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2017.02.02

「マスク依存」の何がいけないのだろうか?

 朝方時計代わりにNHKを流していることがあるが、昨日だったかたまたま「マスク依存」という話を見かけた。ああ、これだ。NHK「自分を隠したい 広がる“マスク依存”」(参照)。ここで、「意外な使われ方が広がっています」として、①ファッション、②心の不安からマスク依存を挙げ、この二番目を「取材」していた。

マスクがないと不安を感じ、手放せなくなる、いわば“マスク依存”ともいえる状態。 精神科の医師は、深刻な事態を招くこともあると指摘します。

精神科医 渡辺登さん
「他人に自分の喜怒哀楽を読まれずに済みますから、自分がどのように相手に見られているか気にしないで済む。
マスク依存を続けていると、社会との壁を高く作ってしまう。
ひきこもりに陥ってしまう危険性もある。」



“マスク依存”から抜け出すためにはどうすればよいのか。
カギは、やはり人とのコミュニケーションにあると精神科医は指摘します。

精神科医 渡辺登さん
「ゆっくりゆっくり時間をかけて、人との温かい交流を増やしていくのがポイントだと思っています。
そこで自信を高めていって、マスクを着けていかないで済む日を増やしていくんですね。
まず一歩踏み出してもらえればと願っています。」


 最初聞き流していたのだが、なんだか変な話だなという気持ちが強くなって、後半は真面目にテレビを見てしまった。
 単純な話、「マスク依存」なるものがあるとして、何がいけないのだろうか?
 薬物依存、アルコール依存、セックス依存、ひきこもり、などが社会問題となるのは理解できるが、マスクをするのは、メガネをかけるのとさして違ったことは思えない。競走馬に付ける視野を限定するような器具を装着するなら社会生活において危険だが、通常のマスクで視野が狭まって危険ということはない。
 もちろん、NHK取材の文脈を追ってみると、社会において自分の顔を隠すことはよくない、という含意があるのだろう、ということはわかる。
 ただ、これ、他に例えば、禿げの人がいるとする(まあ)、で、自分の禿げを隠すことはよくない、と言えるだろうか。ほっとけ。
 そもそも化粧自体、本当の顔を隠すこともあるんで(洗うと別人の顔がでるようなのとかも)、それがいけないわけもない。
 NHKでもそのあたりは少し配慮しているのか、「決して悪いわけではありません」とは言明している。また対人恐怖症の人の補助にはよいという話もあるにはある。

和久田
「マスクをすることが決して悪いわけではありません。
マスクには感染防止といった本来の目的があります。
また、専門家によりますと、対人恐怖症などの人にとっては、マスクが社会との接点を保つ、いわば“松葉づえ”のような存在になることもあるということです。」

 「松葉づえ」という表現には「いずれ外す」のが正常という含みはやはりあるだろう。
 番組ではこの他、参加者全員がマスクを付けた男女の出会いイベントの話題があったが、これはマスク依存とは関係ないと思う。コスプレの出会いイベントと似たようなものだろう。
 さてそのあとも、このことは少し考えていた。
 社会恐怖や対人恐怖が理由でマスクをしているが本当はやめたい、という人はなんらかの精神的な援助は必要だと思うが、これはマスクに限らないだろう。
 好きでマスクをしているので自身では特段問題はないという人はどうなのだろう。これは禿げの人がカツラを付けているのと同じではないだろうか。
 そもそも「人との温かい交流を増やしていく」必要というのはないだろう。機能的に社会参加できていれば市民としてはそれ以上は求められない。だから、公的な本人確認時や飛行機登場時などには顔の認識は必要とはされる。あとは個人の生き方の問題だろう。
 ただ、と思う、マージナルな部分はあるだろう。
 たとえば、学校の教師とかが、いつも教壇でマスクで過ごすことができるか、というと、現実はできそうになさそうだという推測はできる。しかしなぜ、できそうにないかというと、よくわからない。たぶん、そんな規定はないはずだ。
 これがマスクではなく、スカーフだったらどうだろう。スカーフを付けて教壇に立つ先生というのはありうるだろうか?
 なんとなく想像しがたい。
 だが、スカーフを常時付けた公教育の教師は学校や社会が許容すべきだ。同じ理屈で、常時マスクをつけている教師というのも許容してよいだろうと思う。
 

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