[書評] 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智)
本書(参照)は、北田暁大氏が、内田樹氏による2013年の発言「私は今の30代後半から45歳前後の世代が、申し訳ないですが、”日本際弱の世代”と考えています」に刺激されて、栗原裕一郎氏と後藤和智氏の二氏に呼びかけて実現した対談である。
というあたりで、本書を読みながらまた思ったのは、この鼎談が成立する論壇的な位相はなにかという疑問である。それは、いわゆる出版物的な論壇であり、対象とされる内田氏なども同じくそうした位相が前提になっている。
私は、そこが構造的にとても重要ではないかと思えた。俎上に載せられているのは、柄谷行人、上野千鶴子、内田樹、高橋源一郎、宮台真司、小熊英二、古市憲寿といった各氏で、いずれも出版社として見て、所定の冊数の捌ける書き手である。そうした出版業界のご事情的な言及はあまり対談にはなかったように思われる(まったくないわけでもないが)。
いずれにせよというか、そもそも現代ニッポン論壇事情というのは、そうしたある層での出版の構造であり、悪口でいうのではないが、本書もそうした出版構造の派生にある。ぶっちゃけ、戸配新聞と書店と図書館の棚の問題である。
私は自分なりにではあるが、些細な指摘がしたいという意図ではない。論壇に見えるかのものが、実際には出版構造の派生にあるとき、その構造内で配送される思想・イデオロギーはどのような状態になるのかという制約が重要だと思う。手紙は宛先に届かないこともありうる、という有名が命題があるが、私が本書で思ったことはつまるところそこである。本書の議論は、三氏と共感する人にとってはそおらく大半が頷けるものであっても、その対談を届けるべき相手には、多分届かないだろう。
ではそう割り切って、デリダ的な命題など修辞として済ませてしまうなら、この鼎談はどのように広く届かせるべきだったのか。そう私は考えた。私の結論は、もっと参考書的にしちゃえばいいんじゃないかということだ。
かつて日本版ポストモダンが湧いたとき、その象徴的な、浅田彰氏の『構造と力――記号論を超えて』(参照)について、氏の意図であったかは議論の余地はあるが、読者はそれを「チャート式」参考書のように受け取ったものだ。私などは、このあっけらかんとしたラカン理解はなんだろうとかと、思わぬ自分の駄洒落とともに驚愕すら覚えたものだったが……。しかし、それでも明確な図解的言説はインパクトがあったし、今となってはリフレ派の共産党宣言にも比する『エコノミスト・ミシュラン』(参照)もチャート式な明確で力があった。
柄谷行人、上野千鶴子、内田樹、高橋源一郎、宮台真司、小熊英二、古市憲寿といった各氏についても丁寧にその著作系列からチャート式に図解し、なぜ現状のような論者となったかを生成的に見てきたほうがよいだろうと思った。そうしたとき、おそらく隠された軸は、吉本隆明氏だろうと思う。吉本氏はこうした日本的な出版界的な論壇の意味を先験的に見抜いていたように私には思える。あと、あえてもう一人極端な例を加えるなら、江藤淳氏や西部邁氏より、西尾幹二氏のようにも思う。
【追記2017.6.21】
ブログ記事で提案した、各論者のチャート化については、すでに著者の一人の後藤和智氏の単著で実施されていたことを知ったので、補足しておきます。
同書はこのようにして各著作を8つ(図では6つ)のパラメータなどで表現しそれぞれに短評を加えることでその著作の特徴を統計的に見ていくというものです。こんな素っ頓狂な試みをしていることを是非知っていただきたく。 pic.twitter.com/cGI3FDUaq6
— 後藤和智@『現代ニッポン論壇事情』発売中 (@kazugoto) 2017年6月20日
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