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2017.12.31

[書評] スペリングの英語史(サイモン・ホロビン)

 『スペリングの英語史(サイモン・ホロビン)』(参照)という書名だけ最初見かけて、「あ、こりゃ読むっきゃないでしょ」と思った。実はこの春先のことだが、私はなにか取りつかれたように、スペリングについての本を書いていた。一か月くらい没頭しただろうか。書きあがった。書名は『なぜFriendはFrendじゃないのか。I(アイ)は必要か』とかにしようかとも思った。なので、この手の本があれば、とにもかくにも読んでみようと思ったのだった。ところが。

 著者、サイモン・ホロビンって、Simon Horobinでしょ。あれ、この本、”Does Spelling Matter?” (参照)の訳本?と思った。原書で既読だったのである。先の本を書くときの資料の一つとして読んでいたのだった。
 ところで、その幻の私の本だが、どっかに売り込もうかなと思う以前に、書きあがったら、当初自分が考えていたことと考え方が変わってしまったのだった。「自分はもうそう考えないよ」とでもいうような本をこれから出版するというのは(出版先があるにせよ)というのはどうだろうかと疑問にぶち当たり、頓挫した。そして沈没。
 まあ、本を書いている過程でいろいろ勉強になったし、この問題に整理もついた。なにより、英語の形成史が自分なりによくわかった、ということでそれは終わりにした。
 ところで私がその本を書こうと思ったのは、英語のスペリングはめちゃくちゃだ、ということをまとめようとしたことだった。フォニックスなど、英語の発音とスペリングを整理する手法もあり、それでかなりの英語スペリングは整理できるという主張もあるが、いやいや、英語のスペリングは生易しいものではない。そのことは英語国民ですら理解していて、「これ、やばいんじゃね」と思っている。バーナード・ショーの逸話とも言われる”ghoti”が有名だが、彼自身も強く綴り字改革を望んでいた。が、失敗。ちなみに、私のその本ではその失敗の経緯や理由についてもくだくだ議論している。
 とま、くだくだと自分に引き付けて話をしてしまったが、この本は、オリジナルのタイトルからわかるように、「綴り字なんてそんなに大問題かあ?」という含みがある。序章ではこの問題に導入として触れている。
 そこから先、第一章からは年代順にスペリングの問題、つまり、英語のスペリングが混乱していく歴史的な背景について、これってクセジュ文庫か?という感じで話が淡々と進むのだけど、そうはいっても、個々の逸話は面白い。歴史的という意味では秩序付けて叙述されているが、英語の小ネタ集という趣があり、各ネタがけっこう読んでいて飽きない。英語が好きな人や英語教育の関係者はこの手の小ネタはできるだけ知っておくといいと思う。私の本の仮題にした”friend”のスペリングの謎についても言及がある(些細なことだが索引のページ対象がずれていたので改版時にはチェックしなおすといいのではないか)。
 本書の主張となる部分は、第八章にまとまっている。この部分だけ別刷りで読んでもいいくらいだ。さらっと書かれているが、言及されているマーシャ・ベルが本書の論敵ともなる人なので、本書に提示された主張については、対立する彼女の意見も読んでみるとよいだろう(というか私の本ではそうなっていた)。
 本書の主張については、私は必ずしも賛同しない。結語は違うよなあと思っている。まず、英語のスペリングが混乱してもコミュニケーション上実害はないとしているが、これは単純に違うでしょう。教育上大問題を起こしているのは明らか。
 そしてもう一つはここだ。

 最後に、私には、英語のスペリング改革の試みに抵抗し、伝統的なスペリングや黙字などを保持しようとするもう1つの理由があるように思われる。そのようなスペリングはわれわれの言語とその歴史の豊かさを証言するものであることだ。(後略)

 これは欺瞞だと私は思う。英語という言語は、本書でも歴史的経緯が触れられているが、英国英語と米国英語はスペリングでも分裂して統一はできない。正しいスペリングを求めようにも、英国英語と米国英語の統一など、もうできない。それでは、英国は英国語、米国は米国語とすべきにも思えるが、米国の文化はそもそも規範になじまないし(合衆国である)、英国は大英帝国の歴史からコモンウェルスの英語を背負い込んでいて米国英語に妥協する気はない(おそらく英国には米国をコモンウェルスに位置付けたい無意識があるだろう)。つまり、「英語」と雑駁にまとめて同じ言語のように見せるなら、歴史の豊かさという修辞でも言うほかはない。

 もう一つの欺瞞については、フランス語との対比で考えるとよい。本書ではまったく言及がないわけではないが、ドイツ語での綴り字改革には触れているものの、フランスのそれには具体的な言及はない。しかし、フランス語は主に教育改革のために、フランス語の綴り字改革を推進している(そしてすごい問題を起こしてもいるが)。
 さらに、英語という言語は、実質フランス語のピジン言語であったという視点で見るなら、英語は本質的にアンビバレントな状態にありつづけた。この特性は現代英語にもある。” milieu”が典型的だが、英語ではわざわざフランス語の単語を外来語としている。あと、余談っぽい批判になるが、本書におけるラテン語書字の解説にも学問的にやや怪しげなところがある(uとvの説明など)。
 なんだか幻の関連書を書いた経緯から本書につかっかたような言及になってしまったが、本書が面白いことには変わりはないし、そもそも学校教育の英語では、英語のスペリングが異常だということは教えられていないので、そうした理解を深めるのにも本書はよいだろう。
 個人的には、自分の本を書いた後、放送大学でラテン語入門を聴講し、またアンスティチュなどでフランス語を学ぶようになってから、英語の書字については、ラテン語とフランス語の知識が不可欠だろうとも思うようになった。英語の綴り字の混乱は、英語の豊かな歴史とかいう修辞では収まりそうにない。


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