できていない。このため、旧来日本のリベラル派は、戦争の志向と民族差別意識を相対的な貧困に連結させ、その状態を体現する敵対者をあぶり出して叩くという劇場的な構図を取る。皮肉にも幸いにしてそうした敵対者であるネット右翼には事欠かない。
 こうした日本の擬制的なイデオロギー対立を避けて、本来のリベラルの課題である、相対的な格差是正に取り組むのであれば、どのような指標がもっとも明快か。
 おそらく本書が主張するベーシックインカムの導入であろう。本書の帯にもあるように「福祉はいらない。お金を直接与えればよい。」ということだ。
 もちろんというべきだが、ネットにはこの論者は多い。そして、当然ながら本書も彼らには肯定的に受け止められる。
 そうした明快な基調に思える本書でありながら、実はここで微妙な問題が起きている。これは単純な問いの構図になりがちなことによる副作用である。ベーシック・インカムは是か非かという問いの構図に陥りがちになることである。だがおそらく、この問いの構図はあまり意味がないだろうと私は考える。もちろん、本書の議論はあたかも、この是非について、経済学的な視点というより、通常の歴史学的な視点で説かれているものだ。が、この議論の是非の轍にはまるなら、本書は、いわば正しいユートピアの提示ということにとどまるだろう。もちろん、それでよいのだとも言える。そこが微妙な部分である。
 例えば一読者の私としては、ベーシック・インカムの是非はおよそ議論にならない。政策として実施されれば好ましいことは明白だからだ。そして、この好ましさは、必ずしもベーシック・インカムのみで実現できるものではない含みを現実的に思考させる。例えば、近似のマクロ経済学的な政策オプションはありうるだろうし、むしろユートピアとベーシック・インカムを結合して、ある種の革命を問うような単純な構図より、実現可能なマクロ経済学的な政策オプションのほうが現実には機能するだろう。
 さてここから先の議論は、批判的に聞こえるかもしれない。私の意図としては、批判ということではまったくないのだから。そこをどのように言うべきなのかためらうところでもある。しかし、2018年という新しい年で思うのは、少し踏み込んで見るべきかなということでもあり、少し書いてみたい。
 本書は簡素に明快に書かれ、しかも章末にはすっきりとしたアジェンダのようなまとめもあり読みやすい。だが、論点はかなり雑多なものになっている。まず、雑多な様子を個別に捉えるなら、本書の邦題の副題がそれを示している。「AIとの競争に勝つベーシック・インカムと一日三時間労働」。ここでは、AIと労働の関係、ベーシック・インカム、労働時間の革命的短縮というテーマがあり、これらは、表向きベーシック・インカムで統合されている。そうすると一見、書籍としてのテーマがまとまりやすく、主張も明確になるからだ。しかし本来なら、つまり、相対的な格差の是正を主とするなら、ベーシック・インカムの主張だけでよく、AIと労働の関係や労働時間の短縮は別の次元の課題となる。ことさらに補足するまでもないが、AIに勝つというのはベーシック・インカムで解ける単純な問題ではなくさらに人間倫理に迫る個別の大きな分野を形成しているし、労働時間の短縮は例えばワークシェアリングの枠組みでも考えられる。これらを単一にベーシック・インカムでまとめるには無理があるし無謀とも言える。なにより、本書を実際に読めば、そこまで単純化された議論にはなっていない。
 つまり、そこなのだ。本書は主張の書、ユートピアの書として書かれているが、実態は、現在の先進国の問題がどのような様相を示しているかということに、読みやすい修辞とわかりやすいベーシック・インカムの構図でまとめているに過ぎない。こうしたある種の無茶振りは、「国境の開放」の議論でも顕著で、「国境の開放」についての修辞的な議論では実質的なベーシック・インカム論とは結びついていない。ここは普通に考えるなら、開放された国境を超えた移民に即座にベーシック・インカムを与えるということになるはずで、そうした像がどのようになるかは想像しやすいにも関わらず実質的な言及はない。
 おそらく本書には隠された通奏低音がある。あるいは隠された前提だろうか。ベーシック・インカムが国家経済に閉じていることだ。本書のベーシック・インカムが本書が暗黙に示すようなグローバルな視座を持つなら、グローバルに実施が可能だが、ユートピア性としては国家に閉じているのである。これは、よく日本の出羽守が小国を理想郷としてしまうのと同じ修辞である。日本ですら、もし地域分割してそこで経済をブロック化し、その優位なブロックでベーシック・インカムを実施すれば、本書の理想に近いものが隔離された小域では達成できてしてしまう。
 こうした点からわかりやすくなるのだが、本書の主張は実際にはリベラル派の主張というより、実際にはフィンランドでは中道右派が推進しているように、新しいナショナリズムのユートピアという本性を隠している。
 逆に考えるなら、先進国の相対的な貧困は、グローバル経済の派生であり、国家間の擬似的であるが同時に生産力の競争の国内的な派生でもあるためだろう。問題は、国家が生産性の競争にさらされているのに国家経済を小域に閉じることができないため、グローバル世界の格差が国内的な相対的な格差に反映されてしまうことだ。労働力が国家を実質超えているために、国内の労働者は海外の労働者と争うことになっている。さらに先進国では高齢化が進展しているため、高齢層の富がその家系に再配分され国民社会には再配分されにくくなっている。それを打開するのは、家系より国家社会を優先するナショナリズムが誘導されやすくなる。
 それでも本書には、若者らしい著者の強い基調の力があることは確かだ。ユートピアを提示することにくじけないことである。つまり理想がなんであるかを語ろうと意志することだ。本書がオランダの比較的小さなコミュニティで自費出版のように生まれたのに世界の読者層にまで届いたのは、その巧妙な修辞よりも、理想を語ろうとする意志の強さでもあるだろう。
 そしてその強さは、おそらく経済学や歴史学でもっともらしく語られるベーシック・インカムのテーマよりも、人間の労働はどうあるべきなのか、人生の時間を私たち人間がどのように取り戻すことができるのかという、本質的な問かけに拠っている。

