« 2016年3月20日 - 2016年3月26日 | トップページ | 2016年4月3日 - 2016年4月9日 »

2016.04.02

「日本死ね」と言うべきだっただろうか?

すでに旧聞になると思う。というか、そうなるのを待っていた面もあるし、考えていたらそうなってしまったという面もある。話題は、れいの、と言ってもいいだろう、「保育園落ちた 日本死ね!」ということだが、私が気になっていたのは、「日本死ね」という表現だった。そう言うべきだったのだろうか?

言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日本死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。

おそらく日本人なら「日本死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日本人なら「日本死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日本人なら「日本死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう? おそらくなんらかのナショナリズムではあるだろう。

こうも思った。「日本人死ね」なら誰が言ってもヘイトスピーチになるかもしれないが、「日本死ね」であって「日本人死ね」ではないから、だから、よいのではないか?という理屈ならどうだろうか。

仮にそうだとすると、それは「日本」という国家の体制を転覆してよいのだ、ということになる。しかも、それが日本を構成する市民を通して日本を民主主義的に変革するというのではないのだから、結局のところ「日本死ね」は、「江戸幕府死ね」の気風や、国家を支える首相である犬養毅を暗殺する情念と繋がる。そんなものがいまだに日本にはあるのではないか。

私は、「日本死ね」という言葉が共有される社会に恐怖を覚えたのだが、ツイッターを見るとそうでもなかった。朝日新聞の冨永格記者は次のように「日本死ね」を肯定していたし、彼の考えからすれば、私は「本質が見えていなかった」ことになる。

冨永記者はこのことを「言葉の荒らさ」として見ていたということは、政治の本質が伝えられる有効な修辞であれば「日本死ね」という表現は有効であるという認識なのだろう。

私はまったくそう考えないのである。つまり、本質を隠した修辞よりも、市民が共有する言葉というもの自体にもっと価値を置くべきだと思う。そのためには「日本死ね」という比喩的修辞はふさわしくないと思う。

冨永記者は朝日新聞の記者ではあるが、朝日新聞全体の論を代表としているわけではない。では、朝日新聞としてはそこはどうなのだろうか。特にそういう問題意識はないのだろうか。そうした疑問を持っているとき、高橋純子政治部次長のコラムを見かけた(参照)。なお、未登録ではネットではこの先は読めないが、私はこの記事は紙面で読んだのだった。

全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか。こんにちは。「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなし、週刊新潮にそう太鼓判を押してもらった気がして、うれしはずかし島田も揺れる政治部次長です。

そう始まる。気になった部分を紙面から引用する。

    ◇

 前回書いた「だまってトイレをつまらせろ」に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」だ。
 どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行というかたちで国家を頼むのは安易に過ぎる。お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか。昨今、わら人形はインターネットで即買いできる。しかしそんなにお手軽に済ませては効力も低かろう。良質なわらを求めて地方に足を運ぶくらいのことは、ぜひやってほしいと思う。
 訪ねた農家の縁側で、お茶を一杯よばれるかもしれない。頬をなでる風にいい心持ちになるかもしれない。飛んできたアブをわらしべで結んだら、ミカンと交換することになり……「わらしべ長者」への道がひらける可能性もゼロとは言いきれない。
 ひとは変わる。世界は変わる。その可能性は無限だ。
 だけど、「死刑にしろ」と何百回電話をかけたところで、あなたも、わたしも、変われやしないじゃないか。
    ◇
 反日。国賊。売国奴。
 いつからか、国によりかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉。国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう。一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう。
 なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている。
 スプリング・ハズ・カム。
 窓を開けろ。歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生きている。

一読して私はよくわからなかった。

が、まったくわからないわけではない。まず、「日本死ね」という言葉に「おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている」と肯定的に評価しているという点である。つまり、「うれしはずかし島田も揺れる政治部次長」も冨永記者と同じ考えで調和しているという点である。そこは理解できた。朝日新聞は政治部としても、「日本死ね」という表現を肯定的に受け止めているようだ。

わからなかったのは、「日本死ね」も「反日。国賊。売国奴」と同じく、「「異質」な他者を排撃する言葉」ではないかと思えたので、そうしてみると、このコラムは主張が矛盾している。そう私には思えたのである。

