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2016.06.29

[書評] 脳が壊れた(鈴木大介)

通常の生活もままならない最貧困の状況に陥った若い女性が、主にセックスワークで日銭を稼ぐようすを描くことで関心を呼んだルポルタージュ『最貧困女子』(参照)の若手のジャーナリスト鈴木大介氏が、41歳のときに脳梗塞で倒れた。本書『脳が壊れた』(参照)は、その渦中、その後、そしてリハビリを経て、高次脳機能障害に陥った状態を描いている。昨年の『新潮45』の10月号・11月号に掲載された『41歳、脳梗塞になりました』を加筆してまとめたものだ。よく描けているので、文章からは高次脳機能障害の様子は見られない。

若い人でも脳梗塞になることもある。その結果、死に至ったり、各種の大きな障害が残ったり、また外見から見えづらい高次脳機能障害を残すことがある。私も自著にも記したが、こうした問題に関心があり、この種類の本やよく読むようにしている。

鈴木氏の脳梗塞は右脳に発生したらしい。人間の脳は機能的に左右分担をしており、特異な状態で脳梁を切断し左右脳の連携を遮断しない限り、通常一体として働くので、いわゆる右脳型人間・左脳型人間というような差違は顕著には表れない。がそれでも脳部位は機能分担しており、なかでも右利きの人の場合、左脳に言語関連の中枢がある。このため、左脳で脳梗塞が発生すると言語能力に大きな問題が生じやすい。言葉がしゃべれない、理解できないなど。鈴木氏の場合は、右利きで脳梗塞が右脳であったため、直接的には言語関連の大きな障害は残らなかったとも言えるが、脳梗塞発生時には、話ができない状態に長期に陥った。というか、彼の場合はその後もけっこう言語障害が残ったようだ。

脳梗塞発生時の兆候はいろいろある。それ自体興味深いのだが、本書を読む限り、彼の場合、緩やかに訪れたようだ。日常的に左手の小指・薬指が自由にならない状態が長く続いた。物書きにありがちなタイピングの疲労だろうと疑っていたらしい。あまりひどくなり、音声入力も併用していたのだが、ある朝、自分の声が変わっていた。「宝物」と言ったはずが、「あああおお」になっていた。しゃべれない。視覚も歪んだ。すぐに奥さんに頼んで30分ほどの距離にある病院に運び込まれ、脳梗塞と診断された。繰り返すが、この時、彼は41歳であった。

なぜ若い彼が脳梗塞になったのだろうか。理由は判然とはしない。本書では彼は過労だろうと疑っているし、おそらくそれは大きな要因ではあるだろう。

緊急の状態を脱すると、リハビリに移る。その過程は本書に詳しい。右脳がやられるとこうなるのかと考えさせれる挿話が、こういうとなんだが笑いを誘う。視野には大きな問題が生じる。

本書を読んだ印象ではリハビリは順調に進んだかに見える。が、それにつれ、一見障害には見えづらい高次脳機能障害が残るようになる。こういうのも失礼だが、本書で一番興味深いのはこの部分である。

この分野に関心にある読者としての自分にとって、本書で印象に深いのは二点ある。一つは脳に問題が起きると、「感情の制御」が難しくなるということだ。自著にも書いたが私も40代半ばに脳の問題を抱えたとき号泣したことがある。あれを書いたころは問題を絶望として受け止め、その感情表現のように思っていたが、本書なども読みながら、私に起きたあれも脳の感情暴走のようなものだったかもしれないなと思った。その後の私にはあまり感情暴走のようなものはない。こういうとなんだが、できるだけ笑うようにしている。笑うチャンスを日常に作ろうと思っている。この話はノーマン・カズンズと関連していつ書きたいものだと思っている。

もう点の、本書で印象深かったのは、彼が言う「小学生脳」である。日常の興味のもちかた・注意力の向け方が、なんというか小学生のように、お子様になってしまうのである。世界が個別の関心事に分解されてしまうのである。あ、あれ、なーに?みたいな関心がぱらぱらと起きるようだ。オブセッションとも違うが、生活行動の全体の関心の統一性は維持しづらくなる。

ここで彼がジャーナリストとして優れていると感じさせるのだが、『最貧困女子』などの執筆を経て出会った、いわゆる社会の落ちこぼれの人々は、こうした高次機能障害に近いものではないかという直観である。実際には医学的にはそう判断できるものではないだろうが、ある種、そうした社会視点は必要になるかもしれないというふうには読後思った。

本書の後半部になると彼と彼の奥さんとの関係の物語が登場してくる。鈴木さんが25歳のとき、家出した19歳の奥さんと同居したのが関係の始まり。その16年間の間には奥さんの脳腫瘍という大病もあった。この数章は、本書の主題からすれば別の物語のようでもあるが、美しい夫婦の記録でもある。人はいろいろな結婚があり、いろいろな人生があるものだ。まあ、私なんかもその部類じゃないかと思うし、誰もが人生をある時点で振り返ればそういうものだろう。

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2016.06.27

[書評] さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ(永田カビ)

すでに知っている人は知っているだろうし、むしろ私のほうがこの作品についてのこれまでのネットの話題を知らないほうの人なんだが、ようするにコミックである。内容は表題通りで、あまりにさびしすぎてレズ風俗に言った女性の物語である、というと簡単そうだが、概ね28歳の女性実話である。私は見ていないのだがすでに大筋はネットでも公開されているが、それは「女が女とあれこれできるお店へ行った話」となっているようで、書籍化にあたりタイトルを再考したのだろう。

