[書評] 兼好法師(小川剛)
私のように『徒然草』を愛読書とする人にとっても、その著者「吉田兼好」という人はよくわからない人である。より正確に言うなら、『徒然草』という古典に表現されている著者の印象を、そのまま「吉田兼好」とされる人に重ねているだけに過ぎない。ここで引き合いにするのもおこがましいが、「finalvent」と自称するブロガー本人もブログなどの印象でしか理解されない。それが悪いわけでも、誤解されているわけでもない。およそ文章の形で表現されたものはその著者をもそこからその一面を表現してしまうからだ。
何が言いたいのか。「吉田兼好」の作品が魅力的あればあるほど、その作品の背後には、ある不可解な人間が存在するはずだし、その不可解さへの直面はその作品への深い理解にもつながるだろう。この文脈でいうなら、本書『兼好法師(小川剛)』(参照)は「吉田兼好」という実在の人間への、歴史学的な手法でのアプローチから、ある奇妙ともいえる人物を描き出し、そのことで、『徒然草』の新しい魅力を教えてくれる。
またでは、本書は「吉田兼好」についての歴史学的な研究なのかというと、率直にいうと、微妙だ。『徒然草』といえば日本文学を代表する古典の一つのなのでそこから著者の価値も重視されがちだが、同時代的に「吉田兼好」を見ると、いわば二流の人であった。本書が歴史学的に描く「吉田兼好」は、30歳過ぎても職もなく地位もない、今でいえばニートみたいな人であったらしい。そのあたりは『徒然草』からも想像できるが、なんというのか、ある時代の二流の人というのは、いったい歴史学的にどういう価値があるのだろうか。そんな疑問をアイロニカルに感じさせる。
当然ながら本書は、「吉田兼好」という人物よりも、その人物を取り巻く歴史状況を描き、そのなかで実在の人物を描き出そうとしている。そうした点で興味深いのは、彼の人生が南北朝内乱の時期に重なっていることだ。あたかも歴史の神様が、日本の歴史の転換期に、適当な傍観者をその時代に配したようになっているし、『徒然草』自体もそうした、ある傍観的な俯瞰的な感覚を伝えている。
本書が結果的に描き出した一番のポイントは、帯にもあるように「今から五百年前『吉田兼好』は捏造された――」ということで、むしろ、『徒然草』という文学作品が古典として人気を得、評価されていくなかで、いわば著者が「吉田兼好」として副次的かつ伝説的に形成されて行ったことを示している。
読後、本書への批判ではないが、奇妙な疲労感のようなものも残った。結局のところ『徒然草』の成立と著者の関係はさっぱりわからないのである。兼好法師は当時としては意外と長寿であったようだが、その晩年とこの作品の関係や思いといったことも、さっぱりわからない。
余談だが、古典作品の著者というのはよくわからないものだ。本書はその独自の「わからなさ」も伝えている。他に、紀貫之についてもわからないことは多い。これを言うと異説好みのように思われるだろうが、紫式部についてもよくわからない。そもそも源氏物語の著者なのだろうかと、ずっと疑問に思っている。
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