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2016.01.29

文字の書きやすさと読みやすさは対応しない


点字は、基本的に子音と母音の組み合でできている。その意味では、点字はローマ字のように構成されているし、実際の筆記でも、発音をできるだけそのまま写しとるように記述する。こうした仕組みは合理的なので、通常の日本語の文字もそれに類した合理的なものがあれば便利なのではないかと考案してみた。加えて、書きやすいほうがよい。

すると、5母音の基本記号に基本的な子音の記号を組み合わせることになるのだが、そのための筆記しやすい形状とその弁別性・識別性が問われる。当然ながら簡素な、形状として、棒線と向き、上限の丸め、そして丸といった形状が思い浮かぶ。これらをいわば50音表のように整理して、これらを使って文字として、文字として書いてみるのだが、書くのは面白いし、書きやすい。が、読めないのである。可読性がやたらと低い。規則があったはずなのにデタラメな線と丸の羅列のようになる。

そうこう考案・改良しているうちに、これは速記に似ていると気が付き、速記にはいくつかの方式があることを思い出した。私が少年時代には、通信講座の早稲田式速記にけっこう人気があったものだが、と思い起こすのだが、そのわりにそれを習得したという人を知らない。

調べてみてすぐに気がついた。こうした私のような考えですでにできた速記の体系として、V式というのがあった。面白いなとは思った。だが、すでに自分の試みからわかっていたことだが、このV式も可読性が高いとは思えない。書き慣れることはできるだろうが、読み慣れることはかなり難しいのではないだろうか。

どうやらそうした特性は他の速記の体系についてもいえて、ざっと見たところ、各種の速記体系は、書きやすさと読みやすさのバランスでバリエーションがあるといった印象だった。

もちろん、速記なのだから、素速く書けなくては意味がない。しかし、いずれにしても、発音を写したものだから、書き直すときには、漢字・ひらがな・かたかな混じりになる。これを反訳というらしいが、つまり、このやたら複雑な日本語の書記体系に依存する。

というあたりで、いや、これは逆だなと気がつく。日本語の漢字・ひらがな・かたかな混じりの書記体系というのは、異常なほど可読性が高い。そういえば、そうしたことを、ロシア語をネイティブなみに使いこなしていた米原万里も言っていた。

つまり、通常の日本語の書記体系というのは、そもそもが速読文字の体系なのだと改めて気がつく。しかも、特にカタカナは外来語に当てることが多く、こうした外来語用の文字というのは、イタリア語などにも見られるし、そもそもローマ時代のギリシア語文献の音転写、つまり外来語表記にもあった。どのような言語も外来語というものから結局は独立できないのだから、外来語表示用の文字系を持っている日本語というのは、これはすごいものだなと思う。

そう考えてみると、漢字もどちらかといえば、意味や概念を担わせる書記系として使っているわけで、やはりこれも大したものだと思う。基本的に、日本語の文章というのは、漢字だけ目で追っていけば何が書かれているかはわかる。

とはいえ、最初の問題に戻る。どうやら、日本語の正書法というのはもともと読むために出来ていて、およそ書くためにできてはいない。このあたり、やはり書くための「新ひらがな」のようなものはあってもよいのではないかとも思った。

が、どうもさらにその中間的な表記体系もありそうだ。というか、速記に関する本を読んでいてわかったのだが、速記は、点字のように音声転写が基本でありながら、実際には、略字をよく使う。つまり、実質、略字記号を上手に使うのが速記の上級者ともいえるらしい。

こうした便利な略号は、漢字とはまた少し違うものでもあるだろう。一例を上げれば、「だから」というのは、数学記号の「∴」を使えばいいといったふうのものである。そういえば、学生時代、ノートを取るとき、「例」は、egと書いたものだった。こうした傾向は一種の漢字化のようなものだろう。書きやすさのための擬似漢字というか。

