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2017.06.25

[映画] カルテット! 人生のオペラハウス

 自分としてはまったくの偶然、『カルテット! 人生のオペラハウス』(参照)という映画を見た。最初、BBCという表示が目にとまったのでドキュメンタリー映画かなと、ふと思った。いつ制作の映画ともわからない。

 とにかくまあ、映画が始まっているなあという感じでいると、気品のある老女が乾杯の歌のピアノを流暢に弾き始め、そして身だしなみの良い老人たちの楽しそうな姿の映像が続く。場所は英国の老人ホームらしい。この時点で私は、この映画のタイトルすら知らない。そういうふうに、なんの予備知識もなくただ映画を見るという経験も面白いかもしれないと思い、見続けた。
 しばらくして主要な登場人物はこの老人だろうという4人がわかる。それからホームの自動車に記されたビーチャム・ハウス(Beecham House)という文字に目がとまり、これは音楽家専用の老人ホームなのだろうと思う。英国には軍人専用の老人ホームもあり、そこの老人たちは楽しくいていたなと思い出す。
 それから物語は美しい老女(この女優知っているはずだが)のホームへの到来を描き、ドラマが始まる。老人となった男女四人の声楽家として、人生や死の思いが交錯する。その合間、老人とは思えない演奏や歌声が諸処に入って楽しい。
 この時点で私もすっかりこの映画に取り込まれている。この老人たちは70歳から80歳くらいだろうか、この夏60歳となる私からすればそう遠くない未来であり、それまでの人生の悔恨も似たように負ってきたものである。自分はどのような最期を迎えるのだろうか。老人ホームや病院に入って人生尽きるのも、大いにありうることだ。それほど遠い未来でもない。
 あらすじは書く必要はないだろう。物語は単純と言えば単純だった。基本は主人公である男女の過去の恋と傷のいきさつが、老いの感傷とあいまって美しい英国の風景のなかで綴られていくだけである。とりわけ予想外の展開もない。きれいなヒューマンドラマとも言える。が、こうした老人を描いたドラマというのはあっただろうかという奇妙な疑問(あるはずだが)と、自分がこの老人に近いのだという困惑したような共感があった。主人公の男性(見覚えあるなあ)の懐古の思いも、またヒロイン老女の細かな女性的な感覚もディテールで痛いように伝わる。その点でいえば、あまり若い人には面白い映画ではないのかもしれない。
 自分も老人の世界に足を突っ込むとも思っていなかった。ある意味、無鉄砲な人生だったが、若い人もそう遠くなく若い時代は過ぎてしまうものだ。この映画の情景もそう遠いものでもないだろう。
 ハッピーエンドで1時間半くらいの軽い感じで終わる。エンドロールの前になって、主人公がダスティン・ホフマンで(しらばらく見てなくてかつ若い頃の記憶しかなかった)またヒロインがマギー・スミスと知る。ポーリーン・コリンズやビリー・コノリーはチャーミングだった。そして、主要登場人物以外の、あの音楽家の老人たちは本当にみなさん音楽家だったのだと驚く。英国のクラシック音楽の厚みのようなものを思い知るきっかけともなった。
 見終えてから、ビーチャム・ハウスのことを知る。2012年公開ということも知る。現在では各種、オンデマンドでも見られるようだ。
 とにかく見終えてから、しずかにずっしりと心に残るものがあるいい映画だった。人がどのように死を迎えていくのか、老年をどう生きるべきなのか、そう意識的に考えなくても、深いメッセージは伝わってくるようだった。

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2017.06.21

[書評] 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実(スティーブ・シルバーマン)

 かつての漫画家というべきなのかためらうが、私がよく馴染み、また難病を抱え込んでいるという点でも共感をもってきた漫画家さかもと未明さんが、もう数年前になるが、精神科医から発達障害だと診断され、『まさか発達障害だったなんて』(参照)や『奥さまは発達障害』(参照)という書籍で、いわばカミングアウトに近い形でそうした障害を抱えた自分を受け止めて表現しているのを知り、率直、その点、よかったねさかもとさんという思いと、他方、もにょんとした思いもあった。
 まず、難病というのは経験者の側になるととんでもない弱者として世界に置かれたようないいようのない不安に陥る。この感覚はできるだけ自著にも書いたが難しいものだった(自著への揶揄を受けるたびに書かないほうがよかったかとも悔やんだ)。そして一人ではもう生きられないという弱者自覚は、もう自分は他者からの慈愛を請うしかないのだ、もう一人孤独に悪ぶっては生きられないのだ、という奇妙な、生き方の制約と回心に迫られるようになる。そして当然ながら、この一連の内面の過程は心の問題でもあり、この心の問題は別なる心の問題と共鳴して、よりつらい状況に陥る。そこで天を見上げて、この病気をわかってほしい、せめてこの心のつらさだけでもわかってほしいと呻くようになる。その過程で、心のほうも病気なんだと社会が認めてくれたら落ち着くのに、といった奇妙な心理が働く。
 悪意はまったくないのだが、さかもとさんの作品を読んできた私は彼女が境界性パーソナリティ障害に近いのではないかという推測は了解の上でのことだった。そしてそのことが彼女のクリエイターとしての魅力でもあり、女性としての魅力であるとも思っていた。ただ、専門的に見て境界性パーソナリティ障害なのかはわからない。広汎性発達障害に近いのかもしれない。そもそもそうした診断とは関連なののかもしれない。私自身についていえば、これも自著に記したが解離性同一性障害に近い感覚が常にあり、一時期は離人症的な症状を起こした。他方自分はDSM-Vの自閉スペクトラム症ではないかとも内心は思うが、現実の私は意外に快活で社交的な人に見えるだろうとも思っている。何が言いたいかというと、発達障害と自閉スペクトラム症については、その内面での受容の意味合いが難しいという例で自分を引き合いにしているのであって、それ以上の意味はない。
 なので、さかもとさんが専門医から発達障害と診断されそれを難病と合わせて受け入れ、新しい生活を始めたことには祝福を送りたいと思う半面、自分を省みて、それは「本当」だろうかとも思った。この「本当」という日常の言葉の意味合いは、しかし考えていくとかなり難しい。
 もうすこし一般論的な話に移りたいがさかもとさんに関連して、その判断を下した医師にも私は興味をもったことに少しだけ触れたい。医師は、先の彼女の著書も共著・監修的な位置にある星野仁彦医師である。ああ、ゲルソン療法の先生かと思い、自分の偏見のようなものが惹起され、以降この件にはさかもとさんの現状を含め、どこかしら関心を持つのをやめた。
 さて、発達障害や自閉スペクトラム症というのはなんなのだろうか。内省するにどうも自分にも関連していとしか思えないし、その点からこの分野に関心を持ちながら、いつも違和感で引っかかるのは、「診断」というものの意味だった。DSMという体系自体の疑義にも思えたこともあるが、現在の私はそこに大きな比重を置いていない。いずれこうした障害を抱えた人に対して社会的な援助が必要なことはあきらかであり、そのために社会のマジョリティにも可視な妥当な基準は必要だと思われるからである。しかし、その「診断」が「治療」という枠組みに置かれるとき、以上、無駄口のように縷々書いてきた私は身構えてしまうものがある。
 たとえば、以前ネットで「自閉症の人が見る世界」といった話題が少し盛り上がったことがある。ためしにググってみるとハフィントンポストの記事がヒットする(参照)。たぶんこう書かれているだろうなという懸念の予想は見事にあたる。