そういうことなんだが、話がまとまらないが、これ、コミックでなくて、文章のレポだったらどうだろうかとも少し思った。


実際には見やすく丁寧に書かれたコミックなので読みやすい。コマの割りや、ルポなのだが脚色も上手でいい作品になっている。

で、評価に困惑した。よい作品なのである。で、どう評論していいのか、とても困惑した。もちろん、評論なんかしなくたっていい。よい作品だ、で、終わりでもよい。つまり、すでに誰かがきちんとそうした線で評論というか評価を書いているんじゃいか。と、ぐぐったら案の定、はせおやさいさんが「永田カビ「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」読んだ」(参照)を書かれていて、まあ、これに私が何か加えることがあるのかとふと思い、いや、あるんだよねと思った。はせさんへの異論という意味では全然ないが。

概要的にはせさんの文章を借りると。

高校卒業後、鬱と摂食障害に苦しみ、家族や他者との関係に悩んだ筆者が大きな一歩を踏み出すまでの10年を描いた漫画です。もともとはpixivで「女が女とあれこれできるお店へ行った話」として公開され話題になっていたのですが、書籍化ということで、発売日当日に書店へ走りました。

最初に読んだとき、わたしがもっとも心を掴まれたのは、彼女が「レズビアン風俗」というものを探すきっかけになった、「自分は性的なことに興味がない、と思っていたけれど、そうではなかった。無意識にブレーキをかけて、考えないようにしていた。そしてそのブレーキは、母の形をしていた」という部分でした。そして彼女は自分の興味にしたがって風俗店を検索し、行動してみることで世界が広がり、呼吸が楽になった、と書いていたのです。

はせさんの文脈に繋げるわけでもないが、本書の話は概ね、社会的な居場所がなく、承認地獄に落ちたメンヘラこじらせ28歳処女が、あまりにさびしくてレズ風俗に行って、人生観変わった、ふうに受け止めてもいいし、著者としてもそうした文脈を意識して描いているようには思った。

私はどう思ったのか。難しいなあと思ったのである。この難しさをどこから切り出していいかわからないが、これ、「レズ風俗」じゃないだろ、というか、あるいは、「レズ風俗」というのはこういう側面も一面として持っているのかな、というあたりだった。

こういうといいかもしれないけど、カビさんに対応した「レズ風俗」のお姉さんたちは、この手のメンヘラ女性にかなり手慣れているなあと思った。これ、一種のカウンセリングみたいなものなんだろうな、と。

ちょっと話が飛んで古い話なるのだが、1980年代の日本に(オウム事件前だが)自己啓発セミナーが流行ったことがあって、現在の自己啓発セミナーものと違って、米国のエンカウンター・グループテクニックも使われていた。まあ、この話は長くなりがちなので端折ると、そのエンカウンター・グループテクニックのなかで、ハグの訓練というのがあった。見知らぬ人と出会い、対話して、そして手を触れ、ハグ、という人間のコミュニケーションを学ぶというものである。

たぶん、今でもどっかでやっているんじゃないかと思うし、私もこれの経験がある。のだけど、率直にいうとこれのセミナーはおそらく洗脳セミナーみたいなものにもなっているので、なんともお勧めしかねる。

で、本書読んだとき、本書みたいに「レズ風俗」で裸でハグしなくても普通にハグしあえるエンカウンター・グループテクニックのような機会があればそれは、それでメリットもあっただろうかとも思った。

本書はおそらく古典的な精神分析を学んだ人にとっては、なかなか含蓄深い挿話に満ちているのだけど、これは「レズ風俗」という文脈より、女性身体のロールモデルの学習でもある。この手のなんというか、女体触れあいコミニュケーションは比較的どの伝統文化にもあり、むしろ現代日本になくなりつつある。というか、女子体育会系の闇みたいなものにもあるだろうと思う。

そうした点で、これ、「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(女性)は、「さびしすぎて風俗に行きましたレポ」としての男性、つまり、童貞の物語には微妙にならないのだろうと思った。おそらく決定的に違うわけではない。むしろ、このレズ風俗のお姉さんのようなカウンセリング的なお姉さんがやさしく童貞君に対応する風俗があればよいと思うのだが、まあ、あるんだろうか。あるのかもしれないが、なさそうな気がする。

うーむ。ちょっとここでうなる。

なんだかんだ言っても、「レズ風俗」である意味救われる女性はいるだろうし、普通の風俗で救われる童貞こじらせ君もいるだろう。一定数は居るだろうという以上は言えないだろうが。

いろいろ思う。そのわりにうまくまとまらないな。(お前はどうなんだという部分もあるしなあ。)

本書でいろいろはっと気づかされる話のなかに、レズ風俗後に著者は体験を「美化してしまう」としている。それはある種特殊な批評眼のようなものである。

こういうとなんだが、エロス的な経験は美化してしまってもいい。実際のところ、彼女がそうした美化のなかで唐之杜志恩と六合塚弥生的関係を築いてもいいだろう。

では、そこはそうなるのかというと、よくわからない。あるいはヘテロなエロス関係を持つようになるのかもわからない。いずれにせよ、あと数段のエロス的な自分の存在の受容というのは起きうるだろうし、そういうのが30歳代の課題というのもそうなのかもしれないなと思った。このあたりは、「ナイン・ハーフ」や「ベティー・ブルー」的テーマでもある。


本書の彼女の場合は、というか、この作品「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」の場合はというか、ルポとはいえ、作品としてのある種の形式的な強制性が、物語のなかに「生」を導入させている。そのために、とても爽やかな作品になっているし、存在が「死」に接近するなかでもかろうじて「生」と「世界」に開かせる部分は美しい。

ただ、「性」や「エロス」というものはそう明るいばかりものでもない。そうした漆黒の心性みたいなものを抱えてしまった若い人はどうしたらいいんだろうかなあとも思った。映画なんかだと、「罪物語」とか「愛の嵐」とかふと連想するが。

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