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[映画] 最後のジェダイ スターウォーズ8

 前回の『フォースの覚醒 スターウォーズ7』では、デイジー・リドリー演じるレイは、とてもよかった。そのほか、いかにもスターウォーズらしさがあって楽しいには楽しかった。だが全体として見るとあまりにも以前のシリーズとの参照が多く、これはスターウォーズのオマージュ作品というか手の込んだパロディ作品ではないかという印象が濃かった。なにより、なんでこんな作品を作ったのかその根幹がよくわからない作品だった。スターウォーズという名前を冠する作品としては失敗作だろうなと思うしかない。

 それで、『最後のジェダイ スターウォーズ8』である。7ではハン・ソロ役ハリソン・フォード、今回はルーク役のマーク・ハミルである。なんだろうか。民主党シリーズ9の菅直人という感じのノスタルジーか、紅白歌合戦の石川さゆり的なマンネリ様式美なのか、なんだか見る前にディサポインティングな状態である上、すでに見た人も「またあれだよ」とか「まあ、映画として見れない、金返せとはいわないけど」と暗雲漂うのだけど、まあ、見た。正月の映画館は思ったより空いていたというか、すでにこの作品、枯れているんじゃないかな。
 どうだったか。映画産業の製造品としてはきちんとクオリティ・コントロールされているなあという印象。ここはひどいやという部分は特に見当たらない。スターウォーズらしい戦闘シーンや間に合うのかぁみたいなお約束サスペンスはおかわり自由状態。
 他方、うへえな部分は前回同様なのので、見終えてから、うーむこれはなんだろう。せめて、ルーク師によるレッスンが延々と続かなかったり、甲冑ちゃんばらは様式美でいいけど、カミカゼ特攻バンザイ攻撃が連続したのは、あかんはこれ。と思っていたら、そこはきちんと作り手に意識されていて、工夫があった。
 見終えてから、いや、この作品はこの作品で、スターウォーズの世界を理解し、現代的な批評性を加えて再・創造しているんだろうという意図はわかった。ということで、後からいろいろ考えてみると、それなりに強い主題はあったなあと理解して、作り手たちもいろいろ考えていたんだろうなというのは、じんわりわかってきて、まあ、これはこれでいいんじゃないかという感じに変わってきた。
 以下、ネタバレ含む。

