[書評] 超一極集中社会アメリカの暴走 (小林由美)
昨日の書評カテゴリーの記事で、僕は日本の産業や技術を少し悲観的に見ていると書き、その理由は別の書評カテゴリーの記事で書くつもりでいることを書いた。これがそれになる。『超一極集中社会アメリカの暴走』(参照)という3月に出た本である。
扱われる分野は多岐になり、そのぶん、個々の技術についての考察については、データや事実的な補強はあるもののやや舌足らずになりかねない。特に「ブロックチェーン」の潜在的な問題が示すところは書かれているので、それでよいともいえるのだが、「ブロックチェーン」自体の説明は十分には進められない。ディープラーニングなどについても同様の印象があった。医療問題についても米国の特殊性として読まれがちかもしれない。
とはいえ、そうした点は本書への批判ではない。なにより、どのようにして社会の富の超一極化がもたらされたのかという具体的な仕組みと、その危機感が重要だからだ。そうした本書の主旨という点から見直すなら、私見では、第8章にあたる「VIII.押し寄せる巨大なうねり」の「メガ・トレンドを一望する」として書かれた、本書の、18項目化されたサマリーをまず読むとよいだろう。これだけ読んでも、なぜかという部分はわからない、ということはあるにせよ、本書が訴える危機意識の理路は見えるはずだ。こういうのもなんだが、本書を未読で、たまたま書店で本書を見かけた人ならまずこの部分に目を通して、なにか心に訴えかけるものがあれば全体を読むといい。おそらくそこから、ぞっとする未来像が見え始める。
丸山真男ではないが、本来の民主主義に欠かせない「作為の契機」というものが、もはや実質的な制度上、機能し得なくなっている現実がある(その理由も本書にある)。そこでは、やや本書の逸脱になるが、暴走もやむを得ない事態だとも言える。もちろんそれでよいわけではない。著者も欧州における法規制の動向について僅かに希望として言及はしている。
現実的に見るなら、自分や自分たちの子どもの世代が、こうしたディストピアのなかをどのように生きたら良いのかという疑問は必然的に出てくる。そこは、「VIII.押し寄せる巨大なうねり」の「メガ・トレンドを一望する」に続く「生き残りそうな職は何か」に示されてはいるのだが、これもやや勇み足な言い方になるのだが、そこに示される、事務・秘書、営業、サービスという職種を見ても、もちろんそこには、対人的な独自の経験を積み重ねる成果の意味はあるだろうが、総じてあまり希望は感じられないだろう。基本的な人の気質による制約がまずもって大きいだろうし。
ではということで、現状としてはやや凡庸な指摘にも見えるが、グローバル言語としての英語の習得と「(前略)コンピューター・サイエンスを小学校の教科に加え、高校を卒業するまでに代数・幾何・微積分を使いこなせる水準まで数学を習得する道筋をつけてあげる」ことは重要になる。「そのことに気付いた親だけが必要な教育を自分の子供に与えたら、社会が自らの手で落ちこぼれを作ることに他なりません」とも指摘されている。
しかし、現状の日本の英語教育ではおそらく大半はCEFRのA2レベルにも達していない。高校数学の現状では、大半の学生は数Ⅰレベルで実質的に脱落し、微積分学に到達していない。すでに行列は高校数学から消えていて、大学での線形代数の負担となっているのだが、それすら大半の大学生は学ぶことはないだろう。こういうと、日本の若い世代を批判しているかのようだが、そういう意味ではない。そもそもそういう水準の数学教育は不可能なのかもしれないし、米国やその他の国ですら不可能だろうと思う。
アイロニカルだがディストピアを堪能するという点では、本書に記載されたウーバーの話も面白い。このビジネスはおそらく著者の指摘どおりだろう。個人的には、GEの話が面白かった。巨大企業なら影響力のあるロビーは作って当然だろうと思っていたが、本書に掲載されたリストで見ると感慨深い。というか、民主主義というものをどう再構築していいのか暗澹たる気持ちになる。
それでも民主社会というものを市民は構築していかなくてはならない。そう気がつく人たちが、本書のような技術の俯瞰図を見渡せるようになることは前提だろう。
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