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2016.10.05

曾野綾子(85)が夫・三浦朱門(90)を自宅介護する話に関連して

 週刊誌が比較的安価にオンラインで読めるようになって、週刊現代といった雑誌もざっと目を通すようになった。週刊ポストのほうに曾野綾子の連載があるのは知っていたが、週刊現代のほうにもあるのを見つけ、そしてそのテーマが夫・三浦朱門の介護であるのを知って少し興味をもった。彼ももう90歳でボケてもいいころではあるが、彼の友人の阿川弘之などは90歳でも明晰だったなとか思い出し、調べ直すと、阿川はボケはないものの90歳で介護が必要になっていた。まあ、そういうものだろう。
 曾野綾子自身は85歳で、先の文章を読んでもまだ気迫がある。というか、ちょっとありすぎるかなと、先日の同コラム『自宅で夫を介護する』の第3回で思った。
 話は表題通り、夫・朱門を自宅で介護するというものだ。率直なところ、それは無理じゃないかなあと思った。タレント兼エコノミストの森永卓郎も当初自宅で親の介護をしようとしたが断念した話をどこかで読んだが、難しいものだ。阿川も「そこそこの貯え」があり、さらに娘・佐和子の知人の紹介もあって介護付きの病院に入ったが、彼女はラッキーだったと言っている。皮肉な言い方になるが、庶民にそのラキネスは回らないだろう。
 が、曾野は怪我をしてボケの兆候もある病人の夫を病院から、かなり強引に退院させた。理由がふるっているというか、そこに気迫がある。


 いかにももっともらしい理由を挙げれば、一つには病人が望んだからであり、もう一つは社会に対しても、長引く介護を個人が病院に引き受けてもらうなどということは不可能になっている、ということが見えていたからである。

 老いた病人が自宅介護を望むのはわからないでもない。が、その先の曾野の理由には違和感を覚えた。「長引く介護を個人が病院に引き受けてもらうなどということは不可能」という点である。不可能なのか? 阿川の話を聞くと難しいとは思うが。
 理想はある。不可能ではなく、可能だ、とすることだ。もう一つ思ったのだが、自宅介護のほうが不可能じゃないのかということ。
 ただ現実としてどうだろうか。富裕層でもない家庭が自宅で老人介護をするのはむずかしいだろう。他方、入れらた介護施設で長期に十分なケアが受けられているのだろうか。
 その問題はそれとして、もう一点、この部分の曾野の言明で気になったことがあった。「もう一つは社会に対しても」ということである。
 介護施設に長期の介護を依頼するというのは、確かに曾野が暗黙で指摘しているように、社会に頼っているには違いない。そして、もちろん、社会というのは、そのように頼られるものとしてあるべきだという理想はある。
 だが、ここで曾野が言っているのは、そうして長期に介護を社会に頼ることはもう不可能でしょ、という問いかけだった。
 そう問いかけられてみると、さて、と私は少し戸惑う。社会は老人介護をすべきだが、その長期の負担は社会の構成員にのしかかることは間違いない。
 どうしたものかなとぼんやりした思いで、次節を読み進むと、話が奇妙な転調をしている。老人にありがちな気まぐれもあるだろうが。

 この頃時々私は、「そんなことをしてはお国に対して申しわけない」という言い方をして、若い世代に笑われる。「ひさしぶりに聞く、古い言葉ですなあ」というわけだ。しかし、「お国」の代わりにどんな言葉を使えばいいのか。「日本」か「社会」か、「同胞」か、「人民」か。ほんとうのことを言うと、私はどれでも一向にかまわないのだが、「お国」というのが一番穏やかな和語で、庶民が使うのに適しているような気がしているから使っているだけだ。

 気まぐれに見える文脈の転調は実は、前段落で「もう一つは社会に対しても」と彼女が「社会」という用語を使ったことに対応している部分が大きい。
 ここで曾野綾子は、けっこうラディカルなことを言っていると私は思った。「ほんとうのことを言うと、私はどれでも一向にかまわないのだ」と。
 今回の文脈をその点からつなぎ直してみると、こうなるだろう。いわく、「90歳を超えた夫の長期介護を社会に頼っては申しわけない」ということだ。これを彼女としてはこう言い換えても、どうでもいいというのである。いわく、「90歳を超えた夫の長期介護をお国に頼っては申しわけない」。頼る誰からをどう呼称してもどうでもいい、と。
 いずれにせよ、曾野綾子は家族以外の誰かの市民の重い負担になるのだから、市民社会の一人としては、「申しわけない」というのである。
 どうなんだろうか。
 家族の介護を社会に委ねても申しわけないと思う必要などないではないかと、私は思う。反面、間接的には市民社会に負担を掛けている実態はある。
 そのあたりで、ふと、「そんなことをしてはお国に対して申しわけない」という彼女の言葉がネットで夏頃、話題になっていたことを思い出した。
 文脈は、障害者の子どもを持つ野田聖子衆議院議員が「生まれてからの息子の医療費は、医療制度によって支えられています。高額医療は国が助けてくれるもので、みなさんも、もしものときは安心してください」と述べたことに対して、曾野綾子が『人間にとって成熟とは何か』という著書でこう述べていたことだった。

