« 2016年1月10日 - 2016年1月16日 | トップページ | 2016年1月24日 - 2016年1月30日 »

2016.01.23

フランス語入力に向かないフランス語キーボード

そうなんじゃないかと思っていたが、はやりフランス語のキーボードはフランス語入力に向いてないようだ。AFPのニュースが面白かった。「正確な仏語作文、キーボードが妨げ?仏政府が指摘」(参照)より。

【1月22日 AFP】言葉を正しく使用することにこだわるフランス人にとって、完璧な文章を入力する際の妨げとなっているものはキーボードの配列だった──。仏文化・通信省は最近発表した報告書で、フランスで使用されるキーボードの配列が「正しいフランス語の入力をほぼ不可能にしている」と指摘した。

 文字の上にアクセント記号を付けることはおろか、極めて重要な記号やユーロ通貨の記号のような簡便な記号を入力することさえ不可能な現状に対し、同国政府はキーボードの配列を微調整するよう求めている。

ちなみにフランス文化省のソースは、"Vers une norme française pour les claviers informatiques"である(参照)。

Saviez-vous que, contrairement à la plupart de ses voisins européens, même francophones, la France ne dispose pas, aujourd’hui, d’une norme décrivant le clavier utilisé sur les différents matériels informatiques traditionnels ?

BBCなんかでもこの話題はけっこくしつこく扱われていた(参照)。

実感としていうと、フランス語のキーボードはそこまでひどくはない。とはいえ、フランスで標準とされるAZERTY配列は、通常英語で使うQWERTY配列と主要なキーの位置が少し違うので、英語を書いているときと、フランス語を書いているときのキー操作の意識を切り替えるのがいらいらする、というか混乱する。

この混乱は二つの方法で回避できる。一つはカナダで使われているカナダ方式のキーボードを使うことだ。まあ、これでかなり解決する。英語のキーボードを拡張したようになっているからだ。もう一つの解決策は、英語のキーボードにinternationalというのがあり、これだと、フランス語もドイツ語も入力できる。

じゃあ、それでほとんど解決かというと、シルコンフレックスがうまく行かなかった。というわけで、英語を頻繁に使う日本人がフランス語も入力するというなら、カナダ方式でよいし、以前も書いたが、Chromebookだとこのキーボードの切り替えがかなり簡単にできる。

ところがまだ問題はあるのだ。フランス語の引用符である«»の入力方法がわからない。このあたりはかなり機種依存の問題でもある。Chromebookだとどうなるのか調べてみたら、どうもカナダ方式のキーボードに多言語というのがあって、それだとできる。じゃあそれでいいかというと、日本人が使っている日本語キーボードだと左Shiftキーがでかくて、Zの左のキーがなくùが入力できない。とほほ。通常のカナダ方式のほうがまだましだった。

そのほか、キーボードについてはユーロ記号などいろいろ微細な問題があるが、どっかで妥協するしかない。

さて、今後フランス本土ではキーボードはどうなるかだが、フランス文化省としても急いで変更するというのでもないようだ。BBCではドヴォラーク方式に近いBÉPOという方式も紹介していたが、時が経てば意外とカナダ方式が普及していくかもしれない。とはいえ、このQWERTY配列もなかなかに不合理なものだ。

そもそも問題として、どいうしてフランス語にはラテン字母がアクサンなどで拡張されているかというと、基本はそのほうがフランス語の音声や歴史的な音変化を写しやすいからだろう。それも言語の伝統であるし、慣れると、英語のように無理やりラテン字母で正書法を抑えこんだ言語のほうが不思議にも思えてくる。

ラテン字母の拡張といえば、エスペラント語にもあるのだが、このキーボードもあるのかちょと調べてみたら、ちゃんとあった。昔はタイプライターでエスペラント語を書くのはけっこう大変だったが、隔世の感はある。と、見ていったら、先ほどのBÉPOはエスペラント語にも使われているようだ。へええ。

キーボードなんて変な入力インタフェースだなとも思うが、根本的な改善は難しい。個人的にはせめて入力方式だけでもドヴォラーク方式にしたいと思っていたのだが、いまだ果たせない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.22

