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2017.12.14

[書評] フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(香山リカ・北原みのり)

 フェミニズムあるいはフェミニストについてということかもしれないが、いつもぼんやりとだが思うことがある。私が何か「彼女」と議論をすることがあるとすれば、それは最後に私がフェミニストの敵として糾弾されて終わるのだろうというある確信である。私は女性の敵なのだろうし、私は原罪のようにそうなっているのではないか。つまりその理由は私が男であるからなのではないか。あるいは、何かクレドーを希うべきだろう。

 ここで私は自分自身何を言いたいのかわからなくなる。「私は男として常に女性から罪人として糾弾されるに違いない」という奇妙な確信のようなものは何に由来するのだろうか。そして、それがどこかしら後ろめたく、ゆえに表面的に女性に迎合するような主張や行動をしているに違いない、となんとなく思う。そこから先、私は密かに、私はしかし「男」だろうか?と自問する。
 現実はどうか。現実としては、フェミニズムやフェミニストと議論したことはないし、糾弾されたことはない。ただ、私はしばしば右翼ないしネットウヨ、あるいは体制側の代弁者としては非難されるので、その延長はきっとあるに違いないとは思っている。これに対して、私はもうやぶれかぶれのような心情でいる。吐露するのだが、今年私は、日本国憲法9条は不要だと考えるようになった。それは国際法に内包されているからで、この条項があるのは、日本に主権がなく国連に加盟にできなかったかった経緯によるからだけではないかと考えるようになったからだ。しかし、おそらく「9条は不要」というだけで、ある一群の人の逆鱗に触れることになるだろう。
 そういう意味あいで、私がフェミニズムに対して「逆鱗」となる何かを持っているに違いないとも思うのだが、自分ではわからない。そのわからなさ自体が「逆鱗」に近いのだろうという予感だけはある。
 「私は男だろうか?」については、今年いろいろ思うことがあった。私の内部に強烈に「男である」という意識があるかというとある。振り返って思うのは、若い日のことだが三角関係に置かれたときだ。私はただ「女を男から奪う」というだけの妄念に取り憑かれたものだった。他方、自分は若い頃よく同性愛者と思われていた。女性からも男性からもそうだった。誇っているかのように聞こえるのは気恥ずかしいのだが若い頃の相貌にその要素があったかもしれない。今だから言えるが、男性から二度ほど襲われそうになったことがある。幸いレイプには至らなかった。というか、一人の「彼」は私からの拒絶に驚愕して極度の自己嫌悪に陥った。もう一人の「彼」についてはもう少し複雑である。ただ、自分なりにではあるが、レイプというものがどういうものかという直感は持つようになった。
 そうした「原罪」や自分の内面の女性性についてはどうかというと、奇妙な自覚のようなものはある。いわゆる女装はしないが、私の趣味は基本的に一般的な女性が有する趣味に近い(最近は香りでハンドクリームを選んでいた)。私はしばしば気がつくと女性だけのカフェに一人いることがある(女性を求めてではない)。老人男性がそんなところにいるのは気恥ずかしいとも思うし、自分の趣味がたまたまそうなのだからしかたないじゃないかという意識の交点にある。もっとも最近私はコメダをよく利用する。単に喫茶店の趣味がないだけかもしれない。
 さて、私は何を語ろうとしているのだろうか。一つには、「私をフェミニズムの視点から糾弾しないでくれ」という命乞いのような心理だろう。私は、本書『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(香山リカ・北原みのり)』(参照)を読みながら、ある違和感を持ち、さて、その違和感のようなものをブログに語っていいものだろうかと戸惑っているからだ。しかし、だからこそ少し書いてみたい。最初に断っておきたいのだが、私は本書を批判したいとはまるで思わない。
 そして最初に告白しなければならないのは、私がこの対談書がさっぱりわからなかったということだ。もちろん、個別の話題はわかるし、対談者である二人の意見の差異も、あたかも高校の現代国語のテストのようにおそらく読み取ることはできる。だが、根幹のところでわからない。本書で話題とされている話題がなぜ話題なのか、そこが根の部分でわからないのである。
 本書の対談のテーマもぼんやりとしかわからない。ただ、副題にあるように『「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』というのことは、対談の基軸であるだろうと了解する。そこでは、「性の商品化」として見えるものが、女性からは自己決定権なら是とされてよいのかという課題と、同じく「性の商品化」として見えるものが、「表現の自由」であれば是とされてよいのか、という課題だろう。
