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2017.04.15

[書評] 学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで(岡田麿里)

 『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』(参照)という書名からもわかるが、「あの花」と「ここさけ」という言葉を聞いてピンと来ない人はこの本を手に取らないかもしれない。逆に言えば、「めんま!」という言葉で泣き出してしまいそうな人は、なんの疑問もなくこの本を読み始めるだろう。それはそれでよいはずだが、手に取らずにいることには少し惜しい気がする。

 説明するまでもない話もするのも気後れがする。でも、そこから始めたい。「あの花」というのは、『あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない。』というアニメである。最近では『クズの本懐』(これについては別途書いてみたい気はしている)と同じく、フジテレビ系ノイタミナ枠の1クール11話の作品で、東北震災のあった2011年の4月から6月に放映された。死を悼むことを見つけ出すという点で、その時期的な重なり感が微妙に受け手にもあったかもしれない。その後は映画化も実写化もされた。物語は、秩父を舞台に6人の幼馴染たちが、めんまというその1人の少女の死によって友情の輪を崩し、10年後の高校生である。かつてリーダーであり物語の主人公の宿海仁太は引きこもりをしている。そこに死霊のめんまが現れる。
 「ここさけ」についてはかつてこのブログでも書いたことがある(参照)が、『心が叫びたがってるんだ。』のことである。舞台は同じく秩父の風景である。物語は、主人公の女の子・成瀬順が幼いころ、山の上のお城(ラブホテル)から出てくる父親と浮気相手の女を見て、「王子様とお姫様」だと思い、それを母親に話して家族破綻。その上、父親からも呪詛されて、自由に言葉が言えない少女になりその後高校生となる。
 2つの物語に共通なのは、秩父であること、違和感のある高校生活である。さらに言えば、親子関係の問題がある。これらは当然、その脚本家である岡田麿里の実経験的なリアリティに起因することは推測が付くものの、なぜかこれまで関連の話は公開されていなかった。その意味で言うなら、この本は、カバーの著者紹介にあるように「本書で初めて、秩父が自分が生まれた故郷であり、小学校から高学年から高校時代まで、学校に行けなかったことを明かした」ということになる。その興味で読んでもよいだろう。私も基本的にそう読んだ。
 が、私はある奇妙な違和感を感じた。私は「あの花」「ここさけ」も見ているのだが、この本を読みながら、この本はそうした作品を通しての、彼女の自伝性もだが、不登校の子どもの内面の一例としてもっと広く読まれるべきではないかという思いがしてきた。「あの花」や「ここさけ」を知らない人も読むべきなのではないか。
 そして、その思いのところである困惑に出会う。この本を読めば、不登校の子どもが理解できるかというと、そういう典型事例ではない。彼女はかなり特殊な人である。彼女のように特殊な人は不登校にならざるを得ないことは、私のような読者には自明に思える。ではどこにこの本の普遍的な訴求力があるのだろう? 不登校が関連していることは確かだ。
 不登校というとき、私たちの大半はおそらく、不登校の理由というものを尋ねるように考える。そしてその理由は物語して了解されるべきものであることが、あらかじめ前提とされている。この文脈で言うなら、「あの花」「ここさけ」もそうした物語として読めるような憶測が成り立ちそうに思える。
 だがこの本を読んで私が思ったことは、まったくそうではないんじゃないか、ということだった。彼女が不登校になったのは、もちろんいくつか理由は書かれているし、「あの花」「ここさけ」の登場人物を連想される思い出も面白い。だが、主要な理由はというというと、ない。また物語的な理由もない。ただ、「あの花」の主人公・宿海仁太のように、不登校の子供たちは、あるきっかけでたまたま学校に行かないことがあり、それがそのまま不登校の日常に連なっていくのである。こう言うべきかもしれない、不登校というのはむしろ本来そういうものであり、そのほうがむしろ強固な日常性なのだ、と。不登校が日常性であるということはどういうことなのか、と言ってもいいだろう。
 本書のなかでは、不登校のきっかけの時期でこう語られている。親しい友だちから「いつものマロリらしくない」と言われたときである。「マロリ」はその時期の彼女自身の自己設定のキャラクター名であった。