Chromebookを買って変わったこと

年初Chromebookを衝動買いした。この手の衝動買いで当たる確率は、高くない。低い。一割行くだろうか。それでも一割のヒットは自分を変えるのだが、ハズレの多さに自己嫌悪と、そして、安物買いがつきまとう。そしてこれがヒット率を下げて、さらに悪循環に至る。ふつう、たいてい。しかし、今回はとりあえずここまでの現状では、そうでもない。安物Chromebookはとりあえず当たり。どう当たったかということは、どう自分が変わったかだが、気軽に文章を書くようになった。

思えば思春期から何かと書く人ではあったし、自分としてはそれでも、さほど書く人でもないとも思っていたが、まあ、話を端折るとそれがいつからか、書くことはパソコンに向かうことになり、パソコンとの関わりが書くことに影響しだした。簡単にいうとパソコンに書くことが支配されて、うざったいのである。特に、パソコンがである。うざい。何がよくないのか。固定される、その上、起動が遅い。

デスクトップパソコンは字義通りデスクに固定され、利用者が固定される。良い面もあるが、強制感が強い。じゃあ、ノートパソコンでいいじゃないか。これが嫌いなのである。重いからだ。ノートじゃないだろこの重さ。関連して重たいからそれほどほいと持ち歩かない。結局、ノートパソコンといっても使っているときは、デスクトップと変わりない。

これがChomebookだと、けっこうそうでもない。軽いというほどではないが、ずいぶん軽い。読みかけの本に栞をする気軽さで、デスプレイをぱこっと綴じて、適当に片手で本みたいに置いておける。

だったらMacbookでいいんじゃないか。そのとおり。Macbookはいいなと今頃思うようになった。

Chromebookは意外なほど電池の保ちがよい。日なが使ってもそれほど充電を気にすることはない。それでも逆に長時間使うようになり、もっと電池が保っていいのにとは思う。もっと軽くてもいいとも思う。

起動はめっちゃ早い。デスプレイをぱかっと開くとすぐに使える。アプリも機能が制限されていることもあるが、もたつきはない。このドアを開けたらすぐしば漬け(古いなあ)感はパソコンというものの感覚を変える。まあ、これもMacbookは同じだろう。

と書いていくと、Macbookに勝るメリットはなんもないぞと思う。まあ、そうだな。

メリットばかりを書いたがデメリットも多い。基本、Wifiがないところでは使えない。しかし、どうも世の中、けっこう使える方向にはなっていく。クラウドへのセーブもすっかり慣れてしまった。ちなみに、オフラインでの保存もできるし、文章書きくらいならオフラインでもできる。

他、デメリットでは、使いたいアプリケーションが使えないこと。例えば、イラストレーターは動かない。Wordすら動かない。Excelも。だめじゃん。じゃあ、なんも使えないじゃないというと、まさしくそれはそう。ただ、この手の作業は基本部分ならけっこうなんとかなってしまう。それは使い分ければいいのだなと思う。

あと、アンドロイド端末のアプリも動くといいなと思って、移植してみたら、けっこう動いた。ネットの情報を見ると動かないという話が多いが、単純なアプリなら動く。FlipboardもWeb版が出たらしいが、試しに移植したら動いた。

Chromebookが自分の生活に定着してきて、使い勝手の広がりが合わせて、あれを買ったのである。あれ。先日、IKEAに行ったおり、Byllanという、ラップトップ膝のせ台。これも多分に衝動買いである。外国人を見ていると、日本人がノートパソコンと呼ぶラップトップパソコンを椅子に座ってマジでラップトップに載せて、よくぱこぱこ操作しているが、あれのサポートによいのだろうなと思ったのである。使ってみると、意外によい。なるほど、ラップトップ(膝のせ)かと思う。膝も暖かいし。アフィリを貼っておくが紹介のためで、実際に欲しいならIKEAで買ったほうが安いです。

結局、Chromebookと限らないが、ノートパソコンというのは、できたらせいぜい800g程度での重さでサイズは、学校とかで使う普通のノートより少し大きめがよいだろう。キーボードの打ちやすさにはある程度の大きさが必要だし。

