« 2016年5月29日 - 2016年6月4日 | トップページ | 2016年6月19日 - 2016年6月25日 »

2016.06.08

「残響のテロル」と凡庸性の詩情

「PSYCHO-PASS サイコパス」を見終えて関連の情報を当たっているとき、「残響のテロル」がお勧めされたので見てみた。ノイタミナで同じころの作品ということだけの関連かもしれない。あっという間に見終えた。11話完結で面白かった。アニメの場合、1クールで映画2本分という感じだろうか。以下、ネタバレは含まれるのでご注意。

作品に違和感はないわけではない。というか、その世界観、2014年日本という設定、などに微妙な違和感があった。核が国家幻想に接する部分の物語は必然的にある種の陰謀論的な妄想を生み出す。この物語もその一つの典型的な派生に過ぎないとも思えたし、既存の世界、あるは日本に対する若者特有な破壊的な欲望も喚起する、「日本死ね」といったような類型性については必然的に退屈にも感じられた。また、登場人物が少なく、映像的な広がりの割に密室劇的な要素が強い。これは上演劇向けの作品かなと思ったら、すでにそういうのもあるらしい。

それでも面白かった。なにが面白かったのか。映像が美しかった。現代の日本の、都会の夏の風景がこの上もなく美しく描かれていた。これに菅野よう子の音楽がとても美しく調和していた。率直にいうと、それだけで見る価値のあるアニメだという印象がある。

ストーリー展開や表層的な主張性、キャラクターについては、あまり心動かされるところはなかったが、主要登場のひとり、三島リサという少女がとてもよかった。アニメなので美しく描かれているし、それに見合うように、いじめや家庭環境の問題など、心がずたずたの少女という設定も了解しやすいのだが、彼女の物語での立ち回りが、いたってなんの物語性がないというところが、皮肉な意味ではなく素晴らしい。もっとも、その反動面としてハイヴという女の子がいかにもこの物語のいかにも物語らしい側を担わされてしまってはいる。

物語は、ある意味、超人的な少年、九重新と久見冬二の物語であり、表面的にはテロの形で世界・国家の本質を暴こうとして共同幻想に関わり、共同幻想の神話的な物語を紡いでいく。それと現実の物語の接点に、柴崎健次郎という中年刑事がいる、というのも、まあ、どちらかというと定番の設定である。気になるのは、柴崎の年齢で、全共闘世代を臭わせているわりには若すぎるとは思ったが。

こうしたいかにも物語らしい物語のなかで、三島リサは受動的に物語りのコマのように組み込まれながらも、なんの特性もなく、主体的な物語への関わりもない。それでいて、この作品が本当の意味で独特な質感を作り出すのは、凡庸な三島リサと超人的な少年の関わりである。そしてその夏の風景は、村上春樹の初期作品のような叙情的な質感が上手に包んでいる。が、村上作品ほどホモソーシャルな情感はないものの、共同幻想がもたらす独特の対幻想への禁忌性は感じ取れる。

ハイヴの物語は描き足りないように思うが、脚本として大きな瑕疵もなく、他のストーリーの骨格や共同幻想的なレベルでのメッセージ性も明確になっているが、それだけなら、凡庸な政治性を可読にする、ありがちな主張に過ぎない。この政治的な通俗性とでもいうものがすべて、ある既視感なかで三島リサの中で終わるところは、ある陶酔感をもたらす。その意味で、この物語は、すべて三島リサという少女の一夏の幻想だったと言ってもいい。視聴している人間もみな、彼女のような凡庸姓のなかで、夏の詩情を持つようになる。そしてこの日本の夏の詩情は、無意識的に広島・長崎原爆への追悼の無意識に接続される。

私が仮にこうしたタイプの物語を紡ぐなら、もっとエロス的なシーンを多くしただろうし、そのことで共同幻想的な物語の欺瞞の情感を描くだろう。だがそのことによってこの作品のような独特の詩情は失われてしまう。エロス性の欠落は作品の情感の本質に触れている。

この、すべてが終わっているという既視感的な情感、あるいは最後に九重新と久見冬二という友情の墓が残されるという情景は、本質的なところで夏目漱石の「こころ」の枠組みと同じように思えた。この作品の死と愛の文脈の作り方は漱石的な質感も持っている。劇的なものが、凡庸な情感を介して回収される、こうしたある追悼的な詩情への希求は、おそらく、テロル的な心情と同型なのだろう。広義に鎮魂ということかもしれない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.06.06

「PSYCHO-PASS サイコパス」と比喩

「PSYCHO-PASS サイコパス1」
「PSYCHO-PASS サイコパス1」を見終えた。劇場版のほうはすでに見ていたし、そこからおおよその構成は知っていた。が、アニメのほうも通してみると面白かった。まず、普通にアニメとして面白い。きれいに描けている。脚本は緻密だ。しかしそれよりも、長年考えていたことの比喩をいろいろ思い出すきっかけになったことに、自分には意義があった。2のほうを見終えたからなんか書くほうがいいかもいれないとも思うが、そうこうしているとなにも書かなかったりもするので、少し触れておこう。以下、たぶん、ネタバレが含まれることになるので、ご注意。

比喩というのは、オウム真理教事件である。この事件がなんであるかについて、という話とは違う。あの事件がなんであったかは、私には今だによくわからない。ごく初歩的な事実関係ですら、よくわからない部分がある。だが大別して、二つ、ずっと思っていることがある。

