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2017.12.23

[書評] メディア不信(林香里)

 簡素だが興味ひかれる表題への関心と、それが岩波新書であることの信頼から、『メディア不信(林香里)』(参照)を読んだ。なるほど、表題が示すテーマを簡潔にそれでいてグローバルにきちんとした論旨でまとめていている好著だった。が、微妙にではあるが、当初この本を手にしたとき期待していたものはそれだったのだろうかと、読後、小さな疑問がわいた。きちんとまとまった論旨の背景にある現在性と自分がそのなかで生活している現在の感覚に微妙なずれのような感覚も覚えた。そこだけ取り上げて誇張するなら、なんというのだろうか、宇宙人に宇宙船に連れられてきて、ほらあれが君の星、地球だよ、と告げられているような感覚だろうか。

 構成はわかりやすい。まず、「メディア不信」という問題提起が序章にあり、第一章ではドイツの事例(右翼グループ台頭)、第二章ではイギリスの事例(Brexit)、第三章では米国の事例(トランプ現象)という展開で、あたかも西洋事情といった形式になっている。各章を順に読んで違和感はない。他方、読者にもよるのだろうが、これは驚いた、予想外だったという新奇さというものもなかった。個人的には各国の並びに、韓国のメディアと「メディア不信」も取り上げてほしかった。そこにはかなり独自の様相がありそうに思っているからだ。
 第四章では、各国の並びで日本が現れる。これも事実や統計に裏付けられていてよくまとまっているのだが、私のように読書はするが、マスメディアのニュースはほとんどNHKだけで他はサイバー空間に暮らしているような人間からすると微妙なずれ感はあった。
 第五章では、ソーシャルメディアに注視し、先進国の民主主義との関連を議論している。この部分も第三章までの各国描写と同様、簡潔にまとまっているが、そこでも日本への言及には微妙なずれを感じる。それはなんだろうか。
 日本のサイバー空間側に立ってみると、「メディア不信」としてしばしば遭遇するのは、右派によるリベラル・メディアへの偏向批判と、左派によるメディアへの政権介入批判である。極端な例も少なくはないが、それらを除くと、どちらもそれなりに論拠があり、ただメディアをために批判しているというものでもない。私もブログでメディア批判的な文章を書くが、できるだけ論拠を参照として示すようにしている。逆に言えば、マスメディアはこれだけインターネットを使っていながら、論拠となる参照に乏しいように思える。この点を少し補足するなら、マスメディアの報道で論拠が不明瞭であったり割愛や都合よく切り取りされていたりするように思える部分を洗いなおすと、それほどマスメディアの報道品質が高くないとわかることが多い。特に国会中継などは全記録が参照できるので報道の検証がしやすいし、ソーシャル・メディアの発達でメディアより先に一次ソースが公開さることもあり、これらで報道検証ができることもある。
 ひとつ、後追い的で提言的な着想ではあるが、本書が出版されたのは今年の11月21日なので、この半年は続いている通称「モリカケ」問題の報道的側面が時期的には含められないものではない。この現象を仮に本書の枠組みで扱ったらどうであっただろうか。この問題は、問題それ自体を超えて、報道や「メディア不信」の点で国会や行政にも影響しているのだから、それほど些末なテーマでもないだろう。
 さて、いわゆる右派と左派の、読者獲得のためのご機嫌伺いメディア的な迎合性(これに関連して本書は産経新聞の経営について興味深い指摘をしている)あるいはどちらか側の視点からの「メディア不信」ということではなく、気になる、ある意味隠れた主題が本書にはあるように思えた。終章の以下に関連している。

 二〇一六年から一七年にかけて私は、ドイツ、英国、米国のポピュリズム勢力を目の当たりにして、その際に主張するスローガンのほとんどが、日本の右翼の言葉として聞き知っていたものであったことに、衝撃を受けた。それは戦後民主主義が目指してきたもの一切合切の否定であった。偏狭なナショナリズムの「自虐史観」への批判、「押しつけ憲法論」、在日コリアンに対する差別発言、フェミニストたちへの侮蔑などといったもの言いと相似形の議論が他国でも繰り返されていた。

 おそらくそうであろう。そしてそのことは、日本の右翼が現代世界では自然的な現象であるということを意味しているのではないだろうか。つまり、ここは影響の原点が逆になる。日本の昨今の右翼の言葉が先進国の動向と同種のものであれば、「戦後民主主義」というような日本独自の問題ではなく、むしろ、ある世界的で自然的な動向が、日本においてはそのように表出されたと見るべきで、むしろ、「戦後民主主義」が目指してきた自明性が、世界の一般的動向によって批判さている状況ではないだろうか。誤解なきように補足しておきたいのだが、私は右翼の言葉やその自然的な動向を支持するものではまったくない。
 そうして点から「メディア不信」を再考すると、それは、メディアへの不信とされる既存メディアの現在社会での位置の構造の問題と、世界全体を覆うポピュリズムの発露の問題があるのであって、「メディア不信」がプライマリーな問題ではなく、それはある複合的な現象の仮称に思えてくる。
 この既存メディアの現在社会的な位置構造の問題については、まさにソーシャル・メディアとして次のように本書で語られている部分に関連があるだろう。その懸念について触れた文脈で。