というので言い忘れていたが、Chromebookもものによるのだろうが、キーボードがとても打ちやすい。この手のもので打ちやすいなんてないと思っていたのだけど、考えを変えた。タッチバッドも当初は使いづらいと思っていたが、慣れた。これってマウスより便利かもとも思う。二本指スクロールは便利だなと思う。スリータップ操作も便利。

他、いろいろキーボードショートカットがあって(Ctrl+alt+?でヘルプが出てくる)、使えるショートカットを増やしていくと、操作はさらに簡便。昔、Vzエディターを使っていた感じになる。外国語を使う人にもいい。以前にも書いたが、フランス語とロシア語のキーボードの切り替えているが簡単。C'est facile.Это просто.それ以前に日本語と英語の切り替えも簡単。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.21

[書評] ぼくがいま、死について思うこと(椎名誠)


どう生きたらよいのか。そう迷うとき、何気なく実践していることがある。自分より10歳くらい年上の人の生き方を見つめることだ。身近な人や著名人など。10年の差は、時代にもそれなりに差が生まれるので、自分の参考にならないことも多いが、それでも自分の年齢と10年以内だと近すぎるし、10年以上だと遠い。とはいえ、それで割り切れるものでもなく、曖昧なレンジのなかで、その人はどう生きているのかと考えることはある。そして、そろそろ、どう死ぬのかということも。

そうした思いに比較的に日常的に浸されている自分としては、cakesの連載(参照)でも取り上げた椎名誠さんが死についてどう考えているかは気になるので、表題につられて「ぼくがいま、死について思うこと」を読んでみた。というか、文庫本で見かけたので読んだ。

実はこう言うとなんだが、椎名さんなら、死についてその歳まで考えたことがない、そして世界の見聞の広い椎名さんのことだから、いろいろ酒席で聞くには楽しい話題を花束のように展開されるのではないかと思っていた。予想はあたった。その意味で、面白い本ではあったが、私が読みたいと思っていた本ではなかった。

ではどんな本が読みたかったのか、おまえは何を期待していたのか、と問われると、当然ながら判然としない。なにか痛みや不安を伴う、真摯な表現だろうか。しかし、それこそが椎名さんに求められるものではない。

この本はなんだろう。そういう思いを心に据え直してみると、軽妙に語られる椎名節から、いつもながらのある薄暗い調性のようなものは感じられた。それは、むしろ、表向き死について語られている部分ではないところで。

例えば、「ぼくは体型や体重が高校生のころからほとんど変わっていない」と彼は言う。嘘だとは思わない。彼はだから昔の服がずっと着られるとも語る。そしてそれが日常的なストレスになっていないともまで言う。体と精神のコントロールが保てるとして、「それがたぶん、今ぼくが生きていく上でのアクティブな精神の基礎になっているような気がする」とまとめる。

私も若いころから体型が変わらない。30歳ころ父が死んで葬式に喪服を作ったおり、叔父が、これから君も中年になって太るからゆったりした喪服を作っておきなさいと言われて作ったが、その必要はなかった。それでも変わるきっかけはあった。自著にも書いたが結婚して沖縄暮らしをしたら体重が10kg増えた。驚いて普通を意識したら半分戻した。以降20年くらいそこからは変わらない。あと、菜食していたとき50kgを割ったことやヨガで肺が大きくなった、筋トレで少し肩がついた、とかあるが、微細。変わったといえば、これも自著に書いたが徐々に禿げた。もし機会があったら、禿げることについて本を書きたいとも思っているが、禿げるということは、禿げる自分に慣れるということである。と、同時に禿は差し歯と同じように繕ってもどうということでもないので、選択の問題でもある。

で、何が言いたいのか。私は結婚と禿で、体型ではないが見た目を変えたことで、少し死を受け入れたように思う。たぶん、椎名さんはそれがない。羨ましいかといえば、その文才のように羨ましいと思うのだが、では自分が禿で学んだ死の思いはどこに行くのだろう。ついでだが、この件ついては、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」に意外に長い考察がある。

