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2017.12.30

[書評] シェイクスピア(河合祥一郎)

 こんな新書が出るだろうなと予想していたどんぴしゃりの新書が出ると、それはそれで驚く。予想には二通りある。世間受けしそうな話題や著者名だけで一定数掃けそうな書籍である。偏見ですみませんが、それらはほとんどと言っていいと思うけど、読む価値はない。なんというのか、ありがちな頷きを得るための読書というのはあるだろうし、ある種の不安に予想された安心を与えてくれる書籍というのもあるだろうが、ことさら読書の対象というものでもない。

 で、もう一つの予想は、前著と知的な状況から考えて、この本が出なければ、編集者は嘘でしょというものだ。この本『シェイクスピア(河合祥一郎)』(参照)がまさにそれだ。2013年祥伝社から出た『あらすじで読むシェイクスピア全作品(河合祥一郎)』(参照)を読んだとき、「これ、書籍として半分だよね」感があった。シェイクスピア作品の概要に触れておきながら、シェイクスピアの評伝がないなんてこと、あるわけがない。が、なかなか出てこない。となると、これは、シェイクスピア没後400年記念で出るでしょう、と。出た。昨年のことである。もうすぐ2018年になるのに今頃という感もあるが、いっけねえ、これ言及するのを忘れていたという宿題感である。
 というわけで、私の主張としては、本書は前著のパート2として理解している。書架に二冊並べておくといい。というか、およそ読書人であれば、書架に聖書とシェイクスピアは並べておきたい。古典的にはどちらも原典をと言いたいが、率直に言ってそれは、見え張りすぎ。どっちも青春を犠牲にしなければ読めるような代物ではないから、人生の合間に、「そうだな、オペラ『タイタス・アンドロニカス』の原作ってどういうのだっけ」と手にするくらいでいいだろう。作家日垣隆が「リファ本」と呼んでいたタイプの書籍である。というわけで、二冊を合本にしてくれるとありがたいし、予想がどんぴしゃりというわりに、別の出版社から出たのはなんでかなと疑問は残る。
 前著では、各作品についていわゆるあらすじだけではなく、シェイクスピア原文の引用から英語としての妙味を解説してくれるところに特徴がある。特に名セリフの解説がいい。他方、本書の特徴はというと、こういうとおこがましいが、現代のシェイクスピア学を上手にまとめている点だ。私が英文学を学んだころの知識とずいぶん様変わりしているし、いろいろシェイクスピアの謎とされていた部分もあっさり解けている印象があった。というか、シェイクスピアって謎の人と思っていたが、けっこう史学的にわかってきているのだという感想を持った。
 本書後半は、前著の作品あらすじとまさに一体になるもので、作品論がわかりやすい。当然話が被っているところもある。ハムレットの「生きるべきか死ぬべきか」についても、前著で「思春期の若者が自殺を考える台詞ではない」として解説を加えているが、本書では「キリスト教では自殺は禁じられているのだから」と踏み込んでいる。
 あと些細なことだが、本書の参考文献を見ていたら、私の小学校時代の幼馴染の名前があった。二十歳のころ同窓会の幹事をしたとき、彼女はすでにシェイクスピア学を志していた。そして、シェイクスピアを理解するには、人間というのものを理解しなくてはと真剣に語っているのに惚れそうになった(当時僕には恋人がいた)。その後、数度彼女と偶然会って立ち話などしたこともある。それで終わり。あれから30年は経つ。僕はすっかり老けてしまったのですれ違ってもわからないだろう。

O, wonder!
How many goodly creatures are there here!
How beauteous mankind is! O brave new world,
That has such people in’t!