話が散漫になるが、私たち日本人が漢字の文字としてよく目にする明朝体というのは、明朝に作られたという意味合いだが、これは基本的に版木のための文字で、書くための文字ではない。基本的に明朝体のような、また楷書のような文字で漢字を書くのは、いわば、印刷文字の代用であって、日常生活における書き言葉の文字ではない。ではどうしていたかというと、当然、崩すわけで、崩しかたを学ぶ。というか、私の父の代までは、葉書の文字は崩し文字が基本だった。

ところが楷書の歴史を見ればわかるように、実際には、くずし字は楷書を崩したものではなく、崩し字である行書の前にあったわけでもない。

ごちゃごちゃ書いたが、現代では、私も含めて、手書きで文字を書くことはすくなくなり、書くというのは電子機器を使うことが多い。速記などが廃れてきているのもこうした傾向のためだろう。ある程度、キーボードなど機械入力に慣れれば、文章の入力というのは話し言葉と同じくらいの速度で記述できる。つまり、通常の言葉を聞いた速度で書くことができるのだから、速記といった需要が減るのは当然でもあるだろう。

というわけで、その中間的な記法というのは、便利そうだなと調べていくと、またいろいろわかってきた。
 
 

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2016.01.28

点字の難しさ

今年に入って実行しようと思ったことに点字がある。点字を学んでみようと思ったのだ。大学生時代友人が全盲で、また彼女を支えるサポートグループにも友人がいて、点字についてはなんとなく関心をもっていた。いつか学ぶだろうとも思っていた。なのに気がついたら学ばずしてもう30年以上の年月が経ってしまい、このままだと一生点字を学ぶことはないかもしれないと恐れた。そう思ったら、思い立ったまま学習を始めてみた。この手のものは学習教材が比較的安易に入手できるだろう。それで「小学生から学べる!点字入門セット」というのを購入した。これで基本は全部足りる。

長年点字に関心を持ち続けていたつもりだったが、学習を初めて見ると、ごく基本的な点字の仕組みも理解していなかった。いや、横二点、縦三点の六点で一文字が構成されるというのは知っていたが、具体的な構成原理は想像していなかった。こういうのは小学生くらいに知っておくといいものだ。と子供にちょっと話したら、学校で学んだ、と言っていた。現代ではある程度点字の基本を学校で教えていることを知った。

点字の構成だが非常に数学的にできているものだと感心した。基本、点を打つ、点がない、という二進法原理だから、数学的にバリエーションの限界は決まる。それをどう合理的に配列するかだが、重要なのは、この文字は触れることでセンスされるので、六点中一点だけで分別する文字を6つ作るわけにもいかない。点が一つだけだと、六点中どの位置にあるのかわからないからだ。同じことが他の組み合わせにも言える。これには数学的な構造があるなと調べてみると、なるほどきちんとそうした条件は守られていて驚いた。

点字の学習だが、最初はそれほど難しいものではないように思えた。点を黒丸にした記号、墨字というが、これを暗記するのはそれほど時間がかかるわけでもない。意外に簡単だなと思ったのだが、違った。点を打つときは、紙の裏側から打つので、打つためのイメージは墨字の左右対称鏡像になる。つまり、表と裏と2セットの文字を覚えなくてはいけない。しかし、これもそうとわかれば覚えることは可能だ。

表記は音声主義によっているので、「こんにちは」は「こんにちわ」になる。「東京」も「とーきょー」になる(はず)。これらはいわばローマ字に準じている。

間抜けなことに一番むずかしいのは、点字を読むことだった。自分の書いた(打った)点字が読めないのである。指の感覚は比較的に繊細なほうではないかと思っていたが、なかなか判別しにくい。点字をすらすらと読むのは難しいものだと思った。点字を書く(打つ)より難しい。練習はしているが、向上する実感がない。私としては、いつか点字で詩を読んでみたいなと思っている。光のないところで、指で詩を読んでみたいと。

それでも街なかにある点字に触れてみることは多くなった。自販機の金銭投入口に「こいん」と書いてあるのを、自分としてはであるが発見してけっこう感動した。「コイン」は日常語ではもうあまり使わないが、こういうところにはある。それとアルコール飲料には「おさけ」とあった。たしかにこれがないと困る。あと、不思議だなと思うのだが、六点をすべて打つと「め」の文字になる。これは偶然だろうか。

