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2017.12.16

[書評] 狂うひと(梯久美子)

 文学作品の評価については評者によってさまざまだが、日本の戦後文学の傑作を仮に10個あげるとすれば、島尾敏夫『死の棘』(参照)は必ず入るだろう。あるいは5個に絞っても入るかもしれない。私の評価を言えば、第1位である。もっとも優れた戦後文学作品である。あるいは、あった。

 何が素晴らしいのかというのを一言で言うのは本格的な文学作品の場合、難しいかあるいは意味がない。人間の真実を描き出すということに尽きるからだ。『死の棘』は人間男女の関わりの、ある究極的な姿を描き出している。それは誰もがいずれにしても男女関係のなかに置かれ、ふとその関係の極限を想起したときに、その想像力の彼岸に薄ぼんやりと見える、どこかしら血みどろな光景である。男女の愛はそのとば口はどれほどロマンチックであっても関係性の本質として美しいものではない。
 『死の棘』とはどのような作品か。単純にその仕組みを言うなら、夫の浮気に妻が狂気に至る物語である。夫が浮気して妻が逆上し、刃傷沙汰になる、発狂する、というのは、それほど不思議なことはない。ありふれた情景だろう。ゆえに人はそのあたりの極限の手前になんとなくの目星をつけて、浮気もほどほどにしたり、あるいは夫婦の関係を終わりにしたりする。しかしその極限を押し詰めたらどうなるのだろう。
 極限とは何か? 妻の狂気にとことん付き合うことである。なぜ? それが夫婦の愛の本質だからと言いたいところだが、もはやそこはなんだかわからない。理性を超えている。そうして愛がもたらす狂気のなかにただ流されているとき、人は愛のなかに生きていると感じるだろうし、おそらく生の意識というものはそういう矛盾した愛の直観を本質に伴っているのだろう。人が自分は生きているのだという確信は、そういうエロスの地獄の認識を経るのだろう。
 『死の棘』では浮気して責められる夫がひたすら従順に妻の狂気に向き合い、付き合う。そしてその泥のような生活にどこにも出口がない。延々と地獄のような描写が続き、最後に夫婦ともども精神病院に入る。救いなど、どこにもない。いや、少し言い過ぎかもしれない。この地獄の様相は、この小説を超えて二人の精神を究極的には救い出すことになる。狂気というものを近現代は精神医学の対象としてしまったが、この文学作品はそれらを超えうる文学の本源的な力というものの証言にもなっている。
 『死の棘』は夫・島尾敏雄の実話である。この地獄は実際に起きたことである。そこには、愛の本質をこの世界に押し出すために、島尾敏夫と島尾ミホという特殊な男女をあたかも神が選び出したかのようだ。当然、この小説に魅了された読者は、小説の文学的な評価を超えて、作品が描き切らなかった部分にも関心を寄せることになる。ごくありきたりな例でいうなら、島尾敏雄の浮気の相手はどのような女性だったのか、など。そうした下衆とも言えそうな関心はやみがたいものだし、意外とそうした下衆な関心の経路が文学の新しい意味を炙り出したりすることもある。
 本書『狂う人』(参照)はとりあえず、まさにそれである。本書の副題には『「死の棘」の妻・ミホ』とあるように、妻・ミホに視点を置いている。島尾ミホとは現実にはどのような人だったのか、そこが本書の基軸になっている。そこから文学の裏側のリアルに接近しようとする。
 話が個人的な思いに堕するが、私は、彼女(ミホ)は、本来的な意味で、いわゆる現世的な個別宗教ではなく、巫女だったのだろうと思っていた。しかも琉球弧という日本と関わりを持ちながら、ゆえに異質でより日本の精神性に根源的であった文化が生み出した神の女だったのだったと。神が人を愛するとき、その背景にある愛ゆえの狂気と怒りというものが、彼女を経て表出しやすかったのではないだろうか。そして、夫・敏雄もそうした妻・ミホの巫女的な本質への直観があっただろう……と。評論家吉本隆明はのちに結婚する和子とともに島尾夫妻を訪問しているが、和子も島尾文学のファンだったようだ。吉本の結婚(略奪婚)の隠れた情念は『死の棘』に通底するものがあっただろう。実は、本書を読みながらそこにある苦い思いがわいてきた。
 本題、『死の棘』をめぐる島尾夫妻の評伝ともいえる本書だが、驚愕に尽きる。よく書けた評伝だなあといったものでは済まない。なるほど、島尾の浮気相手はこういう女性だったのか、ふむふむといった話では終わらないのである。叫びたくなるような、のどがつまるような、驚愕に満ちている。
 まず、序章に描かれているミホの視点による『死の棘』の構想についても驚いた。そもそもその可能性に気が付かなかったことに迂闊さを覚えた。SHOWTIMEドラマ『アフェア』ではないが、恋愛・情事というのは、多様な視点で語られうるものである。究極的に愛憎の関係に閉じるために、およそ客観などはありえない。ミホがあの物語を別の視点から構成することはありうる。
 何よりたまげたのは、どうやら『死の棘』の愛憎劇は、敏雄による仕込みだった可能性が濃いことの指摘である。島尾は浮気の記録をあえてミホに見せたのだろう。そしてミホが狂気に陥り、自身を「審判」するのを期待していたのだろう。
 絶句。変態じゃないのかそれ。と、私は思った。誰もが歪んだ性癖を持ちうるものだし、サドでもマゾでも3Pでも市民社会に接してこなれば各人自由にすればいいとは思うが、自分が最高傑作だと思う文学の真相が変態心理というのは、ちょっとどう受け取っていいのか、呆れて笑ってしまった。しかも一度そう考えてしまうと、気迫こもる『死の棘』の陰惨な夫婦の糾問がSMプレーにしか感じられない。まあ、狂っているとしか言いようがない。文学者というのはここまでいかれた人なんだろうか。それが才能というものだろうか。
 この呆然とした感じは、先に触れたミホ=巫女にも関連してくる。本書は、実際のところかなり優れた批評作品になっていて、ミホ=巫女という視点が吉本隆明らの創作ではないかということも臭わせている。私は吉本隆明の文学批評に馴染みすぎていたのだ。
 本書を読み終えて、では『死の棘』の評価は変わったかというと、少し落ち着くとそれほど変わらない。気迫こもる狂気の対話が、滑稽なSMプレーにも思えてくるが、たとえそうであっても、恋愛とエロスの狂気というものの本質は揺るがない。私たちの真摯な恋愛もまた滑稽なものでもありうる。
 結局どうなのか。本書を読み終えて、そして新しく現れる『死の棘』をどうとらえるのか。率直に言えば、私が男だからというのもあるだろうが、女というものはこういう巨大な精神的な存在なのだ、ということだ。率直すぎて誤解されやすし、女性への偏見のように受け止められるかもしれないが、私が思うのは畏敬に近い。真理の世界というものがあるなら、女の本質に巻き込まれていく以外ないのではないか、そんな思いである。
 それにしても、すごい評論を読んじゃったなあというのと、評論というのは、こうした労働というか手間暇かけて創作されるものだなという賞賛の思いも新たにした。



