[書評] 不便でも気にしないフランス人(西村・プペ・カリン)
2017年、今年はどういう年だったかと振り返るといろいろ思うことがある。例えば、このブログ、何か月間だろうか、お休みしてしまった。お休みとかいうのは体のいい言い回しだし、まだ再開しましたよというほどの自信もないんだけど(ああ、不安)、つまり、長期に更新しない状態なのか、ブログをやめてしまったのかわからないような状態だった。ブロガー引退かな。もともとブロガーなんていうのは肩書にもならない無なんだけど。
以前からもフランス語を勉強してはいたのだけど、十分ではないなと思っていた。教科書だけではなくオーディオ教材は使ってフランス語を学んでいたものの、実際にフランス人からフランス語を学ぶということはしてなかった。これじゃ語学の勉強にはならないよね。思い返すと、自分も英語を意識して学ぶようになったのは、自著にも書いたことだけど、大学入ったら最初の授業が英語だったことだ。英語の授業ではない。英語で授業だった。アイビーリーグ出の若い米人の教師だった。40年前になる。
そんなことを思い出したのは、フランス人からフランス語を学ぶというのは、ふつう、フランス語でフランス語を学ぶということになる。わかるの?自分?というのが今年のフランス語学習の要点だった。
まあ、半分くらいはわかるもんだなあと思った。そうした過程で実際のフランス人と会う機会もできて、フランス語だけでなく、フランス人の考え方というか感覚というものにも少しずつ馴染んできた。そしてそういう過程でよりフランス語やフランス人、フランスの文化や歴史に関心を深める相乗効果にもなる。こういうとなんだけど、フランスという国、文化、人々というのは面白いものだなと思う。
そうしたフランスへの関心の一環が本書、西村・プペ・カリン(以降プペさん)著『不便でも気にしないフランス人』(参照)である。以前読んだプペさんの『フランス人ママ記者、東京で子育てする』(参照)がとても面白かったので、一も二もなく読んでみた。プペさんが登場する、彼女の夫のジャンポール西さんのエッセイ漫画、例えば『嫁はフランス人』(参照)もとても面白いし。
このプペさんの近著、批評的な意味ではないが、書籍としてどっちが面白いかというと、前著・ママ記者のほうが面白かったように思う。かぶる挿話もある。前著の実体験の話自体の魅力というのはあるのだろう。他方、今回の本についていうと、プペさんへのファン心理みたいなを除けば、現代のフランス人の生活感覚や日本観を知りたいという人には平易に書かれていて読みやすい。日本人には示唆的な事柄も多いと思う。
こう言うとなんだけど、出羽守の「おフランス大好き」やいわゆるネットウヨの「日本スゲー」への緩やかな解毒剤になるのでは。日本もフランスも普通の国だし、日本人もフランス人も普通の国民であるというか。余談めくが同じ延長で、じゃあアメリカとアメリカ人はどうなのというと、正直、もにょんとする。アメリカ人というときのアメリカ人らしさというがないわけではないし、州や地域や階層、集団の多様性に戸惑うというほどではないけど、どうしても日本人には現代ですらアメリカやアメリカ人に屈曲した心理のようなものを持ちがちなので話がややこしくなる。おそらく、アルジェリア人やベトナム人やカンボジア人、チュニジア人などはフランスに対して微妙な感覚を持つだろうけど、日本の場合、フランスには直接的な歴史的なごちゃごちゃはないのではないか。その点でも、フランスは平明にとらえやすい。
本書の内容は、フランスと日本という大枠で、生活感のある各種の挿話がもりだくさんである。気を引くところから楽しく読んでいけばいいだけに思える。あえて全体的にいうと、署名にもなっている「不便でも気にしないフランス人」というのは言いえて妙という感じだ。実際のところ、フランス人が不便を気にしないということはないが、前著にもよく出てきたが「システムD」がよく生かされている。日本語で言うなら、とにかくやりくりする、なんとかする、ということだろう。工夫するということだろうか。これを「不平不満は工夫がたりぬ」みたいに言うとどっか逆鱗に触れそうだけど。
「システムD」のDは、débrouilleの頭文字でこの単語、私の知る限り、英語にはない。ピンズラーのフランス語教材でもこの単語がよく出てくるのだが、英語の対応がないのでいろいろ説明に苦慮している。繰り返すけど、まあ、「困ったらなんとかしちゃえ」で社会や人生が成り立っているのがフランス、と言ってもいいのだろう。
本書を読みながら、débrouilleというのと「工夫する」はでもちょっと違うかなあとも思う。プペさんの社会の関心の持ち方が、生きている人への興味であるように、フランス人の、人間観というのがその背景にありそうだ。人は生きるものだし、愛するものだというような。それがまず第一なら第二のことは、なんとかすればいい、というような。
個人的に本書で、些細といえば些細なんだけど、わーおと思ったことがある。フランス語には愛情表現が多いという事例に、comlicitéがあげられ、「親密さをあらわす共犯意識」という括弧注があるが、この記述、同語の英語をめぐるイヴァンカさん発言の騒動の前に書かれているんだよね。わーお、と思ったのである。ちなみに、caresses(愛撫)についても並んで書かれている。この言葉、哲学者ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)の講演集にも印象的にで出てきた言葉だったので、いろいろ思うことはあった。
そして本書に曰く、「フランスの男性は、こうした言葉を積極的に口にして愛情を表現してくれる。日本の男性は、その点、消極的だから、フランス人のほうがロマンチックに見えるのだろう」と。まあ、全体的に言えば、そうなんだけど、comlicitéやcaressesという言葉や、そしてジャン=リュック・ナンシーの哲学などを背景的に想起すると、ちょっとロマンチックというだけではない感覚がこうした本書の話からじわっと伝わってくる。
この引用には括弧でこう続く。「夫は、今ではフランス人のように愛情を表現してくれるようになった。これも慣れの問題なのかもしれない」。日本語的にいうなら、「ごちそうさまでした」でもあるが、慣れというよりは、ある感覚の変容の問題なのだろう。
そしてこの感覚の変容は、愛の表現という言葉(parole)で現れる。ナンシーはバタイユを考察した『無為の共同体』(参照)で、私の理解が間違っていなければ、バタイユ的な歓喜が言葉を介して、コミュニケーションとなり、それがécriture(書き言葉)によって共同体に応じるときに市民社会の意義を見出している。共同体は線となり、ナンシーは「接吻を貫きそれらを分割する一条の線なしには、接吻それ自体に希望はないし、共同体は廃棄されてしまう」として共同体との関連を考察する。
ナンシーのむずかしくも見える哲学に話題を接続したいわけではないが、おそらくこれは、ひとつの感覚なのだろう。本書のような軽い文化差エッセイに見える背景に、愛と共同体を問い直す、ある独自の感覚があり、おそらくそれは日本人にとっては、チャレンジングな意味あいも持ちうるのだろうと、思う。
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