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2017.05.06

[書評]帝国日本と朝鮮野球 憧憬とナショナリズムの隘路(小野容照)

 私はこの夏60歳になる。老人への道を辿りつつある。そう思うことのひとつには、自著にも書いたが、父が大正15年生まれであることについて、そう遠い歴史と感じられないことがある。
 正確な期日は聞きそびれた。私の父は10歳から20歳まで朝鮮で暮らした。祖父の従兄弟の誘いから植民地で大家族を営んでいた。だが、彼はそうした家族を好まず、早々に満州鉄道学校の寄宿舎に入った。朝鮮人と一緒に少年期と青春期を過ごした。野球もした。私は父からそうした感覚を受け継いでいる。だが私も老い、今の日本人にはそうした歴史感覚は伝わらなくなった。そして歴史感覚が失われたとき、歴史の考察が始まるのだろうと、本書を読みながら思った。

 本書は、その時代、植民地時代の朝鮮での野球を中心に、朝鮮における野球を歴史的に俯瞰的に扱った本である。と、いうと、いわば歴史の本筋ではなく、ディテールな、些末な歴史のようだが、実際に読まれてみればわかるように、この時代のもっと微妙な部分に、従来の類書にはない独自の光を当てている。副題の「憧憬とナショナリズムの隘路」がよくそれを表しているだろう。この書籍でまとめられている歴史事実は、韓国(北朝鮮を含め)ですら研究されていない。研究されることもないかもしれない。もちろん、私の父の世代では言わずもがなの歴史感覚であったのに。
 本書は、ほぼ学術書と言っていい形式を取っている。その点では、問題意識が提示された上で書かれている。3つの論点である。①日本の影響に着目して朝鮮における歴史の受容と定着を分析すること、②野球と民族との関係、③野球と植民地政策との関係である。
 読後の印象ではあるが、これらは明確に分離された問題意識とは感じ取れない。②と③は実質同じものであろう。ひどい言い方に聞こえることを恐れるが、また本書にも指摘のあることだが、朝鮮ナショナリズムというのは、植民地化政策が安定した時期においては日本ナショナリズムと分化が難しかった。さらにこの点について言えば、本書ではこの時期における日本の私学大学の意味付けについても興味深い指摘がある。これを延長していうなら、早慶大のアジア近代史に置ける俯瞰図に関連するだろう。
 書籍としての構成は序章を含めた6章からなり、序章では読みやすい導入がある。第1章では、野球というのだから、ということで米国から朝鮮への伝搬の歴史が語られる。率直に言えば、本書は正確さを期したいのだろうが、ここはそれほど面白くはない。まさに情報整理というディテール史の罠に陥っているかに見える。ただ実質、現在韓国で流布されている朝鮮野球の起源については温和な形ではあるが否定されていると読める点は重要だろう。第2章では韓国併合直後の時代と野球を扱っている。朝鮮民族の視点から注目されるのは理解できるが、これもまたディテール史に近い。しかし、この章で特筆すべきなのは、現在の朝日新聞のもとになった大阪朝日新聞による甲子園野球の起源についての考察である。詳細を述べた後、こう総括される。

 以上のように、大阪朝日新聞社は一九一六年の第二回大会の段階から、日本人学校のみならず、朝鮮人学校にも参加を呼びかけていた。単純に朝鮮での『大阪朝日新聞』の販売拡張だけが目的であるならば、まずは日本人学校にだけ声をかければよい。にもかかわらず、朝鮮人学校にも参加を呼びかけていたという事実は、大阪朝日新聞社が全国中等学校野球大会を創設した当初から、それを日本人のイベントとしてではなく、植民地の民族を含めた帝国日本のイベントとして構想していたことを示唆するものである。

 そして当時の大阪朝日新聞による「新領土たる朝鮮中学校の参加なきを遺憾とし、朝鮮を以って海外植民地視せず内地と同一の気分を味わしめたし」という引用を添えている。
 端的に言って、甲子園野球というのは帝国日本のイベントとしての背景を持つものである。が、なにゆえか、現代日本では、同質の日の丸、君が代、教育勅語のようには嫌悪されるふうもない。表層の下で今なお日本では、炎天下旭日旗に映える帝国日本のイベントが支持されているからかもしれない。
 第3章、第4章は実際に朝鮮で民族スポーツとして野球が興隆した1930年代中盤を扱っている。この部分は私の歴史感覚にもしっくりとする、本書でもっとも面白い部分であった。植民地化の朝鮮の庶民生活が野球を通して生き生きと語られているからである。
 本書は「野球」という「スポーツ」の側面で描かれているため、その伝搬の歴史やそこでの通史が描かれている。しかし、朝鮮野球において、おそらくもっとも重要なのは、やはり甲子園の起源となる全国中等学校野球大会だろう。野球をスポーツとして見るなら朝鮮において1920年代から30年代にかけて、その興隆はサッカーに移っていく。しかし、全国中等学校野球大会はそうではなかった。

