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2017.12.09

[書評] ようこそ実力至上主義の教室へ 1〜7MF文庫J(衣笠彰梧)

 当初、アニメで『ようこそ実力至上主義の教室へ』を見ていた。なぜこのアニメを見るようになったかは記憶にない。まあ、1話見たら、面白いんじゃねこれ、くらいの気持ちだった。2話3話と見続けると面白かった。といううちに、アニメの1クール(で1シーズン)を見終えると、ちょっと感動してしまった。

 この先の話が知りたいなあ、原作あるんでしょと、原作の既刊を見ると、当初6巻まであり(4.5巻というのもあるが)、どうやらアニメは3巻までらしいので、続きをMF文庫Jというので読んだ(キンドル版ではなく)。面白い。6巻まで読み終えた頃、7巻がちょうど出てこれも読んだ(というか予約していたらある日届いた)。
 7巻までが一つの大きな物語の区切りがついたかなという感じもした。それから、そういえば、と、1巻から3巻はアニメと違う感じかなと疑問になり、結局これも読んで既刊は全部読み終えた。ふう(ため息)。ちなみに、一部で原作はよいがアニメはよくないといった評価もあるようだが、僕は、アニメの脚本はある意味原作よりこなれていてよいと思ったね。
 ところで、こーゆーのがラノベ? ラノベというのを実は知らないのだが、挿絵というには手の込んだキャラクター絵の設定があり、文章があるというこの形式が、コンテンツの内容傾向というより、メディアとしてのラノベだろうかとも考えた。キャラ絵が決まっていたらアニメ化もしやすいだろう。読みやすさもある。読んでいて、あれ?これ誰だったけというとき、キャラ絵が思い浮かぶ。ああ、三宅明人、彼かあ、とか。
 ただ、全巻読んだ印象でいうと、というか、普通に文学作品として読んだ感じからすると、各登場人物はキャラクター絵とは少し違う印象を持った。それと、いく人かのキャラクターは、いわゆるラノベというものの典型かなとも受け取った。文章についてはとてもしっかりしていて、それ自体は幼稚な印象を与えない。
 まあ、面白い話だよ。読むのお勧めしますよ。何が面白いのか?
 秀逸なのは、なにより主人公の綾小路清隆の設定だろう。謎の過去があり天才でありダークである、という点だが、もっとも魅力的なのは、徹底的に人間不信であることだ。ある意味、人間性のかけらもない。かつての文学でいうなら、不条理劇にでも出てきたり、人間なんて信じられるかあぁみたいな逆説でもあるだろう。あるいはラスコーリニコフでもあるだろう。だが、綾小路はそういうタイプではない。悲劇性も生の意味性も乏しい。奇妙に透明な視点で人間と社会を見ている。生き延びることに意味を見出しているが、生の意味というものはおそらく存在していない。
 この透明な人間不信とでもいう通底的な感覚が、他の魅力的でダークな登場人物たちにも共通している。主要な登場人物の多くが基本的なところで、人間性というものを信じていない、というか、壊れている。
 読みながら思ったのだが、現在の10代や20代の若い世代には、この旧世代的には崩壊した人間性のような、この感覚が自明なものとしてあるのではないか。
 そしてそれを支える物語だが、明らかに非現実的で滑稽な設定のなかで進む。いわく「希望する進学、就職先にほぼ100%応えるという全国屈指の名門校・高度育成高等学校。最新設備の使用はもちろん、毎月10万円の金銭に値するポイントが支給され、髪型や私物の持ち込みも自由。まさに楽園のような学校。だがその正体は優秀な者だけが好待遇を受けられる実力至上主義の学校だった」ということだが、ありえねぇ。
 このありえなさが、物語の枠組みにゲーム性を与え、物語は1巻ずつゲームというかあたかも将棋の棋譜のように展開する。読みながら、「おお、そこに銀をはったか」みたいな展開の読みの面白さがある。実際、物語にはゲームが仕込まれていて、知的な謎解きのようにもなっている。あとで知ったのだが、作者はゲームとかの作者でもあるらしい。
 7巻で一つの大きなゲームが一巡する印象があるが、この先、この物語がどう続くのか。残るキャラや伏線から、数巻先のぼんやりとした予想はつくが、そもそもの物語の中核である綾小路の虚無にどういう形を与えるのかというのが気になる。個人的には、爽快な展開というよりどんどん陰惨な方向に滑り落ちていくという救いようのない鬱展開を期待したい。
 とはいえ、アニメも2シーズンはできるだろうし、それなりにヒットしているようでもあるから、読者をどん底に落とすような悪魔的な展開は商業的にも避けてしまうのではないだろうか。すでに4.5巻のようなほのぼの巻も出ているし、これからも出そうだし。
 キャラ絵的にもかぶっている感のある『暗殺教室』を思うと、こちらは表面的には虚無性や人間の暗部を見せながらもあくまで、ヒューマニズムに徹してしまって、これって人間ってすばらしいとか感動するかないようなあ、赤羽業君みたいな。『暗殺教室』自体は面白かったが、ああいうヒューマニズムは、ちょっとなあ。






