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2017.06.09

[書評] 我々みんなが科学の専門家なのか?(ハリー・コリンズ)

 「我々みんなが科学の専門家なのか?」という書名は、わかりやすそうでわかりづらそうに思える。というのは、その問いは修辞的であって、自明に「No。我々みんなが科学の専門家ではない」ということを導くかに思えるからだ。だがおそらく、この書名に対してそのように端的に、ただNo、というのであれば、恐らく誤読となるのではないだろうか、と読後思った。

 というのは、現代社会にもたらす科学的知識の問題の大きな一面は、実際上、「我々みんなが科学の専門家たりうる」ということを前提にしているからだ。
 本書でも述べられているが、簡単に言えば、科学者でなくても、所定の知的訓練をしてきた人間であえれば、科学分野の論文の概要を正確に読みこなし、それを基礎づけとして、持論を展開することができるからだ。本書の問題提起は、まさに、そのことが問題なのだということである。
 その背景にはもうひとつ大きな問題が横たわっている。科学的な真理と呼ばれているものは、実は諸科学者のなかで必ずしも真理として定まっているとは限らないということだ。これについても簡単に言えば、どの科学分野にも異端的学説を唱える科学者が存在することであり、しかもその異端的科学者は別段、偽科学でもないということだ。本書は、重力についての議論で実例が充実している。
 もう少し問題を敷衍しよう。逆のプロセスとして例えるならば、こうなる。科学者ではないある知識人が、ある社会的な持論を展開したいがために、特定の科学的論文の結果を選択することができる、ということだ。しかも、そこで選ばれた科学的論文の結果自体は、その科学分野の方法論では正しいとも間違っているとも言えないということだ。
 この問題の深刻さが理解できるだろうか。その問題の深刻さが理解できる知識人なら本書は必読だと言っていいだろう。ハードカバーの訳本であるが、書籍としては短いほうの部類で、翻訳もこなれているので読みやすい。しかし、難しいのは、本書が導き出した結論は、実はそう単純には受け入れがたいことがある、という点である。
 その前に、本書の前提について補足しておくべきだろう。基本的には、現代において科学論をどう考えるかである。この点については訳者の「あとがき」が非常にコンサイスにまとまっているので、ある意味ではそれだけ読んだ方がすっきりしかねない。そこでは、《科学論の「三つの波」》としてまとめられているが、それをさらに簡単に私の言葉でまとめたい。

  1. 素朴科学論 科学を単純に礼賛する立場である。ネットの偽科学批判などもこれに類する。時代的には1950年代的である。
  2. 科学パラダイム論 トマス・クーンのパラダイム論を典型に素朴科学論を否定した立場である。科学には客観的で絶対的な真実はないとすると理解しても近い。1960年代以降の潮流である。
  3. 本書の科学論 科学パラダイム論を否定せず、かつ素朴科学論にも戻らないとする考えである。

 ネットの世界と限らず日本では、科学パラダイム論ですら理解されない傾向はあるが、現実の課題としては、すでにそうした水準を超えて、本書が問題とする事象は発生している。例えば、原発の危険性や受動喫煙、子宮頸癌ワクチンについての知見を支える科学論は、素朴科学論的には単純に決定できない側面があり、そうでありながら、また科学パラダイム論的な知的な遊戯に放置しおくわけにもいかない。むしろ、偽科学として批判される素朴科学論の水準は、消費者保護という課題ではあっても、科学と社会の関係での重要性は乏しい。同様に、本書でも注意深く言及されているが、マクロ経済額は科学ではないから意味がないというな稚拙な意見も、単に素朴科学論の変種でしかなく、それほど知的な水準の問題とはなりえない。
 では、現在、課題たりえる、その第三の立場をどのように考えたら良いのか? このことは、科学的専門知識とは何かという問題でもある。
 本書の結語として見れば、科学者のエートスという概念への市民社会からの敬意ということになる。卑しい目的や政治的な目的で研究している科学者がいるとしても、科学者のエートス自体は理想的に規定できるものだということである。
 私見では、この結語は弱い。倫理的な言明がそれゆえに自己撞着しているようにも感じられる(倫理の前提なく倫理課題となっている)。しかし、そのこと自体が本書の価値を低めるものではない。むしろ、ここに現在社会の大きな問題があり、そのある思索の結果がそこに辿り着くしかないのだろうか、と問いかけを与える点に大きな意味がある。本書の訳者あとがきはコンサイスによくまとまっているが、本書の価値はその議論と思索のプロセスのなかにある。
 

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2017.06.06

[書評] 聖なる道を歩く 黙想と祈りのラビリンス・ウォーク(ローレン・アートレス)

 先日チャペルの前を通りがかると何か案内の人がいてイベントをしているらしく、聞いてみると「ラビリンス」だという。簡単な説明も受けるがなんのことかわからない。おそらく上座部仏教的な歩く瞑想、あるいは歩く祈りのようなもののキリスト教バージョンではないかと思い、時間もあったのでとにかく体験してみることにした。
 チャペルに入る。薄暗く、見渡すと私以外の人はいない。いくつかキャンドルがともりコプト教を連想させる音楽が流れ、いかにも神秘的な演出となっている。椅子は後方に片付けられ、床に大きな布が敷いてあり、そこに円周を基本にした迷路のような柄が描かれている。つまり、それがラビリンスなのだろう。靴を脱いでお歩きください、とのこと。やはり歩く瞑想であったかなと思う。

via Wikipedia

 ラビリンスの入り口はわかるが出口はない。中央に花の形のスペースがあり、そこが中央で、たぶん、そこに入ったら来た道を引き返せということだろう。
 上座部の歩く瞑想はやったことがあるので、その感覚で歩き始める。特に祈りもしない。一人静かに足長に合わせて歩く。こうした経験をしていると、人によっては神秘的な啓示を受けることもあるのだろうが、私はもうそういうのは嫌だなあとは思っている。あと、音楽はできればヒルデガルドがいいなと思っている。