 ほかの懸念もある。科学技術とメディアの相互作用を研究するパブロ・ボツコフスキは、ソーシャル・メディア上では、個人的関心や情緒的ストーリーが、時事的ニュースよりも優先される傾向があることを、若いユーザーたちへのインタビュー調査の結果から指摘している。この傾向は、スマホやタブレットのデザインやユーザー・インターフェース、すなわち「アフォーダンス」に原因があると指摘している。

 これも理解しやすい。人が手のひらの、身近なメディア・ツールを持てばより懇親的な関心からニュースを審級してしまうのも自然的な傾向だろう。
 だが歴史を顧みるなら、そもそも新聞は地方紙でありコミュニティ・ニュースであった。もともとニュースとは献身的な世界の話題である。むしろ、本書で自明に語られているメディアは20世紀の遠隔通信技術のうえに成立したマスメディアであり、マスプロダクトと関連した商業メディアでもある。
 本書の各国事情では、これに関連して「マイメディア」を取り上げているが、ナショナルな要請かあるいは冷戦のような国家リーグの枠組みが薄れてくれば、人々は国家の統一性を緩く感じ、より身近なコミュニティに回帰していくのは当然だろう。マスメディアは個別コミュニティの懇親性より、大量消費に関連する大衆の関心に調和する傾向を持つ。そこには、本質的なギャップがあるのだから、献身的なメディアが再興すれば、マスメディアには自明に「メディア不信」が向けられるだろう。あるいは、国家の統一性への危機が右派をいらだたせるだろうし、その点ではいわゆる左派も同質だろう。
 本書は第四章で日本のメディアの関心の低さを問題として指摘しているが、そもそもマスメディア受ける均質な国民意識のようなものは、次第になくなっているのだろう。私もその一人でもある。


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2017.12.22

[書評] クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ、‎サミュエル・スターンバーグ)

 10月上旬に出版された『クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ、‎サミュエル・スターンバーグ)』(参照)は日本の社会でどのくらい読まれただろうか。この間、ブログを事実上お休みしていたものの、気になる本は読んでいた。本書読後のある種の呆然とした感じは忘れられない。困ったことになったな、人類、と思ったのだ。それをいち読者としてどう表現したらいいものか、その困惑もあった。

