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2017.12.31

[書評] スペリングの英語史(サイモン・ホロビン)

 『スペリングの英語史(サイモン・ホロビン)』(参照)という書名だけ最初見かけて、「あ、こりゃ読むっきゃないでしょ」と思った。実はこの春先のことだが、私はなにか取りつかれたように、スペリングについての本を書いていた。一か月くらい没頭しただろうか。書きあがった。書名は『なぜFriendはFrendじゃないのか。I(アイ)は必要か』とかにしようかとも思った。なので、この手の本があれば、とにもかくにも読んでみようと思ったのだった。ところが。

 著者、サイモン・ホロビンって、Simon Horobinでしょ。あれ、この本、”Does Spelling Matter?” (参照)の訳本?と思った。原書で既読だったのである。先の本を書くときの資料の一つとして読んでいたのだった。
 ところで、その幻の私の本だが、どっかに売り込もうかなと思う以前に、書きあがったら、当初自分が考えていたことと考え方が変わってしまったのだった。「自分はもうそう考えないよ」とでもいうような本をこれから出版するというのは(出版先があるにせよ)というのはどうだろうかと疑問にぶち当たり、頓挫した。そして沈没。
 まあ、本を書いている過程でいろいろ勉強になったし、この問題に整理もついた。なにより、英語の形成史が自分なりによくわかった、ということでそれは終わりにした。
 ところで私がその本を書こうと思ったのは、英語のスペリングはめちゃくちゃだ、ということをまとめようとしたことだった。フォニックスなど、英語の発音とスペリングを整理する手法もあり、それでかなりの英語スペリングは整理できるという主張もあるが、いやいや、英語のスペリングは生易しいものではない。そのことは英語国民ですら理解していて、「これ、やばいんじゃね」と思っている。バーナード・ショーの逸話とも言われる”ghoti”が有名だが、彼自身も強く綴り字改革を望んでいた。が、失敗。ちなみに、私のその本ではその失敗の経緯や理由についてもくだくだ議論している。
 とま、くだくだと自分に引き付けて話をしてしまったが、この本は、オリジナルのタイトルからわかるように、「綴り字なんてそんなに大問題かあ?」という含みがある。序章ではこの問題に導入として触れている。
 そこから先、第一章からは年代順にスペリングの問題、つまり、英語のスペリングが混乱していく歴史的な背景について、これってクセジュ文庫か?という感じで話が淡々と進むのだけど、そうはいっても、個々の逸話は面白い。歴史的という意味では秩序付けて叙述されているが、英語の小ネタ集という趣があり、各ネタがけっこう読んでいて飽きない。英語が好きな人や英語教育の関係者はこの手の小ネタはできるだけ知っておくといいと思う。私の本の仮題にした”friend”のスペリングの謎についても言及がある(些細なことだが索引のページ対象がずれていたので改版時にはチェックしなおすといいのではないか)。
 本書の主張となる部分は、第八章にまとまっている。この部分だけ別刷りで読んでもいいくらいだ。さらっと書かれているが、言及されているマーシャ・ベルが本書の論敵ともなる人なので、本書に提示された主張については、対立する彼女の意見も読んでみるとよいだろう(というか私の本ではそうなっていた)。
 本書の主張については、私は必ずしも賛同しない。結語は違うよなあと思っている。まず、英語のスペリングが混乱してもコミュニケーション上実害はないとしているが、これは単純に違うでしょう。教育上大問題を起こしているのは明らか。
 そしてもう一つはここだ。

 最後に、私には、英語のスペリング改革の試みに抵抗し、伝統的なスペリングや黙字などを保持しようとするもう1つの理由があるように思われる。そのようなスペリングはわれわれの言語とその歴史の豊かさを証言するものであることだ。(後略)

 これは欺瞞だと私は思う。英語という言語は、本書でも歴史的経緯が触れられているが、英国英語と米国英語はスペリングでも分裂して統一はできない。正しいスペリングを求めようにも、英国英語と米国英語の統一など、もうできない。それでは、英国は英国語、米国は米国語とすべきにも思えるが、米国の文化はそもそも規範になじまないし(合衆国である)、英国は大英帝国の歴史からコモンウェルスの英語を背負い込んでいて米国英語に妥協する気はない(おそらく英国には米国をコモンウェルスに位置付けたい無意識があるだろう)。つまり、「英語」と雑駁にまとめて同じ言語のように見せるなら、歴史の豊かさという修辞でも言うほかはない。

 もう一つの欺瞞については、フランス語との対比で考えるとよい。本書ではまったく言及がないわけではないが、ドイツ語での綴り字改革には触れているものの、フランスのそれには具体的な言及はない。しかし、フランス語は主に教育改革のために、フランス語の綴り字改革を推進している(そしてすごい問題を起こしてもいるが)。
 さらに、英語という言語は、実質フランス語のピジン言語であったという視点で見るなら、英語は本質的にアンビバレントな状態にありつづけた。この特性は現代英語にもある。” milieu”が典型的だが、英語ではわざわざフランス語の単語を外来語としている。あと、余談っぽい批判になるが、本書におけるラテン語書字の解説にも学問的にやや怪しげなところがある(uとvの説明など)。
 なんだか幻の関連書を書いた経緯から本書につかっかたような言及になってしまったが、本書が面白いことには変わりはないし、そもそも学校教育の英語では、英語のスペリングが異常だということは教えられていないので、そうした理解を深めるのにも本書はよいだろう。
 個人的には、自分の本を書いた後、放送大学でラテン語入門を聴講し、またアンスティチュなどでフランス語を学ぶようになってから、英語の書字については、ラテン語とフランス語の知識が不可欠だろうとも思うようになった。英語の綴り字の混乱は、英語の豊かな歴史とかいう修辞では収まりそうにない。


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2017.12.30

[書評] シェイクスピア(河合祥一郎)

 こんな新書が出るだろうなと予想していたどんぴしゃりの新書が出ると、それはそれで驚く。予想には二通りある。世間受けしそうな話題や著者名だけで一定数掃けそうな書籍である。偏見ですみませんが、それらはほとんどと言っていいと思うけど、読む価値はない。なんというのか、ありがちな頷きを得るための読書というのはあるだろうし、ある種の不安に予想された安心を与えてくれる書籍というのもあるだろうが、ことさら読書の対象というものでもない。

 で、もう一つの予想は、前著と知的な状況から考えて、この本が出なければ、編集者は嘘でしょというものだ。この本『シェイクスピア(河合祥一郎)』(参照)がまさにそれだ。2013年祥伝社から出た『あらすじで読むシェイクスピア全作品(河合祥一郎)』(参照)を読んだとき、「これ、書籍として半分だよね」感があった。シェイクスピア作品の概要に触れておきながら、シェイクスピアの評伝がないなんてこと、あるわけがない。が、なかなか出てこない。となると、これは、シェイクスピア没後400年記念で出るでしょう、と。出た。昨年のことである。もうすぐ2018年になるのに今頃という感もあるが、いっけねえ、これ言及するのを忘れていたという宿題感である。
 というわけで、私の主張としては、本書は前著のパート2として理解している。書架に二冊並べておくといい。というか、およそ読書人であれば、書架に聖書とシェイクスピアは並べておきたい。古典的にはどちらも原典をと言いたいが、率直に言ってそれは、見え張りすぎ。どっちも青春を犠牲にしなければ読めるような代物ではないから、人生の合間に、「そうだな、オペラ『タイタス・アンドロニカス』の原作ってどういうのだっけ」と手にするくらいでいいだろう。作家日垣隆が「リファ本」と呼んでいたタイプの書籍である。というわけで、二冊を合本にしてくれるとありがたいし、予想がどんぴしゃりというわりに、別の出版社から出たのはなんでかなと疑問は残る。
 前著では、各作品についていわゆるあらすじだけではなく、シェイクスピア原文の引用から英語としての妙味を解説してくれるところに特徴がある。特に名セリフの解説がいい。他方、本書の特徴はというと、こういうとおこがましいが、現代のシェイクスピア学を上手にまとめている点だ。私が英文学を学んだころの知識とずいぶん様変わりしているし、いろいろシェイクスピアの謎とされていた部分もあっさり解けている印象があった。というか、シェイクスピアって謎の人と思っていたが、けっこう史学的にわかってきているのだという感想を持った。
 本書後半は、前著の作品あらすじとまさに一体になるもので、作品論がわかりやすい。当然話が被っているところもある。ハムレットの「生きるべきか死ぬべきか」についても、前著で「思春期の若者が自殺を考える台詞ではない」として解説を加えているが、本書では「キリスト教では自殺は禁じられているのだから」と踏み込んでいる。
 あと些細なことだが、本書の参考文献を見ていたら、私の小学校時代の幼馴染の名前があった。二十歳のころ同窓会の幹事をしたとき、彼女はすでにシェイクスピア学を志していた。そして、シェイクスピアを理解するには、人間というのものを理解しなくてはと真剣に語っているのに惚れそうになった(当時僕には恋人がいた)。その後、数度彼女と偶然会って立ち話などしたこともある。それで終わり。あれから30年は経つ。僕はすっかり老けてしまったのですれ違ってもわからないだろう。

O, wonder!
How many goodly creatures are there here!
How beauteous mankind is! O brave new world,
That has such people in’t!


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2017.12.29

[書評] 光明皇后(瀧浪貞子)

 本書『光明皇后(瀧浪貞子)』(参照)というシンプルな表題を見てまず思ったことがある。大げさな言い方になる、という自覚はあるという前提であえて言うのだが、日本史の最大の謎は、光明皇后であると私は考えている。もちろん、「聖徳太子」にも謎は多いし、桓武天皇にも平清盛にも謎はある。他にもいろいろ挙げればきりがない。なのになぜ光明皇后なのかというと、おそらく彼女こそが実質的な天皇家の創作者だろうと思うからだ。

 なぜか。その関連から補足したい。まず、「日本史」と「天皇」という概念は日本書紀によっているというのが基本。この書紀のモチーフは、「持統天皇が正統である」というイデオロギーである。そもそも「持統」というのが「統を持す」ということである。
 いきなり穿った見方になるが、そうしたイデオロギーが必要になるのは、実態は逆であるか、疑問が強かったからだろう。つまり、「持統天皇は正統ではない」という命題が当時あったからだろう。
 そこで、正統とは何かということが問われる。だが、大日本史的な日本史の枠組みから十分に自由になっていない、近代日本の史学からは、この問い自体が見えてこない。戦前は、津田左右吉を例にしてもわかるが実質隠蔽すらされていた。では、この文脈でなにが正統なのかというと、「壬申の乱」つまり国家内乱に勝利したということである。予断なく書紀を読めば、書紀がまさに壬申内乱の正統のための史書であることは自明だろう。ここで少し先走ると、このことは聖武天皇のオブセッションに関連している。
 ややこしい問題はあるにはある。日本の王朝が実質できたのは、おそらく近江朝からで、このときにそのエポックとして国号が制定されたに違いない。この点はだいたい諸学者の暗黙の合意はあるが、史実的な裏付けができない。ここからまた穿った言い方になるが、この王家の実質的な始祖である天智天皇は、ゆえに天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)である。ならばここから王家が始まるとしてよいはずだが、これを天智天皇の息子ではなく兄弟とされる天武天皇が壬申内乱で実質簒奪した。この簒奪者が新しい始祖であり、正統なのだということが繰り返すが、書紀のモチーフである。ここで彼は、始祖を象徴する「武」を、おそらく天皇家の、おそらく氏名であるアマ(天)を冠して「天武」とされたのだろう(諡号)。これは同様に、聖武(その前が文武)と桓武が相反しつつ主張していくことになる。余談だが、聖武は諡号でもない。
 とまあ、前置き話に、なんとも勝手なとんでも古代史を開陳していると見るむきあろうが、書紀のモチーフが持統の正統の主張であるということは前提にしても不自然ではないだろう。
 さて、このイデオロギーの史書である書紀がいつできたか。これは、あきらかに持統天皇の後代になる。もちろん、その前資料は持統天皇以前にはあっただろうが、問題は、くどくど述べてきた書紀のモチーフとの関連である。
 この書紀成立時代を天皇の代から見た時代でいうなら、彼女の孫(天武の孫である)の文武天皇ではあるが、短期に失敗していると見てよく。この混乱は続日本記にも反映している。そして、文武天皇の不安定性から、この間の時代の連続する女帝は、女性であるというより、正統の権利の留保期間の意味合いが強くなる。そしてそのターゲットはようやく聖武天皇に結ぶ。つまり、書紀のイデオロギーの完結が聖武天皇である。
 ここですでに奇っ怪なのは、聖武は、文武の息子として天武・持統の正統でもあるが、同時に、皇統ではない藤原不比等の娘・宮子の息子でもある。また、文武の位置は元来、草壁皇子が継ぐものであり、そこにも、本書に出て来る「黒作懸佩刀」が象徴的だが不比等が大きく関係していた。簡単にいうと、この正統の正体は、不比等が実質の藤原氏の始祖となり、この藤原氏が実質的な皇統を支配することだ。これが聖武時代に実現するかに見える。
 だが、聖武天皇という実質、藤原血統天皇の最大の危機がこの時代に2つ訪れる。1つは、「長屋親王」という聖武の正統を脅かす存在で、しかもその考古学資料としての親王号は、天皇位の継続を意味していた。話をはしょるが、書紀というイデオロギーの完結が聖武天皇であることは、長屋親王を抹殺する必然を持っていた。
 第2の危機は、藤原血統天皇を実質制御する藤原氏の権力主体である藤原兄弟が、疫病で死に絶えることである。しかもこの危機は、おそらく当時の人々には、長屋親王虐殺の呪いと見られていた、としてよさそうだということだ(ここは曖昧に聞こえるだろうが)。この危機への対応が、大仏建立と仏教による支配と見てよいだろう。
 この2つの危機の只中にいて、すべての対応を采配できたのは不比等の娘である光明皇后しかいない。聖武天皇はすでに実質精神的な危機状態であった。
 あと、危機ではないが、これらの危機の背景に聖武天皇の母・宮子の謎が大きく横たわっている。
 さて、と。
 だいぶ身勝手な個人的な史観をずらずら述べてきたわけだが、こうした点から、光明皇后がどのように、藤原血統天皇に関連し、その構造ゆえに長屋親王排除に加担し、そしてその呪いの結果とみなせるような藤原兄弟の死滅にどう向き合ってきたか。そこが私は知りたい。
 率直に言って、まあ、無理だろう。現状の日本史学では、「長屋親王」称号自体をなぜか同時代資料でありがら軽視し、また藤原四兄弟の死滅をただの偶然とだけに片付けるので、おそらく本書も日本史学のお作法でそれに則っているだろうと、予想はしていた。
 で、予想どおりだった。率直に言うと、「ああ、またこれかあ」といった代物にまず思えた。30年前の『光明皇后(林 陸朗)』(参照)とあまり変わらない基調だなあ、と。
 それでも読み進めながら、近現代人として書紀を扱うなら、こういうものになるしかないだろうという奇妙な納得感があった。自分でも、この納得感は意外だった。
 考えてみれば、私の、この分野への珍妙な歴史観は、中学生・高校生のときに愛読した一連の梅原猛の著作からの影響が大きい。それから、吉野裕子や小林惠子などからも影響を受けた。反省するに若気のいたりと言ってもいい。もう若気の至りから卒業してもいいころだ。
 その反省モードで本書を読むなら、バランス良くこの時代と、光明皇后を丹念に描いている。つまり、関連する史学のまとめとして見るなら、良書であると言っていいだろう。
 読後、そう思える自分はなにか夢から覚めたような奇妙な感じもした。


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2017.12.28

[書評] 背教者ユリアヌス(辻邦生)

 いつからか、書店の店先に文庫本が目立つようになった。大規模書店でもなければ、ふらっと書店に立ち寄る人が買う本は、雑誌か、自己啓発本、ネタ話の本、あるいは文庫本ということになってしまったようだ。なかでも文庫本は多い。
 そういえば、最近文庫本になった『人間アレルギー』(参照)には私が書いた紹介文が巻末についているはず。たまたま通りすがった書店だが店先の文庫本のなかにあるだろうかと、探していると、辻邦生の『背教者ユリアヌス』の文庫本が見つかった。おや珍しい。

 これ、長く絶版だったように思うので、復刻的な再版かなと手に取ると、随分と装丁が新しく、しかも(一)とある。うーむ。これ、文庫だと上中下の三分冊だったはずだが、と手に取ると、改版だった。一巻目の巻末には加賀乙彦の解説のほかに、当時の辻の関連エッセーが載っている。なにか懐かしくて、しばし文庫本を繰ってみた。どうやら改版は四巻本で、一巻目がちょうど出たばかり。二巻目は来年1月の中旬以降のようだ。
 辻邦生の『背教者ユリアヌス』(参照)は好きな小説だ。ユリアヌス自身が好きだというのもある。ユリアヌスの評価は、現代ではギボンの影響もあって好意的なものが多い。残された文献から見ても実に魅力的な若者である。哲学徒でもあり、武人でもあり、若さがまぶしい。塩野七生も当初は彼に屈曲した思いを持っていたようだが、しだいに魅惑に屈したかのようだった。
 もっとも辻のこの作品はあくまで歴史小説として書かれているので、史実を踏まえた点は多いものの、ユリアヌスの実像に迫るというものでもない。それでも、特に情景描写は古代を彷彿させる美しさがある。登場人物はまるで映画の俳優を見ているようなリアルな感じもある。
 小説として一番私の心に残ったのは、ユリアヌスに寄せる皇后エウセビアの恋情である。年下のユリアヌスにここまで狂おしく愛せるのか。そのねちねちとした文章がたまらない。中年女性のエロスの本質というのはこういうものではないか。源氏物語の六条御息所も連想させる(モチーフとしてあったかもしれない)。
 大島渚の60年代映画のような恋情ものにもこの濃さはあったように思う。とはいえ、これって現代からすると昭和時代の演歌みたいにも思えるし、そこが好き嫌いの分かれるところかもしれない。この小説が好きな人でも、エウセビアの恋情に違和感を持つ人は多いようだが。
 もっとも、現代風なエロのシーンはまるっきり出てこない。エロが薄くてつまらないなともいえるが、そこじらしの感じも悪くない。史実として見れば、エウセビアとユリアヌスの恋愛関係はないとするのが多いだろうが、そうでもないんじゃないかと思わせるくらいに辻の想像力は強い。
 他の女も美しい。ディアにはファンも多いだろ。どこかしら、彼女の造形には昭和の実在の女性がいそうな感じもする。ヘレナもきちんとした相貌がある。
 とはいえ、いじわるな評価をすれば、大衆小説であり、ハーレクインみたいなものだとも言えないこともない。それでも日本語としての文体は美しく、物語は飽きあせない。
 ファンタジー小説好きなんだよねという若い人は、予断なく、読んでみるといいと思う。いろいろローマ史にまつわること宗教に関係することなどは、あとから関心を持つことでいい。ロマンに沈没する体験ができるという点だけでもこの小説を読むのをお勧めしたい。