「この研究は、診断告知に最も有効となるでしょう」とアドルフ氏は声明で述べた。「自閉症というのは多種多様です。我々の研究は、自閉症が実際にはどれほどの種類存在するのかを解き明かす、最初の第一歩なのです。そういった亜類型を特定できたら、それぞれの型には違った種類の治療法が最適なのかどうかを問い始めることができるのです」。

自閉症には全ての診断結果に合う画一的なアプローチができないということを、我々が目にすることはますます多くなっている。この研究を続ければ、この症状が持つ多くの微妙な差異に狙いを絞り、適合した治療法を考案する上で役立つかもしれない。


 率直に言ってみたい。自閉スペクトラム症と診断される人は社会的な援助が必要であることは論をまたないとして、それは「治療」という枠組みに置かれるものだろうか。
 かつては、同性愛も「治療」されていた。自閉スペクトラム症については、「治療」とはなにを意味するのか? 私が抱き続けたこうした疑問にもっとも接近したのが、本書『自閉症の世界』(参照)である。ブルーバックスにしてはかなりのボリュームがあり、訳者はこの分野で信頼のおける正高信男教授である。
 中学生時代から年季の入ったブルーバックス好きの私としては、読み始めてすぐに、ブルーバックスにしては異質な本なだと感じた。分厚さ自体は異質ではないが、こうした本は別の装幀で、昨今の例でいえば文藝春秋などから出るものじゃないかなと思ったが、その時点で、おそらく文藝春秋では売れないかなとも思った。とはいえ、それでもブルーバックスでこれを読むのは異質感はある。読み進めればわかるがこの本はまずもって歴史の本であり、言い方は悪いが、理系的な本ではない。ブルーバックスの近著でも『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』(参照)のように理系的な歴史の書籍はあるが(この本については別途触れるかもしれない)、とにかく書籍の厚みを比べてみてほしい。もちろん、それはそれとして『自閉症の世界』は面白く、アスペルガー博士についての叙述についてなどは我を忘れて読みふけった。
 のだが、うかつにもその時点で、本書の原題がなんであるか、この書籍が米国でどう評価されていたかを知らない、ということに気がついた。答えはすぐにわかる。『The Legacy of Autism and the Future of Neurodiversity』(参照)である。かなり社会的に評価された書籍であった。そして、表題NeuroTribesという言葉を見たとき、Digital tribesを連想し、自分なりにではあるがすべてを理解した。つまり、ある精神的な特性をもったマイノリティの種族であるということだ。うかつにもこの時点であとがきを読んで確認した。
 「the Future of Neurodiversity」は、「脳多様性の未来」ということで、脳(神経構造)に起因する人々の違いを包摂する未来社会を示している。なお、Kindle版の副題は「The Legacy of Autism and How to Think Smarter About People Who Think Differently」は、「自閉症のレガシーと。異なる考え方をする人についてより賢く考える手法」である。
 「The Legacy of Autism」の「レガシー」は遺産という意味が通常だが、「a genetic legacy of depression」(遺伝的な鬱病)のような言い方もする。本書にそって言えば、本書の内容は、「自閉症」と呼ばれる概念がどのように歴史的に形成されたことと、その知見の見直しによって、マジョリティの社会は「自閉症」と呼ばれるマイノリティとどう向き合うかということである。
 結論を言えば、本書は終章へ向けて、「治療」に疑義を重ねて、そのとらえ直しを提起する。もちろん、「治療」のすべてを否定するわけでもないが、「治療」の過程で苦しめられてきた(これは同性治療の苦しみを連想させた)人々が独立した大人となって、自分の生き方を選択するという試みに焦点が当てらていれる。この点だけで言うなら、本書の次の言葉が象徴的だろう。「そう」というのは、「不適切な存在」である。

ぼくたちの存在を嘆くみなさんの声は、ぼくたちにはそう聞こえます。回復を祈るみなさんの声は、ぼくたちにはそう聞こえます。みなさんのぼくたちに対する心からの希望とう夢について聞かされると、ぼくたちはこう思うのです。ある日ぼくたちの存在が消えてなくなり、代わりにやってきた、ぼくたちの顔をした他人をあなたたちは愛する、それがみなさんの最大の望みなんだと。


みなさんが必要なのです。みなさんの支援と理解が必要なのです。そう、自閉症には悲劇がつきものなのです。僕たち自身が原因なのではなく、ぼくたちに起きていることが原因なのです……。あなたの夢が失われてしまったことについて、どうしても必要なら悲嘆に暮れなさい。でも僕たちのことを嘆かないでください。ぼくたちは生きています。ぼくたちは実在しているのです。そしてここであなた方を待っているのです。

 本書のこうした最終章は、私が長いことと内面に抱えてきた疑問に大きな光を与えてくれた。おそらく、他の、ある種の人々にとってもそうだろう。

 さて。
 本書を読みながら、ところどころ心にひっかることがあった。論説の違和感ではなく、「これ原文でどうなんだろうか?」という思いである。たとえば、先の引用のここを比較してみよう。


本書訳文
あなたの夢が失われてしまったことについて、どうしても必要なら悲嘆に暮れなさい。でも僕たちのことを嘆かないでください。ぼくたちは生きています。ぼくたちは実在しているのです。そしてここであなた方を待っているのです。

本書原文
Grieve if you must, for your own lost dreams. But don't mourn for us. We are alive. We are real. And we're here waiting for you.