つまらない自分語りになってしまったが、ああ、椎名さんは遠い、と思う。遠くて構わない。しかし、その羨望の歪みからか、なにかが語られていないという感じは残る。

椎名さんは、鬱も経験したが「それまでの人生、常にポジティブシンキングが基調だったぼくをネガティブな意識がはじめて侵食し、そいつをなだめながら二十数年。まがりなりにも今は毎日まあけっこう楽しい。といえるような日々が続いているので、まだ僕の前には「あらかさまな」死の意識やその影はちらついていない、と思っている」と記す、が、私からは、なにか若い身体に封じられているように見える。それは椎名さんにとっては、運の強さかもしれないが。

本書のきっかけとなったのは、彼の「主治医」中沢正夫医師の、死についての問いかけだったこともあり、文庫本では彼の解説がある。そこで中沢医師は椎名さんのこの本について「一人称の死(やがて来る我が身の死)については、まだ書く気分になっていないように見える」と静かに語って、見せている。少しきつい言い方だが、中沢医師の言葉は椎名さんには届いていなかった。届くべきだったかはわからない。椎名さんが届いた先の言葉を書く日が来るかもしれないし、そういうことは永遠にないかもしれない。それが悪いことでもない。本書に描かれる彼のお爺いちゃん姿の幸福と同じように、それも幸福というものの形かもしれないのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.20

[書評] ぼくは科学の力で世界を変えることに決めた (ジャック・アンドレイカ, マシュー・リシアック)

15歳の少年が独自に、初期段階の検査が難しいとされてきた膵臓癌の画期的な検査法を発明したという話題は、ネットで見かけてから気になっていた。ジャック・アンドレイカ君の話である。

まず、本当かなということが関心だった。なので、そのことが書かれいた本書を読んでみた。なんと言っていいのか、奇妙な本だった。「本当かな」という部分については、本当だったという点で、天才少年と天才的な発明の物語のドキュメント性はある。それだけでも面白い。そして当然だが、物語はその成功譚と苦難の物語になるのだが、そこがちょっと思っていたことと違っていた。というかかなり違っていた。

まず、ジャック・アンドレイカ君がどれほどすごいかというのは、TEDにある彼自身の話がわかりやすいかと思う。

天才というのはこういうものだなというのがよくわかるスピーチだが、見ていると、強調されているGoogleとWikipediaのほかに、さりげなくPLOS Oneが出くる。批判もあるが、この威力はすごいなと思う。

英語だが内容がわかりやすいので、もう一つわかりやすいドキュメンタリー風のものも紹介しておこう。

さて、ジャック・アンドレイカ君の主要な話はTEDに尽きているとも言えるし、邦題も副題とこのTEDから付けられたように思える。その意味で、この物語のメインロードははっきりしている。書籍のほうを見ると、さり気なくだが、彼の天才性はぎしぎし伝わってくる。

で、そう、で? 実は物語としてこの本を読むともう一つのテーマがある。LGBTの青年の物語なのである。うかつではあったが、ジャック・アンドレイカ君は、天才的な発明の連鎖ではあるだろうが、その面でもある種、ヒーローというか著名な唱導者にもなっている。

その意味では、本書は、天才少年の物語や、米国という国がどのようにイノヴェーションに開かれているかということに加え、普通に、と言ってよいと思うが、LGBTの青年の物語であり、さらに広義には、いじめられる青年の物語である。その部分は、読みやすく書かれてもいる。

翻訳書としての少し残念に思うのは、解説がないことだ。訳者の中里京子さんが一文書いてもよかったのではないだろうか。

原書はKindleにもあった。冒頭を読んでみると、現代米語らしい雰囲気だが平易な英語でもある。高校英語の副教材にも使えるのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.19

IMF的に見た日本の経済の課題と労働政策提言で思ったこと

IMFは毎年日本経済の審査を行っているが、最近の審査状況が公表される前に概論的な発表の会があり、主に学生を対象としたようでもあるので、経済の勉強がてら聞きに行った。端的なところ、IMFが日本をどう見ているのか、文書以外な部分で感じ取れるものがあればよいと思っていた。