巻末にファイナルヴェントの解説があります。

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2017.12.27

[書評] 背教者の肖像(添谷育志)

 副題「ローマ皇帝にローマ皇帝ユリアヌスをめぐる言説の探求」とあり、ユリアヌスが好きな私は、即座にこの本『背教者の肖像(添谷育志)』(参照)にはどんな話があるだろうか、自分の知らなかった逸話や視点が得られるだろうか、と期待していたのだが、読んでみると、見事に、痛快に、爽快に、裏切られた。この本の面白さをなんと言っていいのだろうか。

 なんの予断もなく読み始めると、冒頭、「本書は辻邦夫の小説『背教者ユリアヌス』において描かれたローマ皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(Flavius Claudius Julianus、在位三六一年一一月三日‐三六三年六月二六日)の言行をめぐる言説(テキスト)が、時代の変化にともないどのように変貌してきたのかを探求するものである」とある。わかる? 
 まずわかるのは、ユリアヌスを扱うわけではない(なんと残念)。辻邦夫の該当小説を扱うわけでも評論するわけでもない(え?)。ようするにその小説についての言及の変遷史を扱うということだが、実際のところ、辻に代表される近現代知識人がどのようにユリアヌスを受け止めてきたかという話になる。特に西洋近代における「背教者」という魅惑像の変容史から日本のその対応が扱われる。
 本書はつまり、近現代のユリアヌス像から近現代を見直す作業だという理解でもよいだろう。とはいえ、具体的に面白いのはその微に入り細を穿つ部分である。読みながら、なんで自分はこんな本読んでいるだろうという奇妙な愉悦感である。私が好きなカザンザキスも出てくる。こんな知的領域、普通の現代の知識人を魅了するだろうか。
 第一章を読み終えて次章に入るとき、なにか奇妙な断絶感と継続感があり、そこで「あれ、これ論集じゃないの」という疑問が浮かんだ。この時点で「あとがき」を読むと、そうだった。一章は既発表でそれに書き下ろしを続けたものだった。
 その二章で、私の愛読書でもある折口信夫『死者の書』が出てきた。なぜ曲りなりともユリアヌスの書籍でこれが出てくるのか。いちおう理屈はある。キーワードは「メレシコースキー」である(これに丸山眞男の「亜インテリ階級」が重なる)。それと、ざっくり言えば、背教者から異教者、そして折口の奇妙な神道観という、近現代というものに微妙に対立・魅了された領域がそこにある。個人的に面白かったのだが、著者には折口のこの小説は当初は馴染めないものだったらしいことだ。私は30代に同人誌に折口信夫『死者の書』論を書いたことがあるが、とても馴染み深い人だった。歳を取り、さらに自分が折口に似ている部分も知る。
 奇妙な本だとも思えるが、論旨が明瞭ではないわけでもない。何を言いたいのかわからないわけでもない。関心領域は私のツボだと言ってもいい。それでも、なんとも船酔いするような読書体験があり、どうやら、この読書体験自体が本書の意図なのだろうというように、しだいに了解してくる。
 その読書体験の誘導とでもいうか、そこでの命題は、ローティ(Richard Rorty)が提示する「リベラル・アイロニスト」という「生き方」である。社会価値性においてリベラルであり、本質的な懐疑主義者であるアイロニストは、「ポスト真実」の現代にどのように生きたらよいのか。それが問われる。
 ああ、それ、まさに、私です、とここで思う。
 著者は、そこでリベラル・アイロニストに3つの生き方の選択肢を見せる。①公共的レトリックから身を引き『哲学者の慰め』のように書くこと、②ユートピアニズムを掲げて、「思想的テロリスト」たちに戦いを挑むこと。
 よくわかる。このブログはその2つの選択肢でぶれ続けてきた。けっこう満身創痍になった。そして、そこはすでに隘路だというのも、長いブログ休止の思いでもあった。
 著者は3つめの選択肢を示す。③「私的な哲学者」になること。
 どういうことか。著者はローティを引きながら、文芸批評を挙げる。もちろん、それはいわゆる文芸批評であってもいい。本書は触れていないが、小林秀雄的な「様々な意匠」であってもいい。いや、小林のそれは逆である。あれは隠された求心性であった。では著者の言う、文芸批評の核心はなにか。読書である。「書物文化はリベラル・アイロニストにとって最後の砦なのだ」と著者は言う。あとがきにはアイロニストにあるまじき心情がこぼれる。

 それにもかかわらず本書出版を思い立った理由は、「おわりに」で書いたような現代日本社会のあり方、とりわけ紙ベースの「書物」の行く末にたいするわたしなりの憂慮である。  (中略) 本書にメッセージがあるとすれば、消滅しつつある「書物文化への賛辞」である。

 著者は1947年生まれ。私より10歳年上で団塊世代。彼は今年70歳になったのだろう。団塊世代が「大量自然死」すれば書籍文化は衰えると見ているようだ。確かに、そうには違いない。
 それでもまあ、とりあえず10歳若いリベラル・アイロニストがここにいる。こんなブログを思い出す人だって、少しはいると思っている。同士はいるよ。

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2017.12.26

[書評] 北朝鮮 核の資金源(古川勝久)

 北朝鮮の工作員が日本に多数いるとか、彼らは国際的に活動しているとか、「まあ、そんなの常識として知っていますよ」と言いたくなるが、本書を読んでみると、なんというのだろう、うなだれてしまう。ある種、絶望感のようなものも感じる。ここまで実態はひどいのか。あえて「私たち」と言いたいのだけど、私たちはこの問題に実際は目をつぶっていたのだなと後悔する。

 本書『北朝鮮 核の資金源(古川勝久)』(参照)は副題に『「国連捜査」秘録』とある。著者は国連安保理の下に置かれた北朝鮮制裁担当の専門家パネルに2011年10月から2016年4月まで4年半所属し、北朝鮮の国際的な暗躍を詳細に調べ上げてきた。日本国内はもとより各国に足を延ばし、国連による北朝鮮制裁を北朝鮮がどのように違反し、またどのように、ミサイルや原爆の開発部品の調達や技術収集、さらにそのための資金調達を行ってきたか、それを丹念に調べた記録が本書である。その全貌は、本書目次の次ページの見開きの世界地図にまとまっている。東南アジアでの北朝鮮の暗躍もさることながら、ヨーロッパや中近東での暗躍も目覚ましい。アフリカでの暗躍はここまでひどかったのかと驚くほどだ。しかしよくもまあ、ここまで北朝鮮は国際的な活動ができたものだ。なにが国際的に孤立だと毒づきたくなる。
 もちろん、国連による北朝鮮の制裁を、常任理事国である中国やロシアが率先して妨害してきたからだ。その妨害の手つきも本書に詳しく述べられている。著者は自慢げに語ることはないが、こうした妨害のなかでよくきちんと仕事ができたものだと驚く。
 それにしてもひどい。まったく知らなかったわけではないが、北朝鮮はシリアのアサド政権による兵器製造開発にも深く関わっていた。北朝鮮はシリアの虐殺の「共犯者と言って差し支えない」と本書は語るが、事実はそれ以外を意味しない。これに北朝鮮が形成した中国でのネットワークが関与している。それでも中露両国は国連捜査の妨害をする。
 本書を読んで、絶句したのは台湾の関与である。日本では、中国への嫌悪感や対抗意識から台湾を賞賛する空気のようなものがあるが、北朝鮮の暗躍には台湾が大きな拠点になっていた。本書では「台湾というブラックホール」と称しているが、中国と台湾の関係が微妙であることから国連としては、台湾はアンタッチャブルになる。そこに北朝鮮はまんまとつけこんで暗躍拠点としていた。似たような状況がマレーシアである。金正男暗殺事件でもマレーシアと北朝鮮の関係がうかがい知れたが、マレーシアには北朝鮮利権のようなものがありそうだ。
 他国ばかりではない。日本社会のなかにも北朝鮮の暗躍ネットワークがあり、日本人もそれに関連している。単に「関連している」にとどまらないほどの指令拠点になっている。日本政府は何をしていたのだろうかと改めて疑問に思える。が、その一端として霞が関の鈍感さについても書かれている。それと明示はしてないものの、その他の日本での暗躍が察せされる部分もある。なにもかもがひどい。
 本書を読みながら、これでもかこれでもかというほどの北朝鮮の暗躍の実態を知ると、まさに国連制裁が現実には機能していないことがわかるし、だからこそ、北朝鮮は国際社会から孤立しているとされながら、原爆やミサイル開発ができたこともわかる。
 「おわりに」では、著者が国連活動で得た情報をもとに、日本国内での北朝鮮制裁漏れについて、首相官邸で安倍政権高官と対談する挿話がある。高官は事態を理解したものの、その後の対応が気になるところだ。

 残念ながら、その後、安倍政権は、大阪市の学校法人森友学園による国の補助金不正受給事件や、政府の国家戦略特区制度を活用した学校法人による獣医学部新設計画をめぐる問題などへの対応に追われることとなった。山本議員が継続して働きかけてくれたが、官邸はそれどころではない様子だった――

 モリカケ問題が重要だという人がいるのはわかるが、それで官邸のリソースが削がれていく状況を知ると、なんとかならないものかとしみじみ思う。
 ここで本書の結語を引用したい気持ちなる。が、あえて避けたい。そこだけ読んで、本書に込められた悲願とでもいうものが矮小化されてはならない。450ページを超える大著。延々と続く迷路のような北朝鮮の暗躍を読み、へとへとになるこの読書の体験こそ、本書の価値であろう。安易な怒りや、安易なスローガンでまとめてはいけないものだ。下っ腹にいっぱつどすんとくらうくらい、この本を読んで落ち込まなければ、問題の重要性はたぶん伝わらない。

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2017.12.25

finalvent's Christmas Story 12(建設予定地)

 finalvent's Christmas Story 12の建設予定地です。

 今年はギブアップしようかなと思っていたのですが、あとから書くかもしれません。

 とりあえず、みなさんに、ハッピー・ホリデーズ!

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2017.12.24

[書評] ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)

 仏教学者の佐々木閑に、仏教者と称する評論家・宮崎哲弥が、仏教とは何かといったことを問うという、出版社あるあるの対談書だろうと、『ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)』(参照)について予断をもっていた。というのも、宮崎について、もうずいぶん昔になる、というか曲がりなりにも小林よしのりのゴーマニズム宣言を読んでいたころのことだ、宮崎が仏教者であることがその漫画でおちょくられていた。小林に共感しない私ではあったが、宮崎の仏教観もヘンテコなものだなと思ったものだった。人の宗教観というのは存外に変わらないものだから、宮崎のそれも同じだろうし、佐々木も最近の国際的な仏教学を知識を淡々と語るくらいかな、いずれ私が読むような対談本でもあるまいと思っていた。『ゆかいな仏教 』(参照)みたいな本かなと。

 が、この『ごまかさない仏教』は、そうでもなかった。おもしろい。読み進めるにつれ、勉強になってしまうのである。すまなかった、宮崎さん、よく仏教を学んでいる。
 副題に「仏・法・僧から問い直す」とあるが、私の誤解でなければ、「律」の視点から原始仏教を再構成し仏教をとらえるという確固たる視点で、私がかつて批判してきた東大系の理念的な「原始仏教」とも異なり、近年の国際的な仏教学も踏まえ、とてもバランスのよい仏教の基本像が描かれている。もう少し足して言うなら、中村元はきちんと批判されているし、昨今日本でも流行るテーラワーダ仏教についても学問的にきちんと批判されている。これは現代日本社会に重要なことだと思う。
 近現代日本は、西洋文化の受容とともに独自のキリスト教文化受容を行い、私のような亜インテリを生み出し、ミッション系としての各種学校体制を維持してきた反面、これへの反動としての神道や仏教の再構築も行われ、これらが新興宗教的な前近代性を払拭するにつれ、いわばファッションとしての仏教や神道が出てきた。それらの内実を見ると、確かに「ごまかし」と言ってもよく、その点、本書書名「ごまかさない仏教」は妙に言いえている。
 他方、日本の既存仏教界については、本書はサンガの視点から、「日本はサンガを持たない唯一の仏教国になってしまったのです(佐々木)」と明瞭に指摘している。当然、その原点ともなる鑑真への対応も簡素ながら言及されている。ここも重要な点だ。
 個人的に、特に勉強になったなと思ったのは、サンガ(教団)のとらえ方、輪廻思想やアートマン思想の受容の仕方であった。それと、主に龍樹が想定されているが大乗仏教との関連もである。
 その延長ではあるが、ユーラシア史的な大乗仏教や密教については、対談でまったくないわけでもないものの、ほとんど言及はない。観音信仰といったものと仏教との関連はここでは問われていない。私の理解ではアショーカ王の統治では仏教が帝国のダイヴァーシティへの統治機能として仏教が推奨された。これが後にはユーラシアの統治原理と結びつく。さらに私見になるが、その一端が北魏を経て日本の仏教の基本になったのだろう。こうした視点は、歴史学としては「仏教」に関連するとはいえ、宗教として見た場合、前提として本書の範囲からは外れているのだろう。
 その意味で(知識の提示だけなく)、本書は、微妙にではあるが、ごまかさない仏教として真の仏教を志向して問われている。本書対談者二者とも、仏教学と仏教信仰は異なるとしながらも、対談でモデル了解された共通項について、仏教信仰としての共感が見られる。そのあたりは読者によっては、生きる指針としての本書の魅力になってしまうのかもしれない。また、二者はその対談の仏教像に社会的なアクチュアリティも投影している。そこは私には疑問を感じさせる点でもあった。
 そこにあえて自分を近接させるなら、私は道元に私淑しているようなものでありながら、道元の説く釈迦像は受け入れていない。道元は自身こそが真の仏教としているが、私は道元の思想が仏教であろうがなかろうが、どうでもいい。私はどのような宗教であっても自分は異端としてしかありえないだろうと思うし、異端であることはどうでもいいと思っている。(これもまた「仏教」とは言えないだろうが。)
 とはいえ、この手の対談書としては、ためになりかつ面白いものだった。昨今の日本で流布している「本当の仏教」という多様な言説は本書でかなり整理できるだろう。

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2017.12.23

[書評] メディア不信(林香里)

 簡素だが興味ひかれる表題への関心と、それが岩波新書であることの信頼から、『メディア不信(林香里)』(参照)を読んだ。なるほど、表題が示すテーマを簡潔にそれでいてグローバルにきちんとした論旨でまとめていている好著だった。が、微妙にではあるが、当初この本を手にしたとき期待していたものはそれだったのだろうかと、読後、小さな疑問がわいた。きちんとまとまった論旨の背景にある現在性と自分がそのなかで生活している現在の感覚に微妙なずれのような感覚も覚えた。そこだけ取り上げて誇張するなら、なんというのだろうか、宇宙人に宇宙船に連れられてきて、ほらあれが君の星、地球だよ、と告げられているような感覚だろうか。

 構成はわかりやすい。まず、「メディア不信」という問題提起が序章にあり、第一章ではドイツの事例(右翼グループ台頭)、第二章ではイギリスの事例(Brexit)、第三章では米国の事例(トランプ現象)という展開で、あたかも西洋事情といった形式になっている。各章を順に読んで違和感はない。他方、読者にもよるのだろうが、これは驚いた、予想外だったという新奇さというものもなかった。個人的には各国の並びに、韓国のメディアと「メディア不信」も取り上げてほしかった。そこにはかなり独自の様相がありそうに思っているからだ。
 第四章では、各国の並びで日本が現れる。これも事実や統計に裏付けられていてよくまとまっているのだが、私のように読書はするが、マスメディアのニュースはほとんどNHKだけで他はサイバー空間に暮らしているような人間からすると微妙なずれ感はあった。
 第五章では、ソーシャルメディアに注視し、先進国の民主主義との関連を議論している。この部分も第三章までの各国描写と同様、簡潔にまとまっているが、そこでも日本への言及には微妙なずれを感じる。それはなんだろうか。
 日本のサイバー空間側に立ってみると、「メディア不信」としてしばしば遭遇するのは、右派によるリベラル・メディアへの偏向批判と、左派によるメディアへの政権介入批判である。極端な例も少なくはないが、それらを除くと、どちらもそれなりに論拠があり、ただメディアをために批判しているというものでもない。私もブログでメディア批判的な文章を書くが、できるだけ論拠を参照として示すようにしている。逆に言えば、マスメディアはこれだけインターネットを使っていながら、論拠となる参照に乏しいように思える。この点を少し補足するなら、マスメディアの報道で論拠が不明瞭であったり割愛や都合よく切り取りされていたりするように思える部分を洗いなおすと、それほどマスメディアの報道品質が高くないとわかることが多い。特に国会中継などは全記録が参照できるので報道の検証がしやすいし、ソーシャル・メディアの発達でメディアより先に一次ソースが公開さることもあり、これらで報道検証ができることもある。
 ひとつ、後追い的で提言的な着想ではあるが、本書が出版されたのは今年の11月21日なので、この半年は続いている通称「モリカケ」問題の報道的側面が時期的には含められないものではない。この現象を仮に本書の枠組みで扱ったらどうであっただろうか。この問題は、問題それ自体を超えて、報道や「メディア不信」の点で国会や行政にも影響しているのだから、それほど些末なテーマでもないだろう。
 さて、いわゆる右派と左派の、読者獲得のためのご機嫌伺いメディア的な迎合性(これに関連して本書は産経新聞の経営について興味深い指摘をしている)あるいはどちらか側の視点からの「メディア不信」ということではなく、気になる、ある意味隠れた主題が本書にはあるように思えた。終章の以下に関連している。

