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2016.05.18

[書評] 公明党 創価学会との50年の軌跡(薬師寺克行)

二大政党という幻想が戦後日本史から崩れ去って久しいとまでは言えないが、国民間の相反する利益代表が二つの政党によって国民の信を問うという、希望、というのだろうか、かつての期待といったものは、すでに失われてしまった、と見てよいだろう。こう言うと批判も多いと思うが、現実的に見て、民主党政権はそうした戦後史の期待をかなりみごとにゴミ箱に投げ込んでしまった。

そうであるなら、どうするべきか。普通に考えれば、一定規模の第三極の登場とともに、政治の世界の再編成が進むべきだろう。しかしここでも率直に言えば、みんなの党の末路を見るまでもなく、そうした期待も虚しくなった。それどころか、そもそも二大政党という期待自体、他の先進国でも崩れつつある。そしてそこで台頭してきているのは、具体的な政治プランを持たない反発的な衆愚主義のようなもの、である。日本もそこに向かうのだろうか。

そうしたなか、現実の権力政党である自民党をどのようにチェックしたらよいのだろうか。どの政治権力が自民党の政策を具体的にバランスして批判できるだろうか。そういう構図で見るなら、単純にもう公明党しか残っていない。その具体例を挙げるまでもないだろう。具体的な政治の文脈でリベラルであることを現実的に求めるのであれば、自民党のリベラル性というものよりも、チェック機構としての連立与党にその批判性を期待するしかない。そしてその期待の意味もわずかではあるが、公明党も受け取りつつはある。

公明党の重要性は、そうした文脈では増しているのだが、これも言うまでもないだろう、そうした文脈自体が、おそらく苦笑の対象にしかならない。それは、民主党支持や既存左派の、予測されるありきたりの形骸化した苦笑ではなく、残念ながら国民全体に薄く広がっている苦笑なのである。

どういうことか。多数の日本国民は、本書の「まえがき」で明確に意識されているように、公明党の支持母体と、ほぼ前提的に分断されていることである。これは、労組支持を取り付ける民進党と多数国民との乖離といった構図よりも、はるかに強固であり、おためごかしのように知識人に食い入る共産党的な主張よりも、圧倒的な忌避感である。なぜか。

公明党が嫌われる最大の理由は、言うまでもなく、その強力すぎる支持母体・宗教団体である創価学会への忌避感の連鎖である。ではそれがなぜ生じるのかということは、大衆生活の次元で言えば、「彼ら」の活動がとても活発で、しかもそれが直接的に投票活動にまで手が伸びてくることだ。この様相はもっと具体的に語ってもいいが、そうした要素は本書にはほとんどない。そのため、本書には庶民生活に接する公明党の存在感は薄い。

そして、この忌避感の根幹にあるのは、これも言うまでもないが、創価学会の長である池田大作の存在である。これが杳として知れない。不謹慎ではあることはわかるが、端的に言って、88歳の彼のXデーは82歳の今上陛下よりも近いと想定して非理性的ではない。ではそのとき、連立与党である公明党にどのような波及が起きるのか。この問いは、日本の現実的な危機の一つに計上していいはずだ。が、本書にはその問いすらない。こうした問いにまつわるある種のタブーのせいとも思えない。だが、その問いにどのような答えが当てられうるかという点について言うのであれば、巷に語れるこの手の問題の安易な予測よりも本書の内容は示唆に優れている。そのためにも、日本政治に関心を持つ人は本書を読む価値はある。

本書は、副題のように「創価学会との50年の軌跡」を中心に、公明党史が平明に語られている。戦後史を学ぶための資料にも使える。こういうとなんだが、そのために本書がもっとも読まれるのは、創価学会の会員だろう。創価学会の現実的な会員は、案外、自分たちの宗教団体がなんであり、どのような権力構造しているのか、公明党はなんであるかということが、存外に理解されていない。竹入義勝や矢野絢也についてすら教条的な知識しか許されていない。それでも自由主義国にあって歴史というのは隠蔽できるもでもない。本書もその一例である。奇妙な言い方だが、本書は、創価学会や公明党員に、自己の集団の意義を、外部的で客観的な視点を介して問い返す大きな契機となるだろう。

とすれば、先の忌避感と会わせて、多数の日本国民には、実際にはそれほど意味がないのではないかとも思えるかもしれない。しかしより本書において価値があるのは、「創価学会との50年の軌跡」ではなく、「自民党との50年の軌跡」である。実際、本書は、少し視点を変えた自民党史と言ってもよい仕上がりになっている。そしてそのプロセスを見れば、特に小沢一郎を介して、明示的ではないが民主党が生まれてくる背景にもついても饒舌に語っている。

それでも史的な理解よりも、現在の日本の政治情勢についての公明党の意味合いを直接問うなら、「第9章 タカ派の台頭、後退する主張―自公連立の変容」「第10章 特殊な「選挙協力」連立政権―二〇〇九年」「終章 内部構造と未来―変質する基盤、創価学会との距離」の三章は読まれるべきだろう。現在の公明党の姿が上手に描かれている。