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2017.12.15

[書評] 「福沢諭吉」とは誰か(平山洋)

 書名『「福沢諭吉」とは誰か』(参照)が意味するのは、本書にも書かれているように、「第二次世界大戦の終結以来議論されてきた、福沢の本質は市民的自由主義者なのか、それとも侵略的絶対主義者なのか」という択一を問う意味合いがある。現代のネット的な用語で単純化すれば、福沢諭吉は、①市民主義のリベラル、あるいは、②ネット右翼のような侵略主義者、そのいずれかかということである。

 こうした昨今のネット風の単純化は愚かしいかのように思えるが、本書第4章「福沢諭吉と慰安婦」を読むと、あながち笑えないものがある。この短い挿話的とも見える章では、まさに福沢諭吉の思想が従軍慰安婦問題と関連付けられる論調への駁論となっているからだ。そもそもそんな議論が必要なのかすら疑問に思える人もいるだろうが、その関連付ける議論の一方は安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』(参照)に依拠している。しいていうならこの安川の書籍が今日のいわゆる「福沢諭吉問題」の根となっている。そして本書書名の択一の問いかけも、つまるところ、安川の福沢諭吉像(あえて簡略化すればネット右翼的な像とも言える)の反駁というモチーフがあると言っていい。そのため、本書の読者は、安川の前述書が既読であることが好ましいし、それを読めば、いわゆる左翼的リベラルが一万円札から福沢諭吉の肖像を除去しようと運動していることも理解できるだろう。いわゆる「福沢諭吉問題」の象徴的な表出である。
 少し迂回するが、安川のモチーフは、見方にもよるだろうが、二段構えになっている。一つは、単純に福沢諭吉という思想家の右翼的・アジア蔑視・侵略的な側面の評価であり、他面では、福沢諭吉がモダにストとして市民主義者の原型であるとした丸山真男への批判である。後者については、安川の『福沢諭吉と丸山眞男』(参照)が詳しい。なお、2003年に出版された同書は昨年増補改訂版として出版されている。一万円札批判関連の運動などの高まりが背景にあると見てもよいかもしれない。
 ここで本書の著者平山に視点を戻すと、平山が安川との対立的な構図のなかに置かれるようになったのは、平山による文春新書『福沢諭吉の真実』(参照)がきっかけになっている。同書は2004年の出版当時話題になったので既読の人も多いだろう。本書は一見すると福沢諭吉全集の編集問題を扱った、いわば文献学の地味な種類の書籍ように見えるが、その全集を批判的に見直すと、福沢諭吉の作品とされてきた文書が必ずしも福沢本人に帰属しないことが示唆されていた。そしてここからが「福沢諭吉問題」との関連になるが、概ねではあるが、安川が批判したような右翼的な福沢像の論拠となる文書がどうやら福沢本人のものではない可能性が出てきた。
 問題はここから錯綜し始める。福沢諭吉全集に含まれている右翼的な福沢像がすべて福沢諭吉本人のものでないなら話は単純である。だが、そこの切り分けはそう簡単にはいかない。そしてその切り分けの難しい地点に「脱亜論」が存在する。研究者によっては、この脱亜論は福沢自身によるものではないとする見解があったが、本書で指摘されているように、現在では「脱亜論」は福沢本人の執筆であると見てよい。すると、やはり安川の論点は基礎を持つといえるだろうか。
 この議論については先の新書の第五章「何が『脱亜論』を有名にしたのか」で言及されているが、本書第三章「福沢諭吉の『脱亜論』と<アジア蔑視>観」は同じ基調でありながら原典を参照した補論となっている。この議論を今回も読み返した私の印象では、平山の考えが整合的であると思われるし、安川の議論はイデオロギーが突出しすぎて文献学的な基礎が弱いように思われる。ただし、福沢諭吉のこの面での思想評価は存外に難しいだろうとも思う。
 本書の構成に戻る。本書は書名から予想されるように、安川の福沢像の反駁論の基軸を持ちながらも、実際には、まとまった書籍というより、平山の、いくつかの多面的な福沢論考集を合本にしたものであり(そのため章はキンドル用電子書籍としても販売されている)、第一章の福沢諭吉の祖先探索などは、こういう言うとなんだが、今日的な意味合いはほとんどないだろう。また第五章の大西祝との対比も、挿話的な印象を受ける。
 さて、本書の今日的な話題、福沢諭吉問題とも言えるものは、丸山眞男との関連もありイデオロギー的に興味深いとも言えるが、一歴史愛好家の私としては、本書第二章「『西洋事情』の衝撃と日本人」がより興味深いものだった。驚いたと言っていい。近代日本観が変わった。雑駁に一言で言っていいものかためらうが、私の印象では、明治維新政府というか近代日本のグランドデザインを決定したのは、福沢諭吉の『西洋事情』であったのかという驚愕である。従来私は、『西洋事情』という書籍は当時の西洋に関心をもつ日本人に西洋の基本情報を与えた情報書くらいにしか理解していなかった。が、本章を読み進めると、そんな参照レベルではないようすが察せられる。莫大な影響力がありそうだ。ただし、歴史学的に見るなら、この部分の考察はまだかなり粗い。
 それにしても、これから一万円札を見るたびに、その金銭的な価値だけではなく、「おお、福沢先生!」と敬意を表したくなる気持ちに駆られるだろう。