 二〇一六年から一七年にかけて私は、ドイツ、英国、米国のポピュリズム勢力を目の当たりにして、その際に主張するスローガンのほとんどが、日本の右翼の言葉として聞き知っていたものであったことに、衝撃を受けた。それは戦後民主主義が目指してきたもの一切合切の否定であった。偏狭なナショナリズムの「自虐史観」への批判、「押しつけ憲法論」、在日コリアンに対する差別発言、フェミニストたちへの侮蔑などといったもの言いと相似形の議論が他国でも繰り返されていた。

 おそらくそうであろう。そしてそのことは、日本の右翼が現代世界では自然的な現象であるということを意味しているのではないだろうか。つまり、ここは影響の原点が逆になる。日本の昨今の右翼の言葉が先進国の動向と同種のものであれば、「戦後民主主義」というような日本独自の問題ではなく、むしろ、ある世界的で自然的な動向が、日本においてはそのように表出されたと見るべきで、むしろ、「戦後民主主義」が目指してきた自明性が、世界の一般的動向によって批判さている状況ではないだろうか。誤解なきように補足しておきたいのだが、私は右翼の言葉やその自然的な動向を支持するものではまったくない。
 そうして点から「メディア不信」を再考すると、それは、メディアへの不信とされる既存メディアの現在社会での位置の構造の問題と、世界全体を覆うポピュリズムの発露の問題があるのであって、「メディア不信」がプライマリーな問題ではなく、それはある複合的な現象の仮称に思えてくる。
 この既存メディアの現在社会的な位置構造の問題については、まさにソーシャル・メディアとして次のように本書で語られている部分に関連があるだろう。その懸念について触れた文脈で。

 ほかの懸念もある。科学技術とメディアの相互作用を研究するパブロ・ボツコフスキは、ソーシャル・メディア上では、個人的関心や情緒的ストーリーが、時事的ニュースよりも優先される傾向があることを、若いユーザーたちへのインタビュー調査の結果から指摘している。この傾向は、スマホやタブレットのデザインやユーザー・インターフェース、すなわち「アフォーダンス」に原因があると指摘している。

 これも理解しやすい。人が手のひらの、身近なメディア・ツールを持てばより懇親的な関心からニュースを審級してしまうのも自然的な傾向だろう。
 だが歴史を顧みるなら、そもそも新聞は地方紙でありコミュニティ・ニュースであった。もともとニュースとは献身的な世界の話題である。むしろ、本書で自明に語られているメディアは20世紀の遠隔通信技術のうえに成立したマスメディアであり、マスプロダクトと関連した商業メディアでもある。
 本書の各国事情では、これに関連して「マイメディア」を取り上げているが、ナショナルな要請かあるいは冷戦のような国家リーグの枠組みが薄れてくれば、人々は国家の統一性を緩く感じ、より身近なコミュニティに回帰していくのは当然だろう。マスメディアは個別コミュニティの懇親性より、大量消費に関連する大衆の関心に調和する傾向を持つ。そこには、本質的なギャップがあるのだから、献身的なメディアが再興すれば、マスメディアには自明に「メディア不信」が向けられるだろう。あるいは、国家の統一性への危機が右派をいらだたせるだろうし、その点ではいわゆる左派も同質だろう。
 本書は第四章で日本のメディアの関心の低さを問題として指摘しているが、そもそもマスメディア受ける均質な国民意識のようなものは、次第になくなっているのだろう。私もその一人でもある。


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2017.12.22

[書評] クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ、‎サミュエル・スターンバーグ)

 10月上旬に出版された『クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ、‎サミュエル・スターンバーグ)』(参照)は日本の社会でどのくらい読まれただろうか。この間、ブログを事実上お休みしていたものの、気になる本は読んでいた。本書読後のある種の呆然とした感じは忘れられない。困ったことになったな、人類、と思ったのだ。それをいち読者としてどう表現したらいいものか、その困惑もあった。

 どういうことか。言葉で説明しにくいものでもない。本書の帯にあるように、本書のテーマは「人類の未来を変える『技術』を開発した女性科学者の手記」ということで間違いない。基本は先端科学者の「手記」であり、手記としての醍醐味は十分にある。
 困惑に関連するのは、「未来を変える」の部分である。それについて帯にはこうもある。「米諜報機関は『第六の」大量破壊兵器』になる危険性も指摘」。確かに、この「技術」の潜在的な危険性はそう表現しても大げさではない。それでも言い尽くせないほどだ。
 どういう技術か。邦題にもあるように「究極の遺伝子編集技術」である。かなり雑駁に言うと遺伝子が編集できるということで、生命体のデザインが変更できるということだ。新生命が作り出せると言ってもいい。兵器として見るなら、新種の生物兵器になりうる(すでにAIDSについてこのデマがあるが)。家畜も改良できる。Netflixの映画『オクジャ okja』がリアルな話になりうる。
 さらにぞっともするのだが、遺伝子改良した人間が生み出せる。当面の問題はそこだ。利点でいうなら、遺伝子病を遺伝子編集によって「治療」できる。他方、もっとすぐれた遺伝子を持つ人間をも作り出せる。優生学の悪夢でもある。こうした問題を本書の第二部はかなり入念に説明している。そこだけでも、広く社会に読まれるといいだろうとも、とりあえず思う。
 「とりあえず」とためらいがあるのは、遺伝子編集の潜在的な危険性ということではあるのだが、本書が説明する技術は、編集結果から見れば目新しいものではないからだ。遺伝子編集は、ダウドナ博士の発明以前からできていた。私はこの点、うかつにも本書を読んでようやく得心したのだが、この遺伝子編集が25万円ほどで可能になるというのがこの技術の衝撃のポイントである。
 しかも本書、「第4章 高校生も遺伝子を編集できる」とあるように、賢い高校生なら手の届くところにこの技術はある。つまり、本書が示す「技術」の要点は、現在の世界が安価で容易に遺伝子編集が可能になってしまったという点にある。フラッシュ・ゴードンのハンス・ザーコフ博士のラボみたいなものでも遺伝子編集ができるし、生物がデザインできる。
 すでに中国はこの技術に国家的に取り組んでいることも本書から伺える。そこではすでにヒトの遺伝子が扱われている。また米国を中心にこの技術を金のなる木にしようとしている新企業が現れていることも本書は伝えている。すでに現在、ある種のカオスとも言える状況に達しているとも言えるということを考慮すれば、社会的な警笛を鳴らす意味でも多くの市民がこの技術についてある程度知っておく必要はあるだろう。問題意識を明確にした本書はおそらく最適な知識の源泉だろう。
 本書は、当然ではあるが、科学啓蒙書としても優れている。第一部はそうした部分が、ダウドナ博士の体験談と相まって通常の文脈で淡々と進められている。そもそも遺伝子編集ってなんだという次元からわかりやすくまとまっている。生物学的な関心からすると、この技術が発見された原点である、細菌によるウイルス撃退の免疫機構がとても興味深い。これだけでも、科学啓蒙書籍として十分テーマになる。
 他方、研究の体験談として読むと、元来その分野にいなかった博士の研究転換や、東欧の英才を交えた学際的な研究の状況もちょっとしたドラマになりそうな臨場感があって、その描写は読んでいて楽しい。
 さて、本書で十分に描かれているとも言えるのだが、問題指摘としては、この技術の直接的なインパクトが強調されているわりに、副作用的なインパクト、つまり、オフターゲット編集の危険性の説明が弱いようにも思えた。
 実際のところ、この技術、CRISPR-Cas9システムの新企業的な展開は、オフターゲットの確率を下げ、精度を上げることにあるのだろう。その部分の解説は本書では薄い印象がある(原典出版から半年もなく邦訳書が出版されているにも関わらず)。現状、米国のこの分野での状況をざっと見るとそこに話題が集まるようなので、もう少し言及してもよかったのではないだろうか。
 私はこの分野のまったくの門外漢であるが、CRISPR-Cas9システムの遺伝子編集技術は、基本的には単一遺伝子の編集で、複数遺伝子の編集の影響予測としてはまだ未知な部分が多いだろうし、それがオフターゲットにも関連しているだろう。また、原理的に現状のCRISPR-Cas9システムは現状のゲノム解析に依存しているため、非コードDNAの機能には対応できない。このこともオフターゲットに関連しているようにも思う。
 本書のオリジナル・タイトルは”A Crack in Creation”で「創造のクラック」。副題は” Gene Editing and the Unthinkable Power to Control Evolution”「遺伝子編集と進化制御へのその想像を超える力」とでもなるだろうか。米国での本書の関心は、生命進化との関わりに置かれていると見てよさそうだ。なお、タイトルについて訳者は「ひび割れ」に「クラック」と訓じたものの、「ダウナド博士によれば、新しい未来への扉を開くといった、明るい希望に満ちた意味合いが込められているそうだ」としている。私はCRISPR-Cas9によって遺伝子がクラックする含みもあるかもしれないとも思った。余談だが、邦訳書はオリジナル(ハードカバー)の半額で購入できる。日本の出版界ってすごいものだ。安価であれば、この社会問題提起がより社会に届きやすくなる。

 

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2017.12.21

[映画] 今年見たアメリカ映画3つ

 難病の影響で映画館の映画が見られないという状態が長く続いたが今年あたりから、少し見られるんじゃないかと、少し見るようになった。さて、何を見たかなと思い出すと、アメリカ映画が3つ思い浮かんだ。率直にいうと、特にお勧めという作品でもない。世の中、こういうのが人気なんだなあ、へーえ、という感じだった。

美女と野獣(参照)

 ええ、あれです。エマ・ワトソンの「美女と野獣」です。つまり、エマ・ワトソンですね。という感じの映画だった。見終えたときは、はにゃ?と思うシーンがいくつかあったので、なんだったかなと思い出そうとしたのだが、思い出せない。たしか、アニメ版と同じだというけど、えええ? これ違うよなあ、というようなことだったと思う。まあ、些細なことかもしれないのだけど。
 ディズニーものというのは意外にメッセージ性が強いし、この作品もご多分に漏れずの類ではあるが、印象では、とにかくエマ・ワトソンに煮詰まっていた感じ。ベルがエマ・ワトソンだよ、それだけでメッセージじゃんというか。
 歌も声優も楽しい。ミュージカルっていいなあとうっとり(日本語訳でも見たいかな)。映像も美しい。CGはさすがだなあ。物語の展開については、それは言うな。
 そういえば、「美女と野獣」は、英語で”Beauty and the Beast”となっていて、the Beastには定冠詞があるが、Beautyには定冠詞がない。はてと思ったが、「ベル」ちゃんという固有名詞なのにべた訳したなごりのようだ。すると、フランス語ではと調べると、”La Belle et la Bête”で定冠詞あるじゃんなので、よくわからん。

ラ・ラ・ランド(参照)
 ええと、とっても評判だし、東京大学大学院教授の藤原帰一先生も批評性を込めながらも勧めていたので、見るかあと思って見た。今年見たんですよ。映画館のシニア割で。
 うーむ。これ、いい? 大人のほろ苦い恋の思い出? っていうか、JAZZ好きの感じ出てる? うーむ、いきなり否定的なことを言ってしまたけど、期待していたので、その分、はにゃあという感じだった。
 公平に見るなら、いい映画ではあったと思う。ミュージカルとしてもよくできていたし、映像もそれなりに美しい。おっと、ちょっとネガティブまた入りしまた。つまり、CG的な映像はそれほど美しいとは思わなかった。ロサンゼルスの普通の街の光景が美しかったというか、自分も所在なく、恋の行方もわからずに、東京の夜景を見下ろす感じとかあったんで、その心細さが蘇って胸キュンとかはあった。俺、歳だな。
 あと、エマ・ストーンはけっこう惚れるなあ、デフォで。ライアン・ゴズリングは『きみに読む物語』のノアですね。というか、『きみに読む物語』はいい映画だった。すまんが、『ラ・ラ・ランド』の1.4142倍はいいと思う。
 話戻して。最後の走馬灯回想シーン、ネタバレは避けるけど、男の視点なのか女の視点なのか、あえてぼやかしているのか、とか、思ったけど、これは文学的にはドローン視点でしょう。そもそもこの作品が予めドローンという初期村上春樹ちっくな情感なのではないかな。
 とかいいつつ、その後、『ラ・ラ・ランド』のサウンドトラックはよく聞いている。終電近い駅のフォームで遠い夜景を見ながら聞いていると、とても、ええ。

ワンダーウーマン(参照)

 見ましたよ。見ましたとも。『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』も見ているんですよ。そりゃ、ワンダーウーマンでしょ。見るっきゃないですよ。で、どうだったか。まあ、面白いんじゃね。というか、『ジャスティスの誕生』も、はにゃあ感はあったけど、なんなんでしょう、このはにゃあ感。今の若い人の受けるポイントなんでしょうか。わからーん。
 運命の宿敵(っていう表現がアレだが)アレスが「戦争こそ人間の本性だあ」とか言うと、ダイアナの心は揺れるけど、恋人(?)をトレバー思い出して戦う。かくして歴史は動き、第一次大戦はロンドンで休戦協定される。うーむ。なんだ、これ。
 正義に燃える強い女の子というのはわるくない。っていうか、僕は同じくDCの『スーパーガール』のファンなんだけど(すまんがスゲーファンだ)、ワンダーウーマンはなんか違うよなあこれ。どこが違うのかよくわからないが。
 とはいえ、映像はきれい。格闘シーンは美しい。我ながら、暴力シーン大好きになりつつあるのが情けない。
 映画見てからガル・ガドットってどんな人と調べてみたら、わーお、まじもんですね。あのマーシャルアーツ、伊達じゃありませんね。すごっ。ドラマ『デアデビル』のエレクトラん役エロディ・ユンもすげとか思ったけど、世の中すごい女優さんがいるものだなあ。


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2017.12.20

[映画] 今年見た、お勧め3つのフランス映画

 最新作では全然ないけど、DVDやストリーミングで見たフランス映画のうち、これは面白かったなあというのを3つご紹介。どれもコミカルで映像の美しい作品。すでに見た人も多いだろうけど。

エール!(参照)

 2014年の作品。歌手を目指す普通の田舎のフランス女子高校生の物語、と言いたいところだが、彼女の家庭は両親ともに聴覚障害者。当然、親は生まれた娘が聴覚障害者になるのではないかと恐れていたが、彼女は健常。そして生活のなかで手話を使いながら両親の田舎町の暮らしと農家の仕事を助けている。そのため、歌手に成りたいと思っても、親のことが心配だったりして悩む。
 この背景だけで、ヒューマン物語、感動の物語という予想がついてしまうので、僕みたいにひねくれた人間はちょっと引くのだが、実際は、お安いべたべたした情感はない。聴覚障害者の両親はパワフルだし、彼女はなんというか日本人でもこういうの普通だなあという普通の人。といってもボッチ耐性は強いし、パワフル。恋の心もけっこう、わかるなあという感じ。
 映画では彼女の弟が滑稽な役回りで出て来るのも面白い。エロチックというわけではないけど、性的な情感は所々にあり、またフランスのありがちな田舎の風景が美しい。最後にパリの風景に変わるところもはっとする。
 物語らしい展開は、彼女の歌の才能に音楽教師が気が付き、その才能を育てようとするところ。彼女の歌もよく出て来るが、この歌だけですでに感動もの。教師はミシェル・サルドゥの歌が好きで、彼女に歌わせようとする。“La Maladie d’amour”や、“La java de Broadway”など。前者は、昔、沢田研二が「愛の出帆」として歌っていた。
 原題は、”La Famille Bélier”、訳すと「牡羊座家族」。牡羊座の意味合いは、何ものもものとせず突き進むということだろうか。日本語なら「猪突猛進家族」としたいが、これだとちょっとおフランスっぽくないので、「エール!」ということだろうけど、それもなあ感はあり。

タイピスト!(参照)

