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2017.12.16

[書評] 狂うひと(梯久美子)

 文学作品の評価については評者によってさまざまだが、日本の戦後文学の傑作を仮に10個あげるとすれば、島尾敏夫『死の棘』(参照)は必ず入るだろう。あるいは5個に絞っても入るかもしれない。私の評価を言えば、第1位である。もっとも優れた戦後文学作品である。あるいは、あった。

 何が素晴らしいのかというのを一言で言うのは本格的な文学作品の場合、難しいかあるいは意味がない。人間の真実を描き出すということに尽きるからだ。『死の棘』は人間男女の関わりの、ある究極的な姿を描き出している。それは誰もがいずれにしても男女関係のなかに置かれ、ふとその関係の極限を想起したときに、その想像力の彼岸に薄ぼんやりと見える、どこかしら血みどろな光景である。男女の愛はそのとば口はどれほどロマンチックであっても関係性の本質として美しいものではない。
 『死の棘』とはどのような作品か。単純にその仕組みを言うなら、夫の浮気に妻が狂気に至る物語である。夫が浮気して妻が逆上し、刃傷沙汰になる、発狂する、というのは、それほど不思議なことはない。ありふれた情景だろう。ゆえに人はそのあたりの極限の手前になんとなくの目星をつけて、浮気もほどほどにしたり、あるいは夫婦の関係を終わりにしたりする。しかしその極限を押し詰めたらどうなるのだろう。
 極限とは何か? 妻の狂気にとことん付き合うことである。なぜ? それが夫婦の愛の本質だからと言いたいところだが、もはやそこはなんだかわからない。理性を超えている。そうして愛がもたらす狂気のなかにただ流されているとき、人は愛のなかに生きていると感じるだろうし、おそらく生の意識というものはそういう矛盾した愛の直観を本質に伴っているのだろう。人が自分は生きているのだという確信は、そういうエロスの地獄の認識を経るのだろう。
 『死の棘』では浮気して責められる夫がひたすら従順に妻の狂気に向き合い、付き合う。そしてその泥のような生活にどこにも出口がない。延々と地獄のような描写が続き、最後に夫婦ともども精神病院に入る。救いなど、どこにもない。いや、少し言い過ぎかもしれない。この地獄の様相は、この小説を超えて二人の精神を究極的には救い出すことになる。狂気というものを近現代は精神医学の対象としてしまったが、この文学作品はそれらを超えうる文学の本源的な力というものの証言にもなっている。
 『死の棘』は夫・島尾敏雄の実話である。この地獄は実際に起きたことである。そこには、愛の本質をこの世界に押し出すために、島尾敏夫と島尾ミホという特殊な男女をあたかも神が選び出したかのようだ。当然、この小説に魅了された読者は、小説の文学的な評価を超えて、作品が描き切らなかった部分にも関心を寄せることになる。ごくありきたりな例でいうなら、島尾敏雄の浮気の相手はどのような女性だったのか、など。そうした下衆とも言えそうな関心はやみがたいものだし、意外とそうした下衆な関心の経路が文学の新しい意味を炙り出したりすることもある。
 本書『狂う人』(参照)はとりあえず、まさにそれである。本書の副題には『「死の棘」の妻・ミホ』とあるように、妻・ミホに視点を置いている。島尾ミホとは現実にはどのような人だったのか、そこが本書の基軸になっている。そこから文学の裏側のリアルに接近しようとする。
 話が個人的な思いに堕するが、私は、彼女(ミホ)は、本来的な意味で、いわゆる現世的な個別宗教ではなく、巫女だったのだろうと思っていた。しかも琉球弧という日本と関わりを持ちながら、ゆえに異質でより日本の精神性に根源的であった文化が生み出した神の女だったのだったと。神が人を愛するとき、その背景にある愛ゆえの狂気と怒りというものが、彼女を経て表出しやすかったのではないだろうか。そして、夫・敏雄もそうした妻・ミホの巫女的な本質への直観があっただろう……と。評論家吉本隆明はのちに結婚する和子とともに島尾夫妻を訪問しているが、和子も島尾文学のファンだったようだ。吉本の結婚(略奪婚)の隠れた情念は『死の棘』に通底するものがあっただろう。実は、本書を読みながらそこにある苦い思いがわいてきた。
 本題、『死の棘』をめぐる島尾夫妻の評伝ともいえる本書だが、驚愕に尽きる。よく書けた評伝だなあといったものでは済まない。なるほど、島尾の浮気相手はこういう女性だったのか、ふむふむといった話では終わらないのである。叫びたくなるような、のどがつまるような、驚愕に満ちている。
 まず、序章に描かれているミホの視点による『死の棘』の構想についても驚いた。そもそもその可能性に気が付かなかったことに迂闊さを覚えた。SHOWTIMEドラマ『アフェア』ではないが、恋愛・情事というのは、多様な視点で語られうるものである。究極的に愛憎の関係に閉じるために、およそ客観などはありえない。ミホがあの物語を別の視点から構成することはありうる。
 何よりたまげたのは、どうやら『死の棘』の愛憎劇は、敏雄による仕込みだった可能性が濃いことの指摘である。島尾は浮気の記録をあえてミホに見せたのだろう。そしてミホが狂気に陥り、自身を「審判」するのを期待していたのだろう。
 絶句。変態じゃないのかそれ。と、私は思った。誰もが歪んだ性癖を持ちうるものだし、サドでもマゾでも3Pでも市民社会に接してこなれば各人自由にすればいいとは思うが、自分が最高傑作だと思う文学の真相が変態心理というのは、ちょっとどう受け取っていいのか、呆れて笑ってしまった。しかも一度そう考えてしまうと、気迫こもる『死の棘』の陰惨な夫婦の糾問がSMプレーにしか感じられない。まあ、狂っているとしか言いようがない。文学者というのはここまでいかれた人なんだろうか。それが才能というものだろうか。
 この呆然とした感じは、先に触れたミホ=巫女にも関連してくる。本書は、実際のところかなり優れた批評作品になっていて、ミホ=巫女という視点が吉本隆明らの創作ではないかということも臭わせている。私は吉本隆明の文学批評に馴染みすぎていたのだ。
 本書を読み終えて、では『死の棘』の評価は変わったかというと、少し落ち着くとそれほど変わらない。気迫こもる狂気の対話が、滑稽なSMプレーにも思えてくるが、たとえそうであっても、恋愛とエロスの狂気というものの本質は揺るがない。私たちの真摯な恋愛もまた滑稽なものでもありうる。
 結局どうなのか。本書を読み終えて、そして新しく現れる『死の棘』をどうとらえるのか。率直に言えば、私が男だからというのもあるだろうが、女というものはこういう巨大な精神的な存在なのだ、ということだ。率直すぎて誤解されやすし、女性への偏見のように受け止められるかもしれないが、私が思うのは畏敬に近い。真理の世界というものがあるなら、女の本質に巻き込まれていく以外ないのではないか、そんな思いである。
 それにしても、すごい評論を読んじゃったなあというのと、評論というのは、こうした労働というか手間暇かけて創作されるものだなという賞賛の思いも新たにした。



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