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2017.12.23

[書評] メディア不信(林香里)

 簡素だが興味ひかれる表題への関心と、それが岩波新書であることの信頼から、『メディア不信(林香里)』(参照)を読んだ。なるほど、表題が示すテーマを簡潔にそれでいてグローバルにきちんとした論旨でまとめていている好著だった。が、微妙にではあるが、当初この本を手にしたとき期待していたものはそれだったのだろうかと、読後、小さな疑問がわいた。きちんとまとまった論旨の背景にある現在性と自分がそのなかで生活している現在の感覚に微妙なずれのような感覚も覚えた。そこだけ取り上げて誇張するなら、なんというのだろうか、宇宙人に宇宙船に連れられてきて、ほらあれが君の星、地球だよ、と告げられているような感覚だろうか。

 構成はわかりやすい。まず、「メディア不信」という問題提起が序章にあり、第一章ではドイツの事例(右翼グループ台頭)、第二章ではイギリスの事例(Brexit)、第三章では米国の事例(トランプ現象)という展開で、あたかも西洋事情といった形式になっている。各章を順に読んで違和感はない。他方、読者にもよるのだろうが、これは驚いた、予想外だったという新奇さというものもなかった。個人的には各国の並びに、韓国のメディアと「メディア不信」も取り上げてほしかった。そこにはかなり独自の様相がありそうに思っているからだ。
 第四章では、各国の並びで日本が現れる。これも事実や統計に裏付けられていてよくまとまっているのだが、私のように読書はするが、マスメディアのニュースはほとんどNHKだけで他はサイバー空間に暮らしているような人間からすると微妙なずれ感はあった。
 第五章では、ソーシャルメディアに注視し、先進国の民主主義との関連を議論している。この部分も第三章までの各国描写と同様、簡潔にまとまっているが、そこでも日本への言及には微妙なずれを感じる。それはなんだろうか。
 日本のサイバー空間側に立ってみると、「メディア不信」としてしばしば遭遇するのは、右派によるリベラル・メディアへの偏向批判と、左派によるメディアへの政権介入批判である。極端な例も少なくはないが、それらを除くと、どちらもそれなりに論拠があり、ただメディアをために批判しているというものでもない。私もブログでメディア批判的な文章を書くが、できるだけ論拠を参照として示すようにしている。逆に言えば、マスメディアはこれだけインターネットを使っていながら、論拠となる参照に乏しいように思える。この点を少し補足するなら、マスメディアの報道で論拠が不明瞭であったり割愛や都合よく切り取りされていたりするように思える部分を洗いなおすと、それほどマスメディアの報道品質が高くないとわかることが多い。特に国会中継などは全記録が参照できるので報道の検証がしやすいし、ソーシャル・メディアの発達でメディアより先に一次ソースが公開さることもあり、これらで報道検証ができることもある。
 ひとつ、後追い的で提言的な着想ではあるが、本書が出版されたのは今年の11月21日なので、この半年は続いている通称「モリカケ」問題の報道的側面が時期的には含められないものではない。この現象を仮に本書の枠組みで扱ったらどうであっただろうか。この問題は、問題それ自体を超えて、報道や「メディア不信」の点で国会や行政にも影響しているのだから、それほど些末なテーマでもないだろう。
 さて、いわゆる右派と左派の、読者獲得のためのご機嫌伺いメディア的な迎合性(これに関連して本書は産経新聞の経営について興味深い指摘をしている)あるいはどちらか側の視点からの「メディア不信」ということではなく、気になる、ある意味隠れた主題が本書にはあるように思えた。終章の以下に関連している。

 二〇一六年から一七年にかけて私は、ドイツ、英国、米国のポピュリズム勢力を目の当たりにして、その際に主張するスローガンのほとんどが、日本の右翼の言葉として聞き知っていたものであったことに、衝撃を受けた。それは戦後民主主義が目指してきたもの一切合切の否定であった。偏狭なナショナリズムの「自虐史観」への批判、「押しつけ憲法論」、在日コリアンに対する差別発言、フェミニストたちへの侮蔑などといったもの言いと相似形の議論が他国でも繰り返されていた。

 おそらくそうであろう。そしてそのことは、日本の右翼が現代世界では自然的な現象であるということを意味しているのではないだろうか。つまり、ここは影響の原点が逆になる。日本の昨今の右翼の言葉が先進国の動向と同種のものであれば、「戦後民主主義」というような日本独自の問題ではなく、むしろ、ある世界的で自然的な動向が、日本においてはそのように表出されたと見るべきで、むしろ、「戦後民主主義」が目指してきた自明性が、世界の一般的動向によって批判さている状況ではないだろうか。誤解なきように補足しておきたいのだが、私は右翼の言葉やその自然的な動向を支持するものではまったくない。
 そうして点から「メディア不信」を再考すると、それは、メディアへの不信とされる既存メディアの現在社会での位置の構造の問題と、世界全体を覆うポピュリズムの発露の問題があるのであって、「メディア不信」がプライマリーな問題ではなく、それはある複合的な現象の仮称に思えてくる。
 この既存メディアの現在社会的な位置構造の問題については、まさにソーシャル・メディアとして次のように本書で語られている部分に関連があるだろう。その懸念について触れた文脈で。

 ほかの懸念もある。科学技術とメディアの相互作用を研究するパブロ・ボツコフスキは、ソーシャル・メディア上では、個人的関心や情緒的ストーリーが、時事的ニュースよりも優先される傾向があることを、若いユーザーたちへのインタビュー調査の結果から指摘している。この傾向は、スマホやタブレットのデザインやユーザー・インターフェース、すなわち「アフォーダンス」に原因があると指摘している。

 これも理解しやすい。人が手のひらの、身近なメディア・ツールを持てばより懇親的な関心からニュースを審級してしまうのも自然的な傾向だろう。
 だが歴史を顧みるなら、そもそも新聞は地方紙でありコミュニティ・ニュースであった。もともとニュースとは献身的な世界の話題である。むしろ、本書で自明に語られているメディアは20世紀の遠隔通信技術のうえに成立したマスメディアであり、マスプロダクトと関連した商業メディアでもある。
 本書の各国事情では、これに関連して「マイメディア」を取り上げているが、ナショナルな要請かあるいは冷戦のような国家リーグの枠組みが薄れてくれば、人々は国家の統一性を緩く感じ、より身近なコミュニティに回帰していくのは当然だろう。マスメディアは個別コミュニティの懇親性より、大量消費に関連する大衆の関心に調和する傾向を持つ。そこには、本質的なギャップがあるのだから、献身的なメディアが再興すれば、マスメディアには自明に「メディア不信」が向けられるだろう。あるいは、国家の統一性への危機が右派をいらだたせるだろうし、その点ではいわゆる左派も同質だろう。
 本書は第四章で日本のメディアの関心の低さを問題として指摘しているが、そもそもマスメディア受ける均質な国民意識のようなものは、次第になくなっているのだろう。私もその一人でもある。


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