つまるところなんなのか? ある一定の政治勢力というものが、小選挙区制のなかで生き残るには、公明党のような内部結束の強い集票集団に依存するしかなく、しかもそうであれば、政治理念など抜きにしても、そうした政党維持のための特性から所定の政党性が生まれてしまうことだ。公明党が生き残るには、現存の公明党のようなありかた以外はないという存在機構的な理由となる前提が、公明党の政策や理念に勝っている。

現在でもなお公明党は、本書が指摘するように政教分離をかなり明確にしつつも、創価学会員の援助は強く、人的資源において分離されているとは言いがたい。しかも、これがボトムアップの権力プロセスを持って小選挙区に望むなら、なるほど私たちの身近の公明党候補の顔が浮かんでくる。そしてその代表者は、実際のところすでに創価学会の表向きの教条に馴致してるわけでもない。それが現実の、今の公明党の姿であり、市民社会はこの政党に、その前提を了解して接していくほうがよい。

露骨に言うのだが、Xデーを乗り越えたとき、公明党は本当に日本社会の第三極の政党たりえるか試されるだろうし、期待を持ってもよいと思う。

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2016.05.16

いくつかドラマなど 「エクスタント-インフィニティ」「ダ・ヴィンチと禁断の謎 シーズン2」「ザ・ブック CIA大統領特別情報官」

いくつかドラマを見終えた。概ね面白かった。いろいろ考えさせるものもあった。備忘もかねてメモ書きしておきたい。

「エクスタント-インフィニティ」
「エクスタント-インフィニティ」は、スピルバーグ製作総指揮の「エクスタント」のシーズン2で、1の世界を引き継いでいる。「インフィニティ」が付くのは日本でのご事情っぽい。ハリー・ベリーが主演という点もイーサンを演じる子役ピアース・ガニォンも変わらない。それをいうなら、義足のジュリー・ジェリノーやチャーリー・アーサーズも変わらないのだが、イーサンの産みの親・ジョン・ウッズお茶の水博士は、駄洒落を残して早々に退出。代わりにおっさんのなかのおっさん、ジェフリー・ディーン・モーガンがジェイムズ・ダニエル役でモリーと愛の物語を繰り広げる(もっとやれ)。話は他にも多面的にけっこう恋愛の物語という要素が強くなっているし、率直に言って、1とはかなり異なる作品に仕上がっている。

物語は、1でモリーが地球に持ち込んだ異星人が人類とのハイブリッド種となり、その生殖時に人類に害をもたらすことから、米政府が危機を抱く。が、次第にハイブリッド種も人類の危険性を減少させていくなか、モリーも妊娠の余波でハイブリッド化する。他方、人間思念を操れるハイブリッドに戦うために、人工知能ヒューマニック(アンドロイド)が兵士となり、ハイブリッド種と人工知能が集団的闘争を始める。

で、ネタバレを含む。

そうしたなか、人間種の指揮下にあったはずの人工知能の中央テイラーが人間の滅亡の予測から、人間に反旗を翻し、結果、人類、ハイブリッド、人工知能の三種が地球で生存を争う殲滅戦になるという展開になる。話のスキームは壮大だが、映像的には普通にチェイスものというか、けっこうちゃっちく、ああ予算ねえなあ感が漂う。

そして、視聴率が落ちてきたのを反映してなのか、中盤からは脚本が粗くなり、まったく伏線がないわけでもないが、粗野に新人物や新要素がごだごだ入って、最後はなんかよくわからず、人工知能のテイラーのシャットダウンにつれて、ヒューマニック軍団がシャットダウン。危機は去ったになる。ご都合主義でイーサンは生き延びて、しかも人類とハイブリッドは併存の道を選びました。めでたしめでたしという、結果は、駄作、になってしまった。

おそらく、本来の物語は、異星人は、人類に先行して知性があっても滅亡した生命体であり、その知と人類と人工知能の知のあり方が問われるという、宇宙の知的進化のテーマだったのだろうと思う。つまり、最後は、テーラーとイーサンが実は同質の人工知能であり、その戦いにおいて、ハイブリッドの娘テラの関与があるという話だったのではないか。ちなみに、イーサンは「地球」でありテラも「地球」である。

物語の背景というか無意識は、私見ではまたしても、ユダヤ教的な問題だった。とくに、マサダのイメージがずっと付きまとっていた。その枠組みでは、ヒューマニック軍はローマ兵のイメージは重ねられていた。

3についてはすでに制作されないことが決定している。2の終わりのボロボロ感を見るとそりゃそうだろう感はあるが、2の制作時にはまだ未定だったのだろう、テイラーの復活を予言して終わっていた。3があれば、やはりテイラーとイーサンの戦いにはなっただろう。