 朝鮮半島全体で見れば、文化政治の開始から一九三七年に日中戦争が勃発するまで、右肩あがりで野球人口は増加していく。そして彼ら球児たちの目標となったのが、一九二一年から朝鮮でも地区予選が始まった全国中等学校野球大会である。

 朝日新聞が主導する帝国日本のイベントに朝鮮の少年たちが巻き込まれていったのである。そしてこれが一九三二年文部省による「野球統制令」につながっていく。「野球ノ統制並施行ニ関スル件(昭和7年3月28日文部省訓令第4号)である。この詳細も本書に詳しいが、結果として見れば、読売新聞の巨人軍に関連してくる、野球のショービジネス化である。
 さらにこの点で興味深い本書の指摘は、すでにこの時代、「総督府が朝鮮でも統制令を実施したのは、朝鮮人を狙い撃ちするためではなく、朝鮮の野球界と日本のそれを明確に区別できなくなっていたからだろう」という点である。すでに帝国日本のイベントのイデオロギーは完成しつつあった。つまり、それは同様に、日本本土(内地)における野球の戦時体制と類似の過程を辿ることになる。これは第5章で語られ、本書は終章と後書きで終わる。本書の総括は終章によくまとまっているので、本書を読むべきか悩む人がいるなら、書店でこの部分をまず読むとよいだろう。
 読後、さて、私は奇妙な、取り残されたような歴史感覚も覚えた。おそらく序章に見られる著者の問題意識の一端は、帝国日本のイベントとしての野球の戦後史にも向かっているだろうということに関連する。それは在日という朝鮮民族の歴史が継いでいったはずだ。また、こうした帝国日本のイベントのモメンタムは米国統治下の沖縄にも及んでいた。そのことも次第に忘れられつつある。そこが取り残された歴史の問題意識に思えた。
 もう一点、ある。本書の序章において2005年以降の、韓国における野球の興隆についての言及があるが、その理由は当然、日本でも見られたことだが、米国野球のグローバル化だろう。しかし私としては、別のことも思った。米国で活躍する朝鮮系野球選手は多いが、彼らにはヴェトナム戦争の背景もあるだろう。現代に至る朝鮮の庶民史の俯瞰するには、日本統治の視点だけでなく、ヴェトナム戦争まで拡張した全体構図が必要なのではないだろうか。

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2017.05.05

[アニメ]けものフレンズ

 「いくらアニメが好きだからって、あれは知能の低下を招くから見ないほうがいいかもよ」と言われた。そしてさらに、「3話までくらいがつらいんだよ。でもそれを超えたら、た、たのしぃ~」と言われた。じゃあ、見てみよう、と思った。この夏、60歳になる私。

 1話目を見た。うーむ。キングダムのシーズン1や鬼平みたいに、やはり、うにょうにょしているなあ。どうしても、このうにょうにょ感はしかたないのかなとまず思った。内容は、さしてピンとこなかった。まあ、テイストはやっぱりケロロっぽいよねとは思った。というわけで、知能の低下ポイントやつらみポイントに辿り着かない地点で脱落して、『政宗くんのリベンジ』とか見ていたのだが、世の中の話題に押されて、けものフレンズの続きを見た。
 僕らの世代には懐かしいツチノコが出てくる4話あたりで、おやっと思った。というか、いろいろこの物語には伏線が仕組まれていてしかも脚本が緻密に出来ている。というわけで、つらみちほうを過ぎて、知能の低下も気づかずにいたのかもしれないが、私の脳内では、イザヤ書の聖句が鳴り響いていた。

エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

 いやこれこそが知能の低下というか、青春への退行というべきなのか。続く。

彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。

 これって、けものフレンズの世界そのものじゃね? いやもってまわった冗談を言っているのではなく、この低能っぽく見えるアニメの作者に旧約聖書に詳しい人がいるんじゃねーのと思った。まあ、な、わけないよなとも思ったが。
 アニメとしては、普通にかばんちゃんとサーバルちゃんのキャラがよかったように思う。これに緻密な脚本と、細かい映像的伏線など、意外なほど明示的な情報量の多い作品だった。BD化で謎解き解析するように見る人もいるんだろう。
 この作品の自分にとっての魅力というのはなんだろうと真面目に考えてみると、アニメとしての面白さに加えて、きちんと、吉本隆明が『共同幻想論』などで言う異界という感覚を上手に取り出し、それにやはりイザヤ書的な終末の予感を交えている点にあるだろう。そしてこの点は、かばんちゃんの実質的な中性性にも関連しているように思う。まあしかし、もちろん、こうしたことがこの作品の評価に関わるということではまるでないが。
 作品トリックとして気になったのは、かばんちゃんの由来よりも、サーバル(野中藍)とミライとの関係だった。ゲーム版との関連から生まれたものだろうが、ミライとサーバルには過去の経緯があるのにサーバル(尾崎由香)はなぜそれを忘れていたのだろうか? これもネットのどこかに推理があるのかもしれないが、シーズン2の伏線だろうか。
 まあ、あまりごちゃごちゃいわず普通に面白いアニメでもあった。