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2017.12.08

[書評] 兼好法師(小川剛)

 私のように『徒然草』を愛読書とする人にとっても、その著者「吉田兼好」という人はよくわからない人である。より正確に言うなら、『徒然草』という古典に表現されている著者の印象を、そのまま「吉田兼好」とされる人に重ねているだけに過ぎない。ここで引き合いにするのもおこがましいが、「finalvent」と自称するブロガー本人もブログなどの印象でしか理解されない。それが悪いわけでも、誤解されているわけでもない。およそ文章の形で表現されたものはその著者をもそこからその一面を表現してしまうからだ。

 しかしそれがすべてはない。人間というのは不思議な存在である。人を理解することには独自の困難さを伴う。例えば、自分の親であれ、配偶者であれ、本当に理解しているかどうかはわからないものだ。自分から見えている他者がその他者の全てではないことを、無意識に感じ取りながら人は生きていくものだし、自分自身もそうした奇妙な複雑さとでもいうべきものを抱えていく。
 何が言いたいのか。「吉田兼好」の作品が魅力的あればあるほど、その作品の背後には、ある不可解な人間が存在するはずだし、その不可解さへの直面はその作品への深い理解にもつながるだろう。この文脈でいうなら、本書『兼好法師(小川剛)』(参照)は「吉田兼好」という実在の人間への、歴史学的な手法でのアプローチから、ある奇妙ともいえる人物を描き出し、そのことで、『徒然草』の新しい魅力を教えてくれる。

 またでは、本書は「吉田兼好」についての歴史学的な研究なのかというと、率直にいうと、微妙だ。『徒然草』といえば日本文学を代表する古典の一つのなのでそこから著者の価値も重視されがちだが、同時代的に「吉田兼好」を見ると、いわば二流の人であった。本書が歴史学的に描く「吉田兼好」は、30歳過ぎても職もなく地位もない、今でいえばニートみたいな人であったらしい。そのあたりは『徒然草』からも想像できるが、なんというのか、ある時代の二流の人というのは、いったい歴史学的にどういう価値があるのだろうか。そんな疑問をアイロニカルに感じさせる。
 当然ながら本書は、「吉田兼好」という人物よりも、その人物を取り巻く歴史状況を描き、そのなかで実在の人物を描き出そうとしている。そうした点で興味深いのは、彼の人生が南北朝内乱の時期に重なっていることだ。あたかも歴史の神様が、日本の歴史の転換期に、適当な傍観者をその時代に配したようになっているし、『徒然草』自体もそうした、ある傍観的な俯瞰的な感覚を伝えている。
 本書が結果的に描き出した一番のポイントは、帯にもあるように「今から五百年前『吉田兼好』は捏造された――」ということで、むしろ、『徒然草』という文学作品が古典として人気を得、評価されていくなかで、いわば著者が「吉田兼好」として副次的かつ伝説的に形成されて行ったことを示している。
 読後、本書への批判ではないが、奇妙な疲労感のようなものも残った。結局のところ『徒然草』の成立と著者の関係はさっぱりわからないのである。兼好法師は当時としては意外と長寿であったようだが、その晩年とこの作品の関係や思いといったことも、さっぱりわからない。
 余談だが、古典作品の著者というのはよくわからないものだ。本書はその独自の「わからなさ」も伝えている。他に、紀貫之についてもわからないことは多い。これを言うと異説好みのように思われるだろうが、紫式部についてもよくわからない。そもそも源氏物語の著者なのだろうかと、ずっと疑問に思っている。