 どういうことか。言葉で説明しにくいものでもない。本書の帯にあるように、本書のテーマは「人類の未来を変える『技術』を開発した女性科学者の手記」ということで間違いない。基本は先端科学者の「手記」であり、手記としての醍醐味は十分にある。
 困惑に関連するのは、「未来を変える」の部分である。それについて帯にはこうもある。「米諜報機関は『第六の」大量破壊兵器』になる危険性も指摘」。確かに、この「技術」の潜在的な危険性はそう表現しても大げさではない。それでも言い尽くせないほどだ。
 どういう技術か。邦題にもあるように「究極の遺伝子編集技術」である。かなり雑駁に言うと遺伝子が編集できるということで、生命体のデザインが変更できるということだ。新生命が作り出せると言ってもいい。兵器として見るなら、新種の生物兵器になりうる(すでにAIDSについてこのデマがあるが)。家畜も改良できる。Netflixの映画『オクジャ okja』がリアルな話になりうる。
 さらにぞっともするのだが、遺伝子改良した人間が生み出せる。当面の問題はそこだ。利点でいうなら、遺伝子病を遺伝子編集によって「治療」できる。他方、もっとすぐれた遺伝子を持つ人間をも作り出せる。優生学の悪夢でもある。こうした問題を本書の第二部はかなり入念に説明している。そこだけでも、広く社会に読まれるといいだろうとも、とりあえず思う。
 「とりあえず」とためらいがあるのは、遺伝子編集の潜在的な危険性ということではあるのだが、本書が説明する技術は、編集結果から見れば目新しいものではないからだ。遺伝子編集は、ダウドナ博士の発明以前からできていた。私はこの点、うかつにも本書を読んでようやく得心したのだが、この遺伝子編集が25万円ほどで可能になるというのがこの技術の衝撃のポイントである。
 しかも本書、「第4章 高校生も遺伝子を編集できる」とあるように、賢い高校生なら手の届くところにこの技術はある。つまり、本書が示す「技術」の要点は、現在の世界が安価で容易に遺伝子編集が可能になってしまったという点にある。フラッシュ・ゴードンのハンス・ザーコフ博士のラボみたいなものでも遺伝子編集ができるし、生物がデザインできる。
 すでに中国はこの技術に国家的に取り組んでいることも本書から伺える。そこではすでにヒトの遺伝子が扱われている。また米国を中心にこの技術を金のなる木にしようとしている新企業が現れていることも本書は伝えている。すでに現在、ある種のカオスとも言える状況に達しているとも言えるということを考慮すれば、社会的な警笛を鳴らす意味でも多くの市民がこの技術についてある程度知っておく必要はあるだろう。問題意識を明確にした本書はおそらく最適な知識の源泉だろう。
 本書は、当然ではあるが、科学啓蒙書としても優れている。第一部はそうした部分が、ダウドナ博士の体験談と相まって通常の文脈で淡々と進められている。そもそも遺伝子編集ってなんだという次元からわかりやすくまとまっている。生物学的な関心からすると、この技術が発見された原点である、細菌によるウイルス撃退の免疫機構がとても興味深い。これだけでも、科学啓蒙書籍として十分テーマになる。
 他方、研究の体験談として読むと、元来その分野にいなかった博士の研究転換や、東欧の英才を交えた学際的な研究の状況もちょっとしたドラマになりそうな臨場感があって、その描写は読んでいて楽しい。
 さて、本書で十分に描かれているとも言えるのだが、問題指摘としては、この技術の直接的なインパクトが強調されているわりに、副作用的なインパクト、つまり、オフターゲット編集の危険性の説明が弱いようにも思えた。
 実際のところ、この技術、CRISPR-Cas9システムの新企業的な展開は、オフターゲットの確率を下げ、精度を上げることにあるのだろう。その部分の解説は本書では薄い印象がある(原典出版から半年もなく邦訳書が出版されているにも関わらず)。現状、米国のこの分野での状況をざっと見るとそこに話題が集まるようなので、もう少し言及してもよかったのではないだろうか。
 私はこの分野のまったくの門外漢であるが、CRISPR-Cas9システムの遺伝子編集技術は、基本的には単一遺伝子の編集で、複数遺伝子の編集の影響予測としてはまだ未知な部分が多いだろうし、それがオフターゲットにも関連しているだろう。また、原理的に現状のCRISPR-Cas9システムは現状のゲノム解析に依存しているため、非コードDNAの機能には対応できない。このこともオフターゲットに関連しているようにも思う。
 本書のオリジナル・タイトルは”A Crack in Creation”で「創造のクラック」。副題は” Gene Editing and the Unthinkable Power to Control Evolution”「遺伝子編集と進化制御へのその想像を超える力」とでもなるだろうか。米国での本書の関心は、生命進化との関わりに置かれていると見てよさそうだ。なお、タイトルについて訳者は「ひび割れ」に「クラック」と訓じたものの、「ダウナド博士によれば、新しい未来への扉を開くといった、明るい希望に満ちた意味合いが込められているそうだ」としている。私はCRISPR-Cas9によって遺伝子がクラックする含みもあるかもしれないとも思った。余談だが、邦訳書はオリジナル(ハードカバー)の半額で購入できる。日本の出版界ってすごいものだ。安価であれば、この社会問題提起がより社会に届きやすくなる。

 

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2017.12.21

[映画] 今年見たアメリカ映画3つ

 難病の影響で映画館の映画が見られないという状態が長く続いたが今年あたりから、少し見られるんじゃないかと、少し見るようになった。さて、何を見たかなと思い出すと、アメリカ映画が3つ思い浮かんだ。率直にいうと、特にお勧めという作品でもない。世の中、こういうのが人気なんだなあ、へーえ、という感じだった。

美女と野獣(参照)

 ええ、あれです。エマ・ワトソンの「美女と野獣」です。つまり、エマ・ワトソンですね。という感じの映画だった。見終えたときは、はにゃ?と思うシーンがいくつかあったので、なんだったかなと思い出そうとしたのだが、思い出せない。たしか、アニメ版と同じだというけど、えええ? これ違うよなあ、というようなことだったと思う。まあ、些細なことかもしれないのだけど。
 ディズニーものというのは意外にメッセージ性が強いし、この作品もご多分に漏れずの類ではあるが、印象では、とにかくエマ・ワトソンに煮詰まっていた感じ。ベルがエマ・ワトソンだよ、それだけでメッセージじゃんというか。
 歌も声優も楽しい。ミュージカルっていいなあとうっとり(日本語訳でも見たいかな)。映像も美しい。CGはさすがだなあ。物語の展開については、それは言うな。
 そういえば、「美女と野獣」は、英語で”Beauty and the Beast”となっていて、the Beastには定冠詞があるが、Beautyには定冠詞がない。はてと思ったが、「ベル」ちゃんという固有名詞なのにべた訳したなごりのようだ。すると、フランス語ではと調べると、”La Belle et la Bête”で定冠詞あるじゃんなので、よくわからん。