 この作品は実はかなり主題が意識されていた。とても明瞭にである。それは「最後のジェダイ」そのものである。つまり、ジェダイは滅びるのだ、ということだ。そしてそれは宇宙のバランスと運命からの必然であるということ。それは絶望であり、「最後のジェダイ」とされるルーク自身が生み出したものだ。ゆえに彼は絶望のなかで慢心している。絶望に確信を抱いている。そしてこれまでのスターウォーズの表向きのテーマは、アナキン家の血統から王が生まれることがジェダイの復活のように見られていた。まるで天皇制の世継ぎみたいな情念である。
 それが王家の血筋デナーリス姫であり、違う、レイア姫であり、ダークサイドに堕ちたヴィセーリス王子である、違うってば、カイロ・レンである。彼は、ダークサイドに堕ちたゆえに、血統への反発もおそらくあって親に捨てられたレイに期待をかける(これは彼に残る善性や改心からではない)。レイもフォースが目覚めるにつれ、王家の血統の幻想を抱える。しかもスターウォーズファンさえも。
 しかし、レイは無だった。無からフォースが生じていた。あるいはレイはどこまで鏡像のような血統的幻想を抱いても彼女自身でしかなかった。親はいない。王家の血はない。そこにダークサイドの一つの転換点があった。
 顧みれば、アナキンも孤児だった。つまり、ジェダイを基軸とした王家と共和制の幻想(まるでニッポン)、そして反乱軍の幻想(まるで反アベ)をそれぞれ脱・構築していく物語となり、さらにアナキンの原点の孤児を最後に暗示させていた。これで、スターウォーズという「アナキン物語」の大きな一貫性が再構成される可能性が出てきた。それと、スターウォーズという陰陽の世界のダイナミズムが復活しそうに思える。
 これなら、スターウォーズ9は期待が持てそうだなと思えた。
 逆に、これってスターウォーズ9で終わるんだろうかという、いやな感じもしないではない。あれだよ、X-MENも滅んだあとに、『ギフテッド』だぜ。『レギオン』だけじゃないんだから。ああ、ゲースロも終われるのか。みんな、渡鬼になっちまいな。

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2018.01.02

[書評] アフター・ビットコイン(中島真志)

 書名『アフター・ビットコイン(中島真志)』(参照)の含みは、「ビットコインのブームの後に起きること」ということであり、さらにそれは暗示的にではあるが、ある誘導している関心があると言ってもいいだろう。ビットコインの終焉である。ゆえに、その後に何が起きるのか、と。2017年に入りバブルの状態を見せた後、現状、バブル崩壊の兆しも伺えるビットコインが本当にバブル崩壊となり、事実上通貨としては使えないという状態にまでなってしまうのだろうか。しかし、本書は、バブルへの懸念に一般的な言及はしているもの、注意深く予断は避けている。では、「ビットコイン後」とは何か。何が起きるというのか。