 

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2017.05.04

[映画] ラ・ラ・ランド

 『ラ・ラ・ランド』については昨年秋の米国での話題を知っていたわりに見そびれて今さら感があり、こうなるとDVDが出てから見ようかなと思っていた。が、まだ上映館があるので見に行った。さすがにもう観客は枯れていたがその枯れ具合がこの映画にとって、とてもいい感じだった。楽しく、そして少し泣けた。
 評価については、もうとやかく言う必要もないだろう。アカデミー賞での椿事も楽しめる逸話になっている。とにかく、つかみの映像が圧倒的だ。あの意気込みで一気に観客を飲ませた。その音楽とダンスとシーンの美しさも圧倒的である。スクリーンセーバーがあれば是非欲しいところ。
 ストリーについては、ミュージカルということもあって基本単純である。特段に紹介するまでもないだろうが、売れない若い女優と、ジャズに憧れつつ理解されない若い男性の、偶然がやたらと重なる出会いと恋愛の四季、そして別れの予感……といったところ。ただ、最終シーンについては後で触れる。
 つまり、恋愛ものだ。Netflixとかにありがちなこってりしたセックスシーンとか("Sense8"とか)、完璧にない。ないよ。どっかで出てくるかなとちょっと期待しちまった私は自分を恥じました。とかぼんやり思いつつ、物語の設定はむしろ現代でなくてもいいだろうし、そのほうが、『シェルブールの雨傘』におけるアルジェリア戦争的な背景の重みもあってよいかもしれない……いやいや、そういう重さがないのがこの作品の現代的なところなのだろう。
 そもそも"La La Land"というのが、"out of touch with reality(現実感ないよ)"である。VOAにもある(参照)。


And many actors dream of having their name added to Hollywood’s Walk of Fame.

This brings us to a nickname for Los Angeles, one that is also commonly-used as an expression: la-la land.

La-la land can be any place that is fun, far from serious, and out of touch with reality. You can use the expression when talking about the mental state of someone who does not understand what is really happening. You might say that person is “in la-la land.”


 というわけで、二人は“in la-la land.”なので、いつかそこを去ることにはなる。
 そこで映画もほろ苦いエンディングになる、とも言えるのだが、そもそもこの映画は、基調の音楽に支配されるしかない仕掛けになっている。ということで、特に"Mia & Sebastian's Theme"と"La La Land"の曲調に沿う形のストリー展開になる。簡単に言うと、この追憶的な曲調から映像とストーリーが作り出された映画と言ってもいいだろう。
 そうした点からすると、この映画作品は極めて無意識的な訴求力のある作品であり、やや偽悪的に言えば無意識を操作する映画でもある。希望に見せかけながら、実際には追憶的な感動のなかに人を安らげさせるだろう。
 文学的な観点から作品を見直すと、キーになるのは、"La La Land"という青春の夢の非リアリティ感というより、むしろ、この映画のなかの奇妙な、リアリティショーのようなほつれにも見える、ずれた感覚にある。たとえば、昼間の公園や微妙な気まずさなどである。これらは、彼らの恋愛がそれぞれの独自の夢を追いながらも、実際は誰もが持ちうる凡庸な夢であることを暗示する。これが"Hollywood Walk of Fame"(参照)のStarsを再定義(redefine)になる。

City of stars
Just one thing everybody wants
There in the bars
And through the smokescreen of the crowded restaurants
It's love
Yes, all we're looking for is love from someone else

 「City of stars」は字幕では「スターの街」と訳されていた。"Hollywood Walk of Fame"からすれば当然だろうが、もっと凡庸な普通の無数の人々(all we)になる。そしてそのCityは、誰もが望みうるもので、ピアノ演奏のあるバーの中にも、レストランの混雑に見える。誰もが他者のなかにそれを求めるとして無数の星が再定義される。
 とはいえ、私たちの現実の理想や愛は実際にはかなうことはなく、その中で時は過ぎ、人生はムーヴオンしていき、回想に変わる。変えるしかない。それを美しくもの悲しく受けとめるのは、生きて老いる感覚と同じであり、それ以外に人ができることはあまりない。