ラ・ラ・ランド(参照)
 ええと、とっても評判だし、東京大学大学院教授の藤原帰一先生も批評性を込めながらも勧めていたので、見るかあと思って見た。今年見たんですよ。映画館のシニア割で。
 うーむ。これ、いい? 大人のほろ苦い恋の思い出? っていうか、JAZZ好きの感じ出てる? うーむ、いきなり否定的なことを言ってしまたけど、期待していたので、その分、はにゃあという感じだった。
 公平に見るなら、いい映画ではあったと思う。ミュージカルとしてもよくできていたし、映像もそれなりに美しい。おっと、ちょっとネガティブまた入りしまた。つまり、CG的な映像はそれほど美しいとは思わなかった。ロサンゼルスの普通の街の光景が美しかったというか、自分も所在なく、恋の行方もわからずに、東京の夜景を見下ろす感じとかあったんで、その心細さが蘇って胸キュンとかはあった。俺、歳だな。
 あと、エマ・ストーンはけっこう惚れるなあ、デフォで。ライアン・ゴズリングは『きみに読む物語』のノアですね。というか、『きみに読む物語』はいい映画だった。すまんが、『ラ・ラ・ランド』の1.4142倍はいいと思う。
 話戻して。最後の走馬灯回想シーン、ネタバレは避けるけど、男の視点なのか女の視点なのか、あえてぼやかしているのか、とか、思ったけど、これは文学的にはドローン視点でしょう。そもそもこの作品が予めドローンという初期村上春樹ちっくな情感なのではないかな。
 とかいいつつ、その後、『ラ・ラ・ランド』のサウンドトラックはよく聞いている。終電近い駅のフォームで遠い夜景を見ながら聞いていると、とても、ええ。

ワンダーウーマン(参照)

 見ましたよ。見ましたとも。『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』も見ているんですよ。そりゃ、ワンダーウーマンでしょ。見るっきゃないですよ。で、どうだったか。まあ、面白いんじゃね。というか、『ジャスティスの誕生』も、はにゃあ感はあったけど、なんなんでしょう、このはにゃあ感。今の若い人の受けるポイントなんでしょうか。わからーん。
 運命の宿敵(っていう表現がアレだが)アレスが「戦争こそ人間の本性だあ」とか言うと、ダイアナの心は揺れるけど、恋人(?)をトレバー思い出して戦う。かくして歴史は動き、第一次大戦はロンドンで休戦協定される。うーむ。なんだ、これ。
 正義に燃える強い女の子というのはわるくない。っていうか、僕は同じくDCの『スーパーガール』のファンなんだけど(すまんがスゲーファンだ)、ワンダーウーマンはなんか違うよなあこれ。どこが違うのかよくわからないが。
 とはいえ、映像はきれい。格闘シーンは美しい。我ながら、暴力シーン大好きになりつつあるのが情けない。
 映画見てからガル・ガドットってどんな人と調べてみたら、わーお、まじもんですね。あのマーシャルアーツ、伊達じゃありませんね。すごっ。ドラマ『デアデビル』のエレクトラん役エロディ・ユンもすげとか思ったけど、世の中すごい女優さんがいるものだなあ。


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2017.12.20

[映画] 今年見た、お勧め3つのフランス映画

 最新作では全然ないけど、DVDやストリーミングで見たフランス映画のうち、これは面白かったなあというのを3つご紹介。どれもコミカルで映像の美しい作品。すでに見た人も多いだろうけど。

エール!(参照)

 2014年の作品。歌手を目指す普通の田舎のフランス女子高校生の物語、と言いたいところだが、彼女の家庭は両親ともに聴覚障害者。当然、親は生まれた娘が聴覚障害者になるのではないかと恐れていたが、彼女は健常。そして生活のなかで手話を使いながら両親の田舎町の暮らしと農家の仕事を助けている。そのため、歌手に成りたいと思っても、親のことが心配だったりして悩む。
 この背景だけで、ヒューマン物語、感動の物語という予想がついてしまうので、僕みたいにひねくれた人間はちょっと引くのだが、実際は、お安いべたべたした情感はない。聴覚障害者の両親はパワフルだし、彼女はなんというか日本人でもこういうの普通だなあという普通の人。といってもボッチ耐性は強いし、パワフル。恋の心もけっこう、わかるなあという感じ。
 映画では彼女の弟が滑稽な役回りで出て来るのも面白い。エロチックというわけではないけど、性的な情感は所々にあり、またフランスのありがちな田舎の風景が美しい。最後にパリの風景に変わるところもはっとする。
 物語らしい展開は、彼女の歌の才能に音楽教師が気が付き、その才能を育てようとするところ。彼女の歌もよく出て来るが、この歌だけですでに感動もの。教師はミシェル・サルドゥの歌が好きで、彼女に歌わせようとする。“La Maladie d’amour”や、“La java de Broadway”など。前者は、昔、沢田研二が「愛の出帆」として歌っていた。
 原題は、”La Famille Bélier”、訳すと「牡羊座家族」。牡羊座の意味合いは、何ものもものとせず突き進むということだろうか。日本語なら「猪突猛進家族」としたいが、これだとちょっとおフランスっぽくないので、「エール!」ということだろうけど、それもなあ感はあり。

