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2016.11.18

[ドラマ] ザ・ニック(The Knick)

 HBO・Cinemaxドラマ「ザ・ニック(The Knick)」は、20世紀が始まったばかりのニューヨーク、ハーレムのニッカーボッカー病院(The Knickerbocker Hospital)を舞台としている。題名の「ザ・ニック」は実在した同病院の通称である。
 第1シーズンは10エピソードで、物語は1900年から始まる。歴史ドラマとも言えるし、医療ドラマとも言える。まず驚かされるのは、その時代状況のあまりにリアルな再現性と、そして冒頭から始まる衝撃的な外科手術、そして、2000年代の東欧的なエレクトリック・ビートの音楽である。タイムマシンで見たような世界なのに、そこには極めて現代的というか未来的な映像と物語が展開される。デストピアSFの感触に近い。会話は当時を思わせる古風な響きと現代語的なアイロニカルで軽快な言い回しが微妙に重なる。
 この時代からすでにハーレムは移民や黒人など貧困層が増大し、それに従い、住民の状況的にはすべてが、病院の必死の努力もむなしく、じわじわと絶望につながっていく。それが病院をも地獄に巻き込んでいく。
 こういうとヒューマンなドラマのようだが、どこにも単純なヒューマニズムはない。そのあたりも極めて現代的な作品である。監督のスティーヴン・ソダーバーグはこういう作品を作りたかったのだろうというのがよく伝わってくる。
 主人公は、ジョン・サッカリー医師。実在の人物ではない。役者はオスカー賞にノミネートされた俳優クライブ・オーウェンだが、どことなく役所広司のような印象がある。演技はもちろん抜群にうまい。天才的な医師だが、コカイン中毒になって、じわじわと人間として崩壊していく。もう1人の主人公が欧州で研鑽した黒人医師であるアルジャーノン・エドワーズ医師だが、上司となるサッカリーから差別を受ける。一話目はこの2人の対決から人種を越えていく感動的な物語かなとテレビドラマの枠内で想定したが、とてもそこには収まらない展開となる。なんというのだろうか。肉々としたルネサンス絵画をダークにしたような物語が映像として展開される。グロ映像にしだいに麻痺してくる。
 主要登場人物は物語の展開に従って微妙に焦点が当てられていく。全体物語は、第一話に見られる一話完結性はなく、いろろ多重的に展開されていく。このあたりのドラマ手法も非常に面白く、ところどころ、中間的・解説的な説明もなく、びっくり箱を当てたような小さな帰結が現れる。
 若干ネタバレになるが、看護師のルーシー・エルキンズを演じるイヴ・ヒューソンの演技がとてもよい。当初、若くて演技力のない大根役者かなと思ったが逆で、あえてこういう演出をこなしているのだろう。U2のヴォーカル・ボノの次女である。
 ドラマ作品としてはエミー賞などを受賞していることからもわかるように、すでにかなり定評がある。が、それにしても、ある程度安心してこうした長い尺の作品が作れるというのが、独立系のメディアの良さだろうなとしみじみ思う。映画の時代が終わったとは言わないが、新しいドラマと映画の棲み分けは始まっている。
 HBOの放映権はHuluが独占的に購入している。メディア戦略としても正しいだろうし、Netflixのオリジナル・コンテンツ路線などにも近い。いずれも旧来の視聴率にとらわれない独自コンテンツを上手に保持することが今後メディア戦略でいっそう重要になっていくだろう。
 ただ率直に言って、日本のHuluは日テレに買われたこともあり、表向きがべたな日本向けコンテンツ押しになっていて、なかなかに扱いにくい。当然、吹き替えなども日本のHuluは行わない。
 まあ、「ザ・ニック」について言えばは、手術シーンがグロいので通常のテレビ展開もできないし、吹き替えに見合うコストも回収しづらいだろうから、こうして日本で見られるだけ御の字の部類かもしれない。


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2016.11.16

[コミック] orange (高野苺)