点字は読むという面から考えるとかなり難しいものだなというのが実感なのだが、現代の点字支援はどうなっているかも、この機に見渡してみた。点字図書館にも行ってみた。点字グッズも買った。

当たり前といえば当たり前なのだが、点字文書の作成には、私が大学生だったころの「カニ足」と呼ばれていた点字タイプライターよりも、パソコンの支援システムが普及しているようだった。つまり、点字教材は、ひらがなで点字の規則どおりに書けば、パソコンで点字の印刷もできるようになっていた。それはたしかに技術の進歩でもあるのだろう。が、健常者が点字を読むという機会は減ったかもしれないとも思った。

点字を学びながら、子音と母音の組み合わせの構成をみて、そうだな、ハングルにも似ているなと思い、もしかしたら、点字の仕組みから新しいひらがなが考案できるのではないかと思いついた。生まれてこの方、日本人をやっているが、日本のひらがなやカタカナというのはどうも形状が不合理だと思っていたのだ。ケロロ軍曹のギャグではないが、「ダソヌマソ」みたいなことになりかねない。「あめぬ」なんかもどうだろうか。

ひらがなを個人的に作りなおしてみよう。どうせなら、点字から転写できる子音と母音の形態を簡素に考え、さらに早書きできるものがよい。と、いくつか形態を考えてみて、あれ?これどっかで見たことあるぞと思った。速記文字である。というわけで、速記文字を調べてみると、点字とは異なるが、似たような発想で考案されていて、どれも似たように見える。

つまり、ひらがなを早書きに合理化すれば自然に速記になるのか。というわけで、速記についても少し関心をもつようになった。これはまた。
 
 

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2016.01.27

たぶん、ネット保守はアジア全体の傾向

昨日のエントリーを書いたあと、まいどのことだが、私をネット保守認定とまでいくかはわからないが、俗流の文脈で捉える意見を見かけた。個別の点についてもう少し議論を深めてもよいのだが、基本的にこのブログを長く読んで理解されている人でもなそうなので、誤解が深まるだけだろうなと思った。

とはいえ、俗流の文脈については別途思うことはあった。近いところで言えば、民進党・蔡英文氏が大統領に選らばれるにあたり、ネット保守的な一群からピントがずれたような台湾支援を見かけた。俗流というのは、単純ということでもあり、反中共または反韓国・反朝鮮ならなんでも支援しちゃうような安易さである。

この点についてはしかしたいした議論にもならないだろうなと思っていたが、ジセダイというサイトでこれを扱った「日本で「俗流台湾論」があふれる不思議 台湾総統選に見る「上から目線」」(参照)という考察を見かけた。

 ところで、今回の選挙結果に最も強い関心を示した外国は、(中国政府の関係者を除けば)おそらく日本だっただろう。一昔前までは、中国への配慮から青天白日満地紅旗(中華民国の国旗)が画面に映り込むだけでモザイクを掛け、「中華民国」という言葉すらタブー視していたNHKをはじめとするテレビ各局も、現在は普通に取材班を送り込んで詳しく報道するようになった。台湾がそれだけ「普通の隣国」として扱われるようになった証拠でもあり、かの国はもちろん日本のためにも喜ばしい現象だといえるだろう。

 また、ネットなどを見ると、選挙戦の期間中から蔡英文を応援したり、当選を喜んだりする声もけっこう大きかった。今後の蔡政権は中国と一定の距離を置き、比較的「親日」的な姿勢を示すことが期待できるため、こちらもやはり自然な話である(私自身、どちらかといえば緑色陣営の勝利を喜ぶ側だ)。

 もっとも、日本での動きには現地の感覚から見てちょっと不自然な「解説」や「応援」をおこなう人たちがかなり多く見られたのも事実だ。ことに特定の政治的立場に立つ人ほど、恣意的な解釈をアピールする傾向が強かったように思える。ややお節介ではあるが、本稿では以下、これらにいちいち突っ込みを入れていくことにしたい。報道が増えたとはいえ、台湾は日本国内において情報の絶対量がすくない国であり、小さな誤解でもある程度は訂正作業をおこなっておくほうがいいかと思うからだ。