 2012年の作品。時代は1950年代。第二次世界大戦の傷跡あとからフランスが立ち直ろうとする時代。その時代のコスチュームや風景の映像も楽しい。タバコのシーンがあるのも自然。そうした映像だけで、わーおと思える美しい作品。タイピストが女性の花形職業だったという時代の空気も上手に描いている。
 物語は、早打ちタイピングができる若い田舎の女の子が、都会の年上ビジネスマンのもとでタイプの猛練習を行い、タイピング世界選手権に出るという物語。話として見れば、普通のラブコメ。最初はかわいいドジっ子が一念奮起してタイプの腕を上げる。だが、それにつれて男は彼女から遠ざかっていく。まあ、普通にラブコメじゃんと思ってゆったりと見るといい。物語の設定上、女性の心に関心が向くが、制作の意図は男の心理にもある。戦争で傷ついた男ということ。
 原題は、”Populaire”で、これは、物語にも出て来る、当時人気だったタイプライター”Japy Populaire”のことだが、人気者という洒落でもあるだろう。
 メラニー・ベルニエ役のアニー・ルプランス=ランゲにも注目。

ブラインド・デート(参照)

 2015年の作品。同名の映画もあるので間違えないように。ストーリーはまさにコミック的。というか、原作日本のコミックじゃね感がぱねぇ。
 主人公の女性は、本当は才能のある若いピアニスト。しかし、失敗恐怖というか人見知りというか、教師にへつらいすぎというか、自分の才能がいかせない。それでもピアノを抱えて一人暮らしして自立しようというシーンから映画始まる。そして、越してきたアパートが奇っ怪。隣の住人が変。謎の男。彼はパズル発明家。静かな場所で、画期的なパズルを作ろうと、静かな生活を送りたい。が、聞こえてくる薄壁のむこうのピアノ。というどたばた設定から、見つめ合うこともない恋心が芽生える。そしていさかい。思いがけない対面。などなど。
 この「などなど」が原題、”Un peu, beaucoup, aveuglément”の意味合いで、フランス人ならこのフレーズですぐにピンとくる。というか、さすがに僕もフランス語この一年はそれなりに一生懸命勉強してわかるようになりましたよ。
 ヒロインはアニー・ルプランス=ランゲということでした。売れっ子なんですね。現代的な意味でとってもフランス人っぽい印象。個人的にはメガネに萌える。現在はどうしているかとニュースにあたると、”Mélanie Bernier enceinte : L'actrice, radieuse, dévoile son beau baby bump”(参照)とある。わーお。


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2017.12.19

[書評] いんげん豆がおしえてくれたこと(パトリス・ジュリアン)

 本との出会いということをいつからか忘れていたようにも思う。いや、そうでもないか。自分が読む本は、振り返ってみると、今でもなにかしら偶然の出会いによるものが多い。それに今でも私は、いつでもどこかで本との出会いを待っている(人との出会いについてはそう思わなくなってもいるのだけど)。『いんげん豆がおしえてくれたこと(パトリス・ジュリアン)』(参照)はそうした書籍との出会いだった。ずいぶんと古びた本だなと思って初版を見ると、1999年。18年くらい前の本である。

 出会ったのは、アンスティチュ・フランセの図書館。本の背にフランス語の筆記体で何か書いてあるんで手に取った。私はこの2年間、よくフランス語の文章を筆記体で書いていて、それだけで関心を持っていた。
 その筆記体を読むと、”Un haricot m’a dit” 「豆一粒が私にこう語った」とある。なんだろと思ってからうかつにも日本語の書名との関連に気が付いた。それから特に読む気もなくぱらぱらとめくっていると著者のパトリスさんは日仏学院の副学院長だったことがわかる。へえ、ここにゆかりのある人だったのかと思う。
 そして料理エッセイの本かなとさらにぱらぱらとめくると、「一九九三年、僕は東京日仏学院の図書館のリニューアル工事にかかわっていた。この時は現代的な備品類が東京では見つからないために、ほとんど全ての品をフランスから取り寄せなくてはならなかった」とある。え? それってここ? と思った。
 この場所のデザインがパトリスさんによるものだったのか。今いるまさにここ?
 それと、私は1993年ごろ、飯田橋で仕事をしていた。駅前に深夜プラスワンがあるころである。なんだか、奇妙な感じがしてこの本を読もうと思った。各章の冒頭に、パトリスさん自身の手書きの筆記体の文字があるのも、自分にはすてきに思えた。
 もう絶版だろうかとアマゾンを見ると、文庫本になっている。最近は、単行本と文庫本があると便利さから文庫本を買うことにしているのだが(幸い老眼もないので)、なんとなくこの初版の本に愛着があったので古書を探した。とてもきれいな古書が見つかったので、出会いの不思議のまま読んでみた。存外に面白い本だった。
 自分が最近、フランスやらフランス人、フランス文化に関心をもつせいか、パトリスさんの思いにそうした部分を投影して読んでしまった。正確に言うなら、この本はフランス人ならこう感じる・考えるという種類の本ではない。パトリスさんという、むしろ所属文化のない自由人の思いが綴られている。基本は料理の本だが、フランス料理というわけでもない。それにどっちかというと、ロハスな感じの主張の本で、私は告白するのだがロハスのような趣味にどうも違和感を覚える。そういう点で言うなら、偶然の出会いがなければ、読むことはなかっただろうな、この本、と思う。
 パトリスさんは私より5歳年上のようだ。本書は、彼が日仏学院を辞めて会員制のレストランを作る話が中心になっている。気になって調べてみると、そのレストランもすでになく、この間、4年ほどはフランスにいたらしい。著書も多いことがわかった。ルクルーゼの鍋が一時期ずいぶん流行したがその原点が彼らしいことも知った。
 本書の面白さは、自分にとっては、料理や彼のロハス的生活の提言より、やはりフランス人的な感覚と思える部分だろう。彼はレストランを訪れる中年夫婦が食事に会話もしない光景に違和感を覚えている。「相手に対して常に何かを感じ続けること、それはとても大切なことだ」と言う。あたりまえのようだが、もう少し深みがある。
 夫婦について、「けれども夫婦の関係がうまく行くかどうかは、内面的な誠実さと警戒心にかかわる部分も大きいと思う」 それも当たり前のようだが、「警戒心」は少し日本語的な響きではない。そしてこう話は展開する。
 「僕くらいの世代のフランス人にとってこの幸せの定義は、結婚はしていても互いに“恋人”であり続けるということに結びつく場合が多い。つまり新鮮な情熱をいつまでも持ち続けるということ。」「それには警戒心がとても重要になる。なぜなら情熱のいちばんの敵は日常の生活だから。」「今の日本では四十歳以上の女性はほとんどが夫に対して尊敬や賛美の気持ちを少しも抱いていないように思える(男性一般に対してもこれと同じで、彼女たちの意見はすでに決まってしまっているみたい)。」
 この本が書かれてもう20年近く経つので現代ではどうだろうか。パトリスさんより5つ下の私も今年60歳になったが、ここで言及されている40歳以上の女性はもう70歳くらいだろうか。
 仮に今でもそうした、日本の夫婦の傾向は変わらないなら、「警戒心」はどういう意味を持つだろうか。そんなことをいろいろと思いながら読んだ。
 パトリスさんの本は他の本も読んでみようと思った。もしかして、フランス語の本はないだろうかとも思った。


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2017.12.18

[書評] 不便でも気にしないフランス人(西村・プペ・カリン)

 2017年、今年はどういう年だったかと振り返るといろいろ思うことがある。例えば、このブログ、何か月間だろうか、お休みしてしまった。お休みとかいうのは体のいい言い回しだし、まだ再開しましたよというほどの自信もないんだけど(ああ、不安)、つまり、長期に更新しない状態なのか、ブログをやめてしまったのかわからないような状態だった。ブロガー引退かな。もともとブロガーなんていうのは肩書にもならない無なんだけど。

 その間、ブログを書かないでいる間だけど、自分が何をしていたのかというのが、ブログの裏面から見る今年の活動ということになる。何だったか。いろいろあった。まずひとつ言えるのが、フランス語を勉強していたということ。
 以前からもフランス語を勉強してはいたのだけど、十分ではないなと思っていた。教科書だけではなくオーディオ教材は使ってフランス語を学んでいたものの、実際にフランス人からフランス語を学ぶということはしてなかった。これじゃ語学の勉強にはならないよね。思い返すと、自分も英語を意識して学ぶようになったのは、自著にも書いたことだけど、大学入ったら最初の授業が英語だったことだ。英語の授業ではない。英語で授業だった。アイビーリーグ出の若い米人の教師だった。40年前になる。
 そんなことを思い出したのは、フランス人からフランス語を学ぶというのは、ふつう、フランス語でフランス語を学ぶということになる。わかるの?自分?というのが今年のフランス語学習の要点だった。
まあ、半分くらいはわかるもんだなあと思った。そうした過程で実際のフランス人と会う機会もできて、フランス語だけでなく、フランス人の考え方というか感覚というものにも少しずつ馴染んできた。そしてそういう過程でよりフランス語やフランス人、フランスの文化や歴史に関心を深める相乗効果にもなる。こういうとなんだけど、フランスという国、文化、人々というのは面白いものだなと思う。
 そうしたフランスへの関心の一環が本書、西村・プペ・カリン(以降プペさん)著『不便でも気にしないフランス人』(参照)である。以前読んだプペさんの『フランス人ママ記者、東京で子育てする』(参照)がとても面白かったので、一も二もなく読んでみた。プペさんが登場する、彼女の夫のジャンポール西さんのエッセイ漫画、例えば『嫁はフランス人』(参照)もとても面白いし。
 このプペさんの近著、批評的な意味ではないが、書籍としてどっちが面白いかというと、前著・ママ記者のほうが面白かったように思う。かぶる挿話もある。前著の実体験の話自体の魅力というのはあるのだろう。他方、今回の本についていうと、プペさんへのファン心理みたいなを除けば、現代のフランス人の生活感覚や日本観を知りたいという人には平易に書かれていて読みやすい。日本人には示唆的な事柄も多いと思う。
 こう言うとなんだけど、出羽守の「おフランス大好き」やいわゆるネットウヨの「日本スゲー」への緩やかな解毒剤になるのでは。日本もフランスも普通の国だし、日本人もフランス人も普通の国民であるというか。余談めくが同じ延長で、じゃあアメリカとアメリカ人はどうなのというと、正直、もにょんとする。アメリカ人というときのアメリカ人らしさというがないわけではないし、州や地域や階層、集団の多様性に戸惑うというほどではないけど、どうしても日本人には現代ですらアメリカやアメリカ人に屈曲した心理のようなものを持ちがちなので話がややこしくなる。おそらく、アルジェリア人やベトナム人やカンボジア人、チュニジア人などはフランスに対して微妙な感覚を持つだろうけど、日本の場合、フランスには直接的な歴史的なごちゃごちゃはないのではないか。その点でも、フランスは平明にとらえやすい。
 本書の内容は、フランスと日本という大枠で、生活感のある各種の挿話がもりだくさんである。気を引くところから楽しく読んでいけばいいだけに思える。あえて全体的にいうと、署名にもなっている「不便でも気にしないフランス人」というのは言いえて妙という感じだ。実際のところ、フランス人が不便を気にしないということはないが、前著にもよく出てきたが「システムD」がよく生かされている。日本語で言うなら、とにかくやりくりする、なんとかする、ということだろう。工夫するということだろうか。これを「不平不満は工夫がたりぬ」みたいに言うとどっか逆鱗に触れそうだけど。
 「システムD」のDは、débrouilleの頭文字でこの単語、私の知る限り、英語にはない。ピンズラーのフランス語教材でもこの単語がよく出てくるのだが、英語の対応がないのでいろいろ説明に苦慮している。繰り返すけど、まあ、「困ったらなんとかしちゃえ」で社会や人生が成り立っているのがフランス、と言ってもいいのだろう。
 本書を読みながら、débrouilleというのと「工夫する」はでもちょっと違うかなあとも思う。プペさんの社会の関心の持ち方が、生きている人への興味であるように、フランス人の、人間観というのがその背景にありそうだ。人は生きるものだし、愛するものだというような。それがまず第一なら第二のことは、なんとかすればいい、というような。
 個人的に本書で、些細といえば些細なんだけど、わーおと思ったことがある。フランス語には愛情表現が多いという事例に、comlicitéがあげられ、「親密さをあらわす共犯意識」という括弧注があるが、この記述、同語の英語をめぐるイヴァンカさん発言の騒動の前に書かれているんだよね。わーお、と思ったのである。ちなみに、caresses(愛撫)についても並んで書かれている。この言葉、哲学者ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)の講演集にも印象的にで出てきた言葉だったので、いろいろ思うことはあった。
 そして本書に曰く、「フランスの男性は、こうした言葉を積極的に口にして愛情を表現してくれる。日本の男性は、その点、消極的だから、フランス人のほうがロマンチックに見えるのだろう」と。まあ、全体的に言えば、そうなんだけど、comlicitéやcaressesという言葉や、そしてジャン=リュック・ナンシーの哲学などを背景的に想起すると、ちょっとロマンチックというだけではない感覚がこうした本書の話からじわっと伝わってくる。
 この引用には括弧でこう続く。「夫は、今ではフランス人のように愛情を表現してくれるようになった。これも慣れの問題なのかもしれない」。日本語的にいうなら、「ごちそうさまでした」でもあるが、慣れというよりは、ある感覚の変容の問題なのだろう。
 そしてこの感覚の変容は、愛の表現という言葉(parole)で現れる。ナンシーはバタイユを考察した『無為の共同体』(参照)で、私の理解が間違っていなければ、バタイユ的な歓喜が言葉を介して、コミュニケーションとなり、それがécriture(書き言葉)によって共同体に応じるときに市民社会の意義を見出している。共同体は線となり、ナンシーは「接吻を貫きそれらを分割する一条の線なしには、接吻それ自体に希望はないし、共同体は廃棄されてしまう」として共同体との関連を考察する。
 ナンシーのむずかしくも見える哲学に話題を接続したいわけではないが、おそらくこれは、ひとつの感覚なのだろう。本書のような軽い文化差エッセイに見える背景に、愛と共同体を問い直す、ある独自の感覚があり、おそらくそれは日本人にとっては、チャレンジングな意味あいも持ちうるのだろうと、思う。


 

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2017.12.17

[書評] DNAの98%は謎(小林武彦)

 ネットの世界では非科学的な人をあざ笑うことを趣味とする人が少なくない。そうしてあざ笑う側の人は自身は確固たる科学的知識の場に立っているのだという自負があるのだろう。私はというと、それはつまらないなと思うのである。現代の先進国の市民なら、市民生活に必要でかつ義務教育で補われるべき基本的な科学知識くらいは覚えておく必要があるし、水に伝言なんかできないことをも当然その過程で知っておくべきだが、現代人として科学知識に触れる醍醐味は、科学にはまだまだわからないことが多いのだ、ということから、宇宙と生命に対してある種の畏敬感を持つことではないか。というわけで、私は、私の知らない科学領域の話に関心を持つ。

 例えば遺伝子についてだ。人間は神様が作ったものではなく遺伝子情報でできたものだから、遺伝子が解明できれば人間のすべて(人間を構成するたんぱく質の形成情報)がわかる、と期待されていた。それで遺伝子の解明として、その全情報の解明としてゲノム解析が熱心に行われ、終了した。そして何がわかったのか。いろいろなことがわかった。
 人間を構成するたんぱく質を作るための遺伝子数は2万2000個ほど。他方、アニサキスのような線虫の遺伝子数は1万9000個。それほどは変わらない、ということがわかった。チンパンジーとヒトだと差は1%か2%ほどだということもわかった。そのわずかな差が重要である!としたいところだが、どうも話はそんなに単純ではない。
 そもそもゲノムのなかでたんぱく質の構成に関わる情報は2%ほどである。つまり、生命の設計図情報はゲノムの2%ほどで、残る98%はそうした情報を持たないゴミだった。科学による偉大な発見である。実際、ゲノム解析では、ここは解析不要としてゴミ扱いされてきた。
 でもそもそも、なんでゲノムにそんなに多くのゴミ(たんぱく質の構成に使用されない遺伝子情報)があるのか?
 生物の進化の過程では、重要な機能はもたないのに残る盲腸のような器官がある。だとしても、98%ものゴミが残っているというは不思議な話ではないか。
 ということで研究を進めていくと、ゴミと思われていた98%にいろいろな機能がありそうだ、というのがわかってきた。それがこの本『DNAの98%は謎(小林武彦)』(参照)のテーマである。今まで未知であったことが解明されつつある実況中継的な書籍にもなっていて、こういう側面に触れると科学は面白い。
 たんぱく質の構成に使用されない98%もの「非コードDNA領域」だが、そのうち約40%がレトロトランスポゾンだった。動く遺伝子トランスポゾンの一種である。いろんなところから入ってきた遺伝子がゴミのようにゲノムに溜まっていた。これは逆に言えば、動く遺伝子が多いならそれらを勝手にさせないようにしっかりゴミとして扱って、有益な遺伝子に影響しないように眠らせておく仕組みである。
 この他、「非コードDNA領域」は遺伝子の発現のあり方にも作用する。これは進化の速度にも関係してくるらしい。こうした仕組みの解明の最前線が本書で扱われている。面白くないわけがない。
 挿話的な話も面白い。胎盤はレトロトランスポゾンの挿入で偶然できたというのも、へえと思った。もっと進化上の必然のようになってできたのではないかと思っていたからだ。また、脳の進化にも巨大なイントロン(これもゴミ)が必要だったのではないかとの話がある。このあたりに類人猿とヒトとの差もありそうだ。さらに、寿命にもこれらの未解明の仕組みの関与がありそうだ。遺伝子はただ単純な暗号というわけでもなかったようなのだ。
 さて本書を一般書籍として見たとき特徴がある。あとがきにも触れられていたが、遺伝子学の用語についても新しいものを使っているとのことだ。最新の科学の一般向け書籍を読んでいくことで現代という時代の語感にも触れることができる。


 

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2017.12.16

[書評] 狂うひと(梯久美子)