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2017.12.14

[書評] フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(香山リカ・北原みのり)

 フェミニズムあるいはフェミニストについてということかもしれないが、いつもぼんやりとだが思うことがある。私が何か「彼女」と議論をすることがあるとすれば、それは最後に私がフェミニストの敵として糾弾されて終わるのだろうというある確信である。私は女性の敵なのだろうし、私は原罪のようにそうなっているのではないか。つまりその理由は私が男であるからなのではないか。あるいは、何かクレドーを希うべきだろう。

 ここで私は自分自身何を言いたいのかわからなくなる。「私は男として常に女性から罪人として糾弾されるに違いない」という奇妙な確信のようなものは何に由来するのだろうか。そして、それがどこかしら後ろめたく、ゆえに表面的に女性に迎合するような主張や行動をしているに違いない、となんとなく思う。そこから先、私は密かに、私はしかし「男」だろうか?と自問する。
 現実はどうか。現実としては、フェミニズムやフェミニストと議論したことはないし、糾弾されたことはない。ただ、私はしばしば右翼ないしネットウヨ、あるいは体制側の代弁者としては非難されるので、その延長はきっとあるに違いないとは思っている。これに対して、私はもうやぶれかぶれのような心情でいる。吐露するのだが、今年私は、日本国憲法9条は不要だと考えるようになった。それは国際法に内包されているからで、この条項があるのは、日本に主権がなく国連に加盟にできなかったかった経緯によるからだけではないかと考えるようになったからだ。しかし、おそらく「9条は不要」というだけで、ある一群の人の逆鱗に触れることになるだろう。
 そういう意味あいで、私がフェミニズムに対して「逆鱗」となる何かを持っているに違いないとも思うのだが、自分ではわからない。そのわからなさ自体が「逆鱗」に近いのだろうという予感だけはある。
 「私は男だろうか?」については、今年いろいろ思うことがあった。私の内部に強烈に「男である」という意識があるかというとある。振り返って思うのは、若い日のことだが三角関係に置かれたときだ。私はただ「女を男から奪う」というだけの妄念に取り憑かれたものだった。他方、自分は若い頃よく同性愛者と思われていた。女性からも男性からもそうだった。誇っているかのように聞こえるのは気恥ずかしいのだが若い頃の相貌にその要素があったかもしれない。今だから言えるが、男性から二度ほど襲われそうになったことがある。幸いレイプには至らなかった。というか、一人の「彼」は私からの拒絶に驚愕して極度の自己嫌悪に陥った。もう一人の「彼」についてはもう少し複雑である。ただ、自分なりにではあるが、レイプというものがどういうものかという直感は持つようになった。
 そうした「原罪」や自分の内面の女性性についてはどうかというと、奇妙な自覚のようなものはある。いわゆる女装はしないが、私の趣味は基本的に一般的な女性が有する趣味に近い(最近は香りでハンドクリームを選んでいた)。私はしばしば気がつくと女性だけのカフェに一人いることがある(女性を求めてではない)。老人男性がそんなところにいるのは気恥ずかしいとも思うし、自分の趣味がたまたまそうなのだからしかたないじゃないかという意識の交点にある。もっとも最近私はコメダをよく利用する。単に喫茶店の趣味がないだけかもしれない。
 さて、私は何を語ろうとしているのだろうか。一つには、「私をフェミニズムの視点から糾弾しないでくれ」という命乞いのような心理だろう。私は、本書『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(香山リカ・北原みのり)』(参照)を読みながら、ある違和感を持ち、さて、その違和感のようなものをブログに語っていいものだろうかと戸惑っているからだ。しかし、だからこそ少し書いてみたい。最初に断っておきたいのだが、私は本書を批判したいとはまるで思わない。
 そして最初に告白しなければならないのは、私がこの対談書がさっぱりわからなかったということだ。もちろん、個別の話題はわかるし、対談者である二人の意見の差異も、あたかも高校の現代国語のテストのようにおそらく読み取ることはできる。だが、根幹のところでわからない。本書で話題とされている話題がなぜ話題なのか、そこが根の部分でわからないのである。
 本書の対談のテーマもぼんやりとしかわからない。ただ、副題にあるように『「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』というのことは、対談の基軸であるだろうと了解する。そこでは、「性の商品化」として見えるものが、女性からは自己決定権なら是とされてよいのかという課題と、同じく「性の商品化」として見えるものが、「表現の自由」であれば是とされてよいのか、という課題だろう。
 仮にであるがそれについて自分がどう思うかというのを先に述べておくと、自己決定権から女性性を自身が商品化するということは、そもそも自由主義の国家なら規制できないだろうし、規制できなければ、それがもたらしうる危険性へのセイフティを用意することだけではないかと思う。ただ、率先して性の商品化を開放する市場への規制をなくせとも思わない。私はコミュニタリアンではないが、社会価値に伝統性があると多数に意識されていることは理解できる。そしてもう一つ思うのは、性の商品化は女性に限られたことではないだろうということだ。この点については、私の読み落としでなければ本書の対談で問題意識は見かけなかったように思う。
 表現の自由との関連でいえば、私はこれはレイティングの問題だろうと考える。社会は、これはコミュニタリアンとしての考えではないが、単純に未成年やある精神傾向の人々を精神的に保護する社会的な利得があることから、レイティングが必要になる。本書の「はじめに」で北原がコンビニで販売されているエロ本について、「公共空間でこれほどの女のモノ化が商売になっている現実は、この国が自由であることの証しなのか、それとも性差別の証しなのか」と問うているが、私はこれについては、レイティングの問題であり、背景には性差別の意識があるだろうが、市民がレイティング規制を議論してルール形成していけばいいだろう、くらいに考えている。もっと個人的に言うなら、レイティングの問題としてもあれはよくないなとは感じる(私にとって美しくないから)。
 ここで「女性のモノ化」という概念が出て来る。本書は対談であるが、大きな対立する思想の対談という形にはなっていない。二者は「女性のモノ化」を批判している。では私はこれについてどう考えるのか。
 私は、女性と限らず男性も性幻想のなかであえてモノ化的な自己疎外を行うものだろうと考えている。性幻想そのものにモノ化が離れがたく結びついているのだろうとも思う。これが男性の場合は女性生殖器というモノに局在される傾向があり、女性の場合は美形相貌に局在される傾向があるということで、基本的に傾向の問題であり、この傾向の偏差に異常的に見られるものもあるだろう、というくらいである。本書では『「モノ化」される喜びは奴隷の最終形態』という項目がある。私の理解ではこの問題意識は対談のなかで掘り下げられていない。該当箇所は「モノ化」される話題が「暴力の受容」に結合され、暴力はいけないということから逆に「モノ化」批判が合理化されるような理路になっている。私がここで思うのは、『Oの物語』のジャン・ポーランの序文を彼女たちはどう読むか、またドミニク・オーリー(Anne Desclos, alas Dominique Aury)のインタビュー(残念ながら書籍化されていないのでレファレンスがあげられない。探せば仏文があるはず)をどう読むか。
 ただ、そこで本書と自分の思いのもう少し先の違和感が生じている。それは『女性にとって「性」と人格は切り離せない』というテーマに関連している。「女性はいくら性と人格を切り離そうとしても人格の欠片みたいな、性行為をしている時に付随している人格的なものが絶対にあるわけです」と香山は語る。やはりわかるようでわからない。単純な話としては、男性は性と人格を切り離しているかというと、そういう人が傾向として多いというくらいで、本質的な男性と女性の差異はないと私は思う。もうひとつ思うのは、ここで言われる「人格」がわからない。Personalityというのであればわからないではないが、であればそれは基本的に傾向としてしか捉えられないものではないだろうか。逆にいえば、性行為のなかでどのような倒錯的な幻想を持っていても、社会的な人格と分離して社会が扱えるがゆえに「人格」が成立するのではないだろうか。
 さて、こうして述べてみると結果的に批判のようなトーンになっているのを自覚はする。ただ、うまく弁解できないのだが、繰り返すが批判の意図はない。基本的に二人が何を議論しているのか私にはわからないというだけのことであり、そのわからなさはおそくら私の「男性性」に帰着させられ私がそこで批判されるのだろうなという予感があることだけだ。
 もう一つ「さて」として、些細なことかもしれないが、文学的な感覚としての接点を述べて終わりにしてみたい。雑談ではあるだろうし(深い意味がないだろう)、私も村上春樹をファン心情で支持したいという意図でないのだが、これはどうだろうかと思った。『村上春樹作品と都合のよい妻』の部分である。