 この部分は誤訳とはいえないのだけど、Grieve、mourn for、alive、realには響きがあって、悲しむけど、死者のように追悼しないけください、まだ死んでいません。ほらここにいるのですよ、という文学的な含みがある。
 ただ、こうした誤訳ともいえないなという部分はよいとして、仔細に見ると誤訳だろうなと思える点もある。自分の英語力を顧みるとあげつらうものでもないので個別の点は指摘しない。
 が、さすがに原文対比して抄訳にはまいった感はあった。訳者あとがきには「なお全文を訳した後、主題と関連ない部分を一部割愛してあることを付記しておく」とあり、大部であり、やむをえないものと共感はするのだが、ただ、DSM-IVに関連する次の部分は、本書の重要ポイントにも関連しているので、うなった例だ。原文大括弧部分が抜けている。

本書訳文
もちろん一九九四年から二〇〇〇年のあいだにPDD-NOSと診断された子供たちすべてが誤診だったというわけではないけれども、その影響ははかりしれないものとなった。誤った表現通りにデータを再分析したフォルクマーは、「臨床医によって、障害に該当しないと判定されるべき子どもたちの約75%が、誤って該当すると認定された」ことを発見した。【……】 ロイ・リチャード・グリンカーが二〇〇八年に著書『ありのままに生きる(Unstrange MInds)』の中で誤植のことを指摘するまでは、専門家以外のほとんど誰もがそれに気がつかないまま放置されていたのだった。

原文
This certainly didn't mean that every child diagnosed with PDD-NOS in the years between 1994 and 2000 was misdiagnosed, but the impact of the botched language was potentially significant. By reanalyzing the field-test data using the erroneous wording, Volkmar found that“about 75 percent ofchildren identified by clinicians as not having the disorder (true negatives) were incorrectly identified as having it according to DSM-IV.” 【For epidemiologists gauging the DSM-IV's impact in the crucial period that would go down in history as the years a mysterious "autism epidemic”took hold, it was a statistical nightmare.】 Yet, until author Roy Richard Grinker called attention to the typo in his 2008 book 'Unstrange Minds', hardly anyone outside the usual tiny circle of experts was aware of it.


 抜け部分を試訳すると、「謎めいた『自閉症感染症』が発生している歴史に陥っていくかもしれない重大な時期、DSM-IVの影響を測定する疫学者にとって、このことは統計的な悪夢だった」となるだろうか。
 実は、この他にも先の段落ではDSM-IVの語が抜けているが、それはこの前の段落で補われているのでさほど問題はない。うなったのは、この括弧部分をなぜ省略したのだろうかということである。訳抜けならよいのだが、ある種の配慮からだとしてら困ったことである。
 何を言いたいのかというと、もはやDSM-IVは過去の物になったとはいえ、この時期のアスペルガー診断の増加は、DSM-IVの誤記によるところが多いというのは本書の観点としては強調されてよいだろうと思われるからだ。もっとも、本書全体として読めばその部分が隠されているというわけでもないとも言えるには言える。
 こうした訳上の点はいくつかあるが、別の点でうなったのは文学的ともいえる含みの割愛である。例えば第11章で、そもそも、"neurodiversity"(脳多様性)という用語を作り出したジュディ・シンガーの来歴について触れた点がある。その名前からユダヤ人かなという連想は働くかもしれないが、原文を読むと、ユダヤ教教師ラビとの関わりの挿話がある。これなども訳書からすこんと抜けている。不要と見なしたとも言えるが、本書前半のアスペルガー博士とナチズムの関連から、ユダヤ人に関連する記載はタッチー連想を招くので削ったのかもしれないなともつい思えた。
 というわけで、おそらく訳について問題点を指摘すると切りがないという印象はもった。その意味で、改訳されるか全訳されることが好ましいとは言えるだろう。英語が堪能な人なら原文を読めばいいが、私などは気になる原文を参照するくらいであり、私のような人が同書の改版を望むのであれば、まず現行の本がそれなりに日本社会で読まれる必要があるだろう。
 総合的に見るなら、訳書に問題があるとしても、本書の骨格まで変わるものでもないし、読みにくい訳書でもない。まず多く読まれ、自閉スペクトラム症について、「治療」を超えた知見が社会に広まることを望みたい。

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2017.06.20

[書評] 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智)

 本書(参照)は、北田暁大氏が、内田樹氏による2013年の発言「私は今の30代後半から45歳前後の世代が、申し訳ないですが、”日本際弱の世代”と考えています」に刺激されて、栗原裕一郎氏と後藤和智氏の二氏に呼びかけて実現した対談である。