タイピスト!(参照)

 2012年の作品。時代は1950年代。第二次世界大戦の傷跡あとからフランスが立ち直ろうとする時代。その時代のコスチュームや風景の映像も楽しい。タバコのシーンがあるのも自然。そうした映像だけで、わーおと思える美しい作品。タイピストが女性の花形職業だったという時代の空気も上手に描いている。
 物語は、早打ちタイピングができる若い田舎の女の子が、都会の年上ビジネスマンのもとでタイプの猛練習を行い、タイピング世界選手権に出るという物語。話として見れば、普通のラブコメ。最初はかわいいドジっ子が一念奮起してタイプの腕を上げる。だが、それにつれて男は彼女から遠ざかっていく。まあ、普通にラブコメじゃんと思ってゆったりと見るといい。物語の設定上、女性の心に関心が向くが、制作の意図は男の心理にもある。戦争で傷ついた男ということ。
 原題は、”Populaire”で、これは、物語にも出て来る、当時人気だったタイプライター”Japy Populaire”のことだが、人気者という洒落でもあるだろう。
 メラニー・ベルニエ役のアニー・ルプランス=ランゲにも注目。

ブラインド・デート(参照)

 2015年の作品。同名の映画もあるので間違えないように。ストーリーはまさにコミック的。というか、原作日本のコミックじゃね感がぱねぇ。
 主人公の女性は、本当は才能のある若いピアニスト。しかし、失敗恐怖というか人見知りというか、教師にへつらいすぎというか、自分の才能がいかせない。それでもピアノを抱えて一人暮らしして自立しようというシーンから映画始まる。そして、越してきたアパートが奇っ怪。隣の住人が変。謎の男。彼はパズル発明家。静かな場所で、画期的なパズルを作ろうと、静かな生活を送りたい。が、聞こえてくる薄壁のむこうのピアノ。というどたばた設定から、見つめ合うこともない恋心が芽生える。そしていさかい。思いがけない対面。などなど。
 この「などなど」が原題、”Un peu, beaucoup, aveuglément”の意味合いで、フランス人ならこのフレーズですぐにピンとくる。というか、さすがに僕もフランス語この一年はそれなりに一生懸命勉強してわかるようになりましたよ。
 ヒロインはアニー・ルプランス=ランゲということでした。売れっ子なんですね。現代的な意味でとってもフランス人っぽい印象。個人的にはメガネに萌える。現在はどうしているかとニュースにあたると、”Mélanie Bernier enceinte : L'actrice, radieuse, dévoile son beau baby bump”(参照)とある。わーお。


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2017.12.19

[書評] いんげん豆がおしえてくれたこと(パトリス・ジュリアン)

 本との出会いということをいつからか忘れていたようにも思う。いや、そうでもないか。自分が読む本は、振り返ってみると、今でもなにかしら偶然の出会いによるものが多い。それに今でも私は、いつでもどこかで本との出会いを待っている(人との出会いについてはそう思わなくなってもいるのだけど)。『いんげん豆がおしえてくれたこと(パトリス・ジュリアン)』(参照)はそうした書籍との出会いだった。ずいぶんと古びた本だなと思って初版を見ると、1999年。18年くらい前の本である。