北原 村上さんの描く女性って、リアリティがないから。いねぇよ、そんな女!というような女ばかりでです。
香山 誰かと話していた時に、村上春樹は『ノルウェイの森』以降は読んでいないと。理由は、「男に都合のいい女ばかりが出てくるから」って(笑)。

 できるだけ慎ましく言いたいのだが、北原は『スプートニクの恋人』のミュウについても「いねぇよ、そんな女!」とするだろうか。香山はもし編集者が『海辺のカフカ』を読んでみてはどうですかと仮に提案したとき、読む必要はないとするだろうか。
 文学の例でいうなら、マーガレット・アトウッドの『またの名をグレイス』をどう捉えるだろうか。Netflixの映像化作品でもよいのだが、そこで描かれるグレイス・マークスを二人はどのように受け止めるだろうか。

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2017.12.13

[書評] 職業としての地下アイドル(姫乃たま)

 『職業としての地下アイドル』(参照)という書名がマックス・ウェーバーの主著のもじりであることはさておき、「地下アイドル」とは何か、という関心が、それを知らない人にとってこの書名でまず関心をひくところだろう。「そんなことも知らないの?」という人でなければ、「地下出版」「地下教会」というように「当局から弾圧される文化活動としてのアイドル」を連想するかもしれない。が、そうではない。