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2017.12.29

[書評] 光明皇后(瀧浪貞子)

 本書『光明皇后(瀧浪貞子)』(参照)というシンプルな表題を見てまず思ったことがある。大げさな言い方になる、という自覚はあるという前提であえて言うのだが、日本史の最大の謎は、光明皇后であると私は考えている。もちろん、「聖徳太子」にも謎は多いし、桓武天皇にも平清盛にも謎はある。他にもいろいろ挙げればきりがない。なのになぜ光明皇后なのかというと、おそらく彼女こそが実質的な天皇家の創作者だろうと思うからだ。

 なぜか。その関連から補足したい。まず、「日本史」と「天皇」という概念は日本書紀によっているというのが基本。この書紀のモチーフは、「持統天皇が正統である」というイデオロギーである。そもそも「持統」というのが「統を持す」ということである。
 いきなり穿った見方になるが、そうしたイデオロギーが必要になるのは、実態は逆であるか、疑問が強かったからだろう。つまり、「持統天皇は正統ではない」という命題が当時あったからだろう。
 そこで、正統とは何かということが問われる。だが、大日本史的な日本史の枠組みから十分に自由になっていない、近代日本の史学からは、この問い自体が見えてこない。戦前は、津田左右吉を例にしてもわかるが実質隠蔽すらされていた。では、この文脈でなにが正統なのかというと、「壬申の乱」つまり国家内乱に勝利したということである。予断なく書紀を読めば、書紀がまさに壬申内乱の正統のための史書であることは自明だろう。ここで少し先走ると、このことは聖武天皇のオブセッションに関連している。
 ややこしい問題はあるにはある。日本の王朝が実質できたのは、おそらく近江朝からで、このときにそのエポックとして国号が制定されたに違いない。この点はだいたい諸学者の暗黙の合意はあるが、史実的な裏付けができない。ここからまた穿った言い方になるが、この王家の実質的な始祖である天智天皇は、ゆえに天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)である。ならばここから王家が始まるとしてよいはずだが、これを天智天皇の息子ではなく兄弟とされる天武天皇が壬申内乱で実質簒奪した。この簒奪者が新しい始祖であり、正統なのだということが繰り返すが、書紀のモチーフである。ここで彼は、始祖を象徴する「武」を、おそらく天皇家の、おそらく氏名であるアマ(天)を冠して「天武」とされたのだろう(諡号)。これは同様に、聖武(その前が文武)と桓武が相反しつつ主張していくことになる。余談だが、聖武は諡号でもない。
 とまあ、前置き話に、なんとも勝手なとんでも古代史を開陳していると見るむきあろうが、書紀のモチーフが持統の正統の主張であるということは前提にしても不自然ではないだろう。
 さて、このイデオロギーの史書である書紀がいつできたか。これは、あきらかに持統天皇の後代になる。もちろん、その前資料は持統天皇以前にはあっただろうが、問題は、くどくど述べてきた書紀のモチーフとの関連である。