話題は大きく分けて二つあり、IMFによる、日本経済(主に財政・金融政策)への提言と労働状況についての提言である。

まず日本経済の課題だが、展望の条件が4つ提示された。まず、先進国間の金融政策の非対称性である。ごく簡単に言えば、米国の金融緩和政策が終わったことへの世界経済への影響と見てよい。発表会では言及がなかったが、その影響はマレーシアなどにすでに大きく現れている。つまり新興国マネーの問題になるだろう。

二点目が中国経済のリバランシング。これもごく簡単に言えば、中国バブルのソフトランディングとしてよいだろう。このあたりはIMF的な視点では、中国政府による対応が進みつつあることの評価が前面に出て、さほど危機感としては意識されてはいない印象を受けた。ようするに、中国の過剰な生産能力の解消に経済が内需主導型に切り替わることを期待するというものである。まあ、それ以外は結論もないだろうが。

三点目は貿易の縮小。四点目はコモディティ価格の不安定性。後者は基本的には原油と見よく、この二点合わせて実質、世界的な需要不足の問題である。

こうした条件認識からIMFとしては世界経済のリスクを捉え、日本経済のあり方を位置づけるということで、特段に目立った結論はでない。だが、印象としては、通称アベノミクスとされている金融緩和は好意的にかつ成功として受け取られているようだった。日銀についても、方向転換ではなく、現行政策の延長でいっそうの市場との対話よよくすることが求められていた。インフレターゲットで見ると、2%を割るようではあるが、その適度な安定した弱インフレが望まれるというものである。加えて構造改革が求められるという、毎度の話もあった。

日本の場合、近年の消費の落ち込みは統計上も目立つ問題である。そしてそのきっかけは消費税というどう見ても税政策の失態でしょう、というような指摘は微塵も感じられなかったし、これから来る消費税増への問題指摘もなかった。このあたりの暗黙の了解の空気はなんだろうかという違和感はあった。

構造改革については依然指摘されている項目が並び、新味はないが、その背景としては、少子高齢化の人口要因が強く意識されていた。これはつまり、労働状況の問題でもある。

そうした流れもあり、二つ目の議論は、日本の労働状況をどう改善するかという提言になる。こちらの話題は、各種の見栄えのしない徳目の羅列ではなく、日本の労働状況の分析から始まっていて興味深いものだった。要点はなにかというと、日本の労働状況の問題は、正規労働者と非正規労働者の二重性に問題があるとするものだった。

それだけ取り上げらればどうという話でもないのだが、方針としては、日本では正規雇用の保護が厳しすぎることと、非正規雇用の低賃金ということの解消が課題であり、それにはその中間的な労働形態を推進すべきだというのである。具体的なレベルの話ではなかったが。

会合は終始英語で勧められたのだが、この話題については、日本語で異論も出ていた。一つは、こうした二面性の問題は、原因ではなく、かつての日本経済の成功の惰性的な結果にすぎないということ。もう一つは、労働の二極性は停滞の結果であるとするものだった。どの議論もそれなりの支持は可能だが、大局的な労働人口の変化を考えると、いずれ、現状の正規雇用と非正規雇用の中間的な形態を取らざるをえないだろうという考えには落ち着く。

さしあたっての労働問題としては、賃上げがある。これが日本の場合、形の上での労働闘争より、政権主導で推進されているふうに見えることは、現在日本の奇妙な現象のようにIMF的には見えるようでもあった。

この点については、私などの印象からすれば、正規雇用の側から非正規雇用の視座を取り組んだ労働政策の不在があると思う。

個人的な印象でまとめるなら、この数年間のアベノミクスによる企業の貯め込む分を早急に労働者に還元することで消費を活性化する必要はあるだろう。

最後に、社会派ブロガーばりにおちゃらけた締めを言うのもなんだが、ネット的な正義に多い、いわゆる福祉的な再配分よりも、非正規雇用をまでも含めた賃上げの動向を生み出すことが重要には思える。