「この野田氏の発言は、重要な点に全く触れていない。それは自分の息子が、こんな高額医療を、国民の負担において受けさせてもらっていることに対する、一抹の申し訳なさ、感謝が全くない点である(略)私自身が、まず野田氏の言葉に違和感を覚えたのは、野田氏はこのことを、当然の権利の行使と考え、その医療費を負担している国民への配慮が全く欠けていることであった。」

 これに対して、ネットの反応としては、「子どもの治療に税金を使っているのを申し訳なく思え」という障害者ヘイトだというものだった。まあ、そう読めないこともないが、思い出して気になっていたのは、この本、2013年の刊行で、なぜ突然この夏に飛び出てきたのか、2013年の段階で曾野綾子を批判していた人はいただろうかと、ちょっとネットを振り返って調べてみた。
 どうやら、リテラというサイトの8月1日の記事(参照)からネットの話題になっているようだった。というか、「子どもの治療に税金を使っているのを申し訳なく思え」というのもリテラの見出しで、実は、先の引用もリテラのサイトでの引用のあり方だった。
 こう書くと、リテラというサイトへの批判やそれをきっかけに話題にした人への批判に取られるかもしれないと懸念するが、別段そういう意図はない。また私自身としては、曾野綾子のこういう考えについて擁護したいわけでもさらさらない。ただ、ネットという世界では、それでもこの手の記事を書くと、それだけで私は曾野綾子の援護派であり右派であるという批判は受けるのだろうなという印象は持っている。
 私としては気になったのは、曾野綾子の先のある種のラジカリズムである。「ほんとうのことを言うと、私はどれでも一向にかまわないのだ」という点である。曾野綾子は右派の論客と見なされ、「お国」という言葉を連発する。が、それは炎上ブロガーとさして変わりない修辞で、「同胞」でも「市民社会」でもいい、その言葉面で反意を持つ人に対して、彼女はどうでもいいのだとしている。
 ネットはそうした字面の選択というだけの修辞の側面に基づく話題が多くなってきているように思える。
 が、実体としては、私たち市民は市民社会の互助で生きている。市民に余裕のあるときは、他の市民を間接的に助ける。市民に余裕のないときは間接的に他の市民に助けられている。お互い様なのだから、曾野綾子ふうな「申しわけない」という心理を持つべきでもないとは言えるだろう。
 ただ、そう割り切れるものだろうか。二つ思う。一つは、社会は互助の心情の交換なくして成り立つものだろうか。もう一つは、特に長期の高齢者介護という問題は、社会の当然の仕事としていくことに「不可能」な地点はないのだろうか。それがあるなら、問題はそこにあり、さらに対応して、曾野綾子の気迫は残念ながら擬似的な解答(家族や老人同士で介護し合え)としての妖しさをもっている。