 本書の明確な基調としては、ブームとしてのビットコイン現象(その呼称は本書にはないが)はしだいに人々の関心が引き(加えて採掘などの原理的な限界もある)、その後には、ビットコインよりもその基本技術である「ブロックチェーン技術」が注目されるようになる、ということだ。
 そのため、前半では、ビットコインとは何かという点と、その中核技術としてのブロックチェーン技術に焦点を当てつつ、その最初の成功例ではあるが一例であるビットコインの問題点や暗部に言及している。後半ではブロックチェーン技術が各国ベースの仮想通貨が生み出していくだろうという中期ビジョンと関連して、金融革命(この呼称も本書にはないが)とも言える送金決済の未来について触れている。
 盛りだくさんの内容を簡素によくまとめているが、基調および視点は違うとは言え、先行して出された同じく新潮社『中央銀行が終わる日(岩村充)』(参照)と内容的に重なる部分はある。技術論的な部分(たとえばその匿名性の限界)や貨幣についての哲学的な考察については、岩村の書籍のほうが詳しい。他方、中島の本書について言えば、むしろメインとなるのは、ブロックチェーンを応用した決済システムの展望であり、それに焦点を充てて新書的な小冊とするかそこを発展させてもよかったようにも思う。ただし、金融面に偏った専門的な書籍となってしまう懸念はあるだろう。
 やや批判的な指摘に聞こえるかもしれないが、本書については、そうした書籍と内容の全体についての評価より、各部で示されているディテールが面白い。日本銀行に関連する言及では著者は日銀マンでもありその内情を知っている点で興味深い。また、私のような一般読者にしてみると、言い方は品がないが、ビットコインへの悪口とでもいうダークな部分の列挙は面白い。
 本書の帯にもその部分は強調されている。「たった1%のユーザーが、ビットコインの9割を保有」や「通貨として使っているのは、全ユーザーの2%」、「全取引の94%が中国元で、ドル・ユーロはごく僅か」。ぎょっとするような事実である。
 もっとも、これらの事実は事実ではあるが、ものの見方にすぎない可能性はある。利用者や保有者がいかにも偏在しているかに見えるのは、ウォレットを使う手前、仲介業者がまとめているだけで、ネットで話題を稼ぐプロブロガーなどはもともと少数派という以前にそもそもこうした統計でカウントされていないかもしれない。また、本書は2017年9月の脱稿なので、基本その年の前半までの状況だが、後半には大きな変化(登録制を挟む取引所の状況)などもある。今後も変化するだろう。
 気になるのは、ビットコインと事実上関連の深い中国マネーの動向だが、ビットコイン採掘所が中国にあっても、他のクラウドセンター同様他国が管理している部分は大きいだろう。にも関わらず、中国元がビットコイン化される状態は事実上のフライトキャピタルである。ゆえに中国政府が規制に乗り出した経緯がある。
 細かい点では本書の主張へのカウンター議論はいろいろあるだろうが、大筋において、ビットコインの実態像は本書がよく描き出している。個人的には、創始者のナカモト・サトシについてそのゴシップ的な興味より、その保有の現状が事実上のビットコイン維持に機能しているところが、彼の、自由通貨の主張と矛盾している点が面白くもあり、怖いなと思える点でもあった。
 話が前後するようだが、本書はビットコインの仕組み、特にブロックチェーン技術についても説明している。図解を含めてできるだけやさしく解説しているが、私の印象に過ぎないものの、一般読者にはこれでも理解しづらいのではないだろうか。公開鍵暗号についてはあえて解説が含まれていないし、ハッシュ関数についてもごく簡単な解説しかない(なぜ「ハッシュ」なのかという次元の話もない)。ナンスとブロック形成についても理解しづらいのではないだろうか。このため、ビットコインの特性とも言える「プルーフ・オブ・ワーク」についても同様の状態になる。
 本書は、ブロックチェーン技術に中心を置いているので、ビットコインの採掘(マイニング)に関わる「プルーフ・オブ・ワーク」の説明が薄くなるのはしかたがない面もあるだろう。いずれにせよビットコインの技術面については他書にあたったほうがよいとも思う。が、率直なところ、これならわかりやすいとうい書籍は思いつかない。公開鍵暗号やハッシュ関数の説明だけでも、どうすれば簡単になるのか、検討もつかない。逆にいえば、この分野の技術に関心を持ち続けて人にとってみると、ブロックチェーンを支える技術には独自性はなく、ビットコインについても、採掘や上限の仕組みが面白いアイデアだなと思うくらいだろう。経済学的に見れば、経済学の素人って怖いものなしに危ないもの作るなあという感想もあるようには思える。
 本書を読んで、個人的にだが、ここをもっと描いてほしいなと思ったのは、エストニアのデジタル通貨の状況や展望である。すでに『未来型国家エストニアの挑戦』(参照)に、エストニア自身の側からのそのビットネーションとも言える姿は描かれているが、本書のような批評的な視点で捉えたときにどのようになるのかは気になる。余談だが、エストニアは人口規模で沖縄県とほぼ同じなので、沖縄を特区としてビットネーション化すれば事実上の独立的な状態への足がかりになるような夢もある。


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2018.01.01

[書評] 人を伸ばす力(エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト)

 明けましておめでとう。そう言ってみて、少し奇妙な感じがする。新年を迎えることに、何か喜ばしいこと、しかもその喜びを共同体に分かち合う(partager:パルタジェ)意味がどこにあるのだろうか。疑念がある。どこにもないんじゃないか。あるいはどこかにあるのだろうか。
 あるとすればそれは書籍との出会いにも似ているだろう。誰もが賞賛するような優れた本などというものはないと言いつつ、古典のように本来は誰が読んでも価値があるとされるような本も他方存在する。そこで古典にそのような、ある普遍的な価値があるなら、誰もがそれを読むべきだと言えそうにも思える。そうでもない。そう言ってしまえば、冒頭のような少し奇妙な感じが伴う。
 私は何を言おうとしているのか。書籍の価値は、それを読んだ人が、密かにある種の確信をもってパルタジェするときに、その行為を含めた過程に生まれるものではないだろうか。古典とはそうしたパルタジェの一つの歴史としての指標であるのかもしれない。
 そうした意味で、古典と呼ばれているわけではないが、私がとても優れた本だと思える、特別な書籍に触れたい。でもそれは誰にとっても価値のある書籍ではないだろうし、むしろ凡庸に思える書籍かもしれない。ただ、私にはとても重要な書籍である。そのことを分かち合えたらと、こんな日、何かの初まりを象徴する日なら、願いたい。