 仮にであるがそれについて自分がどう思うかというのを先に述べておくと、自己決定権から女性性を自身が商品化するということは、そもそも自由主義の国家なら規制できないだろうし、規制できなければ、それがもたらしうる危険性へのセイフティを用意することだけではないかと思う。ただ、率先して性の商品化を開放する市場への規制をなくせとも思わない。私はコミュニタリアンではないが、社会価値に伝統性があると多数に意識されていることは理解できる。そしてもう一つ思うのは、性の商品化は女性に限られたことではないだろうということだ。この点については、私の読み落としでなければ本書の対談で問題意識は見かけなかったように思う。
 表現の自由との関連でいえば、私はこれはレイティングの問題だろうと考える。社会は、これはコミュニタリアンとしての考えではないが、単純に未成年やある精神傾向の人々を精神的に保護する社会的な利得があることから、レイティングが必要になる。本書の「はじめに」で北原がコンビニで販売されているエロ本について、「公共空間でこれほどの女のモノ化が商売になっている現実は、この国が自由であることの証しなのか、それとも性差別の証しなのか」と問うているが、私はこれについては、レイティングの問題であり、背景には性差別の意識があるだろうが、市民がレイティング規制を議論してルール形成していけばいいだろう、くらいに考えている。もっと個人的に言うなら、レイティングの問題としてもあれはよくないなとは感じる(私にとって美しくないから)。
 ここで「女性のモノ化」という概念が出て来る。本書は対談であるが、大きな対立する思想の対談という形にはなっていない。二者は「女性のモノ化」を批判している。では私はこれについてどう考えるのか。
 私は、女性と限らず男性も性幻想のなかであえてモノ化的な自己疎外を行うものだろうと考えている。性幻想そのものにモノ化が離れがたく結びついているのだろうとも思う。これが男性の場合は女性生殖器というモノに局在される傾向があり、女性の場合は美形相貌に局在される傾向があるということで、基本的に傾向の問題であり、この傾向の偏差に異常的に見られるものもあるだろう、というくらいである。本書では『「モノ化」される喜びは奴隷の最終形態』という項目がある。私の理解ではこの問題意識は対談のなかで掘り下げられていない。該当箇所は「モノ化」される話題が「暴力の受容」に結合され、暴力はいけないということから逆に「モノ化」批判が合理化されるような理路になっている。私がここで思うのは、『Oの物語』のジャン・ポーランの序文を彼女たちはどう読むか、またドミニク・オーリー(Anne Desclos, alas Dominique Aury)のインタビュー(残念ながら書籍化されていないのでレファレンスがあげられない。探せば仏文があるはず)をどう読むか。
 ただ、そこで本書と自分の思いのもう少し先の違和感が生じている。それは『女性にとって「性」と人格は切り離せない』というテーマに関連している。「女性はいくら性と人格を切り離そうとしても人格の欠片みたいな、性行為をしている時に付随している人格的なものが絶対にあるわけです」と香山は語る。やはりわかるようでわからない。単純な話としては、男性は性と人格を切り離しているかというと、そういう人が傾向として多いというくらいで、本質的な男性と女性の差異はないと私は思う。もうひとつ思うのは、ここで言われる「人格」がわからない。Personalityというのであればわからないではないが、であればそれは基本的に傾向としてしか捉えられないものではないだろうか。逆にいえば、性行為のなかでどのような倒錯的な幻想を持っていても、社会的な人格と分離して社会が扱えるがゆえに「人格」が成立するのではないだろうか。
 さて、こうして述べてみると結果的に批判のようなトーンになっているのを自覚はする。ただ、うまく弁解できないのだが、繰り返すが批判の意図はない。基本的に二人が何を議論しているのか私にはわからないというだけのことであり、そのわからなさはおそくら私の「男性性」に帰着させられ私がそこで批判されるのだろうなという予感があることだけだ。
 もう一つ「さて」として、些細なことかもしれないが、文学的な感覚としての接点を述べて終わりにしてみたい。雑談ではあるだろうし(深い意味がないだろう)、私も村上春樹をファン心情で支持したいという意図でないのだが、これはどうだろうかと思った。『村上春樹作品と都合のよい妻』の部分である。

北原 村上さんの描く女性って、リアリティがないから。いねぇよ、そんな女!というような女ばかりでです。
香山 誰かと話していた時に、村上春樹は『ノルウェイの森』以降は読んでいないと。理由は、「男に都合のいい女ばかりが出てくるから」って(笑)。

 できるだけ慎ましく言いたいのだが、北原は『スプートニクの恋人』のミュウについても「いねぇよ、そんな女!」とするだろうか。香山はもし編集者が『海辺のカフカ』を読んでみてはどうですかと仮に提案したとき、読む必要はないとするだろうか。
 文学の例でいうなら、マーガレット・アトウッドの『またの名をグレイス』をどう捉えるだろうか。Netflixの映像化作品でもよいのだが、そこで描かれるグレイス・マークスを二人はどのように受け止めるだろうか。

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