該当記事はまさに「いちいち突っ込み」が入る趣向だが、重要なのは基軸の「台湾ナショナリズム」の概念だろう。この問題については書籍としては以前このブログで簡素ではあるが扱った(参照)、同題の書籍に背景など含めて詳しいには詳しい。だが、同書は該当記事とやや視点が違う面もあり、端的に言って「台湾ナショナリズ」の捉え方は難しい。

とはいえ、「ナショナリズム」といえばネット保守だ、といった単純な日本のいわゆるリベラル派については、該当記事の次の指摘は示唆深いだろう。

 日本は言論や思想信条の自由が保障された国だ。なので、日本のリベラル層の人たちが、日本国内のナショナリズムの高まりに嫌悪感を抱くのは自由だし、その立場も十分に尊重されるべきだ。だが、いくら嫌いであっても、ナショナリズムという要素自体を「なかったこと」にして外国の現象を解釈するのは明らかに問題ありだろう。ネット保守の人たちと同じく、党派性に凝り固まった考え方の先に事実が見えることはないはずなのだ(事実を意図的に見たくないならば話は別だが)。

「台湾ナショナリズム」については、実際には米側の研究も含め各種の研究はあるだろうが、私が最近、いや最近でもないかな、これを考える際の基軸を、具体的な現存国家の関係のイデオロギーから排すのは当然としても、アジアを含め新興国の基調的な傾向に置いている。

これは、いわゆる第2次世界大戦以降の民族自決といった民族と民族国家の枠組みとは異なる。独自の大衆文化とメディアの均質性が熟成が必然的にナショナリズムを生み出すだろうという考え方だ。学者さんがこれにどう着目しているかは知らないが。

そうした面で、「台湾ナショナリズム」に対応して興味深いのは「韓国ナショナリズム」である。これは韓国という国家、その憲法からも伺われるナショナリズム的な傾向といったものではなく、むしろ昨今の傾向であり、具体的には、「民族統一」というイデオロギーの対立として浮かび上がってきた新しい傾向である。

関連する最近見かけた論考としては、ディプロマット「Young South Koreans' Realpolitik Attitude Towards the North」(参照) がある。若者世代がタカ派化しているというのである。

Those coming of age today (the 20s age cohort: university students and college-age people) are doing so under political conditions very different from their barely older compatriots (those in their 30s and 40s). There are many ways to describe these conditions, but the simplest explanation might read as such: political conditions today have been shaped by post-Sunshine Policy politics and the armed provocations of 2010. The result, for young South Koreans, is a relatively more hawkish political attitude towards North Korea.

現在の若者(20代年齢層:大学生や大学時代の人々)は、概ね上世代の同胞(30~40代のもの)とは非常に異なる政治的条件の下でそうしている。これらの条件を記述するに多くの方法があるが、最も簡単な説明は。このよう読まれるかもしれない:今日の政治状況は、ポスト太陽政策の政治と2010年の武力挑発によって形作られた。その結果が、若い韓国人には、北朝鮮に対する比較的よりタカ派の政治的態度である。

原文ではこの主張を補う統計なども記載されているが、論点としては、太陽政策の失敗と、経済力を背景とした国家プレザンスの向上から、若者層に韓国が単一の国家であるするナショナリズムが形成されつつあるという点である。

別の言い方をすれば、従来型の「朝鮮ナショナリズム」による「統一」の考え・イデオロギーが後退しているとも言える。

私はこれは昨今の、「台湾ナショナリズム」と同じ傾向にあると考えている。若者層のなかには、すでに「一つの中国」といった考え・イデオロギーは感覚としては失われているだろう。

ここから議論が粗くなるというか、端折ることになるのだが、実は日本も同じ傾向にあると私は見ている。つまり、日本の若者層も日本国家や社会の問題が優先された保守的な傾向が基調にあり、それが旧来の文脈なかで影絵のように浮かび上がっているのが、いわゆるネット保守言論やその陰画としてのSealdsなどに見られる対抗リベラルの表層的な現象でないかと。