 この書紀成立時代を天皇の代から見た時代でいうなら、彼女の孫(天武の孫である)の文武天皇ではあるが、短期に失敗していると見てよく。この混乱は続日本記にも反映している。そして、文武天皇の不安定性から、この間の時代の連続する女帝は、女性であるというより、正統の権利の留保期間の意味合いが強くなる。そしてそのターゲットはようやく聖武天皇に結ぶ。つまり、書紀のイデオロギーの完結が聖武天皇である。
 ここですでに奇っ怪なのは、聖武は、文武の息子として天武・持統の正統でもあるが、同時に、皇統ではない藤原不比等の娘・宮子の息子でもある。また、文武の位置は元来、草壁皇子が継ぐものであり、そこにも、本書に出て来る「黒作懸佩刀」が象徴的だが不比等が大きく関係していた。簡単にいうと、この正統の正体は、不比等が実質の藤原氏の始祖となり、この藤原氏が実質的な皇統を支配することだ。これが聖武時代に実現するかに見える。
 だが、聖武天皇という実質、藤原血統天皇の最大の危機がこの時代に2つ訪れる。1つは、「長屋親王」という聖武の正統を脅かす存在で、しかもその考古学資料としての親王号は、天皇位の継続を意味していた。話をはしょるが、書紀というイデオロギーの完結が聖武天皇であることは、長屋親王を抹殺する必然を持っていた。
 第2の危機は、藤原血統天皇を実質制御する藤原氏の権力主体である藤原兄弟が、疫病で死に絶えることである。しかもこの危機は、おそらく当時の人々には、長屋親王虐殺の呪いと見られていた、としてよさそうだということだ(ここは曖昧に聞こえるだろうが)。この危機への対応が、大仏建立と仏教による支配と見てよいだろう。
 この2つの危機の只中にいて、すべての対応を采配できたのは不比等の娘である光明皇后しかいない。聖武天皇はすでに実質精神的な危機状態であった。
 あと、危機ではないが、これらの危機の背景に聖武天皇の母・宮子の謎が大きく横たわっている。
 さて、と。
 だいぶ身勝手な個人的な史観をずらずら述べてきたわけだが、こうした点から、光明皇后がどのように、藤原血統天皇に関連し、その構造ゆえに長屋親王排除に加担し、そしてその呪いの結果とみなせるような藤原兄弟の死滅にどう向き合ってきたか。そこが私は知りたい。
 率直に言って、まあ、無理だろう。現状の日本史学では、「長屋親王」称号自体をなぜか同時代資料でありがら軽視し、また藤原四兄弟の死滅をただの偶然とだけに片付けるので、おそらく本書も日本史学のお作法でそれに則っているだろうと、予想はしていた。
 で、予想どおりだった。率直に言うと、「ああ、またこれかあ」といった代物にまず思えた。30年前の『光明皇后(林 陸朗)』(参照)とあまり変わらない基調だなあ、と。
 それでも読み進めながら、近現代人として書紀を扱うなら、こういうものになるしかないだろうという奇妙な納得感があった。自分でも、この納得感は意外だった。
 考えてみれば、私の、この分野への珍妙な歴史観は、中学生・高校生のときに愛読した一連の梅原猛の著作からの影響が大きい。それから、吉野裕子や小林惠子などからも影響を受けた。反省するに若気のいたりと言ってもいい。もう若気の至りから卒業してもいいころだ。
 その反省モードで本書を読むなら、バランス良くこの時代と、光明皇后を丹念に描いている。つまり、関連する史学のまとめとして見るなら、良書であると言っていいだろう。
 読後、そう思える自分はなにか夢から覚めたような奇妙な感じもした。