 本書冒頭に定義は書かれているが、いわゆるメディアに出てくる芸能人アイドルが仮想の対比としての「地上アイドル」であり、そうしたメディア的な世界から離れ、小規模のライブ活動をしているのが「地下アイドル」である。メジャー・デビューを夢見ているアイドル活動と言ってもいいかもしれないし、実際本書を読むとそういう過程として「地下アイドル」が位置づけられ意識されている事例も多いこともわかる。
 他方、「地下アイドル」について知っているという人でも、それ自体の関心より社会的関心として、通称「小金井ストーカー殺人未遂事件」をまず連想する人もいるだろう。2016年5月、小金井市で「芸能活動」をしていた当時20歳の女性大学生がライブで刺殺されかける事件があった。私も本書を読む前にこの事件を連想し、その背景にある社会現象に本書は答えるものになっているだろうかという期待を持った。その期待に、本書は答えている。まず、その視点から本書が読まれてもよいだろと思えるほどである。
 あの事件と「地下アイドル」はどのような関連にあったか。当時すでに文筆活動もしている著者姫乃にマスメディアからコメントが求められた。そこで姫乃は、①小金井事件の女性は「地下アイドル」ではないこと(女優活動などもしていた)、②アイドルのファンはけして危険ではないこと、を熱心に答えた。マスメディアとしては、アイドルのファンが潜在的に危険だというストーリーを求めていたことが逆にそこからわかる。
 ではあらためて、「地下アイドル」とは何か。そこをある種、現代という社会の視点から明らかにしようとしたのが本書である。著者は十分に社会学的とは言えないまでも、自分の周りにいる実際の地下アイドルとそのファン、それぞれ100名ほどのアンケート調査を実施して実態に迫ろうとしている。このアンケートの枠組みからわかるように、地下アイドルとそのアイドル・ファンは一つの社会現象として見ることができる。
 肝心のそこをどう読み取るか。著者姫乃の基調は、地下アイドルはいわゆるアイドルよりも普通の女の子(一般の若者)であるとしている点だ。その意味でアンケートから浮かび上がる地下アイドルのプロファイルは普通の女の子とあまり差はなく、むしろ芸能アイドルとの差のほうが強いかもしれない。「地下アイドル」とは何かという問いかけがそれ自体の特性として規定されないということは興味深い。
 そこで、少し私の勇み足の読みになるが、普通の女の子と地下アイドルの差は、そのアイドル・ファンによるものだ(操作概念)としていいだろう。あえて言うなら、アイドル・ファンの心情やニーズが普通の女の子を地下アイドルとして現象させている。
 地下アイドルのファンとはどのようなものだろうか。通常のアイドルと違うのだろうか。その差については私は読み取れないが、本書で描かれる地下アイドルのファンは興味深い。
 現実の地下アイドル・ファンにしてみれば自明のことだろうが、地上への志向を持つ地下アイドルが、実際に地上に出る際には、ファンであることを卒業してしまうらしい。ある意味、マイナーな状態で地下アイドルを支えているのが、彼らの行動の動機であり喜びだと言っていいだろう。年齢層は30代半ばが多いようだ(ファン活動は意外に費用がかかるせいもある)。そして、彼らはアイドルと自身の小さな世界での承認関係それ自体を当然求めるとして、さらにファン同士のホモソーシャルな関係にも充足を得ている。しいてそこだけ強調するなら、地下アイドルは、ホモソーシャルな親密性の道具である。漱石の「こころ」でいうなら、「先生」とKは「お嬢さんという地下アイドル」のファンだった。
 愚劣な比喩のようだが、「こころ」がホモソーシャルの潜在的な臨界を明らかにしたように、おそらく「地下アイドル」とそのファンの間にも潜在的な臨界点は秘められているだろう。しかしそれは通常想定されるような恋愛による破綻でもストカー的な心理でもなく、まさにホモソーシャルという幻想性の了解破綻だろう。「こころ」の比喩で言うなら、何も語らない「お嬢さん」が仮にであれ自身の性幻想を明らかにするときだろう。比喩から戻るなら、地下アイドルは自身の恋愛心理(そして性幻想も)を語ることが禁止されている。
 著者姫乃はその破綻のポイントを悲劇ではなく「卒業」として明るく捉えている。おそらくアイドル・ファンもその虚構の世界の「卒業」を了解しているだろうし、私の推測でいうなら、30代男性はすでに20代にあるリアルな恋愛幻想を「卒業」していただろう。アイドルのファンは未熟なのではなく、性幻想の一つの成熟した形なのだろう。
 「地下アイドル」の年齢は現状、20代前半程度。そのファンの年齢は30代。それがそのままあと10年間、平穏に「卒業」をそのシステムに組み込んでいけるのだろうか。そうであってほしいようにも思う。
 さて、私は姫乃とは違ったルートで地下アイドルに近い一群の人々を知っている。正確にいえば、地下アイドル予備軍とでもいう人々である。あまり書きたいとは思わない。また、その実態に社会的な問題があるというわけではないし、概ね本書の姫乃の視点と重なってはいる。ただし、微妙に違う点も感じている。姫乃のいう「一般の人」は自然に現在の教育システムから安定的に排除されているように思えることだ。

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2017.12.12

[書評] コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生 (岡本和明・辻堂真理)

 具体名を出すと批判かと不用意に誤解されかねないのでぼかすが、以前、若い学者さんの、昭和後期の歴史についてのある大著を読んだとき、論旨も通っていて参考文献もしっかり読み込まれているにも関わらず、あの時代の空気というものが感じられないものだなと奇妙に思ったことがあった。もう少し延長してみると、語弊があるが、東京オリンピック前の東京の風景の生活感を知らない人には、なにかある感覚の欠落があるようにも思う。もっとも、その時代を生きてきた人がトンチンカンな過去の映画を作ったりもするので、同時代感覚があれば歴史がきちんと捉えられるものでもないことはわかる。と、ここで言葉につまって息継ぎをして思うのだが、少なくとも学術的な文献に向き合っていては見落とされがちな、それでいて決定的な庶民史の感覚というのを掘り出すことは難しい。