 文学作品の評価については評者によってさまざまだが、日本の戦後文学の傑作を仮に10個あげるとすれば、島尾敏夫『死の棘』(参照)は必ず入るだろう。あるいは5個に絞っても入るかもしれない。私の評価を言えば、第1位である。もっとも優れた戦後文学作品である。あるいは、あった。

 何が素晴らしいのかというのを一言で言うのは本格的な文学作品の場合、難しいかあるいは意味がない。人間の真実を描き出すということに尽きるからだ。『死の棘』は人間男女の関わりの、ある究極的な姿を描き出している。それは誰もがいずれにしても男女関係のなかに置かれ、ふとその関係の極限を想起したときに、その想像力の彼岸に薄ぼんやりと見える、どこかしら血みどろな光景である。男女の愛はそのとば口はどれほどロマンチックであっても関係性の本質として美しいものではない。
 『死の棘』とはどのような作品か。単純にその仕組みを言うなら、夫の浮気に妻が狂気に至る物語である。夫が浮気して妻が逆上し、刃傷沙汰になる、発狂する、というのは、それほど不思議なことはない。ありふれた情景だろう。ゆえに人はそのあたりの極限の手前になんとなくの目星をつけて、浮気もほどほどにしたり、あるいは夫婦の関係を終わりにしたりする。しかしその極限を押し詰めたらどうなるのだろう。
 極限とは何か? 妻の狂気にとことん付き合うことである。なぜ? それが夫婦の愛の本質だからと言いたいところだが、もはやそこはなんだかわからない。理性を超えている。そうして愛がもたらす狂気のなかにただ流されているとき、人は愛のなかに生きていると感じるだろうし、おそらく生の意識というものはそういう矛盾した愛の直観を本質に伴っているのだろう。人が自分は生きているのだという確信は、そういうエロスの地獄の認識を経るのだろう。
 『死の棘』では浮気して責められる夫がひたすら従順に妻の狂気に向き合い、付き合う。そしてその泥のような生活にどこにも出口がない。延々と地獄のような描写が続き、最後に夫婦ともども精神病院に入る。救いなど、どこにもない。いや、少し言い過ぎかもしれない。この地獄の様相は、この小説を超えて二人の精神を究極的には救い出すことになる。狂気というものを近現代は精神医学の対象としてしまったが、この文学作品はそれらを超えうる文学の本源的な力というものの証言にもなっている。
 『死の棘』は夫・島尾敏雄の実話である。この地獄は実際に起きたことである。そこには、愛の本質をこの世界に押し出すために、島尾敏夫と島尾ミホという特殊な男女をあたかも神が選び出したかのようだ。当然、この小説に魅了された読者は、小説の文学的な評価を超えて、作品が描き切らなかった部分にも関心を寄せることになる。ごくありきたりな例でいうなら、島尾敏雄の浮気の相手はどのような女性だったのか、など。そうした下衆とも言えそうな関心はやみがたいものだし、意外とそうした下衆な関心の経路が文学の新しい意味を炙り出したりすることもある。
 本書『狂う人』(参照)はとりあえず、まさにそれである。本書の副題には『「死の棘」の妻・ミホ』とあるように、妻・ミホに視点を置いている。島尾ミホとは現実にはどのような人だったのか、そこが本書の基軸になっている。そこから文学の裏側のリアルに接近しようとする。
 話が個人的な思いに堕するが、私は、彼女(ミホ)は、本来的な意味で、いわゆる現世的な個別宗教ではなく、巫女だったのだろうと思っていた。しかも琉球弧という日本と関わりを持ちながら、ゆえに異質でより日本の精神性に根源的であった文化が生み出した神の女だったのだったと。神が人を愛するとき、その背景にある愛ゆえの狂気と怒りというものが、彼女を経て表出しやすかったのではないだろうか。そして、夫・敏雄もそうした妻・ミホの巫女的な本質への直観があっただろう……と。評論家吉本隆明はのちに結婚する和子とともに島尾夫妻を訪問しているが、和子も島尾文学のファンだったようだ。吉本の結婚(略奪婚)の隠れた情念は『死の棘』に通底するものがあっただろう。実は、本書を読みながらそこにある苦い思いがわいてきた。
 本題、『死の棘』をめぐる島尾夫妻の評伝ともいえる本書だが、驚愕に尽きる。よく書けた評伝だなあといったものでは済まない。なるほど、島尾の浮気相手はこういう女性だったのか、ふむふむといった話では終わらないのである。叫びたくなるような、のどがつまるような、驚愕に満ちている。
 まず、序章に描かれているミホの視点による『死の棘』の構想についても驚いた。そもそもその可能性に気が付かなかったことに迂闊さを覚えた。SHOWTIMEドラマ『アフェア』ではないが、恋愛・情事というのは、多様な視点で語られうるものである。究極的に愛憎の関係に閉じるために、およそ客観などはありえない。ミホがあの物語を別の視点から構成することはありうる。
 何よりたまげたのは、どうやら『死の棘』の愛憎劇は、敏雄による仕込みだった可能性が濃いことの指摘である。島尾は浮気の記録をあえてミホに見せたのだろう。そしてミホが狂気に陥り、自身を「審判」するのを期待していたのだろう。
 絶句。変態じゃないのかそれ。と、私は思った。誰もが歪んだ性癖を持ちうるものだし、サドでもマゾでも3Pでも市民社会に接してこなれば各人自由にすればいいとは思うが、自分が最高傑作だと思う文学の真相が変態心理というのは、ちょっとどう受け取っていいのか、呆れて笑ってしまった。しかも一度そう考えてしまうと、気迫こもる『死の棘』の陰惨な夫婦の糾問がSMプレーにしか感じられない。まあ、狂っているとしか言いようがない。文学者というのはここまでいかれた人なんだろうか。それが才能というものだろうか。
 この呆然とした感じは、先に触れたミホ=巫女にも関連してくる。本書は、実際のところかなり優れた批評作品になっていて、ミホ=巫女という視点が吉本隆明らの創作ではないかということも臭わせている。私は吉本隆明の文学批評に馴染みすぎていたのだ。
 本書を読み終えて、では『死の棘』の評価は変わったかというと、少し落ち着くとそれほど変わらない。気迫こもる狂気の対話が、滑稽なSMプレーにも思えてくるが、たとえそうであっても、恋愛とエロスの狂気というものの本質は揺るがない。私たちの真摯な恋愛もまた滑稽なものでもありうる。
 結局どうなのか。本書を読み終えて、そして新しく現れる『死の棘』をどうとらえるのか。率直に言えば、私が男だからというのもあるだろうが、女というものはこういう巨大な精神的な存在なのだ、ということだ。率直すぎて誤解されやすし、女性への偏見のように受け止められるかもしれないが、私が思うのは畏敬に近い。真理の世界というものがあるなら、女の本質に巻き込まれていく以外ないのではないか、そんな思いである。
 それにしても、すごい評論を読んじゃったなあというのと、評論というのは、こうした労働というか手間暇かけて創作されるものだなという賞賛の思いも新たにした。



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2017.12.15

[書評] 「福沢諭吉」とは誰か(平山洋)

 書名『「福沢諭吉」とは誰か』(参照)が意味するのは、本書にも書かれているように、「第二次世界大戦の終結以来議論されてきた、福沢の本質は市民的自由主義者なのか、それとも侵略的絶対主義者なのか」という択一を問う意味合いがある。現代のネット的な用語で単純化すれば、福沢諭吉は、①市民主義のリベラル、あるいは、②ネット右翼のような侵略主義者、そのいずれかかということである。

 こうした昨今のネット風の単純化は愚かしいかのように思えるが、本書第4章「福沢諭吉と慰安婦」を読むと、あながち笑えないものがある。この短い挿話的とも見える章では、まさに福沢諭吉の思想が従軍慰安婦問題と関連付けられる論調への駁論となっているからだ。そもそもそんな議論が必要なのかすら疑問に思える人もいるだろうが、その関連付ける議論の一方は安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』(参照)に依拠している。しいていうならこの安川の書籍が今日のいわゆる「福沢諭吉問題」の根となっている。そして本書書名の択一の問いかけも、つまるところ、安川の福沢諭吉像(あえて簡略化すればネット右翼的な像とも言える)の反駁というモチーフがあると言っていい。そのため、本書の読者は、安川の前述書が既読であることが好ましいし、それを読めば、いわゆる左翼的リベラルが一万円札から福沢諭吉の肖像を除去しようと運動していることも理解できるだろう。いわゆる「福沢諭吉問題」の象徴的な表出である。
 少し迂回するが、安川のモチーフは、見方にもよるだろうが、二段構えになっている。一つは、単純に福沢諭吉という思想家の右翼的・アジア蔑視・侵略的な側面の評価であり、他面では、福沢諭吉がモダにストとして市民主義者の原型であるとした丸山真男への批判である。後者については、安川の『福沢諭吉と丸山眞男』(参照)が詳しい。なお、2003年に出版された同書は昨年増補改訂版として出版されている。一万円札批判関連の運動などの高まりが背景にあると見てもよいかもしれない。
 ここで本書の著者平山に視点を戻すと、平山が安川との対立的な構図のなかに置かれるようになったのは、平山による文春新書『福沢諭吉の真実』(参照)がきっかけになっている。同書は2004年の出版当時話題になったので既読の人も多いだろう。本書は一見すると福沢諭吉全集の編集問題を扱った、いわば文献学の地味な種類の書籍ように見えるが、その全集を批判的に見直すと、福沢諭吉の作品とされてきた文書が必ずしも福沢本人に帰属しないことが示唆されていた。そしてここからが「福沢諭吉問題」との関連になるが、概ねではあるが、安川が批判したような右翼的な福沢像の論拠となる文書がどうやら福沢本人のものではない可能性が出てきた。
 問題はここから錯綜し始める。福沢諭吉全集に含まれている右翼的な福沢像がすべて福沢諭吉本人のものでないなら話は単純である。だが、そこの切り分けはそう簡単にはいかない。そしてその切り分けの難しい地点に「脱亜論」が存在する。研究者によっては、この脱亜論は福沢自身によるものではないとする見解があったが、本書で指摘されているように、現在では「脱亜論」は福沢本人の執筆であると見てよい。すると、やはり安川の論点は基礎を持つといえるだろうか。
 この議論については先の新書の第五章「何が『脱亜論』を有名にしたのか」で言及されているが、本書第三章「福沢諭吉の『脱亜論』と<アジア蔑視>観」は同じ基調でありながら原典を参照した補論となっている。この議論を今回も読み返した私の印象では、平山の考えが整合的であると思われるし、安川の議論はイデオロギーが突出しすぎて文献学的な基礎が弱いように思われる。ただし、福沢諭吉のこの面での思想評価は存外に難しいだろうとも思う。
 本書の構成に戻る。本書は書名から予想されるように、安川の福沢像の反駁論の基軸を持ちながらも、実際には、まとまった書籍というより、平山の、いくつかの多面的な福沢論考集を合本にしたものであり(そのため章はキンドル用電子書籍としても販売されている)、第一章の福沢諭吉の祖先探索などは、こういう言うとなんだが、今日的な意味合いはほとんどないだろう。また第五章の大西祝との対比も、挿話的な印象を受ける。
 さて、本書の今日的な話題、福沢諭吉問題とも言えるものは、丸山眞男との関連もありイデオロギー的に興味深いとも言えるが、一歴史愛好家の私としては、本書第二章「『西洋事情』の衝撃と日本人」がより興味深いものだった。驚いたと言っていい。近代日本観が変わった。雑駁に一言で言っていいものかためらうが、私の印象では、明治維新政府というか近代日本のグランドデザインを決定したのは、福沢諭吉の『西洋事情』であったのかという驚愕である。従来私は、『西洋事情』という書籍は当時の西洋に関心をもつ日本人に西洋の基本情報を与えた情報書くらいにしか理解していなかった。が、本章を読み進めると、そんな参照レベルではないようすが察せられる。莫大な影響力がありそうだ。ただし、歴史学的に見るなら、この部分の考察はまだかなり粗い。
 それにしても、これから一万円札を見るたびに、その金銭的な価値だけではなく、「おお、福沢先生!」と敬意を表したくなる気持ちに駆られるだろう。

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2017.12.14

[書評] フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(香山リカ・北原みのり)

 フェミニズムあるいはフェミニストについてということかもしれないが、いつもぼんやりとだが思うことがある。私が何か「彼女」と議論をすることがあるとすれば、それは最後に私がフェミニストの敵として糾弾されて終わるのだろうというある確信である。私は女性の敵なのだろうし、私は原罪のようにそうなっているのではないか。つまりその理由は私が男であるからなのではないか。あるいは、何かクレドーを希うべきだろう。

 ここで私は自分自身何を言いたいのかわからなくなる。「私は男として常に女性から罪人として糾弾されるに違いない」という奇妙な確信のようなものは何に由来するのだろうか。そして、それがどこかしら後ろめたく、ゆえに表面的に女性に迎合するような主張や行動をしているに違いない、となんとなく思う。そこから先、私は密かに、私はしかし「男」だろうか?と自問する。
 現実はどうか。現実としては、フェミニズムやフェミニストと議論したことはないし、糾弾されたことはない。ただ、私はしばしば右翼ないしネットウヨ、あるいは体制側の代弁者としては非難されるので、その延長はきっとあるに違いないとは思っている。これに対して、私はもうやぶれかぶれのような心情でいる。吐露するのだが、今年私は、日本国憲法9条は不要だと考えるようになった。それは国際法に内包されているからで、この条項があるのは、日本に主権がなく国連に加盟にできなかったかった経緯によるからだけではないかと考えるようになったからだ。しかし、おそらく「9条は不要」というだけで、ある一群の人の逆鱗に触れることになるだろう。
 そういう意味あいで、私がフェミニズムに対して「逆鱗」となる何かを持っているに違いないとも思うのだが、自分ではわからない。そのわからなさ自体が「逆鱗」に近いのだろうという予感だけはある。
 「私は男だろうか?」については、今年いろいろ思うことがあった。私の内部に強烈に「男である」という意識があるかというとある。振り返って思うのは、若い日のことだが三角関係に置かれたときだ。私はただ「女を男から奪う」というだけの妄念に取り憑かれたものだった。他方、自分は若い頃よく同性愛者と思われていた。女性からも男性からもそうだった。誇っているかのように聞こえるのは気恥ずかしいのだが若い頃の相貌にその要素があったかもしれない。今だから言えるが、男性から二度ほど襲われそうになったことがある。幸いレイプには至らなかった。というか、一人の「彼」は私からの拒絶に驚愕して極度の自己嫌悪に陥った。もう一人の「彼」についてはもう少し複雑である。ただ、自分なりにではあるが、レイプというものがどういうものかという直感は持つようになった。
 そうした「原罪」や自分の内面の女性性についてはどうかというと、奇妙な自覚のようなものはある。いわゆる女装はしないが、私の趣味は基本的に一般的な女性が有する趣味に近い(最近は香りでハンドクリームを選んでいた)。私はしばしば気がつくと女性だけのカフェに一人いることがある(女性を求めてではない)。老人男性がそんなところにいるのは気恥ずかしいとも思うし、自分の趣味がたまたまそうなのだからしかたないじゃないかという意識の交点にある。もっとも最近私はコメダをよく利用する。単に喫茶店の趣味がないだけかもしれない。
 さて、私は何を語ろうとしているのだろうか。一つには、「私をフェミニズムの視点から糾弾しないでくれ」という命乞いのような心理だろう。私は、本書『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(香山リカ・北原みのり)』(参照)を読みながら、ある違和感を持ち、さて、その違和感のようなものをブログに語っていいものだろうかと戸惑っているからだ。しかし、だからこそ少し書いてみたい。最初に断っておきたいのだが、私は本書を批判したいとはまるで思わない。
 そして最初に告白しなければならないのは、私がこの対談書がさっぱりわからなかったということだ。もちろん、個別の話題はわかるし、対談者である二人の意見の差異も、あたかも高校の現代国語のテストのようにおそらく読み取ることはできる。だが、根幹のところでわからない。本書で話題とされている話題がなぜ話題なのか、そこが根の部分でわからないのである。
 本書の対談のテーマもぼんやりとしかわからない。ただ、副題にあるように『「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』というのことは、対談の基軸であるだろうと了解する。そこでは、「性の商品化」として見えるものが、女性からは自己決定権なら是とされてよいのかという課題と、同じく「性の商品化」として見えるものが、「表現の自由」であれば是とされてよいのか、という課題だろう。
 仮にであるがそれについて自分がどう思うかというのを先に述べておくと、自己決定権から女性性を自身が商品化するということは、そもそも自由主義の国家なら規制できないだろうし、規制できなければ、それがもたらしうる危険性へのセイフティを用意することだけではないかと思う。ただ、率先して性の商品化を開放する市場への規制をなくせとも思わない。私はコミュニタリアンではないが、社会価値に伝統性があると多数に意識されていることは理解できる。そしてもう一つ思うのは、性の商品化は女性に限られたことではないだろうということだ。この点については、私の読み落としでなければ本書の対談で問題意識は見かけなかったように思う。
 表現の自由との関連でいえば、私はこれはレイティングの問題だろうと考える。社会は、これはコミュニタリアンとしての考えではないが、単純に未成年やある精神傾向の人々を精神的に保護する社会的な利得があることから、レイティングが必要になる。本書の「はじめに」で北原がコンビニで販売されているエロ本について、「公共空間でこれほどの女のモノ化が商売になっている現実は、この国が自由であることの証しなのか、それとも性差別の証しなのか」と問うているが、私はこれについては、レイティングの問題であり、背景には性差別の意識があるだろうが、市民がレイティング規制を議論してルール形成していけばいいだろう、くらいに考えている。もっと個人的に言うなら、レイティングの問題としてもあれはよくないなとは感じる(私にとって美しくないから)。
 ここで「女性のモノ化」という概念が出て来る。本書は対談であるが、大きな対立する思想の対談という形にはなっていない。二者は「女性のモノ化」を批判している。では私はこれについてどう考えるのか。
 私は、女性と限らず男性も性幻想のなかであえてモノ化的な自己疎外を行うものだろうと考えている。性幻想そのものにモノ化が離れがたく結びついているのだろうとも思う。これが男性の場合は女性生殖器というモノに局在される傾向があり、女性の場合は美形相貌に局在される傾向があるということで、基本的に傾向の問題であり、この傾向の偏差に異常的に見られるものもあるだろう、というくらいである。本書では『「モノ化」される喜びは奴隷の最終形態』という項目がある。私の理解ではこの問題意識は対談のなかで掘り下げられていない。該当箇所は「モノ化」される話題が「暴力の受容」に結合され、暴力はいけないということから逆に「モノ化」批判が合理化されるような理路になっている。私がここで思うのは、『Oの物語』のジャン・ポーランの序文を彼女たちはどう読むか、またドミニク・オーリー(Anne Desclos, alas Dominique Aury)のインタビュー(残念ながら書籍化されていないのでレファレンスがあげられない。探せば仏文があるはず)をどう読むか。
 ただ、そこで本書と自分の思いのもう少し先の違和感が生じている。それは『女性にとって「性」と人格は切り離せない』というテーマに関連している。「女性はいくら性と人格を切り離そうとしても人格の欠片みたいな、性行為をしている時に付随している人格的なものが絶対にあるわけです」と香山は語る。やはりわかるようでわからない。単純な話としては、男性は性と人格を切り離しているかというと、そういう人が傾向として多いというくらいで、本質的な男性と女性の差異はないと私は思う。もうひとつ思うのは、ここで言われる「人格」がわからない。Personalityというのであればわからないではないが、であればそれは基本的に傾向としてしか捉えられないものではないだろうか。逆にいえば、性行為のなかでどのような倒錯的な幻想を持っていても、社会的な人格と分離して社会が扱えるがゆえに「人格」が成立するのではないだろうか。
 さて、こうして述べてみると結果的に批判のようなトーンになっているのを自覚はする。ただ、うまく弁解できないのだが、繰り返すが批判の意図はない。基本的に二人が何を議論しているのか私にはわからないというだけのことであり、そのわからなさはおそくら私の「男性性」に帰着させられ私がそこで批判されるのだろうなという予感があることだけだ。
 もう一つ「さて」として、些細なことかもしれないが、文学的な感覚としての接点を述べて終わりにしてみたい。雑談ではあるだろうし(深い意味がないだろう)、私も村上春樹をファン心情で支持したいという意図でないのだが、これはどうだろうかと思った。『村上春樹作品と都合のよい妻』の部分である。