台湾における「一つの中国」という幻想、韓国における「統一」という幻想、それらに対応した日本の幻想はなにかと言えば、残念ながら、「平和憲法」という幻想なのではないかと思う。もちろん、それを幻想とするとはなにごとかという批判は当然期待されるのだが、私が言いたいのは、それはすでに多数の若者の意識のなかにあるだろうという現実のなかで、どのように非幻想化するかという課題を提出すべきだろうということである。

「一つの中国」が幻想ではないなら現実はどうあるのか。「統一朝鮮」が幻想ではないなら現実はどうあるのか。「平和憲法」が幻想ではないなら現実はどうあるのか。それらを幻想の側にイデオロギー的なあるいは情感的な圧力をかけて幻想を復元的に強化させようとしても、実態は変わらないのではないかと思う。私たちは、現在、アジアのなかで、新しいナショナリズムの大きな潮流を今見ていると考えたほうがよいのではないか。
 
 

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2016.01.26

台湾「大統領」蔡英文が中国を抜いて世界に伝えた日本への謝辞

蔡英文氏が台湾の「大統領」になることは事前の動向からわかっていたし、中共側も今回は早々に敗北を認めていたゆえに、前「大統領」馬氏との対応のパフォーマンスなどを演じていた。つまり、今回の民進党政権の樹立は国際的にはとりわけ新しいネタでもないので、ぼんやりと眺めていたのだが、一つ気になっていたことがあった。蔡氏が当選した際の会見についての、産経新聞での報道、「「尖閣は台湾側に主権があるが、日本との関係強化を続ける」 英語通訳のみ日米名指しで感謝」(参照)である。

ネットなどではありがちに尖閣諸島の帰属への言及が注目されていたが、台湾の大統領として従来からの建前の国是を変えるわけもないので、どうでもいいことではある。気になったのは、英語通訳のみ日米名指しで感謝というくだりである。

 ■なぜか英語通訳のみ日本と米国を名指しで感謝
 「私はこの機会を通じ、台湾の人々を代表して、台湾の民主的な選挙への関心と支持に対して海外の友人たちに感謝したい。台湾は国際社会の一員として積極的に国際協力に参加したいと願っており、全世界の友人と利益を分かち合い、責任を分担し、地域の平和と安定のために最大の貢献をしたい」

 《「海外の友人」に感謝を示すくだりで、なぜか英語の逐次通訳のみ「米国や日本、その他の国々を含む(海外の友人)」という、本人が中国語で発言していない表現が出てきた。本人が原稿の表現を飛ばしたのか、あえて英語のみこの表現を入れたのかは不明だ》

この時点の産経の報道では、中国語(国語)の発言と英語通訳の差について、読み飛ばしか、あえて英語で入れたのか、不明としている。普通に考えれば、失念による読み飛ばしか、中共に配慮した意図的な読み飛ばしであろう。どちらかはわからないが、ふと思ったのは、なんらかのエラーの類であれば、公式文書では訂正されているはずだということだ。そこで、ちょっと原文にあたってみた。民進党のサイトはほぼ公式としてよいだろう。「總統當選人蔡英文國際記者會致詞中英譯全文」(参照)より。

藉由這個機會,我也要代表台灣人民,感謝國際友人,對於台灣民主選舉的關注和支持。做為國際社會的一份子,台灣願意積極參與國際合作,台灣也願意與全世界的盟友共享利益、共擔責任,並且為區域的和平穩定,做出最大的貢獻。

On behalf of the Taiwanese people I would also like to use this opportunity to thank our international friends including the U.S. Japan and other countries for their support towards Taiwan’s democratic election. As part of international society Taiwan is willing to participate in international cooperation efforts sharing the same benefits and shouldering the same responsibilities as our partners from around the world. We will also greatly contribute towards peace and stability in the region.