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2016.10.04

同日2つの国民投票雑感

 日付的には、10月2日同日、ハンガリーとコロンビアで国民投票があった。国家のあり方を国民に問う投票という点で重要なのは当然だが、ある程度予想されていたこととはいえ、蓋を開けてみると「国民に問う」ということ、それ自体の問題性が浮かび上がってきたように思えた。
 この2つの国民投票については日本でも報道があるが、簡単に触れておくと、ハンガリーの国民投票では、中東や北アフリカなどからの難民をEU加盟国が受け入れるよう所定数割当てされることの是非を問うものだった。投票を起案した右派のオルバン政権としては、簡単に言えばハンガリーはこれ以上、難民を受け入れたくないという国民の意思をEUに示す意図があった。
 結果は、「受け入れ反対」は有効票の98%を超えたものの、投票率としては43%と低く、国民投票を成立させる50%に及ばず、全体としてはハンガリー国民の良識を示す形になった。もともとハンガリーの政局からすれば今回の投票は多分にオルバン政権が国内問題から国民の目をそらそうとする意図が国民に見抜かれていた面もある。それでも相当数のハンガリー国民が難民受け入れ割り当てに忌避感をもっており、政権としてもこの方向を今後も継続していくことは変わらない。
 いずれにしても、事実上の移民排斥になりうることに国民投票を使うというのもどうかとは思うが、ハンガリーという国の成り立ちからすると、民族的な求心性があり、どちらかというと日本に近い面もある。日本で同様な国民投票が実施されたら憂慮すべきことなるかもしれない。
 もう一つの国民投票はコロンビアで行われたもので、反政府ゲリラ組織・コロンビア革命軍(FARC)との和平文書調印について国民の承認を問うものであった。これが締結されれば、52年間にわたって継続した悲惨な内戦に終止符が打たれる。結果は、賛成が49.76%、反対は50.23%。僅差で反対となった。つまり、内戦の和平合意は不成立となった。
 サントス大統領としては9月26日に、米国ケリー国務長官や国連潘基文事務総長らをコロンビアに招待し、和平合意文書署名式典を開催していたほどで、コロンビア国民からの承認はこの時点では既定路線と見ていた。僅差という点では、投票日の天候などの要因もあるが、全体として思いがけないほど数の国民からの反意を受けたのは、アルバロ・ウリベ前大統領の反対意見の効果が大きく、一見、現サントス大統領対ウリベ前大統領という構図にも見える。
 父親をFARCに殺害されたせいもあるが、FARCを和平交渉に追い込むまで弱体化させたのはウリベ前大統領の功績ともいえ、その支持で国民が2分しているなか、現状での妥協を含んだ和平合意を国民投票にかけるのにはまだ無理があった。
 さて、2つの国民投票をぼんやり眺めて、これはどういう事態なのだろうかと、しばし考え、そういえばこういうことを以前はよくブログに書いていたなと思いだし、少し書いてみるかと書いているわけであるが、なんとなくの思いとしては、国民投票というのはどうも現代の民主主義にとっては、けっこうろくでもないものになりつつある、ということだ。
 国民投票で国民の意思を問うというのはよい響きのようだが、英国のEU離脱も、概ねろくでもない結果と言っていいだろう。EU離脱の意義を国民が十分に理解していたとも思えない。ただ、あながち英国を責められないのも、ノルウェーもEU加盟について国民投票をして否決されていた。EUに加盟しているスウェーデンもユーロについては国民投票で否決されている。他方、クロアチアは国民投票でEUに加盟した。
 こうした国民投票の結果がそのままその国民の意思なのかというと、そうには違いないという以外にないが、結果を左右する要因は単純ではないように思えるし、なによりその国家のメディアやナショナルな求心性のありかたに強く依存しているようにも思える。
 同種の国民投票で次に懸念されているのは、イタリアのレンツィ政権の下、12月予定の憲法改正是非を問う国民投票である。狙いは上院権限を縮小しその不信任投票で政権を打倒できないようにすることだ。レンツィ首相はこれに失敗したら辞任するとしているが、それ以上の混乱をもたらすだろう。成功しても五つ星運動のようなポピュリズムの台頭を招くかもしれない。
 国民投票ではないが、現在スペインで政権が成立できない混乱や、米国でトランプ大統領候補に多数の支持があるというのも、国家意思の混乱の結果のように思える。
 国家はどのように良識にかなった国民意思を形成していったらよいのか。と、問いながら、その問いには矛盾がある。良識を国民意思に優先させているからだ。だが、随分と古いというわけでもないが、民主主義2.0として技術革新を反映した直接民主主義がネットの一部で話題になったことがあるが、政治的な意思決定に一人ひとりの思いがより反映されるようになるといった考え方は、実はその志向自体が、現在の国民投票に見られるような混乱を招くだけだろう。
 ではどうするのか? 政治課題を国民層ごとの妥当な利益として可視的に見せればよいだろうか。そうすれば、高齢化する先進国は高齢者中心の国家意思を持つようになるだろう。
 循環論になるが、国民的な良識とは何かを、言論で問い続けるしかないのだろうなという思いには、とりあえずだが、かられる。