 そこから、日常に具体的な違和感をもつようになってしまった。
 私は、皆が望むような対応をしないと「いつもの私」ではなくなる。でも、皆が望むような私は紛い物。すでに私の中のキャラクター設定は崩壊しかけていたのだと思う。

 違和感のある具体的な日常は日常ではなく、不登校が日常になっていく。ただ、その先に書かれているが、「かといって、それが本来の姿かと言われるとそれも迷った」とある。そしてそこで「ずるずると変化していった現状」という日常が現れる。その内実を描いた、第三章と第四章はおそらく本書の圧巻だろう。ネットはなどでは、いじめはいけないといった単純極まるお話ばかりがまかり通るが、ここに書かれている修学旅行体験の陰影もまた深刻な問題であり、いじめはいけないと騒ぐ人たちには見えてはこないものがある。
 彼女を「救った」のは、私が受け取ったところで言えば、一つの事実と、一人の教師である。事実は「高校を受験して受かれば、中学校としては卒業せざるを得なくなる」ということである。これで彼女は出席日数問題を豪快にはね飛ばした。日本の義務教育は出席日数という制度を権力の道具にしている。
 教師は下谷先生である。彼は彼女の作文指導をするのだが、その講評で、「麿里という少女の……」という文があり、彼女はその書き言葉のなかで自身が「少女」であるとに気がつく。ここも本書の感動的なところだ。人が他者の目のなかに確実に疎外されるは逆に救済になる。私はこうも言いたい、日本の社会は優しさという一種の拷問があるが、そこでは人は優しさから疎外された確実な他者の目のなかにのみ逃げ出せる、と。
 第八章以降は、獲得された「少女」が「岡田麿里」に変貌し、「あの花」「ここさけ」を書く脚本家になる物語に移る。ここは優れた脚本家が生まれる秘密と、『エヴァンゲリオン』以降のアニメ史に重なる興味もある。アンチと言われる人々に遭遇するようすもまたネットという時代史でもある。
 もちろん、いろいろな読み方ができる本である。私としてはこの本はもう一点、「あの花」「ここさけ」を超える潜在性(確実な他者)を暗示しているように思えた。

 

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コメント

結局のところVシネで下積みした経験が大きかったんじゃないですかね
昼ドラっぽい作風ですし。

投稿: cinemangasyndrome | 2017.04.27 18:30

いつも文章を拝見させていただいています。

非正規とはいえ教員をやらせていただいている立場から一つだけ気になりましたので書き込みさせていただいています。

「日本の義務教育は出席日数という制度を権力の道具にしている。」
とあります。
申し訳ないのですが原作に目を通してはいません。
「高校を受験して受かれば、中学校としては卒業せざるを得なくなる」
とあります。これは高校の合格がなければ卒業できなかったと言うことを意味していると受け取りました。
私は公立の中学・高校を経験していますがそのようなケースは東京都・埼玉県では聞いたことが無いです。
私の経験では中学校で一日も登校していなくとも本人と保護者が望めば卒業を認めていました。
なぜかと言えば本人が抱えている問題が解決しない限り、不登校を理由にした留年は何の問題解決にもならないからです。
また卒業を認めるので当然権力の源泉にはなりえないと思っています。

どのような理由があって権力の道具であると考えられているのかも知りたいです。
特に批判したいというわけではなく、なぜかという点を再び記事にしていただければ幸いです。

投稿: ゲロ左衛門 | 2017.04.27 21:49

ゲロ左衛門さんへ。該当部分について書籍をまず読まれるとよいと思います。また、私の認識は古くなっているでしょうが、現状では、実際には卒業できなことはないと思います。ただ、これは校長権限(権力)だと認識しています。この件について、少しネットでの声も拾ってみてはどうでしょうか。すべてが正しいとも思いませんが。

投稿: finalvent | 2017.04.27 22:02

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