 ドラマとメディアの関係が現在どうなっているのか、ということが、昨年あたりから妙に気になりだし、そうした視点からもとても面白かったのが、「orange」だった。原作はコミックで、当初「別冊マーガレット」2012年4月号から12月号まで連載され休載。「月刊アクション」で再開し2014年2月号から2015年10月号に不定期連載された。
 映画は2015年12月公開。『のだめカンタービレ』のように、原作の最終を追いかけるように映画が公開された。その後、この夏アニメとして、1クールのアニメ版が出来た。
 原作はそれ自体面白い。作者、高野苺の絵も、少女漫画にありがちな作風と見る人もいるが、私などには独自のアート性が感じられて美しい。この点は、アニメにもよく生かされていた。
 物語は、ある意味、単純というか、一見、誰もが思いつきそうな話である。
 長野県松本市の女子高校2年生の高宮菜穂こと「なお」は、2年生になった始業式の日、どこからともなく、10年後26歳になっている未来自分から手紙を受け取る。そこには、高校2年生の時代に起きる悲劇への後悔が綴られ、その悲劇を回避してほしいというメッセージが書かれている。
 悲劇というのは、その日東京から転校してくる成瀬翔こと「かける」の自殺である。物語は翔の自殺を防ぐために、彼女の友だちである村坂あずさ、茅野貴子、須和弘人(すわ)、萩田朔が関わっていく。悲劇は避けられるのか。
 一見すると、よくあるタイムパラドックス物で、そうした点からも読まれるのはしかたない。だが、その視点からは残念ながら欠点しか浮かび上がらない。しいてその点での解決は「パラレルワールド」ということになる。だが重要なのは、誰もが26歳には必ず抱くだろう青春の後悔であり、生きられなかった人生というの意味である。
 以下、ネタバレを含む。
 この物語で、生きられなかった人生は、表面的には、成瀬翔の自殺の有無に分かれるように見える。だが、作品の本質として分かれているのは、後悔の果てに須和弘人の妻となり子どもを産んだ高宮菜穂か、あるいはそうではないかもしれない高宮菜穂か、である。菜穂は成瀬翔と結婚するかもしれない。
 そこは、原作者の意図として継続作の『orange -未来-』で気になる。個人的には、菜穂は須和と結婚するだろうと思う。
 この物語で、人生の分岐での選択をしているのは、実は菜穂でも翔でもない。須和である。物語の隠された主人公は須和であり、物語のクライマックスは翔の自殺にあるのではなく、須和が未来の自分から受け取る妻と子どもの写真を眺めるシーンである。ここをコミックではさらっと描いていたが、アニメではカットを増やして重視していた。脚本家のすぐれた洞察力を感じた。
 ひどい言い方に聞こえるかもしれないが、これは、近代日本文学の宿痾ともいえるホモソーシャルの心性である。夏目漱石の『こころ』、高橋留美子の『めぞん一刻』、これらは、みな、男が女を性的に交換しあうことで同性の絆を深めていく。
 ただ、この作品もまたそうしたホモソーシャルな作品のいちヴァリエーションなのかというのが、作品後深く心に残る問題だった。
 須和としては、菜穂を愛するがゆえに自分の身を引いたという『紅の豚』的なダンディズムもあるが、そこにはさらにもう一段、無意識にひっかかるものがある。そのひっかかりは、菜穂が産む子どもが「翔」であることだろう。菜穂は「翔」の母になることで、過去の翔を生かす使命を受け取っている。
 奇妙な読解になるし、私の読解はまさに奇妙なものでしかないだろうが、メインの物語して描かれている高校生のドラマは、パラレルワールドというより、ただの無だろう。菜穂が「翔」を産んだことの意味が、パラレルワールド的に表現された幻影だろう。蛇足だが、コミックの5巻の裏表紙のカバーの下の絵が切ない。
 私たちの多くは、よほど鈍感か、あるいは文学的な感性のない人でなければ、青春とは深い悔恨であり、それによって刻み込まれた個性によってその後の人生を生きてゆくものである。若い日の悔恨に解消などはないが、なお生きるのであれば、そこから生きる課題を受け取るしかない。
 映画とアニメの話に移る。
 悪い映画ではなかったと思う。原作との改変は尺の都合でしかたがない面はあるだろう。むしろ私にとって残念だったのは、撮影の時間が限定されているせいか、松本という街の四季の美しさがごまかされてしまっていたことだった。この作品を映画化するなら、彼らをもっと松本の四季の風景のなかに融け込ませるべきだっただろう。
 アニメのほうは、自分のツボすぎてこれはまいったなあと思ったのは、菜穂の声の花澤香菜だった。声質の役作りは、映画の土屋太鳳の影響もあるようには思えたが……。
 アニメの作り込みはすばらしいものだった。1クールなので、映画の2倍の尺が取れることもあるだろう。それでも最終回前の回の仕掛けは見事だった。
 このあたり、他の作品にも言えることだが、映画というメディアがどうしても尺の限定を強く受けすぎている。