 つまり、そういうことなのだ。『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生 (岡本和明・辻堂真理)』(参照)を手にしたとき、「ああ、これだ」と思ったのである。中岡俊哉、その名前を見ただけで、ある種、胸いっぱいになるものがある。あの時代の空気そのものがこの人の顔を添えて動いていた。スモーキーグラスのあのしぶい顔である。
 中岡俊哉を説明することは難しくない。本書帯にもあるが、本書を一文で言えば、「驚愕のオカルト評伝、ここに降臨!」である。そのとおり。もちろん、それが洒落であることはわかる。「降臨」というのは、書名にもなっている「コックリさん」の暗示である。コックリさんがなんであるかは、漫画文化史を通して現代の若い人にもそれなりに伝わっている。他方、伝わりにくいのは、「驚愕のオカルト評伝」の含みだろう。オカルトが驚愕なのではない。中岡俊哉という人の実人生が驚愕であり、そのほぼ正確な評伝が読めるということから、昭和後期の歴史がくっきりと見えだすことが驚愕なのである。
 中岡俊哉は、これも帯にあるように「スプーン曲げ、心霊写真、透視予知、そしてコックリさん――すべてはこの男の仕掛けだった!」とあるように、昭和50年代、民放テレビを熱狂させたスプーン曲げやオカルトブームを仕掛けたのは中岡俊哉であったと言えるだろう。小林秀雄も興味深く見守ったユリゲラーの「奇跡」は1974年。17歳の私もテレビを食いいるように見ていた。さすがにテレビの前に壊れた時計は置かなかったが(壊れた時計はなかったかもしれない)、それと別の類似の番組だったかもしれないが、ジェリー藤尾が興奮しまくっていた姿を鮮明に覚えている(そこまでいけちゃうものかあと思っていた)。
 自分の年齢から逆算してみると、当時小学生くらいの年齢であの番組を見ていたのは今の50歳以上ということになるだろう。中岡の仕掛けたオカルトブームはその後も長く続くのでその部分で現在の40代でも多少あの時代空気に重なる人はいるかもしれない。いずれにせよ、中岡俊哉の名前だけでその評伝を手に取りたく思う世代は、私よりも年長になるだろう。そのことが少しもったいなくも思う。本書は歴史の空気というのものを伝える好著であるから、広い世代に読まれるとよいだろう。
 手に取った評伝にして私は読書前に何を期待していたのか。私としては、中岡がテレビの裏でベロを出している姿である。オカルトなど何にも信じていないのに、ブームだけを引き起こしたニヒルで知的で屈曲した実像といったものであった。が、そこは見事に裏切られた。裏切られて当然だろうとも思っていたが、実際に描かれていたのは、オカルトや心霊現象に真摯に向き合っていた中岡俊哉という奇妙な人だった。そしてその「真摯さ」というのは、昭和のあの年代の人々の特徴的な資質でもあった。追い詰められた心理というのでもないが、与えられた仕事を何が何でもこなすという気迫である。そう思って今更ながらに気がついたのだが、中岡は私と父と同じ生年、大正15年であった。同年に植木等がいる。彼はそうした真摯さと正反対のような芸風であり、その部分だけが文化史的に継承されてしまったが、あのスチャラカさは真摯さの暗喩でもあり、彼もまた真摯極まる人だった。
 中岡のこの評伝には、私の理解では3つの側面があると思う。彼に心霊現象を追求させた時代背景。そこには満州に希望をもって渡った青年と戦後も中国に残ってその地に半ば同化した男である。それでいて逡巡の果、1958年に現地で生まれた子供を連れて帰国した。本書の著者の一人、岡本和明は中岡の実子である。本書にも書かれているが、岡本は実子でありながら父の仕事の人生についてはそれほどは知らなかったらしいことも興味深い。ちなみに、中岡敏夫の本名は岡本俊雄である。
 二つ目の側面は、まさに中岡が民法メディアを掻き回したと言っていいかもしれない、あのブームの歴史である。学術的には語られにくい実際の庶民史であり、私のようにあの時代に記憶を持つ人にとっては、所々で懐かしい思いがこみ上げてくる。
 三つ目は、そのブームの衰退である。本書を読みながら意外に思えた部分である。私は、彼の仕掛けたブームは早々に過ぎ去ったのだと思っていた。が振り返ってみると、私は大学に入って以降、次第に民放番組そのものを見なくなっていたし、米国初のニューエイジ運動には関心を持っていたが、日本のオカルトブームには関心を失っていただけだった。本書を読むと、中岡の特に著作者としての活躍は1984年にピークを迎えるとあって、少し不思議な感じすらした。いずれにせよ、中岡が引き起こしたブームは一過性ではなかった。
 ここで後のオム真理教事件に強い影響のあったノストラダムス予言ブームはどうだったか見直すと、本書にも指摘があるが、五島勉『ノストラダムスの大予言』は1973年の刊行のベストセラーで、そこだけ見るなら、中岡俊哉のオカルトブームと並行していた。ただ、こちらの書籍もシリーズのブームで見るなら、1980年台半ば以降も続いている。日本のノストラダムスブームと同様に、オウム真理教に影響を与えたと見られる桐山靖雄だが、その阿含宗の成立が1978年、そこに至る彼の『変身の原理-密教・その持つ秘密神通の力ー』は1971年である。これらも同時代的なブームであったと見てよいだろう。雑駁に言えば、創価学会の戦後の勢いの停滞の随伴現象のようにも思える。なおどうでもよいことだが、桐山が2016年に老衰で死んでいたのを今知った。
 中岡俊哉自身の衰退は、こうして評伝を読むと彼自身の体調不良の影響があるが、彼自身が1990年代に向かう世相のオカルト化への違和感もあったようだ。脳梗塞後も活躍され、74歳で亡くなるが、あの時代の男性としては早世というものでもないだろう。残る思いがあることが評伝から察せられるが、人生を生ききったといってよいだろう。その意味で人の一生というものの姿を描いているし、この評伝は上手にそこを伝えている。
 あと、個人的にまいどながら自分のゲス根性だと恥ずかしく思うのだが、中岡の離婚・再婚の話は気になる。1982年に中岡は糟糠の妻と離婚し、「旧知の女性」と再婚している。彼は55歳だろう。81年に有名な『ハンド・パワーの秘密』を出しているので、離婚再婚はこの時期に掛かっている。再婚相手の女性の年齢はわからないが、それなりに若い女性ではないか。仕事に忙殺されていた中岡を彼女がどう見ていたかは気になる。
 中岡が仕事一途な人であったからこそ、その恋情の情感が人生のなかでどういう彩りをなしていたのだろうか。彼の場合、隠された恋愛というものでもないが、そういう恋愛の意識の部分に人のある本質的なものが現れるものだ。オカルト・超能力といった分野に取り憑かれた人の、人の情念の根源でもある恋情と関わりは、本書で描けないのではあろうが、やはり気にかかる。

 
 

