[書評] ようこそ実力至上主義の教室へ 1〜7MF文庫J(衣笠彰梧)
当初、アニメで『ようこそ実力至上主義の教室へ』を見ていた。なぜこのアニメを見るようになったかは記憶にない。まあ、1話見たら、面白いんじゃねこれ、くらいの気持ちだった。2話3話と見続けると面白かった。といううちに、アニメの1クール(で1シーズン)を見終えると、ちょっと感動してしまった。
7巻までが一つの大きな物語の区切りがついたかなという感じもした。それから、そういえば、と、1巻から3巻はアニメと違う感じかなと疑問になり、結局これも読んで既刊は全部読み終えた。ふう(ため息)。ちなみに、一部で原作はよいがアニメはよくないといった評価もあるようだが、僕は、アニメの脚本はある意味原作よりこなれていてよいと思ったね。
ところで、こーゆーのがラノベ? ラノベというのを実は知らないのだが、挿絵というには手の込んだキャラクター絵の設定があり、文章があるというこの形式が、コンテンツの内容傾向というより、メディアとしてのラノベだろうかとも考えた。キャラ絵が決まっていたらアニメ化もしやすいだろう。読みやすさもある。読んでいて、あれ?これ誰だったけというとき、キャラ絵が思い浮かぶ。ああ、三宅明人、彼かあ、とか。
ただ、全巻読んだ印象でいうと、というか、普通に文学作品として読んだ感じからすると、各登場人物はキャラクター絵とは少し違う印象を持った。それと、いく人かのキャラクターは、いわゆるラノベというものの典型かなとも受け取った。文章についてはとてもしっかりしていて、それ自体は幼稚な印象を与えない。
まあ、面白い話だよ。読むのお勧めしますよ。何が面白いのか?
秀逸なのは、なにより主人公の綾小路清隆の設定だろう。謎の過去があり天才でありダークである、という点だが、もっとも魅力的なのは、徹底的に人間不信であることだ。ある意味、人間性のかけらもない。かつての文学でいうなら、不条理劇にでも出てきたり、人間なんて信じられるかあぁみたいな逆説でもあるだろう。あるいはラスコーリニコフでもあるだろう。だが、綾小路はそういうタイプではない。悲劇性も生の意味性も乏しい。奇妙に透明な視点で人間と社会を見ている。生き延びることに意味を見出しているが、生の意味というものはおそらく存在していない。
この透明な人間不信とでもいう通底的な感覚が、他の魅力的でダークな登場人物たちにも共通している。主要な登場人物の多くが基本的なところで、人間性というものを信じていない、というか、壊れている。
読みながら思ったのだが、現在の10代や20代の若い世代には、この旧世代的には崩壊した人間性のような、この感覚が自明なものとしてあるのではないか。
そしてそれを支える物語だが、明らかに非現実的で滑稽な設定のなかで進む。いわく「希望する進学、就職先にほぼ100%応えるという全国屈指の名門校・高度育成高等学校。最新設備の使用はもちろん、毎月10万円の金銭に値するポイントが支給され、髪型や私物の持ち込みも自由。まさに楽園のような学校。だがその正体は優秀な者だけが好待遇を受けられる実力至上主義の学校だった」ということだが、ありえねぇ。
このありえなさが、物語の枠組みにゲーム性を与え、物語は1巻ずつゲームというかあたかも将棋の棋譜のように展開する。読みながら、「おお、そこに銀をはったか」みたいな展開の読みの面白さがある。実際、物語にはゲームが仕込まれていて、知的な謎解きのようにもなっている。あとで知ったのだが、作者はゲームとかの作者でもあるらしい。
7巻で一つの大きなゲームが一巡する印象があるが、この先、この物語がどう続くのか。残るキャラや伏線から、数巻先のぼんやりとした予想はつくが、そもそもの物語の中核である綾小路の虚無にどういう形を与えるのかというのが気になる。個人的には、爽快な展開というよりどんどん陰惨な方向に滑り落ちていくという救いようのない鬱展開を期待したい。
とはいえ、アニメも2シーズンはできるだろうし、それなりにヒットしているようでもあるから、読者をどん底に落とすような悪魔的な展開は商業的にも避けてしまうのではないだろうか。すでに4.5巻のようなほのぼの巻も出ているし、これからも出そうだし。
キャラ絵的にもかぶっている感のある『暗殺教室』を思うと、こちらは表面的には虚無性や人間の暗部を見せながらもあくまで、ヒューマニズムに徹してしまって、これって人間ってすばらしいとか感動するかないようなあ、赤羽業君みたいな。『暗殺教室』自体は面白かったが、ああいうヒューマニズムは、ちょっとなあ。
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