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2017.12.07

[書評] 脳の意識 機械の意識(渡辺正峰)

 エキサイティングで知的でかつレファレンシャルな(知識がきちんと整理され参考書籍が明記されている)書籍というのは、自分の印象に過ぎないが、珍しい。たいていの書籍は、そのどれかに偏りがちだ。もちろんそれがいけないわけではないが、この3つの側面でバランスのよい本書『脳の意識 機械の意識(渡辺正峰)』(参照)は、まずもってお得な本だったなという印象が第一。

 しかしそうした印象が持てる前提には、この分野について、つまり脳科学について読者に興味があること、あるいは私のようにこの分野の興味を卒業してしまったかのように錯覚してるという自覚、といったことが必要だろう。こうした分野で、おそらく現時点で本書は、格好の入門書でもあるだろう。だからこれ読んで本当に勉強になっちゃったなという感じが続く。
 本書が扱う分野をまことしやかに言えば、ちょっと気取ったものになるだろう。だがもっと単純にかつ感覚的に言える。「機械(人工知能)は自意識を持つか?」という問いで示せるということだ。あるいは、自分の肉体が死んだとき、自分の自意識と記憶を人工知能にダウンロードできるかという問いでもいい。SF的である。本書は実際、そうしたSF的な比喩や言及にも富んでいて親しみやすい。なにより世界の第一線で研究する著者自身、自分の意識を機械に移植したいと考えているようだ。
 

 もし、人間の意識を機械に移植できるとしたら、あなたはそれを選択するだろうか。死の淵に面していたとしたらどうだろう。たった一度の、儚く美しい命もわからなくはないが、私は期待と好奇心に抗えそうにない。機械に移植された私は、何を呼吸し、何を聴き、何を見るのだろう。肉体を持っていた頃の遠い記憶に夢を馳せることはあるだろうか。
 未来のどこかの時点において意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いないと私は考えている。

 
 そんなことが可能だろうか? 著者は、もちろんユーモアも込めてのことだが可能だという展望で本書を展開していく。その情熱があるエキサイティングな影響を本書に与えているのだろう。またそれが単なるSF的な想像に終始するのではなく、この分野の最前線で何が研究されているか、またその研究史や研究方法論の枠組みについても学問的にかなり正確に述べられている。そこが知的であり、勉強にもなるし、読後参考書としても使える価値になっている。そういえば私は先日、英国の人工知能テーマのドラマ『HUM∀NS』のシーズン1を見終えた。非常に面白い作品だった。見ながら、基本的に倫理的なテーマのなかにこの分野の科学者からのの示唆が含まれている印象をもったが、本書を読む過程で、「ああ、このことだな」ということをなんどか思い至った。
 個人的には、本書を読んで、はっとしたというか、従来の自分の考えを改めた点が1つ、そして自分の些細ではあるが哲学に大きな示唆を与えた1点がある。
 まず、改めた点は「クオリア」についてだ。「脳の中の感覚意識体験」である。例えば、赤いものを見たとき、人が脳内でそれをどう感覚しているかという実体、あるいは質感のようなものである。私は、このクオリアについて、「あほくさ」と思っていたのだった。そんなものを仮定しても検証もできない。ヴィトゲンシュタインがEと名付けた個人的感覚についての議論なども参考にしていた。しかし、本書の実験スキームを通して語られるクオリアの説明は納得できたし、クオリアはむしろ客観的なものと見なしてよさそうだともわかった。もう少し言えば、本書が示すこの分野の総体がクオリアの上に成り立っていることがよくわかった。
 それに関連してNCCという概念が出て来る。Neural Correlates of Consciousnessの略で、「固有の感覚意識体験を生じさせるのに十分な最小限の神経活動と神経メカニズム」とされる。昨今の人工知能議論では、主にディープラーニングが注視されているから、比較的フラットな学習モデルが前提になっている。が、人間の脳内のクオリアを生成するNCCはより階層的かつ見方によっては局在的というか自律的でもあるように受け取れる。NCCと非NCCは科学的に区分できるようだ。このことはさらに、自由意志論にも関連していて、この分野ではすでに自明的な自由意識は否定されている。
 もう一点、自分の哲学に示唆する点は、NCCのあり方にも関連するが、およそ機械が意識を持つということはどういうことかを説明するために提出される「自然則」である。自然則とは、筆者によれば、万有引力の法則や光速度普遍の法則のように、宇宙がそもそもそうなっているという法則である。意識についていえば、「万物に意識は宿る」ということで、著者も研究当初はばかばかしい考えのように見なしていたと告白している。
 私のこの分野への基本的な関心にそれるが、私はこの問題について哲学、なかでも大森荘蔵の哲学の影響を受けてきた。大森はこの件ついては、雑駁に「ロボットは意識を持つだろう」と言及している。大森哲学の文脈では、意識の有無は他我論の矛盾に帰着するので、そうしたアイロニーとまず受け止めるべきだが、であれば、裏面的に意識の自然則としても問題はないだろう。
 本書が大胆にも意識の自然則を持ち出すあたりは非常にエキサイティングだ。著者自身あとがきで「こんなイケイケな本にするつもりはなかった」と告白しているが、一般書ならではの魅力だろう。
 そしてこうした文脈に遭遇する。