別の切り口でいうなら、「言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう」というのを肯定するなら、「反日。国賊。売国奴」という言葉も「言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げ」ているのである。

このコラムに論理的な整合性があるなら、いや、たぶん書き手はそう思って書いているはずだ、となんどか読み返して思ったのは、「日本死ね」が「反日。国賊。売国奴」と違うのは「国によりかかって」ということなのだろういうことである。つまり、「反日。国賊。売国奴」という言葉は「国によりかかって」いると書き手は想定しているのだろう。

しかし、それもおかしな話である。「日本死ね」が先にも触れたように、実際のところに日本人の特権のようなものであれば、結局は、それもまた「国によりかかって」いると言っていいだろう。

この件では、朝日新聞は奇妙な論調の新聞だなとは思ったが、そうした奇妙な論調の新聞ということであれば読売新聞や毎日新聞、産経新聞も変わらない。新聞とはそういうものだ。

という順で書いてきたが、実は私は、朝日新聞のなかではそうした論調に疑念もあったのではないかと感じていた。この間の3月20日の読者欄に「「死ね」という言葉に危惧を抱く」と題する67歳の主婦の声が取られていたからである。

 「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名のブログが話題となり、賛同する声が広がっています。でも、私は共感する気持ちになれません。
 待機児童の多さと事柄の重要さは理解しているつもりです。しかし、政治への不満や怒りを表すために「死ね」という言葉を使うのはどうでしょうか。
 「死ね」という配慮のない言葉が公に放たれ、それが肯定されているかのような現状を、私は大いに残念に思いますし、胸が痛んでいます。
 例えば、子どもたちのいじめやケンカでこの言葉が使われれば、どんな悪影響を及ぼすか考えて下さい。生きていく希望を奪ってしまうかもしれない言葉なのです。大きな危惧を抱かざるを得ません。
 そこまで言わせる政府にふがいなさも感じます。しかし、大人が「死ね」という言葉を発信し、社会に蔓延するとしたら、警告が必要ではないでしょうか。

私はこの方の「声」に共感した。「大人が「死ね」という言葉を発信し、社会に蔓延するとしたら、警告が必要ではないでしょうか」と私も思うのである。

おそらく朝日新聞の主要な声は、「大人」ではなくなっているのだろう。その中で残された「大人」はこの声を朝日新聞の紙面に静かに拾い上げたのではないか。

しかし、私はこの方が言われる、「そこまで言わせる政府にふがいなさも感じます」とは思わない。私たち市民は、そして大人は、政府によって言葉を言わされているわけではない。私たち市民は、市民の言葉を大切にするがゆえに、私たちの市民が政府を作り上げる。つまり、作為の契機をもっている。だから、変革が可能な日本という政体に向けて「死ね」と言うのではなく、変革への責務を持たなければならないはずである。私がブログを書いているのも、けして政府によって言わされているわけではない。市民はブログを通して、直接自由に声を挙げられることができる。それを実証するために、ブログを10年以上も続けてきた。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.04.01

O沢一郎共同代表主催「日本経済を考える会」議事録


「S活の党とY本太郎となかまたち」は日本経済をどのように考えているのか。その参考資料になる、O沢一郎共同代表主催の勉強会「日本経済を考える会」の書き起こし文書を某所から入手した。会合の日時は2016年4月1日である。

       ☆  ☆  ☆  ☆

Y本「O沢代表と一緒に学ぶ今回の経済政策学習会開催にあたり、私たちの経済政策をまとめます。

私たちの党には経済政策がないとよく批判されます。そんなことはありません。まず、深刻なデフレが依然継続している現状では、もはや消費税の増税をしないということが基本にあります。

また、内需拡大と完全雇用を目標とした金融緩和政策を推進することに加え、これに呼応した適切な財政出動を持続的に行う必要性を掲げています。そしてその相当部分を地方分権として地方の裁量に任せるよう求めています。

その上で、小泉政権以降の行きすぎた規制緩和の見直しを行うとともに、日本の活力の原点である中小企業支援の融資支援制度や各種税制の改革を行う必要性も認識しています。

基本は以上です。が、こうして私たちの党の経済政策を再考すると、実は現状の安倍政権の経済政策とそれほど違いはないのではないか、そういう疑問も湧き上がってくるでしょう。そのため、私たちの党の経済政策を強く前面に出すことがためらわれることがあります。