一つは、あの事件はなんだったのかと簡素にだけ言うなら、日本そのものだった、としか言えないだろうということだ。これは首謀者とされる麻原彰晃は無罪なのではないかという疑問に関わる。その司法プロセスや法理に異論があるということではない。死刑判決が確定したことに異論はない。では何をもって無罪と思うのかということで、このあたりで言葉に詰まってくる。この事件で当初の弁護側がいう、「事件は弟子たちの暴走によるもので麻原彰晃自身は一切指示をしていない」というのは概ね正しいのではないかということに似ている。つまり、弟子というか狂信的な宗教集団が、中核的な空無に対応しての忖度が現実で引き越した事件だっただろうという補助線。カルト集団の共同幻想が引き起こしたと言ってもよいのだが、私はこれはカルトというより、日本そのものではないかと疑っている。というのも、第二次世界大戦に至る日本は、オウム真理教事件と同型だろうと疑っている。この大戦の場合は、天皇は連合国統治の都合から無罪というか、そもそも裁判からはずされたが、左派が糾弾するような意味では無罪であったように見える。もちろん、この点について強く主張したいわけではない。

オウム事件について戻るなら、そもそもあれは何の事件だったのかが、よくわかっていない。いろいろ奇っ怪なのだが、中核的な「地下鉄サリン事件」に限定するなら、このテロは何が目的だったのか? どのような思想でこのテロが構想されたのか。誰が構想したのか? いちおうそれは麻原彰晃の狂気の妄想から、世界(日本)の破滅予言を実現するために仕組まれたテロだったとは言えるだろう。それ自体は間違いではないが、では、そのテロ実現のプロデューサーと教祖はどのように連携していたのかとなると、わからない。気になるのは、そのスキームであっても、合理的に実施されたわけではなかったことだ。もし合理的なら、昨今世界で生じるテロのようにテロの効果性から手段が導かれる。そしてそれには、テロ実行犯がその自覚を持って行われる。だが、オウム真理教事件の場合は、実施者は高位の弟子に限定されていた。話がまどろこしくなるので端折ると、あれは「ヴァジラヤーナ」(金剛乗)の修行であっただろう。麻原彰晃も逮捕時には四法印と聖なる無関心といったようなことを奇妙な英語で口走っていたので、殺人を含む修行であることの了解はあっただろう。

推測だが、麻原彰晃の宗教思想では、殺人の是非を含めた社会の正義を乗り越えた金剛乗実践者が、殺人をも厭わず一見悪に見える事件をこの世界にもたらすことで、それを経て彼と世界を聖化するという構想があったのではないか。その意味では、弁護団が言うような、事件は弟子たちの暴走によるもので麻原彰晃自身は一切指示をしていない、というようないわゆる無罪の構図ではなく、殺人を超えた大いなる善の使者(菩薩)の到来という意味での、殺人の意識は麻原彰晃にもあっただろうし、ゆえに、聖なる無関心という境地にもあったのだろう。こうした思想は大乗の乱など仏教の歴史にもチベット仏教の渡脱の思想にもある。

「PSYCHO-PASS サイコパス1」の比喩でいうなら、浅原教的な金剛乗菩薩の集合意識によるシビュラと、そのさらなる実践者としての槙島聖護である。シビュラと槙島は基本的に同一である。その、市民社会の乗り越え彼岸への違いもあるが。

こうした比喩の考えかたは、当時の吉本隆明による麻原彰晃理解をなぞっている。

詳細を省くが、あくまで比喩の受容の一つではあるが(作成側の意図ではないだろうということ)、オウム事件の思想的な意義に触れる本格的な作品だったなと自分には思えた。

あと、個別に作品としてみると、シビュラの世界は、ジャック・ラカンの「ファルス」(phallus)のない世界の幻影的なファルスの世界に見えた。このことは、最終的な情念が、実質的に槙島聖護と狡噛慎也の同性愛であることに対応している。その意味で、ここで描かれる世界は地獄のように見えながら、実はラカンの日本への評価というか、douxな世界であり、常守朱からもファルスと性愛を奪っている。このことは批判という意味ではなく、高度な管理社会というのは、ファルスないdouxな世界への欲望を孕んでいるからだろう。


「PSYCHO-PASS サイコパス2」
以上を書いて数日後、「PSYCHO-PASS サイコパス2」を見終えた。ネットなど覗くとあまりで評は高くないが、私にはこれは1以上にすごい作品だった。哲学的なテーマが明確で神話劇的に出来ているので、ある意味非常に解読しやすい。が、そのためにアニメ作品としては不燃焼のきらいはある。むしろ、1のように征陸智己の昭和風人情話などを交えたほうが受けやすいのだろう。

とま、あえてここではそのことについては触れない。というか、2の哲学的なテーマを基軸に「PSYCHO-PASS サイコパス」全体については、cakesでやっているような本格的な評論で扱いという思いもある(なぜか現状休載状態ですが、書き手としてその意図はないです)。

ただ、この作品については、三菱銀行人質事件と日本航空123便墜落事故の同時代的経験は決定的かという思いは強く残った。表層的にも三菱銀行人質事件は比喩として意識されていたが、なにより鹿矛囲桐斗がシビュラに向ける銃の複数性にはその関連があった。日航事故についてはいわゆる御巣鷹の謎に関連する。

70年代安保を含んだある争乱の時代が終わったあとの日本というものの不気味さの無意識をよくここまで表現できたものだなと関心した。

「劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス」
ということで二度見た。最初にこれを見て、1と2の後に見た。基本、1と2の後で見た方がよいし、2の世界を継続しているが、物語の質感としては1に続いていて、2のコンセプトは被っているものの、2で描いた問題性の深化はないように思えた。どちらかというと、1で築いたファンへのサービスシーンが多い。私の見落としでなければ、常守朱がタバコを吸っているシーンは劇場版だけなので、ファン心理としてはとてもよかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年5月29日 - 2016年6月4日 | トップページ | 2016年6月19日 - 2016年6月25日 »