北原 村上さんの描く女性って、リアリティがないから。いねぇよ、そんな女!というような女ばかりでです。
香山 誰かと話していた時に、村上春樹は『ノルウェイの森』以降は読んでいないと。理由は、「男に都合のいい女ばかりが出てくるから」って(笑)。

 できるだけ慎ましく言いたいのだが、北原は『スプートニクの恋人』のミュウについても「いねぇよ、そんな女!」とするだろうか。香山はもし編集者が『海辺のカフカ』を読んでみてはどうですかと仮に提案したとき、読む必要はないとするだろうか。
 文学の例でいうなら、マーガレット・アトウッドの『またの名をグレイス』をどう捉えるだろうか。Netflixの映像化作品でもよいのだが、そこで描かれるグレイス・マークスを二人はどのように受け止めるだろうか。

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2017.12.13

[書評] 職業としての地下アイドル(姫乃たま)

 『職業としての地下アイドル』(参照)という書名がマックス・ウェーバーの主著のもじりであることはさておき、「地下アイドル」とは何か、という関心が、それを知らない人にとってこの書名でまず関心をひくところだろう。「そんなことも知らないの?」という人でなければ、「地下出版」「地下教会」というように「当局から弾圧される文化活動としてのアイドル」を連想するかもしれない。が、そうではない。

 本書冒頭に定義は書かれているが、いわゆるメディアに出てくる芸能人アイドルが仮想の対比としての「地上アイドル」であり、そうしたメディア的な世界から離れ、小規模のライブ活動をしているのが「地下アイドル」である。メジャー・デビューを夢見ているアイドル活動と言ってもいいかもしれないし、実際本書を読むとそういう過程として「地下アイドル」が位置づけられ意識されている事例も多いこともわかる。
 他方、「地下アイドル」について知っているという人でも、それ自体の関心より社会的関心として、通称「小金井ストーカー殺人未遂事件」をまず連想する人もいるだろう。2016年5月、小金井市で「芸能活動」をしていた当時20歳の女性大学生がライブで刺殺されかける事件があった。私も本書を読む前にこの事件を連想し、その背景にある社会現象に本書は答えるものになっているだろうかという期待を持った。その期待に、本書は答えている。まず、その視点から本書が読まれてもよいだろと思えるほどである。
 あの事件と「地下アイドル」はどのような関連にあったか。当時すでに文筆活動もしている著者姫乃にマスメディアからコメントが求められた。そこで姫乃は、①小金井事件の女性は「地下アイドル」ではないこと(女優活動などもしていた)、②アイドルのファンはけして危険ではないこと、を熱心に答えた。マスメディアとしては、アイドルのファンが潜在的に危険だというストーリーを求めていたことが逆にそこからわかる。
 ではあらためて、「地下アイドル」とは何か。そこをある種、現代という社会の視点から明らかにしようとしたのが本書である。著者は十分に社会学的とは言えないまでも、自分の周りにいる実際の地下アイドルとそのファン、それぞれ100名ほどのアンケート調査を実施して実態に迫ろうとしている。このアンケートの枠組みからわかるように、地下アイドルとそのアイドル・ファンは一つの社会現象として見ることができる。
 肝心のそこをどう読み取るか。著者姫乃の基調は、地下アイドルはいわゆるアイドルよりも普通の女の子(一般の若者)であるとしている点だ。その意味でアンケートから浮かび上がる地下アイドルのプロファイルは普通の女の子とあまり差はなく、むしろ芸能アイドルとの差のほうが強いかもしれない。「地下アイドル」とは何かという問いかけがそれ自体の特性として規定されないということは興味深い。
 そこで、少し私の勇み足の読みになるが、普通の女の子と地下アイドルの差は、そのアイドル・ファンによるものだ(操作概念)としていいだろう。あえて言うなら、アイドル・ファンの心情やニーズが普通の女の子を地下アイドルとして現象させている。
 地下アイドルのファンとはどのようなものだろうか。通常のアイドルと違うのだろうか。その差については私は読み取れないが、本書で描かれる地下アイドルのファンは興味深い。
 現実の地下アイドル・ファンにしてみれば自明のことだろうが、地上への志向を持つ地下アイドルが、実際に地上に出る際には、ファンであることを卒業してしまうらしい。ある意味、マイナーな状態で地下アイドルを支えているのが、彼らの行動の動機であり喜びだと言っていいだろう。年齢層は30代半ばが多いようだ(ファン活動は意外に費用がかかるせいもある)。そして、彼らはアイドルと自身の小さな世界での承認関係それ自体を当然求めるとして、さらにファン同士のホモソーシャルな関係にも充足を得ている。しいてそこだけ強調するなら、地下アイドルは、ホモソーシャルな親密性の道具である。漱石の「こころ」でいうなら、「先生」とKは「お嬢さんという地下アイドル」のファンだった。
 愚劣な比喩のようだが、「こころ」がホモソーシャルの潜在的な臨界を明らかにしたように、おそらく「地下アイドル」とそのファンの間にも潜在的な臨界点は秘められているだろう。しかしそれは通常想定されるような恋愛による破綻でもストカー的な心理でもなく、まさにホモソーシャルという幻想性の了解破綻だろう。「こころ」の比喩で言うなら、何も語らない「お嬢さん」が仮にであれ自身の性幻想を明らかにするときだろう。比喩から戻るなら、地下アイドルは自身の恋愛心理(そして性幻想も)を語ることが禁止されている。
 著者姫乃はその破綻のポイントを悲劇ではなく「卒業」として明るく捉えている。おそらくアイドル・ファンもその虚構の世界の「卒業」を了解しているだろうし、私の推測でいうなら、30代男性はすでに20代にあるリアルな恋愛幻想を「卒業」していただろう。アイドルのファンは未熟なのではなく、性幻想の一つの成熟した形なのだろう。
 「地下アイドル」の年齢は現状、20代前半程度。そのファンの年齢は30代。それがそのままあと10年間、平穏に「卒業」をそのシステムに組み込んでいけるのだろうか。そうであってほしいようにも思う。
 さて、私は姫乃とは違ったルートで地下アイドルに近い一群の人々を知っている。正確にいえば、地下アイドル予備軍とでもいう人々である。あまり書きたいとは思わない。また、その実態に社会的な問題があるというわけではないし、概ね本書の姫乃の視点と重なってはいる。ただし、微妙に違う点も感じている。姫乃のいう「一般の人」は自然に現在の教育システムから安定的に排除されているように思えることだ。

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2017.12.12

[書評] コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生 (岡本和明・辻堂真理)

 具体名を出すと批判かと不用意に誤解されかねないのでぼかすが、以前、若い学者さんの、昭和後期の歴史についてのある大著を読んだとき、論旨も通っていて参考文献もしっかり読み込まれているにも関わらず、あの時代の空気というものが感じられないものだなと奇妙に思ったことがあった。もう少し延長してみると、語弊があるが、東京オリンピック前の東京の風景の生活感を知らない人には、なにかある感覚の欠落があるようにも思う。もっとも、その時代を生きてきた人がトンチンカンな過去の映画を作ったりもするので、同時代感覚があれば歴史がきちんと捉えられるものでもないことはわかる。と、ここで言葉につまって息継ぎをして思うのだが、少なくとも学術的な文献に向き合っていては見落とされがちな、それでいて決定的な庶民史の感覚というのを掘り出すことは難しい。

 つまり、そういうことなのだ。『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生 (岡本和明・辻堂真理)』(参照)を手にしたとき、「ああ、これだ」と思ったのである。中岡俊哉、その名前を見ただけで、ある種、胸いっぱいになるものがある。あの時代の空気そのものがこの人の顔を添えて動いていた。スモーキーグラスのあのしぶい顔である。
 中岡俊哉を説明することは難しくない。本書帯にもあるが、本書を一文で言えば、「驚愕のオカルト評伝、ここに降臨!」である。そのとおり。もちろん、それが洒落であることはわかる。「降臨」というのは、書名にもなっている「コックリさん」の暗示である。コックリさんがなんであるかは、漫画文化史を通して現代の若い人にもそれなりに伝わっている。他方、伝わりにくいのは、「驚愕のオカルト評伝」の含みだろう。オカルトが驚愕なのではない。中岡俊哉という人の実人生が驚愕であり、そのほぼ正確な評伝が読めるということから、昭和後期の歴史がくっきりと見えだすことが驚愕なのである。
 中岡俊哉は、これも帯にあるように「スプーン曲げ、心霊写真、透視予知、そしてコックリさん――すべてはこの男の仕掛けだった!」とあるように、昭和50年代、民放テレビを熱狂させたスプーン曲げやオカルトブームを仕掛けたのは中岡俊哉であったと言えるだろう。小林秀雄も興味深く見守ったユリゲラーの「奇跡」は1974年。17歳の私もテレビを食いいるように見ていた。さすがにテレビの前に壊れた時計は置かなかったが(壊れた時計はなかったかもしれない)、それと別の類似の番組だったかもしれないが、ジェリー藤尾が興奮しまくっていた姿を鮮明に覚えている(そこまでいけちゃうものかあと思っていた)。
 自分の年齢から逆算してみると、当時小学生くらいの年齢であの番組を見ていたのは今の50歳以上ということになるだろう。中岡の仕掛けたオカルトブームはその後も長く続くのでその部分で現在の40代でも多少あの時代空気に重なる人はいるかもしれない。いずれにせよ、中岡俊哉の名前だけでその評伝を手に取りたく思う世代は、私よりも年長になるだろう。そのことが少しもったいなくも思う。本書は歴史の空気というのものを伝える好著であるから、広い世代に読まれるとよいだろう。
 手に取った評伝にして私は読書前に何を期待していたのか。私としては、中岡がテレビの裏でベロを出している姿である。オカルトなど何にも信じていないのに、ブームだけを引き起こしたニヒルで知的で屈曲した実像といったものであった。が、そこは見事に裏切られた。裏切られて当然だろうとも思っていたが、実際に描かれていたのは、オカルトや心霊現象に真摯に向き合っていた中岡俊哉という奇妙な人だった。そしてその「真摯さ」というのは、昭和のあの年代の人々の特徴的な資質でもあった。追い詰められた心理というのでもないが、与えられた仕事を何が何でもこなすという気迫である。そう思って今更ながらに気がついたのだが、中岡は私と父と同じ生年、大正15年であった。同年に植木等がいる。彼はそうした真摯さと正反対のような芸風であり、その部分だけが文化史的に継承されてしまったが、あのスチャラカさは真摯さの暗喩でもあり、彼もまた真摯極まる人だった。
 中岡のこの評伝には、私の理解では3つの側面があると思う。彼に心霊現象を追求させた時代背景。そこには満州に希望をもって渡った青年と戦後も中国に残ってその地に半ば同化した男である。それでいて逡巡の果、1958年に現地で生まれた子供を連れて帰国した。本書の著者の一人、岡本和明は中岡の実子である。本書にも書かれているが、岡本は実子でありながら父の仕事の人生についてはそれほどは知らなかったらしいことも興味深い。ちなみに、中岡敏夫の本名は岡本俊雄である。
 二つ目の側面は、まさに中岡が民法メディアを掻き回したと言っていいかもしれない、あのブームの歴史である。学術的には語られにくい実際の庶民史であり、私のようにあの時代に記憶を持つ人にとっては、所々で懐かしい思いがこみ上げてくる。
 三つ目は、そのブームの衰退である。本書を読みながら意外に思えた部分である。私は、彼の仕掛けたブームは早々に過ぎ去ったのだと思っていた。が振り返ってみると、私は大学に入って以降、次第に民放番組そのものを見なくなっていたし、米国初のニューエイジ運動には関心を持っていたが、日本のオカルトブームには関心を失っていただけだった。本書を読むと、中岡の特に著作者としての活躍は1984年にピークを迎えるとあって、少し不思議な感じすらした。いずれにせよ、中岡が引き起こしたブームは一過性ではなかった。
 ここで後のオム真理教事件に強い影響のあったノストラダムス予言ブームはどうだったか見直すと、本書にも指摘があるが、五島勉『ノストラダムスの大予言』は1973年の刊行のベストセラーで、そこだけ見るなら、中岡俊哉のオカルトブームと並行していた。ただ、こちらの書籍もシリーズのブームで見るなら、1980年台半ば以降も続いている。日本のノストラダムスブームと同様に、オウム真理教に影響を与えたと見られる桐山靖雄だが、その阿含宗の成立が1978年、そこに至る彼の『変身の原理-密教・その持つ秘密神通の力ー』は1971年である。これらも同時代的なブームであったと見てよいだろう。雑駁に言えば、創価学会の戦後の勢いの停滞の随伴現象のようにも思える。なおどうでもよいことだが、桐山が2016年に老衰で死んでいたのを今知った。
 中岡俊哉自身の衰退は、こうして評伝を読むと彼自身の体調不良の影響があるが、彼自身が1990年代に向かう世相のオカルト化への違和感もあったようだ。脳梗塞後も活躍され、74歳で亡くなるが、あの時代の男性としては早世というものでもないだろう。残る思いがあることが評伝から察せられるが、人生を生ききったといってよいだろう。その意味で人の一生というものの姿を描いているし、この評伝は上手にそこを伝えている。
 あと、個人的にまいどながら自分のゲス根性だと恥ずかしく思うのだが、中岡の離婚・再婚の話は気になる。1982年に中岡は糟糠の妻と離婚し、「旧知の女性」と再婚している。彼は55歳だろう。81年に有名な『ハンド・パワーの秘密』を出しているので、離婚再婚はこの時期に掛かっている。再婚相手の女性の年齢はわからないが、それなりに若い女性ではないか。仕事に忙殺されていた中岡を彼女がどう見ていたかは気になる。
 中岡が仕事一途な人であったからこそ、その恋情の情感が人生のなかでどういう彩りをなしていたのだろうか。彼の場合、隠された恋愛というものでもないが、そういう恋愛の意識の部分に人のある本質的なものが現れるものだ。オカルト・超能力といった分野に取り憑かれた人の、人の情念の根源でもある恋情と関わりは、本書で描けないのではあろうが、やはり気にかかる。

 
 