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2017.12.11

はしだのりひこさんの死に

 先日、といっていつだったか調べてみると、12月2日のことだったが、フォーク歌手のはしだのりひこさんが亡くなった。私は彼の熱烈なファンということでもないせいか、痛切な思いというほどのものは心に去来しなかったが、こうは思った。「ああ、あのぼっちゃんぼっちゃんした、はしだのりひこさんも亡くなったか、歳は72歳かあ、まあ、人が死ぬ年齢でもあるな、加藤和彦さんが亡くなったのは、2009年、62歳だったから、それよりは長生きしたが、北山修さんはもっと長生きされるだろうな……」。そして何か心に小さく暗く重く沈むものがあった。
 人は生年の順に死ぬというものでもないが、概ね、年を取るとぽつぽつと死んでいく。かく言う自分も、45歳で始めたこのブログを今60歳で書いている。わかってはいたし、幸福な60歳の誕生日ではあったが、その前後に無意識には、なんというか静かに潮が満ちてくるように恐怖のようなものはあった。今も続いている。死と老いへの恐怖には違いないが、単純に感情を惹起するものでもなく、その緩やかにたゆたうような何かに浸り、まるでタイムカプセルに閉じ込められたような情感がある。そのなにかに閉じ込められて今年の後半はブログも書けずに日々を過ごした。(が、それを突然にかち割るような強烈な生の情熱もあったりはしたが。)
 心が引きこもるをの多少なりとも妨げたのは、ネットではあっただろう。私は恥ずかしいことによくツイッターをしている。ツイ廃(ツイッター廃人)と言っていい。悪癖のようにも思うが、おかげでブログが死に絶えそうなかでもネットにつながっていられた。これもある種の老いと死への形かもしれないと苦笑するが、数少ない世界とのつながりではある。いろいろなことをツイッターを通して知る。あとは率直に言って子どもたちの交流から知る。書籍なども読むが、そのつながりにはあまり生の彩りは少ない。
 そうしたツイッターで、はしだのりひこさんの情報が流れなかったわけでもないが、あまり見かけなかった。そこに奇妙な痛みの感覚があった。ツイッター的な話題ではないのだなというのはわかる。当然、関心の幅も世代で決まるということでもあるだろう。はしださんのフォークルを知る世代は、老いた。その実時代との関係でいうなら、フォークルの解散は事実上、1968年なので、私も10歳というところだ。小学三年生だったか、ゲルマニウムラジオが完成して最初に受信したのが「帰って来たヨッパライ」だったのが強烈な思い出として残っている。つまり、少なくとも60歳以上ということになる。余談だが、先日ジョニー・アリディが74歳で亡くなったが、同年代のフランス人には大きなニュースだったようだ。
 と、ここで調べなおして記憶違いを知る。あの早回しの元声ははしだが印象的だったように思っていたのだが、この時期のこの曲にはしだは入っていなかった。後のコンサートなどでははしだをよく見かけたのでそう思い込んでいたのだろう。
 フォークルの曲を自分でも歌うようになったのは、ギターを持つようになった中学生になってからで、思い返すとはしだ作曲『何のために』もよく歌った。「何のために何を求めて傷つきつかれ年老いて死ぬのか」 というフレーズは中学生の心には響いたものの、その意味合いは今思うとまるでわかっていなかった。自分より一巡上の世代であるフォークルですら、若い心情としてしか歌ってはいなかっただろう。
 こうして記憶をたぐりながら、実際の年号との照合をしていくと、他にも錯誤というほどではないが、記憶時間とのずれのようなものは感じる。フォークル後の「はしだのりひことシューベルツ」の時代は随分長いようにも感じられたが、1968年から1970年と短く、自分の中学生時代とは重ならない。よく歌った『風』もその後のはしだの持ち歌としての記憶だったのだろう。「人は誰も人生につまずいて、人は誰も夢やぶれ振り返る」と口ずさんでみる。今でも歌えるものだなあ。そうえいば、『カラオケJOYSOUND for Nintendo Switch』も入れたので、歌ってみるかな。たぶん、曲リストにははいっているだろう。そして、今でも普通に歌えるだろう。
 同じ錯誤の部類だが、『花嫁』が出たのは、随分後のこと、私が高校生くらいのことかと思っていたが、調べてみると、1971年でまさに自分の中学生時代に重なる。思い返すとすでに『ガット』や『ヤングセンス』とかに譜が載っていた。私はこの歌が嫌いだった。この歌が嫌いで、はしだのりひこを避けるようにもなった。もちろん、その割にこの歌も全部歌える。愛唱した記憶はないが、自分が30代のころシュールな短編小説を書いていたが、この曲を使ったことがある。夜汽車に載っていく奇怪な花嫁の物語である。自分で書いておきながら、どういうストリーだったか覚えていない。
 吉田拓郎の『結婚しようよ』も嫌いだった。1972年、これはきちんと覚えている。もう吉田拓郎なんか絶対に歌うかよと当時中学生だった自分は思った。以前このブログにも書いたが『「いちご白書」をもう一度』の情感のように、結婚や就職などで社会に統合されいく青年というものが吐き気がするほど嫌いだった。その甘ったるい情感も嫌だった。もちろん、とか言う割に、カーペンターズだのオリビア・ニュートン・ジョンなどを聞いていたので、ようするに洋楽に趣味が移りだした時代でもあった。ただフォークギターを抱えていた中学生時代も、PPMのような洋物も好きではあった。そして高校生以降はユーミンのファンになっていた。
 その後のはしだのりひこには関心がなくなった。吉田拓郎もそうだ。もうしわけないが、泉谷しげるとか『春夏秋冬』以外関心ない。岡林信彦は遠くなった。中学生時代の思い出である。どうでもいい連想だが小鹿みきさんはどうされているのだろう。
 はしだのりひこさんの死因については、現代で72歳で死ぬとなると病気であろうなあとなんとなく思っていたが、今頃ニュースにあたってみると、十年前からのパーキンソン病であったとのこと。そして、今年には急性骨髄性白血病を併発したらしい。62歳からのつらい闘病だったかというのは胸に迫る。このところ寛解していい気になっているが自分も難病を抱えているし、なんとなくその手の病気を併発して死ぬような気がしている。と、いうのもネガティブなファンタジーに近いものではあるが。
 ところでこのブログ記事だが、当初、『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』の書評の枕話のつもりだったのだが、奇妙に思い出に囚われてしまった。しかし、こうしてアイロニカルではあるが、何か書いてみると、はしだのりひこさんは好きだったことに気がつく。哀悼の思いが書けてよかった。『花嫁』は依然歌う気もしないが、『何のために生まれて』と『風』は私のカラオケレパートリーに刻んでおこう。さようなら、はしださん。