 内容は、内田樹氏に概ね総括される世代の社会観と社会批評・言論活動についての批評を対談的に展開したものである。役回りとしては、主にではあるが、北田氏が論壇的動向での分析、栗原氏が内田氏の世代に特有の経済学的知見の欠落指摘、後藤氏が内田氏の世代の議論に特有な恣意性への指摘、というふうに読めた。三氏の意見は、ネットから眺めている世論の風景にはよく整合している印象はあり、イケダハヤト氏といった名前も見える。まさかと思って私への言及も探したがなかった(そんなことは当たり前ではないかと某氏にまた自己認識がうかがわれるとか指摘されそうだが、2006年の梅田望夫氏の『ウェブ進化論』には私の名前がちょこっと出て来て驚いたことがある)、切込隊長あらためやまもといちろう氏への言及もない。意外でもないかもしれないのだが、糸井重里氏への言及もない。そのあたりから、この鼎談はブログ・ネットお言語空間とは違う位相にはあるなあと思う。
 というあたりで、本書を読みながらまた思ったのは、この鼎談が成立する論壇的な位相はなにかという疑問である。それは、いわゆる出版物的な論壇であり、対象とされる内田氏なども同じくそうした位相が前提になっている。
 私は、そこが構造的にとても重要ではないかと思えた。俎上に載せられているのは、柄谷行人、上野千鶴子、内田樹、高橋源一郎、宮台真司、小熊英二、古市憲寿といった各氏で、いずれも出版社として見て、所定の冊数の捌ける書き手である。そうした出版業界のご事情的な言及はあまり対談にはなかったように思われる(まったくないわけでもないが)。
 何より、柄谷行人、上野千鶴子、内田樹、高橋源一郎といった各氏は、基本的に朝日新聞系・岩波書店系の戦後リベラルの出版系列に置かれた書き手であり、宮台真司、小熊英二の二氏はそうしたリベラル出版の書き手としての圏内に牽引されていったので、おそらく思想・イデオロギー的にはいずれも二次的なものではないかと思う。失礼な言い方をしたいわけではないが、こうした日本的論壇で国際的にとりあえず席を当てられているのは、加藤典洋氏くらいであり、彼の『敗戦後論』ついての有象無象は戦後論壇の転換でもあったかと思う。村上春樹氏も社会的な言及では、簡単に言えば、そうした加藤典洋氏のカーボンコピーの域を出ず、そもそも海外の論壇で日本に求められるのはそうしたフレームワークでしかないという制限の産出物でもある。
 いずれにせよというか、そもそも現代ニッポン論壇事情というのは、そうしたある層での出版の構造であり、悪口でいうのではないが、本書もそうした出版構造の派生にある。ぶっちゃけ、戸配新聞と書店と図書館の棚の問題である。
 私は自分なりにではあるが、些細な指摘がしたいという意図ではない。論壇に見えるかのものが、実際には出版構造の派生にあるとき、その構造内で配送される思想・イデオロギーはどのような状態になるのかという制約が重要だと思う。手紙は宛先に届かないこともありうる、という有名が命題があるが、私が本書で思ったことはつまるところそこである。本書の議論は、三氏と共感する人にとってはそおらく大半が頷けるものであっても、その対談を届けるべき相手には、多分届かないだろう。
 ではそう割り切って、デリダ的な命題など修辞として済ませてしまうなら、この鼎談はどのように広く届かせるべきだったのか。そう私は考えた。私の結論は、もっと参考書的にしちゃえばいいんじゃないかということだ。
 かつて日本版ポストモダンが湧いたとき、その象徴的な、浅田彰氏の『構造と力――記号論を超えて』(参照)について、氏の意図であったかは議論の余地はあるが、読者はそれを「チャート式」参考書のように受け取ったものだ。私などは、このあっけらかんとしたラカン理解はなんだろうとかと、思わぬ自分の駄洒落とともに驚愕すら覚えたものだったが……。しかし、それでも明確な図解的言説はインパクトがあったし、今となってはリフレ派の共産党宣言にも比する『エコノミスト・ミシュラン』(参照)もチャート式な明確で力があった。
 柄谷行人、上野千鶴子、内田樹、高橋源一郎、宮台真司、小熊英二、古市憲寿といった各氏についても丁寧にその著作系列からチャート式に図解し、なぜ現状のような論者となったかを生成的に見てきたほうがよいだろうと思った。そうしたとき、おそらく隠された軸は、吉本隆明氏だろうと思う。吉本氏はこうした日本的な出版界的な論壇の意味を先験的に見抜いていたように私には思える。あと、あえてもう一人極端な例を加えるなら、江藤淳氏や西部邁氏より、西尾幹二氏のようにも思う。

【追記2017.6.21】
 ブログ記事で提案した、各論者のチャート化については、すでに著者の一人の後藤和智氏の単著で実施されていたことを知ったので、補足しておきます。

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2017.06.19

[書評] 超一極集中社会アメリカの暴走 (小林由美)

 昨日の書評カテゴリーの記事で、僕は日本の産業や技術を少し悲観的に見ていると書き、その理由は別の書評カテゴリーの記事で書くつもりでいることを書いた。これがそれになる。『超一極集中社会アメリカの暴走』(参照)という3月に出た本である。