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2017.12.28

[書評] 背教者ユリアヌス(辻邦生)

 いつからか、書店の店先に文庫本が目立つようになった。大規模書店でもなければ、ふらっと書店に立ち寄る人が買う本は、雑誌か、自己啓発本、ネタ話の本、あるいは文庫本ということになってしまったようだ。なかでも文庫本は多い。
 そういえば、最近文庫本になった『人間アレルギー』(参照)には私が書いた紹介文が巻末についているはず。たまたま通りすがった書店だが店先の文庫本のなかにあるだろうかと、探していると、辻邦生の『背教者ユリアヌス』の文庫本が見つかった。おや珍しい。

 これ、長く絶版だったように思うので、復刻的な再版かなと手に取ると、随分と装丁が新しく、しかも(一)とある。うーむ。これ、文庫だと上中下の三分冊だったはずだが、と手に取ると、改版だった。一巻目の巻末には加賀乙彦の解説のほかに、当時の辻の関連エッセーが載っている。なにか懐かしくて、しばし文庫本を繰ってみた。どうやら改版は四巻本で、一巻目がちょうど出たばかり。二巻目は来年1月の中旬以降のようだ。
 辻邦生の『背教者ユリアヌス』(参照)は好きな小説だ。ユリアヌス自身が好きだというのもある。ユリアヌスの評価は、現代ではギボンの影響もあって好意的なものが多い。残された文献から見ても実に魅力的な若者である。哲学徒でもあり、武人でもあり、若さがまぶしい。塩野七生も当初は彼に屈曲した思いを持っていたようだが、しだいに魅惑に屈したかのようだった。
 もっとも辻のこの作品はあくまで歴史小説として書かれているので、史実を踏まえた点は多いものの、ユリアヌスの実像に迫るというものでもない。それでも、特に情景描写は古代を彷彿させる美しさがある。登場人物はまるで映画の俳優を見ているようなリアルな感じもある。
 小説として一番私の心に残ったのは、ユリアヌスに寄せる皇后エウセビアの恋情である。年下のユリアヌスにここまで狂おしく愛せるのか。そのねちねちとした文章がたまらない。中年女性のエロスの本質というのはこういうものではないか。源氏物語の六条御息所も連想させる(モチーフとしてあったかもしれない)。
 大島渚の60年代映画のような恋情ものにもこの濃さはあったように思う。とはいえ、これって現代からすると昭和時代の演歌みたいにも思えるし、そこが好き嫌いの分かれるところかもしれない。この小説が好きな人でも、エウセビアの恋情に違和感を持つ人は多いようだが。
 もっとも、現代風なエロのシーンはまるっきり出てこない。エロが薄くてつまらないなともいえるが、そこじらしの感じも悪くない。史実として見れば、エウセビアとユリアヌスの恋愛関係はないとするのが多いだろうが、そうでもないんじゃないかと思わせるくらいに辻の想像力は強い。
 他の女も美しい。ディアにはファンも多いだろ。どこかしら、彼女の造形には昭和の実在の女性がいそうな感じもする。ヘレナもきちんとした相貌がある。
 とはいえ、いじわるな評価をすれば、大衆小説であり、ハーレクインみたいなものだとも言えないこともない。それでも日本語としての文体は美しく、物語は飽きあせない。
 ファンタジー小説好きなんだよねという若い人は、予断なく、読んでみるといいと思う。いろいろローマ史にまつわること宗教に関係することなどは、あとから関心を持つことでいい。ロマンに沈没する体験ができるという点だけでもこの小説を読むのをお勧めしたい。


巻末にファイナルヴェントの解説があります。

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2017.12.27

[書評] 背教者の肖像(添谷育志)

 副題「ローマ皇帝にローマ皇帝ユリアヌスをめぐる言説の探求」とあり、ユリアヌスが好きな私は、即座にこの本『背教者の肖像(添谷育志)』(参照)にはどんな話があるだろうか、自分の知らなかった逸話や視点が得られるだろうか、と期待していたのだが、読んでみると、見事に、痛快に、爽快に、裏切られた。この本の面白さをなんと言っていいのだろうか。