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2017.12.11

はしだのりひこさんの死に

 先日、といっていつだったか調べてみると、12月2日のことだったが、フォーク歌手のはしだのりひこさんが亡くなった。私は彼の熱烈なファンということでもないせいか、痛切な思いというほどのものは心に去来しなかったが、こうは思った。「ああ、あのぼっちゃんぼっちゃんした、はしだのりひこさんも亡くなったか、歳は72歳かあ、まあ、人が死ぬ年齢でもあるな、加藤和彦さんが亡くなったのは、2009年、62歳だったから、それよりは長生きしたが、北山修さんはもっと長生きされるだろうな……」。そして何か心に小さく暗く重く沈むものがあった。
 人は生年の順に死ぬというものでもないが、概ね、年を取るとぽつぽつと死んでいく。かく言う自分も、45歳で始めたこのブログを今60歳で書いている。わかってはいたし、幸福な60歳の誕生日ではあったが、その前後に無意識には、なんというか静かに潮が満ちてくるように恐怖のようなものはあった。今も続いている。死と老いへの恐怖には違いないが、単純に感情を惹起するものでもなく、その緩やかにたゆたうような何かに浸り、まるでタイムカプセルに閉じ込められたような情感がある。そのなにかに閉じ込められて今年の後半はブログも書けずに日々を過ごした。(が、それを突然にかち割るような強烈な生の情熱もあったりはしたが。)
 心が引きこもるをの多少なりとも妨げたのは、ネットではあっただろう。私は恥ずかしいことによくツイッターをしている。ツイ廃(ツイッター廃人)と言っていい。悪癖のようにも思うが、おかげでブログが死に絶えそうなかでもネットにつながっていられた。これもある種の老いと死への形かもしれないと苦笑するが、数少ない世界とのつながりではある。いろいろなことをツイッターを通して知る。あとは率直に言って子どもたちの交流から知る。書籍なども読むが、そのつながりにはあまり生の彩りは少ない。
 そうしたツイッターで、はしだのりひこさんの情報が流れなかったわけでもないが、あまり見かけなかった。そこに奇妙な痛みの感覚があった。ツイッター的な話題ではないのだなというのはわかる。当然、関心の幅も世代で決まるということでもあるだろう。はしださんのフォークルを知る世代は、老いた。その実時代との関係でいうなら、フォークルの解散は事実上、1968年なので、私も10歳というところだ。小学三年生だったか、ゲルマニウムラジオが完成して最初に受信したのが「帰って来たヨッパライ」だったのが強烈な思い出として残っている。つまり、少なくとも60歳以上ということになる。余談だが、先日ジョニー・アリディが74歳で亡くなったが、同年代のフランス人には大きなニュースだったようだ。
 と、ここで調べなおして記憶違いを知る。あの早回しの元声ははしだが印象的だったように思っていたのだが、この時期のこの曲にはしだは入っていなかった。後のコンサートなどでははしだをよく見かけたのでそう思い込んでいたのだろう。
 フォークルの曲を自分でも歌うようになったのは、ギターを持つようになった中学生になってからで、思い返すとはしだ作曲『何のために』もよく歌った。「何のために何を求めて傷つきつかれ年老いて死ぬのか」 というフレーズは中学生の心には響いたものの、その意味合いは今思うとまるでわかっていなかった。自分より一巡上の世代であるフォークルですら、若い心情としてしか歌ってはいなかっただろう。
 こうして記憶をたぐりながら、実際の年号との照合をしていくと、他にも錯誤というほどではないが、記憶時間とのずれのようなものは感じる。フォークル後の「はしだのりひことシューベルツ」の時代は随分長いようにも感じられたが、1968年から1970年と短く、自分の中学生時代とは重ならない。よく歌った『風』もその後のはしだの持ち歌としての記憶だったのだろう。「人は誰も人生につまずいて、人は誰も夢やぶれ振り返る」と口ずさんでみる。今でも歌えるものだなあ。そうえいば、『カラオケJOYSOUND for Nintendo Switch』も入れたので、歌ってみるかな。たぶん、曲リストにははいっているだろう。そして、今でも普通に歌えるだろう。
 同じ錯誤の部類だが、『花嫁』が出たのは、随分後のこと、私が高校生くらいのことかと思っていたが、調べてみると、1971年でまさに自分の中学生時代に重なる。思い返すとすでに『ガット』や『ヤングセンス』とかに譜が載っていた。私はこの歌が嫌いだった。この歌が嫌いで、はしだのりひこを避けるようにもなった。もちろん、その割にこの歌も全部歌える。愛唱した記憶はないが、自分が30代のころシュールな短編小説を書いていたが、この曲を使ったことがある。夜汽車に載っていく奇怪な花嫁の物語である。自分で書いておきながら、どういうストリーだったか覚えていない。
 吉田拓郎の『結婚しようよ』も嫌いだった。1972年、これはきちんと覚えている。もう吉田拓郎なんか絶対に歌うかよと当時中学生だった自分は思った。以前このブログにも書いたが『「いちご白書」をもう一度』の情感のように、結婚や就職などで社会に統合されいく青年というものが吐き気がするほど嫌いだった。その甘ったるい情感も嫌だった。もちろん、とか言う割に、カーペンターズだのオリビア・ニュートン・ジョンなどを聞いていたので、ようするに洋楽に趣味が移りだした時代でもあった。ただフォークギターを抱えていた中学生時代も、PPMのような洋物も好きではあった。そして高校生以降はユーミンのファンになっていた。
 その後のはしだのりひこには関心がなくなった。吉田拓郎もそうだ。もうしわけないが、泉谷しげるとか『春夏秋冬』以外関心ない。岡林信彦は遠くなった。中学生時代の思い出である。どうでもいい連想だが小鹿みきさんはどうされているのだろう。
 はしだのりひこさんの死因については、現代で72歳で死ぬとなると病気であろうなあとなんとなく思っていたが、今頃ニュースにあたってみると、十年前からのパーキンソン病であったとのこと。そして、今年には急性骨髄性白血病を併発したらしい。62歳からのつらい闘病だったかというのは胸に迫る。このところ寛解していい気になっているが自分も難病を抱えているし、なんとなくその手の病気を併発して死ぬような気がしている。と、いうのもネガティブなファンタジーに近いものではあるが。
 ところでこのブログ記事だが、当初、『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』の書評の枕話のつもりだったのだが、奇妙に思い出に囚われてしまった。しかし、こうしてアイロニカルではあるが、何か書いてみると、はしだのりひこさんは好きだったことに気がつく。哀悼の思いが書けてよかった。『花嫁』は依然歌う気もしないが、『何のために生まれて』と『風』は私のカラオケレパートリーに刻んでおこう。さようなら、はしださん。


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2017.12.10

[書評] PSYCHO-PASS GENESIS 1〜4(吉上亮)

 アニメの『PSYCHO-PASS(サイコパス)』が私は好きで、シリーズ1と2を通して4回は見た。というか、その世界の前史にあたる小説『PSYCHO-PASS GENESIS』(参照)の読後、1度通して見て、しみじみその深みを味わった。この小説はあくまでアニメ本体の外伝として描かれているのだが、それ自体が本体の批評的な解釈も緻密に含んでいる。本体アニメと非整合性なくさらにその本質を掘り下げてくれる。

 アニメの『PSYCHO-PASS(サイコパス)』がどのような作品かについては、Wikipediaなどにも解説があるので、まったく知らない人はそちらの情報を当たって欲しい。が、簡単に言うと、SFとして描く、世界全体が危機に陥る百年後の日本の物語だ。そこでは各日本国民の性格・才能・心理状態が「シビュラシステム」(シビュラ)と呼ばれる壮大なシステムでそれぞれ綿密に計測され、その計測値で各日本人の人生設計も国家管理される。いわばシビュラが日本に君臨する。そしてさらに、シビュラは一人ひとりの社会的な犯罪可能性をも数値化し、結果、犯罪が発生する以前に、健康管理として未然犯罪者を厚生省が法を介さずに、処刑を含めて対処するようになる。この数値が通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」である(言うまでもないが、精神病質者Psychopathの駄洒落)。対処を行うのは、厚生省の公安局刑事課で、執行官として管理される潜在犯と厚生省官吏である監視官が行う。
 アニメのシーズン1では、人間であることの意味を再び問うために、天才的かつ異常体質の槙島聖護が犯罪の創出によって、シビュラに支配される世界に対して挑戦を行うなか、彼を個人的な執念から追い詰める執行官・狡噛慎也と、シビュラ君臨世界を法の視点から批判しつつも是認せざるをえない、若い女性の監視官・常守朱の三者の相克の物語となる。
 これに、若い監視官・宜野座伸元と中年の執行官・征陸智己の物語が絡み合う。この二人の関係には深い前史が示唆されているが、本書『PSYCHO-PASS GENESIS』の1巻と2巻はその前史である征陸智己の物語となる。征陸はちょうどシビュラの君臨が始まる時代、同時にまだ警視庁が残る時代に若い刑事としてこの物語に登場する。物語の目的はなぜ刑事であった征陸が潜在犯に堕ちてしまったのかということと宜野座との関係になる。こちらの物語は、主に征陸とその上司である八尋和爾の対決の物語となる。が、物語を読み進めると、アニメ1シリーズの槙島と狡噛をなぞっているかのようにも思えるが、その関係は微妙に異なる。そのあたりがこのパートの面白さになる。
 パート1となる1と2巻の小説としての完成度は高い。個人的には荒廃し尽くした東京の地名が随所に現れて、海外SFを読むときとは違う親密感も楽しめた。
 さてこれでパート2の3巻と4巻はどうなるのだろうかと気になる。いや、すでにパート1のエピローグにやや異様な挿話があり、ぐっと心惹かれる。ここに東金美沙子が登場している。アニメのシリーズ2を見ているならすでにわかるだろう。このパートの物語を読み進めると、アニメのシリーズ2に対応している。すでに述べたことにもなるが、征陸智己の物語であるパート1はアニメのシリーズ1に対応していた。この小説構造に気がつくととても面白い。
 そしてパート1最終の、次パートへのつなぎの挿話には、もう一人なぞの女性が登場する。このなぞの女性が、できるだけスポイラーは避けるために比喩的に書くのだが、鹿矛囲桐斗と常守朱の原型になっていくところに、『PSYCHO-PASS』という世界の全貌が現れる。
 パート2はさらにパート1の前史として描かれる。世界が崩壊しはじめ、日本が孤立していく世界である。この世界は、リアルな歴史としての日本の戦前と戦後の暗喩となっていることも興味深い。作者の意図ではないだろうが比喩的に読むなら、日本人の歴史期無意識の暗部の物語というより、朝鮮人の無意識の物語にも重なっている。特に、高麗人などを連想すればその比喩への近接線がひけるだろう。
 パート2の物語は、映像的にも美しい。アニメ『PSYCHO-PASS』のファンとしては、このパートの映像化、あるいは映画化はぜひ見たい。厚生省麻薬取締局の捜査官・真守滄はなんというか、萌える。惚れる。
 パート2は全体として、アニメのシリーズ2の鹿矛囲桐斗への暗喩的な統合がある。アニメとしては、鹿矛囲を介して常守の法の立場としてシビュラが対立的に描かれていたが、パート2はむしろこのアニメのなかの東金朔夜に暗喩的に真守が対立することで、シビュラの内面が逆転して描かれる。この逆転性が知的な興奮を伴う。
 アニメの側からはシビュラは、ある種全体合理性の化身しかも犯罪を超克した理性のように描かれているが、『PSYCHO-PASS GENESIS』を含めた『PSYCHO-PASS』全体のなかでシビュラとは、日本国民へのいわば愛と理想として現れる。
 そのことに読後愕然と気が付き、これは、天皇制の愛着と日本国憲法の理念ではないだろうかと思えてきた。そして、現行の暴走しつつある日本のリベラルは日本国憲法というシビュラの忠実な執行官なのではないか。そう連想したとき、個人的にだが、私は深い絶望に堕ちた。八尋のようにお堕ちなければならないような奇妙な衝動すら感じた。
 日本国憲法をシビュラにしてはならないなら、そして、堕ちることに耐えるなら、日本国憲法という法を、市民の意思として法としてたらしめなおすべきなのだろう。また天皇制が内在する親密な国民の宥和(それこそまた今のリベラルが心情的に融合しつつある)といったものも新しい法のなかで疎外していくべきなのではないか。



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2017.12.09

[書評] ようこそ実力至上主義の教室へ 1〜7MF文庫J(衣笠彰梧)

 当初、アニメで『ようこそ実力至上主義の教室へ』を見ていた。なぜこのアニメを見るようになったかは記憶にない。まあ、1話見たら、面白いんじゃねこれ、くらいの気持ちだった。2話3話と見続けると面白かった。といううちに、アニメの1クール(で1シーズン)を見終えると、ちょっと感動してしまった。

 この先の話が知りたいなあ、原作あるんでしょと、原作の既刊を見ると、当初6巻まであり(4.5巻というのもあるが)、どうやらアニメは3巻までらしいので、続きをMF文庫Jというので読んだ(キンドル版ではなく)。面白い。6巻まで読み終えた頃、7巻がちょうど出てこれも読んだ(というか予約していたらある日届いた)。
 7巻までが一つの大きな物語の区切りがついたかなという感じもした。それから、そういえば、と、1巻から3巻はアニメと違う感じかなと疑問になり、結局これも読んで既刊は全部読み終えた。ふう(ため息)。ちなみに、一部で原作はよいがアニメはよくないといった評価もあるようだが、僕は、アニメの脚本はある意味原作よりこなれていてよいと思ったね。
 ところで、こーゆーのがラノベ? ラノベというのを実は知らないのだが、挿絵というには手の込んだキャラクター絵の設定があり、文章があるというこの形式が、コンテンツの内容傾向というより、メディアとしてのラノベだろうかとも考えた。キャラ絵が決まっていたらアニメ化もしやすいだろう。読みやすさもある。読んでいて、あれ?これ誰だったけというとき、キャラ絵が思い浮かぶ。ああ、三宅明人、彼かあ、とか。
 ただ、全巻読んだ印象でいうと、というか、普通に文学作品として読んだ感じからすると、各登場人物はキャラクター絵とは少し違う印象を持った。それと、いく人かのキャラクターは、いわゆるラノベというものの典型かなとも受け取った。文章についてはとてもしっかりしていて、それ自体は幼稚な印象を与えない。
 まあ、面白い話だよ。読むのお勧めしますよ。何が面白いのか?
 秀逸なのは、なにより主人公の綾小路清隆の設定だろう。謎の過去があり天才でありダークである、という点だが、もっとも魅力的なのは、徹底的に人間不信であることだ。ある意味、人間性のかけらもない。かつての文学でいうなら、不条理劇にでも出てきたり、人間なんて信じられるかあぁみたいな逆説でもあるだろう。あるいはラスコーリニコフでもあるだろう。だが、綾小路はそういうタイプではない。悲劇性も生の意味性も乏しい。奇妙に透明な視点で人間と社会を見ている。生き延びることに意味を見出しているが、生の意味というものはおそらく存在していない。
 この透明な人間不信とでもいう通底的な感覚が、他の魅力的でダークな登場人物たちにも共通している。主要な登場人物の多くが基本的なところで、人間性というものを信じていない、というか、壊れている。
 読みながら思ったのだが、現在の10代や20代の若い世代には、この旧世代的には崩壊した人間性のような、この感覚が自明なものとしてあるのではないか。
 そしてそれを支える物語だが、明らかに非現実的で滑稽な設定のなかで進む。いわく「希望する進学、就職先にほぼ100%応えるという全国屈指の名門校・高度育成高等学校。最新設備の使用はもちろん、毎月10万円の金銭に値するポイントが支給され、髪型や私物の持ち込みも自由。まさに楽園のような学校。だがその正体は優秀な者だけが好待遇を受けられる実力至上主義の学校だった」ということだが、ありえねぇ。
 このありえなさが、物語の枠組みにゲーム性を与え、物語は1巻ずつゲームというかあたかも将棋の棋譜のように展開する。読みながら、「おお、そこに銀をはったか」みたいな展開の読みの面白さがある。実際、物語にはゲームが仕込まれていて、知的な謎解きのようにもなっている。あとで知ったのだが、作者はゲームとかの作者でもあるらしい。
 7巻で一つの大きなゲームが一巡する印象があるが、この先、この物語がどう続くのか。残るキャラや伏線から、数巻先のぼんやりとした予想はつくが、そもそもの物語の中核である綾小路の虚無にどういう形を与えるのかというのが気になる。個人的には、爽快な展開というよりどんどん陰惨な方向に滑り落ちていくという救いようのない鬱展開を期待したい。
 とはいえ、アニメも2シーズンはできるだろうし、それなりにヒットしているようでもあるから、読者をどん底に落とすような悪魔的な展開は商業的にも避けてしまうのではないだろうか。すでに4.5巻のようなほのぼの巻も出ているし、これからも出そうだし。
 キャラ絵的にもかぶっている感のある『暗殺教室』を思うと、こちらは表面的には虚無性や人間の暗部を見せながらもあくまで、ヒューマニズムに徹してしまって、これって人間ってすばらしいとか感動するかないようなあ、赤羽業君みたいな。『暗殺教室』自体は面白かったが、ああいうヒューマニズムは、ちょっとなあ。






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2017.12.08

[書評] 兼好法師(小川剛)

 私のように『徒然草』を愛読書とする人にとっても、その著者「吉田兼好」という人はよくわからない人である。より正確に言うなら、『徒然草』という古典に表現されている著者の印象を、そのまま「吉田兼好」とされる人に重ねているだけに過ぎない。ここで引き合いにするのもおこがましいが、「finalvent」と自称するブロガー本人もブログなどの印象でしか理解されない。それが悪いわけでも、誤解されているわけでもない。およそ文章の形で表現されたものはその著者をもそこからその一面を表現してしまうからだ。

 しかしそれがすべてはない。人間というのは不思議な存在である。人を理解することには独自の困難さを伴う。例えば、自分の親であれ、配偶者であれ、本当に理解しているかどうかはわからないものだ。自分から見えている他者がその他者の全てではないことを、無意識に感じ取りながら人は生きていくものだし、自分自身もそうした奇妙な複雑さとでもいうべきものを抱えていく。
 何が言いたいのか。「吉田兼好」の作品が魅力的あればあるほど、その作品の背後には、ある不可解な人間が存在するはずだし、その不可解さへの直面はその作品への深い理解にもつながるだろう。この文脈でいうなら、本書『兼好法師(小川剛)』(参照)は「吉田兼好」という実在の人間への、歴史学的な手法でのアプローチから、ある奇妙ともいえる人物を描き出し、そのことで、『徒然草』の新しい魅力を教えてくれる。