会見時のままが掲載されている。つまり、中国語では日本への言及がないが、英語ではかなり明瞭に日米が特記されている。つまり、今日台湾で民主選挙ができる最大の貢献者は米国でありついで日本であった、というメッセージが読み取れるし、このことは英文を通して理解される世界に向けて明確に発せられているとしてよい。

では日本ではそのメッセージを受け止めたかというと、蔡氏は他所でも同種のことは述べているので、それなりに受け止めたとしてもよいのだが、先の産経報道の指摘に注目したメディアは見当たらなかった。

というあたりで、ふとでは英文で受け止めたメディアの反応はどうだったのかとBBCあたりを覗いてみると、当然がらそこはきちんと受け止められていた。「Tsai Ing-wen elected Taiwan's first female president」(参照)より。

She thanked the US and Japan for their support and vowed Taiwan would contribute to peace and stability in the region.

かなり明確に、米国と日本と限定されている。

そこで、ふとこれBBCの日本版ではどう報道されていた調べてみた。該当英文記事が示唆されている記事はすぐに見つかった。「台湾総統選で野党・民進党主席が勝利 初の女性総統に」(参照)である。

ところがこの記事には、英文報道にはあった該当の日米への謝辞についての記述がないのである。明らかに翻訳記事ではない。率直に言うと、日本語BBCでは、台湾の大統領が日米に謝辞を述べた部分について、日本語では報道をはずしたのである。

日本版BBCが独自の報道見解を持ってもよいと思うが、こういう台湾国内における中共への配慮のようなものを日本向けに踏襲してくれるのは、やってくれましたね、感はある。

まあ、総じてみれば、台湾問題について日本語のメディアにはいまだに中共の顔色を伺うという空気のようなものはあるのだろう。


 
 


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2016.01.25

[書評] ジョセフィーヌ! アラサーフレンチガールのさえない毎日(ペネロープ・バジュー)

フランスの現代漫画(正確にはBD)の『ジョゼフィーヌ! (アラサーフレンチガールのさえない毎日) 』が面白かったので、その続きが読みたいものだなと、フランス語の原書の二巻目を注文しておいて忘れていたのが、昨日届いた。失敗といえば失敗。続きの本ではなかった。日本で発売されているのは、原書の3巻を合本にしたもので、私が購入したのはその第2巻目であった。しかし、開いてみると、これはこれでよかったなと思った。つまり買って良かった。その話はあとで。

『ジョゼフィーヌ! (アラサーフレンチガールのさえない毎日) 』は邦題のサブタイトルでわかるように、パリジェンヌのジョセフィーヌのさえない毎日が描かれていて、笑える。作者のペネロープ・バジューが1982年生まれだから、今年は34歳になるのかな。女性の年を数えるのも失礼だが、世代の感覚というのを知りたいと思った。もとは彼女のブログらしい。最初の巻が出版されたのは、2010年だから28歳のこと。日本語では「アラサー」として30代を想定しているが、実際に描かれているのは比較的現代の、20代後半のパリジェンヌの生活実態ということだろう。

2009年らしい統計だが、フランス女性の初婚年齢を見ると、29.8歳。厳密に調べたわけではないが、だいたいそのあたりだろうし、日本とさほど変わりない。実際、この漫画(BD)を読んで思うのは、日本のその年代の女性と似た感覚なんだろうなと思えることは多い。もっとも、そうでもないなあと思えるところも多く、私などはそのほうが興味深い。

という話をしたのは、平均的な婚礼年齢の意識というのがこの物語の背景にどうあるのかということだった。ざっと見た印象の一つでいえば、この物語は、恋愛に不遇な二十代後半の女性がそれほど冴えないけどやっていけそうな男性と暮らして、妊娠したというあたりまでの話になっている。というわけで、子供が生まれたあとはどうなのか、気になって続巻を求めたつもりだったわけである。が、つまり、そこまでの、妊婦になるというまでが、『ジョセフィーヌ』のテーマとも言えるし、なんというのか、子供を持ちたいという内的な感覚が、とても上手に表現されている。

ネットを眺めたら、著者のペネロープ・バジューさんは、2014年、在日フランス大使館とアンスティチュ・フランセ日本が主催の文学とBDのフェスティバル『読書の秋2014』に来日していて、そのインタビュー記事もあった(参照)。インタビューがまずいとも思わないが、パジューさんの思いと少し違っているかなと思われるのは、BD(バンド・デシネ)の感覚だろう。