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2017.12.10

[書評] PSYCHO-PASS GENESIS 1〜4(吉上亮)

 アニメの『PSYCHO-PASS(サイコパス)』が私は好きで、シリーズ1と2を通して4回は見た。というか、その世界の前史にあたる小説『PSYCHO-PASS GENESIS』(参照)の読後、1度通して見て、しみじみその深みを味わった。この小説はあくまでアニメ本体の外伝として描かれているのだが、それ自体が本体の批評的な解釈も緻密に含んでいる。本体アニメと非整合性なくさらにその本質を掘り下げてくれる。

 アニメの『PSYCHO-PASS(サイコパス)』がどのような作品かについては、Wikipediaなどにも解説があるので、まったく知らない人はそちらの情報を当たって欲しい。が、簡単に言うと、SFとして描く、世界全体が危機に陥る百年後の日本の物語だ。そこでは各日本国民の性格・才能・心理状態が「シビュラシステム」(シビュラ)と呼ばれる壮大なシステムでそれぞれ綿密に計測され、その計測値で各日本人の人生設計も国家管理される。いわばシビュラが日本に君臨する。そしてさらに、シビュラは一人ひとりの社会的な犯罪可能性をも数値化し、結果、犯罪が発生する以前に、健康管理として未然犯罪者を厚生省が法を介さずに、処刑を含めて対処するようになる。この数値が通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」である(言うまでもないが、精神病質者Psychopathの駄洒落)。対処を行うのは、厚生省の公安局刑事課で、執行官として管理される潜在犯と厚生省官吏である監視官が行う。
 アニメのシーズン1では、人間であることの意味を再び問うために、天才的かつ異常体質の槙島聖護が犯罪の創出によって、シビュラに支配される世界に対して挑戦を行うなか、彼を個人的な執念から追い詰める執行官・狡噛慎也と、シビュラ君臨世界を法の視点から批判しつつも是認せざるをえない、若い女性の監視官・常守朱の三者の相克の物語となる。
 これに、若い監視官・宜野座伸元と中年の執行官・征陸智己の物語が絡み合う。この二人の関係には深い前史が示唆されているが、本書『PSYCHO-PASS GENESIS』の1巻と2巻はその前史である征陸智己の物語となる。征陸はちょうどシビュラの君臨が始まる時代、同時にまだ警視庁が残る時代に若い刑事としてこの物語に登場する。物語の目的はなぜ刑事であった征陸が潜在犯に堕ちてしまったのかということと宜野座との関係になる。こちらの物語は、主に征陸とその上司である八尋和爾の対決の物語となる。が、物語を読み進めると、アニメ1シリーズの槙島と狡噛をなぞっているかのようにも思えるが、その関係は微妙に異なる。そのあたりがこのパートの面白さになる。
 パート1となる1と2巻の小説としての完成度は高い。個人的には荒廃し尽くした東京の地名が随所に現れて、海外SFを読むときとは違う親密感も楽しめた。
 さてこれでパート2の3巻と4巻はどうなるのだろうかと気になる。いや、すでにパート1のエピローグにやや異様な挿話があり、ぐっと心惹かれる。ここに東金美沙子が登場している。アニメのシリーズ2を見ているならすでにわかるだろう。このパートの物語を読み進めると、アニメのシリーズ2に対応している。すでに述べたことにもなるが、征陸智己の物語であるパート1はアニメのシリーズ1に対応していた。この小説構造に気がつくととても面白い。
 そしてパート1最終の、次パートへのつなぎの挿話には、もう一人なぞの女性が登場する。このなぞの女性が、できるだけスポイラーは避けるために比喩的に書くのだが、鹿矛囲桐斗と常守朱の原型になっていくところに、『PSYCHO-PASS』という世界の全貌が現れる。
 パート2はさらにパート1の前史として描かれる。世界が崩壊しはじめ、日本が孤立していく世界である。この世界は、リアルな歴史としての日本の戦前と戦後の暗喩となっていることも興味深い。作者の意図ではないだろうが比喩的に読むなら、日本人の歴史期無意識の暗部の物語というより、朝鮮人の無意識の物語にも重なっている。特に、高麗人などを連想すればその比喩への近接線がひけるだろう。
 パート2の物語は、映像的にも美しい。アニメ『PSYCHO-PASS』のファンとしては、このパートの映像化、あるいは映画化はぜひ見たい。厚生省麻薬取締局の捜査官・真守滄はなんというか、萌える。惚れる。
 パート2は全体として、アニメのシリーズ2の鹿矛囲桐斗への暗喩的な統合がある。アニメとしては、鹿矛囲を介して常守の法の立場としてシビュラが対立的に描かれていたが、パート2はむしろこのアニメのなかの東金朔夜に暗喩的に真守が対立することで、シビュラの内面が逆転して描かれる。この逆転性が知的な興奮を伴う。
 アニメの側からはシビュラは、ある種全体合理性の化身しかも犯罪を超克した理性のように描かれているが、『PSYCHO-PASS GENESIS』を含めた『PSYCHO-PASS』全体のなかでシビュラとは、日本国民へのいわば愛と理想として現れる。
 そのことに読後愕然と気が付き、これは、天皇制の愛着と日本国憲法の理念ではないだろうかと思えてきた。そして、現行の暴走しつつある日本のリベラルは日本国憲法というシビュラの忠実な執行官なのではないか。そう連想したとき、個人的にだが、私は深い絶望に堕ちた。八尋のようにお堕ちなければならないような奇妙な衝動すら感じた。
 日本国憲法をシビュラにしてはならないなら、そして、堕ちることに耐えるなら、日本国憲法という法を、市民の意思として法としてたらしめなおすべきなのだろう。また天皇制が内在する親密な国民の宥和(それこそまた今のリベラルが心情的に融合しつつある)といったものも新しい法のなかで疎外していくべきなのではないか。



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