しかし実際のところ、こうした議論では、ルサンチマン的な視点を超えることが難しい。たとえば、正規雇用と非正規雇用の中間形態の模索のような提言は、擬似的なイデオロギー論のなかでかき消されるだろう。そのこと自体、つまり、日本における現行の政治的な言説は、実際には構造改革の抵抗として機能していく(正規雇用の高齢者保護)、ということなのだろう。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.18

スウェーデンとイスラエルの関係悪化の関連でIKEAまで

日本での最近の報道では見かけなかったように思うが、スウェーデンとイスラエルの関係がいっそう悪化している。最近の話題としては、スウェーデンのマルゴット・ヴァルストローム外務大臣(H.E. Ms. Margot Wallström)がイスラエルを訪問しようとしたが、イスラエル首相など政府要人から面会が拒絶され、訪問はキャンセルされた、という話がある。イスラエル側の硬化の理由は単純で、一昨年スウェーデンがパレスチナ国家を承認したことや、ガザ空爆などでイスラエルの罪を追求しようとしていることがある。ただ、それがイスラエル側の公式の見解というのでもなさそうではあるが。

他愛のない話のようだし、日本のネットによく見られるリベラル派があまりこの事態に関心をもってなさげないのも、スウェーデンの対応は当然と見られていることもあるかもしれない。とはいえ、国際紛争を対話によって協調していこうという外交戦略をスウェーデンがもっているなら、自己満足的な外交を展開しても意味はないだろう。

この話題に私が関心をもったのは、そのディテールのほうだった。そもそもなぜ彼女はイスラエル訪問をしようとしたかというと、テルアビブでの、ラオル・グスタフ・ヴァレンベリ(Raoul Gustaf Wallenberg)についての会合に出席するためであった。ヴァレンベリについては改めて記す必要もないと思うが。第二次世界大戦のハンガリーで迫害されていた10万人ものユダヤ人の救出した外交官である。

オスカー・シンドラーや杉原千畝を思えばイスラエルとしても、この件についてはスウェーデンを厚遇してもよさそうなものだがなという思いがあった。ちなみに、マルゴットさんこうした活動に深く関与してきた。

日本などのリベラル派の文脈はこのあたりで終わりだろうと思うし、この先のイスラエル側の言い分を聞いてもさほど意味もないように思うのだが、なんとなくニュースを読んでいくと、ちょっと意外な話があった(参照)。リーバーマン外務大臣は、第二次世界大戦時のスウェーデンを評価していないどころか、当時のスウェーデンは富に目がくらんで、ユダヤ人強制収容所のことを知りながら看過したのだと批判しているのである。一種、スウェーデンの間接的な戦争責任を追求しているようでもある。

しかしそれは別のことのようにも思うし、戦争責任の話題を現在の外交問題に引き出すというのも外交という点では大人げないようにも思うのだが、大人げない話はさらに笑い話のようにつづく。彼は、IKEAのボイコットを提案しているのだった。IKEA不買運動でスウェーデンに圧力をかけるというのだ。なんだそれ? というわけで、これ自体がネタになってしまった。テレグラフなども取り上げていた(参照)。

バカバカしい話ではあるが、逆に考えれば、IKEAがまったくスウェーデンの外交と無関係とまではいえないだろう。一種のソフト戦略の一貫でもあるだろうし、スウェーデンの国家としてもその自覚はあるだろう。実際のところ、IKEAはイスラエルで、そのレストランなども含めて大人気ではあるし、私などもIKEAスタイルというのは好きなほうだなと思っている。スウェーデンといえば、IKEAスタイルというのがソフト戦略である分だけ、その文脈での衝突もあるだろうし、それは国際社会ではビジネス上の課題としても想定していくべきでもあるだろう。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.17

ポーランドの現状の、「立法」と「法の支配」について

日本で報道がないわけではないが、あまり話題になっていない印象があるのが、ポーランドの現状である。私のごく主観に過ぎないかもしれないが、逆に私が気になっている部分をブログで書いておきたい。