ペネロープ いいえ、そうした目的で作品を描いているのではないのでまったく考えていませんでした。私がやりたかったのは、自分の作品を作ることなんです。ただ、ひとつ困惑したことがあります。2008年に出版したブログ本『あたしの人生、なんて魅力的なのかしら』がすぐに売れて、マスコミに数多く取り上げられました。そのうちにさまざまな社会的事象について、マスコミからコメントを取り上げられる機会が増えました。私自身や作品には関係のないことも、です。そういうことは決して得意ではないし、好きではありません。  マスコミに自分が露出することは好きではないんです。私の目的は、作品を世に出すことですから。ただ、これはひとつのチャンスだと考えて、最近では今の立場を利用して意見を発表するようにしています。そうした露出の管理はできるようになったな、と思っています。
ペネロープ 日本のマンガと違って、バンドデシネは制作にとても時間がかかるので、あと10作品描けたらいいなと思っています。すでに頭の中にあるアイデアを作品にしたいというのが、正直な思いです。私はそんなに描くのが早くないので。

この思いは作品を手にするとよくわかる。この手の自虐ギャグは日本にも多いが、この作品で特徴的なことは、まずカラーセンスだろう。基本的に1ページで終わるネタが多いが、それには基本のカラーが選択されていて美しい。それと、風景というものへの感性がとても精神的な遠隔性を表現しているのも美しい。

そして、原書を手にしてわかったのだが、セリフはすべて手書きだった。そして、この手書きが、筆記体だったのである。この筆記体の手書き文字というものの、人間らしいカリグラフィックな感触が全体のアート性ととてもきれいに調和している。1ページをそのまま切り出して、額に入れて壁に飾ってもいいくらいだ。

このところフランス語の文字、とくに筆記体のことをブログにも書いているが、お手本としているのは、筆記体のフォントやいかにもきちんとデザインされたお手本ばかりで、実際にフランス人がある程度美的なセンスを意識した普通の筆記体のフランス語の文字という意味でのお手本がない。この本は、その部分でとてもいい「教科書」になった。ああ、そこで続け字を切るのかとか。またところどころ、活字体風の手書きを効果的になっているのも面白い。

原書が手に入ったので、翻訳の状態はどうかなと付きあわせてみた。誤訳の有無については私などにはわからないが、購入した2巻の最初のページでも、あれ?と思った。

パリだろうカフェの道側の一人席でジョセフィーヌがサングラスして雑誌を読んでいる。ポジティブ心理学というものらしい。まあ、日本の雑誌やネットなどにもよくあるあれだ。

「理想の恋をしてますか?」
«Étes-vous sûre de mener la vie amoureuse dont vous rêvez depuis toujours ? ...
(ずっと夢見てきた愛の生活を確実に送っていますか?)

「もっと前向きに」
...Et, si vous osiez enfin dire oui au bonheur ?
(で、つまり幸福にイエスと断言するか?)

そして、幸せもまた鍛錬すべきだという話のあと、細身のイケメン男性が店内から瓶とグラスを下げにくるところで彼女はこう読む。

「自ら働け!」
...Prenez des initiatives !
(いろいろ主導しろ!)

で彼女は、サングラスを外し、どきまぎ汗して(これは日本漫画様式かな)、上目でで彼にオフになったらどうするの、ときく。そのときの彼の答えが、

「彼氏とご飯かな!」
Mmh... À priori, je dûre avec mon amoureux !
(当然、恋人(男性形)と過ごすよ。)

そのあと、ジョセフィーヌには空笑いしてから、ブチ切れる、というオチだが、フランス語だと、la vie amoureuse と mon amoureuxの対比がとても面白いし、主導権を取ろうとしてコケるあたりも面白い。

きちんと読むと、フランス語のお勉強にもなってしまいそう。そういえば、ヴァカンス先で、机にしまった「お寿司」を思い出すというシーンがあり、原文ではどうかなと調べたら、寿司だった。