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2016.11.14

[ドラマ] マーチェラ(Marcella)

 変なテイストの作品だった。それだけでなんとも独自の中毒性のある作品だった。
 Netflixオリジナル・コンテンツなんで、当面、そこでしか見れられない。こういうのは今後もネトフリで囲っていくものだろうか。そこも気になった。
 邦題は『女刑事マーチェラ』として、主人公がまさに女性の刑事であることを示している。つまり刑事物語であり、予告や冒頭のシーンからもわかるようにサスペンス・ドラマでもある。そこまでは、では、マーチェラとはどういう刑事なのかという点に当然関心が向く。なぜ「マーチェラ」かという暗喩も多少気になる。英語圏なら「マーセラ」だろうし、ドラマのなかでも他者からは「マーセラ」と初対面では呼ばれやすい。
 こうしたドラマは基本、捜査手法や刑事のキャラクターに依存する。米国作品だと『アンフォゲッタブル』のような異能刑事物語だったりする。こちらは女刑事キャリー・ウェルズで、ポピー・モンゴメリーのキャラクターはよく生かされているし、ニューヨークという街もよく描かれている。街はこうしたドラマにおけるある決定的な要素だ。
 マーチェラはどうか。異能のようなものはあるかというと、少なくともキャリーのような異能はない。ガンファイトは出て来ない。街はロンドンだが、なんというのか、私などが思い描く風景的なロンドンというより、地上と上空の視線が絡み合うアングルの映像が多い。地上は先進国にありがちな矛盾した光景で、それは微妙に東京に似ている。上空からは開発の情景が強調されている。作り変えられていくロンドンということだ。まさにそのことが物語の中核にも関わっていく。
 物語としては、連続殺人事件物(シリアル・キラー物)であり、それに間違いもないのだが、微妙にずれている。シリアル・キラーの心性とマーチェラの心性は奇妙に融合していく。その融合の微妙な頂点に恐怖と空白が生じる。そこが作品も中心性であることは明らかだ。
 刑事でもあるがマーチェラは、刑事であることにまつわる悲劇を負っているが、どちらかというと表面的には2人の子どもを持つ40代の普通の主婦であり、その普通の人間が狂気に崩壊する様子とシリアル・キラーの物語は並行する。そして頂点となる空白の空間のなかで善悪の倫理は消える。『デアデヴィル』のような、何が善で何が悪かという葛藤や矛盾、融合、鏡像ではない。そのせいか結果としてマーチェラの心性はある一線をぼんやりと越えていく。そのことが、マーチェラ自身と彼女を取り巻く、性の欲動とも共鳴するあたりは、恐怖とは異なっていながら、エロティックでぞくぞくとするものがある。
 サスペンス・ドラマにありがちともいえるが、作品はかなり映像にもたれかかっている。これが小説化できるのかよくわからない。推理小説的には、映像に拠ったサブストーリーがいわゆる「燻製ニシンの虚偽」ということになるが、『ボディ・オブ・プルーフ 死体の証言』のような単純なものではない。そららは最終的には狂気のなかにきれいに統合されることになる。
 気になって作者を調べてみると、スウェーデンの作家ハンス・ローセンフェルトだった。なるほど北欧的な暗い感じはそうした感性からだろうかと関連情報を見ていくと、『THE BRIDGE』の脚本家でもあった。メキシコ国境?と思ったが、どうやら米国リメークの前作品があるようだ。
 シーズン1は8話と短い。シーズン2も企画されているらしい。シーズン1で残された問題を引き継ぐのか、別の物語になるのかはわからない。

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