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2017.05.03

『オペラ座の怪人』ミュージカルと映画

 劇団四季の『オペラ座の怪人』の元になっている、アンドリュー・ロイド・ウェバー版の、ロンドンでの25周年記念公演を、メディアでだが、見たいものだと思ったまま日を過ごしていたので、この機会に見た。すでに各方面から絶賛されているが、なるほど、驚くほどよかった。いやあ、こんなすごいミュージカルって見たことないなというくらい、すごいものだった。どうすごいかというと、まあとにかくすごかったよ。

 『オペラ座の怪人』については、アンドリュー・ロイド・ウェバー版をベースにした映画版のほうを先に見ていて、実はあまりピンと来ていなかった。今思うと『ラ・ラ・ランド』(これも先日見ました)のような映画のミュージカルという先入観から見ていたせいか、どうも歌と物語シーンのバランスが悪く、歌も映像も美しいわりに主題のわからない映画だなと思っていた。
 が、ようするに、映画のほうは、すでにミュージカルを見た人のお楽しみという趣向と考えてよさそうだ。自分も、先の25周年記念公演のミュージカルを見てから、再度映画を見たら、なるほどリアル映像っぽくするとこうなるのか、という面白さがあった。以前見たときの映画とは別の映画のようにも感じられた。映画の雪のシーンなどもよかった。そこではミュージカルと異なり、ラウルと怪人の決闘もあったが、演出の差とも言える範囲ではあるだろう。
 映画のほうではあまり気にならなかったが、舞台芸術としてみると、ミュージカルではあるがオペラに近いオペレッタの趣向があり、その意味では現代的なオペラとも考えられる。そしてその時点で、はっと気がつくのが、オペラの中に3つほどオペラがパスティーシュとして組み入れられていることや、またプッチーニ的な旋律や『メリー・ウィドウ』的な20世紀初頭のウィーン的な様相のパスティーシュも感じられることだ。こうした内的に屈折するメタフィクションは、世界とメタ世界の転倒性の関係を表す。その構造的な仕掛けがこの作品にあることの一端は後で触れる。
 さらに歌詞も聞き込んでいると、ミュージカルの流れのなかで、関連して異化的に思われる部分があるのに気がつく。特に、オペラ内オペラの『ドンファンの勝利』の『The Point Of No Return』が興味深い。クリスティーヌがピアンギだと思い込んだ怪人に歌い上げる。

When will the blood begin to race
The sleeping bud bursts into bloom?
When will the flames at last consume us?

いつ、血が流れ込み、
眠っていた蕾が花開くの?
いつ、炎がついには私たちを焼き尽くすの?

Past the point of no return, the final threshold
The bridge is crossed, so stand and watch it burn
We've passed the point of no return

引き返さない地点、最後の一線は過ぎた。
橋を渡り、それが燃え落ちるのを見ている。
もう引き返せない地点を過ぎた。


 解釈は難しいが、オペラ中のオペラとしてメタ的に、怪人とクリスティーヌの性交渉が暗喩されていると見ていいだろう。そしてその性交のスクリプトは怪人によるフィクションとして、そのフィクションの転倒性として、怪人の性欲の情熱がクリスティーヌに転写されている。
 この歌の後、クリスティーヌはそれがピアンギではなく怪人であることをオペラ内オペラから抜け出て知るが、それはだまされというより、劇的な情熱の転倒性の自覚として、自身の性欲望の所在を知るかたちで怪人という他者に向き合う形になる(実は墓に向かうシーンも同時に彼女の性欲であっただろう)。ここはこの作品のずばぬけて美しいところだ。彼女の性欲がたしかに怪人に向かっていたことの自覚である。
 このシーンに続いて、ややマヌケな印象でラウルが登場する。構図的にはラウルは白馬の騎士であり、クリスティーヌと怪人の近親相姦を破る愛の正義として現れるが、物語の暗喩は、そうした肯定的なラウルをも、やはり転倒させる。ラウルの愛の正義を保証するのはただオペラという枠組みでしかない。世界のお決まりということである。そこにはキリスト教的な意味での「肉」の欲情を超えるほどの愛はない。
 そもそもなぜ怪人はクリスティーヌを愛せないのか? 擬似的な父母の近親相姦性と醜さのふたつが重なるが、この醜さは、怪人が生まれついたものであり、それがこの世のお決まりと他者の関係で「肉」の欲情を阻む。かつゆえに、至上の音楽性で愛が彼の中に仮構される。
 これは相当にやっかいな、実存的な問題を持っている。私たちの大半は、こうした怪人を内的に潜めながら生きているからである。

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