 なんの予断もなく読み始めると、冒頭、「本書は辻邦夫の小説『背教者ユリアヌス』において描かれたローマ皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(Flavius Claudius Julianus、在位三六一年一一月三日‐三六三年六月二六日)の言行をめぐる言説(テキスト)が、時代の変化にともないどのように変貌してきたのかを探求するものである」とある。わかる? 
 まずわかるのは、ユリアヌスを扱うわけではない(なんと残念)。辻邦夫の該当小説を扱うわけでも評論するわけでもない(え?)。ようするにその小説についての言及の変遷史を扱うということだが、実際のところ、辻に代表される近現代知識人がどのようにユリアヌスを受け止めてきたかという話になる。特に西洋近代における「背教者」という魅惑像の変容史から日本のその対応が扱われる。
 本書はつまり、近現代のユリアヌス像から近現代を見直す作業だという理解でもよいだろう。とはいえ、具体的に面白いのはその微に入り細を穿つ部分である。読みながら、なんで自分はこんな本読んでいるだろうという奇妙な愉悦感である。私が好きなカザンザキスも出てくる。こんな知的領域、普通の現代の知識人を魅了するだろうか。
 第一章を読み終えて次章に入るとき、なにか奇妙な断絶感と継続感があり、そこで「あれ、これ論集じゃないの」という疑問が浮かんだ。この時点で「あとがき」を読むと、そうだった。一章は既発表でそれに書き下ろしを続けたものだった。
 その二章で、私の愛読書でもある折口信夫『死者の書』が出てきた。なぜ曲りなりともユリアヌスの書籍でこれが出てくるのか。いちおう理屈はある。キーワードは「メレシコースキー」である(これに丸山眞男の「亜インテリ階級」が重なる)。それと、ざっくり言えば、背教者から異教者、そして折口の奇妙な神道観という、近現代というものに微妙に対立・魅了された領域がそこにある。個人的に面白かったのだが、著者には折口のこの小説は当初は馴染めないものだったらしいことだ。私は30代に同人誌に折口信夫『死者の書』論を書いたことがあるが、とても馴染み深い人だった。歳を取り、さらに自分が折口に似ている部分も知る。
 奇妙な本だとも思えるが、論旨が明瞭ではないわけでもない。何を言いたいのかわからないわけでもない。関心領域は私のツボだと言ってもいい。それでも、なんとも船酔いするような読書体験があり、どうやら、この読書体験自体が本書の意図なのだろうというように、しだいに了解してくる。
 その読書体験の誘導とでもいうか、そこでの命題は、ローティ(Richard Rorty)が提示する「リベラル・アイロニスト」という「生き方」である。社会価値性においてリベラルであり、本質的な懐疑主義者であるアイロニストは、「ポスト真実」の現代にどのように生きたらよいのか。それが問われる。
 ああ、それ、まさに、私です、とここで思う。
 著者は、そこでリベラル・アイロニストに3つの生き方の選択肢を見せる。①公共的レトリックから身を引き『哲学者の慰め』のように書くこと、②ユートピアニズムを掲げて、「思想的テロリスト」たちに戦いを挑むこと。
 よくわかる。このブログはその2つの選択肢でぶれ続けてきた。けっこう満身創痍になった。そして、そこはすでに隘路だというのも、長いブログ休止の思いでもあった。
 著者は3つめの選択肢を示す。③「私的な哲学者」になること。
 どういうことか。著者はローティを引きながら、文芸批評を挙げる。もちろん、それはいわゆる文芸批評であってもいい。本書は触れていないが、小林秀雄的な「様々な意匠」であってもいい。いや、小林のそれは逆である。あれは隠された求心性であった。では著者の言う、文芸批評の核心はなにか。読書である。「書物文化はリベラル・アイロニストにとって最後の砦なのだ」と著者は言う。あとがきにはアイロニストにあるまじき心情がこぼれる。

 それにもかかわらず本書出版を思い立った理由は、「おわりに」で書いたような現代日本社会のあり方、とりわけ紙ベースの「書物」の行く末にたいするわたしなりの憂慮である。  (中略) 本書にメッセージがあるとすれば、消滅しつつある「書物文化への賛辞」である。

 著者は1947年生まれ。私より10歳年上で団塊世代。彼は今年70歳になったのだろう。団塊世代が「大量自然死」すれば書籍文化は衰えると見ているようだ。確かに、そうには違いない。
 それでもまあ、とりあえず10歳若いリベラル・アイロニストがここにいる。こんなブログを思い出す人だって、少しはいると思っている。同士はいるよ。

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2017.12.26

[書評] 北朝鮮 核の資金源(古川勝久)

 北朝鮮の工作員が日本に多数いるとか、彼らは国際的に活動しているとか、「まあ、そんなの常識として知っていますよ」と言いたくなるが、本書を読んでみると、なんというのだろう、うなだれてしまう。ある種、絶望感のようなものも感じる。ここまで実態はひどいのか。あえて「私たち」と言いたいのだけど、私たちはこの問題に実際は目をつぶっていたのだなと後悔する。