 出会ったのは、アンスティチュ・フランセの図書館。本の背にフランス語の筆記体で何か書いてあるんで手に取った。私はこの2年間、よくフランス語の文章を筆記体で書いていて、それだけで関心を持っていた。
 その筆記体を読むと、”Un haricot m’a dit” 「豆一粒が私にこう語った」とある。なんだろと思ってからうかつにも日本語の書名との関連に気が付いた。それから特に読む気もなくぱらぱらとめくっていると著者のパトリスさんは日仏学院の副学院長だったことがわかる。へえ、ここにゆかりのある人だったのかと思う。
 そして料理エッセイの本かなとさらにぱらぱらとめくると、「一九九三年、僕は東京日仏学院の図書館のリニューアル工事にかかわっていた。この時は現代的な備品類が東京では見つからないために、ほとんど全ての品をフランスから取り寄せなくてはならなかった」とある。え? それってここ? と思った。
 この場所のデザインがパトリスさんによるものだったのか。今いるまさにここ?
 それと、私は1993年ごろ、飯田橋で仕事をしていた。駅前に深夜プラスワンがあるころである。なんだか、奇妙な感じがしてこの本を読もうと思った。各章の冒頭に、パトリスさん自身の手書きの筆記体の文字があるのも、自分にはすてきに思えた。
 もう絶版だろうかとアマゾンを見ると、文庫本になっている。最近は、単行本と文庫本があると便利さから文庫本を買うことにしているのだが(幸い老眼もないので)、なんとなくこの初版の本に愛着があったので古書を探した。とてもきれいな古書が見つかったので、出会いの不思議のまま読んでみた。存外に面白い本だった。
 自分が最近、フランスやらフランス人、フランス文化に関心をもつせいか、パトリスさんの思いにそうした部分を投影して読んでしまった。正確に言うなら、この本はフランス人ならこう感じる・考えるという種類の本ではない。パトリスさんという、むしろ所属文化のない自由人の思いが綴られている。基本は料理の本だが、フランス料理というわけでもない。それにどっちかというと、ロハスな感じの主張の本で、私は告白するのだがロハスのような趣味にどうも違和感を覚える。そういう点で言うなら、偶然の出会いがなければ、読むことはなかっただろうな、この本、と思う。
 パトリスさんは私より5歳年上のようだ。本書は、彼が日仏学院を辞めて会員制のレストランを作る話が中心になっている。気になって調べてみると、そのレストランもすでになく、この間、4年ほどはフランスにいたらしい。著書も多いことがわかった。ルクルーゼの鍋が一時期ずいぶん流行したがその原点が彼らしいことも知った。
 本書の面白さは、自分にとっては、料理や彼のロハス的生活の提言より、やはりフランス人的な感覚と思える部分だろう。彼はレストランを訪れる中年夫婦が食事に会話もしない光景に違和感を覚えている。「相手に対して常に何かを感じ続けること、それはとても大切なことだ」と言う。あたりまえのようだが、もう少し深みがある。
 夫婦について、「けれども夫婦の関係がうまく行くかどうかは、内面的な誠実さと警戒心にかかわる部分も大きいと思う」 それも当たり前のようだが、「警戒心」は少し日本語的な響きではない。そしてこう話は展開する。
 「僕くらいの世代のフランス人にとってこの幸せの定義は、結婚はしていても互いに“恋人”であり続けるということに結びつく場合が多い。つまり新鮮な情熱をいつまでも持ち続けるということ。」「それには警戒心がとても重要になる。なぜなら情熱のいちばんの敵は日常の生活だから。」「今の日本では四十歳以上の女性はほとんどが夫に対して尊敬や賛美の気持ちを少しも抱いていないように思える(男性一般に対してもこれと同じで、彼女たちの意見はすでに決まってしまっているみたい)。」
 この本が書かれてもう20年近く経つので現代ではどうだろうか。パトリスさんより5つ下の私も今年60歳になったが、ここで言及されている40歳以上の女性はもう70歳くらいだろうか。
 仮に今でもそうした、日本の夫婦の傾向は変わらないなら、「警戒心」はどういう意味を持つだろうか。そんなことをいろいろと思いながら読んだ。
 パトリスさんの本は他の本も読んでみようと思った。もしかして、フランス語の本はないだろうかとも思った。


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2017.12.18

[書評] 不便でも気にしないフランス人(西村・プペ・カリン)

 2017年、今年はどういう年だったかと振り返るといろいろ思うことがある。例えば、このブログ、何か月間だろうか、お休みしてしまった。お休みとかいうのは体のいい言い回しだし、まだ再開しましたよというほどの自信もないんだけど(ああ、不安)、つまり、長期に更新しない状態なのか、ブログをやめてしまったのかわからないような状態だった。ブロガー引退かな。もともとブロガーなんていうのは肩書にもならない無なんだけど。