 表題は内容をよく表しているといっていい。現在の米国では、富が超一極集中しているという事実について、この分野にいる著者らしいデータを元にした議論が進められている。私たち日本人の多くは、米国社会で富の一極集中が起こり、その暴走の派生として、サンダース候補ブームやトランプ政権支持のような異常とも言える事態が起きたことは知っている。しかし、その内実の仕組みについては、識者はある程度知っているが、日本社会としてはあまり知られているとは言えないだろう。本書は、その仕組みが広範囲にわたって示されている。
 扱われる分野は多岐になり、そのぶん、個々の技術についての考察については、データや事実的な補強はあるもののやや舌足らずになりかねない。特に「ブロックチェーン」の潜在的な問題が示すところは書かれているので、それでよいともいえるのだが、「ブロックチェーン」自体の説明は十分には進められない。ディープラーニングなどについても同様の印象があった。医療問題についても米国の特殊性として読まれがちかもしれない。
 とはいえ、そうした点は本書への批判ではない。なにより、どのようにして社会の富の超一極化がもたらされたのかという具体的な仕組みと、その危機感が重要だからだ。そうした本書の主旨という点から見直すなら、私見では、第8章にあたる「VIII.押し寄せる巨大なうねり」の「メガ・トレンドを一望する」として書かれた、本書の、18項目化されたサマリーをまず読むとよいだろう。これだけ読んでも、なぜかという部分はわからない、ということはあるにせよ、本書が訴える危機意識の理路は見えるはずだ。こういうのもなんだが、本書を未読で、たまたま書店で本書を見かけた人ならまずこの部分に目を通して、なにか心に訴えかけるものがあれば全体を読むといい。おそらくそこから、ぞっとする未来像が見え始める。
 丸山真男ではないが、本来の民主主義に欠かせない「作為の契機」というものが、もはや実質的な制度上、機能し得なくなっている現実がある(その理由も本書にある)。そこでは、やや本書の逸脱になるが、暴走もやむを得ない事態だとも言える。もちろんそれでよいわけではない。著者も欧州における法規制の動向について僅かに希望として言及はしている。
 現実的に見るなら、自分や自分たちの子どもの世代が、こうしたディストピアのなかをどのように生きたら良いのかという疑問は必然的に出てくる。そこは、「VIII.押し寄せる巨大なうねり」の「メガ・トレンドを一望する」に続く「生き残りそうな職は何か」に示されてはいるのだが、これもやや勇み足な言い方になるのだが、そこに示される、事務・秘書、営業、サービスという職種を見ても、もちろんそこには、対人的な独自の経験を積み重ねる成果の意味はあるだろうが、総じてあまり希望は感じられないだろう。基本的な人の気質による制約がまずもって大きいだろうし。
 ではということで、現状としてはやや凡庸な指摘にも見えるが、グローバル言語としての英語の習得と「(前略)コンピューター・サイエンスを小学校の教科に加え、高校を卒業するまでに代数・幾何・微積分を使いこなせる水準まで数学を習得する道筋をつけてあげる」ことは重要になる。「そのことに気付いた親だけが必要な教育を自分の子供に与えたら、社会が自らの手で落ちこぼれを作ることに他なりません」とも指摘されている。
 しかし、現状の日本の英語教育ではおそらく大半はCEFRのA2レベルにも達していない。高校数学の現状では、大半の学生は数Ⅰレベルで実質的に脱落し、微積分学に到達していない。すでに行列は高校数学から消えていて、大学での線形代数の負担となっているのだが、それすら大半の大学生は学ぶことはないだろう。こういうと、日本の若い世代を批判しているかのようだが、そういう意味ではない。そもそもそういう水準の数学教育は不可能なのかもしれないし、米国やその他の国ですら不可能だろうと思う。
 アイロニカルだがディストピアを堪能するという点では、本書に記載されたウーバーの話も面白い。このビジネスはおそらく著者の指摘どおりだろう。個人的には、GEの話が面白かった。巨大企業なら影響力のあるロビーは作って当然だろうと思っていたが、本書に掲載されたリストで見ると感慨深い。というか、民主主義というものをどう再構築していいのか暗澹たる気持ちになる。
 それでも民主社会というものを市民は構築していかなくてはならない。そう気がつく人たちが、本書のような技術の俯瞰図を見渡せるようになることは前提だろう。
 

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2017.06.18

[書評] 東芝解体 電機メーカーが消える日(大西康之)

 他の人にはどうでもいいことなのだが、私は関東逓信病院で生まれた。父がNTTの前身、電電公社員だったからである。そして、「逓信病院」という名称が残すように、電電公社となる以前、その病院は逓信省に所属していた。つまり、現在の民営化NTTもこの名前の病院と同じ道を辿り、国家機関から公社を経ていた。
 父は晩年、年金の関連で、戦後のごちゃごちゃしていた時代について自身の記憶で整理し、当初、逓信省の公務員であったことを証明していた。そこに何か誇りのようなものがあったのか今となってはわからないが、彼はまた、NTTの民営化を嫌ってもいた。その前に辞めた。そうした電電マンの父が私に残してくれた言葉がある。「いいか、電電公社というのはダルマだ。手も足もないんだ。だから手と足を大切にしなければ、前に進めないんだ」と。

 父は、自身は嫌っていたNTTではあっても息子の私がそこに就職することを望んでいたのではないかと思う。残念ながら私は、父の父、私の祖父と似た風来坊のような人生を歩むことになったが、他面、ひょんなことから、日本の電機企業の内実を現場からよく知るようにもなり、父のその言葉の意味を深く理解した。本書、『東芝解体 電機メーカーが消える日』(参照)は、それをジャーナリズムの世界から表現したように思えた。つまり、私はこの書籍を読みながら、父や自分の人生を重ねていた。
 一般の読者にとっては、この書籍は表題が示すように、かつては隆盛していた日本の電機メーカーがなぜ今日のように衰退してしまったのかという物語として読めるだろう。東芝は、そうした構図のなかでもっとも最近の目立った例として挙げられている。
 全体としては、東芝を第1章として、日本を代表する大手電機メーカー8社、東芝、NEC、シャープ、ソニー、パナソニック(松下)、日立、三菱、富士通がそれぞれの章で扱われている。

1東芝   「電力ファミリーの正妻」は解体へ
2NEC    「電電ファミリーの長兄」も墜落寸前
3シャープ   台湾・ホンハイ傘下で再浮上
4ソニー    平井改革の正念場
5パナソニック   立ちすくむ巨人
6日立製作所   エリート野武士集団の死角
7三菱電機   実は構造改革の優等生?
8富士通   コンピューターの優も今は昔