 本書『北朝鮮 核の資金源(古川勝久)』(参照)は副題に『「国連捜査」秘録』とある。著者は国連安保理の下に置かれた北朝鮮制裁担当の専門家パネルに2011年10月から2016年4月まで4年半所属し、北朝鮮の国際的な暗躍を詳細に調べ上げてきた。日本国内はもとより各国に足を延ばし、国連による北朝鮮制裁を北朝鮮がどのように違反し、またどのように、ミサイルや原爆の開発部品の調達や技術収集、さらにそのための資金調達を行ってきたか、それを丹念に調べた記録が本書である。その全貌は、本書目次の次ページの見開きの世界地図にまとまっている。東南アジアでの北朝鮮の暗躍もさることながら、ヨーロッパや中近東での暗躍も目覚ましい。アフリカでの暗躍はここまでひどかったのかと驚くほどだ。しかしよくもまあ、ここまで北朝鮮は国際的な活動ができたものだ。なにが国際的に孤立だと毒づきたくなる。
 もちろん、国連による北朝鮮の制裁を、常任理事国である中国やロシアが率先して妨害してきたからだ。その妨害の手つきも本書に詳しく述べられている。著者は自慢げに語ることはないが、こうした妨害のなかでよくきちんと仕事ができたものだと驚く。
 それにしてもひどい。まったく知らなかったわけではないが、北朝鮮はシリアのアサド政権による兵器製造開発にも深く関わっていた。北朝鮮はシリアの虐殺の「共犯者と言って差し支えない」と本書は語るが、事実はそれ以外を意味しない。これに北朝鮮が形成した中国でのネットワークが関与している。それでも中露両国は国連捜査の妨害をする。
 本書を読んで、絶句したのは台湾の関与である。日本では、中国への嫌悪感や対抗意識から台湾を賞賛する空気のようなものがあるが、北朝鮮の暗躍には台湾が大きな拠点になっていた。本書では「台湾というブラックホール」と称しているが、中国と台湾の関係が微妙であることから国連としては、台湾はアンタッチャブルになる。そこに北朝鮮はまんまとつけこんで暗躍拠点としていた。似たような状況がマレーシアである。金正男暗殺事件でもマレーシアと北朝鮮の関係がうかがい知れたが、マレーシアには北朝鮮利権のようなものがありそうだ。
 他国ばかりではない。日本社会のなかにも北朝鮮の暗躍ネットワークがあり、日本人もそれに関連している。単に「関連している」にとどまらないほどの指令拠点になっている。日本政府は何をしていたのだろうかと改めて疑問に思える。が、その一端として霞が関の鈍感さについても書かれている。それと明示はしてないものの、その他の日本での暗躍が察せされる部分もある。なにもかもがひどい。
 本書を読みながら、これでもかこれでもかというほどの北朝鮮の暗躍の実態を知ると、まさに国連制裁が現実には機能していないことがわかるし、だからこそ、北朝鮮は国際社会から孤立しているとされながら、原爆やミサイル開発ができたこともわかる。
 「おわりに」では、著者が国連活動で得た情報をもとに、日本国内での北朝鮮制裁漏れについて、首相官邸で安倍政権高官と対談する挿話がある。高官は事態を理解したものの、その後の対応が気になるところだ。

 残念ながら、その後、安倍政権は、大阪市の学校法人森友学園による国の補助金不正受給事件や、政府の国家戦略特区制度を活用した学校法人による獣医学部新設計画をめぐる問題などへの対応に追われることとなった。山本議員が継続して働きかけてくれたが、官邸はそれどころではない様子だった――

 モリカケ問題が重要だという人がいるのはわかるが、それで官邸のリソースが削がれていく状況を知ると、なんとかならないものかとしみじみ思う。
 ここで本書の結語を引用したい気持ちなる。が、あえて避けたい。そこだけ読んで、本書に込められた悲願とでもいうものが矮小化されてはならない。450ページを超える大著。延々と続く迷路のような北朝鮮の暗躍を読み、へとへとになるこの読書の体験こそ、本書の価値であろう。安易な怒りや、安易なスローガンでまとめてはいけないものだ。下っ腹にいっぱつどすんとくらうくらい、この本を読んで落ち込まなければ、問題の重要性はたぶん伝わらない。

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2017.12.25

finalvent's Christmas Story 12(建設予定地)

 finalvent's Christmas Story 12の建設予定地です。

 今年はギブアップしようかなと思っていたのですが、あとから書くかもしれません。

 とりあえず、みなさんに、ハッピー・ホリデーズ!