ポーランドでは去年11月、右派政党である「法と正義」党による政権が発足し、国家の進行方向に変化を見せ始めている。先月には、憲法裁判所決定に必要な判事同意を従来の過半数から3分の2に引き上げた。これによって立法の違憲判断する条件が厳しくなる。つまり、違憲の疑念の強い立法が可能になる。

そして現在ポーランドでは、公共放送局を統制する法案の成立を進めている。公共放送による批判を抑えこむためである。簡単に言えば、報道の規制である。「法と正義」党は、前与党「市民プラットフォーム」党が任命した幹部が公共放送を支配していると見ている。

こうしたことに世界のリベラル派は懸念の声を大きく上げている。EUも批判の声を上げた。13日、EUの執行機関に当たる欧州委員会がこの問題を協議する会合を開き、加盟国に義務づける「法の支配」の原則にポーランドが違反するおそれがあるとして本格的な調査に乗り出した。

ここで私は単純な疑問を持った。主権国家であるポーランドが、正当な立法手順を経て成立した法で国内を統制することに対して、EUが「法の支配」を元に規制できるのだろうか? もちろん、そのことが加盟国義務であるからできるのだとは言える。だが、愚問に近い疑問は、「EU加盟義務」が問われているのではなく、「法の支配」が問われている点である。主権国家の上位に「法の支配」を置くことができるのだろうか、ということである。

EUの言い分は正確にはこうである(参照)。

ジャン=クロード・ユンカー委員長率いる欧州委員会の委員たちは本日、ポーランドの最近の動きと法の支配について、初めての討議を行った。法の支配は、欧州連 合(EU)が礎とする基本的価値の一つである。欧州委員会は、EU法の遵守を確保するという役割のほか、欧州議会、EU加盟国およびEU理事会と共に、 EUの基本的価値を保証する責任がある。特に憲法裁判所の構成員をめぐる政治的・法的論争など、ポーランドにおける最近の動きは、法の支配の遵守に関する 懸念を引き起こした。このため、欧州委員会は、憲法裁判所および公的放送機関に関する法の改正について、情報を求めた。フランス・ティーマーマンス第一副 委員長(法の支配担当)、ギュンター・エッティンガー委員(メディア政策担当)およびヴェラ・ヨウロヴァー委員(法務担当)による状況説明に続き、委員ら は、法の支配の枠組みの下でポーランドの現状を評価すべく、初めての討議を行った。本日の討議を受け、欧州委員会はティーマーマンス第一副委員長に対し、 法の支配の枠組みに基づく体系的な対話を開始するためにポーランド政府に書簡を送る権限を与えた。欧州委員会は、欧州評議会の「法による民主主義のための 欧州委員会」(ヴェニス委員会)と緊密に協力しつつ、3月中旬までに再度この問題を取り上げることに合意した。

仮訳らしいが、ここで主張されていることは、「法の支配」は、EUの「基本的価値」であると読める。

つまり、今回のポーランドの事態は、「法の支配」そのものが問われているということであり、これは、主権国家の限界に接している。

こうした議論でややこしいのは、よく言われていることだが、「法の支配」が「法治主義」と異なる点だろう。「世界大百科事典 第2版」では強調していた。

法の支配は法治主義とは異なる。法治主義という言葉も人によって若干用法を異にしているが,基本的には,統治が議会の制定した法律によって行われなければならないとする原理であるといってよい。これに対して,法の支配は,統治される者だけでなく統治する者も〈法〉に従うべきであるということを意味する。そこでの〈法〉には,議会が制定した〈法律〉を超えた,自然法的な響きがこめられることになる。そのような〈法〉が,統治の各面を支配すべきだというのが,法の支配の精神の真髄なのである。

この説明だと、一国の議会が制定した法を、自然法である「法の支配」が凌駕するということになる。また、日本国憲法のような成文法とも限らないことになる。

ところで、EUがポーランドを規制しようとしても、実際的にはEUの投票権停止くらいの罰則しかできない。結局のところ、「法の支配」を担保するものは、何になるのだろうか?
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年1月10日 - 2016年1月16日 | トップページ | 2016年1月24日 - 2016年1月30日 »