 それぞれの電機会社の衰退の理由がどこにあったかという、個別の物語として読んでも面白いだろう。というか、物語としては面白ろすぎるきらいすらある。特に、東芝の内紛の醜悪さと悲惨さには、経済界やこの業界に関心を持ってきた人には既知のこととも言えるが、感慨深い。このブログの土台となっているココログ運営の富士通についても、率直に言っていいと思うが、本書で明かされる体たらくが面白くもあり、悲しくもある。こうしたディテールのネタ話は、多少の誤認が含まれているとしても、とにかく面白い。
 書籍としての本書の価値は、総論とも言える序章「日本の電機が負け続ける『本当の理由』」にあるだろう。ネタバレということにもならないだろうが、著者はその本当の理由を、私たち日本人の多くがこれらの電機会社に見ている業態が「本業」ではないからだとしている。では、「本業」はなにか。事実上の国家の委託部門のようなもので、電力会社と旧電電公社の手足になることだった。つまり、日本国の電力インフラと通信インフラという公的部門を担っていたのである。私の父が言う、ダルマの手足だった。そして、皮肉なことに、このダルマ本体のほうが、日本国家の経営能力の低下で倒れた。手足も腐った。
 ただし、ソニー、パナソニック、シャープはその間接的な影響(半導体事業への国家誘導)やグローバル化などの理由もあり、個別の論点が扱われている。あえて総じていえば、日本企業全体の経営の失敗と言ってもよいだろう。
 私は本書読後、こうした企業に関わってきた自分の人生を顧みた。現場から見て思うこともいろいろあった。そして、もう一つ、本書で大きく見失われた視点もあるだろうとも思った。単純にいえば、プラザ合意直後のバブル景気という80年代の資産バブルを叩き潰した三重野康日銀総裁以降の金融政策の誤りである。それが電機企業を含めた日本の製造業を弱体化させたのだろうと思う。
 本書は、最終部で未来の展望について少し言及している。日本の技術はまだ廃れていないし、現状は通過儀礼でもあるとしている。私はもう少し悲観的に見ている。その理由は、別の書籍の書評で触れてみたい。

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2017.06.13

[書評] すごい進化 「一見すると不合理」の謎を解く(鈴木紀之)

 「すごい進化」(参照)というように口語で書名を表現されると、何かとてつもない進化を遂げた生物の事例を扱う書籍のように思える。が、本書の内容は副題にある「『一見すると不合理』の謎を解く」に近い。ダーウィニズムの自然淘汰の考えからすると、「一見すると不合理」な進化を遂げた生物についてどのような説明を与えることができるか、ということを扱っている。

 そして結論から言えば、「謎を解く」には至っていない。1つの解法視点の提起ではあるが、むしろそこが本書の面白さである。
 問題の基本的な枠組みは、自然淘汰の原理をどのように扱うかである。

 現在進化生物学者の中で自然淘汰の原理を完全に否定している人はまずいません。しかし、進化を自然淘汰でどこまで説明できるか、すなわち「進化はすごい」とどれだけ信じているかという点については、研究者の間でさえ驚くほどの違いがあります。「進化はそれほどすごくない」というスタンスでは、さまざまな制約によって進化が妨げられたり、全くの偶然によって有利ではない形質が広まったり維持されたりすることを重視します。

 繰り返すことになるが、まず前提として、「自然淘汰の原理を完全に否定している人はいない」ということがある。しかし、実際の生物を研究してみると、「自然淘汰の原理」、特にその最適化アプローチという視点からは説明できない、あるいは説明しにくい不合理な事例が多々あり、通常はこれを、自然淘汰への制約や偶然と見るということになりがちである。あるいは、進化論は、通例は次のように理解してもよい。

(前略)「生物進化では自然淘汰が何ら役割を果たしていない」という主張も、「自然淘汰は進化における唯一の原動力である」という主張も明らかに間違っています。進化生物学者のアプローチはこのふたつの極論の間に位置していて、自然淘汰によってほとんどの形質の変化について説明できる、すなわち制約をほとんど無視できるとする適応主義に近いのか、それとも進化における自然淘汰の貢献をもっと小さく見積もっているか、というグラデーションを描いています。

 本書が興味深い点は、このグラデーションにありながら、できるだけ新しい説明の試みとして、進化の、一見不合理に見える事例を、自然淘汰への制約や偶然として見るのではなく、それ自体が自然淘汰の原理なのではないか、むしろ不合理に見える事象のほうが、自然淘汰の原理の結果なのではないのか、という視点を設定していることだ。別の言い方としては、制約として見られてきた不合理が制約ではなかったという検討でもある。その意味では、本書について、環境による制約から生じた不合理な事象を複数均衡のように見るのは誤読であろう。
 またいち一般読者とは、著者が扱ってきた研究の事例がこの点においてかなり詳細に掘り進められていて、その点で、進化生物学者とはどのように生物を考えるのか、ということを示す書籍にもなっていることも面白い。
 こうした説明から、では、不合理を抱えた適合である「すごい進化」とは何か、と言うとき、著者は、「実はいやいや進化してきた」と表現している。ちょっとした修辞のようにも思えるが、この視点は、ダーウィンを悩ませた孔雀の羽についてのアモツ・ザハヴィの「ハンディキャップ理論」とも通底していく。特に異性へのアプローチに無駄が生じるのはまさにその無駄に意味があるとするのである。たしかに人間も含めて生物は「いやいや」見栄を張ってきたようにも思えてくる。
 本書はこうして最終前の第四部で、性進化の問題に入り、有名な「赤の女王仮説」が課題になっていく。その前に、なぜ性が存在するかについてまず遺伝的多様性が言及される。

 遺伝子のシャッフルによる遺伝的な質の向上は、有性生殖の進化を説明する理由として一般には広く知られていますし、直観的にも理解しやすい考え方です。私も高校時代、遺伝的な多様性にもとづいた解説を授業で教わった記憶があります。しかし、この仮説だけでは有性生殖の維持を十分に説明できないことは、進化生物学者の間でよく認識されていることです。(後略)

 かくしてウィリアム・ハミルトンの考えを元にリー・ヴァン・ヴェーレンの「赤の女王仮説」が示される。これについては、ウィキペディアなどにも説明があるだろうからここでは言及しないが、本書を読んで知的な興奮を覚えたのは、実はこの仮説は定説的ではあっても、決定的ではないという点だった。学ぶことは楽しいものだ。私なども、へえそうなのかと感心した。