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2016.10.03

[アニメ] 91 Days

 次週の展開を見るが待ち遠しいと思えるアニメは少ないが、『91 Days』(参照)は久しぶりにそう思える作品だった。つまり、面白いし、ある種、中毒性すらある。音楽もいい(参照。が、少しもわっとした情感も残った。特に最終回にそれが濃く反映されていたように思う。
 背景は、1920年代・禁酒法時代の米国のイタリアン・マフィアの街ローレス。冒頭、少年アンジェロ・ラグーザ一の誕生日、4月としては珍しく雪降る日の夜、ヴァネッティ・ファミリーの、ヴァンノ、ドンのヴィンセント、息子のネロが突然訪問し、アンジェロを残し、家族すべてが射殺。物語は、その7年後、アンジェロが復讐を遂げるまでの91日間を描いている。アニメとしては12話(1クール)で完結。
 復讐のきっかけは、故地を離れ、すりや泥棒で孤独な生活を送っていたアンジェロ青年にある日、復讐を誘う一通の匿名の手紙が届いたことだった。アンジェロはアヴィリオ・ブルーノと名前を変え、ローレスに舞い戻り、ヴィンセント家への復讐劇を始める。最初の一手は、科学が好きな少年だった幼なじみのコルテオの密造酒だった……。
 物語は推理小説仕立てにもなっているので、そこは単純に面白い。また、一人の青年がどのように中規模マフィアの中枢を潰していくかという、復讐劇の面白さもある。当然だが、そうした物語の仕立てに見合うように、登場人物名と人物関連図などがすべて頭に入っていないと理解しにくい。
 物語も意外に複雑な展開がさくさくと進むので、気を抜いていると、あれはどうして?みたいなマヌケな事態にもなる。『甘々と稲妻』(参照)や『はんだくん』(参照)みたいに、気楽に見ることのできる作品でもないなと思った。
 自分だけでもないだろう。そのせいか、中間には、まとめ編も挿入されていた。逆に言えば、きちんと背景と人物を覚えて見て行くと、数回の見直しに耐える作品にもなっている。
 もわっとする印象を残すのは、こういうとヤボの部類ではあるのだが、主題がわかりにくいことだった。あるいは、なぜこの作品が創作されたのか?
 一つには、全体を貫く美的なトーンからもわかるように、人間の情感を含めてこのような世界を描いてみたかった、というシンプルな思いはあるだろう。美学と言ってもいい。それだけでよいと言ってよいのだが、微妙に主題性と象徴性への誘惑は残されている。
 例えば、4話でネロとアヴィリオがファミリー間の抗争後のほとぼりを冷ますために自動車で暢気な田舎旅をするが、そのなかで追っ手がゴリアテに例えられている。そこで「はぁ…聖書ぐらい読んでおけ」「教会に通うほど暇じゃなかったんでな」という会話があるが、この回でアヴィリオは、旧約聖書でダビデがゴリアテを倒すように簡易なスリング(投石具)を使っている。
 ここで、アヴィリオはダビデに例えられている。この喩は、第一話のクレジット的な映像にローレスの教会のステインド・グラスのスチルにも対応している。このスチルはオープニングでも出て来た。
 この聖画グラスのテーマは、ダビデとヨナタンの友情であり、サウル王ヴィンセント、ヨナタン(ネロ)、ダビデ(アヴィリオ)の喩になっている。つまり、全体の物語に、サウル王が殺そうとしたダビデと深い友情を結んだヨナタンの喩が象徴されている。
 また、記号性でいうなら、アンジェロは「天使」であり、改名のアヴィリオは惨劇の「4月」を暗示しているだろう。ローレスはそのまま「無法」。ただ同様に見て、セルペンテは蛇、ティグレは虎、フィオはフィオーレで花、 と対応させてもあまり意味はないだろう。ネロについてはしかし、原義の「黒」より、終話で燃え上がる街からの連想かもしれない。
 いずれにせよ、こうした記号性と喩がどこまで練り込まれているのか。ドストエフスキー作品的な神学的な象徴になっているのかというと、おそらくそういう特質はこの作品では、そこまではないだろう。そのあたりがまず、もわっとしている部分である。
 もう一つは、とりあえず明白な主題と見られる、復讐と友情の関わりが、どういう物語の主構造、あるいは倫理性や掟に対応しているのかという点である。簡単に言えば、『91Days』は、「掟」の物語であり、掟が復讐を必然とする忠臣蔵のような物語である。

 この先はネタバレを含む。

 11話でアヴィリオの復讐劇は終わり、12話はガラッシア・ファミリーから逃れるネロとアヴィリオの自動車旅で、アヴィリオの最後の憧れであるフロリダの海岸に至り、彼はネロに今度こそは射殺してくれと願う。
 が、作品は明白な形では、アヴィリオの死は描かれていない。ネロは「生きるのに理由はいらない。ただ生きるだけだ」としているので、そうした生をアヴィリオに与えて終わるとも読める。
 ただし、ネロが生き延びる読みはないようにきれいに封じられている。ネロはガラッシア・ファミリーに惨殺されることになっている。
 私としては、アヴィリオが親友のコルテオを友情と復讐劇ゆえに殺した時点で復讐後に生きる意味もなく、むしろ、彼の人生を支配していた復讐そのものから逃れるために、起点であった射殺の成功を、友情ゆえにネロに願ったのだろう。
 それは同時に、アヴィリオも掟を生きて死ななくてはならないことだし、ネロも同じである。自分なりのダメ推しで言うなら、ネロの死は確定であり、そのときアヴィリオは巧妙に立ち回ればその有能さから、ガラッシア・ファミリーと取引できないでもない。むしろ、それをネロへの友情から嫌悪したのだろう。
 掟と復讐の物語は美学に結びつきやすい。偽悪的に言うなら陳腐に結合しやすく、アヴィリオのアニメ的な映像はその美学のなかで収束しているように見える。
 ただ、まあ、そう言い切れるものでもない。もわっとした部分は、反面ではこの作品の優れた特質でもある。あと、単純な話、これだけのクオリティのアニメは珍しいのではないか。


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