 意識の自然則があるとすれば、それは宇宙誕生の瞬間から存在していた可能性が高い。自然則の在り方からして、広い宇宙のどこかで最初の生命が誕生し、その進化とともに降ってわいたものだとはどうも考えにくい。だとすれば、意識の自然則は、地球型の中枢神経に特化したものにはなっていないことになる。

 意識は進化で獲得されたものではあるだろうが、地球生命の進化のなかでしか生まれでないものでないだろう。それは生体もまた電気信号の機構であるように、アルゴリズムとして存在するものだろう。
 本書は直接述べてはいないが、万物に意識があるとする自然則と、宇宙の原初からその自然則があるとするなら、宇宙自体も一つの意識を持つということだろうし、その意識はまさに「私の意識」との構成的な階層的な関係にあるのだろう。

 
 

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2017.12.06

[書評] 日本の地下で何が起きているのか(鎌田浩毅)

 今年を振り返って何があっただろうかといろいろ思うなかで、熊本の地震はどうだっただろうというのがあった。すぐに何か勘違いしていることに気がついた。あれは2016年のこと、昨年のことだった。一年半くらい前になるし、何より今年の出来事ではない。なのに奇妙に心に引っかかったのは、あの地震がどことなく終わった感じがしないことだった。

 東北大震災の後もそうした、思いの引っかかりがあった。阪神大震災の後もあった。そしてもう少し何かが引っかかっている感じがして心を探ってみると、人の生きる時間と自然の時間の、埋めがたい差のような何かがある。人は生きてたかだか100年といったところだが、地球の歴史では100年はわずかなものだ。だが、そのわずかの人間の生の時間に、1万年単位の歴史が交差する。地震や火山爆発はそうした象徴のように思われたし、日本列島に生きることの意味を別のロングスパンで考えさせられた。
 思いのなかで自然に絵が浮かび上がる。絵というより、図像だろう。日本列島とその海域を区分するプレートの図である。そこに4つのプレートがあたかもせめぎ合っている。それはどうなるのだろうか。本書『日本の地下で何が起きているのか(鎌田浩毅)』(参照)にあっさりと書いてあった。

 結論から言うと、日本の地盤は一〇〇〇年ぶりの「大地変動の時代」に入ってしまい、これから地震や噴火の地殻変動は数十年というスパンで続くのである。つまり、東日本大震災が引き金となって不安定となった地盤が、その後に起きた数々の災害原因になっていることが、地球科学者共通の認識にある。(後略)

