やあ、僕だよ。久しぶり。
やあ、僕だよ。久しぶり。
ブログに書きたいことがなかったわけでもないんだけど、まあ、いろいろあってね。さて、なんの話にするかな。森友学園? まさか。もっとつまんない話がしたいんだ。ブログなんてそう、そもそもつまんないもんじゃないか。
昨日だった。ダイヤモンド・オンラインというサイトで『自民党「愛煙家」議員暗躍!受動喫煙対策法案は骨抜きに』という記事を見かけた(参照)。内容はわかりやすい。表題から想像が付くと思う。でも、ついでにリードも引用しておこう。こういう話だ。
森友学園問題や南スーダンの自衛隊の日報問題など課題の多い第193回通常国会のなかで、政府が成立を目指そうとしている1つの法案がある。2020年の東京五輪に向けて制定を目指す受動喫煙対策法案だ。受動喫煙の制限促進に好意的な世論を考えれば、速やかに制定してもおかしくないこの法案。だが、自民党内の強硬な反対もあり、法案成立の目途は見えていない。この法案を巡る自民党内の動きについて、政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏に聞いた。(取材・文/清談社)
つまり政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏が語る受動喫煙と自民党政界のお話ということ。こんなふうに続く。
「よく永田町の論理などと揶揄されますが、今回の法案についても、永田町の感覚は一般社会と遊離しています。自民党一強の弊害とも言えますが、いまや自民党議員の多くは、社会の空気や風を読もうとする感覚を持っていません。国民の8割近くが非喫煙者で、受動喫煙の制限促進を望む圧倒的な世論の存在を無視しているんです」
ほお。「国民の8割近くが非喫煙者で、受動喫煙の制限促進を望む圧倒的な世論」という発言に典拠が記されていなかったが、自分もそれに賛成なので、たぶん、だいたいそうだろうなとは思った。
そして、多数の国民の願いが自民党議員に通じないのは、「自民党議員の多くは、社会の空気や風を読もうとする感覚を持っていません」ということらしい。それもそうかなと思う。ただ、代議士というのはそれほど社会の空気や風を読もうとしなくてもいいんじゃないのとも思うけど。
かくして真相はこうらしい。
なぜ、そこまで自民党は受動喫煙の制限に後ろ向きなのか。そこには党内のある事情が邪魔をしているという。
「実は単純な話で、自民党内の喫煙率が一般社会よりも断然高いからなんです。どこでも煙草を吸いたい、規制されたくない、と思っている愛煙家の議員がたくさんいます」(鈴木氏)
そこは印象に過ぎないんじゃないかなという印象も持った。
さてと。
この話と直接関係するわけではないが、受動喫煙という点に関連して先日ニューズウィークで読んだ記事を連想した。その記事だと、受動喫煙の弊害は従来考えられていたよりかなり少ないらしいというのだ。ほんとかね。偽科学じゃないの。
同記事は翻訳記事のはずだが、実際にはかなり意訳されている。オリジナルはスレートの「We Used Terrible Science to Justify Smoking Bans(喫煙規制を正当化するために私たちは恐怖の科学を使ってきた)」(参照)である。
同記事の議論は、まず受動喫煙による心臓発作リスクの話題を扱う。この点では近年、統計解析が進むにつれ、従来想定されていたより、そのリスクは少ないらしいという話が展開している。ほんとかねと思う人はリンク先にいろいろ議論や典拠もあるので参照するといい。
受動喫煙の弊害というと日本人としては、肺癌や呼吸器系の疾患のほうを先に連想するだろう。そこはどうか。というと、それも存外に低いらしい。今頃になってびっくりしたのだけど、同種の主張がNCI(米国立がん研究所)のジャーナルに掲載されていたのだね(参照)。
実際のところ、受動喫煙による健康リスクは再評価して良さそうだし、その結果、やはり従来通りのリスクがあるということになるのかもしれない。
ただ、そうではなかった場合はどうなるのだろうか? つまり、受動喫煙による健康リスクは従来想定されいたよりかなり低い場合である。
ひとつの考え方としては、受動喫煙による健康リスクが低くてもリスクなんだから規制してよいとする考え方である。日本人の一部に受けそうだ。
この問題、先のスレートの記事の論旨にもからんでくるのだけど、社会的な規制というのは同時に市民の自由を奪うことになる。つ・ま・り(小松菜奈の声で)、規制の根拠の妥当性はどのくらいあるのだろうか?ということだ。
もっとも現実的にはすでに推進された受動喫煙規制を逆行させるのもどうかとは思う。単純な話、駅のホームで所構わず煙草をすぱすぱやっている昭和の光景に戻すべきでもないだろう。
ここでこの問題をもう少し自分に引き寄せて考えてみる。
現在の私は煙草の臭いが大嫌いで、分煙がしっかりしていないカフェやファミレスにいると嘔吐感がする。これはその臭いが嫌いというのもあるが、無意識のなかではその煙草の臭いを発生させている人たちへの嫌悪もまざっている。そして、受動喫煙規制はそうした人々への、臭覚といった生物的な嫌悪の正当化の心理として働いているのを少し感じている。
そこに、なにか、ぞっとしたのだ。
ネットでなんか偉そうなことを言う人たちは、どこかに社会的な正義への信念を持ち合わせていて、その正義を使って他者への嫌悪を正当化しがちなものだ。しかし、そうした心理機構というのは、臭覚といった生物的な嫌悪を正当化した種類のヘイトと同じ起源なのではないだろうか。
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