ところで原書の帯に映画化されたとある。あった。これ見たいなあ。


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2016.01.24

Y はギリシアの I

そういえば、イタリア語のキーボードはどうなっているのかと調べてみると、普通に、というのも変だが、QWERTY配列を使っていた。もともとラテン語を継ぐ言語なのだから、ラテン字母を並べたキー配列を使うだろうと思ったのだが、考えてみると少し奇妙である。もともとキーボードの元になるタイプライターは米国人の発明だから、イタリアには米国経由でそのまま入り、フランス語ではフランス語に合わせて変化したということだろうか。

気になってスペイン語やポルトガル語のキーボード配列を見たら、イタリア語同様、QWERTY配列が基本であったようだ。これらは、タイプライターのニーズの歴史にも関わっているのかもしれない。

ついでにイタリア語のアルファベットを見ていて気がついたのだが、英語と同様、またフランス語とも同様に、26文字を使うのだが、英仏語とは異なって、26文字がフラットに同様の文字として扱われているのではなく、KJWXYの5文字は外来語表記用として別途意識されている。なので実際のところは、イタリア語のアルファベットは21文字だけとしてよい。別の言い方をすれば外来語を廃するなら、イタリア語では21文字で足りるということになる。このあたりの文字セットの意識はイタリアの子供でも意識されてはいるのだろう。

イタリア語のネイティブではないその5文字の読みを見ると、Kが「カッパ」、Jが「イ・ルンガ」、Wが「ヴ・ドッピャ」、Xが「イクス」、Yが「イプスィロン」、Zが「ゼータ」となっている。Jに「ヨータ」の読みもあるところから、これらはW以外はギリシア語のアルファベットの読みに関連する意識を継いでいることがわかる。それはラテン語のアルファベットがそもそも、そういう意識、つまり、ギリシア語の外来語を表示するために作られたという意識を反映しているのだろう。

ラテン語のアルファベットについて言えば、母音Iの子音表現がJ、母音Uの子音表現がW、でもあるだろう。英語では、これがIがYに対応している。Cityの複数形がCitiesになるのは広義にはこのため。

また、イタリア語では、Jの「イ・ルンガ」は「長いI」、Wの「ヴ・ドッピャ」は「Vがふたつ」である。英語のWは「Uがふたつ」ではある。

ということをぼんやり考えていたら、ああ、なるほどと思うことがあった。フランス語のYが「イ・グレック」、つまり「ギリシアのI」なのは、同じ理屈からだろう。イタリア語でも、Yについてはいちおう「イ・グレーカ」の読みもあるにはあり、同様に「ギリシアのI」ではあるが、イタリア語の場合は、Y自体が外来語用の文字だが、フランス語の場合、Yは、外来語的ではあるが明確に母音体系として意識されている。つまり、そのことがフランス語における「イ・グレック」という呼称の、Iを強調する含みなのだろう。

そもそもラテン字母は、ラテン語がギリシア語の関わりで子音字母を拡張してまとめられたとも言えるし、これらの母音字がラテン語の母音5音でそのまま維持されたために、フランス語やドイツ語などの言語では母音字の拡張として音表記にアクサンやウムラウトなどができたのだろう。これがキーボードの困難さの起源とも言えるかもしれない。

この点、ロシア語の場合は、文字セットそのものを作り変えたとも言える。ただ、ふと思うのは、ロシア語の場合は、軟母音に独自の字母を当てなければ、ラテン語の5母音で足りたので、ラテン字母の表記もあっても不思議でもないように思える。

英語のアルファベットは、元来は、ドイツ語のようにラテン字母と音を意識して変遷するはずだったが、大母音推移が正書法改革を起こさないまま続いて、なんとも恣意的なものになってしまった。逆にいえば、ラテン字母のまま表記できる言語のまま維持された。母音の特性を母音字に反映するための規範という考え方が、国民国家として十分に発達しなかったことから、そもそもなかったのかもしれない。

こうした英語の奇妙な性質は、英語に閉じた外国語教育からは見えにくいだろうなとも思った。
 
 

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