あまり大きな声ではいえませんが、私たちの党の経済政策が現状の安倍政権の経済政策に似ているということが、私たちの党の信頼やイメージに関わる大きな問題ともなっています。

そこで、この件で党内が民進党のように紛糾しないように、またせっかくメディアが盛り上げてくれた若者の政治意識を配慮して、私たちの党は、戦略的に安全保障の問題や憲法問題に焦点を当ててきました。しかし、それだけではもはや政策集団としての私たちの党の意義はありません。

現在の安倍政権、さらには看板を書き換えたばかりの民進党との経済政策の違いをより鮮明に党員は意識する必要があります。

では、O沢代表、私たちの視点から、どのように現状の日本経済を俯瞰するのか、また今後の日本経済政策の指針はどうあるべきか、提示していただきたいと思います。」

O沢「今、Y本君から、わが党の経済政策の要点をまとめていただいたが、論点は、私たちの党と安倍政権とで経済政策にどこに違いがあるのか、ということだ。そこを鮮明にする必要からもう逃げるわけにはいない。少なくともこの党を維持している中心メンバーにはこの点をはっきりと理解していただきたい。

前提となるのは、黒田日銀が実施している非伝統的金融政策の有効性には限界があり、現在まさに、強力な財政政策推進の必要があるということだ。

これが可能なのは、財務省が財政破綻の物語をどれほどぶち上げても、現在の日本の金利が驚くほど低い状態で維持されている現実による。現状、長期債券にいたるまでマイナスである。ということは、当然のことだが政府による投資がまだまだ可能だ。政策はまさにその選択をすべきことを意味している。

否。重要なのは、政策の形を取らずとも、それがいずれ何らの形で実現されてしまう可能性があることだ。危険性があるのだと言いたい。

その投資先はどこか? 私たち「S活の党とY本太郎となかまたち」が本当に考えなくてはならないのはここだ。

第二次世界大戦に至る歴史を顧みればわかる。それは戦争だった。泥沼のような需要不足を埋め合わせたのは戦争という投資だった。

安倍内閣は意図的であれ、あるいは意図的でないにせよ、このままの日本の状況を見過ごしていけば、いずれ戦争という支出を選択しなければならないように追い込まれてしまう。日本がどれほど戦争を避けようとしても、外圧的に追い込まれてしまうかもしれない。これをどう阻止したらよいのか。平和という課題は経済の深刻な課題につながる。そうだね、Y本君」

Y本「ええ。私たちは、日本が、経済停滞な理由から戦争を選択する道を断固阻止しなければならないわけです。そしてその最終的な課題は私たちとって明白です。ですから……」

O沢「私の言葉を待たなくていい。先日述べたY本君の持論がそこでつながる。」

Y本「では、私が続けます。つまり、明白な形で、いっそう反原発運動を推進することです。

ただし、ここで私たちの党の新しい課題になるのは、従来のように、核開発そのものが悪だから核を廃絶するのだという一面に加え、もう一面として、国家の投資を吸収するような形で自然エネルギー開発を進めることが可能だからこそ、核は不要なのだと主張することです。

さらに言えば、その全貌を投資のビジョンとして国内外に提示することで、財政政策を誘導することです。」

O沢「そしてその自然エネルギー開発を新たな国土再利用という形で補助し、さらに地方と都市圏をつなぐインフラを整備する。ここで地方分権が大きな意義を持つ。地方の中核都市の形成は、都市圏とのシステマチックな連携なくしては実現できない。

とはいえ現状、この議論をこの夏の参院選にすぐに結びつけることは難しい。選挙という戦場では戦略論にならざるを得ない。」

Y本「そこはしかたがありません。しかし私たちは、反原発・平和主義・護憲といったこれまでの政治運動をより未来的なビジョンに置き換えていく不断の努力も、必要になってきています。

というところで、これから出席者を交えた討論に移ります。」

       ☆  ☆  ☆  ☆

残念ながら討論会の議事録までは入手できなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年3月20日 - 2016年3月26日 | トップページ | 2016年4月3日 - 2016年4月9日 »