(前略)現在では、赤の女王のメカニズムだけでは有性生殖の普遍性を説明しきれないというのが大方の進化生物学者の共通認識になっていると思われます。

 ではどうなのか。なぜ性は存在するのか? 進化論の現在はこう語られている。

(前略)というわけで、進化生物学と真剣に向き合っている研究者の前に、いまだ有性生殖の維持は未解決の謎として君臨していたのです。

 本書はそこで終わらず、にもかかわらず、本書らしい説明を与えようとする。簡単に言えば、オスがひとたび生じてしまったらそれにロックインされてしまい、仕方なく維持されている、というものだ。いち読者として当然ながら、ではなぜオスが発生したのかという議論がなければ、それにはあまり説得力は感じられない。それは同語反復にしか感じられない。
 第四部ではこれに続いて擬態について言及し、終章で「収斂進化」について言及する。いくつか関連の事例が挙げられ、また収斂進化についても「普遍性は分かっていません」としているが、率直に言えば、この問題にあえて向き合っていないように感じられた。
 この分野に関心を持ち続けてきたいち読者としての突飛な思いつきではあるが、サイモン・コンウェイ=モリスの「進化の運命-孤独な宇宙の必然としての人間」(参照)などを読むと、自然淘汰の不合理性と収斂進化には恐らくなんらかの関わりがあるように感じられる。
 いずれにしても、この分野での久しぶりの面白い読書だった。本書の注も充実しているので、この分野に進もうとしている初学者の入門にもなるだろうと期待した。

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2017.06.09

[書評] 我々みんなが科学の専門家なのか?(ハリー・コリンズ)

 「我々みんなが科学の専門家なのか?」という書名は、わかりやすそうでわかりづらそうに思える。というのは、その問いは修辞的であって、自明に「No。我々みんなが科学の専門家ではない」ということを導くかに思えるからだ。だがおそらく、この書名に対してそのように端的に、ただNo、というのであれば、恐らく誤読となるのではないだろうか、と読後思った。

 というのは、現代社会にもたらす科学的知識の問題の大きな一面は、実際上、「我々みんなが科学の専門家たりうる」ということを前提にしているからだ。
 本書でも述べられているが、簡単に言えば、科学者でなくても、所定の知的訓練をしてきた人間であえれば、科学分野の論文の概要を正確に読みこなし、それを基礎づけとして、持論を展開することができるからだ。本書の問題提起は、まさに、そのことが問題なのだということである。
 その背景にはもうひとつ大きな問題が横たわっている。科学的な真理と呼ばれているものは、実は諸科学者のなかで必ずしも真理として定まっているとは限らないということだ。これについても簡単に言えば、どの科学分野にも異端的学説を唱える科学者が存在することであり、しかもその異端的科学者は別段、偽科学でもないということだ。本書は、重力についての議論で実例が充実している。
 もう少し問題を敷衍しよう。逆のプロセスとして例えるならば、こうなる。科学者ではないある知識人が、ある社会的な持論を展開したいがために、特定の科学的論文の結果を選択することができる、ということだ。しかも、そこで選ばれた科学的論文の結果自体は、その科学分野の方法論では正しいとも間違っているとも言えないということだ。
 この問題の深刻さが理解できるだろうか。その問題の深刻さが理解できる知識人なら本書は必読だと言っていいだろう。ハードカバーの訳本であるが、書籍としては短いほうの部類で、翻訳もこなれているので読みやすい。しかし、難しいのは、本書が導き出した結論は、実はそう単純には受け入れがたいことがある、という点である。
 その前に、本書の前提について補足しておくべきだろう。基本的には、現代において科学論をどう考えるかである。この点については訳者の「あとがき」が非常にコンサイスにまとまっているので、ある意味ではそれだけ読んだ方がすっきりしかねない。そこでは、《科学論の「三つの波」》としてまとめられているが、それをさらに簡単に私の言葉でまとめたい。

  1. 素朴科学論 科学を単純に礼賛する立場である。ネットの偽科学批判などもこれに類する。時代的には1950年代的である。
  2. 科学パラダイム論 トマス・クーンのパラダイム論を典型に素朴科学論を否定した立場である。科学には客観的で絶対的な真実はないとすると理解しても近い。1960年代以降の潮流である。
  3. 本書の科学論 科学パラダイム論を否定せず、かつ素朴科学論にも戻らないとする考えである。

 ネットの世界と限らず日本では、科学パラダイム論ですら理解されない傾向はあるが、現実の課題としては、すでにそうした水準を超えて、本書が問題とする事象は発生している。例えば、原発の危険性や受動喫煙、子宮頸癌ワクチンについての知見を支える科学論は、素朴科学論的には単純に決定できない側面があり、そうでありながら、また科学パラダイム論的な知的な遊戯に放置しおくわけにもいかない。むしろ、偽科学として批判される素朴科学論の水準は、消費者保護という課題ではあっても、科学と社会の関係での重要性は乏しい。同様に、本書でも注意深く言及されているが、マクロ経済額は科学ではないから意味がないというな稚拙な意見も、単に素朴科学論の変種でしかなく、それほど知的な水準の問題とはなりえない。
 では、現在、課題たりえる、その第三の立場をどのように考えたら良いのか? このことは、科学的専門知識とは何かという問題でもある。
 本書の結語として見れば、科学者のエートスという概念への市民社会からの敬意ということになる。卑しい目的や政治的な目的で研究している科学者がいるとしても、科学者のエートス自体は理想的に規定できるものだということである。
 私見では、この結語は弱い。倫理的な言明がそれゆえに自己撞着しているようにも感じられる(倫理の前提なく倫理課題となっている)。しかし、そのこと自体が本書の価値を低めるものではない。むしろ、ここに現在社会の大きな問題があり、そのある思索の結果がそこに辿り着くしかないのだろうか、と問いかけを与える点に大きな意味がある。本書の訳者あとがきはコンサイスによくまとまっているが、本書の価値はその議論と思索のプロセスのなかにある。
 

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2017.06.06

[書評] 聖なる道を歩く 黙想と祈りのラビリンス・ウォーク(ローレン・アートレス)