 『人を伸ばす力』(参照)がその一冊である。表題を見ると拍子抜けするだろうし、装丁も地味そのものである。そして読み始めても、こうした表題の書籍にありがちな、ツカミがない。これはつまらない本ではないか。専門書とまでは言えないまでも心理学の一分野の本ではないかと思える。オリジナルの表題のほうがもう少しわかりやすいだろうか。"Why We Do What We do"「なぜ私たちは私たちがすることをするのか?」謎のような表題である。意味合いとしては、「私たち自身が何かをするのはなぜなのか」だろう。副題には"Understanding Self-Motivation"「自身の動機づけを理解すること」とある。訳書の副題は「内発と自律のすすめ」とある。表題が訴えていることは、何かを行動するときのモチベーションを外から得るのではなく、自分自身で生み出す、ということだ。「内発」にはその含みがあり、そして、その結果が「自律」であり、内発行為の結果に責務を持つ生き方を論じている。少し勇み足な言い方になるが、それが教育の本質であるということでもある。
 多くの自己啓発書は、動機、モチベーションのコツを語る。本書は、そのまったくといっていいほどの逆で、動機・モチベーションは人の内面から生まれるものではくては意味がないというのだ。もっと言えば、自分らしく生きるなら、モチベーションのコツを解く自己啓発書をすべて放り出す必要がある。実際この本はおだやかに淡々と叙述されているようで、驚くほど大胆な主張をしている。アメとムチの人の制御を否定しているし、スキナー流の行動分析についても根底から否定している。報酬が与えられると人は内発を失うという単純なことが書かれているだけだが、それに納得できる人は少ない。本書は、そうした現代風の常識の催眠を解く効果があると言っていいかもしれない。さらに、本書は、外的なあらゆるモチベーションを否定する。
 ある意味とても単純なことだ。

 私は内的動機づけの経験それ自体に価値があると信じている。バラの香りをかぐこと、ジグソーパズルに熱中すること、日差しが雲にきらめくのをしみじみ眺めること、ワクワクしながら山頂にたどり着くこと、これらの体験を正当化するために何かを生み出す必要はない。そのような経験のない人生は人生ではないとさえ言えるかもしれない。

 本書は心理学の、なかでも学習についての書籍なのだが、試験を賞罰のように使うことを否定している。いかに学習を進めるかということと、学習者を評価し統制することは根本的に違う。「人にもっと何かをさせようとしてほめていないだろうか。他者を巧妙に統制しようとはしていないだろうか。」こうした根本的な疑問を本書は喚起する。
 凡庸なお説教のようにも思える本書を丹念に読んでいくと、いろいろと発見がある。おそらく本書は一読して終わる本ではない。そうした私の発見の一つは、自我関与と承認である。
 自我関与(Ego involvement)は、「自分に価値があると感じられるかどうかが、特定の結果に依存しているプロセスのことを指す。」 そして「自我関与は、他者から随伴的に評価されるときに発達するもので、それは価値や規範の取り入れ密接な関係にある」具体的には、「自我関与をしていると、自分が他者にどう見られているかが焦点になる。」これは、現代の承認の問題と重なるだろう。
 自我関与の原点は、自己の感覚の希薄さによるものだ。自分の感覚を自分のものとして受け取ることができない。それは自分の感覚だけがもたらす経験を生きていないからだ。本書は、「自分に失敗してもいいよと言いきかせなさい(Allow yourself to fail )」という言葉を引いている。
 本書の口調ではないが、極論すれば人はわがままに生きていい。そのわがままがもたらす必然的な結果(特に社会的な結果)に責務を持てばいい。私はもう少し言いたい。根拠がないと思えるルールはその結果に責任を持つなら破ってもかまわない。
 本書は内的な恐怖を受け入れる必要も述べている。自己破壊的な行動をやめるには、自分に能力がないこと、愛する人から捨てられること、死ぬべき運命であること、「それが何であれ、不健康な行動の源泉となっている感情を経験する覚悟ができなければならない」としている。こう言ってもいい。泣いてもいいし、怖がってもいい。その嫌な感情の経験を避けようだけはしてはいけない。
 本書にはさらに決定的な言葉がある。

 生きていることのほんとうの意味は、単に幸福を感じることではなく、さまざまな人間の感情を経験することである。

 The true meaning of being alive is not just to feel happy, but to experience the full range of human emotions.

 そして、「幸福感の追求が他の感情経験を妨げるとき、望ましくない結果が起きる可能性がある」。
 本書は、こうした人生の根源的な問題に気づいていない状態では、つまらない一冊でしかないだろう。しかし、この本は穏やかにみえて、深い内容を秘めているし、おそらくそのことに気がつくとき、自分の人生というものの感覚体験の確実さを志向するようになるだろう。
 あと、本書を読みながら、よくわからないなと思える部分があれば、英語の原書にあたったほうがいい場合もある。本書が気に入ったら、ペーパバックスも手元に置いておくいいだろう。気取りのないきれいな英文で書かれている。


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