 熊本地震のような地震がこれからも日本列島で頻発する時代になったということだが、対して今年はその点では静かな年でもあった。そのあたりが冒頭で書いた奇妙な違和感の一つであり、他方、ではそうした頻発する地震の一つとして熊本地震はなんだったのだろうかと本書で見直すと、個人的には失念していたので、改めてぞっとすることが書いてあった。熊本地震のマグニチュードは7.3で、これは阪神・淡路大震災と同規模の直下型地震であったということだ。地震の大きさと被害は直接的には結びつかないということは、膨大な被害も出しうるということだ。
 すぐに連想されるが東京でも直下型の地震は起きうるし、本書では4つのタイプを上げている。東京に大規模地震が起きたらどうなるのかと当然不安になるが本書には、内閣府作成の被害予想図もあった。政府としては次の関東大震災とでもいう被害を一応想定している。まあ、シンゴジラではないけど、立川にバックアップの官庁もある。
 心のひっかかりに戻ると、南海トラフ地震がある。最近、南海トラフ地震の予想はつかないという報道があり、現在の科学をもってしてもわからない、ということから、わからないものを不安に思っても詮無いといった空気も感じられるが、本書を読むと、南海トラフ地震が具体的にいつ起こるかわからないものの、向こう30年では確率は70パーセントとされている。
 このあたりの説明から本書は科学書籍とは少し趣が変わってくる。科学者である著者の市民意識がそうさせることはわかる。典型的な部分を引用してみよう。ここでは30年後より20年後という枠組みの話で説かれている。
 


 私は京都大学で学生たちに「自分の年齢に二〇年を足してごらん」と言う。二〇歳前後の彼らは、四〇歳くらいで南海トラフ巨大地震に遭遇する。多くが社会で中堅として働いており、家族や子どもがいるかもしれない。そういう中で国家予算の数倍に当たる激甚災害が起き、半分近い人口が被災することをリアルに想像してもらうのである。
 その際に「手帳に二〇年先のスケジュールを記入する想像をしてほしい。二〇年手帳の二〇年目に、南海トラフ巨大地震発生と書き込んでみよう」と語りかける。さらに「その時に向けて、君たちは何をしたらこの日本を救えるか考えてほしい。そのため現在、何を勉強すべきかを逆算して考えてみよう。それが君たちのノーブリス・オブリージュ(高い地位に伴う道徳的義務)なのだよ」とも言う。(後略)

 
 著者はこの分野の専門家の社会的義務として、この20年後スケジュールを説くのだが、どうだろうか。
 著者は多くの人がこの20年後を理解すれば国が想定する八割の被害者を減らせるとしている。
 私はよくわからない。日本の市民がそういう20年後をスケジュール的に理解すべきなのかわからない。私はこの夏60歳になった。20年後があるなら、80歳になっている。生きていても呆けているのではないかとも思うが、その人生の最終で日本の大災害を見るのだろうか。
 本書は終章で野口晴哉についての言及が多くなる。私も野口晴哉に関心をもった人間の一人だが、率直にいえば、野口の言説はオカルトでしかない。水への伝言とたいして変わらないようなものだ。本書が、そうした考えに微妙に収斂していくように見えるのも、もにょんとした感じを残す。
 しかし、広く読まれるべき本ではあるだろうとも思う。

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2017.12.05

[書評] テストが導く英語教育改革(根岸雅史)

 英語教育については各種の議論があり、その混乱は宗教やイデオロギーの対立のような様相のようにも感じられる。しかし、根幹にあるのは単純な疑問である。「なぜ日本の英語教育は失敗しているのか?」ということだ。もちろん、「失敗などしていない」といった議論もあることは知っているが、それは別枠として置いておきたい。

