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2017.12.07

[書評] 脳の意識 機械の意識(渡辺正峰)

 エキサイティングで知的でかつレファレンシャルな(知識がきちんと整理され参考書籍が明記されている)書籍というのは、自分の印象に過ぎないが、珍しい。たいていの書籍は、そのどれかに偏りがちだ。もちろんそれがいけないわけではないが、この3つの側面でバランスのよい本書『脳の意識 機械の意識(渡辺正峰)』(参照)は、まずもってお得な本だったなという印象が第一。

 しかしそうした印象が持てる前提には、この分野について、つまり脳科学について読者に興味があること、あるいは私のようにこの分野の興味を卒業してしまったかのように錯覚してるという自覚、といったことが必要だろう。こうした分野で、おそらく現時点で本書は、格好の入門書でもあるだろう。だからこれ読んで本当に勉強になっちゃったなという感じが続く。
 本書が扱う分野をまことしやかに言えば、ちょっと気取ったものになるだろう。だがもっと単純にかつ感覚的に言える。「機械(人工知能)は自意識を持つか?」という問いで示せるということだ。あるいは、自分の肉体が死んだとき、自分の自意識と記憶を人工知能にダウンロードできるかという問いでもいい。SF的である。本書は実際、そうしたSF的な比喩や言及にも富んでいて親しみやすい。なにより世界の第一線で研究する著者自身、自分の意識を機械に移植したいと考えているようだ。
 

 もし、人間の意識を機械に移植できるとしたら、あなたはそれを選択するだろうか。死の淵に面していたとしたらどうだろう。たった一度の、儚く美しい命もわからなくはないが、私は期待と好奇心に抗えそうにない。機械に移植された私は、何を呼吸し、何を聴き、何を見るのだろう。肉体を持っていた頃の遠い記憶に夢を馳せることはあるだろうか。
 未来のどこかの時点において意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いないと私は考えている。

 
 そんなことが可能だろうか? 著者は、もちろんユーモアも込めてのことだが可能だという展望で本書を展開していく。その情熱があるエキサイティングな影響を本書に与えているのだろう。またそれが単なるSF的な想像に終始するのではなく、この分野の最前線で何が研究されているか、またその研究史や研究方法論の枠組みについても学問的にかなり正確に述べられている。そこが知的であり、勉強にもなるし、読後参考書としても使える価値になっている。そういえば私は先日、英国の人工知能テーマのドラマ『HUM∀NS』のシーズン1を見終えた。非常に面白い作品だった。見ながら、基本的に倫理的なテーマのなかにこの分野の科学者からのの示唆が含まれている印象をもったが、本書を読む過程で、「ああ、このことだな」ということをなんどか思い至った。
 個人的には、本書を読んで、はっとしたというか、従来の自分の考えを改めた点が1つ、そして自分の些細ではあるが哲学に大きな示唆を与えた1点がある。
 まず、改めた点は「クオリア」についてだ。「脳の中の感覚意識体験」である。例えば、赤いものを見たとき、人が脳内でそれをどう感覚しているかという実体、あるいは質感のようなものである。私は、このクオリアについて、「あほくさ」と思っていたのだった。そんなものを仮定しても検証もできない。ヴィトゲンシュタインがEと名付けた個人的感覚についての議論なども参考にしていた。しかし、本書の実験スキームを通して語られるクオリアの説明は納得できたし、クオリアはむしろ客観的なものと見なしてよさそうだともわかった。もう少し言えば、本書が示すこの分野の総体がクオリアの上に成り立っていることがよくわかった。
 それに関連してNCCという概念が出て来る。Neural Correlates of Consciousnessの略で、「固有の感覚意識体験を生じさせるのに十分な最小限の神経活動と神経メカニズム」とされる。昨今の人工知能議論では、主にディープラーニングが注視されているから、比較的フラットな学習モデルが前提になっている。が、人間の脳内のクオリアを生成するNCCはより階層的かつ見方によっては局在的というか自律的でもあるように受け取れる。NCCと非NCCは科学的に区分できるようだ。このことはさらに、自由意志論にも関連していて、この分野ではすでに自明的な自由意識は否定されている。
 もう一点、自分の哲学に示唆する点は、NCCのあり方にも関連するが、およそ機械が意識を持つということはどういうことかを説明するために提出される「自然則」である。自然則とは、筆者によれば、万有引力の法則や光速度普遍の法則のように、宇宙がそもそもそうなっているという法則である。意識についていえば、「万物に意識は宿る」ということで、著者も研究当初はばかばかしい考えのように見なしていたと告白している。
 私のこの分野への基本的な関心にそれるが、私はこの問題について哲学、なかでも大森荘蔵の哲学の影響を受けてきた。大森はこの件ついては、雑駁に「ロボットは意識を持つだろう」と言及している。大森哲学の文脈では、意識の有無は他我論の矛盾に帰着するので、そうしたアイロニーとまず受け止めるべきだが、であれば、裏面的に意識の自然則としても問題はないだろう。
 本書が大胆にも意識の自然則を持ち出すあたりは非常にエキサイティングだ。著者自身あとがきで「こんなイケイケな本にするつもりはなかった」と告白しているが、一般書ならではの魅力だろう。
 そしてこうした文脈に遭遇する。

 意識の自然則があるとすれば、それは宇宙誕生の瞬間から存在していた可能性が高い。自然則の在り方からして、広い宇宙のどこかで最初の生命が誕生し、その進化とともに降ってわいたものだとはどうも考えにくい。だとすれば、意識の自然則は、地球型の中枢神経に特化したものにはなっていないことになる。

 意識は進化で獲得されたものではあるだろうが、地球生命の進化のなかでしか生まれでないものでないだろう。それは生体もまた電気信号の機構であるように、アルゴリズムとして存在するものだろう。
 本書は直接述べてはいないが、万物に意識があるとする自然則と、宇宙の原初からその自然則があるとするなら、宇宙自体も一つの意識を持つということだろうし、その意識はまさに「私の意識」との構成的な階層的な関係にあるのだろう。

 
 

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