 先日チャペルの前を通りがかると何か案内の人がいてイベントをしているらしく、聞いてみると「ラビリンス」だという。簡単な説明も受けるがなんのことかわからない。おそらく上座部仏教的な歩く瞑想、あるいは歩く祈りのようなもののキリスト教バージョンではないかと思い、時間もあったのでとにかく体験してみることにした。
 チャペルに入る。薄暗く、見渡すと私以外の人はいない。いくつかキャンドルがともりコプト教を連想させる音楽が流れ、いかにも神秘的な演出となっている。椅子は後方に片付けられ、床に大きな布が敷いてあり、そこに円周を基本にした迷路のような柄が描かれている。つまり、それがラビリンスなのだろう。靴を脱いでお歩きください、とのこと。やはり歩く瞑想であったかなと思う。

via Wikipedia

 ラビリンスの入り口はわかるが出口はない。中央に花の形のスペースがあり、そこが中央で、たぶん、そこに入ったら来た道を引き返せということだろう。
 上座部の歩く瞑想はやったことがあるので、その感覚で歩き始める。特に祈りもしない。一人静かに足長に合わせて歩く。こうした経験をしていると、人によっては神秘的な啓示を受けることもあるのだろうが、私はもうそういうのは嫌だなあとは思っている。あと、音楽はできればヒルデガルドがいいなと思っている。

 大きな布とは言ったものの、円の直径は12メートルくらいだろうか。周も12くらいに見える(11であった)。ゆっくり歩いても数分もすれば中央に辿り着くと思いきや、そうもいかない。意外にこれは遠いものだなあという感覚と、中央に近づいたと思いきや外周側に移るようでもあり、奇妙な感じにとらわれる。
 そうこうしているうちに、学生が8人ほどチャペルに入ってきて順に歩き始める。彼らはラビリンスの経験者なのか私のように初体験者なのかわからない。すたすたと歩く人もいる。私は小さくパニックする。中央に辿り着き、祈ることもないがチャペル内部の空間を見上げる。そのあとの帰路、この全員とすれ違うのかと少し怯えている。そしてその時は来る。相手との適度の間合いに心臓が高鳴り、私のほうから少し脇に反れる。と、相手も自然に反対に反れ、特に問題もなくすれ違う。ほっとして見渡すと、10人ほどの歩みの運動が、迷路的であるせいかランダムにも見えると同時に、これは惑星の暗示でもあるのだろう;かなり古代のデザインなのだろうと思う。
 私は彼らより早く始めたのですれ違いをすべて終えると帰路はまた一人である。そしてこれは、いずれ人生の時間というものの暗示であることは避けがたい。今年60歳になる私は、死という出口に向かう帰路にある。死を当然思う。が、ラビリンスを終えてみて、さしたる感慨もない。神秘的な体験などなにもなくてよかったと思う。
 翌朝のことだった。夢は覚えていないのだが、私はあのラビリンスの中にいるのだという奇妙な感覚があるこに気がついた。言葉では表現しづらい奇妙な感覚である。祈りでも敬虔さというのでもない。呪いといった悪しきものでもない。とにかく不思議な感覚があり、それはそれからもう1週間以上たつのにずっと残っている。
 あれはなんなのだろう。そうした思いからラビリンスについて扱った『聖なる道を歩く 黙想と祈りのラビリンス・ウォーク(ローレン・アートレス)』を読んだ。この本は第2版の翻訳で第1版は1995年。内容は学術的でないがそれなりに興味深い記述も多い(特に13芒星)。基本は著者のアートレスがラビリンスというものを知り、それに向き合い、自身で布ラビリンスを作り、また自身の教会にラビリンスを作る;そしてそのことで多くの人がラビリンスを体験する、というラビリンスの内的なかつ霊的な考察が中心となっている。
 ざっと読んだとき、少し物足りない本だなと思った。主観的すぎるのではないかとも思った。が、自分のあの感覚から再読してみると、なるほど、ああした感覚がこの本の核にあるのだということがわかる。その意味でこの本は、おそらくラビリンスというものの体験後でないと、わかりづらいかもしれないという印象ももった。もっとも、それは個人的な印象に過ぎないかもしれないが。
 またそうして読み込んでみると、ラビリンスというもののと、私も歩み、アートレスも主要に勧めるシャトル大聖堂の11周ラビリンス意匠の特殊性が内的によく記述されていることに驚く。別の言い方をすれば、そこは上座部の歩く瞑想とは異なる面でもある。もっとも彼女もこの本で述べているように、ラビリンスに正しい歩き方はないということは、前提として、ある。(ただ、エニアグラムにも似て古代に失われた秘儀もあったようには思えるが。)

via Wikipedia

 この本に当初、どちらかというと否定的な印象をもったのは、ユング的な記述が目立つこともあった。以前にこのブログにも書いたが、私は中学生の頃からユング心理学に傾倒し、そのため、30代にはもううんざりしていた経緯がある。オカルト的な嗜好も嫌いではないが、嫌悪もある。といったねじくれた心情を私は持っている。
 ラビリンスとは何かという視点からはずれ、霊性の体験記として本書を読むなら、著者のアートレスという女性にも当然ながら関心が向く。以前このブログでも数回書いたが、シンシア・ブジョー(Cynthia Bougeault)とよく似た印象を持った。彼女のほうは女性司祭で、アートレスは参事という違いはあるが、いずれも現在の聖公会がこうした霊的な女性の活躍によって新しい次元に向けて霊性を推進されているようすが感じ取れる。そこは、おそらく、旧教や新教にはない点かもしれない。
 日本では霊性は奇妙な文脈に置かれがちだし、ゆえにあまり語りづらい領域になっている。だが、人の霊性の希求というのはむしろできるだけ適切にその対象を見つけたほうがよいのではないか。そしてそのことに、女性の霊性というのが大きく関わるようにも思える。
 ただ、繰り返すが、こうしたことが語りづらい時代ではある。それでもあえていうなら、このブログのこの記事を見て、ラビリンスを知ってそれが心に(霊の感覚に)少しでも残るなら、体験し、本書を読まれるとよいだろうと思う。
 それはそれとして、ヒルデガルドの音楽なども、もし知らないなら、そうした霊的な感覚に近いのでお勧めしたい。

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