 英語教育の失敗をその過程で見るなら、基本的に中学・高校の英語教育の失敗と見てよいだろう。だからもし、英語教育を改善するなら、中学・高校の英語教育をまずどうするかということになる。もちろん、ここですでにさまざまな議論が待ち構えている。会話・表現重視、読解重視などといった重点から学校英語教育を整理するという各種の議論である。だがそうした「英語教育」の内容以前に、学校の教育といういわば基本的な枠組みに載っている英語教育という実態を見るとき、各種の議論で比較的見落とされていることがある。定期テキストの存在である。英語の定期テストの存在は自明に捉えられていることが多い。それは他の学科、数学や社会学科の定期テストが自明であることの、安易な延長である。
 単純な切り口で疑問を投げかけてみよう。学校教育の英語科目に定期テストは必要なのだろうか? 修辞的に問いたいわけではないが、不要なのではないか。なぜなら、英語教育というのは、社会科目や理科科目のように所定の知識を分類して記憶し理解していくという知識の学科ではなく、所定の技能(スキル)を習得する学科である。そうであれば、現行しばしば実施されているように、授業で学んだことという知識を測る定期テストは不要であり、年末または半期に一度、中学や高校で英検など外部のテストを導入して評価とすればよいのではないか。
 この時点で反論は思いつく。そんなことをすれば英語の学習は学校外で効果的に行ったほうがよいことになり、そもそも学校英語を否定することになる、と。それはおそらく正しいだろう。と、同時にその正しさは学校英語を肯定はしない。学校英語は、例えば高校であれば卒業時に英検二級といった達成を提示し、仮にすでに高校一年で達成するなら、授業を免除すればよいだろう。それによって学力格差が広がるといった批判もあるだろうが、現行の英語教育よりましだろう。
 さて、こうした私の思いつきを現場の教師はどう考えているのだろうか。あるいは、現場の教師が拠り所とする教育理論はどのようになっているだろうか。そうした関心で出会ったのが、『テストが導く英語教育改革(根岸雅史)』(参照)である。一読して驚いたのだが、基本的な部分で上述したような私の意見と同じだった。なんのことはない、自分の独自な見解だと思っていたことは、学校教育の現場ではすでに問題視されていたのであった。
 本書では、定期テストで教科書の内容そのものを出さないことをまず勧めている。

 テストで教科書の内容そのものを出さないことには、多くの教師は抵抗感があるだろう。生徒が自分の授業を聞く意味を見いだせなくなってしまうと考えるからだ。しかし、本質的には、英語の授業は英語力をつけるためのものである。教師の日本語訳を忠実に再生させるだけのテストは、もはや「英語力を測るテスト」ではない。
 テストが生徒をコントロールするためのツールではなく、本来のツールとして機能するためには、「本来つけようとしていた力」が本当についているのか見なければならないそして、そのためには、ある意味、未習の文章をテストに出さなければならないだろう。(後略)

 本書はそうした、従来の定期テストを超えていくための実践的な指針として描かれている。対象はどちらかといえば中学校の英語のようにも思えるが、現状の高校の英語教育も含まれていると見てよいだろう。
 各論は、英語教育の技術論として面白い。英語教師だけではなく、英語教育全般に関心のある人にとっても面白いし、知的な高校生なら教師の裏面を知る面白さもあるだろう。特に、面白いという点だけに絞るなら、本書で特に糾弾されている「総合問題」のありかたへの批判は笑いを伴いながらもある深刻な、日本の英語教育の病理とでもいうものをえぐりだしている。
 本書が面白かったので、本書の前作である、『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る(若林俊輔・根岸雅史)』(参照)も読んでみた。内容は書名に表されているとおりだが、なるほどこれが無責任なテストかという例題集になっている。これが、失敬な言い方だが実に笑える。そして、ここでもぞっとせざるをえない。こちらの書籍が出版されたのは、1993年であった。四半世紀も前なのである。この間、学校の英語教育は「総合問題」に代表されるナンセンスな問題で、生徒をコントロールするために延々と継続され、前書のいう「落ちこぼれ」を作り出してきたのだろう。
 なんということだろうと思う。ふと先日、NHKで見た72時間の、英語学校のドキュメンタリーを思い出した。主に初級の英語を熱心に学ぶ社会人が多数いた。学校英語がもう少しましなら、そうした外部の英語学校は不要だったのではないか。

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