と、否定的な評価を書いたが、私のような人には麻薬的に面白い作品だった。

地球の時間スケールでいうなら人類は早晩滅亡する。人類知性の廃頽がなければ、人類は「インターステラー」ではないが、最高の知性をもって自らの種の滅亡を見つめる時を迎えるだろう。そのときには、人類知識はデジタル的にかつ人工知能的に関連付けられて、宇宙空間に保存されるだろうし、人類滅亡後のための擬似的な意識体も残すことになるだろう。

まあ、これはcakesのほうで評論を書いた手塚治虫『アポロの歌』(参照)と類似の問題もある。

さて、ドラマ自体は尻つぼみ感があったが、この手の、なんというか、日本の日常だと狂人だと思われかねない主題が普通のドラマとして見られるのは、私のような人間には開放感があって嬉しい。日本でも、先に挙げた手塚の例のように、アニメとして作成できないこともないだろうが、どうなんだろう。仮面ライダー555が若干そのテーマに似てはいたが、異質だ。


「ダ・ヴィンチと禁断の謎 シーズン2」
「ダ・ヴィンチと禁断の謎」のシーズン1がパッツィ家の陰謀の事件のさなかに、いかにもぶっち切れで終わったので、どうなるんだこれとシーズン2を見たら、いきなり、インカ帝国。いやあ、めちゃくちゃにもほどがあるなあと思ったら、アメリゴ・ヴェスプッチが出て来て、ほおそお来たかと苦笑。そして、ニコの正体はというと、あれま。いや、そうか、それで「ニコ」だったのかと納得の苦笑。

ダ・ヴィンチとリアリオ伯のインカ話が主軸に、他方、メディチ家のロレンツォの物語、メディチ家のクラリーチェの物語、ルクレツィアの物語と4つが並行して進むので、これまとまるのかと見ていると、それなりにまとまってきて面白かった。

率直に言って、インカ帝国が出てくる必然性はまったくないのがすがすがしい。また、やたら裸が出てくる基調は1と同じ。美女もいろいろエロいんだが、それより、リアリオ伯といいロレンツォといい、なんか微妙におっさんがエロい。いやあ、ルネサンスですなあという雰囲気は面白い。

テーマは何かと考えると、人類叡智を探し求めるみたいなまるでグルジェフ自伝のようなトンチンカンな物語だが、映像は、はちゃめちゃで、真実の愛は何?と裸でもりもり突き詰めてくるあたりが、たまりません。

もうすぐFOX系で日本で3が始まるらしい。そして、3で打ち切りらしい。まあ、こんなめちゃくちゃ話、長く続けるものでもないでしょう。


「ザ・ブック CIA大統領特別情報官」

話は、CIAの大統領特別情報官、つまり、大統領に毎日、「今日大統領が知っておくべき最高機密とくに国家保全上の問題はこれですよ」とブリーフィングする行政官の物語。

というわけで、CIAの日々の仕事に関わる事件を人間ドラマ風に展開していく。実際最初の数話に顕著だが、個別の問題に主眼を置いて、CIAと大統領が何をやっているのかということに焦点を当てている。まあ、荒唐無稽なドラマではあるんだろうけど、ある程度CIAの内実も反映しているだろうし、実際、このドラマは、オバマ大統領とヒラリー大統領と子ブッシュ大統領をまぜたような大統領が米国テロに立ち向かう物語という小説にも読める。

実際、オバマ大統領がビン・ラディン暗殺をやったときはこのドラマのような裏があったのだろうと想像されて面白い。と同時に、米国大統領をトランプさんみたいな人に任せたら、天の災いだなこりゃとしみじみ思った。

後半に入るにつれ、シリーズを貫くテーマが明確になり、愛と陰謀のミステリーが興味深く展開していく。これがいちいち荒唐無稽という印象ではあるのだが、CIA機能を民間が受託するという悪夢は、それはけっこうなホラーなんで、そのあたりの政治的な動きの脚本はぞくぞくする。っていうか、かなり面白い。

最終話に寄せていくほど、リアリティの反面、荒唐無稽にもなっていくし、シーズン1の終わりは、爽快なぶっちぎれ。シーズン2にどうなるのかというワクテカ感を残しつつ、いやあ、これもうシーズン1で打ち切りが決まっているらしい。こりゃいい。人生なんてそんなもの。そんなのありかよ。

放映当初は人気があったらしいが、徐々に下がったとのがまず打ち切りの原因だろうけど、荒唐無稽を連発して書いた割には脚本は緻密で、いろいろ複雑な背景もある。率直なところ、この物語はかなり難しいので受けない面があっただろう。また、1の最終話を見ると、このシリーズ続けるのは国際的にも物騒だなあ感もある。自粛もあっただろう。

メインストーリー部分は二時間半くらいの映画にまとめて編集できそうな気もするが、それはそれで、このドラマとしての厚みはないだろう。

というか、逆に話を少し薄めて、「マズケティアーズ」風の毎回読み切り的な、ドラマドラマしたドラマにも仕上げられたのだろう。

でもなあ、あえて壁に激突してぶっちぎれで果てた爽快感はたまりません。っていうか、名作でした。

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