 大きな布とは言ったものの、円の直径は12メートルくらいだろうか。周も12くらいに見える(11であった)。ゆっくり歩いても数分もすれば中央に辿り着くと思いきや、そうもいかない。意外にこれは遠いものだなあという感覚と、中央に近づいたと思いきや外周側に移るようでもあり、奇妙な感じにとらわれる。
 そうこうしているうちに、学生が8人ほどチャペルに入ってきて順に歩き始める。彼らはラビリンスの経験者なのか私のように初体験者なのかわからない。すたすたと歩く人もいる。私は小さくパニックする。中央に辿り着き、祈ることもないがチャペル内部の空間を見上げる。そのあとの帰路、この全員とすれ違うのかと少し怯えている。そしてその時は来る。相手との適度の間合いに心臓が高鳴り、私のほうから少し脇に反れる。と、相手も自然に反対に反れ、特に問題もなくすれ違う。ほっとして見渡すと、10人ほどの歩みの運動が、迷路的であるせいかランダムにも見えると同時に、これは惑星の暗示でもあるのだろう;かなり古代のデザインなのだろうと思う。
 私は彼らより早く始めたのですれ違いをすべて終えると帰路はまた一人である。そしてこれは、いずれ人生の時間というものの暗示であることは避けがたい。今年60歳になる私は、死という出口に向かう帰路にある。死を当然思う。が、ラビリンスを終えてみて、さしたる感慨もない。神秘的な体験などなにもなくてよかったと思う。
 翌朝のことだった。夢は覚えていないのだが、私はあのラビリンスの中にいるのだという奇妙な感覚があるこに気がついた。言葉では表現しづらい奇妙な感覚である。祈りでも敬虔さというのでもない。呪いといった悪しきものでもない。とにかく不思議な感覚があり、それはそれからもう1週間以上たつのにずっと残っている。
 あれはなんなのだろう。そうした思いからラビリンスについて扱った『聖なる道を歩く 黙想と祈りのラビリンス・ウォーク(ローレン・アートレス)』を読んだ。この本は第2版の翻訳で第1版は1995年。内容は学術的でないがそれなりに興味深い記述も多い(特に13芒星)。基本は著者のアートレスがラビリンスというものを知り、それに向き合い、自身で布ラビリンスを作り、また自身の教会にラビリンスを作る;そしてそのことで多くの人がラビリンスを体験する、というラビリンスの内的なかつ霊的な考察が中心となっている。
 ざっと読んだとき、少し物足りない本だなと思った。主観的すぎるのではないかとも思った。が、自分のあの感覚から再読してみると、なるほど、ああした感覚がこの本の核にあるのだということがわかる。その意味でこの本は、おそらくラビリンスというものの体験後でないと、わかりづらいかもしれないという印象ももった。もっとも、それは個人的な印象に過ぎないかもしれないが。
 またそうして読み込んでみると、ラビリンスというもののと、私も歩み、アートレスも主要に勧めるシャトル大聖堂の11周ラビリンス意匠の特殊性が内的によく記述されていることに驚く。別の言い方をすれば、そこは上座部の歩く瞑想とは異なる面でもある。もっとも彼女もこの本で述べているように、ラビリンスに正しい歩き方はないということは、前提として、ある。(ただ、エニアグラムにも似て古代に失われた秘儀もあったようには思えるが。)

via Wikipedia

 この本に当初、どちらかというと否定的な印象をもったのは、ユング的な記述が目立つこともあった。以前にこのブログにも書いたが、私は中学生の頃からユング心理学に傾倒し、そのため、30代にはもううんざりしていた経緯がある。オカルト的な嗜好も嫌いではないが、嫌悪もある。といったねじくれた心情を私は持っている。
 ラビリンスとは何かという視点からはずれ、霊性の体験記として本書を読むなら、著者のアートレスという女性にも当然ながら関心が向く。以前このブログでも数回書いたが、シンシア・ブジョー(Cynthia Bougeault)とよく似た印象を持った。彼女のほうは女性司祭で、アートレスは参事という違いはあるが、いずれも現在の聖公会がこうした霊的な女性の活躍によって新しい次元に向けて霊性を推進されているようすが感じ取れる。そこは、おそらく、旧教や新教にはない点かもしれない。
 日本では霊性は奇妙な文脈に置かれがちだし、ゆえにあまり語りづらい領域になっている。だが、人の霊性の希求というのはむしろできるだけ適切にその対象を見つけたほうがよいのではないか。そしてそのことに、女性の霊性というのが大きく関わるようにも思える。
 ただ、繰り返すが、こうしたことが語りづらい時代ではある。それでもあえていうなら、このブログのこの記事を見て、ラビリンスを知ってそれが心に(霊の感覚に)少しでも残るなら、体験し、本書を読まれるとよいだろうと思う。
 それはそれとして、ヒルデガルドの音楽なども、もし知らないなら、そうした霊的な感覚に近いのでお勧めしたい。

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