 その間、ブログを書かないでいる間だけど、自分が何をしていたのかというのが、ブログの裏面から見る今年の活動ということになる。何だったか。いろいろあった。まずひとつ言えるのが、フランス語を勉強していたということ。
 以前からもフランス語を勉強してはいたのだけど、十分ではないなと思っていた。教科書だけではなくオーディオ教材は使ってフランス語を学んでいたものの、実際にフランス人からフランス語を学ぶということはしてなかった。これじゃ語学の勉強にはならないよね。思い返すと、自分も英語を意識して学ぶようになったのは、自著にも書いたことだけど、大学入ったら最初の授業が英語だったことだ。英語の授業ではない。英語で授業だった。アイビーリーグ出の若い米人の教師だった。40年前になる。
 そんなことを思い出したのは、フランス人からフランス語を学ぶというのは、ふつう、フランス語でフランス語を学ぶということになる。わかるの?自分?というのが今年のフランス語学習の要点だった。
まあ、半分くらいはわかるもんだなあと思った。そうした過程で実際のフランス人と会う機会もできて、フランス語だけでなく、フランス人の考え方というか感覚というものにも少しずつ馴染んできた。そしてそういう過程でよりフランス語やフランス人、フランスの文化や歴史に関心を深める相乗効果にもなる。こういうとなんだけど、フランスという国、文化、人々というのは面白いものだなと思う。
 そうしたフランスへの関心の一環が本書、西村・プペ・カリン(以降プペさん)著『不便でも気にしないフランス人』(参照)である。以前読んだプペさんの『フランス人ママ記者、東京で子育てする』(参照)がとても面白かったので、一も二もなく読んでみた。プペさんが登場する、彼女の夫のジャンポール西さんのエッセイ漫画、例えば『嫁はフランス人』(参照)もとても面白いし。
 このプペさんの近著、批評的な意味ではないが、書籍としてどっちが面白いかというと、前著・ママ記者のほうが面白かったように思う。かぶる挿話もある。前著の実体験の話自体の魅力というのはあるのだろう。他方、今回の本についていうと、プペさんへのファン心理みたいなを除けば、現代のフランス人の生活感覚や日本観を知りたいという人には平易に書かれていて読みやすい。日本人には示唆的な事柄も多いと思う。
 こう言うとなんだけど、出羽守の「おフランス大好き」やいわゆるネットウヨの「日本スゲー」への緩やかな解毒剤になるのでは。日本もフランスも普通の国だし、日本人もフランス人も普通の国民であるというか。余談めくが同じ延長で、じゃあアメリカとアメリカ人はどうなのというと、正直、もにょんとする。アメリカ人というときのアメリカ人らしさというがないわけではないし、州や地域や階層、集団の多様性に戸惑うというほどではないけど、どうしても日本人には現代ですらアメリカやアメリカ人に屈曲した心理のようなものを持ちがちなので話がややこしくなる。おそらく、アルジェリア人やベトナム人やカンボジア人、チュニジア人などはフランスに対して微妙な感覚を持つだろうけど、日本の場合、フランスには直接的な歴史的なごちゃごちゃはないのではないか。その点でも、フランスは平明にとらえやすい。
 本書の内容は、フランスと日本という大枠で、生活感のある各種の挿話がもりだくさんである。気を引くところから楽しく読んでいけばいいだけに思える。あえて全体的にいうと、署名にもなっている「不便でも気にしないフランス人」というのは言いえて妙という感じだ。実際のところ、フランス人が不便を気にしないということはないが、前著にもよく出てきたが「システムD」がよく生かされている。日本語で言うなら、とにかくやりくりする、なんとかする、ということだろう。工夫するということだろうか。これを「不平不満は工夫がたりぬ」みたいに言うとどっか逆鱗に触れそうだけど。
 「システムD」のDは、débrouilleの頭文字でこの単語、私の知る限り、英語にはない。ピンズラーのフランス語教材でもこの単語がよく出てくるのだが、英語の対応がないのでいろいろ説明に苦慮している。繰り返すけど、まあ、「困ったらなんとかしちゃえ」で社会や人生が成り立っているのがフランス、と言ってもいいのだろう。
 本書を読みながら、débrouilleというのと「工夫する」はでもちょっと違うかなあとも思う。プペさんの社会の関心の持ち方が、生きている人への興味であるように、フランス人の、人間観というのがその背景にありそうだ。人は生きるものだし、愛するものだというような。それがまず第一なら第二のことは、なんとかすればいい、というような。
 個人的に本書で、些細といえば些細なんだけど、わーおと思ったことがある。フランス語には愛情表現が多いという事例に、comlicitéがあげられ、「親密さをあらわす共犯意識」という括弧注があるが、この記述、同語の英語をめぐるイヴァンカさん発言の騒動の前に書かれているんだよね。わーお、と思ったのである。ちなみに、caresses(愛撫)についても並んで書かれている。この言葉、哲学者ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)の講演集にも印象的にで出てきた言葉だったので、いろいろ思うことはあった。
 そして本書に曰く、「フランスの男性は、こうした言葉を積極的に口にして愛情を表現してくれる。日本の男性は、その点、消極的だから、フランス人のほうがロマンチックに見えるのだろう」と。まあ、全体的に言えば、そうなんだけど、comlicitéやcaressesという言葉や、そしてジャン=リュック・ナンシーの哲学などを背景的に想起すると、ちょっとロマンチックというだけではない感覚がこうした本書の話からじわっと伝わってくる。
 この引用には括弧でこう続く。「夫は、今ではフランス人のように愛情を表現してくれるようになった。これも慣れの問題なのかもしれない」。日本語的にいうなら、「ごちそうさまでした」でもあるが、慣れというよりは、ある感覚の変容の問題なのだろう。
 そしてこの感覚の変容は、愛の表現という言葉(parole)で現れる。ナンシーはバタイユを考察した『無為の共同体』(参照)で、私の理解が間違っていなければ、バタイユ的な歓喜が言葉を介して、コミュニケーションとなり、それがécriture(書き言葉)によって共同体に応じるときに市民社会の意義を見出している。共同体は線となり、ナンシーは「接吻を貫きそれらを分割する一条の線なしには、接吻それ自体に希望はないし、共同体は廃棄されてしまう」として共同体との関連を考察する。
 ナンシーのむずかしくも見える哲学に話題を接続したいわけではないが、おそらくこれは、ひとつの感覚なのだろう。本書のような軽い文化差エッセイに見える背景に、愛と共同体を問い直す、ある独自の感覚があり、おそらくそれは日本人にとっては、チャレンジングな意味あいも持ちうるのだろうと、思う。