 またでは、本書は「吉田兼好」についての歴史学的な研究なのかというと、率直にいうと、微妙だ。『徒然草』といえば日本文学を代表する古典の一つのなのでそこから著者の価値も重視されがちだが、同時代的に「吉田兼好」を見ると、いわば二流の人であった。本書が歴史学的に描く「吉田兼好」は、30歳過ぎても職もなく地位もない、今でいえばニートみたいな人であったらしい。そのあたりは『徒然草』からも想像できるが、なんというのか、ある時代の二流の人というのは、いったい歴史学的にどういう価値があるのだろうか。そんな疑問をアイロニカルに感じさせる。
 当然ながら本書は、「吉田兼好」という人物よりも、その人物を取り巻く歴史状況を描き、そのなかで実在の人物を描き出そうとしている。そうした点で興味深いのは、彼の人生が南北朝内乱の時期に重なっていることだ。あたかも歴史の神様が、日本の歴史の転換期に、適当な傍観者をその時代に配したようになっているし、『徒然草』自体もそうした、ある傍観的な俯瞰的な感覚を伝えている。
 本書が結果的に描き出した一番のポイントは、帯にもあるように「今から五百年前『吉田兼好』は捏造された――」ということで、むしろ、『徒然草』という文学作品が古典として人気を得、評価されていくなかで、いわば著者が「吉田兼好」として副次的かつ伝説的に形成されて行ったことを示している。
 読後、本書への批判ではないが、奇妙な疲労感のようなものも残った。結局のところ『徒然草』の成立と著者の関係はさっぱりわからないのである。兼好法師は当時としては意外と長寿であったようだが、その晩年とこの作品の関係や思いといったことも、さっぱりわからない。
 余談だが、古典作品の著者というのはよくわからないものだ。本書はその独自の「わからなさ」も伝えている。他に、紀貫之についてもわからないことは多い。これを言うと異説好みのように思われるだろうが、紫式部についてもよくわからない。そもそも源氏物語の著者なのだろうかと、ずっと疑問に思っている。

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2017.12.07

[書評] 脳の意識 機械の意識(渡辺正峰)

 エキサイティングで知的でかつレファレンシャルな(知識がきちんと整理され参考書籍が明記されている)書籍というのは、自分の印象に過ぎないが、珍しい。たいていの書籍は、そのどれかに偏りがちだ。もちろんそれがいけないわけではないが、この3つの側面でバランスのよい本書『脳の意識 機械の意識(渡辺正峰)』(参照)は、まずもってお得な本だったなという印象が第一。

 しかしそうした印象が持てる前提には、この分野について、つまり脳科学について読者に興味があること、あるいは私のようにこの分野の興味を卒業してしまったかのように錯覚してるという自覚、といったことが必要だろう。こうした分野で、おそらく現時点で本書は、格好の入門書でもあるだろう。だからこれ読んで本当に勉強になっちゃったなという感じが続く。
 本書が扱う分野をまことしやかに言えば、ちょっと気取ったものになるだろう。だがもっと単純にかつ感覚的に言える。「機械(人工知能)は自意識を持つか?」という問いで示せるということだ。あるいは、自分の肉体が死んだとき、自分の自意識と記憶を人工知能にダウンロードできるかという問いでもいい。SF的である。本書は実際、そうしたSF的な比喩や言及にも富んでいて親しみやすい。なにより世界の第一線で研究する著者自身、自分の意識を機械に移植したいと考えているようだ。
 

 もし、人間の意識を機械に移植できるとしたら、あなたはそれを選択するだろうか。死の淵に面していたとしたらどうだろう。たった一度の、儚く美しい命もわからなくはないが、私は期待と好奇心に抗えそうにない。機械に移植された私は、何を呼吸し、何を聴き、何を見るのだろう。肉体を持っていた頃の遠い記憶に夢を馳せることはあるだろうか。
 未来のどこかの時点において意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いないと私は考えている。

 
 そんなことが可能だろうか? 著者は、もちろんユーモアも込めてのことだが可能だという展望で本書を展開していく。その情熱があるエキサイティングな影響を本書に与えているのだろう。またそれが単なるSF的な想像に終始するのではなく、この分野の最前線で何が研究されているか、またその研究史や研究方法論の枠組みについても学問的にかなり正確に述べられている。そこが知的であり、勉強にもなるし、読後参考書としても使える価値になっている。そういえば私は先日、英国の人工知能テーマのドラマ『HUM∀NS』のシーズン1を見終えた。非常に面白い作品だった。見ながら、基本的に倫理的なテーマのなかにこの分野の科学者からのの示唆が含まれている印象をもったが、本書を読む過程で、「ああ、このことだな」ということをなんどか思い至った。
 個人的には、本書を読んで、はっとしたというか、従来の自分の考えを改めた点が1つ、そして自分の些細ではあるが哲学に大きな示唆を与えた1点がある。
 まず、改めた点は「クオリア」についてだ。「脳の中の感覚意識体験」である。例えば、赤いものを見たとき、人が脳内でそれをどう感覚しているかという実体、あるいは質感のようなものである。私は、このクオリアについて、「あほくさ」と思っていたのだった。そんなものを仮定しても検証もできない。ヴィトゲンシュタインがEと名付けた個人的感覚についての議論なども参考にしていた。しかし、本書の実験スキームを通して語られるクオリアの説明は納得できたし、クオリアはむしろ客観的なものと見なしてよさそうだともわかった。もう少し言えば、本書が示すこの分野の総体がクオリアの上に成り立っていることがよくわかった。
 それに関連してNCCという概念が出て来る。Neural Correlates of Consciousnessの略で、「固有の感覚意識体験を生じさせるのに十分な最小限の神経活動と神経メカニズム」とされる。昨今の人工知能議論では、主にディープラーニングが注視されているから、比較的フラットな学習モデルが前提になっている。が、人間の脳内のクオリアを生成するNCCはより階層的かつ見方によっては局在的というか自律的でもあるように受け取れる。NCCと非NCCは科学的に区分できるようだ。このことはさらに、自由意志論にも関連していて、この分野ではすでに自明的な自由意識は否定されている。
 もう一点、自分の哲学に示唆する点は、NCCのあり方にも関連するが、およそ機械が意識を持つということはどういうことかを説明するために提出される「自然則」である。自然則とは、筆者によれば、万有引力の法則や光速度普遍の法則のように、宇宙がそもそもそうなっているという法則である。意識についていえば、「万物に意識は宿る」ということで、著者も研究当初はばかばかしい考えのように見なしていたと告白している。
 私のこの分野への基本的な関心にそれるが、私はこの問題について哲学、なかでも大森荘蔵の哲学の影響を受けてきた。大森はこの件ついては、雑駁に「ロボットは意識を持つだろう」と言及している。大森哲学の文脈では、意識の有無は他我論の矛盾に帰着するので、そうしたアイロニーとまず受け止めるべきだが、であれば、裏面的に意識の自然則としても問題はないだろう。
 本書が大胆にも意識の自然則を持ち出すあたりは非常にエキサイティングだ。著者自身あとがきで「こんなイケイケな本にするつもりはなかった」と告白しているが、一般書ならではの魅力だろう。
 そしてこうした文脈に遭遇する。

 意識の自然則があるとすれば、それは宇宙誕生の瞬間から存在していた可能性が高い。自然則の在り方からして、広い宇宙のどこかで最初の生命が誕生し、その進化とともに降ってわいたものだとはどうも考えにくい。だとすれば、意識の自然則は、地球型の中枢神経に特化したものにはなっていないことになる。

 意識は進化で獲得されたものではあるだろうが、地球生命の進化のなかでしか生まれでないものでないだろう。それは生体もまた電気信号の機構であるように、アルゴリズムとして存在するものだろう。
 本書は直接述べてはいないが、万物に意識があるとする自然則と、宇宙の原初からその自然則があるとするなら、宇宙自体も一つの意識を持つということだろうし、その意識はまさに「私の意識」との構成的な階層的な関係にあるのだろう。

 
 

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2017.12.06

[書評] 日本の地下で何が起きているのか(鎌田浩毅)

 今年を振り返って何があっただろうかといろいろ思うなかで、熊本の地震はどうだっただろうというのがあった。すぐに何か勘違いしていることに気がついた。あれは2016年のこと、昨年のことだった。一年半くらい前になるし、何より今年の出来事ではない。なのに奇妙に心に引っかかったのは、あの地震がどことなく終わった感じがしないことだった。

 東北大震災の後もそうした、思いの引っかかりがあった。阪神大震災の後もあった。そしてもう少し何かが引っかかっている感じがして心を探ってみると、人の生きる時間と自然の時間の、埋めがたい差のような何かがある。人は生きてたかだか100年といったところだが、地球の歴史では100年はわずかなものだ。だが、そのわずかの人間の生の時間に、1万年単位の歴史が交差する。地震や火山爆発はそうした象徴のように思われたし、日本列島に生きることの意味を別のロングスパンで考えさせられた。
 思いのなかで自然に絵が浮かび上がる。絵というより、図像だろう。日本列島とその海域を区分するプレートの図である。そこに4つのプレートがあたかもせめぎ合っている。それはどうなるのだろうか。本書『日本の地下で何が起きているのか(鎌田浩毅)』(参照)にあっさりと書いてあった。

 結論から言うと、日本の地盤は一〇〇〇年ぶりの「大地変動の時代」に入ってしまい、これから地震や噴火の地殻変動は数十年というスパンで続くのである。つまり、東日本大震災が引き金となって不安定となった地盤が、その後に起きた数々の災害原因になっていることが、地球科学者共通の認識にある。(後略)

 熊本地震のような地震がこれからも日本列島で頻発する時代になったということだが、対して今年はその点では静かな年でもあった。そのあたりが冒頭で書いた奇妙な違和感の一つであり、他方、ではそうした頻発する地震の一つとして熊本地震はなんだったのだろうかと本書で見直すと、個人的には失念していたので、改めてぞっとすることが書いてあった。熊本地震のマグニチュードは7.3で、これは阪神・淡路大震災と同規模の直下型地震であったということだ。地震の大きさと被害は直接的には結びつかないということは、膨大な被害も出しうるということだ。
 すぐに連想されるが東京でも直下型の地震は起きうるし、本書では4つのタイプを上げている。東京に大規模地震が起きたらどうなるのかと当然不安になるが本書には、内閣府作成の被害予想図もあった。政府としては次の関東大震災とでもいう被害を一応想定している。まあ、シンゴジラではないけど、立川にバックアップの官庁もある。
 心のひっかかりに戻ると、南海トラフ地震がある。最近、南海トラフ地震の予想はつかないという報道があり、現在の科学をもってしてもわからない、ということから、わからないものを不安に思っても詮無いといった空気も感じられるが、本書を読むと、南海トラフ地震が具体的にいつ起こるかわからないものの、向こう30年では確率は70パーセントとされている。
 このあたりの説明から本書は科学書籍とは少し趣が変わってくる。科学者である著者の市民意識がそうさせることはわかる。典型的な部分を引用してみよう。ここでは30年後より20年後という枠組みの話で説かれている。
 


 私は京都大学で学生たちに「自分の年齢に二〇年を足してごらん」と言う。二〇歳前後の彼らは、四〇歳くらいで南海トラフ巨大地震に遭遇する。多くが社会で中堅として働いており、家族や子どもがいるかもしれない。そういう中で国家予算の数倍に当たる激甚災害が起き、半分近い人口が被災することをリアルに想像してもらうのである。
 その際に「手帳に二〇年先のスケジュールを記入する想像をしてほしい。二〇年手帳の二〇年目に、南海トラフ巨大地震発生と書き込んでみよう」と語りかける。さらに「その時に向けて、君たちは何をしたらこの日本を救えるか考えてほしい。そのため現在、何を勉強すべきかを逆算して考えてみよう。それが君たちのノーブリス・オブリージュ(高い地位に伴う道徳的義務)なのだよ」とも言う。(後略)

 
 著者はこの分野の専門家の社会的義務として、この20年後スケジュールを説くのだが、どうだろうか。
 著者は多くの人がこの20年後を理解すれば国が想定する八割の被害者を減らせるとしている。
 私はよくわからない。日本の市民がそういう20年後をスケジュール的に理解すべきなのかわからない。私はこの夏60歳になった。20年後があるなら、80歳になっている。生きていても呆けているのではないかとも思うが、その人生の最終で日本の大災害を見るのだろうか。
 本書は終章で野口晴哉についての言及が多くなる。私も野口晴哉に関心をもった人間の一人だが、率直にいえば、野口の言説はオカルトでしかない。水への伝言とたいして変わらないようなものだ。本書が、そうした考えに微妙に収斂していくように見えるのも、もにょんとした感じを残す。
 しかし、広く読まれるべき本ではあるだろうとも思う。

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2017.12.05

[書評] テストが導く英語教育改革(根岸雅史)

 英語教育については各種の議論があり、その混乱は宗教やイデオロギーの対立のような様相のようにも感じられる。しかし、根幹にあるのは単純な疑問である。「なぜ日本の英語教育は失敗しているのか?」ということだ。もちろん、「失敗などしていない」といった議論もあることは知っているが、それは別枠として置いておきたい。

 英語教育の失敗をその過程で見るなら、基本的に中学・高校の英語教育の失敗と見てよいだろう。だからもし、英語教育を改善するなら、中学・高校の英語教育をまずどうするかということになる。もちろん、ここですでにさまざまな議論が待ち構えている。会話・表現重視、読解重視などといった重点から学校英語教育を整理するという各種の議論である。だがそうした「英語教育」の内容以前に、学校の教育といういわば基本的な枠組みに載っている英語教育という実態を見るとき、各種の議論で比較的見落とされていることがある。定期テストの存在である。英語の定期テストの存在は自明に捉えられていることが多い。それは他の学科、数学や社会学科の定期テストが自明であることの、安易な延長である。
 単純な切り口で疑問を投げかけてみよう。学校教育の英語科目に定期テストは必要なのだろうか? 修辞的に問いたいわけではないが、不要なのではないか。なぜなら、英語教育というのは、社会科目や理科科目のように所定の知識を分類して記憶し理解していくという知識の学科ではなく、所定の技能(スキル)を習得する学科である。そうであれば、現行しばしば実施されているように、授業で学んだことという知識を測る定期テストは不要であり、年末または半期に一度、中学や高校で英検など外部のテストを導入して評価とすればよいのではないか。
 この時点で反論は思いつく。そんなことをすれば英語の学習は学校外で効果的に行ったほうがよいことになり、そもそも学校英語を否定することになる、と。それはおそらく正しいだろう。と、同時にその正しさは学校英語を肯定はしない。学校英語は、例えば高校であれば卒業時に英検二級といった達成を提示し、仮にすでに高校一年で達成するなら、授業を免除すればよいだろう。それによって学力格差が広がるといった批判もあるだろうが、現行の英語教育よりましだろう。
 さて、こうした私の思いつきを現場の教師はどう考えているのだろうか。あるいは、現場の教師が拠り所とする教育理論はどのようになっているだろうか。そうした関心で出会ったのが、『テストが導く英語教育改革(根岸雅史)』(参照)である。一読して驚いたのだが、基本的な部分で上述したような私の意見と同じだった。なんのことはない、自分の独自な見解だと思っていたことは、学校教育の現場ではすでに問題視されていたのであった。
 本書では、定期テストで教科書の内容そのものを出さないことをまず勧めている。

 テストで教科書の内容そのものを出さないことには、多くの教師は抵抗感があるだろう。生徒が自分の授業を聞く意味を見いだせなくなってしまうと考えるからだ。しかし、本質的には、英語の授業は英語力をつけるためのものである。教師の日本語訳を忠実に再生させるだけのテストは、もはや「英語力を測るテスト」ではない。
 テストが生徒をコントロールするためのツールではなく、本来のツールとして機能するためには、「本来つけようとしていた力」が本当についているのか見なければならないそして、そのためには、ある意味、未習の文章をテストに出さなければならないだろう。(後略)

 本書はそうした、従来の定期テストを超えていくための実践的な指針として描かれている。対象はどちらかといえば中学校の英語のようにも思えるが、現状の高校の英語教育も含まれていると見てよいだろう。
 各論は、英語教育の技術論として面白い。英語教師だけではなく、英語教育全般に関心のある人にとっても面白いし、知的な高校生なら教師の裏面を知る面白さもあるだろう。特に、面白いという点だけに絞るなら、本書で特に糾弾されている「総合問題」のありかたへの批判は笑いを伴いながらもある深刻な、日本の英語教育の病理とでもいうものをえぐりだしている。
 本書が面白かったので、本書の前作である、『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る(若林俊輔・根岸雅史)』(参照)も読んでみた。内容は書名に表されているとおりだが、なるほどこれが無責任なテストかという例題集になっている。これが、失敬な言い方だが実に笑える。そして、ここでもぞっとせざるをえない。こちらの書籍が出版されたのは、1993年であった。四半世紀も前なのである。この間、学校の英語教育は「総合問題」に代表されるナンセンスな問題で、生徒をコントロールするために延々と継続され、前書のいう「落ちこぼれ」を作り出してきたのだろう。
 なんということだろうと思う。ふと先日、NHKで見た72時間の、英語学校のドキュメンタリーを思い出した。主に初級の英語を熱心に学ぶ社会人が多数いた。学校英語がもう少しましなら、そうした外部の英語学校は不要だったのではないか。

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