[書評] いんげん豆がおしえてくれたこと(パトリス・ジュリアン)
本との出会いということをいつからか忘れていたようにも思う。いや、そうでもないか。自分が読む本は、振り返ってみると、今でもなにかしら偶然の出会いによるものが多い。それに今でも私は、いつでもどこかで本との出会いを待っている(人との出会いについてはそう思わなくなってもいるのだけど)。『いんげん豆がおしえてくれたこと(パトリス・ジュリアン)』(参照)はそうした書籍との出会いだった。ずいぶんと古びた本だなと思って初版を見ると、1999年。18年くらい前の本である。
その筆記体を読むと、”Un haricot m’a dit” 「豆一粒が私にこう語った」とある。なんだろと思ってからうかつにも日本語の書名との関連に気が付いた。それから特に読む気もなくぱらぱらとめくっていると著者のパトリスさんは日仏学院の副学院長だったことがわかる。へえ、ここにゆかりのある人だったのかと思う。
そして料理エッセイの本かなとさらにぱらぱらとめくると、「一九九三年、僕は東京日仏学院の図書館のリニューアル工事にかかわっていた。この時は現代的な備品類が東京では見つからないために、ほとんど全ての品をフランスから取り寄せなくてはならなかった」とある。え? それってここ? と思った。
この場所のデザインがパトリスさんによるものだったのか。今いるまさにここ?
それと、私は1993年ごろ、飯田橋で仕事をしていた。駅前に深夜プラスワンがあるころである。なんだか、奇妙な感じがしてこの本を読もうと思った。各章の冒頭に、パトリスさん自身の手書きの筆記体の文字があるのも、自分にはすてきに思えた。
もう絶版だろうかとアマゾンを見ると、文庫本になっている。最近は、単行本と文庫本があると便利さから文庫本を買うことにしているのだが(幸い老眼もないので)、なんとなくこの初版の本に愛着があったので古書を探した。とてもきれいな古書が見つかったので、出会いの不思議のまま読んでみた。存外に面白い本だった。
パトリスさんは私より5歳年上のようだ。本書は、彼が日仏学院を辞めて会員制のレストランを作る話が中心になっている。気になって調べてみると、そのレストランもすでになく、この間、4年ほどはフランスにいたらしい。著書も多いことがわかった。ルクルーゼの鍋が一時期ずいぶん流行したがその原点が彼らしいことも知った。
本書の面白さは、自分にとっては、料理や彼のロハス的生活の提言より、やはりフランス人的な感覚と思える部分だろう。彼はレストランを訪れる中年夫婦が食事に会話もしない光景に違和感を覚えている。「相手に対して常に何かを感じ続けること、それはとても大切なことだ」と言う。あたりまえのようだが、もう少し深みがある。
夫婦について、「けれども夫婦の関係がうまく行くかどうかは、内面的な誠実さと警戒心にかかわる部分も大きいと思う」 それも当たり前のようだが、「警戒心」は少し日本語的な響きではない。そしてこう話は展開する。
「僕くらいの世代のフランス人にとってこの幸せの定義は、結婚はしていても互いに“恋人”であり続けるということに結びつく場合が多い。つまり新鮮な情熱をいつまでも持ち続けるということ。」「それには警戒心がとても重要になる。なぜなら情熱のいちばんの敵は日常の生活だから。」「今の日本では四十歳以上の女性はほとんどが夫に対して尊敬や賛美の気持ちを少しも抱いていないように思える(男性一般に対してもこれと同じで、彼女たちの意見はすでに決まってしまっているみたい)。」
この本が書かれてもう20年近く経つので現代ではどうだろうか。パトリスさんより5つ下の私も今年60歳になったが、ここで言及されている40歳以上の女性はもう70歳くらいだろうか。
仮に今でもそうした、日本の夫婦の傾向は変わらないなら、「警戒心」はどういう意味を持つだろうか。そんなことをいろいろと思いながら読んだ。
パトリスさんの本は他の本も読んでみようと思った。もしかして、フランス語の本はないだろうかとも思った。
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