 

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2017.12.17

[書評] DNAの98%は謎(小林武彦)

 ネットの世界では非科学的な人をあざ笑うことを趣味とする人が少なくない。そうしてあざ笑う側の人は自身は確固たる科学的知識の場に立っているのだという自負があるのだろう。私はというと、それはつまらないなと思うのである。現代の先進国の市民なら、市民生活に必要でかつ義務教育で補われるべき基本的な科学知識くらいは覚えておく必要があるし、水に伝言なんかできないことをも当然その過程で知っておくべきだが、現代人として科学知識に触れる醍醐味は、科学にはまだまだわからないことが多いのだ、ということから、宇宙と生命に対してある種の畏敬感を持つことではないか。というわけで、私は、私の知らない科学領域の話に関心を持つ。

 例えば遺伝子についてだ。人間は神様が作ったものではなく遺伝子情報でできたものだから、遺伝子が解明できれば人間のすべて(人間を構成するたんぱく質の形成情報)がわかる、と期待されていた。それで遺伝子の解明として、その全情報の解明としてゲノム解析が熱心に行われ、終了した。そして何がわかったのか。いろいろなことがわかった。
 人間を構成するたんぱく質を作るための遺伝子数は2万2000個ほど。他方、アニサキスのような線虫の遺伝子数は1万9000個。それほどは変わらない、ということがわかった。チンパンジーとヒトだと差は1%か2%ほどだということもわかった。そのわずかな差が重要である!としたいところだが、どうも話はそんなに単純ではない。
 そもそもゲノムのなかでたんぱく質の構成に関わる情報は2%ほどである。つまり、生命の設計図情報はゲノムの2%ほどで、残る98%はそうした情報を持たないゴミだった。科学による偉大な発見である。実際、ゲノム解析では、ここは解析不要としてゴミ扱いされてきた。
 でもそもそも、なんでゲノムにそんなに多くのゴミ(たんぱく質の構成に使用されない遺伝子情報)があるのか?
 生物の進化の過程では、重要な機能はもたないのに残る盲腸のような器官がある。だとしても、98%ものゴミが残っているというは不思議な話ではないか。
 ということで研究を進めていくと、ゴミと思われていた98%にいろいろな機能がありそうだ、というのがわかってきた。それがこの本『DNAの98%は謎(小林武彦)』(参照)のテーマである。今まで未知であったことが解明されつつある実況中継的な書籍にもなっていて、こういう側面に触れると科学は面白い。
 たんぱく質の構成に使用されない98%もの「非コードDNA領域」だが、そのうち約40%がレトロトランスポゾンだった。動く遺伝子トランスポゾンの一種である。いろんなところから入ってきた遺伝子がゴミのようにゲノムに溜まっていた。これは逆に言えば、動く遺伝子が多いならそれらを勝手にさせないようにしっかりゴミとして扱って、有益な遺伝子に影響しないように眠らせておく仕組みである。
 この他、「非コードDNA領域」は遺伝子の発現のあり方にも作用する。これは進化の速度にも関係してくるらしい。こうした仕組みの解明の最前線が本書で扱われている。面白くないわけがない。
 挿話的な話も面白い。胎盤はレトロトランスポゾンの挿入で偶然できたというのも、へえと思った。もっと進化上の必然のようになってできたのではないかと思っていたからだ。また、脳の進化にも巨大なイントロン(これもゴミ)が必要だったのではないかとの話がある。このあたりに類人猿とヒトとの差もありそうだ。さらに、寿命にもこれらの未解明の仕組みの関与がありそうだ。遺伝子はただ単純な暗号というわけでもなかったようなのだ。
 さて本書を一般書籍として見たとき特徴がある。あとがきにも触れられていたが、遺伝子学の用語についても新しいものを使っているとのことだ。最新の科学の一般向け書籍を読んでいくことで現代という時代の語感にも触れることができる。


 

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