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2017.12.24

[書評] ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)

 仏教学者の佐々木閑に、仏教者と称する評論家・宮崎哲弥が、仏教とは何かといったことを問うという、出版社あるあるの対談書だろうと、『ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)』(参照)について予断をもっていた。というのも、宮崎について、もうずいぶん昔になる、というか曲がりなりにも小林よしのりのゴーマニズム宣言を読んでいたころのことだ、宮崎が仏教者であることがその漫画でおちょくられていた。小林に共感しない私ではあったが、宮崎の仏教観もヘンテコなものだなと思ったものだった。人の宗教観というのは存外に変わらないものだから、宮崎のそれも同じだろうし、佐々木も最近の国際的な仏教学を知識を淡々と語るくらいかな、いずれ私が読むような対談本でもあるまいと思っていた。『ゆかいな仏教 』(参照)みたいな本かなと。

 が、この『ごまかさない仏教』は、そうでもなかった。おもしろい。読み進めるにつれ、勉強になってしまうのである。すまなかった、宮崎さん、よく仏教を学んでいる。
 副題に「仏・法・僧から問い直す」とあるが、私の誤解でなければ、「律」の視点から原始仏教を再構成し仏教をとらえるという確固たる視点で、私がかつて批判してきた東大系の理念的な「原始仏教」とも異なり、近年の国際的な仏教学も踏まえ、とてもバランスのよい仏教の基本像が描かれている。もう少し足して言うなら、中村元はきちんと批判されているし、昨今日本でも流行るテーラワーダ仏教についても学問的にきちんと批判されている。これは現代日本社会に重要なことだと思う。
 近現代日本は、西洋文化の受容とともに独自のキリスト教文化受容を行い、私のような亜インテリを生み出し、ミッション系としての各種学校体制を維持してきた反面、これへの反動としての神道や仏教の再構築も行われ、これらが新興宗教的な前近代性を払拭するにつれ、いわばファッションとしての仏教や神道が出てきた。それらの内実を見ると、確かに「ごまかし」と言ってもよく、その点、本書書名「ごまかさない仏教」は妙に言いえている。
 他方、日本の既存仏教界については、本書はサンガの視点から、「日本はサンガを持たない唯一の仏教国になってしまったのです(佐々木)」と明瞭に指摘している。当然、その原点ともなる鑑真への対応も簡素ながら言及されている。ここも重要な点だ。
 個人的に、特に勉強になったなと思ったのは、サンガ(教団)のとらえ方、輪廻思想やアートマン思想の受容の仕方であった。それと、主に龍樹が想定されているが大乗仏教との関連もである。
 その延長ではあるが、ユーラシア史的な大乗仏教や密教については、対談でまったくないわけでもないものの、ほとんど言及はない。観音信仰といったものと仏教との関連はここでは問われていない。私の理解ではアショーカ王の統治では仏教が帝国のダイヴァーシティへの統治機能として仏教が推奨された。これが後にはユーラシアの統治原理と結びつく。さらに私見になるが、その一端が北魏を経て日本の仏教の基本になったのだろう。こうした視点は、歴史学としては「仏教」に関連するとはいえ、宗教として見た場合、前提として本書の範囲からは外れているのだろう。
 その意味で(知識の提示だけなく)、本書は、微妙にではあるが、ごまかさない仏教として真の仏教を志向して問われている。本書対談者二者とも、仏教学と仏教信仰は異なるとしながらも、対談でモデル了解された共通項について、仏教信仰としての共感が見られる。そのあたりは読者によっては、生きる指針としての本書の魅力になってしまうのかもしれない。また、二者はその対談の仏教像に社会的なアクチュアリティも投影している。そこは私には疑問を感じさせる点でもあった。
 そこにあえて自分を近接させるなら、私は道元に私淑しているようなものでありながら、道元の説く釈迦像は受け入れていない。道元は自身こそが真の仏教としているが、私は道元の思想が仏教であろうがなかろうが、どうでもいい。私はどのような宗教であっても自分は異端としてしかありえないだろうと思うし、異端であることはどうでもいいと思っている。(これもまた「仏教」とは言えないだろうが。)
 とはいえ、この手の対談書としては、ためになりかつ面白いものだった。昨今の日本で流布している「本当の仏教」という多様な言説は本書でかなり整理できるだろう。

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